三角方程式

文 West

第6章 揃わなくなったジグソーパズル

 5月も半ばを過ぎると次第に空気に夏の気配が混じる。毎日テレビの天気予報で告げられる気温予想からしても、郷里よりこの街の方が全体に暖かいようだ。
 多くの同学年の子達はいよいよ最高学年となった部活動と、GW前に控えた修学旅行の準備で忙しそうにしていた。
 今日は旅行前の最後の土曜という事でクラスの女の子達の大半が買い物の計画を立てていた。
 授業の間中、盛んに手紙が飛び交った。
 彼女達がこれだけ気合を入れるのには訳がある。
 この市の中学校の修学旅行にはまるまる一日分の自由行動の時間が設けられている。
 この時の行動グループは人数さえ3、4人揃えば何なら男女でも良い。つまりダブルデートには持って来いになっていた。
 カップルの親友同士がくっつく例もあって、そのせいか修学旅行で出来る新たな恋人達は思った以上に多いと聞く。そのせいで、特に彼氏のいない女の子達にとって旅行は恋人を得る大きなチャンスなのだ。
 私達のグループでは彼氏有りとされるのは8人中たったの2人だ。その内の一人は言わずと知れたカナで、もう一人が私だった。
 全授業終了後、仲良しグループの子達の間を回った紙に記された名前を眺め、早弓が不思議そうに私を見た。
 紙の上の方には“旅行前ショッピングの参加希望者”とあった。
「あれ? 和衣、今日もパスなの?」
「うん。ごめんね、ちょっと用があって」
 4月のあの日以来、私は時々金城先生の元に手作りのお菓子の差し入れをしている。
 色付きリップ問題無しと聞いた時にある程度の推測は出来たが、ここらの学校は公立にしては全体に校則が緩い。普通の学校ならご法度の男女交際も、節度さえ超えなければ多少は黙認された。
 先生と姉さんが付き合っていた事は教師間では周知の事実だったようだ。なのに別れざるを得ず、そこから実らなかった悲恋を私が代わりに成就させに訪れたという美談が先生達を中心に流れ始めた。
 今では私達2人は恋人同士という事になっていた。そしてその事を私も金城先生も否定はしていない。
「そう言って先週も遊ぶのに付き合わなかったじゃん。今日の買い物にはもう一人の彼氏持ちも来るんだし、たまには女同士で遊ばなくちゃ」
 紙の回ってくる順番の都合上知る事は出来なかったが、メモにカナの名前はあるらしい。
 どう答えて言いか迷っていると、落ち着いた声の存在が割って入る。
「ワガママ言わないの。和衣ちゃんはその為にこの街にやって来たんだから」
 その言葉に刹那心臓が大きく鳴り響く。
 美談そのものは今や公然の秘密だった。私の本当の目的を勘付いているのはカナと奈美だけだ。単に今日が差し入れの日だという事に気付いた七瀬は私が捉まっているのを見て助け舟を出したに過ぎない。
 あんな出来事のあった後なのに、2人とも少なくとも表面上は今まで通りでいる。七瀬に対し相槌を打ったりする様子も無い。
 もっとも、彼女の言葉で一瞬にして私の今日の目的の方は知れてしまった。
「和衣ちゃん、今日も金城先生の所に行くんだ。ラブラブでいいなぁ」
「・・・」
 七瀬同様夢見の台詞にも他意は無い。彼女は恋人という存在に憧れているだけだ。
 だが聞いている鼓動の方は一層大きくなった。
 そうとは知らず夢見が続けた。
「あたしも頑張って可愛い服ゲットしなくちゃ」
 彼女のお陰で少しずつ話題がずれていきそうだ。ホッと胸を撫で下ろした。
「その前に目当ての男の子を見付ける方が夢見は先じゃないの」
「だって、私服姿だと別人に見えるっていうし、旅行先でクラスの男の子の思わぬ一面を発見するかもしれないんだもん」
「電灯の下だろうが太陽の光を浴びていようがイモはイモ。あんたの好きな王子様にはなりません」
 早弓は眉の吊り上った夢見がまだ言葉を捜している間に付け加えた。
「そんなマンガに出てくるような恋ばかり憧れてるからコドモ扱いされんの。嫌ならさっさと卒業しなね」
 本人はとどめのつもりだったろうが、夢見の円らな瞳に炎が燃え始める。
「マンガの中の恋っていうけど、和衣ちゃんはどうなるの? お姉さんの恋人を愛するのって早弓ちゃんの言う現実的なの?」
「う」
 見事な反撃に今度は早弓の側が二の句が告げなくなってしまった。
「ほらっ、和衣ちゃんも何か言ってよ」
「私・・・」
 また心臓が大きく鳴り響いた。
 心の中に渦巻く暗い思いを知ったら彼女達は一体どういった反応を見せるだろう。
 化物でも見るような目で私を見つめるだろうか。2度と口も利いてくれなくなるかもしれない。
 率直に言って今の状態は居心地が良過ぎた。
 距離を置こうとするのに何故か向こうの方から近付こうとする友達という存在。私の正体を知っても全くと言っていい程態度を変えないおばさま、そして雪見荘の住人達。
『たとえ相手が離れて行ったとしても悲しみだって少なくて済む、あたしのような臆病な子にはそれが大事なの』
 あの時、階段で洩れ聞いた奈美の言葉。彼女自身の事を述べたとはいえ、私の心にも深く突き刺さっていた。
「私は・・・」
 差し伸べられた手を全部跳ね付けながら、どこかに関係の壊れない事を望む自分がいる。
 表現に出来ない嫌悪感が身体中を襲った。呼吸が苦しい。
「あんた達、そのぐらいにしといてよ。和衣、すっかり困ってるじゃない」
「桐子」
 当事者である早弓と夢見の視線が同時に桐子の顔にと集まった。
 桐子の方はそんな2人を無視し
「和衣だって先生の所にずっといるわけじゃないんでしょ。じゃあ、その後は?」
「そうだけど・・・今のアパートは好意で置いてもらってるようなものだし、これ以上おばさまに迷惑を掛けたくないから」
 口実の半分を述べ立てる。
 大家の澪おばさまは私を娘のように扱ってくれていて、頼めば服ぐらい買って貰える。だけど、それに甘えるつもりはなかった。
 ふーっと大きなため息を吐く桐子。
「相変わらずの遠慮深さね。ま、いいや。あたし達向こうで待ってるから、気が向いたらおいでよ。多少遅くなってもいいから」
「・・・」  どうしても付いて行く気になれなかったのは、3日ばかりの旅行にわざわざ衣類を新調しようというみんなの気持ちが判らなかったせいもあった。
 ただ、私が女として暮らし始めてまだ1ヶ月と半分が過ぎた所だ。ずっと女の子をやって来た皆の感情が苦も無く理解できるとすれば間違い無しに自惚れと言っていい。
 桐子は紙に何かを書いて寄越した。
「あたしの携帯の番号。気が変わったらいつでも電話して」
「でも」
 最初から使う予定が無いものを受け取れない。
 慌てて彼女に返そうとするが、差し出した腕は空振りを切った。
 微笑を浮かべた桐子が付け加える。
「気が変わったらでいいから。持っててよ」
「・・・」
 さすがに絶対に気が変わらないとは彼女達の前では口にし辛かった。
 結局その場は大人しくメモをスカートのポケットにしまい込んだ。

 受け取るときには字が書いてある事だけ確認して、すぐに畳んでスカートのポケットに入れてしまった電話番号のメモ。
 皆の姿が消えてから再度何気なしに広げた。
 いわゆる少女文字とは対照的な筆跡のしっかりした文字と数字が視界を刺激する。
 同じ字体を何度か彼女のノートで見かけた覚えがあった。
 法則や式などを3色ぐらいに色分けし、要点だけがきちっと書き並べられていた。婉曲的表現を嫌って単刀直入に斬り込んでくる彼女の性格にそっくりだ。
 そういう気質の彼女だから嘘や駆け引きでなく、本当に私の気が変わるのを期待しているのだと思う。
 私はゆっくり紙切れを折り畳んだ。
 このメモだって本当は読めなくなってしまうくらい細かく破り捨てるべきなのだろう。けれども、そういうようにはどうしても手が動かなかった。
。何気なしにポケットにメモを大事にしまおうとした瞬間、また嫌悪感が走り抜ける。
 それはまた、これからどこに向かうのか忘れ掛けていた私に嫌でも思い出させた。
 メモをしまった私は皆の前では見せることの無かった包みをバッグから取り出し、眺める。
 中には本来なら綺麗な正方形をしていた物体が入っていた。塩であっさりとした味を付けたクラッカーで全体に形がまだ崩れ気味である。
 それでも味の方は当初に比べれば各段の進歩を遂げていた。こういうものは相手に美味しいものを食べてもらいたい気持ちが上達の一番の秘訣だからと先生兼味見係のおばさんはにこにこと笑った。
 それが本当なら根が邪な想いでも良い事になる。
 気付けば肺ごと締め付けて来る罪悪感から、少しでも解放されたいだけの私。
 しかし、赦されたり甘やかされたりすればする程、逆に圧迫感と苦痛は大きくなって行った。逆に自身を傷付ける事でのみ平安が得られた。
 常に存在する不安と緊張の絶え間無いうねり。そこから一瞬でも逃れ、安堵が得られるなら、とっくに壊れた自尊心など惜しくはなかった。
 手指には今もバンドエイドが貼られている。何せこの街に来るまで授業以外包丁など触った事も無かったのだ。
 切った当の私よりも隣でジャガイモをゆでていたおばさまの方がひどく慌てていたのを思い出す。傷口から玉となって膨れる血流を見ながら、どうせならもっと大きな傷口でこのまま罪悪感ごと全部流れ出てしまえばいいのにと考えていた。
 貼られたバンドエイドをぼんやり眺めるうちに、周囲の時間がスイッチの押されたビデオテープのように逆戻りしていった。

 今でこそ多少の料理も覚えたが、郷里にいる頃は家事は全てヘルパーさんがやってくれていた。初めてこの街にやって来た日も、大勢の御飯をよそった経験が無く単純な事に四苦八苦した。
 早くにこの世を去った母親がもう少し生き永らえていれば例え男の子でもそういうものに触れる機会があったのかもしれない。
 けれども、私が彼女と別れた頃はまだ3歳だった。満足にコミュニケーションも取れない幼児に刃物を持たせたり火を使わせたりするのだけはさすがに彼女も考えたのと思う。
 3歳と言えば記憶もあやふやな頃だ。深夜の星空の中、車で急に出掛けた覚えだけがうっすらと残っている。きっとあれが危篤の日なんだろう。
 2度と開かない瞼を下ろし、物言わぬ骸となって帰って来た母親に私はいつもの通り走り寄ってじゃれついたらしい。体温が落ち、幾ら読んでも口から返事が飛び出す事も無かったが、表情はまるでちょっと昼寝をするかのようだったと和美姉さんは言う。
 パートナーを失ったのはまるで仕事一辺倒だった父親にもそれなりにショックだったようで、ヘルパーさんがやって来たのもそれから2年くらい後の事だった。その間は全面的に姉さんが私の面倒を見た。
 家が裕福だった事はある意味幸せだった。部屋は幾ら散らかしておいても幼稚園や学校から帰る頃にはいつも綺麗に片付いていたし、こまめに洗濯をやっておいてくれるから汚れた服だって一度も着ずに済んだ。
 けれど、どれだけヘルパーの女性が母親代わりでいてくれても一番いて欲しい時間になると彼女は帰ってしまう。だから私も必要以上の会話を交わさないようになった。
 少しでも手に入れれば、全部が欲しくなる。人一倍独占欲が強く、特に母親という存在に飢えていた私は、きっと相手の家庭に波風を立てずにはいられなかったと思う。
 距離を置こうとしたせいで、逆に私は内気な、あまり心を開かない子供として彼女の目に映った。
 考えて見れば向こうは家事をやりに来ているだけで、その家庭の子供の心まで踏み込む義務も権利も持っていない。休みですら互いに通り一辺倒の言葉を交わすだけで一日が過ぎて行った。
 夜、広い家に独りになると作ってもらったばかりの料理が急に冷たく感じられた。湯気が立っていても、熱いのは舌だけで全身に熱が伝わって来ない。
 何度も電子レンジで温め直してみたものの無駄だった。そんな事を繰り返す内に子供心にも何かが足りない事に気付いた。
 今なら理解する事が出来る、心を暖かくしてくれる調味料のような存在がそれらの料理には含まれていなかったのだと。

 セピア色にぼやけていた景色がはっきりした色付きに切り替わる。
 手の中の包みをバッグに戻して、廊下を職員室に向けて歩く。
 教室を出てじきに、やはり仲の良い子同士なのだろう、高くも低くもない背の男の子が2人、ゲームの話らしきものに興じながら側を通って行った。
 片方が話の腰を折ってこちらを振り返った気がした。が、一瞬それとなく振り向いて確かめようかと考えが浮かんだが、結局は何も無くすれ違う。
 しばらくして見えて来た掲示板の前で足を止める。教室で配られた旅行のお知らせがここにも丁寧に貼られている。
 紙の上ではびしっと制服を着た男の子と女の子が意味も無いのにいわゆる学生らしい笑みを特徴の無い顔に貼りつかせていた。背後には東京タワーと浅草の浅草寺、それに東京ディズニーランドが並んで描き込まれている。絵でなくイラストだからといえばそれまでだが、まるっきり遠近法を無視した構図だ。
 それが原因だろうか、楽しい旅行作りという表題が妙に空々しく思えた。
 視線を掲示から入口に移した私は、なるべく音を立てないように扉をスライドさせた。「先生」
 4月に転入して来て以来、差し入れを手にこうして私は金城先生の元へとやって来る。 今日も入ってすぐの廊下よりの机の一つに私は近寄った。そこで画面と睨めっこしている先生に私は包みを手渡した。
 恋する男性教師の姿と声を求めてまめに通う少女に傍目には映った。
 先生は今日も表情を変えないまま、「すまないな」とだけ言った。彼の態度に私は持って来た半分をいつものように他の先生達に配って歩く必要があるかもしれないと考えた。
 幾ら決まりの無い学校と言っても、さすがに教師間と生徒の恋愛には本当なら渋い顔の人が多かったと思う。けれども例の美談のお陰で陰口のようなものは少なくとも先生達からは聞かれず、同情心から協力さえ得られた。
 近頃では来てものの数分も経たない間に私達の周囲からは誰の姿も掻き消える。入って来た時に金城先生の机の横で真剣な顔で小テストの採点をしていた先生でさえ、何時の間にか給湯室近くのソファーの方でわざとらしくお茶を啜っている有様だ。
 包みを横に置いたままパソコンを触り続ける先生。相変わらず白い煙が周囲を漂っていた。
 一日ごとに綺麗に掃除される筈の灰皿には、既に10本以上の吸殻が溜まっていた。今日は土曜日だというのにどういうハイペースだろう。
 突然離れた所でジージーという音が鳴り出した。見ているうちに真っ白だった用紙がやや黒ずんで押し出される。出来あがったばかりのデータに印刷を掛けているのだ。
 それが5枚程度続いた時、吸っていたまだ半分以上長さの残った煙草を先生は灰皿の中で底に押し付けるようにもみ消した。
 珍しいなと思っていると、表情の引き締まった精悍な顔立ちが予告も無しにこちらを向いた。
「関谷、ちょっと用があるんだが付いてくれるか」
「急にどうしたんですか」
 胸騒ぎを感じた。
 普段は凪いだ瞳が別人のような鋭さを帯びていた。
「大事な用なんだ。頼む」
 先生は目線で入って来たとは反対の扉の方を指し示す。
 いつ終了の操作を行ったのか、今まで幾つものウィンドウで賑わった画面が黒一色に塗り潰される。
 暗くなったディスプレイの前で、決してひょろ長くは見えない肉付きの良い長身がじっと立ち上がるチャンスを待っていた。
「わかりました」
 ややあってコクッと首を縦に振る。
 やって来たのはあの日も訪れた進路指導室だった。一階ではあるけれど、ここからは外を行き交う生徒達の姿がよく見える。
 ふとその視界がシャーッというカーテンの音と共に遮られる。
 外の世界と急に切り離され、狭い指導室に2人だけになる。
 私は呼吸を落ち付けてから先生の方へと向き直った。
「あの、用って何でしょうか」
「あ、ああ。まずはそこに掛けてくれ」
 何故だかどもり口調で言って、私の側に置かれている回転椅子を指し示す。
 やがて自分も席に付いた先生はゴソゴソとポケットを弄り始めた。そして職員室に煙草を忘れて来た事に気付いて、バツの悪そうな顔になる。
「私、取ってきましょうか」
 見掛ける都度に身体の周りに煙を漂わせているようなヘビースモーカーだから、ポケットに煙草の一本も入れて無いような状態は確かに不安だろう。
 代わりに立ち上がって職員室に駆け戻ろうとする。
 そこに先生の腕が伸びた。
「いや、構わないんだ。今日はわざと置いて来たんだから」
「え」
 彼の忘れ物を取りに戻る筈だったのに、当の先生に強くその場に引き止められた。断られるとは考えもしなかった私は反射的に首を回す。
 殆ど起こし終わっていた上体を緩慢な動作で椅子の上に下ろした。再度体重を預け、今一歩意図の汲み取りきれない先生の目を調べるように見据える。
「静かな場所で煙抜きで少しばかり話をしようと思ったんだ。他の先生達に聞かれてもまずい事だしな」
 胸騒ぎが大きくなった。
「・・・先生は私の何を聞きたいんですか」
 応えは無かった。
 職員室を出る際、まだ随分と残っていた煙草を金城先生はもみ消していた。灰皿に限界まで吸いつくされた殻ばかり残っている普段の先生には考えられない行動だと思ったら、やはりその手の思惑があったのだ。
 身体は向かい合っているが逡巡を続ける先生の視線は他所を向いていた。その状態で、時だけが過ぎて行った。
 このまま互いの緊張の糸が切れてしまうのじゃないかと思うくらい長い無言の後で、突如重い口を開いた先生。
「関谷、本当にお前、彼女の妹なのか」
「!」
 胸にナイフが突き立てられた時のような、激痛に似た衝撃が走る。
 こうやって向かいあっているお陰で椅子が揺れるほど脚が震え出した事にだけは気付かれずに済んだ。手の方は何とか意思の力で止めて、黙って次の言葉を待つ。
「最初はあまりに似ていたから深く考えずに妹というのを素直に信じ込んだ。公立中学じゃ戸籍をごまかすのは難しいしな。でも、それなりのコネがあれば不可能じゃないし、それに最近になって思い出したんだ」
「・・・」
「以前雛まつりの話になった時、手作りのいい人形なんだけど今じゃ誰も飾る人間がいないからって、彼女、寂しそうに笑ってた。普通お前ぐらいの年なら、毎年飾ったって不思議はないのにな」
「私は・・・」
 急に押し黙る。
 つっかえたその後は何と口にしようとしたのだろう。自分でもはっきり掴めなかった。
「お前が誰だか言いたくないならそれでいい。俺もこれ以上の詮索はしない」
 先生はそれきり黙りこくってしまった私の態度を静かな拒否と取ったらしい。
 一つだけ理解出来ていた。次に来る台詞が予想通りなら、大人しく郷里に戻るしかないかもしれない。止めてしまった時間に生気を吹き込む事も不可能なままで。
 ここまで来ていてもしかしたら償いの一つも果たせないのだと思うと、矢継ぎ早に湧き上がる惨めさからギュッと拳を握り締めた。
 先生は尚も続けた。
「関谷は4月のあの日を覚えているか」
 俯き加減のまま小さく頷いた。
 あの日、やはり中の様子が見えないようカーテンで薄暗くした部屋の中で私は先生の唇を奪った。
 先生の事が好きでたまらなかったからというんじゃない。彼の恋人はあくまでも姉さんだった。私はただの代理、姉さんがどれほど先生の事を愛していたかを告げる役なのだ。
「一瞬本当に彼女が戻って来たようだった。ただ、好きでも無い男にキスなんてしたんだ。同時に辛い想いを関谷にさせてしまったんだろうなと思う」
「そんな事・・・ありません」
 今度は横に首を振った。
 本当は姉さんと一緒に輝いていたはずの先生の時間。幸せを刻んでいた2人の時計を壊し、2度と動かないよう止めてしまったのは私なのだから。
 元の通り動かそうにも修復など出来そうになかった。だから代わりを用意する事に決めたのだ。
 一方的なキスはどれほど姉さんが彼の事を思っていたか如実に伝えるとともに、自分自身への訣別の儀式でもあった。
 先生はあの後、思いも寄らない展開に一瞬正気を失って、“和美”と名前を呼び間違えた。
 姉さんと同じ容貌が狙い通りの効果を発揮したと思ったのも束の間、それだけで先生の傷は癒えなかった。先生は姉さんと私を区別する為にキスの後も“関谷”と呼び続け、今日までこうやって何度か差し入れをしたが、一向に精神の距離は変化しなかった。
 幸い金城先生はそういうタイプではなかったから仮定の話でしかあり得ないが、例えあの時そのまま服を脱がされる事になっていたとしても、きっと私は抵抗一つしなかっただろうと思う。
 心の傷に触れられたと思った期間が思った以上に短かったこと、それが表面からの深さ、程度のひどさを私に再認識させた。
 さんざん自分が傷付けておいて勝手な言い分だが、今先生の側を離れる訳に行かなかった。
「彼女と血が繋がっているというのは本当なんだと思う。これだけ似てて全くの赤の他人という方が無理があるものな」
 不意に先生が破顔した。けれどもそれはにこやかというよりは自嘲を含んだ寂しげな微笑だ。
「とっくに心の底に埋めるべき出来事なのに、関谷を見ているとそれが出来ない。違うと判っていてももしかしてと思ってしまうんだ。自分がこれほど弱い存在だったかと、呆れさせられる」
「・・・」
「このまま行けばそのうちお前が離せなくなる。勝手な言い草だが、そうなってからでは俺はきっと自分を許せない。今のうちに別れた方がいいんだ」
 おもむろに先生は立ち上がって体格のいい上半身ごと頭を下げ
「もう独りで歩いて行ける。いや、そうしなければならないんだ。だから俺の前から姿を消して欲しい。関谷にだってその方が絶対にいい筈だから」
 相手は生徒だというのに、目の前の机に髪が付きかねない程深く頭を垂れた金城先生。
 YesとNoの両方を失って、私はその場に存在し続けた。

 また時が過去に戻る。
 姉さんが留学するまでは良かった。例え学校がある日でも遅くまで待っていればきちんと二人で向かい合って食事する事が出来た。
 御飯の盛り付けから再び温めなおすまで全て姉さんにやってもらえた。姉さんが電子レンジでなく鍋を用いて火を入れてくれると、とっくに冷めたはずの料理でさえ美味しく食べられた。
 和美姉さんは私にとってもう一人の母親だ。ママが亡くなった時、姉さんだって充分大きいとはいえない年齢である。友達とだって遊びたい盛りだったはずなのに、それを断ってまで幼かった私の世話を進んでしてくれた。
 結果、私の大き過ぎる独占欲の対象は当然姉さんにも向けられた。ただ、一度得てしまうとやはり失うのが怖くて、逆にわがままが言えなくなった。
 一見全く手のかからない子供になった私を姉さんは愛してくれた。
 けれども、私の中から欲望が消えたわけじゃない。それどころか行き場の無い分、友達と姉さんの他愛ないお喋りにすら、それに加われない自分にもやもやとした念を掻きたてられた。表面上は無理に笑い、心を昏い感情に染める日々が続いた。
 言葉にする事を許されない私の思慕はいつしか盗癖となって現れた。
 多くは消しゴムや下敷きなど他愛ないもので、価値としては数百円に満たない。しかしお気に入りが時々消える現象については姉さんも時々は首を捻っていた。
 暫くは探すが、そのうち諦める。その様子を見届けた私は、部屋に入るとすぐに机の引き出しを開けた。暫く眺めたり触ったりし、それからおもむろに閉じた。
 一時の興奮が冷めてしまうと急に怖くなった。だから、持って来たものを使ったりはしなかった。一旦念入りに調べた後は意識の中からさえその存在を追い出した。
 姉さんもヘルパーの女性も無闇に人の持ち物を調べる真似をせず、その甲斐あって私の秘密は長い間保たれた。
 自分で言うのも何だが、知能の方は昔から高い。小学校生活の後半を迎える頃には大人の心の動きでもある程度読めた。
 彼らとの色々なやりとりから、人間関係は概して望んだ通りにいかないものだと知る。同時に親や姉弟が友達より良くも悪くも深い所で結び付きが出来ている関係だという事も理解できていた。
 それに気付いてからは自分でも制御のしようの無かった盗癖が不思議と収まっていった。姉さんと友達の女性がじゃれ合う姿を見ても、前ほどのもやっとした感情は生じなかった。
 だから私も徐々に自分の独占欲の存在を時の流れと共に忘れて行った。
 面白い会話が出来るタイプではないし同年代も含めて友達はないに等しかったが、学校生活は私にとって単なる新たな知識を教えてくれる場に過ぎなかった。そのうちに自分で数年先の学年まで学習を進めてしまうと、その後はただの共同生活の場と化した。
 朝起きて、夕方の暮れかけた陽光の元、家路に就く。他人から見れば空疎な時間と勘違いするかもしれないが、本当に和美姉さんだけ側にいてくれれば私は良かったのだ。
 それ程の姉さんっ子だったから、当の和美姉さんが外国に行くと決まった時はそれは肩を落とした。
 いなくなる前から独りの日々を思い、布団の中でむせび泣いた事もあった。
 だが、姉さんが自分で決めた事だ。これが一生のお別れでは無い、いつかまた姉さんと暮らせるのだからと自分に呪文のように言い聞かせつつ、手を振ってその場は笑顔で見送った。
 その甲斐あって、留学後も何とか姉さんの不在には耐えられた。しかし、ぽっかり空いた心の隙間だけはどうしても埋められずに、私は代わりにそれを紛らわす事の出来る行為を探すようになった。
 患者やその子供の面倒を見る為、放課後や休日、手伝いと称して病院に出入りし始めたのもその頃からだ。以前姉さんから死んだ母親が看護婦であると聞いた事があり、それが頭のどこかに選択肢として残っていたのだと思う。手伝いは当初考えた以上に面白く、いつしか私は真剣に看護士の道を目指し始めた。
 最初は大目に見ていた父親も、私が本気だという事を知って、態度を180°裏返した。あんなものはいっぱしの男が就くべき職業じゃない、お前の進むべき道は他にある。彼は睨み合って一歩も退こうとしない息子に対し、やはり同じ頑とした態度でそう主張した。
 ここでいう他の道というのは当の本人がそれ以上解説しなかった為、あくまで推測でしかあり得ない。が、それが医師を意味するだろう事は想像に難くなかった。彼も病院経営者である以上、後継ぎの問題には常に頭を悩ませていたからである。
 私に医師の道を進む気は欠片も無かった。彼はそれで妻の異変に気付いてやれずに、結果として彼女を見殺しにしてしまったのだ。
 執刀医兼院長の立場は忙しく、たまに家で顔を合わせても挨拶だけで殆ど会話らしい会話を交わさなかった。和美姉さんの留学に父親の意向があったと知ってからは、それさえも無い日々が続いた。
 中学校に入ってから最初の学年がその終りを迎える頃、姉さんの帰国が決定した。再び姉さんと暮らせる、それだけで私は幸せな気分になれた。幸福感のせいだろう、父親との衝突も一旦は下火になった。
 ところが帰って来た姉さんは教師としての仕事をそこで得る為、すぐさま別の地域へ行ってしまった。
 またも寂しい毎日が続くとしょげる私に
「向こうに行っても和衣は大切な弟。忘れるはずなんかないわ」
と姉さんは笑う。
 こうも姉さんは付け加えた。「父さんとうまくやりなさい」
 私は黙って頷いた。父とは行くところまで行ってしまっていると心の底では判っていたが。

 それから1ヶ月程経って、私は2年に進級した。だが、学校と家との意味の無い往復はそのままで、全てが1年の時と何ら変化はなかった。
 春が過ぎ、夏も過ぎて、いつしか年が変わる。木々に木の葉がないのがすっかり当たり前となった頃、正月に帰郷したばかりの姉さんから急に帰郷したいと電話が入った。
 声が聞いた事の無い調子に弾んでいて、嫌な予感がした。
 やがて戻って来た姉さんは青い石の付いた指輪の入った宝石箱を持っていた。
「今まで付き合っていた同僚の方から結婚を申し込まれたの。取りあえず実家の方と相談してからと言ってあるんだけど」
 そう言ってのける姉さんの雪色の頬にほんのりと赤みが注しているのを見つけた。既に彼女の中では答えは決まっているのだ。だからこそ指輪もその場で受け取って来たのだと思う。
 姉さんが嬉しそうな顔で少しだけ見せてくれた宝石の輝きが記憶に焼き付いた。
 夏に生まれた姉さんの誕生石。
 夜、こちらの友達に会いに出かけたままの姉さんの部屋に忍び込んだ時も、それは変わらない輝きを放っていた。
 震える手で宝石箱から指輪を取り出してから、私は姉さんの部屋をめちゃくちゃに荒らした。ガラス窓も一部割って、泥棒の仕業に見せ掛けた。歪んでいるとはいえ根は普通の人間だと思っていた自分のどこにこんな悪い事の出来た部分が存在したのか、今更ながらに不思議に感じた。
 幸福の絶頂であるのを報告する為に帰った田舎で、まさか指輪の盗難に遭うとは誰だって考えない。友達と報告がてら楽しんで帰って来た姉さんは、夜、部屋に入るなり声にならない悲鳴を上げた。今更持って来た事を悔やんでも、全てが遅過ぎた。
 私は台風の時のように頭から布団を被って全てをやり過ごした。まさか私のせいとは思われないから、出て行った方がより怪しまれずに済んだと思う。
 けれども被っている布団ごとロープで固定されたように一切這い出す事は出来なかった。電気も消えた暗い部屋の中で身体を丸め、やった悪事の大きさに一人震えていた。
 あの時、隣の部屋から姉さんの嗚咽が洩れ聞こえた。
 翌日会った姉さんは赤く目を腫らしていた。睡眠不足と涙の跡がありありと見えていた。
 謝ろうと思ったが接着剤を塗られたように唇が開かない。
 2泊3日だった予定を早め、翌日の昼には姉さんはアパートに帰っていった。ひどく悲しいはずなのに、私達に余計な心配をさせたくないのか、最後は微笑さえ浮かべていた。
 やがて予想外の出来事に珍しく当日の出勤の予定を遅らせていた父と2人で自動車に乗り、後には私一人が残された。
 部屋に戻って指輪を掴んだ私は急いで姉さんの行き先である駅を目指して自転車を漕いだ。
 相手は車だからむろん追いつけるはずが無い。仮に追いつく事が出来たところで、また渡せずに全身が硬直するのは目に見えていた。
 もうすぐ駅と言うところで私は引き返した。この所あまりギアに油を注さなかったせいか、家路に向かうペダルがひどく重く感じた。
 姉さんと先生の交際の解消を聞いたのはそれから僅か数日後の事だった。

 将来の目標だった看護に関する全ての本を置き去りにして、身に付けた事の無かった女の子の服で電車に揺られ始めた時、和衣という少年は死んだ。
 ここにいるのは姉さんである関谷和美のコピー。自分自身の未来と自我を失う痛みも本来なら感じる事はない。
 なのに、今になってどうしてこんなに躊躇しなければならないのだろう。
「和衣」
「!」
 女の子の声が聞こえる。いるはずのないカナがすぐそこに立って見ている気にさせられた。
 そうだ。彼女のせいだ。
 両の頬を打たれた時のカナの訴え掛けるような瞳を思い出す。
 正直、あれだけ正面からぶつかって来る存在に会えるとは思っていなかった。
 出会って以来、私の中で急速に彼女の存在が拡大していた。
 無論、彼女と付き合おうなどと考えていない。
 しかし、自分の独占欲ははっきり言って化物だ。
 嫉妬に駆られた時の私は一切の制御が利かない。盗癖で済んでいる内はいいが、ひょっとすると恋人である由斗さんを傷付け、そのまま殺してしまうかもしれない。
 手を差し伸べられたからと言ってその手を悲しみに濡らす事が許される筈はない。
 このままだとどんどん決心が鈍ってしまいそうで、迷いを払う為に大袈裟なくらい首を大きく横に振った。声が霞むように遠くに消えて行く。
 安堵のため息を洩らす。
「関谷?」
「絶対に離れません、私」
 最初から答えは決まっていた。単に声に出すのが遅れたに過ぎなかった。
 立っていた先生の側に歩き寄る。
 私がここまで頑強に突っぱねるとは予想していなかったのだろう。元々面積の広い先生の目がさらに大きい円に見開かれた。
 少しだけ怒ったような顔をする。
「関谷・・・俺のようなオジさんに付き合う必要なんかないんだ」
「先生に無くても私にはあるんです。それにいいんです。その為に私、ここに来たんですから。姉さんの代わりで構わないんです」
 可能な限りの笑みを浮かべながら断言した。
 思惑を含んだ視線同士が絡み合う。
 先生には私が意地を張っているように見えたかもしれない。それきり何も言わずじっと見つめたままでいた。
 精悍な容貌が泣き顔のように歪んで見えた次の瞬間、丁度ウエストの辺りが強く抱きしめられていた。
 咄嗟の事で身体に緊張が走る。
「せ、先生?」
 応えはなかった。固く口を閉ざした先生から、嗚咽と、やはり聞こえるはずのない姉さんの名前を呼び続ける声が触れ合った場所を通って伝わって来た。
 私は全身の力を抜いて、されるがままに任せた。
 きっと棚の上の置き時計だろう、今までは気付かずにいた規則正しい秒針の音が微かに聞こえ出す。
 窓とカーテンで仕切られ他の物音が殆どしない分、カチコチいう響きは次第に大きく感じられ、部屋全体に広がった。
 抱き締められる事には全く慣れていない立場の私だったが、BGMのリズム楽器のような調べに身を任せるうちに不思議と落ち着いて来た。
 どれぐらい音を聞いていただろう。身体を覆っていた圧迫感から予告も無しに解放される。
 おずおずと目線を上げて行く。と、やけに神妙な金城先生の顔が目の前にあった。
 やや俯き加減となっていた彼は目が合った途端、不自然な程に頭を掻いた。あんな警告まがいの事を口にしながら、私を自分から姉さんの代わりとしてしまった事にひどく罪悪感を感じているのだ。
 怒っていない証拠を見せようと元気の無くなった先生に微笑みかける。
「別に気にしてません」
「そうか」
 安堵のため息の後、先生は大きく頭を下げて来た。
「でも一応謝っておく。済まなかった」
 煙草を自分から置いて来た事実を再び忘れてポケットに手を伸ばす。
 見ていた私は思わず目を丸くした。それに気付いた先生が急ごしらえのしかめっ面を作る。
 頬が照れから赤らんでいた。
 穏やかな笑い声が自然と唇から洩れ、進路指導室の重苦しかった空間を今度は明るい響きが流れて行った。
 今まで私を抱いていた腕がふと机の上のお菓子に気付いて、包みを開いて一かけら口に入れた。その様子を期待と不安でじっと見つめながら判定を待っている。
 黙ったまま口をもぐもぐさせていた先生はなかなか美味しいかまずいか言葉に出してくれなかった。
 とうとう私の方から尋ねてしまった。
「あの・・・やっぱり・・美味しくないですか」
 多少おばさまからのお墨付きが貰えたとはいえ、当の先生の反応が無いのはやはり不安だった。例え根本にあるのが罪の意識でも、こうやって作る以上は先生に美味しいものを食べてもらいたい気持ちだって当然ないではない。
 心配から前で指を組んでしまう。
 それとともに先生の顔色が見るからに気遣わしげなものに変化する。
 手指のバンドエイドが視界に入ってしまったのだと知った時は既に遅かった。
「関谷、お前・・・」
「気にしないで下さい。お菓子作りが原因じゃ無いんです」
 そう言ったのに先生の視線は私の手から離れない。
「綺麗な白い手なのにごめんな」
 手触りを調べるようにそっと撫でた。
 私は無理やりに両手を引っ込めた。
「謝らないで下さい。本当に何でもない事なんです」
「・・・」
 依然彼の瞳の自分を責め立てる光は消えない。近付きあった2人の間を一旦は消えかけた重苦しい空気が閉ざして行く。
 バンドエイドの手当ての跡をぼんやり眺めた。
 忘れていた息苦しさが蘇る。先生達の幸せを欲から壊した私。恨まれこそしても、謝ってもらう資格などどこにも無いというのに。
 途切れがちになった会話の糸を見付けようと言葉を捜した
 突如先生が呟いた。
「俺は何もお前に返せないな」
 見上げるように彼を見つめた私は少しだけ眉を吊り上げた。
 内心あまりに頑なな態度に本当に腹を立て始めていた。
「必要ありません」
 てこでも動きそうにない、恋人だった女性の“妹”から向けられる決意を同じ顔を前に困惑の入り混じった目で先生は受け止める。
 緊張ばかりしていた真面目な面持ちが不意に和らいだ。
「前言撤回する。関谷は姉さんにそっくりだ。快活で人当たり良さそうに見えたけれど、その実芯が強くて一遍言い出したら聞かなかった」
「・・・え」
 瞳に浮かんだ光があまりに優しく、説得しようと睨んでいたこちらの方が逆に気勢を失ってしまう。
 ぽかんとしてしまった私の唇に覚えのある柔らかな温もりが重なった。
 何が起きたかに気付いた瞬間、二重に目を丸くした。
 男同士。だが、嫌悪感は全く無かった。
「お前が誰だっていい。何があっても俺が護る。だから側にいて欲しい」
 真摯な瞳が揺らぐ事無く私を見つめていた。
 唇が自然と動いた。
「はい」
 ずっと哀しみに凍りついていた先生の瞳がその瞬間初めての雪解けを迎える。
 身体全体が浮き上がったかのような錯覚に襲われた。力強い腕の温もりの中に胴ごと抱き取られていた。
 顔を上げるのと同時にゆっくり近付いて来る先生。三度唇が重なった。
 唇と唇の触れた瞬間、この場にいる筈の無い人物の存在を背中に感じた。覚えのある女の子の視線。さっきと同じだ。
 けれども今度の彼女は現れてすぐ、唐突に霞んで行った。
 消え行く幻に未練を感じつつもこれでいいのだと思った。
 自分はたった今人生の分岐点を通り過ぎていた。さっきまでは先生の他にカナの方に続くレールがあった。
 カナには由斗さんがいる。でも未だ姉さんを忘れていない先生には他に誰もいない。
 カナへの想いが限界に達していない今なら、彼女を諦める事が出来る。
 だから私は先生の方を選び取ったのだ。
 当然だが先生との間に恋情は無い。
 その方が良かった。
 いつかは姉さんとの傷も癒え、別の運命の女性を先生が見付ける時が来るだろう。その時に私は代わりとしての役目を終えなければいけない。
 同じ顔を必要としているだけであっても先生は私が側にいる事を望んでくれた。その先生を裏切る真似だけはしたくない。

 偽りの逢瀬が終わる。
「それじゃ、失礼します」
 白い通学バッグを手にして頭を下げる私に先生は頷いた。あまり黄色味の強くないレモン色のカーテンは依然、閉じられたままだ。
 あまり洋菓子の好きそうではない金城先生だが、今回は塩味がメインだったのが効を奏したのか、持って来たクラッカーを全部平らげてくれていた。従って今日はお菓子を職員室で配って歩く必要は無い。
 空になった包みをごみ箱ではなく、再びバッグの中にと入れた。
 考えたい事でもあるのかもう暫く残っていくという先生を置いて、一足先に廊下へと続く扉を開く。
 そのまま背中を向けて出て行こうとした瞬間、背後から「和衣」と聞こえた。
 初めて呼ばれた自分の名前。くるりと振り返って先生の目を見つめた。
「・・・美味しかった。また、頼むな」
 ありふれた別れの挨拶。けれどもどこかもどかしそうな唇の動き。台詞の始めの方の微妙な間といい、言うべき言葉は掴んでいるのだが喉から先に出てこないように見えた。
「はい」
 私も敢えてそれが何であるかを聞こうとしなかった。
 “彼女”から生徒の一人に戻って、外界に一歩を踏み出す。
 随分と話し込んでいた気がするが、出る前に見た指導室の時計の針は1時間ばかりしか進んでいなかった。
 ここは北向きなので見えないが、太陽の位置も高そうだ。きっとカナ達はまだ買い物の真っ最中だろう。
 今から合流すれば間に合うかもしれない。
 ポケットの中のメモの存在を思い出す。
 取り出して番号を調べようとした瞬間、メモが指導室で見たカナの顔とオーバーラップした。
 そうだ、これは私が先程捨てた未来だ。
 しばらくそのままで佇んだ。
 これから自分自身がやろうとしている事を恐れ、動悸が激しくなっていく。
 やがて決心が付いた私は側に屑篭を探して、メモを細かく破り捨てた。
 綺麗に畳んであった紙切れが集め合わせるのも困難な欠片になって、舞い降りるように円筒の入れ物の中に消えて行った。


戻る

□ 感想はこちらに □