三角方程式

文 West

第4章 和衣の行動

『お姉ちゃんにならなきゃダメ。その為にここに来たんだから』
 問い詰めた結果、貝のようだった和衣は初めて胸の奥に仕舞っていた自分の心を一部とは言えあたし達の前に曝け出した。
 和美先生になるというのが具体的にはどこまでを意味するのかあたしには判らなかったけど、少なくとも女の子としての暮らしが自分自身に課した償いの一端であるのは確実だ。
「和美先生の夢が学校の先生だったから、だから和衣も教師も目指すの? 和衣はそれでいいの?」
 本当は叫んでやるつもりだったのに、どうしても大声が出なかった。
 しばらくの間あたしと和衣は見詰め合う。
 やがて先に目を逸らした彼女が呟いた。
「私に出来る事はそれくらいだから」
 それきり黙った薄桃色の唇がほんの微かに震えているのが見えた。そうしていると和衣の傷が痛い程伝わって来る。
 けれど、今のあたしにはそんな事はどうでもいい事だった。
 自分が怒っているのか、それとも泣きたくてたまらないのか、正直判らないでいた。
 和美先生がただの姉という以上に和衣にとっては大事な存在であるのはあたしにも理解できる。何と言っても和衣を育てたのは先生なのだから。
 あたしが彼女の立場でも、もしも母にも似た存在を自分のせいで傷つけるような事があれば、苦しんでも無理も無いと思う。
 でも・・・。
「先生はおじさんの勧めで結婚したんでしょ。和衣は何も悪くないじゃない」
 嘘や慰めのつもりは無かった。手が掛からな過ぎて逆に心配になったくらい、和衣は聞き分けが良い弟だったと聞いている。
 その和衣が大事な先生の夢を壊すような真似をするとはどうしても思えなかった。
 後は和衣自身が軽く頷いてくれれば済む事なのに、その期待は残念な事に空振りに終わりそうだ。
 あたしはそれでも説得を続けていた。
「先生が喜ぶはずが無いよ。あんなに和衣の事ばかり気にかけているんだもの」
 忘れ物を宅配便で届けるという些細な用事でさえ、世話を焼けるのが嬉しい様子で電話線を通してもそうと知れる程声音を弾ませていた和美先生。
 その姿を思うと、あっさり諦める事なんて出来なかった。
「和衣」
「・・・」
「和衣ってば!」
 何度も彼女の名前を呼んでみた。けれど、応えは無かった。
 和衣はただひたすら、台風が通り過ぎて行くのを待つ樹木のように、しなだれつつあたしが口を噤む時を期待していた。
 和衣をここまで追い詰めたものの正体は正直あたしには判らない。けれど、思いつめやすい性格のせいで相手がとっくに忘れた些細な出来事がいつまでも心に重く圧し掛かっているのだと思った。
 きっと、迷惑だと考えているのは和衣の方だけで、和美先生自身は気にしていないに違いないのだ。
 しかし、その事を確かめる手応えのないまま時が過ぎて行く。
 とうとう観念したあたしは、急に後ろを振り返って彼女に背を向けた。
「奈美、戻ろ」
 そう言ってあたしは事態が飲み込めずにいる奈美の背中を叩く。
「待ってよぉ。あたしまだ、事情が」
「いいから!」
 無理やり重い腰を上げさせた。しきりに文句を言っている。
「じゃあね、和衣」
 不平を口にする奈美を無視して、背中を向けたままで一歩進んだ。
「あ・・・」
 固く閉じていた和衣の口から初めて動揺のようなものが洩れた。
 あたしが引き下がった事が予想外だったのか、すがるような眼差しが一瞬だけあたし達を追い掛けた。
 あたしがその事に気付いた途端、パッと視線が伏せられる。
 一瞬胸の内で膨らみ掛けた微かな期待が、ため息が出るのと同時に急速に萎んで行く。 この部屋にこれ以上留まる意味はやはり無いらしい。
「ほらぁ。行くよ、奈美」
 未だ呆気に取られたままの奈美を後ろから押すようにして、あたしはドアに近付いた。そのままノブに手を掛ける。
 部屋ではカーテンの類は閉めていなかったのに、廊下に続く扉が開いた途端、まぶしく感じるくらいの光が戻って来た。
 部屋を出るまで随分と経ったように思えた。
「ね、もう少しだけ。事情がホントによく」
「後で教えてあげるから」
 開いた扉の先に見えた空間に、駄々をこねる奈美を送り出す。
 それから和衣の方を向いた。
「おじゃまさま」
 気まずい雰囲気から、挨拶は自然そっけないものとなった。
 それから扉がゆっくりと閉まって、あたし達と和衣はドアを挟んで隔てられた。

 1階の廊下。
 澪おばさんのいる管理人室に寄る前から、奈美の激しい質問攻めにあった。
「だから、あたしも良く判らないんだってば。和衣は単にお父さんの態度に反発して家を出ただけだと思ってたもの」
「お父さんの反発って?」
 怪訝そうな奈美。こんな事まで彼女に話す予定のなかったあたしは、口が滑った事に気付いて表情をひきつらせる。
 もう少し言葉を選ぶつもりだったのに、予想以上に和衣とのやりとりが胸に堪えていたらしかった。
 ここで下手に誤魔化せば却って旺盛な奈美の好奇心を刺激するだけだと思ったあたしは、和衣の性別を除き、現状で知っている事を全て奈美に聞かせた。
 父親が看護婦になるのに反対していた事も伝えた。お陰で関谷氏は男女同権に全く理解の無い、いかにも封建主義的な父親像として奈美の目に映ったようだ。
 和美先生の結婚相手の選択押し付けという前科は当然奈美は知っていた。以前のあたしは彼女からこの事実を聞いたのだ。
 早耳のお陰で普段から生徒や先生間のゴシップネタに事欠かない彼女も、はるばる故郷からここまで家出を敢行した和衣には驚きと共に少なからず尊敬の念を抱いたようだった。
「よし! 和衣ちゃんを看護婦にする会をみんなで結成しよう。カナ、あんたが会長ね」
 声を弾ませた奈美が急に両手であたしの肩を叩いて来た。
「何でよ。そういうものって言い出しっぺがなるもんでしょ。奈美がやったら?」
 顔を赤くして睨み付けた。
 胸にまだ和衣の部屋で感じた気まずさが淀んでいる。
 一方の奈美は憎たらしいぐらいに明るく笑って見せ
「まぁまぁ。和美先生の方はあたしが調べておいてあげるから」
「な、何のこと?」
 内心ぎくりとしたあたしは、平静を装ったつもりでも態度に滲み出てしまった。
 そこを奈美の意地悪な声に突かれる。
「とぼけなくてもいいのにぃ」
 奈美はあたしの困り顔を見ながら楽しそうに笑った。
 ばれたと知った気恥ずかしさからあたしは微笑を保てなくなる。少々膨れっ面で黙っていた。
 奈美の立てるクスクスした響きが大きくなる。
「和衣ちゃんを助けてあげたいんでしょ。顔に出てるわよ」
 尋ねるというより確認だった。渋々同意する。
 彼女の言う通り、和衣を苦しめているものが何なのか出来るだけ詳しく調べてみようと心に決めていた。
 本人に話してもらえれば一番手っ取り早いのだけど、先ほどの態度からしても残念ながら期待薄のようだ。
「でも、考えたら珍しいよね。チャンスは待つものという性格のカナが自分から何かやろうなんてさ」
 ふと思い付いたように奈美が付け加えて来る。
 言われて頷いた。
 彼女の言うように、あまり自分から人と積極的に関わろうとするタイプではあたしはない。そのあたしが、拒絶されてまで相手の力になろうと考えていた。
 自分でも驚いてしまう。
「あっ、もしかして和衣ちゃんの事好きになったとか?」
 心臓がドクンと鳴り響いた。
「あ、あたしにはちゃんと彼がいるんですからねっ。変なこと言わないで!」
 動揺から声が震えた。気恥ずかしさから頬が熱を帯びていく。
 訊いてきたくせに奈美はあたしの反応に怪訝な顔で
「女同士だし、冗談に決まってるじゃん。何ムキになってんの」
「・・・」
「ふざけて言ったんだけど、も、もしかして」
 視線が急に冷たいものに変わり、わざとらしく一歩後ずさる。
 そんな彼女をあたしは「違うわよっ」と一層顔を赤くしつつ追いかけた。
 和衣が好きだなんて、そんな事あり得ない。あたしは彼女と女の子の姿で出会ったのだ。
 男の子の時の彼女なんて殆ど何も知らない。
 きっと、とんでもなく後ろ向きな人生を選び取ろうとしている和衣を放っておけないだけだと思う。そう考えて自分を納得させた。
 どうしてか変わらずに心臓の方はドキドキいっていたが。

 廊下に留まって結構な時間が経過した気がするが、誰も部屋から出て来ない。
 奈美とあたしのじゃれ合いはその後も続いた。
 ふと、奈美が言い出した。
「和衣ちゃんにはこうやってふざけ合える相手っていたのかな」
 珍しく真剣な顔を奈美は作っていた。
 先程までの和衣の様子がふと思い出される。人を寄せ付けない彼女。多分それが答えになっていた。
 やりきれなさが湧いた。
「・・・どうして全部独りで抱え込んじゃおうとするんだろ」
 思いに沈み込んだ。知らないうちに独り言が口から出ていたようだ。
 奈美の突然の呟きに、弾かれたように現実が戻って来る。
「みんなそれぞれに我慢の限度ってものがあるけど、それがどの程度か判るまで、和衣ちゃんはどんなに小さなものでも相手に持たせる事が怖くてたまらないんだね・・・」
 普段の賑やかな彼女とは違う、しっとりした響きの声。
 驚いたあたしは不思議なものでも見るような目付きで奈美を見た。
「そんな事って・・・」
 すぐには彼女の言った事は理解できなかった。けれど、何故だかそれが正しいという気がした。
 不意に会話が途切れる。
 ちょっと経ってから奈美があたしを呼んだ。
「ねぇ、カナ」
「ん?」
 知らないうちに俯き加減になっていたようで、思わず顔を上げた。
 ぷに。
 何かは判らないが先の柔らかい棒のような物が左の頬に当たる感触がした。
 あまりに古典的な悪戯だったため、その正体に気付くまで数秒掛かった。
 にやにやとした笑みが目の前に踊っていた。
「やーい。引っ掛かった」
 あたしの視線の存在に気付いた奈美は舌をぺろりと出した。普段隠している素の自分をつい見せた事が今になって急に照れ臭く感じたのだろうか。
 今度はキャハハと笑い出して管理人室の方へ逃げて行く。
 もうそこにいるのは明るくて、少々お喋りだけれど周りの空気まで和ませるいつもの奈美だった。
「こら、待てぇ」
「あはっ、待てと言われて待つコはいないよぉ」
 奈美とあたしは狭い廊下で追っかけっこを続けた。
 なかなか勝負が付かなかったのは奈美がすばしっこいせいもあるけれど、あたしが本気で奈美に突っかかっていかない為もあった。
『和衣ちゃんにはこうやってふざけ合える相手っていたのかな』
 胸の内ではさっきの彼女の言葉がずっしり堪えていたのだ。

 ようやく奈美を捕まえ2人で入った管理人室では、澪おばさんが献立の本と首っ引きになりながら、夕飯のメニューについて検討していた。
 由斗について聞くと、母屋の方で買って来たゲームをやっているという答えが返って来た。
 いつもなら行こうかどうしようか迷う所だけれど、今日は部屋に留まった。
 席についたあたし達2人に、おばさんが仕舞ってあったケーキを出してくれた。
 ケーキの中でも大好物のイチゴショートだったのに、正直味が良く判らなかった。
 あたしの項垂れた姿を洞察力の鋭い澪おばさんが見逃す筈が無い。
 コーヒーを入れながら
「和衣ちゃんの態度は相変わらず?」
「まぁ・・・」
 あいまいとした返事が飛んだ。
 和衣の心はどうにか聞けたものの、前よりも遠く感じるようになった状況をどう伝えていいか判らなかったのだ。
 奈美も彼女にしては珍しく、黙ってケーキをスプーンで削っては口にと含んでいた。事情にあたし程明るくない分、報告しにくいのは彼女も同じらしい。
 ケーキは数が足りないらしく、自分も腰掛けたおばさんは饅頭に口を付けた。
 お菓子が和風のためだろう。澪おばさんだけお茶だ。
 そのお茶をすすりつつ、ふと手を休めて言う。
「和美先生から電話があった話は奏子ちゃんにしたっけ?」
 あたしのスプーンの動きが止まった。
 口の周りにクリームが付いたままの顔を上げて、おばさんを見た。
「ううん、初耳」
 首を振った。
「丁度、奏子ちゃん達が買い物に出た日よ。夜になってから」
 言われて思い出した。
 和衣の“忘れ物”を宅配便で届ける事と、父親である関谷氏の訪問の意思の報告があの時の先生の用件だった。当然おばさんにも電話する。
 実際は忘れ物なんかじゃなかったけれど。
「どうしたの、奏子ちゃん」
 気付くと澪おばさんの怪訝そうな顔がこちらを見ていた。
 手はずっとスプーンを操っていたつもりだったのに、いつの間にかケーキのなくなった所を叩いていた。
 奈美は相変わらず欠片を黙々と口に運んでいた。もうすぐ食べる方は終わりそうだ。
 あたしの様子を見かねたのか、ついに助け舟らしきものを出した。
「おばさま。和衣ちゃん、あたし達を部屋に入れるには入れてくれたんですけど、大事な話は全く教えてくれなかったんです」
「なるほど、元気無い訳だ」
 一旦奈美の席の方角を向いた澪おばさんがちらりとあたしの方へ視線を戻す。それなりに筋の通った奈美の説明に一応は納得した様子である。
 澪おばさんが慰めるように言った。
「まぁ、どういう話をされるか予想が付いていて中に入れてもらえたんだもの。少しは状況が変わったんじゃない?」
「あたしもそう思うんです。カナはそれじゃ不満みたいで」
 一口コーヒーをすすった奈美がおばさんの言葉に相槌を打った。同時に横目であたしを窺った。
 澪おばさんが同情めいた表情のまま、こちらを振り向いた。遅れて奈美も上半身ごとあたしの方へと向けて来る。
 あたしは2人の視線を感じながら、まだ飲むには熱さの残っていたコーヒーをしきりに息で冷ます振りをした。
 注いだ時は忙しなげにカップから立ち昇っていた湯気も、今はそのその勢いを多少ながら失っていた。
 正面に顔を戻したおばさんが
「これからは学校へも行く訳だし、和衣ちゃんも他人を避けてばかりもいられなくなるだろうと思うわ。友達も増えるだろうし、きっとそのうち馴染んで来るわよ」
「そうだね」
 おばさんに話を合わせたものの、内心では消そうとしても消えないもやもやした思いが渦巻いていた。
 明日はもう学校だ。
 本当なら新しい出来事への期待に膨らむ季節なのに、代わりに罪の意識を抱いたままの和衣。
 彼女はどんな学校生活を迎えるんだろう。

 次の日の朝。
 いつもならあたしが起こしに行く筈の新学期の登校も、雪見荘の一番母屋寄りにある食堂に着いた時には由斗が珍しく出掛ける準備をしていた。
「おはよう」
「おお」
「どうしたの、早いじゃない」
「それは、俺も今日から三年ですから」
 由斗が制服のボタンを締めつつ、胸を張った。バタートーストを口で加えている。
 いつもはさらに目玉焼きを追加した状態で雪見荘の玄関を飛び出して行き、後姿を見送る澪おばさんに心配を掛けていた。
 金ボタンを除いて全身真っ黒い学生服。男女共に変哲が無く、どちらも最近では子供達に人気は無いデザインだ。
「和衣ちゃん、洗い物はもうすぐ終わりだから」
 部屋の奥から澪おばさんの声が洩れ聞こえた。
 和衣と聞こえた瞬間、あたしの身体が緊張する。昨日の気まずさが胸に残っていた。
 声にやや遅れて、濃紺のセーラー服に身を包んだ和衣があたし達の方へゆっくり歩いて来た。両の手にこれまた真新しい学校指定の白い鞄を提げている。
 ストラップが付いて一応は肩に掛けられる構造をしているのだが、大抵の女の子はわざとそれを出来るだけ短くして、彼女と同じように前に持った。
 サイズが結構大きいから、何か郵便配達員のようなものを連想させ、肩に掛けたのでは可愛いさを感じないのである。
「お、おはよう、和衣」
 出来るだけ平常を保ったつもりのあたしは、やはり挨拶が幾分どもり気味となってしまった。
 和衣もその理由に気付いたのだろうけど、表面上は何事も無かったように
「おはよう、カナ」
 落ち着いた声で返して来た唇には薄いピンクのリップが塗られている。以前に勧めた時、外に出る時の女のコのみだしなみだと言ったのを真面目に受け取っていた。
 それ程校則が厳しくないから、特に派手な色でなければリップクリームぐらいフリーパスである。
 和衣は一応は微笑のようなものを端正な顔に浮かべていた。
 あたしも対抗するように半ば無理やり笑った。
 その様子を眺めていたのだろう。独り鏡の前で髪を梳いていた由斗が
「2人、あっという間に仲良くなっちゃったのな」
「当たり前でしょ。女の子同士だもん」
 口にしてからあたしは和衣の方をそっと窺った。
 彼女に表情の変化は現れず、相変わらず見る者によってどうとでも解釈できそうな笑みが貼り付いていた。
 クラスメイトや先生などの、事情をよく知らない人間から見れば、きっと彼女が笑っていると思うんだろう。多少は通じているはずの由斗ですらそうなのだから。
 不意に澪おばさんが顔を一旦覗かせる。彼女は由斗の姿を洗面所の前に見つけて怒鳴った。
「由斗ーっ! せっかく和衣ちゃんに起こしてもらったのに、のんびりしてちゃなんにもならないじゃない」
「げっ、母さん!・・・バラすなよな」
 情けない表情に変わった由斗の櫛の動きが途端に速くなった。
 セットもそこそこに、あたし達のいる玄関へと駆けて来た。
 そこであたしの含みのある笑いに遭遇する。
「なぁんだ。そういうこと」
「当然。俺の朝が遅くないわけがないじゃないか」
 さっきあたしに自慢した分少し顔の赤い由斗は、今度は堂々と開き直った。
「あのねぇ・・・」
 厚顔に呆れる反面、由斗のいつもの茶目っ気に触れる事で、たまっていた心のしこりが安心感から多少なりとも溶けていった。
 その為だろう。彼に感謝したくなるくらい、淀んでいた言葉がすんなり出て来た。
 同時にこれまた自然にくすくす笑いを洩らす。
「和衣もこれから大変だよね。由斗ひどいお寝坊さんだから」
「そ、そんな事・・・」
 今まで微笑ばかりしていた和衣の表情が初めて困惑に歪められた。由斗の目を覚まさせるのがやはり相当な苦労だった証拠だ。
 見た目とびっきりの美少女の彼女が懸命に布団の中の由斗を揺すっている図は正直言えばちょっぴり妬けた。
 けど、それよりも和衣とこうして普通に話の出来た事の方があたしには収穫だった。
 気まずさが消えたわけじゃ無い。でも、今は拘らないでいようと思った。
 今度は由斗の方に話し掛ける。
「よかったね、由斗。毎朝美人に起こしてもらえて」
「うっ。でも、明日からの俺は一味」
 母屋の玄関先でようやく靴を履き終えた由斗はそう言って拳を握り締めた。
「ホントに?」
 あたしは目に疑いをいっぱい溜めて彼を見た。
 そう言えば去年の春も同じような事を彼から聞いた覚えがあった。
「お前、信じてないな」
「500円賭けてもイイよ」
 由斗の性格はこれまでの経験で知っているから、ずばりと言ってのける。
 悔しさからあたしを一瞬だけ睨もうとした由斗の視線は、堂々とした目の反撃に遭ってすぐに横合いに逃げて行った。
「・・・違わないかもしれない」
 あたしは言葉を失った。予想通りの展開とはいえ、何だかため息が出て来た。
 彼の身のほど知らずな主張だって本当はおちゃらけているだけだとは知っている。
 けれど、自分で判ってるなら無理に言わなきゃいいのにと思う。
「ふあーあ。今日も朝から賑やかねぇ」
「おはようございます、千早さん」
 パジャマ姿の千早さんが眠い目を擦りつつ廊下を歩いて来る。以前に学校はまだだと聞いた事があるので、今日は早くから何か出掛ける予定があるらしい。
 千早さんは彼女から目を背けたままの由斗をしげしげと眺め
「あんたも幸せね−。こんな甲斐性無しなのに2人も起こしてくれる女の子がいてさ」
 くすぐるようにして指先で背中を突付いた。
「やめろ、バカ! 甲斐性無しってどういうことだよ」
「あんた、自分の稼ぎ無いでしょうが」
「中学生で、ある方が不思議じゃないのか」
 明らかにからかって遊んでいる千早さんを由斗が恨めしげに睨んだ。
「ほー。じゃあ、新聞配達をしていたコなんかはどうなるのかしらねぇ」
 千早さんの顔に意地悪い笑みが現れた。
 由斗にも当然彼女の言わんとする所がすぐに理解できて、返答に詰まってしまう。
 その働き者の和衣はさっきから出発をじっと待っていた。視線はあたし達と時計を交互に見比べている。
 澪おばさんはといえば叱るだけ叱って引っ込んだままだ。息子達を送り出した後も、休む間も無くおばさんには住人達の為の食事の用意が待っている。
 けれども、ここでぐずぐずしていれば、再びおばさんの顔が現れて雷が由斗の上に落ちて来るだろう。
「それじゃ、行ってきまーす」
 澪おばさんに代わって、千早さんに大きく手を振ってもらいながら、あたし達は連れ立って雪見荘を出た。

 桜並木の中、春一番も終わりすっかり穏やかになった風が和衣の新品のひだスカートを揺らした。
 あたし達の学校はセーラー服なので、和衣もあたしも同じ襟の白い三本線が後ろでコの字形を描いたブラウスを着ている。違うといえばあたしが黒で、彼女が濃紺という事ぐらいだ。
 詰襟の由斗は黙ってあたし達の前を歩いていた。
 和衣とあたしは隣同士に並びながら賑やかくお喋りをしている。あたしが話し掛け、それに和衣が答えるというパターンが多かったのは事実だが、それでも季節の事など、幾つかは相槌と共に彼女の方からも話題が提供された。
 そのうちに、学校に続く角を曲がる。すると割と大きな構えの文房具店の前まですぐだ。
 ここで信号が変わるのを他の生徒達と待つ。
 学校前の店らしく、まだ9時前だというのに既にシャッターが上がっていた。
 ここでは学校指定のバッジなども売っていて、店内には買い物をする生徒の姿もちらほらと見えた。
 目の前を自動車がまだ青のうちにと忙しなげに通り過ぎて行く。
 色が断続的に移り変わっていく信号の向こうには学校名を彫った石造りの門が見えている。
 普段ならこの辺りで奈美が追い付いてくるのだが、今日は休み明けのせいか、それらしい人影は話し掛けて来なかった。
 信号が変わった。
 門を潜って真っ先に目に入る大木の根元で和衣と別れた。
 転入生である彼女はここから校舎の職員入口に向かう。校長室では既に転入の準備を整えた校長先生が彼女の登場を心待ちにしている筈だ。
 あたし達の用はクラス編成を示した掲示板にあった。大木から50メートルと離れていない掲示板には既に多くの人だかりが出来ていた。
 他の生徒を押し退けつつ、数枚の張り出された紙を視線で渡り歩きながら、あたしは自分の名前を見つけた。
「3−B・・・江口、奏子。あった!」
「おーい、俺はどこなんだ。まさか、留年かぁ?」
 喚きながら必死できょろきょろする由斗。  彼の奇行のせいで次第に周囲の視線が痛くなりつつある。
 当の由斗よりも連れ立っているあたしの方が恥ずかしさで赤くなっていた。
 目のいいあたしは別の紙に由斗の名前も発見し、呆れ顔で指差した。
「バカ。中学に出席日数以外の留年なんかないでしょ。由斗は3−Fよ」
 言われて由斗が一番右端の紙を眺めた。
 あたし達はA組から順に見ていたのだ。
「残念、別れちゃったね」
 少し経ってからあたしは努めて明るく言った。彼氏というよりも友達に対する言い方だった。
 由斗の見つめたままの視線につられて3−Fの名前一覧を見た。
 当然の事ながらここにも女の子の名前がずらずらと並んでいる。
 それらを見ないようにし、くるりと背を向ける。
「あたし、先に行くね」
 そうして一歩歩きかけた時。
「また、休み時間な」
 びっくりして由斗の方を振り返った。彼は視線を掲示板に向けたままだった。
 平然としているように見えるが、よくみると僅かに頬が赤い。
「おっはよー」
 今までどこにいたのか掲示板を覗いた時には姿の無かった奈美が鞄で背中をドンと突いた。ちょっとだけ苦しくなった息の中でそういえば秋元奈美という名前も3−Bの欄には書いてあった事を思い出した。
 この少しばかり調子のいい親友とまた一年間お付き合いするのはため息が出る反面、素直に嬉しくもあった。
 何にせよ知った顔がいるのは安心できた。奈美とあたしは手を握り合った。
「七瀬とみづきも同じクラスだよ。早弓は3−Aでお隣、夢見だけ3−Fで少し離れちゃった」
 あたしは奈美の説明を黙って聞いていた。仲良しグループのうちの2人が違う組に行ってしまったようだ。
 それでも残りの3分の2は同じクラスなのだから、クラス替えとしては生き残った方なのだろう。
 クラスが別れてしまった早弓や夢見にもいずれ新しい友達が出来るだろうけど、だからといってそれがそのままあたし達仲良しグループの解散を意味するわけじゃない。二人の未来の友人達も招いて、一緒に騒げばいいと奈美は力説した。
 あたしは何度も頷いた。奈美らしい楽天ぶりではあるけれど、そう考えればクラス替えは決して悲しいものじゃなかった。
 去年の夏にみんなでやったパジャマパーティの光景が浮かんで来た。遅くまで好きな本を読んだり、トランプでゲームをしたり。
 このままいけば今年は和衣や他のコ達が加わる。一層盛大になりそうな予感がした。
 あたし達2人は校舎に向かって歩いた。
「それはそうと」
 オッホン! 不意にあたしの顔をじっと眺めた奈美は大仰な咳払いをした。
「和衣ちゃんはどこよ? あたし、彼女の制服姿楽しみにしてたのに」
 聞きようによっては危なくもない台詞を奈美は人目も憚らずに口にした。
 学年の当初とはいえ和衣も一応は転入生だから、校長室に向かった事を教えると
「そーなんだぁ。早くクラスで会いたいなぁ」
「あ、同じクラスなんだ」
 何気なく呟いた途端、奈美のいぶかしむような視線を感じた。
「どうしてぇ? 手を回してくれたのカナのお母さんでしょ?」
「そうだけど・・・」
 肯定というには弱い頷き方をした。
 あたしは由斗とのどさくさでクラス編成の紙を全部は見られなかった事を彼女に伝えた。
 一旦掲示板の方を振り返る。多少の距離があるとはいえ、人だかりが先程よりも小さくなっているのが、校舎近いここからでも見て取れた。
 時計は8時15分。もうすぐ予鈴が鳴る。

 講堂で式の始まる少し前、和衣が担任の教師に連れられてあたし達のクラスに案内されてきた。
 掲示板のクラス編成も見ないで真っ直ぐ校長室に向かった和衣は、周りが知らない人ばかりになるのが密かに不安だったらしい。教室の丁度真中付近に見慣れた姿を見つけた時、自分では気付かなかっただろうけど瞳に安堵の光が見られた。
 綺麗な女のコが現れたのを知って、まず男子が色めき立った。
 教壇に上がった先生は自分の名前から紹介した。
「増崎哲治。理科を担当します。よろしく」
 大きさの揃った角張った字を黒板に書いた先生はそれ以上余計な説明をしなかった。
 増崎先生、それとここにいる生徒たちで一年間3−Bは運営されるのである。
 先生に付き従うように教室に入って来た和衣の容貌に、男子だけでなく女子の注目も集まっていた。
 先生は白チョークで今度は和衣の名前を大きく書き上げた。
「互いの自己紹介は式の後のホームルームで行って貰う予定でいますが、簡単に紹介だけしておきます。今度初めてこの学校で学ぶ事になったお友達で、関谷和衣さんです」
 関谷という苗字を聞いて俄かに男の子達が騒ぎ始めた。彼等も和衣の正体に薄々ながら気が付き始めたのだろう。
「あのコ、もしかしてさ・・・」
 誰かが後ろの方で別の子とひそひそ話を交わしていた。
 ただ、明確な自信は持てていない雰囲気である。
 先生の実家はここから遠く離れた別の県にあり、まだ中学生の妹がいたとしても通常なら県外の市立中学に通う筈がないからだ。
「関谷和衣です。この街に来てからまだ間が無いですが、一年間よろしくお願いします」 いかにも転入生といった殆ど型通りの挨拶を終えた和衣は丁寧に頭を下げた。
 和美先生に良く似た彼女の容姿で別の場所から来たと聞けば、意味するところは一つだけで、すぐにクラス中から悲鳴に近い驚きの声が上がる。
 囁きというには大きすぎるそれが教室のあちこちで聞かれた。
「うそ! あのコ、本当に関谷先生の?」
「ちょっと若いだけで、見た目そっくりじゃんか」
「あー、静かに」
 途端にうるさくなった生徒達を見て、先生がパンと手を叩いて来た。
 すぐには効果が見られず、先生は我慢強く何度も叩き合わせた。
 けれども、詳しい説明を生徒達の方も求めていて、賑やかだった教室が次第にざわめきから解放された。
「みんなの思っている通り、関谷和衣さんは去年の終わり頃までこの学校に勤めておられた関谷先生の妹さんに当たります」
 やっぱりという声がそこかしこで上がる。
 そろそろ体育館へ移動しないとまずい時間になりつつあったが、誰も式の事なんて思い出さない。
 腕の時計で時間を確認した先生は、続きは式の後のHRでしましょうと無理やり話を打ち切ってしまった。それから廊下へと生徒達を誘導した。
 さすがに始業式に遅れては今日の登校が意味を為さないものとなる。皆不満を露にしつつも適当に列を組み、幾つかの塊になってぞろぞろと移動していく。
 列の前の方で和衣は何人かの女生徒に捕まっていた。あたしのいるのは少し離れた真中辺りなので話し声は所々にしか届きにくいが、身振りから判断する限りでは何とかいつもの調子で受け答えしている様子だ。
「あたし達も前に行こっ」
 勢い込んで奈美が戸惑うあたしの手を引っ張る。そのままクラスメイトの海を掻き分けて、和衣の所まで連れて行かれた。
「かーずいちゃん!」
 和衣達の後ろに付くや否やすぐに声を掛ける奈美。
 思った通り今まで女の子達から質問の嵐だったらしく、振り向いた和衣があたし達の姿を見付け、心なしか頬の緊張を緩めた。
 あたしも少しだけホッとしたものを感じた。
「あのー」
 熱心に和衣に話し掛けていた様子の彼女達は、どうみても和衣の知り合いであるあたし達の登場に、一様に怪訝な光を向けて来る。
 あたしと奈美は彼女達に対し一足早く自己紹介をする。
 紹介が済むと和衣とどういう関係か真っ先に聞かれた。和衣が幼馴染の家が経営しているアパートに間借りしている話になると、羨望の瞳に変わって自分達も遊びに行っていいかと言い出した。
 和衣は少し困った顔を見せていたが、あたしは気付かぬ振りをしていた。
 昨日の奈美の話じゃないが、今の和衣に必要なのは友達だ。元来が積極的に他人と関わるタイプじゃ和衣はないだけに、好奇心とはいえ向こうから近付いて来てくれるコの存在は結構貴重だろう。
 人に囲まれていれば、多分和衣も余計な考えに浸る暇が無くなる。早速今日の帰りにでも雪見荘に案内すると約束し、あたしは言うなれば和衣をエサに新しいクラスメイト達と仲良くなった。

 放課後。
 あたしも含め、総勢8名の女の子達が3−B前の廊下にたむろしていた。その中には新たな友人達の姿も混じり、全員が雪見荘に行くつもりでいた。
 後は奈美と和衣が揃えば出発が可能になる。そのうちの奈美はお手洗いに行くついでに和衣を探すと登紀子に言い残したきり、どういうものか戻ってこなかった。
 かれこれ15分近くが経とうとしていた。居並ぶ友人達の顔にさすがに隠しようの無い苛立ちが入り混じった。
「遅いなぁ、ナミ」
 さっきから渡り廊下の方を窺ってばかりいる東野桐子が呟いた。
 登紀子と同じで新しいクラスメイトである。
 登紀子が割と幼い顔立ちなら、桐子は整っているがきつめの容貌の持ち主だ。それに相応しくなかなかに勝気な少女で、既に奈美の事を呼び捨てにしていた。
 登紀子の方を表情を強張らせて振り向いた。
「トキ、本当に関谷さんを見たの? ナミにはどう伝えたのよ」
「だから、あたしがお手洗いに入ろうとしたら、関谷さんが渡り廊下を歩いて行ったの。奈美ちゃんにだってそう話したもん」
 登紀子が桐子の態度に怒って、でも少しびくびくした調子で説明した。
 彼女達も2年からの付き合いだそうだが、はきはきした印象を受ける桐子の方が立場的に上らしい。
「あちらに幾つ部屋があると思ってるのよ、もう。・・・はぁ、ちっとも戻ってこないわけだ」
 呆れ顔の桐子のコメント。もっと反論したくても彼女に対する負けが身体に染みついているのか登紀子は悔しそうに項垂れていた。
 その様子に七瀬がさりげなく助け舟を出す。
「お喋り好きの奈美の事だから、どっかで話し込んでいる可能性だってあると思う。もう少しだけ、待ってみない?」
「まぁね・・・」
 意外に素直に桐子が頷く。他の人間が苛々していてもそれなりに冷静さを保った中で、自分一人が当り散らした事実が気まずく思えたのかもしれない。
 奈美の今までの行動パターンを考慮に入れると、あながち七瀬の推測も冗談とは言えないところがある。
 やはり、誰か呼びに行くべきだろうか。
 ふと周りを見ると、一番気の短そうな桐子が相も変わらず苛ついた表情で渡り廊下の大してない人通りを眺めていた。
 幾ら慣れない学校の中だといっても、迷子になれるような広さは無い。なのに和衣ときたらどこに行ってしまったんだろう。
 そう気の短い方でもないのに、何故か自分自身が待ちくたびれていたあたしはみんなに告げた。
「ごめん、先に行っててくれる?」
 少ないが七瀬やみづき達を連れて雪見荘に遊びに行った事があった。
 あたしは今一度彼女達に口頭で雪見荘への行き方を教えた。
 別に難しい道順じゃないので、すぐに七瀬達は納得した様子になった。
「ずぇったい、関谷さんを連れて来てよ」
 夢見が何度も念を押す。彼女はHRが終わるや否や飛んできた口だ。
 その都度「判ってるってば」と答える。
 回数はずっと少ないが、夢見と同じ事を早弓も口にした。
 もうあちらこちらで和美先生の妹が現れたというのが噂となっているらしく、さっきから他のクラスの生徒達が密かに和衣の顔を拝みにやって来ている雰囲気だった。
 中には堂々と関谷という女の子はどこか、聞いてくる男の子の姿も見られ、賑やかな訪れに改めて和美先生が生徒の間で慕われた存在であったと確認した。
 和衣の自己紹介は名前と先生が姉であるのを自分の口から告げただけの、簡単なものに終わっていた。他は趣味も何にもなしだった。
 しかし物静かな美少女ぶりが、容貌は同じでもくだけた先生とはまた違った魅力をクラスの男の子達の目に植え付けたようである。
 和衣は学校のみんなを避けるつもりでも、みんなの方はどうやら彼女を放っておいてはくれなさそうだ。

 渡り廊下の窓は大きく、昼近くの今はただの通廊とは思えないぐらい、南から入って来た陽光に満ちていた。
 この先の建物は何かの科目の資料を置いてある部屋か、実習室が殆どだ。授業の無い今日は部活に励む生徒、それに職員室がある為先生達が通るのみである。
 その職員室の前に来た。
 ここにある掲示板には4月の予定が細かく書き込まれている。その隣には色々な張り紙も並んでいる。
 少しの間足を止めて内容を見ていたあたしは一人の先生が通りがかったのに気付いて、彼女に声を掛けた。
「あのー」
「はい?」
 プリントや冊子を抱えた先生は、すぐににこやかな笑みで応対した。
「女の子を探しているんですけど」
 あたしは和衣の特徴を伝えた。
「ああ、関谷先生の妹さん! 彼女なら金城先生に用があったみたいで、2人でどこかに行っちゃったわ」
 合点のいったらしい先生は急いで職員室へ入っていった。
「すみませーん。ちょっとお尋ねするんですが」
 女の先生は親切に職員室にいた他の教師にも和衣達の行き先を知らないか聞いてくれている。
 みんな自分の仕事で忙しいらしい先生達は殆どの人が他の先生の動向など判らない様子だったが、一人だけ年配の先生が
「そういえば進路相談室がどうとか口にしていたな。きっとそこだろう」
 あたしはなる程と思った。
 建物の隅に位置していて、進路だけで無く生徒の悩み相談にも時折使われている進路相談室。2人だけの会話をするにはまさに打ってつけの場所だ。
 すぐに先生達に礼を言った。

 進路指導室のそばまで走りながらあたしはさっき耳にした金城先生という名前に、ある光景を思い出していた。
 あの日もちょっぴり感じたけど、やっぱり本当の意味で和衣と先生は初対面じゃ無かったらしい。
 進路指導室の前で、出て来た和衣と遭遇した。
「いたっ」
「・・・カナ?」
 あたしの姿を見つけた途端に彼女が現実に立ち返って顔色を変える。
 形の良い唇を薄いピンクに彩るリップが、丁度別の唇の形に一部取れていた。
 その唇を隠すようにパッと下を向いてしまった彼女は当然あたしの目を見ない。
 室内には明かりが灯っていた。
 まだ奥に誰かいるのだろう。恐らくはリップの一部付いた金城先生が。
「一つだけ訊いていい?」
 あたしは出来るだけ声の震えを和衣に見せないようにして訊いた。
 ずっと俯いたままの和衣はどう答えていいか考えあぐねているように見えた。
 やがてそのままで小さく頷いた。
「和美先生と金城先生って付き合ってたの?」
 応えるまでに再び間が開いた。
 それでもはぐらかしたりはせず、同じように首を振った。
「ばかっ」
 感情のままにあたしの手が動いた。それを見て和衣は頬を叩かれると瞬間的に悟ったようだ。
 思わず目をつぶった彼女を、急に手の動きの止まったあたしは黙って見ていた。
 徐々に彼女が瞼を上げる。
 それに気付いた途端、自分の背中を彼女に向ける。
「行くよ。雪見荘でみんなが待ってる」
 あたしは彼女が付いて来てるかどうかも確認せずに、元いた校舎の方に向かって歩き出した。
 その和衣が追い付いて来た。そして言った。
「カナ・・・・ごめんね」
 和衣がどういうつもりで謝って来たのかは判らない。ただ、もうこの話題には触れて来ないだろうという予感がした。
 素直に聞けばまた展開も変わったのかもしれないけど、それは無理な相談だった。
 今だから理解できる事だけれど、あの時のあたしが腹を立てたのは和美先生や和衣の事を思ってだけではなかった。
 嫉妬していたのだ。キスを受けた金城先生にではなく、遠く離れながら今なお和衣の心を縛って放さない和美先生に。


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