三角方程式

文 West

第2章 密やかな問い掛け

 まだ和衣がここに来る前の事だ。由斗に気持ちを伝えた運命のホワイトデーから2日たった日の放課後、仲の良い子達同士でとある会話を交わした。
「聞いたよー、カナ。行くのは遊園地なんだって?」
 帰る準備のため教科書を鞄にしまおうとしていたあたしに、やってきた早弓(さゆみ)がにやにや笑いを浮かべる。
 彼女の真意は判っていた。男の子以上に派手な乗り物好きのあたしに、さりげなく彼氏に抱きつくような真似は出来なかろう、そう口にしたいのだ。演技しようにも当の由斗自身があたしの好みを知っている。
 早弓は少々皮肉屋ではあるが、もうすぐ2年になる付き合いのお陰で、彼女なりにあたしのデートの成否を気に掛けていてくれる事は充分承知していた。相手に心配していると知られるのが照れ臭くて、こうやって皮肉めいた口調に紛らすのである。
 だからと言ってその事とからかいに膨れてみせるなとは別物だ。機嫌を損ねた様子で、両足をばたばたやっていると
「メリーゴーランドやコーヒーカップが難しくても、観覧車だったら立石クンも付き合ってくれるんじゃない? カナの努力次第で何とでもなるわよ」
 早弓と対照的に慰めてくれたのは、優しいお姉さんといった雰囲気の七瀬(ななせ)。癖無く伸びたロングヘアに少々垂れ気味の目元といかにも大人しやかな外見に似合わず、実は結構口数は多いタイプである。
 ただ、口調は甘口でも締めるべきところはしっかり締める。意外におねだりに弱い早弓といいコンビで、二人ともあたし達仲良しグループの大切なまとめ役だった。
 人気のある二人が側に来ると、いつの間にか教室中の女の子達が群がるようにあたしの周りに集まって来る。
 中には掃除当番なのかモップや箒を脇に抱えたままの子もいて、あたしは今更ながら恋愛面に関する10代の少女達の好奇心の旺盛さを知らされた。口々に告白シーンの様子などを訊いて来た。
 この分では今ではクラス中の女の子があたしと由斗の事を知っていそうだった。伝えたのは昨日で、それも小学校から一緒で一番仲の良い奈美だけだというのに大した伝達ぶりである。廊下側の席で別の女の子に何か話し掛けられている彼女を覚えておきなさいよと睨みつけてやると、気付いて苦笑いをし、ぺろっと舌を出した。
 視線を戻したあたしはこの場は観念する事に決めた。女の子同士の内緒話など、所詮はこういう展開になるのが落ちなのだ。
 それぞれが親しい子の2、3人に伝えていくだけなのだが、そのせいで瞬く間にねずみ算のように増えていって、しまいには掲示板に張ってあるのと同じ事態になってしまう。
 仕方なく、あたしはバレンタインデーの出来事から話を始めた。
 毎年、2月14日にはあたしから由斗にチョコレートをあげる習慣だった。但し名目は義理チョコとなっていたし、チョコ自体も店で購入したものばかりだ。
 手作りにすると変に意味を勘ぐられそうだったし、料理があまり得意でないあたしにとっては不味くするのと同じ事である。愛さえあればと主張するコもいるけれど、やっぱり好きな人の付ける評価の減点は恋する乙女としてはなるべくなら避けたい。
 今年由斗は誰からもチョコを受け取ろうとしなかった。和美先生がいなくなった後の態度は変わらずおちゃらけて見えたけれど、やはり心のどこかで引っかかっていたのだと思う。
「何、慣れないシリアスぶってんの。らしくないよ」
 バレンタインデーの放課後、今も1人女のコを振ったばかりの由斗にあたしは明るい口調で近づいた。彼が何か言い出す前に「はい、義理チョコ」と生まれて初めての手作りチョコを押し付けた。
 由斗が受け取るチョコは一つきりだろうと和美先生がいなくなるまでは諦め顔だったから、思いがけず復活したこのチャンスを逃がすつもりは無かった。どうせ慰めるなら、想いのこもった手作りの方が効果的だろうと考えた。
 そして迎えたホワイトデー。あたしは一つの賭けをしていた。
 幾ら由斗が鈍感でもあれがあたしの手作りだと判らない筈が無い。多分ひどい味だろうけど、それでも彼にとって何がしかの慰めになったのなら、思いきって告白しようと考えた。
 結果は今の通りだった。嬉しかったと告げた彼に、あたしは秘めてきた想いを伝え、あたし達は恋人同士となった。
「いいなぁ・・・。あたしもいつか好きな人と」
 一部始終を話し終えた時、聴衆の一人の倉石夢見(くらいしゆめみ)が呟いた。
 名前の通り夢見る少女の彼女。告白場所がどうの、その時の台詞がどうのと注文が異常にうるさいので、趣味である少女漫画の世界から抜け出して来ない限り、彼女に恋人が出来る日はやってこないとクラスメイトの間では噂されている。
 仲良しグループに所属しない単なるクラスメイト達は聞くだけ聞いてしまうと最早興味を失った様子で、それぞれが元の場所に帰って行く。
 後に残ったグループメンバー達は話に触発されたのか、早弓と七瀬以外はどういう恋愛が理想か口々に語り合っていた。
 多くは結局は今気になっている男の子ののろけになり、得意になって披露した。中に流行のヴィジュアル系バンドにはまっている子がいて、そこに出てくる男の子が可愛いと騒いだ。
 彼の事だったらあたしもテレビ画面で見た事がある。女の子のような化粧と髪型をし、声と、妙に背が高いことを除けば美少女に見える。番組ではおふざけで男の司会者にちょっかいを掛けていたが、その姿がまた似合っていた。
「男の子が女の子の格好するの、ハンターイ!」
「あんたは黙ってて。会話がややこしくなるだけだから」
「ええーっ。なんで?」
「なんでも」
 漫画に出てくる男の子像が理想の夢見が自説を捲し立てようとしたが、早弓によって一蹴される。
「お友達ならいいんじゃない? 彼氏としては考えちゃうけど」
 思わぬ声の主にあたし達は一斉に振り向いた。
 視線の合った奈美がいたずらっぽく笑っている。
 それにしても、何故いきなり登場した筈の彼女が会話について行けるのだろう。
 その事を訊くと 「さっきからいたよ。あんた達が気付かなかっただけ」  窓際に現れた彼女はすぐにはあたし達に声を掛けず、話に夢中になったあたし達が気づかないのをいい事に会話を盗み聞きしていたらしい。
 こういったいたずらめいた行動が何故か奈美は異様に好きだった。
「そうだ! 奈美っ」
 のこのことやって来たインタビュー攻めの元凶を前に、段々忘れ掛けていた怒りが不意に湧きあがる。
 同時にあの時感じた気恥ずかしさも蘇って、一層顔が赤くなった。
「ゴメーン。でも、どこで聞いてきたのかノッコにしつこく訊かれてさ。信じてよ」
 奈美はごめんと言う時だけちょっぴり神妙に、後は大して悪びれもせず、ウィンクした状態で手を合わせて来た。
 ノッコというのは先程奈美と何やら会話していた少女で、別名“歩くスピーカー”。意図的な脚色はしないものの、困った事に聞いていない部分は勝手に想像して喋ってしまう口で、結局は尾ひれが付いてみんなに伝わってしまうのは脚色するタイプと同じだ。
 彼女は他のクラスにも交際網を持っていた。それの意味する所は一つしかない。
「ご愁傷様、カナ」ポンと肩を叩く早弓。
「何と言っていいのか。頑張ってね」困ったような笑いで、それでもなお元気付けようとする七瀬。
 極め付けは張本人の奈美である。
「大丈夫。間違って伝わらないよう事細かに話して置いたから」
「・・・もういい」
 あたしは諦めた。奈美とはもう8年近くこんな感じなのだ。それでも憎めず、未だに親友付き合いをやっているあたしの負けだ。
 みんなはあたしの話題を避けるように、女の子の姿をした男の子を恋人として認められるか議論を始めた。
 強硬な反対派である夢見は極端だとしても、好意的に見ていないという点では他の子も大差無いようだった。
 女性が社会に出て働く時代になっても、男の子の頼り甲斐というのは女の子にとって大切な要素だった。幼い頃からのお姫様願望というのは意外に消えないもののようだ。
 確かに普段からなよっとした男の子ではいざという時頼れそうにもないだろうとあたしにも思えた。
 試しに由斗が女の格好をして科を作っている所を想像しようとした。
 すぐに大きく首を振る事になった。プルプル、やっぱり嫌だ。
 件のバンドの男の子がイイと告げたみづきですら、ややあってから「それはそうだけどさ」と渋々ながら賛成した。贔屓の少年を非難された気が彼女としてはするらしく、暫くたし達の方を睨んではいたが。

 ただ、あの時は誰も真剣には考えていなかったのではと思う。
 学祭やイベントなど似合いそうかなと思う男の子はいても、やはり女子の制服を着せたりするとそれなりに可愛い事は可愛いけれども男の子だった痕跡は隠せなかった。
 だから、そこまで綺麗な男の子が身近に現れるなんて、その時点では思ってもいなかったに違いない。
 差し込んできた朝の光に上半身だけを起こし、隣で寝息を立て続けている少女を見る。何度横で眺めていても信じられなかった。
 機から見ればただの友達同士の寝起きでも、実の所はあたし達は男女の二人っきりの夜を過ごしていた。ただ、言葉から想像される甘い内容は一っ欠片もなくて、寝る前に少し相手の性を意識した事を除いて見た目通りの大人しい一夜だ。
 遠距離の移動に疲れて寝ている彼女を起こさないようそっと足を運んで、階下にある手洗いの際にある洗面所にと現れる。
 綺麗に掃除された洗面所には他の人影は来ていなかった。千早さん達は長く続いた宴会にすっかり酔いつぶれて、今頃は間違い無く夢の中だった。
 元々朝の弱い由斗。当然姿は無い。
 瞼をこすりながらでもいいから、起きて来て欲しかったんだけどな。
 幾らあたしでもしょっちゅう雪見荘には泊まっていないから、判っていても残念に感じる。
 蛇口から迸る冷たい水で、手を、次いで眠気覚ましも兼ねて顔を洗った。
 鏡の横の窓から見ても外は本当に天気がいい。繁華街でかねてから狙っていた服の買い物でもして来ようかという企みが浮かんでくる。
 再び廊下に出ると、管理人室のドアを叩いて既に起きていたおばさんに電話を借りたいと話した。
 まだあたしは携帯電話の類を持っていない。
 ねだった結果、携帯については高校入学時に買ってもらえる事に決まっていた。同級生で持っている子の姿もないではないけれど、月々の使用料はやはり中学生が毎月負担するには額が大きいので、全て支払いが親掛かりなら1年ぐらいの我慢は仕方無いと思う。
 澪おばさんはあたしにOKを出すと、もうすぐ二人分の食事が出来るからと言って管理人室と繋がっている小さな調理場の方へと入っていく。
 住人の食事の支度はおばさんの仕事であると同時に楽しみでもあった。おばさんにとって、住人達はお客というより手の掛かる娘という存在だ。それでなければ、それぞれの起きる時間に合わせて朝食を用意するという恐ろしく手間の要る真似は行えない。
 電話線の向こうのママにあたしはこの街の紹介も兼ね、和衣を連れて遊びに出たいと告げた。
 ここの所派手な遣い方をしていないから、それなりに貯金の額は貯まっていた。
 それでも目当ての春向きのコートは小遣いの3ヶ月分に当たり、全額負担は厳しいものがある。そのつもりで和衣の名前を出して、臨時のお小遣いを期待したのだけれど。
「資金の方は何とか考えてあげるから、カナも自分のお目当てばかりでなく、言葉通りきちんと和衣ちゃんの分も探す努力をしてね」
 思いっきり釘を刺された。
 あたしの意図はママには全部お見通しだったようだ。思わず苦笑い。
「澪も喜ぶと思う。和衣ちゃんにお小遣いの出資の件断られたとかで、しょげていたみたいだったから」
 ママの告げた事はあたしには初耳だった。
「何それ」
「カナ達が寝ちゃって場所変えした後、多少酔いの回って来た彼女がこぼしたの」
 それからのママの話は昨日も感じた和衣の生真面目さを更に印象付けるものだった。
 澪おばさんの申し出を丁重に断った和衣は遊ぶ為のお金は自分で稼ぐとおばさんに断言したらしい。
 既に和衣の中では何をやるかも決めてあるのだそうで、おばさんから聞いて知っているとママが得意気に話していた。
 通常、中学校3年の女子といったらろくなバイト口は無く、せいぜいが働く小中学生の定番、朝夕の新聞配達くらしか思いつかない。実家は結構大きな病院だって話だけれど、そこの息子が庶民的なバイトをするとは思えなかったから、気になって仕方なかった。
 必死になって聞き出そうとすればする程、何故だか含み笑いをママが洩らす。一呼吸置いて
「そのまさか」
「えーっ」
 笑っている理由はこれで判明したが、今度は聞いた自分自身の耳が信じられなかった。
 おまけに、田舎で新聞配達のバイトは経験済みだというから二度びっくりしてしまった。
 知れば知る程、裕福な家の子供に対して抱いていたイメージとは違う一面が見えて来て、感心する自分に気付く。金持ちといったらうちもそうだが、売れっ子のスタイリストの筈のママは仕事以外では娘をからかって遊ぶのが趣味の普通?の母親だし、パパは本当にただのサラリーマンだったから、家の収入の割には思いっきり庶民的な性格にあたしは育っていた。
「とにかく、和衣ちゃんが一着でも澪からのプレゼントを受け取ってくれたら、澪も納得すると思うの」
 それはその通りだと思うのだけれど、和衣の異様なまでの融通の利かなさを考慮に入れると自信が無くなって来た。
 昨日の夕方、由斗が買出しから帰って来た時にあくまでも手伝いをすると主張して譲らなかった和衣。あの時も最後に折れたのはあたしだ。
 でも、おばさんの気持ちも理解できないではない。住人というよりは好意からまるっきり娘の待遇で迎えた和衣に可愛い服を買ってあげると言って、冷たくされたのだ。和衣が本当はそういう服をあまり欲しがらない男の子だという事は、女の姿で雪見荘に住む以上澪おばさんの中ではこの際関係無い。
 街中を適当に案内する傍ら、和衣が欲しいアイテムがあれば買ってあげればいいし、そうでなければ見送ればいい。そんな安易な考えでいたあたしは、こうしていきなり降ってきた難題と対決する羽目となった。

 再び202号室。
 昨日は長旅と宴会で随分と疲れた筈なのに、階下に行っている間に2組とも布団は畳まれていた。
 開けられたままのトランクを背後に和衣がタオルや歯ブラシなどを持って驚いた表情で突っ立っている。面白いのは寝ていた時とは違う、エメラルドグリーンのチェックのワンピースという普段着に既に着替えている事だ。
 あたしがまだパジャマ姿のままなのを知って、自分とあたしとを見比べる。
「おはよ」
 にこやかに朝の挨拶をしながら、そういえば砕けているように見えた先生もパジャマ姿ではうろついていなかった事を思い出す。二人ともやはり育ちがいいのだと一人納得する。
 トランクには先生のお古らしき春物の定番服が、綺麗に折り畳まれた状態で詰められていた。下着もあるから、組み合わせを色々に変えれば夏までは充分に過ごせそうである。それは即ち、量の点では和衣にこれ以上の衣類が必要ない事を意味した。
 しかしそれではあたしがやって来た甲斐が無い。
「外はいい天気だよ。遊びがてら、買い物に行こうよ」
 カーテンを両側に引き開け、単刀直入に切り出す事にする。隠して連れ出した所で、店に入ればごねられるのだから、納得させた方が面倒が無い。
「でも私、お金が・・・」
「澪おばさんがくれるって」
「だめです!」
 反射的に大声をあげたせいで、せっかく治り掛けていた丁寧語の癖まで再発したようだ。
 やや声のトーンを落とす。
「お世話になっているのに、そんなこと出来ません。女性の衣類が高いことくらい、私だって知っています」
 やれやれという顔で、あたしは和衣の強情ぶりを眺めた。割と押しの強い方である澪おばさんが根負けしたのも無理は無いと思える程、てこでも動かないという決意でこちらを睨んでいる。
「高いって、今まで自分で買ったこと無いんでしょ。誰かに聞いたの?」
 不思議がって尋ねたあたしに和衣はかぶりを振って
「お姉ちゃんの家にあった本を読んだんです。私が着ているようなワンピースだって1万とか2万とかするって書いてあって。そんなの頂けません!」
 漸く話が飲み込めた。ファッション誌のコーディネイト例の横には必ず使用した服の種類とブランド名、定価が記されているから、その内の定価の事を言っているらしい。
「そのぐらいなら3000円ぐらいで買えるよ」
「冗談言わないで下さい。2割、3割引きならともかく」
 あたしの言う事などはなから信じてない和衣は当然のように態度を硬化させた。そのままそっぽを向いてしまう。
 高いという主張に拘る彼女の姿を見ていて、考えが浮かんだ。
「それじゃ、今和衣が着てるようなやつが3000円前後であったら、言う事を聞いてくれる?」
 驚いたように顔を上げ、あたしの顔を凝視していたが、すぐに
「ある筈ありません」
と再びあらぬ方向へと視線をやった。
「だから、あったら、よ。その時は、これから和衣はファッションやメイクなど、他の人のアドバイスを素直に受け入れる。これでどう?」
 暫く思案している様子の彼女はやがて不承不承頷いた。
 内心あたしはほくそ笑んだ。経験が無いから当然とはいえ、この時点で和衣の負けが確定していた。
 幾ら綺麗に見えても、やはり女の子としては彼女は一年生だという事だ。

 11時過ぎ、繁華街。
 有線らしき外人のロック歌手の歌声が落ち着いた店内に洒落た彩りを添えている。
 その中をきゃあきゃあ言いながら気に入る服を物色して歩く女の子達の勢いに和衣は随分と面食らっている様子である。
 一見さびれたビルの階段を昇ったあたしは、店に入ってすぐに内部の空間を見回し、和衣の着てるのと似たタイプのワンピースを探した。
 結果、デザインは殆ど変わらない物が見つかった。色は明るいオレンジで違うが、チェックの入り具合も似たり寄ったりである。気になる値段は3200円。
 円らな瞳が値段と服に釘付けになった。
 そ知らぬ顔であたしは種類毎に陳列された商品の中から、前にスリットの入った水色のスカート、色もデザインもシンプルな赤色のパーカー風ニット、珍しいロングの綿の巻きスカートとそれと同じ色だがこちらは真っ白いタートルを引っ張り出して、店内の雰囲気に飲まれたままの彼女に渡してやった。そして試着室を指差す。
 一旦そちらを見た和衣の眉がだらしなく垂れ下がった。信じられないものでも見たような目付きであたしと視線を合わせる。
「あそこで・・・着替えるの?」
 来る前に注意したので、丁寧語については気を付けているようだ。
「サイズが合わないと困るじゃない。ウェストは60でいいのかな」
「今着ている服は確かそうなってた」
 そう言ってグレーのミニプリーツの裾を摘んだ。63のあたしより細いウェストのスカートを穿いているのに、全然生地が突っ張っているように見えない。
 ちょっと悔しい。
「後、Mと書かれたやつもあったと思う」
「そうなんだ。じゃ、これとこれも」
 チェックのシャツワンピースにピンク地に白の水玉模様のミニタイトを、さりげなく抱えている服の山の頂上に積み上げる。靴もローファーのいいのがあったので、それも追加する。
 和衣が益々困った顔になるが賭けはかけ、気付かない振りをした。
 女の子として暮らす事を決めた筈の和衣の狼狽振りが何だかおかしかった。
 既に女子トイレだって入れるのに、男の子にとってはこういった場所での試着室の利用は別の意味で勇気の要ることなのかもしれない。
「ほらっ。早く行かないと誰かが入っちゃうよ」
 和衣の抜きん出た容姿と困惑した態度とに店内の視線が集まってきた事に気付いたあたしは、彼女の背中を思いっきり押した。そのまま試着室の方へと附いていった。
 漸く覚悟を決めたらしい和衣の衣擦れの音がカーテンの向こうから響く。
 ややあって、白いタートルと綿の巻きスカート、その上にアクセントの赤いニットという姿で幾分顔を赤くして現れた。
 元々大人びた容姿の和衣に、こういうちょっとお姉さんっぽい格好はすごく映えた。  その上に例の不思議な色気があった。
 店内のあちこちで、和衣に見惚れる存在が伺えた。今は緊張しているからだめだけど、もう少し女の子の生活に慣れてきたら、モデルと言っても通用しそうだ。
「残りのスカートとかも試した? 靴も?」
 和衣の事だから大丈夫だと思ったものの、取りあえず念を押した。昨晩儚げな和衣の姿を見てからというもの、何だか急速に保護者役が板に付きつつある気が自分でもする。ずっと一人っ子だったから和衣が欲しかった妹のように思えたのかもしれない。
 頷いて、再び試着室に戻ろうとした所をあたしが引き止めた為、和衣はそのままで店を出た。

 1時近くになったので二人で食事する場所を探して街をうろつく。
 繁華街の中心にあるデパート付近まで来た時、男の子が二人声を掛けて来た。
 あたしには由斗がいるし、和衣は和衣で男に興味がある訳なかったから、足の運びを大きくして、早足で歩いた。和衣も後に続いた。
 いつもはこれで諦める。暫く彼等は同じく早足で、軽い口調で色々な口説き文句をあたし達に浴びせていた。
 無論あたし達からは一言も返さない。業を煮やしたあたしが適当に見つけたブテッィクのドアをくぐろうした時、男の子達の態度が豹変した。
「何だよ、無視ばかりしやがって。素直に付き合えばいいんだよ」
 あたしは事態を理解した。彼等は並かせいぜい上の入口のあたしは逃しても、特上の和衣を同じく逃す事は惜しくて出来ない、そういう事らしい。
 やにわに片方が和衣の腕を強く握って来た。今までは黙っていた和衣の表情が突如険しくなる。
「離して下さいっ」
 外見からは想像しづらい鋭い声が飛んだ。美人の彼女に怖い目で睨みつけられ、少し彼等はたじろいだ様子に見えた。
 通行人の視線があたし達に集中するのを感じた。
 しかしながら仲裁に入ろうとする人間はいなかった。みんな遠巻きに様子見の状態である。
 それに安心したのか、再び男の子達が見たくもないにやけた顔をあたし達に向ける。
「早く汚い手を離しなさいよ。和衣が嫌がってるでしょ」
 元々はあまり人の世話をあれこれ焼くタイプでないあたしが、おそらくは保護者としての使命感から和衣を庇って強気な態度に出た。
「和衣ちゃんて言うんだ」
 一向に意に介さず、二人で顔にいやらしい笑みを浮かべた。頭に来て、思わず和衣を掴んで離さない方の少年の頬を思いっきり引っぱたいた。
「・・・このアマ!」
 熱を帯びた頬をさすって、少年が目を剥いた。正気を失い掛けた彼にTシャツごと胸倉を掴まれた。少し呼吸が苦しい。
「カナ!」
 和衣がこちらに走り出そうとするのが見えた。彼女を掴まえている少年は、その手を放すどころか、彼女の腕毎引っ張った。そして体勢を崩した彼女のパット入りの胸の辺りを両手で抱き抱えた。
 その彼が突如うめき声を上げた。自由になった和衣があたしの所まで走り着いた。
 痛さに片目を瞑っている少年は歯型の付いた右手の甲をもう一方の手のひらでさすった。今まで和衣に良からぬ好意を抱いていた瞳が、今は憎しみの炎に満ちていた。
「この女ども! もう許さねぇ!」
 憎々しげに吐き捨てた。獣は今や2匹となって、彼等に痛手を追わせた存在にそれなりの制裁を加えようと襲いかかってきた。
 遠からず訪れるだろう恐怖の未来に思わず瞼を伏せた瞬間
「お前達、学校は? 学年と組は? 氏名は?」
 人ごみを割るようにして、20代の男の人があたし達の側に立った。少年達に迫力のある視線を送る。
 補導員のような尋ね方をすると思ったら、あたし達の学校の金城先生だ。教わった事は無いが教科が数学という割に大きな体格をしている為、名前を覚えている。
 先生は尚も男の子達を吊り上った目で脅した。
 彼等も本能的に危険を察知したようで、舌打ちを残しつつ、走って姿を消した。
 助かったと思った途端、腰が抜けた。
「カナ、大丈夫だった?」
 和衣が心配そうにあたしを見つめた。
「平気だよ」
 相手が由斗なら、こういう場合素直に甘えていたと思う。
 しかし和衣には弱々しい所を見せたくなくて、まだ力の入らない膝をコントロールした。そのお陰で何とか立ち上がる事が出来た。
 逃げていく男の子達の後姿を見届けた先生が、そのままの姿勢で告げた。
「危ないところだったな」
「ありがとうございました、金城先生」
 礼を言ったあたしに、驚いた様子で振り返る先生。
「俺の名前を知っているという事は、君達は上塚中学の生徒なのか?」
 先生の問いにあたしは頷いてみせた。
「江口奏子です。数学は蔵先生に教えて頂いてます」
「なるほど。俺が知らないのも道理なんだな」
 何故か安心した様子で先生は呟いた。もしかしたら教え子の顔は全部覚えているという自負でもあるのだろうか。
「で、もう一人の君は」
 和衣に視線を移した瞬間、にこやかだった表情が一部凍りついた。和衣も同じように先生を凝視していた。
 しかしすぐに和衣は先に視線を外し、頭を下げた。
「関谷和衣です。今度上塚中学の3年に転入する事になりました。よろしくお願いします」
「あ、ああ。こちらこそよろしく」
 少々しどろもどろで先生は言った。人当たりのいい笑みも取り戻してはいたが、先程に比べると微かな翳りが混ざっている気がした。
 だが、それは存在を確かめる前に消えてしまい、あたしも深くは追求しなかった。
「ところでここらで買い物でもするつもりなのか」
「ええ。取りあえず今は二人で食事をする場所を探してたんですけど、その途中で変な男の子達に絡まれちゃって」
 時計を見るともう1時半を過ぎている。早足でかなりの距離を歩いた事に気付いた途端にお腹が空いてきた。
 無駄な体力を使わせた少年達に再び腹が立った。
「よければ混ぜてもらえないだろうか。一人で食べるのも寂しいしな。ボディーガードぐらいの役には立つと思う」
 顔を赤らめ気味に先生が訊いて来た。そういえば先生はまだ独身だった事を思い出す。
 私服姿の教え子二人との臨時デートの場所に、先生は近くのラーメン店を選んだ。ガラス製のドアを押し開けてすぐに、厨房から立ち昇る湯気の熱気があたし達を出迎えた。
「好きなものを頼んでくれ。お勧めは白湯(パイタン)スープのラーメンだ」
 席に着くや否やタバコの箱を取り出した先生がメニューを広げて寄越した。
 氷を浮かべた水入りのコップがお盆に乗って運ばれてくる。よく冷えた透明な液体が、乾いた喉に心地よかった。
 注文を済ませた後、あたしが尋ねた。
「先生もお買い物ですか」
「まだ当分一人暮しが続きそうだしな。前から欲しかったレンジを物色に来たんだ」
 煙を燻らせたまま、近くから歩きで来ているらしい先生は答えた。
 どうやらいいバーゲン品に巡り合ったらしく、これで自炊を行っても暖かい作り置きが食べられると喜んでいる。
「お嫁さんを貰ったらどうですか」
「そりゃ、喉から手が出るくらい欲しいさ。けどなぁ、あればかりはくれくれと連呼したって、はいそうですかとやって来るものじゃないからな」
 おどけたように言う。直接教わった経験は無かったけれど、かなり楽しい先生のようだ。
 あたしは先生の冗談めいた口調にくすくす笑いながら
「じゃあ、お見合いは?」
「したよ。フラレた」
 ショックな様子も見せず、あっさりと言ってのけた。なるほど、それで一人暮しが続くとさっき主張していたわけである。
 先生の容貌を観察してみる。甘いマスクとは違うがそれなりに凛々しい顔立ちをしていて、その気になれば結構もてそうにあたしには思えた。
「食事代をワリカンにしたのが気に入らなかったらしくてな。・・・お、来た来た」
「お待たせしました」
 ウェイトレスのお姉さんが出来あがったばかりのラーメンを3人の前に置く。
 先生は早速割り箸を一つ割って自薦の白湯ラーメンを突付いた。チャーシュー麺で注文した為、豪華な厚切りチャーシューが全面に散りばめられていた。
 ご飯はセルフサービスで、お代わり自由なのをいいことに大きな茶碗に一杯までよそっている。
 あたし達は折角のお勧めを断って、レディースセットというのをお願いした。メニューにはカロリーの気になる女性にと売り文句が書かれていた。
 こちらは少々小さいサイズの醤油ラーメンとサラダがセットになっていた。先生のよりはかなり小ぶりの可愛い茶碗がトレー上にあった。
 和衣が自分とあたしのご飯をよそいに行っている間、あたしは先生に尋ねた。
「ワリカンって・・・そんなに高い所でのお食事だったんですか?」
 先生はすぐさま首を横に振って
「ただのその辺のレストランだ。それがどうかしたか」
「それじゃ振られて当たり前ですっ。男なのに払ってあげないなんて」
 呆れるしかなかった。相手の女性がお見合いの最中に怒り出してしまったのも無理からぬことだろうと思えた。
 けれど先生に少しも納得した様子は見られなかった。
「当たり前? 何が当たり前なんだ?」
 びっくりして先生を見つめた。
「こうして過ごす楽しい時間は男女とも同じだろう。なのに、その代価を片方だけが支払わなくてはならないなんて、おかしいと思わないか」
 考えた事も無い疑問だった。
 うまい反論が浮かばす、途中何度かどもった。
「で、でも・・・あたし達には、こうやっておごって下さったじゃないですか。同じ事をしてあげるだけですよ」
「稼ぎが違う。見合いの相手は自分で働いていた。自分の食費も賄えないような浪費家の女性なら、どのみち結婚したって俺とはうまく行かない」
 冷たく言い放つと先生は無表情にスープを啜った。
 浪費家。確かに服や化粧品に大量にお金を注ぎ込むことが珍しくない女性という性は男性の視点からすれば大いなる浪費家かもしれない。
 その一人のあたしも、今までお洒落の費用の捻出の為にデートの時の食事代を出してもらうことが人道的かどうかなんて考えもしなかった。
 思わず論点がずれた。
「そうかもしれませんけど、でも、そんな事ばかり言ってると一生結婚出来ませんからねっ」
 暖かい目の前の麺に箸を付ける気にもなれず、俯き加減で放つ。
 先生の主張はどこも間違っていない気がするが、それを認めるとあたしの中の何かが崩れるように感じて、聞いているとイライラした。
 同じように箸を動かすのをやめた先生が黙ってあたしを見つめている。
 瞳の奥に自嘲めいた暗い光が見え隠れした。
「一人だけ理想の女性と出会った。彼女が他の男の元に去ってしまった時点で俺の独身は決まったんだ」
 搾り出すかのごとく呟いた。
 灰皿では食事を始めるまで吸っていた煙草が、少しずつ自分自身を燃やし続けた。そこから漂う白い煙が相容れないあたし達を隔てる霧のように揺らめいていた。
 それから直に和衣が御飯の入った2個の茶碗を持ってあたしの隣に戻ってきた。周りの客の視線までも集めた先生との喧嘩腰の話し合いに遠慮したのだとあたしは思った。

 結局先生とはそのまま店の入口で別れた。
 あたし達の自転車の止めてある場所まで送ると言って譲らなかった先生をまだ買い物があるからと無理に断った。
 けれども実際は真っ直ぐ帰宅する予定でいた。
「じゃあ、学校でな」
 名残惜しそうに挨拶すると、先生の大柄な後姿は急速に小さくなっていく。それが見えなくなった所で、和衣の手を引っ張った。
「帰ろ」
 結局本来の目当てのコートも買わずにあたし達は繁華街を出る事になった。本当なら和衣のワードローブももう少し揃えておきたかったが、そんな気分じゃなかった。
 和衣の方は当然まだ洋服に拘りはないから、見て回る店の個数が増えようが減ろうが一向に気には留めない。
 二人で小分けして持っている服は全て和衣のなので、先に雪見荘に向かった。
 出掛けた時とは違う服装で帰って来てくれたというだけで、待っていたおばさんには充分そうだ。その彼女が手に荷物を抱える姿を見て、これ以上は無いという程顔を綻ばせる。
 ちょっぴり照れた様子で礼を言う和衣。素直になった和衣とおばさんとの微笑ましいやりとりは、先生の指摘に少なからず落ち込んだあたし自身をも暫し忘れさせてくれた。
 あたしは持っていた袋を全て澪おばさんに渡した。自転車に跨るとおばさんが
「奏子ちゃんにはずいぶん世話になっちゃったね」
「いえ」
 本当に大した事とは思っていなかったから、すっと言葉が返る。そこで思い出したように振り向いた。
「そうだ。和衣、約束、忘れないでね」
 和衣の赤く染まり掛けていた頬が一層熱を帯びた。おばさんが何の事と訊いてくるが、どもるばかりでうまく返事が出来ないようだった。
 余計な世話を掛けたくない彼女の当惑も判るが負けは負けだ。多少意地の悪い言い方を最後に雪見荘を後にする。
「詳しくは和衣に訊いて、おばさん」
 和衣の恨めしげな視線に見送られながら、自転車を家へ向かって走らせる。
 途中眺められた桜並木を瞬く間に過ぎて、曲がれば家の前まで出るという所までやって来た時。
 歓声を上げて自転車の横を走り抜けていく幼い子供達と出会った。
 先頭の男の子がサッカーボールを抱えていて、どうやらみんなして近くの公園に向かっているらしい。それを追い掛ける子供達の中にはスカートがまくれ上がるのも気にせず駆ける女の子も見られ、まだ男女の正確な違いもその意味も判らない年頃なのだと見る者に語った。
 門をくぐり切った事を確認して急停車をかける。押しながら自転車をプレハブの倉庫に入れて鍵を掛けた後、外と中を隔てる玄関のドアを内側にスライドさせる。
「ただいま」
 奥から誰かが出てくる気配は無かった。昨日今日とママの仕事はオフの筈だから、多分買い物にでも出掛けたのだと納得する。
 部屋に帰り着いた場合、普通はもっとカジュアルな服装に替えるが、今日はそのままでいきなりベッドに腰を下ろした。
 殆ど音の無い部屋に一人でいると考え事ばかりが浮かぶ。ぼーとなったあたしの脳裏に帰って来る途中で会った子供達の姿が描き出された。
 あのぐらいの時はあたしも由斗と由斗の友達と暗くなるまで駆けずり回っていた。女の子にしては結構派手な遊びを好んだあたしが戦争ごっこやボール遊びに加わりたいと言っても、多少の文句と引き替えに一緒には遊んだ。
 そういえば由斗達が頼んでもあたしを仲間に入れてくれなくなった頃から、動きやすいように短く切っておいた髪が少しずつ長く変わって行った気がする。
 時刻は2時45分になろうとしている。もうじきおやつの時間だと気付いた途端、コーヒーが飲みたくなって来た。
 下に降りてすぐに冷蔵庫を物色し、食パンとマーガリンを取り出した。
 トースターをセットしてから今朝はまだ新聞に目を通していない事を思い出して、焼き上がりをじっと待っている間の暇潰しにしようと考える。
 テーブルの端に置かれた折り畳まれた新聞紙に手を伸ばし掛けた時。
 上にメモ代わりの広告紙がちょこんと乗っかっていた。精々どこに行って来るか書いてあるぐらいだろうと思い、気軽な気持ちで紙面を覗いた。
「・・・うそ! 先生から?」
 急いで取り上げて内容を確認する。
 広告紙の裏の白い部分、そこにあたしが出掛けている間に和美先生から電話があった事がママの筆跡で記されている。
 「帰り次第電話が欲しいそうです」との一文に続いて、ご丁寧に電話番号もある。
 こちらで和衣が暮らすに当たって、先生は既に澪おばさんに必要事項を伝えている筈だ。その上でおばさんでなくあたしと話がしたいとなると、見当が付かなかった。
 ちょっと考えて、受話器を取り上げた。但し、和美先生のお宅ではなくて、押した番号の先はさっき後にしたばかりの雪見荘である。
「はい、立石です」
 呼出音がかなりの回数鳴ってから、おばさんの元気な声がスピーカーから流れ出した。
「奏子です。澪おばさん、聞きたい事があるんだけど、いい?」
「何? あらたまって」
 くすくすと笑いながらもおばさんは了承してくれた。
 どう切り出すべきか、言葉を手探りしながら話した。
「今日、誰かから電話があった? 仕事以外で」
「あった事はあったけど・・・」
「誰っ?」
 普通に聞き返したつもりだったが、興奮から知らず大声が飛び出した。おばさんの耳にも随分と響いたようで
「いきなり、なに?」ちょっとびっくりした雰囲気で尋ねてきた。
 続いて幾つかの文句が聞かれる。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて謝罪しながら、何をやっているのかと自分自身に呆れた。和美先生が内密の件で掛けてきたのか、澪おばさんの所にも電話があったかどうかで判断しようと思っていたのに、当の彼女に勘付かれては何の意味も成さなくなってしまう。
「・・・名前を言ってもいいんだけど、多分判んないんじゃない? 千早ちゃんのお友達だから」
 優しく告げながらも声が怪しむような気配を帯びて来た。もしそれが杞憂だとしても、首ぐらい傾げているのは間違い無いだろう。
「後は倖乃がお昼過ぎに奏子ちゃんがいるかどうか訊いて来たぐらいね」
 それでおばさんの話は締め括られた。
 ママの用件はほぼ間違い無く和美先生からの電話の知らせだ。つまり澪おばさんの所に先生からの電話は無かった計算になる。
「奏子ちゃん、何かあたしに隠してない?」
 さりげなく聞くどころか逆にかまをかけられた。
 あせっ、あせっ。
「と、友達に今日は雪見荘にいるって伝えてあったから、もしかしたらそっちに掛かったのかなぁなんて・・・」
「隠してるでしょ」
 口調が確信を帯びたものに変化した。まあ、これぐらいの嘘で澪おばさんの追求をかわせるとは考えてもいなかったが。
「・・・奏子ちゃんにも事情があるんだろうから、無理には聞かないでおく。でも、やっぱり気になるからさ、そのうち話してね」
 変わらない優しい言葉に、却って声を荒げられる以上の罪悪感を覚えた。
 ごめんね。先生のお話が澪おばさんにも告げられる内容だったら、真っ先に伝えるからね。
 そう心に決め、胸の奥で懸命に頭を下げながら、会話を終えた。

 すぐさまメモにあった電話番号を順に押した。あまり重要な用件で無かったら好きなだけ文句を言ってやろうと半分は本気で考える。
「はい、森です」
 女性がすぐに応答した。声には聞き覚えがある気がしたけれど、苗字には全く無い。
「ごめんなさい、間違えました」
 受話器を置き掛けて気付いた。確かめるように再び耳に当てる。
 声の主は忍び笑いを洩らしていた。間違い無い。
「和美先生?」
 そう言えばあたしはまだ先生の変わった姓を知らなかった。
「思い込みの強さは相変わらずね、奏子ちゃん」
 森和美、旧姓関口和美はそう言って今度は隠さずにころころ笑い転げた。
 変わっていない性格を懐かしく感じた反面、先生なりの親愛表現とは言えあまりに直接的な反応が少々憎らしかった。
「それで? 用って何なんですか?」
 わざとつっけんどんに訊く。笑っていた先生が急に真面目な口調になって
「和衣、そちらで普通にやってる? 変な所を見せたりとか、そういうところはない?」
「そりゃあ、まだ結構色々ありますけど、女としての自分になじんでないからしょうがないです。でも努力はしてるようですし、これからおいおい慣れてくると思います」
 古着屋での和衣の慌て振りをあたしは思い返していた。
 確かに宣言した割には女の子の生活に一歩引いている気はするが、まだ経験そのものが少ないのだから、多少の戸惑いはあって当然だ。
 それでも、映える組み合わせを自分で選んだ辺り、洋服に関するセンスはいいと感じた。生活上のマナーそのものはこれから女としてやっていく以上幾らでも改善可能だろうが、センスの良し悪しは簡単には矯正できない。
「じゃあ、女の子として暮らしてみたいと言ったのは嘘じゃないのかな。それならそれでいいんだけど」
 一見納得したように思える先生の呟きはどうしてか少し歯切れが悪いように感じた。
 そう言えばさっきも先生は妙な事を口にした。和衣の素行が普通かとか何とか。
 今度はあたしが質問する番だ。
「あの、和衣が何か?」
 和美先生はちょっと躊躇してから
「奏子ちゃんはあの子の将来の夢について何か聞いた・・・ごめん、ごめん。まだ、そこまでの仲じゃなかったわね」
 最後は自らに言い聞かせるように呟いて、電話線を通しても聞こえる程の大きなため息を吐く。
「看護士の事ですか?」
 語調がちょっとムッとした。一時は嫉妬心から敵意も燃やした事もあったものの、和衣とは短い間にかなり親しくなったつもりでいたから。
「ごめんなさい。聞いてたみたいね」
 一旦得意の茶目っ気を交えつつ謝ってから、今度こそ先生は本当に明るい声を出した。何故か判らないが胸のつかえが軽くなった事だけは確かなようだ。

 お詫びだと言って、笑いながら和美先生はさっきまで自分の胸に引っ掛かっていた出来事を語ってくれた。
「看護婦試験の問題集が置きっ放しだったんですか!」
 先生が気に掛けていた内容があたしにもようやく理解できた。滅多に忘れ物のしない和衣の事、わざと本を置いて行ったかもしれないと先生は思ったのだ。
 だから和衣が変わらず看護士を目指していると聞いて、肩の荷を下ろした。
 几帳面な和衣が忘れものをしたのもそうだけど、何よりあの年で看護学校の生徒が受ける試験の問題に既に挑戦している事実にあたしは驚いた。おばさんの言ったように和衣の頭は本当にいいのかもしれない。
 その事を試しに先生に尋ねると「学業の方はどこに行こうと何も心配してないけどね」という答えが即座に返って来た。
「支度の最中でも暇さえあれば開いて見ていたから、もしかしたらそのせいで置いてちゃったのかもしれないわね。しょうがない、宅配便で送ろうか」
 億劫そうな言葉とは裏腹に声が明らかに弾んでいる。弟?の面倒が焼けるのが素直に嬉しい様子である。
「先生と和衣、本当に仲がいいんですね」
「あの子の物心付かない内に母親を病気で亡くしたから、それからの面倒は私が見たの。昔から遠慮がちな子で、病気もあまりしない方だったから育児の手が掛からなさ過ぎて逆に心配になったぐらい」
「ふーん、そうなんだ」
 正直羨ましかった。一人っ子のあたしに兄弟間の睦まじいやりとりは望んでも無縁だったから。
 戸棚や冷蔵庫にしまわれているお菓子がママを除いて独り占めできるのはそれはそれで喜ばしい事だけど、互いに文句を口にしながらそれでもちゃんと相手の分を残すのを忘れない友達とその妹の姿を見て、時々は無性に姉か妹が欲しくなった。
 和衣がこの街にやって来た事で、願望が多少は叶ったようだ。ちょっと頑固だけど、その分行動力も人一倍の妹である。
 先生の話では間違い無く頭脳の方も人一倍らしいから、あたしもクラスの一番くらいはキープしないとまずいなと思う。無論、和衣が同じクラスになったらそれも難しいだろうが。
 ところで先生にはもう一つあたし達への伝達事項が存在した。
「それじゃあ・・・お父様がみえるんですか? こちらへ?」
 向こうで院長を務める父親が現在この街を訪問する為に多忙なスケジュールの調整中だと先生は言った。早ければ始業式前にもやって来るつもりでいるらしい。
「父さんは和衣の事を可愛がっていたもの、看護士どころか今のままだと看護婦を目指す事にも繋がるあの子の姿には我慢出来ないと思うわ」
「やっぱり・・・」
 思わず呟きが洩れた。さんざん電話口でやりあって疲れた澪おばさんを思いだし、想像するだけで気が重くなった。
 でも、気勢を削がれてばかりでもなかった。逆に、和衣のいる今の生活を守ろうという決意、それが時と共に大きくなるのを感じる。彼女とは色々あったけれど、一旦受け入れた存在をはいそうですかと返すつもりはなかった。
 それから直に電話を切ったあたしは、勢いに任せて0から9までのボタンを捌いた。
 先生以上に素早く雪見荘へと電話を繋ぐ事に成功したらしく、報告を聞いた澪おばさんは随分と気合が入った様子だった。
 電話口で二人で意気投合した後、その日は何事もなく暮れていった


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