三角方程式

文 West

第5章 時の止まった傷

 思ったよりも早く和衣を見つけられた事で、道路が賑やかなうちに友人達に追い付いた。
 2人で歩いていた間もあたし達とは比べ物にならないスピードで自動車が何台も通り過ぎて行った。あたし達の間に音が無かったせいか、やけに耳に付いて聞こえた。
 別れてからそんなに時間が経ってはいないはずなのに、何故か待ちくたびれた様子の夢見の声があたしと和衣を出迎えた。
「おっそーい。何やってたの」
 早速彼女は和衣を挟んであたしとは反対側に陣取った。話題を変えては和衣に話し掛けている。知識と興味対象に偏りがあるせいで、相手が和衣でなくても会話が続かなくなってしまうのに、今日は何とか共通点を見出そうと頑張っていた。
 だからといって言葉のキャッチボールにならない事に変わりは無い。今もひいきの少女漫画はと聞かれ、どうやらその手の本を読んだ経歴を持たないらしい和衣は返事に困っている。
 横方向に3人になって歩くには多少歩道が狭いように感じ、夢見に和衣の相手を譲ってあたしは前に出た。
 結局ここに辿りつくまで和衣とは並んで歩いた。但し、互いに一言も交わさない。時間の経過と共にあの時感じた激しい憤りは段々収束しつつあったのだけど、始終穏やかであっても心のシャッターを下ろしたままの和衣の態度につい意地の方が続いていたからだった。
 背後で交わされる会話とも言えないような会話に耳を澄ませていると、急に前を行く七瀬がセミロングの髪を優雅に揺らしながら振り向いて
「ところで奈美は? あの子も和衣を探しに行ったと思うんだけど、やっぱり姿が見えなかった?」
「う、うん。七瀬の予想通りどこかで話し込んでるんだと思う」
 答えながらドキリとした。頭の中では奈美に関する別の内容が聞いた時と同じ鮮明さを保ちつつ駆け巡っていた。
『・・・どんなに小さなものでも相手に持たせるのが怖くてたまらないんだね・・・』
 ビデオテープを巻き戻しては再生ボタンを押すようにあたしは昨日の言葉を胸の内で繰り返す。結構いい所を突いているような気がするし、そうかといってどこかがまるっきり的外れなようにも思えた。
 渋々ながらもいつもはもう少し簡単に引き下がるのに、何故か今日は諦めの悪い夢見の声が今も背後では響いていた。漫画やアニメを諦め、今度は占い関係に移ったようだ。水瓶座がどうとか早口で説明するのが聞こえた。
 慣れない話題に困り顔を見せながらも和衣はあいまいな微笑だけは絶やさずに終始丁寧に応対していた。微笑みは多少心に秘めた憂いに覆われているものの、知らなければただの引っ込み思案で通ってしまう。多分、夢見もそう思っているに違いない。
「今日ね、あたしのクラスでも和衣ちゃんの話ばっかりだったの。アパートに遊びに行っただなんてクラスのみんなが知ったら質問攻めよ、きっと」
「・・・ごめんなさい」
 ホントは誰よりもお人よしの和衣は夢見の何気ない言葉にもしきりに謝っていた。事情を全く知らない夢見には理解できるはずもないけど、多過ぎる謝罪は好意を拒絶する相手への和衣なりの精一杯の表現なのだ。
 まだ2週間ばかりの付き合いだけれど、何度かぶつかっていっている内にそのぐらいは読み取れるようになっていた。
 だからといって納得できたわけじゃなかった。
 荒れていた気持ちは今は落ち着きつつあったものの、とても晴れるとまではいかない。イライラは消えたけれど何か別の空疎なもので塗り替えられた、言って見ればそんな感じだった。
「ごめんなさい」
 和衣が再び謝った。今まで自分のお喋りに夢中だった夢見がふと「和衣ちゃん、しゃべり方変じゃない? 同じ年なのに」と首を傾げたせいだ。
 和衣は急いで言葉使いを直したが、彼女の心があたし達と一線を引いている以上、きっとまた同じ事が繰り返されると思う。
 現実世界での距離なんて関係無かった。こんなに近くにいながら彼女の視界にあたし達は存在しないのだ。
 憂いを帯びた微笑の奥で、声も上げずに傷付いている素顔の和衣。
 人一倍繊細な胸の底に抱いているお姉さんへの罪悪感は自分自身を償いの為に作り変えてしまわない限り、そこから解放される事は無い。和衣を責めているのは、郷里の先生じゃなく、彼女の心の中だけに住む和美先生だ。追い出す事も宥める事も、単に話し合う事さえあたし達には無理だった。
 幾ら言葉を交わすことが出来ても、方言なんてどこにも使われてなくても、和衣の中にあたし達の言葉は届かない。同じ日本語なのに、意味が通じない。
 体はこの街に存在していても、心は付いてきていない。
 またひどく腹立たしさが湧きかけたけど、それはすぐに行き場のないやりきれなさに取って代わられる。
「・・・ばか」
 気付いたら唇が動いていた。思った以上に大きな呟きだったのに、それぞれが話に夢中なのか誰も気に止めた様子は無かった。
 ほっとしたあたしはまた自分の思いに戻って行く。
 無理に指摘しても和衣はいつものように頑強に否定するだけで、一向に癒えない心の傷を明かしてはくれないだろう。例の、他人を自分の領域からやんわりと締め出すあいまいな微笑みを整った顔に混ぜるだけだ。
 和衣の内面を知らない事から来る夢見の気楽なお喋りが背中を通して耳に入って来た。
 しばらくそれを聞いている。
 口調が不意に異なったものになる。
「和衣ちゃん、いい人だね」
「え」
「あたし相手じゃ退屈してるでしょ」
「そんな・・・」
「いいよ、自分でも判ってるから」
 アルトよりはソプラノに近い夢見の声が珍しく小さく低く移り変わって行った。
 その後数秒ほどの沈黙が訪れた。思わず耳をそば立てる。
 夢見は中身のコミックや漫画雑誌で膨れた鞄を両手で持って、前でしきりにぶらぶらさせていた。
「あたし、子供っぽいから。今度のクラス、知ってる子ぜんぜんいないし、正直うまく解けこめてないの。うわさの和衣ちゃんを見たかったせいもあるけど、わざわざ3−Bまで行ったのは、校舎が違ったあたしだけみんなに置いて行かれちゃいそうな気がして・・・」
 誰が見ても無邪気な性格で悩みのないと思っていた夢見。根っからの子供に見えた彼女ですら心の底ではこれからの自分に不安を抱いていた。
 意外な告白に、あたしは記憶の糸を手繰った。クラスが分かれた友達の中で、最もB組から遠かったはずの夢見がそういえば一番先にやって来ていた。
 振る舞いが見た目に普段通りだったから、気にも留めずにいた。
 彼女が和衣に拘るのは好奇心のせいだけだと決め付けていた自分に気付く。
 ふと思い付いた。彼女達が自分から話してくれない事、あるいは隠そうとする事というのはもしかしたら友情を続ける上で知る必要が無いからそうするのかもしれない。
 けれども、そうだとしたら、和衣の秘めてきたそれをあたしは無理やり暴いてしまった。
 あのままでもきっと和衣の行動は変わらなかった、理屈ではそうだろう。和衣が見ているのは和美先生だけだし、知り合ってまだ2週間程の、ただの同い年のあたしの言葉なんて気に懸けるとも思えなかった。
 それでも心の中を覗かれそうになった時の彼女の瞳を思い出してしまうと、あたしの方がいけなかったのかもとつい思ってしまう。
 和衣にこれ以上干渉していいものかどうか、整理の付かなくなった頭で考えてみても答えは出なかった。

 堂堂巡りになりかかった思考を止めると弾かれたように景色が戻って来た。
 あたしは足の運びを少し早め、1メートル以上前を行く七瀬に並ぶ。それと共に和衣達の声が多少小さくなった。
 ほっとする中、やがて左へ曲がる交差点が近付いて来た。歩道も心なしか広く感じた。
 丁度赤に変わった信号の手前である看板を見つけた。
 一旦足を止めた七瀬が感慨深そうに言う。
「もうすぐ桜祭りね」
 雪見荘やあたしの家とは若干所属する町内がずれているものの、彼女の家も学校から見ればこちらの方角に当たっていた。当然例の桜並木だって近い。
 貼ってある平ぺったい紙に書かれた何の飾り気も無い催しのお知らせを眺めつつ、あたしも同じく歩みを止めて頷いた。
 前触れも無しに割り込む存在があった。桐子の声だ。
「じゃ、屋台とかも出るんだ?」
「そんなに種類は多くはないんだけどね」
 あたしは看板を見ている視線はそのままで首をこくっと縦に動かした。
 短時間で仲良くなったとはいえ、桐子や登紀子にとって周りは昨日まで面識の無かった女の子達ばかりのはずだ。なのに、そんなハンデにはお構いなしに、したい質問があれば遠慮無しに桐子の方はぶつけて来た。
 けれども、彼女のその遠慮の無さが今のあたしにはありがたかった。
 だからあたしも奈美や七瀬を相手する時のように答えた。
「大体は食べられるものばかりだけど、それでも風船釣りや輪投げなどもあって、結構賑やかにはなるの。桐子も来る?」
 口にすると同時に、大勢の親子連れや子供達で賑わった去年の風景がすーっと浮かび上がってきた。
 公民館が出来る前はあの、長く続くわけでもない並木の下にお互い同士殆どくっつくようにして屋台が並んだ。もっとあたしが小さかった頃、パパとママに連れられりんご飴その他を買ってもらった記憶がある。
 けれど少し離れた所に公民館が建てられ、祭りはその敷地内で行われるように変わってしまった。規模は大きくなったが、そこで目に入るのは敷地の境界をかがるように植えられた木だけで、川沿いの並木から始まった祭りとしては本末転倒だ。
 ただ、祭りから遠ざけられた今でも、桜並木は春になるとこうやって道行く人の目を楽しませてくれていた。4月も半ばを過ぎると時折ござを敷いた花見客なども見掛けた。
 あたし達は再び歩き出した。
 ここから雪見荘に向かうには別に信号の変化を待つ必要は無かった。元々交差点で足を止めたのだって、祭りの看板を見つけたから。
 信号機はまだ赤のままだった。

 曲がってからじきに、目当ての真っ白い建物がちょこんとした頭を見せていた。絶える事無く降り注ぐ春の陽光がてっぺんで白さを強調するように静かに踊った。
 近付くにつれて、ほんの頭だけだった上の長方形は大きさを拡大しつつ立体に変わっていった。
「・・・これが雪見荘かぁ」
 合流前に七瀬達から外観についてある程度は聞かされていたのか、桐子が驚いた風ではなく感心したような声を上げる。本当はただ白いだけの建物のはずだけど、時間と季節の微妙な光の反射具合がそう感じさせるのか、今は輪郭がそれ自身雪の結晶のようにきらめくような錯覚があった。
 その雪見荘は静かにあたし達を出迎えていた。
 ついに敷地内に到着して、依然消極的ながらも和衣は生来の性分からきちんとみんなを案内する。
 扉が彼女の手で開かれる。
「おじゃましまーす」
 潜りぬけながら全員が口を揃えて挨拶した。
 あたし達の息の合った声を聞きつけて出て来たおばさんは総勢8人の大所帯ににこやかな顔を保ちつつも目を丸くした。
「あら、いらっしゃい。何か飲み物を用意するね」
「そんなおばさま、お構いなく」
「相変わらずの遠慮深さよね、七瀬ちゃんは。大丈夫だって、そんなに大したものじゃないから」
 おばさんはパタパタとスリッパを響かせて再び部屋の中に消える。
 思い立ったら即行動型の奈美と違い、隣の町内に住んでいても七瀬の雪見荘訪問は数えるほどだった。
 付き合いが去年からなのも大きい。それでもしっかり性格の方は把握されていて、七瀬が諦め顔でため息を吐いた。
「和衣ちゃんの部屋は1階? 2階?」
 もうすっかりいつもの調子を取り戻した夢見が早口で尋ねる。
「2階の、202号室」
 相変わらず必要以上に自分からは和衣は口を利かない。
 どことなく憂いを含んだ顔の他は殆ど表情の変化の見えない彼女を先頭にし、後を付けるようにして他の女の子が程度の差こそあれど賑やかに階段を上って行く。
 まだ雪見荘に来た事が無かった為、物珍しさから夢見が周囲をきょろきょろと見回した。
「いいよね、和衣ちゃん。一人暮しなんて普通中学生じゃまずムリだもんね」
 一瞬目を伏せた和衣は気付かれないうちに視線を戻し、それには答えずにゆっくりとノブを捻った。
 開いたドアの向こうに皆を促す。
「どうぞ」
 その言葉を受けて廊下から部屋の中に移ったあたし達。
 当然だが目に入る202号室のレイアウトは昨日訪れた時と何ら変化していなかった。整理の行き届いた机や椅子の配置、奈美と見つけた教師になる為の本ですら、同じようにひっそりと机の下に眠っていた。
 それらの事実があたしの心に昨日ここで交わした会話を蘇らせた。
「和衣って、遊び道具何にも持ってないんだ。ホントにこんな環境で生活してんの?」
 ふと早弓が呟いた。夢見の次に部屋に入り込んだ彼女は、すぐさま目で物色を始めていた。
 確かにあるものといえば教科書と参考書、そして一部の本だけ。精々あたし達に言われて揃えた衣類が目に入るくらいで、使っていないからと澪おばさんが倉庫から出して来てくれた鏡台にもリップと肌の色に近いファンデーション、それにこれもあたしが勧めた透明色のマスカラが申し訳程度に置かれている程度だ。
 流行りの小物や当たり前だが男性のアイドル写真なども無く、10代の女の子の部屋としては誰が見ても殺風景だと思うだろう。
「来たばかりでそうも身の回りの物揃えられないでしょ。みんながみんな、旅行でも何でもゲームやトランプを欠かさない早弓のようなタイプじゃないの」
「ハイハイ、どうせあたしは遊び人ですよ」
 当たっているだけに苦い顔付きで七瀬の説に同意した早弓はバッグから今日も忍ばせていたトランプを取り出し、居並ぶ友人達に配る。
「それじゃあさ、ただ話をするだけよりも、この方が和衣にとっても気楽なんじゃない?」
 和衣は何も言わなかった。必要以上に他人に自分の心を表現しようとしないことから来る沈黙を早弓は肯定と受け取った。

 それからあたし達はトランプゲームで時間を潰した。単なるババ抜きだってこれだけの人数が揃えば結構楽しめた。
 和衣の性格からすればババが来たのを隠すことは苦手なはずだが、何故か全く表情が変わらなかった。ババが手に入ったことなど何とも思っていないのだとしばらくして気付く。
 番が来る度に淡々と取るだけで混ぜたりもしないから、和衣の次の人は新しく来たカードが安全かどうか勘に頼るしかない。
 そんな事が繰り返されて、ついに早弓が苦い顔付きになった。
「あちゃー。絶対安全だと思ってたのに」
 その意味に気付いた夢見が急いで別のカードを引き抜こうとする。それを無理やり奪い返して
「上、真中、下のどれにする?」
 後ろ手にごちゃ混ぜにした。
「早弓ちゃん、ずるいよ」
「あんたが混ぜる前に持って行こうとするからだよ。それよりさっさと選んでよ。進まないじゃないの」
 膨れっ面のままの夢見が、それでも渋々カードの一枚に手を伸ばす。パッとひっくり返した途端、にわかに表情が明るく変わった。
 あからさまなアカンベーこそしないが、くるくると良く動く瞳が得意げに残念でしたと悔しがる早弓に告げていた。
 ニコニコとすぐに2枚のカードを捨てた夢見は残りの一枚を押し付けるようにして取らせた。今回も順位が決定し、ドベとそうでない者との明暗が分かれる。
 相変わらず表情に何の変化も見られない和衣は独りその感情の輪から外れていた。
 トランプ遊びを何度も繰り返すうちに、やがて階下の方から「おじゃましまーす」と耳慣れた女の子の声が響いて来た。わざわざ下りてみるまでもなく、その正体は見当がついた。
 それにしても、また随分と時間が掛かったものだと思う。あたし達が帰って来てから30分以上が既に経過している。
 また階段がひとしきり鳴って、好奇心と元気さでは先に来ていた夢見といい勝負の奈美が顔を覗かせる。
 トランプ遊びをしているあたし達を見つけても、彼女の目の色は変化しなかった。いつもはカードの山さえあればそこから無理やりにでも自分の分を抜いて行くのだが、今日は荷物を部屋の片隅に置くと大人しく空いていた場所に座って次のゲームが始まるのを待った。
 彼女の視線はちょっと友人達と談笑していたと思っても気付くとまるで置きあがりこぼしのようにあたしの上に戻って来ていた。そんな事が続けばそれ程洞察力に恵まれていないあたしでも、何か内緒話があるのだと判る。
 昨日集めてくれると約束した情報かもしれない。もしそうなら、放課後彼女の姿がどこにも見えなかったのも納得がいく。
 おばさんが持って来てくれたジュース入りのコップが幾つか空になっていた。今回早く上がる事が出来たあたしは、お盆にそれらを乗せて静かに部屋を出た。少しだけ時間に差を付けてそっと奈美が付いて来る。
 きゃあきゃあとトランプに夢中の友人達は扉をバタンと閉める時も誰もあたし達に注意を払おうとしなかった。
「先に階段を降りよっか」
 奈美は後ろを気にしている。扉はしっかり閉まっているし、大声さえ気を付ければ内緒話は充分可能ではあるのだけれど、大人しく従った。
 もうすぐ階段を下りきるという時に奈美が急に話し掛けて来た。
「ごめん。和衣ちゃんがなかなか見つからないから仕方なく和美先生の事聞いて回ってたら、思ったより遅くなっちゃった」
 ずっと姿の見えなかった彼女はやはり情報集めに精を出していた。表情からすればそれなりに収穫はあったらしい。
 びっくりさせてやろうと茶目っ気と笑みできらきらした目でじっとあたしを見つめる。 期待感がぐっと膨らんだけれど、同時に昼の和衣とのやりとり以来心の一部が冷めたままなのに気付く。待っていた情報にも関わらず、あたしはいつもの声音と口調で相槌を打った。
「やっぱり」
 浮かべていた笑みを掻き消して奈美がおやという目を向けた。掴んできた特ダネに得意そうだった表情が訝しむようなものに取って代わられる。
「あれ、嬉しそうじゃないなぁ。どうせだから和美先生の受持ちだった去年の生徒から果ては仲の良かった先生の間まで渡り歩いてあげたのに。和衣ちゃんとまた何かあったの」
 胸が爆発するような感じを受けた。気付くと下を向いてしまっていたあたしは可能な限り動揺を押し隠し、急いで顔を上げて打ち消した。
「無いよ。それより情報ってなんなの?」
「・・・和美先生に彼氏がいたのは知ってる?」
 多分内心では疑いを抱いたままの奈美はすぐには口を開かなかった。人の心の中を読み取るのがうまい彼女のこと、こんな不自然な解答で怪しまないでくれという方が無理だ。しかし彼女はそれ以上この話題に踏み入る事無く本題に入って来た。
「数学の金城先生よね」
 頷いたあたしは今日知ったばかりの恋人の名を彼女に告げた。見てもいないはずの和衣のキスシーンが再度頭の中で構成される。
 奈美は驚きに目を広げてあたしを見ていた。
「びっくりした。昨日もだけどいつからカナ、そんなに情報通になったのよ。しかもまだ情報が少ないはずの和衣ちゃんに関する事で」
 言葉に詰まった。奈美がそれだけ驚くという事は金城先生の存在を調べ上げるのにそれなりの苦労をしたらしい。しまったと思ってももう取り返しは付かなかった。
 いつからと言われても困る。指導室での和衣の行動を説明すれば早いだろうけど、そんな気分にはなれなかった。
 リップクリームの取れかけた和衣を見てからというもの、今までは同情心の影で気付かなかった別の何かを知らされた気がする。
 ただ、それが何なのか、考えを巡らしてもはっきりとは判らなかった。にも関わらず、何故かその時のあたしは自分でも知らないうちに気付いちゃいけないと言い聞かせていた。
「偶然知ったの。それだけよ」
 出てきたのはいかにもごまかしてますと教えるような答えだった。
 僅かな空白の後、奈美は少なくとも外見上は納得したように
「ま、口止めがしてあってもしゃべる子はしゃべるもの、どこかで聞けても不思議はないかもね。実際あたしだってそういう子から聞き込んできたんだし」
 それから含んだような視線であたしを見て
「ふーん」
「な、なに? 急に」
「カナはカナなりに調べて回ってたってわけなんだ。感心感心」
「あのね」
「でもさー、ホント和衣ちゃんの事になるとぐずりのカナが別人のようなんだから。立石クンの時でさえ、違ったのにね」
 悪びれた様子もなく、当人の前だというのにくすくすと笑い続ける。
 ここには鏡が無いから自分では見る事が出来ないけれど、きっとあたしは誰の目にも判るくらいに膨れていた。
「なーみ! そのくらいにしておいてよ。幾らあたしでもそれ以上言われると」
「アハハ。どうもカナを見ているとついからかいたくなっちゃって。心配しなくても和衣ちゃんがカナにとって大事なお友達だってこと、ちゃんと理解してるつもりだよ」
「ほんとに〜?」
 判ったような口ぶりで勝ち誇る奈美を出来る限りの冷たく白い目で見つめ返した。けれども、それすらも彼女は面白がっているように思えた。
「ホントホント。で、和美先生のことなんだけど、もしかしたら婚約してたかもしれないらしいよ。何でも駅前のデパートの貴金属売り場にいる2人の姿を見掛けた子がいるんだって」
 そして、忘れちゃいけないとばかりに奈美は急いで付け加えた。
「ただ、それから直に当の和美先生が父親の選んだ相手との結婚を決めたという例の事件が発生して、金城先生の方はただの噂として立ち消えになっちゃったってわけ。お陰で覚えている子が少なくて」
 婚約。思ってもみなかった言葉が奈美の口から洩れた。
 お別れする時の和美先生は当然の事ながらいつものように魅力的な笑みこそ浮かべていなかったが、見送るあたし達を安心させるぐらいの微笑だけは絶やさないでくれた。
 言い訳に過ぎないかもしれないけど、だから先生が本当はどんな思いを抱いて列車に乗ったかなんて、あたしはきちんと考えなかった。ただ、父親の言う事に従うしかなかった自分自身への悔しさだけだと思っていた。
『一人だけ理想の女性と出会った。彼女が他の男の元に去ってしまった時点で俺の独身は決まったんだ』
 あの時、搾り出すかのごとく呟いた金城先生。もし、婚約まで行っていたのが本当なら。
「カナ?」
「あ、ごめん」
 いつの間にか回想の世界へと飛び立ってしまっていた自分に気付き、慌てて現実に立ち戻った。
「ね、何か隠してるでしょ。思い切って言っちゃいなよ」
 奈美のあたしに対する疑いは今回で決定的になったようだ。
 だけど、同時に心配してくれているようにも見えた。
 昨日と同じ真剣な瞳があたしを見ていた。
「ごまかしれると思ってたの? カナがこんなに情報通なわけがないじゃん」
 すうっと顔が近付いてくる。
 さっきの大袈裟な驚き方は演技だったらしい。
 彼女の目を見ていると、昨日の段階でもう和衣の性別以外の隠し事をしたつもりはなかっただけに、正直言って心が揺らいだ。
 あの時は金城先生が和美先生の恋人だったなんて思ってもみなかった。和衣が先生にキスするつもりでいた事も。
「どうしても言いたくないんだ。あたしじゃ口が軽いから無理もないよね」
 そう言って眼の前で大袈裟に肩を落として見せた。
 これも演技なのは見て取れた。それでもその時のあたしは罪悪感に項垂れた。
 気付いたのだ。自分も奈美相手に和衣と同じような振るまいをしようとしていた事に。
 仕草は大袈裟に見えても彼女の瞳に宿った光は演技じゃなかった。心からあたしを心配してくれていた。
「そうじゃないの。ただ・・・」
「ただ?」
「・・・」
 理由を告げようとすれば、今日の昼の出来事にまで触れないわけにはいかなくなる。今はその事だけがあたしを留まらせていた。
 けれど、その支えは僅かな時間の経過と共に意外なほどあっさり折れた。
 自分で考える以上に一向に返らないボールを追うのに疲れていたのだと思う。
 ぽつりぽつりとしか始まらなかったあたしの話を、奈美は真顔のまま黙って聞いていた
 話が終わった。和衣が男の子だという事だけは変わらずに伏せておいた。
 先生と和衣がキスしたという事実は生徒と先生間の恋の噂に事欠かない彼女にとってもかなりの驚きのようだった。
「そんな事があったの。カナがブルーなのもわかるなぁ」
 よしよしと奈美がそっとあたしの頭を撫でてくれる。
 頬の熱くなった照れ隠しと、急に思いついた事があって、急いで顔を上げて尋ねる。
「ね、奈美」
「ん?」
「昨日、和衣が相手に心の中のどんな小さなものでも相手に持たせるのを怖がっているって言ったよね。何でそんな事を思ったの」
「あ、覚えてたんだ。別に大した事じゃないの。ちょっと自分の過去とダブっちゃっただけ。カナが気にするような事じゃないのよ、うん」
「過去? 奈美の?」
 彼女はちょっと困った様子で同意した。
 8年前、入ったばかりの小学校で席が前後に並んで以来、奈美とはクラスが分かれた時でも親しく付き合って来た。確かに口は秘密を話しておくには軽めだけれど、同時に醸し出している嫌味の無さがあたしも含めて皆を引き付けた。
 その奈美が和衣と同じと言われても、あたしにはピンと来ない。
 あれこれ首を捻っているうちに彼女から解答が出された。
「あれはまだ5年の時かな。その時まで声も、顔さえも知らなかった女の子に媚びてるから嫌いだって言われたの。ただ、そんだけ」
「・・・はぁ?」
 何でそんな事を急に言い出すのか彼女の真意が掴めず、顔と仕草が?マークになる。
 しばらくそうしていると、奈美が何故かくすくす笑い出して
「そうね、判らないよね」
 あたしではなく自分自身に言い聞かせるように呟いた。
 愛らしく微笑んではいたけど、和衣と同じ種類の光が瞳の奥に見え隠れした。同じように笑顔の裏で自分を傷付けようとしていた。
 ただ、それに気付いても彼女の言う“過去と重なった”という意味は理解できなかった。すっかり混乱した頭で、ただひたすら奈美の言葉を待った。
 けれどもそれ以上答えは返って来なかった。
 そのうちに奈美は「この話はこれでおしまい」とあたしの仕事だった筈のお盆を掴んで管理人室に向かって歩き出そうとした。
「ちょっと、奈美」慌てて思考の世界から飛び出して後を追い掛ける。
 前に立った瞬間、いつもよりずっと早足だった奈美の動きが急停止した。
 コップがお盆の上で乾いた音を立て、そのままの態勢であたし達は見つめ合った。
「ずるいよ、そんなの。自分ばかり根掘り葉掘り聞いておいてさ。気になってしょうがないよ」
「ブー、水を向けたらカナが聞かない事までしゃべってくれたんです。アツイ友情に感謝してます」
「何それ。人がせっかく」
 いつもならあたしも妙に憎めない奈美のおふざけ振りに込み上げかけた怒りを納めたかもしれない。
 けど今は・・・。
「始めに言っておいたでしょ。カナが気にするような事じゃないって」
 いつものふざけ調子を止めて、穏やかな微笑に戻った奈美。
 彼女の瞳は優しい。でもこれ以上はぐらかされるのは、例え和衣が相手じゃなくても我慢出来ずにいた。
「・・・」
「そーゆー目はヤダなぁ。じゃあ、ヒントをあげる。和衣ちゃんのように人を避け続ける事も、今のカナのように正面からぶつかって傷付く事もあたしには怖いの」
 そう言ってまた自嘲めいた笑みを向けてきた。
 あたしは驚きに包まれた。
 相変わらず口調は冗談めかしてはいたけど、絡んだまま一向にそれる事の無い視線。それがすぐには信じがたい告白が嘘でない事実を物語っていた。
 思わぬ項垂れたあたしに、ややあって付け加える。
「元々確かに能天気でお喋りではあるんだけどね。ただそれを続けていれば、明るく見える分周りに人は寄って来るけど、大事な相談をして来たりはしないでしょ。付き合いが深くはないから、たとえ相手が離れて行ったとしても悲しみだって少なくて済む、あたしのような臆病な子にはそれが大事なの」
「でも・・・そんなのって」
 友達じゃない、顔を上げてそう口にしようとして再び目と目がぶつかった。
 乱れかけたコップの並びを直した奈美は、今度はあたしを視線ごと避けるようにして再び歩き出す。
「カナが七瀬でなくあたしを頼ってくれて嬉しかったよ。これ、持ってくね」
 最後はにこやかに告げると間もなく彼女は管理人室の中に消えた。
 大事な相談は困る、そう奈美が告げた一方で彼女にお礼を言われた事にあたしは一人戸惑っていた。

 ところで、話に夢中で気づかなかったが、部屋を出てからかなりの時間が経過していた。そして、その時間はいい加減あたし達の不在に気付いた友人達がちょっとばかり様子を見に行こうとこっちに下りて来るのに充分なくらいだったらしい。
 半分口実として持って来たお盆は奈美が代わりに渡しに行ってしまった。
 ふとあたしは振り返った。別に奈美を置いて行こうというんじゃない。受けた衝撃から気付くと足の方が動いていた。
 いつの間にか人影が階段の上の方に立っていた。
 彼女を見た瞬間、心臓が冷えて行く。薄桃色の唇を固く噤んだままの和衣があたしを凝視していた。
「ゴメン。みんなが飲み物を欲しがったから・・・」
 漆黒の瞳には怒ったり憎んでいるような光は見られず、ただ透明な哀しみだけが映っていた。
 一目で話を聞いていたと理解できた。
 表情からもしかしたらそこで踵を返すかとも思ったけれど、和衣はそのまま階段を下りて来た。それならてっきり何かを口にすると期待したのに、そのまま側を通り過ぎて管理人室のおばさんの所へと向かう。
「和衣!」
 自分でも知らない内に彼女を大声で呼び止めていた。振り向きはしないものの、同時に和衣の動きが止まった。
 再びあたしの胸に一旦は消えかけた期待の炎が灯る。
「和衣の事を話しているのを見て何か言いたかったんじゃないの。言ってよ、黙ってちゃわかんないよ」
「・・・隠しておく方が悪いんだもの。責める資格なんて無いと思う」
 すぐに彼女は歩き出した。結局はあたしからの呼び掛けなど何も無かったような足取りで。
 それを眺めるうちに中で何かが弾け飛んだ。
 次に気付いた時には和衣の前に立って、色白できめの細かな造りの頬を片方が赤く染まるくらい思いっきり引っぱたいていた。
 ここで彼女の目に少しでも怒りか憎しみが宿れば、あたしは理性の世界に留まる事が出来たのだと思う。
 けれども、和衣はそれでも何も言わず、熱を帯びた頬にそっと手をやった。その様を見ていたらまたどうしようもなく怒りが湧いて、無傷だった反対の頬まで赤くしてやった。 単に怒らないと言えば聞こえはいい。でも、そうじゃない。ここまでしても和衣の人生にあたしはいないんだ。今までも、そしてこれからも。
 今や和衣は両方のほっぺたを照れたのとは違う赤色に染めていた。
 痛くなかったわけはないのに、一度も彼女は声を上げなかった。胸が悔しさでいっぱいになる。
「カナ! 幾らなんでもやり過ぎよ」
 さすがに普通とはいえないあたし達の様子に、管理人室をジュースの注がれたコップと共に出て来たばかりの奈美が、急いでお盆を床に置いて仲裁に入って来る。
 だけど、あたしは和衣の目前からどこうとしない。
 強く睨み付けている表情とは裏腹に目頭が随分熱を帯びていた。今は必死で抑えているけど、もうすぐこの場で泣いてしまうかもしれない。
 けど、和衣には絶対に泣いた顔は見られたくなかった。
 とうとう奈美は身体ごと引っ張ってくるようにして、あたし達2人を離れさせた。
「和衣ちゃんも本当はカナの助けを待っている、そう口にしただけだったのに。あたしのせいだね」
 隣に立っている筈の奈美の声はまるで曇りガラスを通した光のように、現実感の無いものとなっていた。彼女は済まなさそうな目であたしを見ていた。
 そうか、だから彼女はさっきあんな事を告げたんだ。
 まだ少し考える力は残っていたらしい。すっかり痺れたようになった頭の片隅でぼんやり思った。
 そのうちに奈美が言い出した。俯き加減になっていたあたしの腕に、自分のそれを絡めて来た。
「帰ろうか」
「・・・うん」
 しばらくそのままの状態を続けた後で力なく頷く。
 一秒でも早くこの場を去りたいかと言えば嘘になる。けれど、いつまで経ってもあたしの方を見てもくれない和衣の側にこれ以上留まるつもりはなかった。
 そのうちに異変を感じ取った澪おばさんが怪訝な顔を覗かせて、あたし達2人の姿を見付けて交互に見比べた。和衣の頬にはまだ叩かれた跡が残っていたから、見ればすぐに何があったか見当が付いた。
 ふと和衣はゆっくりドアの方に歩いて来て、置かれたままになっていたお盆を黙って持ち抱えた。
 彼女の白かった頬は依然熱を帯びていた。なのに今はさすりもしない。あくまで動揺を表に出さない姿に、更に一発お見舞いしたい衝動に駆られた。
 けれどもあたしはそうしなかった。代わりに今までピンと張っていたものが千切れる音を聞いた。
 澪おばさんの顔はいつものように朗らかではなかった。多分おばさんは和衣の面倒をあたしに任せたのが最悪の結果を招いた事実を知ったと思う。
 でも、それさえも今のあたしにはどうでもいい事だった。

 それからしばらくしてあたし達は全員で雪見荘を出た。奈美以外の友人達は事の詳しい経過を知らなかったが、和衣の頬の異変には気付かない筈が無い。
 気まずさが皆の間を流れ、あんなに雪見荘訪問を楽しみにしていた夢見や桐子ですら、早めに腰を上げる事に大して文句を言わなかった。
「おばさま、お邪魔しました」
 七瀬が玄関先で丁寧に頭を下げ、あたし達もそれに倣った。
「ごめんなさいね。何のお構いも出来ないで」
 そう言って瞳を伏せる澪おぼさんにまだいつもの笑顔は戻らなかった。
 無理もない。和衣が出来れば隠して置きたかった身体の事を教えてまで、あたしと彼女を最終的には仲良くさせようとしたのだ。それがこんな結果を生むなんて、人付き合いに長けた人だからこそ、おばさんのショックは大きい。
 きっともうすぐママの所にも報告が行くに違いない。帰って顔を合わせるのが辛かった。
 時々木々の匂いが風に混じって、外に出た途端そばを微かに吹き抜けて行く。
 本来なら包み込むように感じた日差しが依然南西の方角から降り注いでいた。
 春を迎えた空気は暖かったが、あたし達の周りだけ氷が溶け残っているような錯覚があった。それだけ今のあたし達を取り巻いている空気は冷たく、重い。
 誰も何があったのとは聞かなかった。ふざけ合うのを除いて普段喧嘩らしい喧嘩をした事の無いあたしが、まだ知り合って間が無い相手の頬を叩いたのだ。理由は理解できなくても、簡単にどちらが悪いと決められる問題でないのが見当付いたのだろう。
 結局は殆ど会話らしい会話の無いまま、方角は同じでも町内の違う七瀬と交差点で別れた。
 通りを学校の方へと戻って行く早弓達とはもうしばらく歩く事になる。が、それも桜並木の手前までの事だ。
 昨日よりも更に満開に近付いたにも関わらず、ピンク色の花弁は何故か色褪せて見えた。
 普段は適当に飛んで来る奈美の軽口も今日は異常に静かだった。風の起こす葉ずれの音だけが僅かに2人の間の沈黙を埋めた。
 奈美としてはひょんな所から和衣の名前が出て、あたしの気持ちを損なう事が無いよう注意していたのだと思う。だが、気を遣われれば遣われる程、否応無しに今日の出来事が思い出され、気分は一層滅入って行った。
 悪循環ではあるけれど、互いにどうする事も出来なかった。和衣の事を話題にしてもしなくても、どちらにしてもあたしの気分が晴れる見込みは無い。
 多少は大回りになるのを覚悟で、奈美はいつもより長い距離を付いてきた。家まで同伴しなかったのは、その方が却ってあたしに気を遣わせると考えた為だろう。
「カナ。あたしが言えた義理じゃないと思うけど、元気出してよね」
 これから2人の道が分かれるという場所で、彼女は無理に笑った。
「ほらっ、行動はグズだけど粘り強いのがカナの身上じゃない。その手で立石クンも落としたんだもん、和衣ちゃんだって待っていれば何とかなるよ」
 いつもの軽口を表面上は取り戻して何とかあたしを元気付けようとする奈美。
 あれだけ真剣な彼女を見せておきながら、今更のようにひょうきんに振舞う姿を見ていて急に笑いが込み上げた。
 自分の唇から洩れたクスクスという軽やかな響きと共に、重く圧し掛かり息苦しくさえあった空気がにわかに和らいだ。
 和衣に無視された痛みが完全に消えたわけではないけど、素直に彼女の心遣いを嬉しく感じた。
「奈美」
「はい?」
「今なら奈美の気持ち、少しは理解できる気がするな」
 手に入らなかったり失うのが怖いのなら、最初からそれは無いと割り切る方がいい。奈美はずっとそれを続けて来たのだ。
 ちょっとびっくりしたようにあたしを見て、それからゆっくりと破顔した。
 優しくにこやかではあったが、どこか寂しさを含んでいた。
「そう、ありがと。ホントはカナには判らないままでいて欲しかったんだけど。あたしとしてはですけど」
 彼女は「カナも大人になったんだね」と再び頭を撫でて来た。
「なによ。せっかく理解してあげたのに」
 笑いながら唇を尖らせたけど、奈美の言いたかった事は胸に染みていた。
 奈美は確かに和衣に昔の自分を重ねて見ていた。彼女が色々な意味であたしをけしかけたのもその事が背景にあった。
 あたしはここまで付いてきてもらったお礼を言って、彼女と別れた。
 彼女の背中が見えなくなった後、今度はあたしが心の中で謝った。
 ゴメン。あたし・・・やっぱりだめだよ。

 洞察力に優れた奈美はもしかしたら気付いていたかもしれない。例えそうだとしても、先程の事件もあってか彼女も表立っては何も言わなかった。
 あたしだって罪悪感の類が無かった訳じゃない。ただ、勝手な言い草だけど、これ以上自分が傷付く方が嫌だった。
 次の日からあたしは和衣を避け始めた。
 ただ、言葉通りの意味じゃない。毎日雪見荘に由斗と彼女を呼びに行くのはそのままだったし、通学途中や学校では互いに色々と話もしていたからだ。
 変わったのはあたしの気の持ちようだった。和衣について過去も含めた一切の詮索をやめたのだ。
 言って見ればあまりに片思いが苦しくて、片思いをしていた自分自身を無理やり葬り去ってしまったようなものだ。
 今までに知った秘密も全て仕舞って心に鍵を掛け、和衣が何をしようと友人としての立場から応援だけをして、後は静観した。
 干渉から静観に切り替えるのは思った以上に大変だったけれど、慣れてしまえば痛みも忘れられた。
 もしかしたら今までもそれが続いていたから、単に鈍感になっていただけかもしれなかった。
 あれから再度和美先生から電話があった。
 以前のあたしならいいチャンスだときっとあれこれ聞き出していたと思う。でも今回は和衣の近況報告だけに抑えた。
 だけど、あたしだって和衣程どうしようもなく苦手な訳じゃないけど、嘘や演技は得意な方じゃない。だから、話題がつい金城先生の方に流れてしまった時、ごまかしようが無くて和美先生の口調が変化した。
「やっぱりあの子・・・」
 普段のころころした声音からは想像も付かないうめくような呟き。それからは無言が続いた。
 思いがけない糸口に、ようやく抑え込んだ筈の感情があたしの中で復活を果たそうとしていた。
 けれど同時にあたしは気付いた。和衣の傷口がどこにあるか知った所で、そこに薬を塗る事はあたしには出来ないのだ。それが出来るのは和美先生だけだ。
 大きくなりかけた期待が風船から空気が抜けるように急速に萎んで行く。
 気持ちに黒いものが混じった。
「奏子ちゃん、一つお願いがあるんだけど。あの子の手元に」
「ごめんなさい。そう言えばママから頼まれていた事があるんです。すみませんけど、これで」
 急に嘘の口実が思い浮かぶ。
 さらりと述べ立てたあたしは急いで受話器を耳から離した。
 ひどく慌てた先生の声が小さくなって洩れ聞こえた。
「え、ちょっと、奏子ちゃん」
 あたしは和美先生の言葉がそれ以上耳に入って来ないうちに持っていた受話器を台に戻した。
 先生の和衣に対する心配も理解できるだけに、勝手かもしれない。でもこれがその時のあたしに出来た精一杯の譲歩だった。


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