三角方程式

文 West

第1章 彼女

江口奏子様


 宛名の字の走り具合からして控えめかつ丁寧な往復はがきが初夏に舞い込んだ。くるっと裏返した途端、いかにも結婚式の招待状らしい文句が数行に渡って並んで、最後に新郎と新婦の名がしたためられている。2枚組になっているもう一方には往復葉書に付き物の出欠の確認。
 写真も何も貼ってなかったけれど、あたしは2人の姿を細かく思い描く事が出来た。但しそれは今から3年以上前の姿、こんなもんよねと思いながら徐々に想像を現在に向けて引き伸ばしていく。
 新郎の事も新婦の事もあたしはよく知っていた。新郎は今でもヘビースモーカーなのだろうか。もしそうだとしても、新婦の健康管理はしっかりしてそうだけに、結婚してまでその主義はまかり通らない気がするのだが。
 すぐに葉書にあった新婦の電話番号を回そうとして、一旦耳にまで当てた受話器を置いた。
 特に何か急用を思い出した訳ではなかった。彼女と久しぶりに声が交わせる、その胸の高鳴りから話したい事柄がどんどん増殖してひしめき合い、整理が付かなくなってしまったせいだった。
 彼女、そう彼女との関係が一番難しい。親友、恋人、そのどちらもそうだと、またそうでないとも言えるからだ。
 お預けを喰らった電話は文句も言わず、再び受話器が取り上げてもらえる瞬間を待っていた。
 受話器がワイヤレスの子機を兼ねているので、そのまま持ち歩く事が出来る、あたしは結局子機と葉書とを持って、その場は離れた。

 もう4年になるあの日、長年患ってきた片思いから解放され、あたしはまさに最高の気分を味わっていた。
 周りの景色がいつもと違った表情で飛び込んで来て、二人の側をまだ少々肌寒い風が吹き抜けていく。
 恋人が出来ると世界が違って見える。手垢の付いた表現だけど、それ以外の言葉ではこの気持ちを言い表せないと、幼なじみの立石由斗(たていしよしと)の横を歩きながら、あたし、江口奏子(えぐちかなこ)は思った。
 由斗は黙ったまま、少し前を歩いていってしまう。それでもあたしが遅れると立ち止まり、待っていてくれた。
 一大決心の告白から5日間、ようやくの初デートのあたし達。小さい頃から一緒にいたけど、逆にそれが災いして彼氏彼女の関係にはなかなかなれなかった。
「あ、ジェットコースターが空いて来たみたいだ。行ってみようぜ」
 遊園地でも派手な乗り物が集まっている一角を見ながら、由斗が叫ぶ。
 向こうでは、激しい回転の連続を売り物にしたジェットコースターがさっきから宙返りを繰り返していた。乗っている客の姿ははっきり見えなくても、絶叫だけは遠くまで届いた。
「うん・・・」
「何だよ。乗りたくないのか。お前、小さい頃からああいうのが好きだったじゃないか」
 んもう、ムードないんだから。
 男のコの耳には決して届かない言葉で、あたしは文句を言った。
「今はもっと穏やかなものがいいの」
「コーヒーカップとか? メリーゴーランドだけは恥ずかしいから勘弁してくれ」
「何で恥ずかしいのよ。ま、いいや。あたしが言いたいのはね、もっとカップル向きのアトラクションにしたらって事よ」
「ジェットコースターだってカップルで乗ってるじゃないか。良く女の子が野郎にしがみついててさ、それが可愛い子だと見る度に羨ましいなあなんて」
 へーそう。あれを見ながらそんな事を考えてるわけね。
 とても恋人とのデート中とは思えない由斗の無神経な発言に、あたしのただでさえぽっちゃりめの容貌はすっかり下ぶくれ状態になった。
 当然返事なんか返してやらない。
「おーい、奏子」
「・・・・・」
「カナちゃん」
 口を閉ざしたままのあたし。返事をする代わりにわざと早いペースで左右の足を交互に動かしてやった。
 行き交う他のお客達が微笑ましそうに二人を見つめ、そのまま通り過ぎていった。中には明らかなくすくす笑いを洩らす姿もあって、由斗は決まりが悪そうだった。
「奏子さま」
「・・・・・」
 カップルの男の方ばかりが盛んに無言の女へ話題を持ち掛けようとする状態のまま、あたし達二人は遊園地の中央に位置する休憩所へとやって来た。特に意識しての行動では無く身体の向いている方向へと進んだら、自然とここにたどり着いたのだ。
 まだ三月下旬という事もあって、置いてあるジュースの自販機は暖かい物と冷たい物が半々ぐらいずつ上下段に並んでいる。何も言わないうちから財布から100円硬貨を数枚取り出すと、由斗はガタンという音の後、ホットコーヒーを手渡した。
 少し俯き加減の彼に、まだ眉は20度近く釣り上げたままのあたしだけれど、そろそろ許してやろうかという気になって来ていた。やり過ぎてかわいげの無い女と思われるのも問題だった。
 もっとも、少しは反省したかなとの微かな期待に関してはすぐに跡形もなく打ち砕かれる事になったのだけれど。
「何よ」結局相手をしてしまう。
「顔が怖いぞ」
「あのねぇ」
 思わず顔の向きを元に戻した途端、由斗と目が合った。
 悔しいけど由斗はハンサムだった。地毛の筈の髪が少し茶色がかっていて、お日様の光が隙間を通り抜ける度、それが琥珀みたいにきらめいた。
 おちゃらけた性格さえ無くなれば、由斗はもっともてただろう。
 もっとも彼氏が人気が有りすぎると、他の子から凄まじいジェラシーの雨を降らせられる事になるから、それはそれで大変だと思う。
 ただでさえ、強力なライバルが消えて日が浅いのだ。
 彼女、関谷和美(せきやかずみ)さんは一年程前に教師としてあたし達の学校にやって来た。
 気さくな性格とモデルだって張れそうな抜群のプロポーションで、特に男子生徒の間で人気が高く、英語の教師のせいか考えも欧米的で、気に入った生徒を良く抱きしめたりした。
 最近のテストじゃ英語だけは妙に平均点が良いと言って校長先生は朝礼の時苦笑している。由斗も英語の成績が上がった一人だった。
 もっとも由斗が彼女にのぼせたにはわけがある。
「だって近い方がいいじゃない」
 お国の遠い先生は、それだけの理由から1q先のそこそこ見場のいいマンションを蹴り飛ばして、学校に一番近い、つまりは由斗の家の経営するアパートに間借りする事に決めた。その彼女の実家が土地では有名な病院と聞いて、お嬢様らしからぬ行動にあたし達は揃って目を丸くした。
 一つ屋根の下に教師と住む事になって、由斗も始めは緊張したようだ。でもすぐに打ち解けて、そして由斗は・・・。
「おい、奏子」
 先生を好きに・・・。
「奏子、奏子ってば。おい!」
 身体が強く揺さぶられる。
 気付くと目の前に由斗の顔があった。
「あ、ごめん。考え事してた。なに?」
「もうすぐ俺達の番だぞ。お化け屋敷」
 そう言われたあたしが由斗の指が指し示す方で見たのは、
”ノンストップコースターで回る世界お化けの旅”
「由斗、まさか、ここに入るんじゃ、ないよね」
「何言ってんだよ。自分でここまでずかずか歩いて来た癖にさ。お前、平気になったの? こーゆーの」
 平気な筈が無かった。今だって、逃げ出したいくらいだった。
 デカデカと文字と色で彩られた看板に膝の力が急速に抜けていくのが分かる。
 後ろから何か押されている感じがするけど、この際構わなかった。
「お客様、急いで下さいませんか」
 横ではドラキュラの扮装をした係員が、あたし達を睨んでいた。
 見回すと後ろに並んでいる人たちも同じ様な顔つきだった。
「すみません。ほら、行くぞ」
「まだ、心の準備が」
「時間がない。乗ってからにしろ」
「乗ってからどうやって心を落ち着けろっていうのよ。やだ、降ろしてよぉ」
 あたしの願いも空しく、二人を乗せたミニコースターは無情に発車した。
 数分後、数々の悲鳴がアトラクション内にこだました。気絶というおまけ付きで。

「あー、今日のデートは散々だったなぁ。夢まで見ちゃうかも」
 折角の土曜というのに遊園地にいた時間は2時間もない位だった。窓の外では未だ柔らかな陽光が降り注いでいた。
 ただの定番アトラクションかと思ったら、お化け屋敷のお化け達はどれ一つとして手の抜いた造りはされていなかった。バリ島の獅子舞もどきが握手を求めて来たり、大きなくす玉だと思ったら、それが赤い目をのぞかせたり。
 とどめはコースターから降りた後の鏡の部屋だ。始めはただの鏡だったはずなのに、急に像が歪み出して、漫画に出てくるような悪魔の姿にと変わった。振り向くと自分の姿が映っていて、安心した途端、今度はそれがにやりと笑い掛ける。
 思い出しただけで、また気絶しそうだった。
 無理やり遊園地での一件を頭から追い出し、ラフな格好のワンピースに着替えて階段を降りる。
 居間に入ると、待ってたわとママが言った。
 落ち込み気味のあたしの様子に、笑いながら優しく告げる。
「遊園地、楽しかった?」
「・・・・」
「ふふっ、激しい乗り物は男の子以上に平気なのにね。まあ、でも、そのおかげでユウちゃんに介抱してもらえたんだし、カナにとっては悪いばかりでも無かったって事なのかしら」
「・・・で、待ってたって何を?」
 話題を変えるためになるべく平静を装って尋ねたものの、身体の奥では心臓の鼓動がアレグロのリズムで動いていた。
「今日新人の歓迎会をやるんですって。私たちもいらっしゃいって澪(みお)から電話があったの」
 立石澪というのはママのお友達で、近所で雪見荘という女子学生専用のアパートを経営していた。大雪など滅多に降らないこの地方に、建物の外観が真っ白だというだけで、好きな草花にちなんで命名したらしい。
 世間で言う所の未亡人に当たる澪おばさんは今はたった一人の息子と暮らしていた。それが由斗で、つまり彼の周りは女ばかりという事になる。
 その中には例の和美先生が住んでいた202号室もあり、もう2ヶ月近く空き部屋となっていた。
「そうか、先生の後に誰か入るんだね。どんな人なの」
「それがさ、びっくりするよとしか電話口では言わなかったのよ。澪ったら意外とけちくさい所があるんだから」
「そうだね」
 これでまた由斗の周りに綺麗な女の人が増えるのかなぁ。そう思っていたからあたしの相づちは自然、生返事となって伝わったようだ。
 当然ママには心の内を見透かされて
「なーに? ユウちゃんがカナを捨てて浮気に走るとでも思ったの?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど」
 否定するあたしを見るママの目が笑っている。
「そうねぇ。おちゃらけてるように映るけど、根は純情だものね、あの子。今までは年の離れた女性ばかりだったしあまり影響なかったけど、今度の娘(こ)は結構年も近そうだし」
「!・・・おばさんに聞いたの?」
 そんなわけないでしょ、あくまでも予想よとママ。
「あ、そう・・・」
 勢い込んで尋ねた分、どっと気が抜けた。ママはそれから撫でるようにあたしの頭を優しく叩いた。
「ユウちゃんが女の子といい加減につき合うような男かどうか、あなたが一番知ってるでしょ。仮にも彼女なんだから、多少うぬぼれてるぐらいでいいのよ」
 あのね、ママ。仮にもってのはちょっとひどくない?
 愛娘相手とはとても思えない無茶苦茶な表現にはほんの少し腹が立ったけれど、膨れつつあったもやもやを薄れさせてくれる効果はあったようだった。
 会うとびっくりするとかいう新人さんを拝んでやろう。
 それからあたしはママを待たせ、清楚さを失わない程度に念入りな化粧を施した。髪を右サイドに寄せて垂らし、仕上げにレモン色のリボンで可愛らしさを強調した。
 鏡に映った姿は自分でも満足の行く出来映えだった。ちょっと幼なじみの彼氏の所に遊びに行くのには気合いが入り過ぎたかもしれない。
 けれどあたしはそのまま部屋を出た。相手の娘がすごい美人かもしれないもの、このくらいはハンデよねと思い直しながら。

 あたしとママが出掛ける支度を整えた頃にはもう夕方を迎えていた。
 雪見荘が家の近所と言っても徒歩では十分以上掛かる。途中に桜の並ぶ川縁があり、少しずつ咲き揃い始めた花々はすっかり日没の太陽に染まりつつある。ピンクと朱の微妙なコントラストの下を、ママと二人で歩いていく。
 時折吹き付ける強い風が花びらを散らし、やがて来る春の本格的な訪れを予告する。
 並木を抜けるとそれまでとは対照的な、車の雑踏が飛び込んで来た。右に曲がって直に見える交差点を左に折れると、白い雪見荘の建物が頭だけ姿を現した。
 学校へはこの道を真っ直ぐに行き、二つ目の交差点を右に曲がれば良かった。
 目的地である2階建てのコンクリのビルの敷地内に入ると、どこからか見ていたのか澪おばさんが両開きの玄関の扉を開け、あたし達を歓迎してくれた。
 その横には見慣れぬ綺麗な少女が少し緊張した面持ちで立っていた。彼女が例の新入りさんなのだろう。
「関谷、和衣です。よろしくお願いします」
 あたし達と視線が合った瞬間、美少女は照れたように俯き加減になったものの、すぐに丁寧に自己紹介をした。
 何も化粧品なんか付けていないのに健康的なピンクに色づいた頬、一目で肌理(きめ)細かな肌の持ち主と分かる。
 彼女のお姉さんが誰だか、あたしにはすぐに理解できた。それぐらい、良く似ていた。
 先生とお別れする時の由斗は意外にあっさりしていた。親の決めた相手との結婚の為に里に戻った先生。何でもはきはきと言う先生が、親の言いつけに素直に従った事に対して由斗は何も言わなかったけれど失望したのかもしれない。
 その由斗は新人歓迎会の為の買い出し部隊として住人の一人の佐伯千早さんと出て行ったとおばさんが教えてくれた。
 歓迎会は和衣の部屋で行われるらしく、会場である202号室では飾り付けが殆ど完了していた。
 後は適当に食べ物や飲み物を並べさえすれば、賑やかに会が始められた。
「それにしても驚いたわ。まさか関谷先生の妹さんが雪見荘に入居するなんて。お姉さんから話はあったの?」
「まあね。ま、でもこの通り、無くても素性の方は見れば分かるから」
「そうねぇ」
 正座したままの和衣を無遠慮に全身眺め回しているママ。
「あ、あの」
 懸命に俯くようにして視線を避ける彼女から、困惑した様子で声が響いた。
 そこでようやくママは自分が職業病を出していた事に気付いたらしい。
「あ、ごめんなさい。スタイリストなんて仕事をしてるとね、ついつい素材の検分をしてしまうの」
「素材?」
 そう聞き返す彼女の黒い瞳に重なるようにして、それよりは幾分色の薄めな睫が揺れた。
 単に容姿端麗なだけじゃなかった。清楚に見えるのにドキッとさせるような色気を和衣は含んでいた。
 殆ど素顔とも取れる薄化粧が施された容貌に微かな翳りが見えていた。
「和衣さんて、年幾つなの」
「14です」
「えーっ、同い年?」
16には見えていたから、かなりびっくりした顔をあたしはしていたことと思う。
 大人びて感じられるのは背が高めなせいなんだろうか。おそらくは165p前後、150そこそこのあたしが相手の場合、あたしの頭あたりに彼女の目がある計算になる。
 首を傾けたままでもまだ5pは上方に視線があり、見下ろすようにして彼女は見ていた。
 暫くしておばさんがすっと立ち上がって
「奏子ちゃん、由斗達がじきに戻ってくると思うから、それまで和衣ちゃんの相手をお願いするわね」
「あの、おばさんは」
「まだ準備の方、残ってるの」
 それから思い出したようにママの方を振り向いて
「そうだ、倖乃(ゆきの)も来てくれない? 何せ大勢でしょ。2人が帰ってくるまで料理の方、仕上げておかないと」
 目配せを受けたママがすぐに正座を解いて、立ち姿に変わって扉の方へと歩いていく。と、無情にも2人は部屋から消えてしまった。
 後にとり残されたあたし達はしばらくどちらからも口を開かなかった。特に彼女に敵意を抱いていた訳ではなかったけれど、和衣が先生そっくりの美人であることが心の片隅に引っかかっていた。
 かなり経ってから和衣が呟いた。
「由斗さん達、遅いですね」
「・・そうね」
 あたしも同じ事を考えていたので相づちを思わず打ってしまう。
 一緒に行った千早さんは年下に興味が無いタイプだ、それは本人がよく口にしたし、お似合いの彼氏もいた。
 けれど、彼氏が他の女性と長いこと行動を共にしていれば、誰だって多少は不安になる。特に彼が前の女性の事を吹っ切ったか自信の無いあたしのような場合は。
「佐伯さんでしたっけ、一緒に行った女性。大人っぽくて、綺麗な方でしたよね」
「ええ」
 千早さんも麗しさの漂う外見に似合わず気さくな性格、つまりは和美先生とよく似たタイプの女性だった。由斗の彼女に昇格する前には、馬の合うらしい彼女と由斗の姿に心の中で激しいヤキモチを抱いた事も少なからずあった。
 笑みがぎこちなく変わった事が自分でも把握できた。けれどもどうしようも無かった。平静を装って言葉を返す最中にも、考えたくなかった嫌な想像が急速に形を為していくのだ。
「あ、あの、先生は元気?」
 あたしは話題を変える事にした。このままでは不安が膿のようにとごり、いつしか制御を失って溢れ出してしまいそうに感じたからだった。
 少し驚いた様子の和衣はじっとあたしの顔を凝視していたが、やがて俯き加減で口にした。
「ええ・・・」
 それからは黙ったきりであたしと視線を合わせようとしなかった。お姉さんの事に触れたのが原因らしい。先生と相手の男性はいわば政略結婚だから、夫婦仲がもしかしたらうまく行っていないのかもしれない。
 結局互いに適当な話題を見つけられず、由斗達が戻って来るまで一言も交わさずじまいだった。

 聞き覚えのあるエンジン音。次いで重なるようにして男の子の「ただいまー」と威勢の良い声が響きわたる。
 由斗だった。
 和衣と2人っきりの重苦しい沈黙から解放され、弾む足取りでドアノブに手を掛けた。
 1人で階下に降りるつもりだったあたしは、ドアを元通り閉じておこうとして、もう1人部屋を出た事に気付いた。
 一旦くるっと後ろを振り返って
「いいよ、和衣さんは大人しく座ってて」
 これから盛大に行われるのは彼女の歓迎会なのだ。その彼女を歓迎するのに主賓である当の和衣が忙しく立ち働いては元も子もない。
 けれども和衣は頑として首を横に振って
「でも、私の為に開いて頂くパーティなんですよね」
「それはそうだけど・・・」
「でしたら、お手伝いさせて下さい」
 口調はあくまでおっとりしていても、芯はなかなかに強そうな彼女。煌めく瞳は不退転の決意を固めている。
 このまま話し合いが平行線を保ったままでは、肝心の由斗達の手伝いの方がおろそかになってしまう。そう思ったから結局は彼女を連れて階下へ下りた。
 トントントン。
 軽快なリズムで玄関に到着したあたし達二人の前に、手に一杯荷物を下げた由斗達が現れた。中にはジュース入りのペットボトルとかも有って、見るからに重そうである。
 荷物のあまりの多さにちょっとひるんだ隙に和衣が進み出た。
「私、手伝います」
「あ、あたしも」遅ればせながら告げる。
「じゃあ・・これ、頼むよ」
 両手が塞がっているため、顎の動きで抱えている箱の上の袋を示した。
 けれどもお菓子ばかりで軽そうだったそれをあっさりと和衣はあたしに譲って、由斗の抱えていたお酒の大箱を指で指し示した。
「それを」
 由斗が目を丸くした。
「これぇ? 重いよ。女の子じゃあ」
「それじゃお2人がちっとも楽にならないでしょう? 私なら大丈夫ですから」
 悔しいけど魅力的な笑顔を浴びせ由斗から一番重たそうな箱をもぎとる和衣。手に持つ時にこそ顔がひきつっていたものの、後はしっかりと抱えながら一段ずつ上り始めた。
「おい、本当に大丈夫か」
「はい。由斗さん達は次の荷物をお願いします」
「次の荷物たって、なぁ」
 由斗が傍らの千早さんを見た。
「無いわよね、そんなもの」
 そして二人で顔を見合わせる。
「・・・やっぱり、俺持つよっ」
 まだ手に持っていた袋を玄関の上がり端に全て放り出すと、段々辛そうな表情に変わって来ていた和衣の所まで駆け上っていく。
「本当に大丈夫ですってば」
「蒼い顔してるくせに。貸しなよ」
 箱を奪われた途端に和衣の両腕は力無く垂れ下がった。言葉とは反対にかなりの疲れだったらしい。
「ここまでよく運んだよ。女の子にしちゃ、力があるよな」
 階段は残り4段しか残っていない。全部で12段だからあの大箱を実に3分の2独りで玄関からここまで持ち運んだ計算になる。はっきり言ってあたしでは無理だった。
 多分大柄な為だろう。結構彼女、腕力の方があるようだ。
 由斗のほめ言葉に対し和衣は何も言わなかった。まあ、力持ちだと言われて喜ぶ女の子がいたらその子の方が珍しい事は珍しいのだが。
「へーえ。いい娘じゃないの。由斗、役得だねッ」
「ば、ばか千早! 下らない事言ってんじゃない。・・・う、うわあ」
「危ない!」
 からかわれたせいで足を運ぶリズムを由斗が崩す。段を踏み外しそうになり、思わず瞼を伏せたあたしが再び目を開けた時、抱きかかえるようにして彼の身体を背後から支える和衣の姿があった。
 ほっとした反面、あたしの中でもやもやしたくすぶりが生まれた。
「あ、ありがとう」
 照れた様子で由斗が軽く頭を下げた。
「いえ・・・それよりお怪我の方、無かったですかっ」
「ああ。後は1段だけだから問題無いよ」
「良かった・・・私、他の荷物を取ってきます」
 勢い良く降り下ってきた和衣が千早さんから袋を受け取ろうと手を差し出した時。
 乾いた音と共に和衣の掌に何かが重ねられた。
「下らない女が来たら虐めて追い出してやろうと思ってたけど・・・歓迎するわ、関谷和衣さん」
 彼女は重ねた手で強く和衣のそれを握った。
「うん? もう新人さん、来たの?」
 目をこすりながら1階の廊下を騒がしくなった玄関に向けて女の人が歩いて来た。いつも寝癖のようなソバージュ髪がトレードマークの彼女は鏡麻優(かがみまゆ)さん。女優のような名前だけど、これでもれっきとした本名だと本人はいう。
「お早う、麻優。ほら、この娘が和美先生の妹の」
「和衣ちゃんだったかしら? あらあら、可愛いわ。私、鏡麻優です」
「関谷和衣です。よろしくお願いします」
 和衣が丁寧なお辞儀を返す。
 彼女は前からここに暮らしていたかのように、違和感無く住人の間に溶け込んでいく。
 以前にもこういった光景を目の当たりにした事をあたしは思い出した。和衣の姉、関谷先生がこのアパートに住もうとやって来た時だ。
 先生もまたお客様扱いに甘んじていないで、あれこれと立ち働く人だったと思う。
「どうしたの、カナ。さっきから元気無いなぁ」
「別に・・・」
 そう呟いたきり、虚ろな足取りで手に持った段ボール箱を運んだ。何か答えられるような、とてもそんな気分ではなかった。
 しばらくすると荷物をすっかり運び終えた皆は2階に上がって行った。階下に留まったあたしは少しの間階段近くでぼんやりとしていて、それから台所の方へと力無く歩いていった。

 台所に足を踏み入れた途端に熱気が襲ってきた。ママとおばさんが総勢7人ものチャーハンを用意するために大粒の汗を浮かべている。
「どうしたの。沈んだ顔して」
 肉を刻む包丁の手を休めたママが、気遣わしげな視線を向けて来る。
「何でもない」
「そう・・・」
 ため息が聞こえ、再び包丁とまな板の小気味よい音が耳に響き渡った。
 ここには彼女はいなかった。
 どうしてこんな思いをしなくちゃならないのだろう。
 これから楽しいはずの歓迎会が始まるのに。
 何だか帰りたい。
「小さい頃から虐められたりするとカナは私の所にやって来ていたわね。ひょっとして、和衣さんと何かあったの」
 ピクンとあたしの身体が痙攣を起こす。それでもあたしが返したのは「別に」という一言だった。
 「そう」と再びママ。
 横では澪おばさんがチャーハンの香ばしい匂いを立てていた。
「困ったなぁ。奏子ちゃんに和衣ちゃんの面倒を頼もうと思ってたのに。うまくいかないんじゃねぇ」
「・・・」
「しょうがない。奏子ちゃんには教えておくか。他の人には絶対内緒だからね。由斗にもよ。いい?」
「教えるって・・・ちょっと、澪?」
「やっぱり年の近い味方がいた方が和衣ちゃんにもいいと思う。奏子ちゃん、それに倖乃も。側に誰もいないか確かめて」
「う、うん」
 怪訝に思ったあたしだけど、結局は好奇心が勝って澪おばさんの指示に従った。ママの方は尚も何か言いたそうだったが、おばさんは構わず話を始めた。
「OK。じゃ、話す。和美先生には妹はいないの」
「それじゃ従姉妹とか?」
 だとしても同じ事だ。和美先生と同じ魅力を醸し出す存在そのものがあたしの胸の内に引っかかっているのだから。
 大仰にかぶりを振ったおばさんがしばらくして告げた。
「和衣ちゃんは男の子なんだ」
 ママには驚いた様子は無かった。202号室を後にした時に話を聞いたようだった。
 無意識のうちにママの方を向いたあたしに、後押しをするように頷いた。
「あたしも澪から話を聞いた時、俄には信じられなかったわ。まさか、弟さんだなんて」
 それでもあたしにはすぐには2人の言葉が理解できなかった。ややあって甲高い叫びが狭い台所内にこだました。

 簡単に信じろと言う方が無理だった。
 本当の女のあたしでさえ羨ましいぐらいの細身の体型、見ていると吸い込まれそうな円らで濃い黒の瞳、それに長い睫。どうみても女の子、それもとびっきりの美少女の彼女が、実は彼だという。
 本来なら気持ち悪く感じるところかもしれないが、彼女の場合、聞いた今でも半信半疑の状態だった。その代わり、男の子でありながら通常の女の子以上に恵まれた容姿を得ている事に軽い嫉妬を覚えていた。
 ただ、お陰でさっきまでのようなのし掛かる感情からは随分と解放された。きっと彼女が男の子と知った事で、恋敵(ライバル)にはなりようが無いと納得できたからだろうと思う。
 それでも、気になる点も残っていた。
「澪おばさん。和衣さんて、何で女の子の格好してるの? ニューハーフ?」
 もしそうだとしたら、男の由斗を好きになっても不思議はない。実際、由斗から大箱を奪い取った時の和衣は男の子の心を溶ろかすような笑みを彼に振る舞っていた。
 おばさんは笑って
「残念ながら外れ。和衣ちゃんがああいう格好してるのは雪見荘に住む為。仮にも女性専用でしょ、ここ」
 言われてあたしはここでは由斗1人が男性だったと思い出した。女性ばかりに囲まれる彼の姿に嫉妬心を抱いた事もあったのに、すっかりその事実を失念していたのである。
「そうか、そうよね」
 ならば由斗にちょっかいを掛けているように見えたのも、彼女なりに女の子らしい愛想を振りまこうとした結果かもしれない。
 今度こそどろどろした思いが綺麗さっぱり消え失せ、淀んでいた表情が明るくなった。ママもその変化に気付いた様子で
「安心した?」
「や、やだな。急に何を言い出すんだろ」
 平静を装ったつもりがしっかりと狼狽えたあたしの姿に、2人は目を細め、ころころと笑った。怒った様子で睨み付けたが、頬が赤くなるのが自分でも判った。
 一頻りあたしに意地悪い笑いを見せてから、真顔に戻っておばさんが続けた。
「最初に和衣ちゃんから電話があった時、ここに住むつもりなら女の子になってもらわないと困る、試しにそう言ってみたのよ」
「澪、あなたねぇ・・・」
「こちらとしても人様の子供を預かるんだからさ、気構えがどの程度のものか知りたくなるじゃない。あたしとしては、最終的には由斗の親戚筋の男の子として置かない事もない、そういう腹づもりだったんだけど」
 和衣の態度には訊いたおばさん自身、かなりびっくりさせられたようだ。彼女ははじめからその事を知った上で女の子として暮らす決意を固めていたらしい。
 その決意の大きさを示すように、和衣は遠くから電車に乗ってレモンイエローのミニ丈のワンピースに白のカーディガンという出で立ちでやって来た。下着や服など必要な身支度は全てお姉さんが整えてくれたと彼女はおばさんに言ったという。そんな事を手伝うくらいだから、殊の外先生と和衣の兄弟仲はいいのだろう。
「親御さんの元を離れて随分心細いでしょうね」
 思いに沈んだ様子で呟くママは心配げな表情を見せていた。
 考えてみればあたしなど未だに県境を独りで跨いだ経験すら無い。中学生の内に家を出て県外で生活する事がどれ程勇気を必要とするのか見当も付かなかった。
「カナもつまんないヤキモチなんか焼いてないで、しっかり和衣ちゃんを助けてあげるのよ」
「う、うん」
 和衣がどれだけの決意を秘めていたかを知って圧倒されていたあたしは素直に同意する。おばさんが続けた。
「ここに住む以上はあの子も健康な14の少女ってことだから、学校にも行って貰わないと。倖乃、手続きの方は頼んだわね」
 即座にママが頷いた。中学校そのものは義務教育だから、編入は可能である。しかし、性別を詐称する事になるから、その辺りを顔の広いママにうまくやってくれと言うのだろう。そういえば校長の奥さんとも結構親しいと聞いたことがある。
「和美先生の妹さんだから、きっと頭いいわよ。できんぼの由斗に教えて貰わないと」「それならカナも」
 あたしはママを睨む。
「ちょっと! これでもクラスで一番なんですからね。いくら何でもひどくない?」
 けれどもママとおばさんの発言はやがて現実となった。新学期に行われたテスト以後、不動の学年一位を和衣は手に入れたのだった。
 無論その時点のあたしには知る由もなかったが。

 ママとおばさんが顔を覗かせた時、あっさりとあたしの外泊が決定した。場所はここ、和衣の部屋202号室である。
 あたしと和衣を出来るだけ仲良くさせる事でこの先の和衣の面倒を見させようというママ達の魂胆だった。
 幾ら女の子の格好をしていても男の子と一つの部屋で寝るのだと思うと、少なからず緊張した。聞いた和衣は目を見張ったが、結局は何も言わなかった。
 パーティの方はおばさんの料理が届いた事で本格的に開始された。
 澪おばさんの手際の良さはさすがだった。見る間にテーブルに巻きずし、お稲荷さん、鉄火巻きなどが綺麗に、それでいて映えるように並べられていく。
 それにさっきママと一緒に作っていたチャーハンが加わる。
 あたしと、それから和衣も今は女の子なので、ママ達と4人でよそってはテーブルに並べていた。もちろん由斗を除いて女の園なので、女手は他にもあるのだが、和衣の場合はアパートの細々とした雑用やおばさんのお手伝いする代わりに家賃はチャラという契約らしく、言ってみればここにいる間、澪おばさんの娘になるようなものだ。
 最初和衣の手つきはまずくて、今までおぼっちゃま(今はお嬢様というべきか)育ちだった事がありありと見て取れた。それでも人数分の米を乗せたお皿の大群がテーブル上に陣取る頃には彼女の動きも随分と慣れたものになったから、飲み込みはかなりいいようである。
 これだけのお寿司にチャーハンを用意するとなると、お昼ぐらいから澪おばさんは頑張った事だろう。
「いただきまーす。うん!」
 しっかり握られているのに、口に入れると酢飯がさっとほどける。お寿司に限らず、澪おばさんの料理はいつも美味しかった。お陰で由斗の舌は肥えてしまって、手料理で釣ろうなどという考えが全く通用しない。
 もっともあたしの作る料理など、その大半をママに手伝ってもらう羽目になるのだが。
「ほらっ、和衣さんも食べてみなよ。おばさんのは本当に美味しいんだから」
 いかにも管理人の娘といった様子で住人の間を甲斐甲斐しく給仕に走る彼女に並んでいた大皿の一つを押し付けた。
 現金なものだ。ヤキモチを焼く必要が無くなった途端、今度は女の子の世界に馴染もうと全身全霊で努力する彼女の姿に好感を覚えた。
「和衣ちゃん、もう充分お手伝いしてもらったわ。今日は貴方の歓迎会なんだから、沢山食べて」
「・・・はい」
 ややあって戸惑った様子で手を伸ばした和衣の円らな瞳がさらに丸くなった。
「美味しい!」
 続けざまに2、3個放り込んでから、あたし達の視線に気付いて顔を赤くした。きっと女の子としてはしたない行為だと思い至ったのだろう。
「後先になったけど、このアパートでのルールを説明するわね」
 楽しそうに和衣の様子を眺めていたおばさんが一旦食事の手を休めながら、
「まず、門限は11時。これを超える時は事前に理由を連絡すること。連絡の無い場合、閉め出しますからね。くれぐれも裏塀の柿の木の根本にあるブロックを外して通るなんて真似はしない事」
 背後で何かを吹き出す時のような音が聞こえた。
 あたしには誰だか分かるから、わざわざ振り向く必要などなかった。
「いい、千早ちゃん」
「気付いてたの? なんだ」
「反省が無いようなんで、今度左官屋さんに来てもらうわ」
「そ、そんな・・・」
 それまでも賑やかだった場が笑いで更に華やいだ。
「あーあ、いっぺんで酔いが醒めちゃった。もう一遍飲み直そっと」
「もうっ、倒れるよ」
「大丈夫よ」
 そう断言したにも関わらず、1時間後には千早さんは大きなまぐろとなって高いびきをかいていた。
「しょうがないなー」
 酔い潰れた姿に頭を抱えながら、あたしはオレンジジュースを口にした。無くなったと思った瞬間、コップいっぱいにジュースが注がれた。和衣だった。
「あ、ありがとう」
 再び満たされたコップを受け取りながら、戸惑いがちに口にした。
「美味しいお寿司を勧めてくれたお礼です」
 ペットボトルを両の手で支えた彼女の双眸がいたずらっぽく輝いていた。
 それからも談笑や酔いが回った人物の上戸などの喧噪に包まれ、歓迎の宴は夜遅くまで続いた。

 その日の晩、和衣の実家から電話があった。受話器を取り上げたのは澪おばさんだったが、相手の鼻息が相当荒い事が、見ていたあたし達にも受け答えの端々から理解できた。
「とにかく! ご子息自身が充分考えられた上での行動ですから、幾らお父様のご希望でもですね」
 普段は温厚な澪おばさんの口調が珍しい事にとげを帯びていた。
 父親は尚も何か喚き続けたらしく、おばさんはうんざりした様子で受話器を心持ち耳から離していた。
「ええ。ですから当方としては一向に構わないと・・・はい、はい。それでは」
 ぶつけるように受話器が受け台の上に置かれた。会話が済んでからもおばさんの表情は依然険しいままだった。
「やんなっちゃう。和衣ちゃんの事、自分の所有物のようにしか考えていないんだもの。封建時代の父親の典型よね」
 しばらく経って険のある足取りで戻ってきたおばさんはどっかと腰を下ろすと、手近にあったビールの缶に手を伸ばした。そしていかにも立腹した様子で吐き捨てた。
 和衣さんはそんなおばさんの悪態を下を向いたままで黙って聞いていた。怒ったようには全然見えなかったから、娘?である彼女自身もそう感じる事があるのだろう。
「大事な長男に女装癖が付いたらどうするつもりですって。その時はここからお嫁に出して上げるわよ。ねぇ、和衣ちゃん」
 あたしとママにしか和衣の性別について告げていない事も忘れ、おばさんの愚痴は続いた。秘密を知らなかった人間が一斉に和衣を見た。
 ねぇと同意を求められても取り敢えずはここ雪見荘に住む為だけに女の子の格好をしている筈の和衣である。いきなり大勢に性別がばれてしまった事に随分と戸惑いを感じた様子だったが、やがてしどろもどろに肯定らしき返事をした。
「幾ら大病院で跡継ぎを離したくないかもしれないけど、行き過ぎよ、あれは」
「僕、跡継ぎなんかじゃ」
 思わず叫びかけた和衣は男の子向けの一人称を使ってしまった事に気付いて不意に言い淀んだ。
 ややあって彼女は大人しめの口調で言い直した。
「私、跡継ぎなんかじゃありません」
 あたしは彼女の姉、つまり先生が結婚していた事実を思い出した。相手の男性は将来有望な外科医という触れ込みで、その彼が病院を継ぐ手筈になっているようだった。
「父は私が志望高校に看護学校を書いた事が気に入らないんです。あんなものは女の目指すものでいっぱしの男がやるもんじゃない、それが父の口癖でした」
 下を向いたままの和衣の唇が、小刻みに震えていた。
 和衣の話が本当なら、看護士という職業が気に入らない和衣の父親は跡を継がせる気の無い長男の自由を親と言うだけの理由で拘束している事になる。澪おばさんならずとも腹が立った。
 和衣が女の子としての暮らしをあっさり承諾したのも、背景に男女の枠に拘る父親への反発があったのだとすれば納得がいく。それでも独りで生活する事を決意する迄には随分な葛藤を続けたに違いない。
 男としては普通以上とはいえ、今の性別の基準では大柄な筈の和衣の身体が、急に小さく見えた。守ってあげなきゃ、思いが湧いた。
 千早さんのように和衣が男だと知らなかった人達は目を白黒させていたが、概ね同情的で女の子の姿をしている事を詰ったりはしなかった。由斗だけは階段で助けられたとき多少のときめきを覚えたのか、複雑な表情でいつまでも和衣の事を見つめていた。

 細い電灯の紐を引いて2本の蛍光灯を消す。空き缶や空き袋の散乱していた部屋は今は綺麗に片付けられて二組の布団が並べられている。
「そろそろ寝ようか」寝る準備を整えてから随分経ってどちらともなく布団にくるまったあたしと和衣。その丁度正面に当たるガラス窓の向こうで星が密やかな光を放っていた。
 春とはいえ12時過ぎとなれば結構冷えた。時折寝返りを打つ時の布団のガサゴソという音を除いて、微かな息遣い以外は聞こえて来ない。
 下ではまだ賑やかしい笑い声が響いているから、恐らくは麻優さんの部屋辺りでどんちゃん騒ぎが続けられているのだろう。もしかしたらまた千早さん辺りが飲んだくれて倒れ込んでいるかもしれない。それを確かめる気はあたしには無い。
 和衣に寝付けた様子は無かった。彼女が女の子の生活を始めてから間もない。今まで面識の無かった異性が隣に寝ていて、心を落ち着かせようとしても簡単には問屋が下ろさないだろう。
 お互いこれでは寝られそうにもない。あたしは和衣に話し掛ける。
「和衣、起きてる?」「うん」
 掛け布団はそのままで返事だけが聞こえた。先程もだけれど懸命に女の子らしい声音を作ろうと和衣は努力していた。
 そういえば宴会の時、なかなか丁寧語の抜けない彼女に、あたしの事をカナと呼ぶよう指導した。かなり困った表情の和衣だったが、仲の良い女子は皆呼んでいると言ってやると、ばつの悪そうな顔になって丁寧語の廃止と共にもごもごと練習していた。
 随分と時間が掛かっていたけれど、練習は効を奏したらしい。
 知らず洩らしたくすくす笑いを当の和衣が聞き付ける。
 整った顔立ちに怪訝な色を浮かべて、笑い続けるあたしを見ている。
「何でもないよ」
 それから一層きょとんとなった和衣と見つめ合う形になって
「ね、和衣は将来やっぱり看護士? あ、今のままだと看護婦さんか。似合うだろうなぁ」
 再び布団に潜ったあたしはそうなった時の和衣の姿を想像して楽しんだ。
 元の姿を知らないせいもあるのだろうが、しきりに首を捻る彼女の姿は可愛らしく、少年の方には分類できなかった。
 真面目で努力家で男の子の部分を併せ持つ少女、それがあたしの中での和衣の位置づけだった。
 どういうものかすぐには和衣は口を開かなかった。やがて布団の向こうから訊いて来た。
「私、お姉さんに似てるかな」
 何だか確認を求めるような口調だった。間髪を入れずにあたしは「うん。そっくりだよ」と頷いた。
 何故急にそんな事を訊いて来るのか気にならないではなかったが、彼女が先生を若くした姿に瓜二つであり、初めて会った時に必要以上に嫉妬を感じたのは事実だった。
「良かった・・・」
 見えないけれど和衣は微笑んだようだった。
 緊張の糸が解けたのか、直に安心した様子で可愛らしい寝息を立て始めた。
 その穏やかな響きを楽しんでいる内に、いつしかあたし自身も眠りに落ちた。


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