考えれば分かること 第一章 河井直実

 ノリシロ作

 世界が不思議なきらめきを持ち始めたように感じました。
 聖者がこの世に現れたような奇跡が私に起こったのです。 
 見るもの、聞くもの、すべてが新鮮です。
 そしてそれらがきらびやかで貴いものであることを初めて知りました。
 夜空はこれほど神秘的な静けさを心にもたらすものだったのですね。
 音楽は私の心に喜びを満たしてくれます。
 子供がおもちゃを与えられたように、私は経験する喜びに驚き震えています。 
 呪われた人生を送っていたと思っていた自分が恥ずかしいです。
 今まで周りの人たちに抱いていた憎しみはさらさらと崩れ落ちましたようです。
 ごめんなさい、おかあさん、おとうさん。
 私は本当に幸せです。
 今日ほど神様に感謝したことはありません。
 すべての人が幸せでありますように。
 そして、彼女に幸運がもたらされますように。
                        (河井直実 5月15日の日記)   

 第一章 河井直実

 河井直実は感情を表に出さない内気な子だった。そんな直実のことを周りは暗いといって特に関心も示さなかった。
 そんな状況を直実は別に苦には思ってはいなかった。友達がいなくても生活に不便はないし、煩わしいことに巻き込まれる心配もなかったから。
 河井直実にとって学校という場所は、仮面舞踏会のようなものだった。素顔は決して見せてはならないのだ。
 直実にとって家庭も同じような場所だった。
 直実は時々夢を見たり、突然に思い出す映像があった、それはチャップリンの映画のようにモノクロで音のないものだった。

 直実は幼稚園の年長だった。
 小さな直実は先生が植木の肥料にしようととっておいた鶏の腐った卵を壁に投げ付けていた。
 それが壁にあたってグシャと割れるたびに、生臭い匂いが周りに広がった。
 何度も何度も壁に向かって投げ付けた。
 特に面白いわけでもなかった、それでも投げ続けた。
 幼稚園で飼っている猫が通りかかると、それに向かって思いっきり投げた。
 それは猫の頭にぶつかり、猫は奇妙な鳴き声をだして、逃げていった。
 それでも直実は猫に投げ続けた。
 それから映像は変わる。
 薄暗くなった校庭の壁を直実が独りで洗っている。
 先生は電気のついた明るい教室の中で電話をかけていた。
 最後の映像は疲れ果てた直実が教室で眠っている姿。
 自分の頬を涙が伝うのを感じた。
 母親が迎えにきたときには外は真っ暗になっていた。
 母は直実の方を見ると、直ぐに背を向けてスタスタと歩いていった。
 直実は置いてかれないようにその背中を目印にただただ歩き続けた。 
 
 なぜ、そんな映像がときどき現れるのかは直実には分からなかった。
でも、そのときの体中で感じた寂しさは覚えていた。
 母親が家事をしているのを見たことは直実には一度もなかった。
母親は娘に眼を向けることはなく、父親は俗世を離れた生活をしていた。
 そんな生活を寂しくなかったといえば、嘘になるかも知れない。
子供の時はよく泣いた。それでも、誰も自分のことに関心を示さないことを知ると、次第に孤独に自分を慣らすように直実はなっていった。それと同時に深い暗闇が直実の心の中に染み渡っていった。
 
 家族にも学校にも自分の居場所を見つけられなかった直実が、はじめて自分のことを理解してくれる友達に出会ったのは、岸谷が教育実習にこの女子高を訪れる1ヶ月前の話になる。
 
 直実はいつものようにだれにも気づかれないようにそっと教室を抜け出した。もちろん誰かが気づいていたとしても声をかけられることはなかったのだが。廊下に出ると、他の教室からホームルームをしている先生の声や生徒達のガヤガヤした声が聞こえてきた。直実は急ぎ足で廊下を歩いた。
 
 学校の裏山には、小さな獣道があった。白樺の木の間を縫うようにしてそれは奥まで長く伸びていた。昔はこの近くでは猪や鹿がいたという話を祖父から直実は聞いたことがある。いまではそんな動物を見ることはないが、人が時折迷いこんで行方不明になることはあった。
  
 その道は直実にとっては秘密の近道だった。この道を通って山を降りると、ちょうど『さかのした』の校門の前にでる。そこから歩いて直ぐのところに直実の家はあった。
 でも、日が暮れてから、直実はこの道を通ったことは一度もなかった。
 日が沈めば、周囲は真っ暗になり、一寸先も見えなくなってしまうのが分かっていたからだ。
 
 白樺の森は静まり返っていた。それはどこにもあるような普通の森で、一つ間違えば命を落とすことになるなんて恐ろしい様子はみじんも感じさせなかった。森全体をしっとりした冷たい空気が包み込んでいた。その森に広がる獣道は明るい別荘地の散歩道のように見えた。しかし獣道の入り口の前には学校の管理人が作った立て札があった。

 『立ち入り禁止 行方不明者多数』 

 直実は空を仰いだ。
 日は徐々に陰りだしていた。
 西日がさし、赤い血のような色の光線が空を染めている。
 もう1時間もすれば完全に日は落ちるだろう。
 
 それでも直実は少し躊躇しながらも暗がりの獣道に足を踏み入れた。
 直実の足が何かに吸い寄せられるように勝手に歩いているようだった。
 そこには逆らえない絶対的な力があった。
 大丈夫、まだ日が落ちるまでに時間はあるわ、楽感的な嘘が直実の耳に囁きかけてきた。
 昨夜に雨が降ったこともあって、森全体がしっとりとした湿った空気に包まれていた。枝から水雫がこぼれ、紺の制服を濡らした。水気をたっぷりと含んだ落ち葉を靴が踏み締めると、ぐちゃぐちゃと音が鳴った、その感触はカエルか何かを踏みつぶしているようだった。
 獣道はその幅を徐々に狭めていたが、際限なく続いているように思われた。いままで何回も通ったことがあるのに今日はなんだか様子が違っていた。いつもならとっくに出口 に出ていてもいいのに、直実の中に焦りにも似た気持ちが芽生えていた。
 
 赤色の日ざしが白樺の木の葉の間から差し込んでいたが、徐々にそれも陰っていった。
獣道は徐々に昼の顔から夜の顔へと変わりつつあるようだ。 
 直実の心を言い知れぬ不安が駆け抜けた。
 ここでもし迷ってしまったら、わたしはどうなるの、その漠然とした不安は徐々に形の あるものとして心の中を支配し始めていた。
 歯茎がズキズキと痛み出していた。こういうときにいつも親知らずが痛みだす。ぎゅっ と歯を食いしばると鉄ぽい血の味が口に広がった。
 森は様々な影を操り、直実をからかっているようだった。
 強い突風がビュッと吹くと、叢がざわざわと揺れ、また木の上から大玉の雨粒が直実の体に降り掛かった。 
 おかあさんは捜してくれるかな、おとうさんは、両親の顔が頭に浮かんでは消えた。
 誰も自分を本気で心配して捜そうとはしてくれないだろう。
 それは推測から確信へと変わっていった。 
 獣道は依然としてその様子を変えずに奥へ奥へと続いていた。
 直実はだんだん足が重くなり、土に足を取られるのに苛立ちを覚えた。
 周囲の白樺の木と草の密度が増し、空からの光を遮断して、暗闇の密度も濃くなったき た。
 直実は引き返そうと思うのだが、何かに魅入られたかのように足だけは前へ進んでい  た。
 獣道はずっと続くように見えたが、その幅は狭まり、そして直実の目の前であっけなく 消えた。
 もうどこにも道らしきものはなく、草が鬱蒼と茂っているだけだった。
 直実は後ろを振り返ると、来た道は草によって塞がれ、どこから来たのかわからなく  なっていた。
 大きな絶望が直実の心を襲った。
 悪い予感が現実になったのだ。
 遠くからいままで聞いたこともないような鳥が鳴く声が聞こえた。いまでは紺のセーラ ー服はずぶぬれになっている。靴下もぐっしょりと水を吸収していた。
 そのままへたり込みそうになる気持ちを押さえてこんで、直実は出口を見つけようと周 囲を見回したが何も見つからなかった。
 冷たい空気が直実の体から体温を徐々に奪い、唇を紫色にした。顎が痙攣するようにガクガクと震えた。親知らずの痛みで頭がズキズキした。
 今年の梅雨は長く続くようなことを天気予報で言っていたっけ、直実は空回りした頭で 考えていた。
 それが役に立たない情報でもかまわなかった、とにかく考えることでこの状況から脱す るヒントを掴み出そうとしていた。
 しかし、そんな自分の姿をふっと客観的に考えると、不思議と笑いがこみ上げてきた。 
 直実自身もなぜこれほど生きることに執着するのか分からなかった。
 家に帰っても誰も自分のことを待っているわけでもない。
 ましてや学校の誰かが自分がいないことに気がつくことがあるだろうか。
 それでも私はなんとかここから抜け出そうともがいている。
 その自分の姿が滑稽に思われて、どうしょうもなく笑えた。
 直実の眼から涙が溢れた、いつしか大きな笑い声は泣き声に変わっていた。今まで感じたことのないような押さえつけられないほどの悲しみや寂しさが襲い掛かってきた。
 学校で見せていた仮面が剥げてしまったような気がした。
それでもいいと直実は思った。誰が見ているわけではない、ここには私以外に誰もいないのだから。
 そう半ば諦めかけていたとき、大きな不愉快な音が森中をつんざいた。
 動物が発する鳴き声、いや有機的なものの発する音とでも言えばいいのか、その奇妙な不協和音に直実は一斉に体中に鳥肌が立つのを感じた。
 しかし、その音の奇妙さよりも誰かがいるに違いないという期待の方が上回り、直実は音の聞こえた方に猛然と走りだした。
 それほど、遠くから聞こえた音ではなかった、そう心の中で反芻しながら、直実は大きな枯れ枝が膝にぶつかるのも気にしないで、懸命に走った。
 今までに感じたことのないような動悸が直実の心を踊らせた。
このとき初めて直実は生きている実感を感じていた。
 前を塞いでいた背の高い草が少なくなり、徐々に目の前が開けて行くのを直実は感じた。
 暖かい赤い色の光がさっとその場所にさしている。
 もうとっくに日が暮れているものと思っていたのに、直実はそれに目掛けて走った。
 どうやら、そこには野原か何かがあるようだった。
 直実が目の前の大きな白樺の間を通り抜けると、思った通りそこにはテニスコートぐらいの小さな野原があった。
 そして、その中央に予想もしないものが立っていた。

  彼女の姿を見たとき、直実は心臓をぎゅっと掴まれたようなショックをうけた。白いセーラー服に包まれた彼女は東南アジアの夜の街に立つ幼い売春婦のような艶やかな日焼けした肌していた。漆黒の艶やかな長い髪は彼女の西洋彫刻のような顔の横を無造作に流れていた。
 そしてひときわ際立っていたのはその瞳だった。緑色のビー玉のように透明感のある、人の心を魅了する不思議な力を持っていた。その瞳に赤い色の夕日のちらちらと燃えるような輝きが宿っていた。
 不思議な眼だ、彼女に見つめられたら、動くことができないにちがいないわ、直実は直感的にそう悟った。
 そして、ここほど彼女にぴったりとした場所も他にはないような気がした。

 もしその横に転がっている紺色の制服を着た少女を見なかったら、直実は彼女の呪縛から抜け出ることはできなかっただろう。
 その少女は直実と同じ制服を着ていた。紺色のスカートが捲れ上がり、胸元の赤いネクタイもずり下がっていた。近付いてみるまでもなく、死んでいるのは間違いなかった。首には大きな捩じれたどす黒い痣が広がり、首は大きく不自然な方向に曲がっていた。
 
 直実はふっと力が抜けて、地面に倒れこむように座り込んだ。
今までの不安から解放されてからなのか、それとも彼女のせいなのか、あるいは初めて死んでいる人間を見たからなのか、それは分からなかった。
 彼女はにっこり笑って、直実に近寄ってきた。
 森独特の鬱蒼とした青臭さのなかに、柑橘系の匂いがぱっと広がったような気がした。
 
 「大丈夫?」

 富川アケミはそう言うと、直実に手を差し出した。
 直実は今までの不安から解放されたように彼女の手を握り返していた。
 驚くほどその手は冷たかった。

 
 (あとがき)

 簡単にあとがきを書きます。「考えれば分かること」を最初にこちらに載せてもらってからすでに7ヶ月がたっています。前にこちらの掲示板にもう続きは書かないとも書きました。では、なぜに書いてしまったのか。
 それは単なる作者の偏屈な性格が原因です。それ以外にはありません。
 今回は前の文章を少し書き直したものと、『第1章 河井直実』を載せてもらいました。第1章にかんしてはTS的シーンはないです。もし期待をしていらっしゃる人がいたら、この次に御期待ください。
 それでは、作品を楽しんでもらえることを祈っています。次回作がいつになるのかは作者にも分かりません。


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