三角方程式

文 West

第3章 涙に濡れた決意

 4月も初めとなって、和衣の制服が届いた。
 急な事でぴたり身体に合うものが店で見つからなかったものの、造りが多少縦に長い他は特に変わったサイズを必要としない様子で、スカート丈を多少伸ばすくらいで後はほぼ既製品のままでOKだった。そうでなければ3月下旬に注文してとても新学期に間に合わすのは難しかったと思う。
 買う時に冗談で、いっその事折り曲げてミニにしてはどうかと提案してみたところ素直に頷いたので、聞いたあたしの方が却ってびっくりしてしまい、まじまじと彼女を見つめた。
「だって、約束ですから」
 ちょっぴり口を尖らせ、小さい子が拗ねる時のような表情で和衣はそっぽを向いた。
 すぐには何の事か判らなかったが、やがてピンと来た。服選びで賭けに負けた彼女は以来「お洒落に関して他の人のアドバイスを素直に受け入れる」という項目の実施を常に念頭に置いているらしい。
 暫く付き合ううちに、例え意に染まぬ成り行きでも約束を反古にするのは何よりも和衣の苦手とするところだと判った。あの日も、すっかり和衣を女と思い込んだ20代の店員が澪おばさんに「可愛いらしい方だけにとってもよくお似合いですわ」としきりに囁くのを恥ずかしさに頬を染めながら黙って聞いていた。
 今あたし達の前には落ち着いた装丁の箱が置かれている。あたしとおばさんの期待の篭った眼差しを受け、暫く箱をを見つめていた和衣は、やがて決心が付いたのか店名のロゴの入った包装紙の一部にはさみで切れ目を入れた。
 包装紙を全て取り払うと、いかにも新品そのものといった紺のセーラー服の上下が誇らしげに姿を現した。最近はセーラーと言ってもチェックなどの一風変わったデザインのものが流行りらしいが、名門でも何でもない公立の中学の場合は流行などどこ吹く風である。
「ほら、早く着てみせてよ」
 澪おばさんと口を揃えて箱の中身を押し付けた。
「構いませんけど、店で着たのと同じですよ?」
「スカート丈を直したでしょ。多分大丈夫だと思うけど、念の為にさ。もしダメな場合はあたしが直すから、ね、お願い」
「そういうものなんですか? わかりました」
 和衣は立ちあがって、セーラー服を頭から被る。一応は購入を決めた時に一揃い身に付けたので、身に付け方に戸惑うような素振りは見られなかった。
 やがて一足早く新学期を迎えた女子中学生が現れた。元々体毛の薄い体質の和衣の場合、少し毛を剃ってやるだけで女のコの手足になる。本を相手に部屋に閉じこもってばかりのせいだろう、まだ糊の利いたプリーツスカートの下から覗くすらりと伸びた2本の棒はため息が出るくらいに色白で、それでいて不健康な感じはしないからついついこっちが見惚れてしまう程だ。
 しいて難をあげれば、大人びて映るせいでこれから3年になるというよりは卒業したての生徒のように見えてしまうところだろうか。それだって裏を返せば高校生のお姉さん達の着ているような服が違和感なく着られる事に繋がる。
「いいなぁ、和衣。お姉さんぽくって」
 和衣とあたしじゃ、どうやっても同じ年には見えそうも無い。判ってはいるのだけどついつい羨望の篭った瞳を向けてしまう。
 元々女の子の姿で出会った為だろう。一週間も経つとあたしは特に意識しなくても和衣とふざけ合えるようになっていた。よくは判らないけれど、姉妹がいるとこんな感じなのかもしれない。
「そんな事ない! カナは小柄だし、充分可愛い」
 あたし達二人の遠慮の無い視線に晒され、随分と困惑した様子の和衣だったが、慌てて否定した。可愛いの所を特に思いっきり力説したせいか、脚と同じでやはり色素の少ない頬が随分紅潮していた。
 和衣があまり真剣に言うものだから、彼女が男の子であるのを急に意識して、何だか告白されているような気分になってしまった。それをくすぐったく感じた反面、自分でも気付かないうちに頬が熱を帯びた。
 胸の内で淀んで固まっていたものが少しだけ溶けていく。
「ありがと、和衣。お世辞でも嬉しいよ」
「お、お世辞なんかじゃ」
 幾分眉を吊り上げ気味にしながら色付きリップを乗せた唇を尖らせた。見た目透明なリップは唇の保護だけでなく塗った途端に薄いピンクに色づく仕組みになっていて、休日だけでなく学校帰りにもいきなり遊びに出る時などに使えるスグレものである。勧めたのはあたしだ。
「わかってる。そういうタイプじゃないもんね」
 和衣は安心した様子で大きく頷いた。
 ピンクのリップに彩られた彼女はほんのちょっぴりだけど幼い感じがする。普段はどこか距離を置いた感のある彼女がその時だけ近くなるように思え、それがあたしは気に入っていた。
「あの・・・もう脱いでも」
「ダーメ!」
 彼女の恐る恐るの問い掛けにおばさんとあたし、二人の声が重なった。特に澪おばさんの声が大きく、一時間近くはこのままの格好で居させるつもりじゃないかと思えた。
 とうとう観念したのか和衣はそれ以上口を開こうとせず、代わって外の景色を眺めた。おばさんは彼女が大人しくなったのをいい事に、ロングヘアのウィッグをいじり始めた。
 あっという間に丁度肩にかかるぐらいの綺麗なお下げが和衣の後ろで揺れ出した。
 出来あがった姿をおばさんが鏡で見せたが、目立った感情の動きも見せずに、すぐに外の景色の方へと視線を戻してしまった。
 急にドアが少々乱暴にノックされた。
「おーい、母さん。まだぁ?」
 いい加減お腹の空いて来たらしい由斗が2度目の催促に現れた。丁度制服が届いた頃、起き出してやって来たのだが、和衣にそれを着せる事で頭がいっぱいのおばさんに冷たくあしらわれたのだ。
「もうダメ、限界。俺、カップラーメンで済ませるから。じゃ!」
 一瞬足音が遠ざかる。
「待ってなさいよ、すぐに行くから」
 名残惜しげにおばさんは和衣の髪から手を放すと、素早く扉を開けた。
 不平不満を口にしつつも律儀に扉の方を向いて待っていたらしい由斗の視線が、和衣の制服姿が目に入った途端、釘付けとなった。予想外の相手に制服姿を見られて多少は和衣も動転したのか、白かった頬が桜色を増した。少し俯き加減の姿勢に変わる。
 暫くしてから
「せ、関谷?」
「綺麗でしょ、和衣ちゃん。ほら、あんたも何か言ってあげなさいよ」
 おばさんが呆然としている由斗を腕ごと部屋の中へと引っ張り入れた。
「いや、綺麗は綺麗なんだろうけどさ、でも、その、だな・・・」
 その先は言わなくても判っていた。雪見荘の関係者の中で由斗だけが和衣を女の子扱いするのに難色を示していた。普段なら住人になった時点で女性を呼ぶ時は名前の方を用いる習慣の彼が、和衣の事だけは“関谷”と姓の方で呼ぶ。
 始めは注意していた澪おばさんも近頃は諦め顔の様子で眉だけを顰めた。それでも由斗なりには女の姿をした男の子の存在と折り合いを付ける努力を重ねてはいた。少なくとも面と向かって排斥はしない。
 本来ならもっと和衣は雪見荘に溶け込んで来てもいい筈なのに、越えようの無い境界線の存在を時々感じるのは、和衣の方にも原因があるのかもしれない。
 和衣はまた外を見ていた。
殆ど瞬きによって隠れる事が無い二つの瞳が、昼の日差しを反射しつつ見据えるように風景の一点に固定される。
気になるのは目の焦点が合っておらず、建物や木々の向こう、実際には存在しない物をぼんやり眺めているようにも感じて、遠くの霞んだ景色と同じで彼女の身体がこのまま見えなくなってしまうんじゃないかと思った。

 和衣の父親である関谷孝彦氏が雪見荘に姿を見せた日は、その前後の晴れ間続きからは想像しがたい程の雨が夜まで続いた。普段なら家族と住人の洗濯物で占領される物干し竿の上を雨粒がぶつかってはすっと流れて行った。
 まだ桜の見頃は先とはいうものの、この雨で咲き掛けた蕾が散ってはしないかと澪おばさん達はこぼした。実際電話をもらってからここにやって来る時も比較的強い雨脚に幾つかの枝がしな垂れていたのを記憶している。
 午後に現れた和衣の父親は電話の剣幕から予想されるようながっしりした体格の所有者ではなかった。和衣と同じで男にしては華奢な体型に薄地の既製品の背広を着込み、顔立ちこそ違うがいかにも医師といった様子で真面目な印象を受けるのは同じだ。
「愚息がご迷惑を掛けます。あれのわがままに付き合って頂き、皆さんにはお礼の言葉もありません」
 深々と頭を下げた。思っていたのとは違う父親の容姿と態度に戸惑いを感じたのはあたし一人だけではなかった。さんざんやりあった澪おばさんもまた、怪訝な表情で相手の挙動をつぶさに観察していた。
 けれども、さすがにそこは腕一つでアパートを切盛りしている存在である。すぐによそ向けの笑顔に戻って告げた。
「そんな。素敵なお嬢さんで、随分とここも賑やかになりましたわ。立ち話もなんですので取りあえずは上がって下さい」
 お嬢さんという表現を耳にした途端、礼儀正しかった関谷氏の眉が僅かに顰められた。対する澪おばさんは気付いたのか気付かない振りをしているのか、笑みを絶やさずに相手を見据える。
 二人が笑顔で探り合ってから長い時間が経ったような気がしたが、実際はそれ程経過してなかったと思う。
「それではお言葉に甘えまして」
 関谷氏は再び頭を下げた。第一ラウンドはそれで終わった。

 直接202合室には向かわず、おばさんに付いて関谷氏は管理人室へと招き入れられた。和衣と面と向かって話すと互いの感情が噴出しかねない事への配慮だ。いるのは澪おばさんに由斗、それにママとあたしの四人である。
 ここでのお茶菓子はケーキが多いのだが、さすがに中年の男性では舌に合わなかろうと、おばさんはどこからか引っ張り出したあられの詰め合わせをテーブルの上の籠に空けた。
 関谷氏はそれでも手を伸ばそうとせず、どこから話を切り出してよいか判らない気まずい沈黙が皆の頭上を流れて行った。
 来客用のガラス細工の灰皿は今はテーブルの隅にちんまり置かれていた。おばさんが差し出そうとした途端、右手で制する格好で申し出を辞退した。
「煙草は口にしません。自分の健康だけでなく、院内の空気まで悪くしますから」
 その後で、患者の健康を預かる以上それくらいは当然の事だとあっさり付け加える。
 医者の不養生という言葉が存在するくらいだから、彼の態度が立派なのは間違い無い所だ。
 けれども、にべもなく申し出を断ったことで、おばさんとの話し合いの妥協点を見出す気がないようにもあたしには見て取れた。
 やがて呟くように言う。
「電話では失礼な事ばかり申し上げたようで、済まなく思っています」
「いえ、私の方も随分感情的になってしまって」
「あれは元気でやってますか。姿が見えないようだが」
 一旦お茶を運ぼうとすっと立ち上がり掛けたおばさんは関谷氏の質問に
「2階の自分の部屋です。その気になれば来ると思います」
 宣言にも似た言葉を聞きながら数日前の会話を思い起こしていた。
 父親に会わないと決めた彼女に不安なあたしは念を押した。
「和衣、本当にいいの?」
 和衣は黙って首を縦に振った。
「会おうがどうしようが同じだもの。親権を行使されれば、向こうは私を連れて帰る事だって出来る。そうじゃない?」
 実現すれば悔しいだろうに表情はそのままで淡々と口にする。
 将来就こうとする監護士という職業についてあれこれ言われる事よりも、自分が未成年である事実のせいでここを追われる方が和衣には気がかりな様子だった。
 ただそうならない希望はあった。家賃の代わりにおばさんの手伝いをするというのが入居の条件なので、契約事項にそんな内容は記載しようがないから正式な書類は交わされていない。法的な契約の有効無効性について争おうとしても無意味だという事だ。
「呼んでは頂けないのですか」
 この程度の抵抗は父親として予想範囲内だったのか、穏やかに食い下がる関谷氏は驚いた風も見せない。当然、おばさんとママの双方から睨まれても、一向に動じた様子は無かった。
 あたしは確信した。容姿の方はそうでないかもしれないけど、和衣の融通の利かなさはきっと父親似だ。
 だが、澪おばさんだって精神面の強さでは負けてはいなかった。一口に大家といっても雪見荘のような若い女性の集まりのような所は、住人の気に障る面が目立ってくればすぐに閑古鳥が鳴く。
 今までにここが気に入らないからと出て行った女性は他の住人とのトラブルを除いてあたしの知る限り無かった。それだけ澪おばさんが住人とのコミュニケーションに心を砕いていた事になる。
「和衣さんにはお父様がいらっしゃる事は既にお伝えしてあります。その上で部屋から出る出ないは本人の意思だと思います」
 口調を荒げはしないが、内容ではっきりと撥ね付けた。
 おばさんの口から語られる和衣の決意を、父である関谷氏は黙って聞いていた。殆ど表情の変化の無い顔がこちらに向けられた。
 色々と考える所はあるだろうが、朝夕の凪いだ空気のように、それらは決して表面に現れる事がなかった。
 暫くしてから再び余所行きの笑みを貼り付かせ、頷いた。
「なるほど。一理あります。ならばこちらからも少々お尋ねしたい。よろしいですか」
 表情に含みがあった。凝視される格好になったおばさんの方も自分からは視線を外そうとしない。
 おばさんも彼と同じような笑顔を作って言う。
「構いませんわ」
「ありがたい。ではお尋ねしますが、今の生活を当の和衣が望んだものか、その辺りはどうお考えですか?」
 次第に落ち掛けていた眼鏡のフレームを関谷氏は右の人差し指でぐいと押し上げる。和衣と比べると幾分黒の薄めな瞳がレンズ越しでも見て取れる程に強い光を放った。
 返答次第では深く切り込むつもりでいるのだと、急に回数の少なくなった瞬きを見ながら考えた。
「和美先生からは女の子として暮らしてみたいと言ったとお聞きしましたが、当人の態度からすれば、とても女の子になりたかったようには見えません。多分、お父様へのあてつけのつもりの方が大きいと思います」
 弾かれたようにあたしはおばさんの横顔を見た。
 ふと右隣を窺うと、ママもまた、同じような表情のまま父親と睨み合っていた。
 その頃あたしが気になり出したのと同じ疑問を、ママとおばさんはとっくに感じ取っていた。ただ、あたしと違い、職業柄他人との経験が豊富な二人は和衣が実際には女の子の生活を望んでいる様子がないと知ってもそ知らぬ振りで接していた。
 おばさんが断言した。
「でも、家を出てそういう暮らしをしようとした決意そのものは本物だと思っています。ですから、相手が親御さんとはいえ、彼女の意思を無視してお返しは出来ません」

 あの後、自分達二人だけで和衣について納得していた事に随分腹を立てた。けど、思えばあたしが彼女と仲良くなるよう色々手を尽くしたのだって、どこか危うい和衣が自分自身の殻に閉じこもる隙を与えないという二人の作戦だったんじゃないだろうか。
 澪おばさんの、一歩として譲らない意思表明の後、関谷氏は暫く沈黙の中にいた。
 視線がテーブルの上をさ迷った。
「あの・・・失礼ですけど、和衣が看護婦になるの、何でそんなに嫌なんですか? やっぱり男の子だから?」
 考えてみれば、奇妙な質問だった。電話での激しいやりとりによって相手の関谷氏が男女の社会的性差に厳格な性格だと受け取れたから、長男が女として生活している今の状況が理解し難い事は容易に予想できた筈なのに、気付くと口から飛び出していた。
 思っていたよりずっと礼儀正しい態度に、その時のあたしは何か別の要因の存在を感じ取ったのかもしれない。
「・・・それを言うなら看護士だろ」
 由斗が横合いから呆れ顔で訂正する。
「どっちでも同じでしょ、今の和衣の場合」
 幾分声に刺が生えた。前触れも無く茶々を入れて来た由斗をあたしは恨めしげに睨んだ。普段見せない彼の姿にどきどきする反面、何故か腹立たしさを覚えてしまった。
 おちゃらけた姿ばかり見せているくせに、こういう場での由斗は真面目だった。大家の息子として昔から客を相手にして来ているだけに当然の応対ではあるが、変に冗談も言わない彼を見ていると、今だけ子供の頃に戻ったようだ。
 大人の受けも良くて、いい子ぶっていると陰口を浴びた程の優良少年がいつから軽口を叩けるくらいに軽くなったのか、不思議でならない。
 あたし達のいかにも幼馴染らしい遠慮の無いやりとりを黙って見ていた関谷氏は、二人が黙ってしまうと先程の質問に答えて来た。
 但しあたし達の期待したそれとは大きくずれていた。
「全ては私のふんぎりの悪さが原因なんですよ」
 顔を上げた関谷氏の、殆ど日焼けしていない顔に自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「え?」
 それ以上答えらしきものは得られなかった。
 腕の時計を眺めた関谷氏はいきなり立ちあがって
「申し訳無いがこれでも結構多忙な身でして、これで失礼します」
 その瞬間貼り付いていた皮肉な笑みは消えた。あるのはいかにもよそ向けの、あたりさわりのない笑顔だ。
 垣間見せた父親としての姿が、再び威厳ある医者になり変わっていった。
「いいんですか?」
「本人が望まぬ限り会う権利が無いと言ったのは立石さんご自身でしょう?」
 にべも無かった。彼は振り向く事無く告げた。
「来て良かった。立石さん、江口さん。和衣のことよろしくお願いしますよ」
 かなり長い事正座を続けていたというのに、畳を踏みしめる足取りは全く乱れていなかった。院長という立場上、招かれて正座する機会も多いのだと思う。
 呆気に取られたあたし達を置き去りにしてドアの方へ進んで行く。
「関谷さん」
「和衣に伝えて下さい。もはや何になろうと構わないが、絶対に衣美(えみ)の真似だけはするな、と」
 歩みを止めて振り返った関谷氏はそれだけを告げると、再びドアの方へ向き直った。
 男の人としてはあまり横幅の大きい方では無い背中に気になったおばさんの質問が届いた。
「失礼ですけど、衣美さんというのは」
「あれらの母親です。もう生きてはいないですが」
 一旦はノブを回そうとした手を戻し、振り向かずに関谷氏は淡々と告げた。
 “亡くなった”と単に事実を告げるのではなく、“生きてはいない”という否定形での表現。落ち着いたように受け取れる口調が却って心にしまったままで古ぼけていない奥さんへの想いを皆に感じ取らせた。
 澪おばさんの表情が見る間に萎れて行く。
「ご、ごめんなさい。私ったら・・・」
 謝る後ろの方が掻き消えた。相当に自分を恥じているらしい。
「いいんですよ。それより和衣の事、頼みましたよ」
 もう関谷氏は完全に来た時の顔に戻っていた。再び念を押した。
 そのままおばさんが玄関まで送って行き、関谷氏との話はそれで終わった。

 ママ達との相談により会話の経過はあたしが話しに行く事になった。大勢で押し掛けて行っても頑なな態度が余計に硬化する恐れがあるからだ。
 鍵の類は下りていなくて、左に回すと木製のドアがゆっくりスライドする。
 中で息が飲み込まれる気配があった。勢い良く引き出しのようなものが閉じられた音がした。
 首だけをこちらに向けて、何かを隠したそぶりの和衣が驚愕につぶらな瞳を更に大きく見開いた。
 不安な顔で彼女はあたしの行動を見守っていた。あたしは入っていいとも聞かず、すべるような足取りで中に進み入った。
「おじさん、帰ったよ。和衣に会えないで残念そうだった」
 ドアを静かに閉める。和衣が何も言ってこないので、関谷氏と会話の内容をかいつまんで伝えた。
「和衣をよろしくお願いするって。何になろうが構わないってさ」
「そうなんだ」
 和衣はほっとした様子だった。首のねじれを直して再び前を向いた。
 けれども、端正な横顔の映す表情は何故か思った程は明るくならなかった。
 しばらく時が流れた。
 感動がどういうものかすっと表に出て来ない彼女の態度が気になった。看護士が本当に将来の目標なら、ずっと反対していた親の承諾は、例え消極的なものでも夢の実現には大きな一歩となる。派手な喜び方はしないにしても、もっと嬉しそうな顔は見せてもいい筈だ。
 関谷氏が来てから帰るまで30分以上あった。その間中和衣はここで何をしていたんだろうか。
 彼の残した“衣美のようになるな”という言葉、あれは何を意味するのだろう。
「ね、和衣のお母さんって」
 どういう人かと聞こうとしてそれ以上口に出来ずに唇の動きが止まってしまった。名前を出した途端、今度は激しい動作で椅子ごと振り向いた和衣の、詰るような視線が目の前にあった
 明らかに母親の話は彼女に対する禁忌と思わせる豹変振りだった。
 しばらくしてから自分が現在どういう形相でいるか気付いた和衣は、きつくなっていた表情を徐々に緩めた。
「父さんがみんなに教えたの?」
 垣間見せた刃物を身にまとったような雰囲気はすっかり影を潜め、普段の穏やかな彼女に戻っていた。
 聞かれたあたしは頷こうかどうしようか迷った。今が凪いでいる分、一瞬だけ吹き荒れた嵐が頭に付いて離れなかった。
 母親の事を出しておいて言うのもなんだが、“衣美のようになるな”という忠告だけは告げない方がいい気がした。
 両親とも健在で夫婦仲の良い家庭に育ったあたしには、彼女のような片親の子の苦しみは本当の意味では知る事が出来ないと思われた。おまけに和衣の場合、残った方と冷戦中なのだから、事態はより一層捩れてしまっていた。
 下手をすればさっき見せた形相など及びも付かないような大爆発があたしを襲うかもしれないという恐れがあった。
「和衣に似てきれいなお母さんだったんだよね」
 答えることが何かの問題となる可能性があるなら、その事を言わないでそっとしまっておくしかない。考えた末、ここははぐらかす事に決める。
 言った後で、実は男の子の和衣に母親似というのは誉め言葉にならないかもと気付いたが、当の彼女はそんな事は問題にしていない様子だった。
 少し経って呟いた。小さい子供が拗ねたような口調だった。
「知らない。私が3歳の時に亡くなったもの、声だって覚えてない」
 言われてあたしは先生が告げた内容を思い返していた。和衣が物心付かないうちにと先生は言ったが、亡くなったのが3歳の頃とは思わなかった。
 言葉を失ったあたしに、微かに震えた声で言う。
「父さんが何を言ったかは知らないけど、私は母さんの事なんて何にも覚えてないの。私にとっての母さんは・・・」
「母さんは?」
 反射的に訊き返した。初めて彼女の口から母親の事が聞けるという期待に、思わず顔を寄せた。
 ただの好奇心といえば間違いだが、興味が無かったといえば嘘になる。結局は思いやりばかりでは無いその態度が折角開き掛けた彼女の心を閉ざしてしまった。
 話すつもりの無かった事まで洩らした自分にしまったという顔で、それからは押し黙ったままで和衣は下を向いていた。
 あたしが何度なだめすかしても対応は変わらなかった。それでとうとう諦めて、202号室を後にした。

 管理人室で報告を待っていた澪おばさんとママに、会話の内容について話した。と、いっても、和衣にすぐに態度の硬化が見られて、父親からの許可を得た事しか和衣に伝えられたものは無かった。
 あたしはやりきれない反面、腹を立てていた。どんな複雑な事情があるか知らないが、ああやって積極的に手を差し伸べようとする人間までこの先も避けていくつもりなんだろうか。
 一週間以上ここで暮らして、あたしは難しいにしても澪おばさんの人柄ぐらい充分理解できたろうに、和衣はあたし達に対して心の壁を少しも取り除いていない。あくまでも“他人”なんだ。
 机の中に入れたのは知っているから、おじさんのいる間眺めていたものを無理やり見てやろうという衝動に駆られたが、あくまで協力的でない和衣の事であれこれ頭を悩ませる自分が急に馬鹿らしく思えた。
 今日泊まるつもりだったけど、帰ろ。
 澪おばさんは202号室での宿泊をしきりに勧めてくれたけど、怒りの収まらなかったあたしは持ってきたマンガや着替えの入ったバッグをきっちり両手で持っていた。おばさんと同じ思いのママはそんなあたしを残念そうな顔で見た。
 ただ、二人ともあたしが和衣の態度に何か腹を立てているのは判っていた。それを解決しない限り言っても無駄だと知った澪おばさんに見送られながら、ママとあたしで雪見荘の門をくぐった。
 もう一人、上の方からの視線を感じた気がしたけれど、振り返って確かめるつもりは無かった。和衣から何か言って来るまで、あたしからは話なんかしてやらないとその時は心に決めていた。
 明後日はもう新学期だ。

 次の日、奈美から電話が掛かってきた。夏休みか冬休みなら一日前の恒例である宿題の相談だろうが、春の場合それは当てはまらない。するとこれから遊びに行こうという相談だろうか。
 用件を聞いたあたしに張り切った声で告げる。
「聞いた? 数学の金城先生、お見合いしたんだって」
 電話の内容が判った途端ため息が出た。
 良く言えば好奇心旺盛、悪く言えば面白がりやの彼女は独自の広い交際網に引っ掛かった情報を、得意げに仲の良い友達の間に流しているのだろう。彼女の場合その友達の情報まで、面白がって一緒に別の所に流してしまうのが問題といえば問題だが。
「3日前に千春がホテル・コスモスで見たって。何でも相手は結構いいとこのお嬢らしいよ」
 彼女は得意げに言う。
 千春と言われてもあたしには誰の事だか判らなかった。彼女の場合多少親しくなった友達は苗字か名前の呼び捨てか、あだ名のどちらかになるから、とても奈美の友達全員を把握する事など出来はしなかった。
 そうか。金城先生、お見合いしたのか。
 あんな事を言っていても、結局は奥さんが欲しくなったんだ。
「ふーん」
「ふーん、て、驚かないの、カナ? うそッ、採れ立て新鮮のビッグニュースなのに? も、もしかして既に誰かから聞いたとか」
 急に彼女は居もしないライバルに敵愾心を燃やし始めた。あたしをびっくりさせる楽しみを誰かに奪われたと思ったらしい。
「あたしにあんた以上に耳の早い友達がいる筈ないでしょ。もっと別の悩みです」
 自分で決めた事ながら、あたしは昨日雪見荘に泊まらなかった事を後悔していた。冷静になってみれば、唯一仲の良い肉親であるお姉さんのもとを和衣は離れて暮らしているのだから、不安を感じているのは充分理解できた筈なのに。
 昔から遠慮がちだったと面倒を見た和美先生が言った通り、彼女はああいう性格だから、素直に甘えるのが出来ないんだと思う。あたしに澪おばさんやママの半分の人間観察力でもあれば、多分こんな風にくよくよしていなくて済んだに違いない。
 奈美がわざとらしいぐらい可愛い声で言った。
「へーえ。それ、立石クンの事かな」
 あたしはどっぷり思いに沈んでいた。だから返事が自然考えなしになった。
「由斗? 違うよ、別のコ・・・!」
 自分が何を口走ったか気付いたあたしは慌てて話題を変えようとしたか、時遅く奈美の鋭い尋問に捕まってしまった。
「別のコ? なに、立石クン以外にオトコいたの? それって問題発言じゃない?」
 相手はすっかり男の子だと決め付けてしまった奈美。
「ち、違うってば! れっきとした・・・」
 そこで言葉が途切れる。和衣の真の性別が思い浮かんだのだ。
「やっぱり男の子じゃない。ね、誰?」
 沈黙を肯定と奈美は解釈した。このまま口止めしないと勝手に面白おかしくした想像を皆に喋ってしまうだろう。あたしが由斗に隠れて駆け落ちを予定しているとか何とか。
 慌ててあたしは声を限りに叫んだ。それが却って奈美の注意を惹くかもしれない事は考えている余裕が無かった。
「だから、違うって! 雪見荘の新しい住人なの!」
「なぁーんだ」
 雪見荘と聞いて奈美が途端にがっかりした声を出した。あそこが女性専用である事は当然彼女も知っていた。
 和衣が男の子だという誤解?はひとまず解けたらしい。代わりに和衣の人物像について細かく説明する羽目に陥ったが。
 まあ、いいや。本人に会えば和美先生にそっくりだって事はすぐにばれる事だもの。和衣もまさか先生の妹だって事まで隠すつもりはないだろう。
 和衣の素性を知った奈美が、思い立った様子で告げた。随分と興奮している。
「今から行っていい? ぜひともその、先生の妹さんやらに会いたい」
「ちょっと待って。彼女とは今・・・」
 昨日の事を考えると、和衣とはどういう顔をして会ったらいいか見当も付かなかった。
 カンのいい奈美はすぐにあたしが迷っている理由について言い当てた。
「ああ、ケンカか何かしてるんだ。で、会う顔が無い、と」
「ケンカって程じゃないけど・・・」
 どうみても喧嘩とは言えなかった。和衣もあたしも互いに一言も悪口を言ってなければ、声を荒げてすらいない。
 ただ、お互いに気まずいだけだった。
 電話の向こうで暫く何事かを考えていた奈美が、ふと声を弾ませた。
「じゃあさ、彼女にあたしを紹介って事で行こうよ。雪見荘からあたしの家ってすっごく近いから、この先時々家の側で顔を合わせると思うし。名案でしょ」
 最後は自画自賛で呟くと、返事も待たずに決めてしまった。
 いつもの事とはいえ、すっかり呆れたあたしはため息を吐くしかなかった。
「よし、決まり! じゃ、あたし、先に行ってますので」
「え? ちょっと待ってよ」
「大丈夫だって! カナが来るまで大人しく門の所で待ってるから。そういう訳だから、なるべく急いで来てよね」
「だからそういう・・・・こら、奈美!」
 早口で叫んだのも空しく、ガチャリという激しい響きの後に、耳に当てた受話器のスピーカーからはツーツーと通話が切れた事を示す機械音が流れた。
 急な成り行きに困惑しつつ、胸のどこかで展開を喜んでいる自分がいた。
 原因とその主な結果はどういうものであれ、和衣のいる雪見荘を訪ねる口実だけはこれで出来た事になる。

 急いで自転車を駆って、昨日後にしたばかりの雪見荘を目指した。川沿いの桜が毎日少しずつとはいえ、日に日にピンクの花の数を増やして行く。
 予告通り白い門の真横に奈美の姿があった。丁度敷地に踏み込む前で彼女は足を止めていた。
 境界を挟んだ向かいにはパジャマ姿のままの麻優さんがいて、二人楽しく談笑していた。奈美はあたしの姿を見つけると、首だけをこちらに向けて手を振った。
 二人のそばにあたしは自転車を付けた。
「和衣ちゃんがねぇ、さっきから待ってるわよぉ」
 色っぽくウィンクをした麻優さんが耳打ちした。
 あたしはびっくりした。
「和衣が? まさか」
 ありありとした疑いの眼が麻優さんに向けられた。俄かに聞いても信じられる筈が無かった。
 同情心から差し伸べた手を払い除けたのは他ならぬ和衣自身だ。
 敷地内には踏み込まずに、幾ら聞いても信じられないと言いたげな様子であさっての方を向いているあたしに、麻優さんは優しく微笑んだ。
「これぇ、千早ちゃんが言ってたのだけどぉ、昨日ねぇ、2階の廊下で、和衣ちゃんと会ったんだってぇ」
 耳がぴくりと震えるのが自分でも判った。
 急に勢いをつけて向き直ったあたしにじっと見つめられる格好になっても、相変わらずトレードマークとも言える変に間延びした口調で麻優さんは続けた。
「逃げるようにねぇ、部屋に入っちゃったそうよぉ。丁度、カナコちゃん達が帰ったくらいだって話」
 あの時は怒っていて確かめなかったから確信が持てなかったが、やはり和衣はあたし達の出て行くのを上から見ていたらしい。
 奈美に無理やり連れて来られたようなものだけど、来た甲斐があるかもしれない。
 そう思った矢先にタイミングよく当の奈美に肘で小突かれた。
「良かったじゃない。脈ありだよ」
「まだ、わかんないけどね」
 照れ隠しにそう言うあたしは心に今まで重くのしかかっていた霧が次第に晴れて行くのを感じた。
 横を歩く奈美と共に敷地と道路を区別する境界を跨いだ。前には麻優さんがいる。
「それじゃぁ、二人ともどうぞ」
 3人の先頭を歩いていた麻優さんが茶目っ気を帯びた宣言と共に取っ手に手を掛けた。
 余計な埃と風を入れないよう今までしっかり閉まっていた玄関の扉が右と左に大きく開いて、今度こそ本当にあたし達を中へと招き入れた。

 202号室の前。ノックをしつつ尋ねる。
「和衣、入っていい?」
「・・・ええ」
 ややあって応えが聞こえてきた。
 銀色に光るノブには今日も鍵は掛けられていなかった。
 それを静かに回して、扉を押し開けた。
 和衣はこちらを向いて椅子に座っていた。込み入った話にならないよう管理人室に行っている事だって出来たのに、それをしなかった。
 彼女は机のそばにいた。昨日と一緒だ。  違うのはもう一人、独特の言動から互いの気まずさを和らげる事の期待できる奈美がいる事。 「この子が先生の妹さんなんだ。びっじーん」
 遠慮という言葉の存在を知らないのではなく、知っていてもそれをしない性格の奈美が早速和衣を見つけて興味を示した。
 突然部屋に知らない人間に入り込まれ、和衣の顔にはっきりとした困惑の色が浮かんだ。
「隣の人は・・・」
「あ、ごめん。小学校からの友達で、現在も仲の良い奈美」
 謝ったあたしはすぐに奈美を和衣に紹介した。ただでさえ強い和衣の警戒心がこんな事で取り返しの付かないくらい強化されたら折角の訪問が水の泡だ。
「秋元奈美です。どうぞごひいきにね☆」
「関谷和衣です」
 茶目っ気と真面目、対照的な互いの自己紹介をあたしは真剣な表情で聞いていた。
 口には出さないが和衣は明らかに奈美の訪問を快く思っていない様子だった。
 嫌悪とは言えないまでも自分と全く違ったタイプへの否定的な反応を見て、奈美の勢いに押されて彼女をこの部屋に連れて来た事を後悔した。
 和衣も一旦部屋にあたし達二人を招き入れた以上は無理に追い出す素振りは見せなかった。
 それをいい事に奈美はあれこれと和衣に尋ね始めた。彼女が不用意に和衣の家族に対する質問を繰り返さないか、あたしははらはらして見守っていた。
 予想に反し、奈美は先生の今の苗字や赤ちゃんはいつ頃出来そうか、など、意外にとりとめも無い事を色々聞いた。その後で
「しばらくここに住むって事は学校にも通うんだ。あたし達と同じ学校?」
「ええ。よろしくお願いします」
 相手に警戒心を抱いていても、どうしても口にしたくない事項を覗いて聞かれた事には出来るだけ正確に和衣は答えていた。そのせいで傍目には話が弾んでいるように見える。
 ただ片方は馴れ馴れしくもう一方は丁寧語と、聞いているだけで変な組み合わせだが。
「明日クラスが発表されるけど、カナや和衣ちゃん達と一緒のクラスになりたいね」
 早くも奈美は“和衣ちゃん”と和衣の事を名前で呼んでいた。対する和衣はあくまで“田村さん”と、さん付けで苗字の方を呼んだ。
「田村さんは2年の時カナと同じクラスだったんですか」
「うん。だから宿題楽だったよ」
「奈美!」
 とかく妙な方向に口が滑りやすい奈美をあたしは睨んだ。
 和衣は呆気に取られたような顔をして、ぽんぽんと言葉を紡ぎ出す奈美を微動だにせずに見つめた。
 この時あたしは知らなかったが、張っていた和衣の警戒心もペースを乱された事で緊張の緩みと共にゆっくりと解け始めていた。
「ホントの事だし、いいじゃない。あたし、感謝してるんだから」
 言葉の最後で奈美は急に真顔を作った。そして赤くなって俯いた。
 いつも平気な顔で人に頼ってばかりだと思ってたけど、奈美って意外に殊勝な子だったんだ。
 友達の意外な一面に、聞いていたあたしの方まで照れが伝染した。
「いいよ。人に教えるのって結構それだけで勉強になるし」
 本当の事だけれど慌てて口にしたせいか何だか言い訳めいていて、変にくすぐったさを感じた。
 下を向いていた奈美が急に顔を上げた。真ん丸の瞳が含みのある輝きに満ちている。
 何かを思い付いた時の表情だ。
「なら、今度からミックのバーガーセットは無しでいい?」
 あたしは答える代わりに強く奈美を睨んでやった。別にミックの美味しいバーガーが惜しかった訳では無いけれど、折角見直し掛けた奈美のいつもの態度につい苛立ちが先に立った。
「きゃー、冗談だってば。今日バーガーセット2個おごるから、それで許して」
「・・・太れっていうの? あたしに?」
 冷たく言い放った。
 本心ではもうそれ程、というより元々怒りは少なかったのだが、こういう時甘い顔をするから奈美にいいように引っ張られるのだと彼女の普段どおりの反応を見ていて考えた。
 奈美はそれでもめげずに
「じゃあさ、和衣ちゃん。少食といいつつ好物のケーキだったら5個も一人でお腹に入れちゃうカナの代わりに半分食べて」
 見事なまでの反撃を食らって、だらしなく口が開いた。
 あたしが奈美の事を知るよりずっと彼女の方があたしの性格について知っていたのに、その事をつい忘れていたのだった。
 呆然と展開を眺めていた和衣は急に自分の方へと話題が降って来て、何と答えていいか判らない様子で、濡れたように輝く黒い瞳を可愛い仕草でしばたいた。
 この時点で和衣は既に奈美のペースに嵌っていた。奈美の雰囲気をわきまえない言動に惑わされて気が付かなかったが、友達が多いのは伊達ではなかった。
 しかし、和衣の警戒心を解いた彼女の計算が結局は和衣の心を予定とは別の形であたしに教えてくれる事になる。

 おごると言いながらも奈美は一向に部屋を出ようと言い出さず、部屋の中の物を眺め、主の和衣に訊いては楽しんでいた。大抵は本や道具類だ。
 そうこうする内に彼女は机の陰に奇妙なものを見つけた。それ自体は普通の本屋で売っているものだったが、和衣の部屋にはそぐわないものだった。
 和衣は奈美の取り上げたものが何かに気付いた様子で幾分表情を変えた。
 それでも何故か取り戻そうとする気配は見せなかった。
 一人血相を変えたのは最後にそれを見たあたしだった。
「!」
 “学校の先生の正しいなり方”。それが本のタイトルだった。
 慌ててあたしは本のページを繰った。それは著者の学校の教師としての体験談から始まって、資格の取得の方法、果ては読者がどの科目に向いているかのYes/No式の判定チャートまで付いていた。
 当たり前だがどこのページを見ても看護士の事に触れてはいなかった。
 その本を持って和衣の方へと向き直った。
「どうして? せっかく関谷のおじさんが許してくれたのに」
 麻優さんは和衣が心を開き掛けているような事を言っていたが、これじゃ全く逆だ。
 再びあたしは和衣が判らなくなっていた。
 和衣は黙ってあたしを見ていた。どうやらこの事についてあたしと議論する気は無さそうだった。
 彼女は大事そうな動作で呆然となっているあたしから持っていた本を取り上げると、再び元あった場所に置いた。
『支度の最中でも暇さえあれば開いて見ていたから、そのせいで置いてっちゃったのかもしれないわね』
 違う。和衣は先生の家に単に看護士になる為の本を忘れて来たんじゃない。理由までは見当付かないけど、看護士を目指す事自体、その時にやめてしまったんだ。
 でも、あたし達が和衣が看護士を目指していると知ったのは全て本人の口から出たものだ。それもあたしの場合、2度も。
 見て来て判った事だが和衣は殆ど嘘の付ける性格じゃ無い。そういう時は必ずと言っていいくらい黙り込んでしまった。
 頭の中で急いで聞いたと思われる場面を思い返した。一度目はママや澪おばさん達といて、関谷氏から夜に抗議の電話が掛かって来た時だ。
 あの時の関谷氏は応対した澪おばさんに封建主義的な人柄と思わせる程に愛息子の和衣の事で立腹していた。その話を聞いて和衣は何と呟いたか。
『父は私が志望高校に看護学校を書いた事が気に入らないんです』
 そうだ、おじさんの反対を除いて全て過去の事だ。じゃあ、二度目は?
 電話の後、あたしはこの部屋に和衣と布団を並べた。その時に将来の事も含めて話をした筈だ。
 きっと美人だから看護婦姿が似合うだろうなと少しからかいを交えて誉めたあたしに、和衣は・・・・答えずにちょっと経ってからお姉さんに似てるかと訊いて来た。
 もう、疑いようが無かった。あたしは非難の目で相変わらず押し黙ったままの和衣を睨み付けていた。
 急に険悪になった雰囲気に驚いた奈美が何事かを呟いたが、あたしの耳には一切入らなかった。
 やがて和衣が重々しかった口の封印を解いた。
「教師はお姉ちゃんの夢だったもの。奪った私が代わりにならなきゃダメなの」
 普段のしっかりした彼女と同じ人間とは思えないほど口にする理屈がまるで通っていなかった。だって、どう考えたって、和美先生が教師を辞めて結婚したのは父親である関谷氏の意向によるものだ。
 睨むでも無く殆ど無表情で虚ろでさえあるのに、真っ直ぐに見据える瞳だけが異様に輝いている。
 彼女の意味する所が判らずあたしと奈美は大きく目を開いて見つめ続ける。
「私はお姉ちゃんにならなきゃダメ。その為にここに来たんだから」
 吐き捨てるような響き。答えとして聞かせるだけでなく自分の迷いをも断ち切ろうとする願いのようにあたしには聞こえた。