[ RENTAL BODY Ver3 〜微熱風味〜 ]


 0:メモリアル

 その日は、雨降る静かな一日だった。

 大人達の発する悲愴感は、一緒に病室にいた子供達にも伝染していた。ベットで寝る女性――風季の母親の命がもう残り少ない事が分かっていた。
「死んじゃだめぇ! おかあさん、風季を残していかないでよ!!」
 寂しく響く女の子の叫びに、大人達はかけるべき言葉が分からなかった。
 弱々しい手で、そっと娘の頭を撫でる母。
「おかあさん?」
 娘の呼びかけには応えず、母は女の子の後ろに控えている男の子を呼んだ。
「ねぇ、樹君」
「なに、おばさん?」
 女の子を撫でていた手で男の子の手を取ると、そっと娘の手に重ねた。
「樹君は風季のこと好き?」
「好きだよ。大好きだよ」
 その答えに満足したのか、やんわりと微笑む女の子の母。
「ねぇ、樹君。おばさんからのお願い。樹君、風季を、娘をずぅーっと守ってくれる?」
「守っているよ。ずぅーっと守っているから、おばさんも死んじゃ駄目だよ」
「ありがとう、樹君。
 風季、樹君と一緒にいるんだよ。ずぅーっと、ずぅーっと……」
 そして、事切れた。
「おばさん!」
「おかあさん――ッ!!」

 その日は、子供達の泣き声を隠すように、静かに雨降る一日だった。


 1:アルバイト

「樹(いつき)。お前、確か明日で18才になるよな」
「?」
 風呂上がりの一杯と、冷蔵庫から取り出した牛乳のパックをラッパ飲みしていた樹は、隣の居間でテレビを見ていた父親の背を見た。
 樹の身体が微かに濡れていたのか、寝間着代わりに着込んだTシャツは熱気を持っている。
「何か、プレゼントでもくれるのか、親父?」
 …………。
『――オケアノス国ユウ=オケアノス女王と日本人藤代雅史さんの婚姻の儀が――』
 沈黙に覆われた親子の間を、テレビの音声が虚しく響く。
 父親は、一度取り繕うように咳払いをし、
「男で18にもなって親から誕生日プレゼントもないだろ。だいたい、誕生日プレゼントをくれるガールフレンドの一人や二人いないのか? 私が高校生だった頃は、誕生日は勿論、バレンタ――」
「親父、何が言いたいんだ?」
 冷ややかに言い放つ樹。
 軽く咳払いをしてから、父親は話を戻した。
「アルバイトする気ないか? どうせ、大学はエスカレーターで上がれるんだし、受験勉強もなくて暇だろ」
「バイト?」
 怪訝に眉を顰める。
 アルバイトと自分の誕生日の関連性が見いだせない。
「レンタルボディって知っているだろ」
「ああ、一応は」
 テレビを見ながら話し始める父親に、樹は手近にあったら椅子に腰掛けた。
「それがどうしたんだい、親父」
「ウチの研究所の企業(スポンサー)でも、レンタルボディサービスを始めることになったんだよ」
「ふ〜ん。それで?」
 父親が何を言いたいのか掴めず、話の続きを促す。
「それで、研究所でレンタル用のボディのひな形を作製することになったんだ」
 樹の父は、とある遺伝子関連の研究所の所長をしていた。
「そいつのモニターをして貰いたいんだ。なにぶん、私達が開発したボディは新方式で作ったヤツでな、ライバル企業にリサーチされたりしないように、一般にモニターを募集することができなんだ。それで――」
「研究所の身内からモニターを探している」
 父親の言わんとしていることが分かったのか、先んじて言葉を紡ぐ。
「そう言うことだ。どうだ、やってみるか? 一応、期間は一ヶ月間。ちょうど明日で学校も終わるし、どうだ?」
「う〜ん」
 即答せず首を捻る樹。
 レンタルボディ自体に興味ないこともなくはないが――それが一ヶ月間の連続使用ともなると話は別だ。樹は他にもバイトをしているし、高校の連れと遊びの計画なんかも立てていたりする。
 自分の魂を入れ替えるだけだから自分自身が消えるわけでもないが――レンタルボディに入って、その容姿に任せてナンパするのも虚しい。
 大体、新方式だって言うのがくせ者だ。
 どんなボディを作ったか分かったものでもない。
 レンタルボディの利用者の大半は人間または遺伝子操作された亜人種なのだが、中には動物の身体を借りる者もいると言う。
 ここで簡単に承諾したら、犬の身体で一ヶ月もモニターをさせられる事もあり得る。
「一応、人間だから安心して良いぞ」
 まるで、樹の考えを読んだかのように父親は言葉を続けた。
「基本的には、レンタルボディの容姿などとは関係ない部分のモニターをしたいから、外見なんかはお前の自由でかまわないぞ。何なら、今のお前と瓜二つの容姿の身体を用意することもできる」
「う〜ん」
 そこまでの好条件言われても、いまだ悩む樹。
「あっ、お兄ちゃんがやらないなら、あたしがやる」
 そう言って食堂に入ってきたのは、腰まで届く黒髪をなびかせた線の細い少女――樹の妹の睦(むつみ)だった。
「睦」
 一瞥くれる樹にニコッとした微笑みを見せて、その脇を通り過ぎる。
「いいでしょ、お父さん」
「残念ながら、それは無理だ。18才未満のレンタルボディ利用は条例で禁止されているからな。試作品のモニターとは言え、許可することはできない」
 それで18才か――
 父親の話で、樹は誕生日を迎える意味を知った。
「ぷぅー」
 可愛らしくも、憮然と頬を膨らませる睦。
「そんな、たったの二歳違うだけじゃない。お父さんが黙っていれば、誰も気付かないよ」
「駄目なものは駄目だ。第一、新開発の身体のモニターなんて危なっかしくて、大事な睦にやらせるわけにはいかん」
 危なっかしくて――って、俺はいいのか!?
 言葉に出さずに突っ込む樹。
「ぷぅー。せっかくお金稼いでカカオのコンサート行こうと思っていたのに」
 カカオとは、睦お気に入りの女性ユニットだ。
「第一、睦がバイトするなんて、父さん反対だぞ」
「お父さんのバカ! そう言うこというなら、もうお父さんのご飯、作って上げないんだから。ご飯だけじゃないわ、もう二度とお父さんと口を利かないんだから」
「う゛っ!! 分かった。分かった。夏休み間だけと言う限定なら、他のアルバイトなら許可してやるぞ」
 プイと横を向く娘に、父親はあっさりと折れた。
「ホント、お父さん?」
「ああ」
「ありがとう。だから、お父さんって好き☆」
 親愛の情を込めて軽く父の頬にキスする睦。
 娘のキスに、顔を真っ赤にする父親。
 どうもこの父親は、妻である樹達の母親を亡くしてから、何処か母親似の睦を溺愛するところがある。
 付き合ってられないな。
 飲んでいた牛乳パックを冷蔵庫に片付け、自室に戻ろうと廊下への扉のノブに手をかける樹。
「それでどうだ、樹?」
「面倒臭そうだからやめ――――」
「1日2万出すぞ」
 その言葉が終わる前に、部屋から出ていこうとしていたはずの樹の姿は父親の前にあった。
「乗った。親父!」
 息子の承諾に、父親は満足そうに頷いた。

§

 一学期最後の終業式の今日、来るべく夏休みを明日に向かえて教室は騒がしかった。
「樹」
 窓際の席で、一人パラパラと冊子をめくっている樹に呼びかけてきたのは、ショートの髪に灰色の襟をしたセーラー服を着た少女だ。
「何かようか、風季(ふうき)」
「小父さんのバイト始めるってホント?」
 よっこらっしょと、樹の正面の席の椅子を後ろに向けて腰掛ける風季。
「話が早いな」
「今朝、睦と一緒に学校に来たからね」
 彼女の名前は成水(なるみ)風季。樹睦兄妹の幼なじみであった。お互い母親を幼いうちに亡くしたという似たような境遇故に、仲はよかった。
「本当なのね」
「まぁな。一日二万も貰えるなんて美味しいバイト、断れるはずもないだろ。一ヶ月続ければ60万だぜ。今までの蓄えを合わせれば、免許取ってさらにバイクまで買えるんだ。どこぞのバイトは時給720円だって言うのに……」
「それって、ウチに対する当てつけ?」
 ヒクヒクと頬をひきつらせる風季。
 彼女の家は、駅前の商店街で喫茶店『水風鈴(みずふうりん)』を営んでいる。
「ウチ(水風鈴)のバイトはどうするのよ? まさか、無理言って私のお父さんに頼んでおいて、一ヶ月もしないウチを辞めるなんて言わないわよね」
「ああ。ここで辞めたら、マスターに殺されかねないからな」
「私のお父さんを怪物みたく言わないでよね」
 風季の父親は一見しては渋い中年男性だが、その実、格闘技好きで本人も結婚前はちょくちょく外国へと修行の旅に出ていたほどの人物だ。
「別の身体でもできない仕事じゃないからな」
「別の身体?」
 樹の何気ない言葉に、風季は小首を傾げた。
「樹の受けたバイトって何なの?」
「親父の研究所のチームが開発したレンタルボディのモニターだ」
 別段隠す指示もされていないから詳しく教える樹。どうせ、レンタルボディを利用すれば否応なしにばれる事だ。
「あんたのバイトって、レンタルボディのモニターだったんだ。私はもっと、こう妖しげな研究品の実験台だと思ってた」
「おい、おい。親父の研究所は、マッドサイエンティストの集団かいな」
 やれやれと苦笑する樹。
「それで今、どの身体に入るか考えているんだよ」
 樹は冊子は風季に見せる。
 そこには、幾つかのレンタル用のボディの写真が並んでいる。一見して、レンタルボディ屋にあるカタログだが、まだ市場に出る前の研究段階のためか、それとも所長の息子とは言え部外者には言えない機密からか、それにはボディのスペックがほとんど何も記されていない。
 冊子を見るだけでは、単純に外見しか分からないのであった。
「へぇ〜。いくつかあるのね」
「これでも、基本的なものだと。客のニーズによって細かいところの変更もできるし……内面の種類まで数えたら、それこそ限りがないと親父が言っていた」
「ふーん。それで、ここの中から選ぶの?」
「いや、コレはあくまでこんなのができるって見本で、俺の好きな身体を用意してくれるって話だ」
「結構融通が利くのね。普通のレンタル屋でそこまでカスタムに頼んだら、数日のレンタルで10万近くいっちゃうじゃないの?」
「らしいな。
 今回のモニターは、外見じゃなくて内面の性能だから、外見は自由らしいんだ」
「じゃあ」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる風季。
「深沢祐二似のマスクにしてよ」
 風季の言う深沢は、巷で人気のアイドルタレントであった。
「お前、ああ言うのがタイプなのか?」
「別にそう言うわけじゃないけど……深沢祐二そっくりさんが店員していればウチもお客が増えるかなと思って」
「そう言うことか」
 軽く嘆息しながら肩を竦める。
「何で俺がお前の店の客寄せにならなければならないんだ? んなの、借りるか。俺は俺の容姿に自信があるからな、いくら美形でも他の男の容姿なんて興味ないぜ」
「えぇ〜。男性の身体に興味ないって、まさか女性の身体を借りるの?」
 露骨に侮蔑の視線を向ける風季だが、樹は意にも返していない。
「女の身体か……」
 顎に手を当て考え込む樹。
「それも良いかもな」
 何か頭の中で考えがまとまったのか、ペラペラと冊子をめくって女性の身体の見本を見入る。
「ちょっと、樹。マジなの?」
「別にそう言う選択肢もあるかな〜って思ったんだよ」
 何処か楽しそうに答える樹。
 そんな幼なじみの姿に、自分が不味いことを言ったような気がする風季だった。


 
   2:レンタル

 終業式を終えた樹は、友人達の遊びの誘いを断って、父親が働く研究所にやってきていた。
 受付の案内嬢の後を着いていきながら、物珍しげにキョロキョロと辺りを見渡す樹。考えて見れば、父親の職場に来たことなんて、保育園時代以来だから十数年ぶりか。
 そんな樹を見て、
「樹君。お父さんの職場は珍しいですか?」
 案内嬢はおかしそうに微笑みを浮かべる。
「前に来た時と比べると、ずいぶん雰囲気が変わったと思って……
 それより、よく俺の名前が分かりましたね」
 案内嬢は、受付に現れた樹を一瞥しただけで、彼が名乗りを上げる前にその正体を見破っていた。
「もしかして、親父から聞いているとか?」
 高校からの直行である。父親から話が通っていれば、制服姿の樹を見ただけで誰かが分かる。
「いえ、樹君が来る話は聞いてませんわ。ただ、八雲所長によく似ていらしたので――」
「えぇ〜!? 俺って、親父に似てるの?」
 露骨に嫌な顔をする樹。
「おかしいなー。俺って、母親似のはずなのに……」
 樹睦兄妹は外見は父親よりも、今は亡き母親の面影を引きずっていた。
「そうですか? でも、雰囲気とかが所長に似ていますよ。
 それに、所長は子煩悩ですから。樹君や妹さんの睦ちゃんの写真を何度も拝見したことがありますわ」
 どおりで、街を歩いていて見知らぬ人に声をかけられることがあるはずだ。聞けば親父の研究所の研究員だと言われたことが多々としてあった。
「…………」
 まさか自分の写真を研究員に見せて回っていたとは。呆れてもの言えない樹だった。
 一度、強く諫めておく必要があるな。
 そんなことを考えているうちに、案内嬢の足が止まった。
「所長はこちらでお待ちです」
 案内嬢は携帯していたIDカードをスリットに滑らせ電子ロックは解除する。
 ――――
 重厚そうな扉が無音のまま開くと、そこは無機質な一室だった。
「八雲所長。御子息をお連れしました」
「おっ、やっと来たか。樹」
 樹を出迎えたのは、端末に向かう白衣姿の彼の父親だった。
「それでは私はこれで」
 一礼し、きびすを返す案内嬢。
「ご苦労さん、志野クン」

§

 カラン、カラン――
 扉の上部に付けられたカウベルが来訪者の存在を示すように乾いた音を発てて鳴り響く。
「あっ、いらっしゃいませ」
 お盆片手にあいさつをしたのは、店の雰囲気にあった落ち着いた感じのシックなウエイトレスの制服を着込んだ風季だった。
「――って、睦じゃない」
「こんにちは、風季ちゃん」
 扉を開けて入ってきたのは、制服姿の睦だった。
「あんたが一人で来るなんて、珍しいわね。出来の悪いばか兄貴は?」
 カウンターに腰掛けた睦に、お冷やとおしぼりを差し出す風季。
「お兄ちゃんなら、お父さんの所に――」
「ああ、そう言えばレンタルボディのモニターするって言っていたわね」
 どんな身体を借りてくるか、結局樹は何も言わなかったから知らないが、あいつの事だから、それなりに意表を突いた身体を借りてくることが安易に想像がついた。
 まさか、本気で女性の身体は借りてきたりしないわよね……
 ふぅーっと、愁いのこもったため息を吐く。
「どうかしたの?」
「あっ、別に」
 自分の顔を覗き込んできている睦に、風季は誤魔化すように手を振って見せた。
「それより、注文はいつものでいいわね」
「あっ、はい」
 睦は持っていた本屋の紙袋を開けて中から一冊の雑誌を取り出した。
「アルバイト雑誌じゃない。あんた、アルバイト始めるの?」
「うん。コンサートに行きたいから」
「ふーん。よく、小父さんが許可してくれたわね」
 樹睦兄妹へと向ける父親の溺愛ぶりを知っているからこそ、風季は意外そうな顔をした。
「ご飯、作って上げないって言ったら許してくれたよ」
 睦の言葉に、彼女が父親を脅迫していた状況を思い浮かべ、笑いを隠そうとはしなかった。
「アッハッハッハ……。小父さんって、睦の作った料理が大好きだからね」
 それが食えないとなると、泣く泣く許すしかないわけだ。
「それだったら、ウチで働かない? 睦って、アルバイト初めてなんでしょ。それなら、知っているトコの方がいいし。高校生じゃ、雇ってくれるトコなんてたかが知れてるし」
「でも、ここって、お兄ちゃんもアルバイトしているから……従業員は余っているんじゃ?」
 決して小さいというわけでもないが、アルバイトを大量に雇うほど大きくもない。
 マスターの趣味か、水風鈴は喫茶店とは言っても軽食など無い珈琲専門店の為、各種揃っている珈琲以外に存在するメニューは、隣町でケーキ屋を営む風季の従姉妹が届けてくるケーキのみ。故に、土日休日は別として、平日の昼間など、風季の父親が一人で切り盛りしても十分間に合うぐらいだ。
 既に、手伝いとしてバイトしている娘の風季と頼み込んで雇ってもらった樹の二人がいる。これ以上雇うゆとりがあるとは考えにくい。
「大丈夫よ。夏休みの間って結構お客様が増えるものだから、新しくアルバイトを雇おうかと今父さんと話していたところなの。睦だったら、特別に時給800円出すわよ」
「えっ!? いいんですか?」
 水風鈴の時給が720円なのは、兄の樹から聞かされている。仕事のハードさの割には、安すぎるといつも文句を垂らしていたのだ。
「いいわよね、父さん」
 カウンターの奥で珈琲を煎れている風季の父であるマスターは、無言のまま頷いた。

§

「何か質問はあるか?」
 モニターを受ける前に一通りの研修を受けた樹。父親の言葉に手を上げた。
「親父、経費は出るの?」
「経費?」
 息子の言わんとしている意味が掴めず、訝る所長。
「何が言いたいんだ、樹?」
「服だよ、服。別の身体になって一ヶ月も暮らすんだから、その身体にあった衣装が必要じゃないか」
「別に、今のお前と同じ体型の身体なら必要ないじゃないと思うが」
「俺が希望するレンタルボディは…………」
 そこで始めて、樹は自分が希望しているレンタルボディを所長に告げた。
「何だって!?」
 戸惑いの色を隠そうとはしない所長。
「せっかく別人の身体になるんだから、それぐらい違う身体じゃないと面白味がないじゃないか」
「しかし……まさか、お前にそんな趣味があるとは……」
「趣味じゃないって。ただの興味だよ」
 苦笑気味に言う樹。
「丁度夏休みだし、そう言う身体でいるのも面白いかなと思って」
「しかしな、ただでさえ一ヶ月の連続使用だ。あまりに今の身体とかけ離れた肉体じゃ、精神が破綻しかねないぞ。それに、思春期の年頃のヤツにそんな体験をさせるには……」
「平気平気。大体、今の身体と近い身体じゃ、逆に錯覚するじゃないか。一ヶ月間のモニター期間に変な癖ついて、元に戻った後にそれが命取りにでもなったらやだぜ。
 どうせ変な癖がつくなら、元に戻った時にすぐに忘れ去れるような、かけ離れた身体の方がいいじゃないか」
「確かにそうかもしれないけど……いいと言った以上、途中で嫌だと言っても一ヶ月間はその身体でいてもらうからな」
 渋々ながらも、所長は樹の希望を承諾した。
「分かてるって。一日二万も貰うんだから、ちゃんと仕事はするさ」
 気楽に応え、樹は霊魂分離器に身を委ねるために、隣の部屋へと向かった。

§

「ふぅみぃ〜。疲れたぁ〜」
 今さっき太陽が沈み、街に夕闇の帳が降りた午後7時過ぎ、滅多に感じたことのない倦怠感に逆らいながら、睦はだるいまでに重くなった手で力無くドアノブを捻って玄関の扉を開けた。
 風季にバイトを薦められた睦はその場でバイトを決め、そして昼過ぎから今まで働いてきた。
 慣れない上に始めてのアルバイト。説明などの時間を差し引いて実質ものの4時間も働いていないのだが、睦は疲れ切っていた。
「こんな事なら、運動部にでも入っておくんだったかな」
 あまり筋肉のない細身の二の腕を見つめて呟いてみたが、運動音痴なのを思いだして憂鬱になる。
 立っているのも辛いのか、玄関に腰掛けながら履いていたスニーカーを脱ぐ。
「あれ? 女物の靴……」
 いつもなら兄の靴がある位置に揃えておかれた白いスニーカーが一足。
 サイズ的に自分のと大差ないスニーカーを兄が履くとは考えにくい。
「風季ちゃんのとも違うし……誰のかな?」
 自分の友達以外でここに来る若い女性と言えば幼なじみの風季ぐらいのものだが、彼女とは今さっきまで水風鈴で一緒にいた。
「そう言えば、お兄ちゃんの靴がないわね」
 父親の靴が無いのは、この時間帯ならいつものことだから気にも止めない。
 ただ、家の者が誰もいないのに存在する見知らぬ靴が気になる睦。
「まさか……泥棒さん!?」
 玄関でわざわざ靴を脱いで進入する泥棒などいるとは普通なら思いもしないが、睦は自分の想像を信じ切っていた。
 持っていた学生鞄を置き、下駄箱の脇にある傘立てから一つのカサを手に取る。
 立ちっぱなしのウエイトレスで筋肉が張り詰めた足を引きずりながら、なるべく物音を発てないように家に上がる睦。
 ゴクッ――
 喉に渇きを覚え、生唾を飲み込む。
 差し足忍び足。澄ました耳は、
 カタッ、カタッ――
 キッチンから聞こえる微かな音を捉えた。
 誰かいる……
 ギュッと傘の柄を握る手に力を込め、音を発てないようにキッチンのドアを少しだけ開く。
「えっ!?」
 隙間から覗いた睦は、驚きに思考が止まった。
「ふふ〜ん♪ ふ〜ん♪ ふふ〜ん、ふ〜ん♪」
 隙間から聞こえてくる古めかしくも情緒のあるメロディを含んだ鼻歌――
 お母さん!?
 一瞬、そんな錯覚を受けたが、よくよく目を凝らして見れば、台所に立っているのは自分とさほど年の離れていない黒髪をポニーテールにした少女だった。
 錯覚を受けたのもあながち間違いでは無かった。少女の身に付けていた青いエプロンが、睦の母のものだった上に、彼女の奏でる鼻歌は、幼き頃――母がまだ生きていた頃の淡い思い出の中で母親がいつも歌っていたものだったから……
 誰なの……あのヒト……
 身を乗り出してよく見ようとした、その時――
 ガタン!
 持っていたカサの先が壁に当たった。
「?」
 キッチンの前で料理をしていた少女は、音に気が付いたのかおたま片手に振り返った。
 …………。
 少女の視線が睦と合う。
「あっ、睦ちゃん、お帰りなさい」
 あたしを知っている……!?
 睦は従姉妹の顔や知人の顔を思い浮かべてみるが、どれにもその美妙な顔立ちは該当しない。
「もう少しで夕飯ができるから、着替えてらっしゃい」
「あ、あなた、誰なんです?」
 意を決して訪ねる睦。その手にはカサが握られたままだ。
 そんな力強く握り締められたカサを見て、少女は小さく吹いた。
「ぷっ。私は泥棒じゃないわよ」
「じゃあ、誰なんです」
 上目遣いで睨み付ける睦。若干、背は少女の方が高く、着ている薄桃色のサマーセーターのサイズが一回り大きいのか少し分かり難いが、スタイルはスレンダーで整っていた。
「まぁ、この身体じゃ分からないのも無理ないか」
 軽く髪を払う少女。
 その姿は、どの角度から見ても睦の記憶にある知り合いの姿とは一致しない。
 ただ、
『この身体じゃ分からない』
 その言葉にある想像が浮かんだ。
「ま、まさか……」
 口を出る言葉が自然と震える。
「もしかして……樹お兄ちゃんなの?」
 自分で言っておきながら、何処か信じ切れないものがある睦。
 そんな彼女の言葉を肯定するように、少女――樹は涼しげな笑みを浮かべて静かに頷いた。

§

 箸に取った料理を口に運ぶ睦。その様子を対面に座る兄にじぃーっと見つめれて、こそばゆさを感じながら、静かに咀嚼する。
 口の中の料理を飲み込み、次は味噌汁に手を伸ばした。
 ず、ずぅ……
 ひとくち口に含んだ所で椀を傾ける手が止まった。
「睦ちゃん。もしかして、口に合わなかったとか?」
 不安げに訊ねる樹に、睦は慌てて首を横に振った。
「ううん。おいしいよ」
 自分が作る料理よりも圧倒的に美味しかった。とても、始めて台所に立った者の料理とは思えない程、テーブルに並んでいる料理は絶品である。
「おいしい……けど」
「けど?」
 歯切れの悪い語尾に、怪訝に眉を顰める樹。
「この味……」
 美味しく、絶品である以上に、その味は懐かしかった。
「あっ、もしかして分かったの?」
 コクッと小さく頷く睦。
 その味は、樹の――そして睦の母親の味だった。
 幾度となくこの味を再現しようと挑戦したが、幼い頃に食べた味はあまりにも希薄で、どうしても再現できなかった。
 いくら、自分よりも二つ年上で母の味を覚えていたとしても、調理の基礎すら知らない兄にその味が再現できるとは思ってもみなかった。
 そんな睦の当惑を読み取ってか、クスッと小さくほくそ笑む樹。
「ここにね、一通りの調理の手引きがインストールされているの」
 頭をさして言う。
 モニターのための実験体のその身体には、普通のレンタルボディサービスでは考えられない程の数の特殊能力が付与されていた。
 せっかくモニターが見つかったのだから、可能な限りの特殊能力のモニターをも同時に行おうと言うのが、樹の父親の考えだった。
 調理知識は知識系の一つで、他にも色々な専門的知識が樹の真っ新な脳には擦り込まれていた。
「一度幽体離脱されたことで、お母さんの味をハッキリと思いだしたの。それでね、頭にある知識をフルに使って再現してみたの」
 煮干しからちゃんと出汁をとって作った味噌汁をすすり、自分と同じくらい細く白い指先で箸を操りご飯を口元に運ぶ樹。
 いつものお兄ちゃんなら、ご飯に味噌汁ぶっかけてかっ喰らうのに……
 そのあまりにも女性らしく優雅ともとれる食し方や女言葉は、樹の頭の中にインストールされている女性としての生活で困らない為の必要最低限の知識に基づいて行っているのだが、それの知るところない睦には戸惑いでしかなかった。
 何か……変……
 幼なじみに風季がいてくれたおかげで、姉が欲しいと思ったことは一度もない。でも、目の前の女性はどう見たって兄と言うには語弊がある。
 それでも……
「ねぇ、お兄ちゃん」
 あえて、樹のことを『お兄ちゃん』と呼ぶ。
「っ?」
 キョトンとした顔を向ける樹。
「どうして、女性の身体なの?」
「ただ、何となく……かな」
 曖昧に言葉を濁す樹。
「それに、少しだけ女性の身体にも興味あったしね」
 何処かはぐらかされた気がする睦だが、それ以上は突っ込んだりはしなかった。どうせ何か言ったところで、一ヶ月間の期間はその身体でいるしかないのだから……
 綺麗にご飯粒一つ無い茶碗の底を見つめながら、睦は質問を変えた。
「お兄ちゃんって、髪の長い娘が好みなの?」
 何なのか分からず、小首を傾げる樹。その際、ポニーテールに結わえた髪の毛が揺れ、自分の髪のことを言っているだと分かった。
「あたし、てっきりショートカットの娘が好みだと思ってた」
 ――って言うか、風季が好きだと信じていた睦は、何処か裏切られた気がした。
「髪の毛が長いのは、色々な髪型にできるからよ。長い方から短くすることはできるけど、その逆は無理だからね」
「じゃあ、ショートカットが嫌いってわけじゃないのね」
「ええ。髪型なんて、長くても短くてもとにかくその人に似合うのが一番じゃない」
 長いのが鬱陶しく感じられたら切ればいいと考えているあっさりとしたいつもの兄らしい思考に、睦は僅かにだがホッと胸を撫で下ろした。


 
   3:ウエイトレス

 睦の朝はいつも早い。母親がいない八雲家では、彼女が一人で朝の支度をしていた。
 が、しかし――
「わぁっ! 寝過ごした!!」
 枕元の目覚まし時計を見て、彼女は飛び起きた。
 時刻は午前9時。
 いつもなら6時前には起きて、洗濯に朝食とお弁当を用意する睦だが、夏休みに入った安心感と父親が研究所から帰宅しなかったことに、始めてのアルバイトで心底身体が疲れていたのが相俟って、いつもより三時間以上も寝過ごしてしまった。
「あちゃ〜。お兄ちゃん、怒ってるかな……」
 苦い顔を浮かべ、ボトム地のミニスカートにTシャツに着替え、自室に持ち込んでいるエプロンを身に付けて部屋を飛び出す。
「ごめーん。今すぐに朝食よう――」
 言葉が詰まる。休みの日とかはたいていリビングで新聞片手にテレビを見ている兄の姿がない。
 あれ?
 ――っと怪訝に見渡すと、樹はレンジで塩シャケを焼いていた。
「あっ、おはよ、睦ちゃん。もうじき朝御飯用意できるから」
「…………」
 楽しげに鼻歌を歌いながら朝食を作る見ず知らずの少女の姿をした兄に、何か調子が狂う睦だった。

 湯気をたてる炊き立ての白米。合わせ味噌の味噌汁。こんがり焼かれた塩シャケ。そして、しっかりと一夜漬けで自作の漬け物まで用意されていた。
 向かい合うように席に着き、食事を取る二人。兄弟の間には会話が無く黙々と食が進む。
 ただ、
「あっ……」
 睦は何か言いたげな視線を向けるが、言葉が出ない。
 先に食べ終わったのか、箸を置き、麦茶を飲む樹。
「ごちそうさま」
 手を併せてそう言うと、樹は目を前の睦に向けた。
 視線が合って慌てて俯く妹に、樹は微苦笑を浮かべながら話しかけた。
「ねぇ、睦ちゃん。今日これから暇?」
「えっ!?」
 いきなり話しかけられて、キョトンと間の抜けた顔をする睦。
「ちょっとね。服を買いに行くのに付き合って貰いたいのよ。睦ちゃんってセンス良いから、私に似合いそうなのを選んで貰いたいし」
「服を?」
「この身体で一ヶ月間いるからね、男の時の服じゃサイズが合わないじゃないしね」
「今着ている服は?」
「これは研究所の方で用意して貰ったの」
 樹が着ているサマーセーターとジーンズ、それに下着は、彼が今の身体で目覚めた時には既に着せられていたのだ。
「でも、アルバイトあるし……」
「それなら、私だって昼からバイトよ――って、睦ちゃん、何のバイトを始めたの?」
 昨夜、樹の変貌ぶりに心がとられ、自分がアルバイトを始めたことを言っていなかったのを思いだした睦。
「風季ちゃんが水風鈴でアルバイトすればいいって、それで昨日の帰りからアルバイトしていたの」
「ふ〜ん。水風鈴でね。私と一緒か」
 ポリポリと頭を掻く樹。睦がアルバイトをすると言った時点で大体の予測が付いていたからさほど驚きもしない。
「もしかして、午前中から?」
 プルプルと首を横に振る。
「じゃあ、午前中は暇なのね」
「うん」
「それなら、お店に向かう前に付き合ってよ。睦ちゃんの服も一着ぐらい買って上げるから」
「そう言うなら、付き合ってもいいけど……」
 必要経費で落ちるように契約を交わしている故に、自分の懐が痛まないから別にそれぐらいかまわない。
「じゃあ、決まりね」
 樹は食べ終わって空になった食器を手に、台所に向かう。

§

「ちょっと待て、プラムにチェリー! 俺はおしゃれには興味ないんだよ!」
 ブロンドヘアーの双子の娘に両脇を挟まれ、引きずられていく黒髪の少女が1人。微妙な顔と違ってその姿はジーンズにTシャツと言った飾り気のない姿だ。
「駄目よ。あたし達のお姉さまにはもっと綺麗になってもらいたいんだから」
「今日はあたし達が、ちゃんとお姉さまに合う洋服を選んで上げますからね」
 そんな騒がしい三人組を後目に、樹は駅前にある若者向けの衣料専門の百貨店の中にいた。
 ディスプレイされたマネキンの着ている多種多様な服を物色しながら彷徨う樹。
「…………」
 いいなと思った服に付いている値札を何気なく手に取った見て言葉を無くした。
「ひい、ふぅ、みい……って、50万!?」
「ちょっと、ブランド物は高いんだから……あたし達が買うのはこっちのお店よ」
 前を先導して歩く睦に呼ばれて、樹は慌てて駆け出す。
 それでも、樹はキョロキョロと周りの店を見渡していた。年に一回か二回、風季か睦の買い物に無理矢理付き合わせられて来たことがあるが、あの時は自分が着ることのない女性物の服売場に居心地の悪さを感じていたが、自分がそれらを身に付けると考えると興味がわく。
 それに、男の時に感じていた疎外感が女でいると思うだけで全く感じず、その空間に溶け込んでいた。
 ただ、
「まずはここからね」
 そう言って睦が連れてきたのは、ランジェリーショップだった。
 睦が樹に胸のサイズを聞き、それに合う下着を幾つか選んでいく。作られた身体だけあって、樹の胸のサイズはメジャーで測ることなくミリ単位までしっかりと分かっている。
 選んだいくつかの下着を樹の手に押しつけ、
「はい、これ。いくらサイズがハッキリしているって言っても、一応試着してみてね」
「えっ!? 下着って、ここで試着するの?」
「当たり前じゃないの。何言ってるのよ、お兄ちゃん」
 そう言われたところで、男性用の下着で試着など聞いたこともない。
「何ぐずぐずしてるの。まだ買い物は始まったばかりなんだよ」
「そう言われても……」
 睦の耳元で囁く樹。
「自分の裸を見たことがない!?」
 頓狂な声がランジェリーショップに響く。
 慌てて妹の口を塞いで愛想笑いを浮かべて、柱の影に隠れる樹。
「どうして見たことないのよ」
「昨日はほら、この身体に移ったのが夕方だったから綺麗そのものでお風呂の必要もなかったし……部屋に戻ったら慣れない身体での活動に霊力が尽きたのか、そのまま着替えもせずに倒れるように眠りに入っていたのよ」
 言われてみれば、昨夜、樹が風呂に入るところを見ていなかった。
 かと言って、下着ばかりは本人が付けてみなければどうしようもないのも事実である。
 恥ずかしがる樹の背中を押して、強引に試着室に押し込んだ。
「もぅ。恥ずかしがるくらいなら、始めから女性の身体なんて選ばなければいいのに」
 試着室の扉にもたれながら嘆息する睦だった。

 一方の試着室内――
「……ふぅ」
 睦が選んだブラジャーの一つを摘み上げ、溜息を洩らした。服を試着する時に下着姿になるのは覚悟していたが、裸になるとは思いもよらなかった。
「着るしかないのよね」
 諦めたように樹は着ていたセーターを脱ぐ。そして、身体のラインに沿ってピッシリとしたスリムジーンズをも脱いだ。冷静に考えれば、ブラジャーを着けるだけなのだから、下まで下着姿になる必要はないのだが、それさえも気付かないほど気持ちが浮ついていた。
 自分で選んだ身体が鏡に映り込む。身体のサイズを考えるのが面倒で、その年の自分の年齢の少女のサイズの平均値を選んだのだが……大きくもなく小さくもない。出過ぎでもなければ引っ込み過ぎでもない。あまりにも平均故に無駄のない身体はその年の最高のプロポーションを誇っていた。
 ライトグリーンのブラジャーを外そうと手がかかる。
 ――が、背中に手を回すが思い通りにホックが外れない。
 何度となく試していると、
「あっ!?」
 足下に脱いだジーンズに足を取られ、樹は狭い試着室の中で大きく転けた。
 ドッシィ――ン!!
 辺りに響く音。
「何、今の音? どうかしたの!?」
 扉を開けて覗き込む睦。彼女の視線の先には、股を開けるように足を上に向けて倒れている樹の姿があった。
 さらに、そこへ――
「どうなさいました、お客様」
 音を聞きつけた店員を始めて売場にいたお客の視線が樹に集中していた。
「キ、キャァ――――ッ!!!!!!」
 無意識に出た悲鳴は、果たして自分の情けなさからくる羞恥心か、はたまた自分の下着姿を多くの人達にさらけ出したことからくる羞恥心か……

 ハプニングもあったが予定通りに服を買い終え、大量の紙袋を抱えてエスカレーターを降りる樹。何気なく首を横に振ると、視界の片隅に宝石売場が入った。
「ねぇ、7月の誕生石って何か知ってる?」
 隣で同じように紙袋を持つ睦に訊ねた。こちらは樹と違って一つの袋しか持っていない。
 いきなりの質問に首を傾げながらも、記憶を探る。
「確か、ルビーだよ」
「じゃあ、8月は? 9月は?」
「8月がペリドットで9月がサファイア」
「ふ〜ん。ペリドットにサファイアね……」
 すらすらと出てくる睦の記憶力に樹は感心した。
「もしかして、アクセサリーも買うの?」
「まさか。いくらなんでも、そこまでは経費でおとせないわよ」
 苦笑を浮かべ出口へと向かう樹。チラッと一度宝石売場を横目で見て、
「ペリドットか」
 さらりと呟いた時の樹の顔は、少女のはずなのに何故か睦には本来の男としての兄の顔に見えた……

§

 カラン、カラン――
 鳴り響くカウベル。
 その音と共に現れた睦。
「おはようございます、マスター、風季ちゃん」
「あっ、おはよう」
 寡黙な父の代わりに睦にあいさつを返す。
「どうしたの? アルバイトに来たのなら裏口から入ってよね。もう、睦はお客様じゃないんだから」
 やんわりとだが注意する風季。
「それは分かっています。ただ……」
 そう言ってかぶりを振り返る睦の視線の先には、扉の向こうから店内を覗き込む少女――の姿をした樹がいた。

「えっ!! あんたが樹だって!?」
 戸惑いの色が多分に含まれた素っ頓狂な声が店内に響く。幸いと言うか不幸と言うか、閑散とした店内にはお客の姿が誰一人としていないから、自分が叫んだことなど風季は気にも止めない。ただ、目の前の樹が気になるだけだった。
 じろじろと眺め眇める風季の視線に羞恥心が働いたのか、樹は身体の前で組んだ指をもじもじとさせる。
「まさかとは思ったけど……」
 昨日の終業式の日に何気なく発した自分の言葉に、本当に女性の身体をレンタルしてきた幼なじみに、どういった対象をしていいのか頭を悩ます。
 自分よりも一日早く『コレ』に対面した睦の考えを聞きたいところだが、彼女は樹を残して更衣室に制服に着替えに向かってそこにはいない。
「それで、バイトなんですけど、この身体をモニターしている間はウエイトレスとして雇っていただけないかなって思って」
 すっかりと女の子している樹の仕草に、何とも言えず複雑な表情を浮かべる風季。困惑の籠もった視線をマスターである父親に向けると、
「…………」
「えっ、可愛いから別にかまわないって」
 樹にはもぞもぞと口ひげが動いただけにしか見えなかったが、その言葉はしっかりと実の娘には届いていた。
 マスターの承諾を受けて、パァーッと明るくなる樹。
「ありがとうございます♪」
 満面の笑みを浮かべ、樹は、
「それじゃあ私、着替えてきますね」
 奥へと向かう。
「ちょっと、樹。女性用の制服の置き場は分かってるわね」
「分かってまーす」
 バイト始めて一ヶ月近く。何処に何があるかは分かっていた。
 樹と入れ替わるように店内に戻ってきた睦。
「あんたも困ったヤツを兄貴に持ったわね」
 何も言い返すべき言葉が浮かばず、睦はただただ苦笑するだけだった。

 着替え終わった樹が現れる。
「どうかな?」
 少し照れ気味に三人の前に佇む樹。
 シックな制服はまるで専用にあつらえた如く、今の樹の涼しげな雰囲気に合っていた。
 感心したように見ていたマスターがモゾモゾと髭を動かす。
「…………」
 ドグゥ――
 静かに自分の父親に肘てつを喰らわす風季。
「悪かったわね、父さん。どうせ私は化け狸よ」
 風季の言い返した言葉に、睦はマスターが何を言ったのか気になったが、聞く事はしなかった。命が惜しいから……
「似合います?」
「似合うけど……」
 クルリと回ってみせた樹のポニーテールを結わえる赤色のリボンに風季の視線が注がれた。
「リボン、制服にあったヤツが用意されているはずだけど」
「コレ、長時間外したら駄目なの」
 そう言ってリボンを上げると、その結び目に隠れるように金属製の小さな装置があった。
 それは、レンタルボディをモニターするセンサーであり、他にもカチューシャ形態のモノとかもあるが、家に置いてきていて手元にない。
「ふ〜ん。まぁ、似合うからいいけど……」

§

 まるでお互いを牽制し合うように、口数少なく仕事をこなす樹と風季。それを黙って見守る睦。微かな緊張感が店内を覆うが、それも客の入りが増えれば仕事に没頭する分希薄になっていた。
 そして、慣れないウエイトレスに仕事にもたつくかと思いきや、樹は愛想良く完璧にこなしていた。それも、憮然と見つめる風季よりも客の受けが良いくらいだ。

§

「…………」
 マスターの髭がモゾモゾと動く。
 何かを言っているのが分かるが、小声過ぎる上に清掃に没頭していた樹睦兄妹には聞き取れない。
「えっ、上がる前に珈琲豆を3袋倉庫から持ってきてくれって」
 さすがに親子だけあって、風季にはマスターの言葉が分かっていた。
 風季は樹達に倉庫まで着いてくるように言う。
「珈琲豆取りに行くんですか?」
「そうよ」
「それって、重いんじゃ……」
 睦の細腕で果たして運べるだろうか……
「確かに重いわね」
 チラッと最後尾にいる樹へと目を向け、
「いつもは力強い樹クンが運んでくれるんだけど……か弱い樹チャン一人に頼むのは酷すぎるからね」
 風季の視線に気付き、樹がやんわりとした微笑みを浮かべてみせた。視線に籠もっている侮蔑の感情など意にもかえしていないようだ。
 そんな涼しげな樹に対して風季はいつもの調子が出ず、何も言わずに前を向いた。

「これを運ぶんですよね」
 麻袋に入った珈琲豆を見下ろしながら訊ねる睦。その顔には不安の色が窺えられる。
 試しに袋の端を持ってみたが、予想通りに重く彼女一人の力では持ち上がりもしなかった。
 睦と変わらない細腕の今の樹じゃ、二人で一袋運ぶと言っても無理そうだし……せめて、私と同じくらいの力があれば二人で運べるのに……
「三人で一袋ずつ運ぶしかないようね」
 そう言って、風季は片端に手をかける。彼女に促されて睦も袋を持つ。
「ちょっと、樹も手を貸しなさいよ。まさか肉体労働したくなくて女の子になったわけでもないでしょ」
 ヤレヤレと肩を竦めて、樹は麻袋に手を伸ばし、
 そして、
「えっ!?」
 二人の見ている前で、樹は珈琲豆の入った麻袋を軽々と片手で持ち上げてみせた。
 それを左肩に抱えると、おもむろにもう一つの袋を手に取り、肩の上の袋に重ねる。
「ちょっと!?」
 唖然としている風季達を後目に、さらにもう一つの袋を右手で持ち上げた。
「これでいいんでしょ」
「うん……まぁ……そうだけど……」
 まるで重さを感じさせない樹。鼻歌を歌いながら足取り軽く通路を進む。
「ふふ〜ん♪ ふ〜ん♪ ふふ〜ん、ふ〜ん♪」
「ねぇ……」
「何?」
「その身体って……どうなってるのよ!?」
 慌てて後を着いて行きながら風季が訊ねた。
「モニターついでに色々な特殊能力が付与されているのよ。怪力もその一つよ」
 誰がどう見ても力があるようには思えない細腕だが、目の前で起きているのは真実であった。
「怪力って、どれくらいなのよ?」
「確か、握力が200って言っていたわね」
 小首を傾げながら答えたかと思うと、樹は右手に持っていた麻袋を地面に置き、片隅にまとめてあったミルクの空き缶を手に取り、縦にやすやすと潰してみた。
「ね♪」
 ニコッと微笑む樹と違って、風季も睦も呆れて何も言えなかった。

 珈琲豆をカウンターの片隅に置き終えた一行は、更衣室前にやってきた。
「…………」
 何食わぬ顔でドアノブに手をかける樹に、風季と睦の二人が複雑な眼差しを向けていた。
 二人の視線を頬に感じた樹は、扉を開けることなく隣を振り返った。
「?」
「ねぇ……」
 下向き加減でいて、それでいて上目遣いで樹の顔を見つめる風季。
「何?」
「もしかして……そこ使うの?」
 口元に人差し指を添え、小首を傾げる樹。
 そこと言うのが、今自分が開けようとしている女子更衣室だという分かるのにしばしの時間がかかった。
「えっ? 制服に着替える時、ここで着替えたけど、いけなかったかしら」
「いけなかったかしらって言われてもね……」
 困ったように横の睦に顔を向けると、彼女もまた困惑に眉を顰めていた。
「だってあんた、いくら身体が女性でも――」
 風季の言葉が終わらないうちに、樹は隣の男子更衣室を指さした。
『使用不可』
 明瞭簡潔にして意味の掴めない張り紙がそこに張ってあった。
「何よ、コレ」
「…………」
 ぼそぼそと風季の背後を通り過ぎるマスターが呟いた。
「えっ、何ですって!? 改装するから使用禁止ですって!!
 ちょっと、樹はどうするのよ!」
「…………」
「今の樹坊やは女の子だから別に女子更衣室でもいいだろですって!!」
 さっさと廊下の奥の部屋に消えていく父親に、風季は廊下の片隅に立て掛けられた箒を投げつけた。
 パッコーン!
 心地よい渇いた音を発ててそれは見事にマスターの後頭部に命中した。そしてそのままマスターは倒れるように扉の向こうに消えた。
「フンッ」
 パンッ、パンッ!
 埃を払うように両手を叩く風季。
「…………」
 呆れてもの言えない樹睦兄妹だった。
 父親を吹っ飛ばしたことで多少は気が晴れた風季だが、依然問題は解決されていない。
 通路で佇む樹と睦を見比べ、風季は力無くため息を吐いた。
「睦、あんたはあたしの部屋使って着替えてきなさい。樹に更衣室を使わせるから」
「風季ちゃんは?」
「私はこいつが着替え終わったら着替えるわ」

§

 更衣室の壁にもたれながら、先程からじぃーっとした視線を向ける風季に、樹は不思議そうに訊ねた。
「ねぇ、どうして私の着替えを見てるの?」
「見てるんじゃないわよ。見張ってるの」
 風季は樹一人に更衣室を使わせておくと、何をされるか分からないと言う。
「何かって何よ」
「色々あるわよ。私の着替えの匂いを嗅いだり、更衣室の何処かに隠しカメラを仕掛けたりしそうじゃない」
「…………ちっ」
 小さく舌打ちしたのを風季は聞き逃しはしなかった。
「あんたもしかして、私の着替えを見たい一心でその身体を選んだんじゃないんでしょうね」
「ま、まさか。そんなことあるわけないだろ。風季の着替えなんて一文の価値もないじゃないか」
 憮然と言い放つ樹の言葉の内容に、いつもなら目くじら立てて怒りそうなのに、風季は冷ややかに指摘するだけだった。
「樹、あんた。男言葉に戻ってるわよ」
 ハッとして口を押さえる。
「…………」
「たとえ一心とまではいかなくても、多少なりともその気はあったわけね。まさかとは思うけど、制服に着替える時に私の着替えに変なコトしてないわよね」
「何もしていないって! 俺は下着なんかよりも、女性は生身の方に興味があるんだから」
 叫んで、慌ててばつの悪そうに横を向く樹に、ヤレヤレと小さく嘆息し、
「睦には黙っておいてあげるわ」
「……ありがとう」
 絞り出すように言った礼の言葉には心が籠もっているとは思えなかった。
「まぁいいわ。その代わり、貸し一つよ。そのうち、何かで返して貰うから」
「クッ」
 奥歯を噛みしめながらも従うしかなかった樹だった。
 端整な顔に複雑なものを浮かべながら着ていた水風鈴の制服を脱ぐ樹。
 陽に灼けてない白く肌理の細かい肌に、ライトグリーンの下着が映える。
「ねぇ、樹」
「何?」
「その下着、自分で買ってきたの?」
「ううん。研究所の受付の女性に買ってきてもらったの」
「ふーん。着替えとかはどうするの? 男の時のヤツを使うの?」
「まさか」
 あはっと笑い、樹はロッカーの中の紙袋に視線を向けた。
 昼に店にやってきた時には、樹のあまりの様変わりに気を取られて気付かなかったが、袋に描かれているロゴからして、それが若者向けの衣料専門の百貨店のヤツだと風季にはわかった。
「午前中に睦と一緒に買いに行ってきたのよ。まさか一ヶ月間も同じ下着着けてるわけにもいかないしね。それに、多少のおしゃれには興味あるし。
 ほら、今の私って素材が良いから、磨けばそれなりに輝くと思うの」
 そう言ってモデルみたいにポーズを取ってみせる樹。
「バカなことやってないで、早く服着なさいよ。風邪ひくわよ」
 幼なじみのあまりの変貌に、風季は何も言う気がしなくなった。
 樹はロッカーの中からジーンズを取り、それを履き、薄桃色のサマーセーターを手に取った。
「あれ?」
 頓狂な声を上げる風季に、樹は着替えの手を止めて彼女の方に目を向けた。
「そう言えば、レンタルボディなのにどこにもバーコードが記されてないのね。もしかして、下着の下にでもあったの?」
「ああ、それ。この身体はモニター用の試作品だからね。レンタルボディと解るわけにはいけないんだって」
 もぞもぞとセーターを着ながら答えた。
「父さんの話だと、ライバル社のモニター段階のボディを拉致して調べるようなやばい会社もあるらしいの」
「ふ〜ん。拉致ね……」
 さして興味なさげに呟く風季だった。

§

「お疲れさま、二人とも」
 水風鈴の裏口から出てくる樹睦兄妹にねぎらいのあいさつをかける風季。彼女は依然制服姿のままである。二人が帰った後、ゆっくりと着替えると言う。
「はい。お先に失礼するね、風季ちゃん」
「ゆっくりと身体を休めなさいよ。睦は樹と違って繊細なんだから」
「私だって繊細よ」
 口を尖らせて反論する樹だが、風季は取り合おうともしない。
「樹、あんたも変なコトしないでちゃんと寝るのよ。明日も忙しいんだから」
『しないって!』
 普通なら、そんな言葉が即答で返ってくるはずなのだが、押し黙っている樹。その白い頬に微かな紅みがさす。
 何かはしようかと考えてはいたようだ。
「変なコトって?」
 風季の言っている言葉の意味が分からずキョトンとする睦。彼女の耳元で風季が囁くように教えた。
「わぁっ、わぁっ、わぁっ!」
 大声を発してそれ邪魔しようと試みる樹だが、耳元で話しているためあまり邪魔にはなっていなかった。
 風季に意味を教えられていくにつれて、睦の顔色が紅くなっていく。
「お、お兄ちゃんの不潔!」
 プイッと横を向く睦。
 最愛の妹の軽蔑の視線に、樹は慌てて弁解した。
「しないしないって。風季の言葉に惑わされるな、睦。俺がそんなことするような男に見えるか。お兄ちゃんを信用しろって」
「樹、あんた、また男言葉に戻っているわよ」
「あっ……」
 情けなく項垂れる樹。
「ばいばい、風季ちゃん」
 声に出して別れのあいさつ言う妹と違って、樹は軽く目を向けるだけだった。
 すっかりと暗くなった夜道。睦は樹から少し距離を取って歩く。
「睦ちゃん、怒ってる?」
「…………」
 夜の静けさが二人の兄妹の心の遠さを示す。
 ――かと思いきや、
「ぷっ」
 小さく吹いた妹に、樹の足が止まった。
 ケラケラと笑いながら嬉しそうな顔をしている睦に、樹は何がどうしたかわからず頭を悩ました。
「安心したの」
 ますます解らなくなる一言。
 怪訝に細い眉を顰めると、睦は言葉を続けた。
「お兄ちゃんが女の子になって戸惑っていたけど……変なコトしようと考えていたなんて、いつものお兄ちゃんらしくて安心したの」
 クスッと悪戯っぽく笑うと、百貨店の袋を下げている樹の腕を取った。
「ねぇ、今日の晩御飯もお兄ちゃんが作ってくれるの?」
「睦には世話になりっぱなしだったからな。この身体でいる間ぐらいは俺がやってやるよ」
 いつもの口調で応えた樹に、睦はどんな姿をしていても兄は兄だと実感した。


 
   4:テリトリー

「ふぅ〜」
 自室に戻ると、樹は大きく息を吐いた。
「興味本位でこの身体を選んだのは良いけど……」
 着ていたセーターとジーンズを脱ぎ去り、下着姿になる。
 既に何度目かの下着姿には抵抗はない。それに、自分の部屋なら誰に見られるでもないから安心感がある。
 肩に食い込むブラジャーの肩紐を引っ張って、その下の肌をさする樹。少し赤くなっている。
「肩は凝るし、締め付けられて苦しいし、紐が擦れてかゆいし……よく、女性は毎日、こんなものを平気で付けていられるものね」
 さらに言えば、樹は昨夜着替えることなく寝ていたため、丸一日ブラジャーを着けっぱなしでいた。慣れない身体でそんなコトをしていれば、痒くならないわけもない。
 ブラジャーを外すと、ブルンと露になる二つの乳房。その先端には可愛らしい赤い突起がある。
 昼前のランジェリーショップではハプニングやらでまともには見ることができなかった少女の――そして、今の自分の胸。
 風季に指摘されたとおり、多少は女体に興味がある。まして、男としての自分の部屋である。少女の身体で少女を演じていても、その心は自然と本来の男のものに変わる。
 そっと触れてみる。
「あんっ!?」
 思わず口から洩れた声。昨日からずぅーっと使っている少女の声が、自分の物だというのに認識するのにしばしの時間が必要だった。
 ジッと見つめる指先。そこには先程触れた胸の柔らかい感触が残る。そして、胸の方にも揉まれたという微かな圧迫感と共に快い感覚がある。
 トクン、トクン、トクン――
 半鐘の如く高鳴る鼓動。それに伴って、全身が熱を帯びてくる。
 決して侵してはならない領域を侵したという罪悪感が心に芽生える――が、それ以上に津々たる興味と先程の快感に対して食指が動く。
 ゴクッ。
 無意識に飲み込む生唾――
 今度は両手で撫でようと胸の前に手のひらを持ってくる。
 5センチ、3センチと近付いていくる手。
 後1センチで胸に触れると言うところで手が止まった。
 じぃ――
 突き刺すような視線を肌に感じ、横を向くと、少しだけ扉を開けて見つめる睦の姿があった。
 三白眼の瞳に軽蔑の色を込めた妹の視線に、気まずさに気恥ずかしさが入り交じった兄の視線がぶつかり合う。
 停滞する空気。
 ただ、ベットの枕元に置かれた目覚まし時計の針の音だけが、二人の間に響く。
 悠久にも続く沈黙を破ったのは、睦だった。
「スケベ」
「う゛っ」
 簡潔にして全てを言い表すその一言に、思わず身が退ける樹。
「変態! 不潔! お兄ちゃんのスケベ!」
 眉尻をつり上げて嫌悪感を示す睦に、樹は叫んだ。
「ちょっと待て! お前、俺が変なコトをしようと考えてたことに安心したって言っていたじゃないか!」
 水風鈴からの帰り道では確かに睦はそう言った。
 でも、あれはあの時のことで、現実にソレを見てしまうと考えも変わる。
「やっぱり、イヤなの! そんなコトするとお兄ちゃんのコト嫌いになる!」
 睨み合う二人。不意に樹の視線が逸れた。
「分かった。分かりました。もうしませんから、そんなに怒らないでよね」
 少女として一ヶ月間過ごさなければならない樹。ここで睦の機嫌を損ねて、彼女の協力を仰げなくなるのは得策ではない。
「ほんと?」
「本当よ。可愛い妹の頼みなんだから」
 ニコッと微笑む。
 その笑顔の下で、
 続きは、睦が出掛けている時にでもするかな――と、考える樹だった。
「それで、何か用があったんじゃないの?」
 上半身裸で居続けるにはまずいから、ひとまずTシャツを着込む樹。買ってきた服はまだ梱包されたままのため、普段着ているTシャツを着た物だから、かなりだぶついている。
「お父さんが帰って来たの」
「お父さんが?」
 怪訝に首を傾げる樹。
「しばらくは研究所に泊まり込むと言っていたと思うんだけど……」
「着替えを取りに来たんだって。それで、お兄ちゃんを呼んでこいって」
「ふ〜ん」
 何のようかと疑問に思いながら、部屋を出て睦の脇をすり抜けて階段に向かう樹。
「うぇげぇ!」
 いきなりシャツの裾を引っ張られて、変な声が洩れた。
「何よ、睦ちゃん?」
 振り返れば、彼女は樹の胸を見つめていた。
 後ろから引っ張られていることで、そこには乳首の形まで判別できる胸の膨らみが浮き出ていた。
「いくらお父さんとは言っても、ブラジャーぐらい付けてよね」
「えぇ〜。あれって、肩凝るからあんまり付けていたくないのよね」
「いいから付けて!」
「だって、睦ちゃんだって、お風呂から出たら付けていないじゃないの」
「あれは、お風呂から出て後は寝るだけだからいいの!」
 睦の剣幕に押され、しぶしぶ部屋に戻る樹。

 リビングに降りると、着替えを詰め終えたボストンバックを脇に置いて、新聞を読んでいる父親の姿があった。
「お父さん」
「んっ? おぉ、樹か」
 父親の対面のソファーに腰掛ける樹。別段スカートを履いているわけでもないのに膝を揃えて座るあたり、仕草が少女らしい。
 そんな樹に、父親は困惑の表情を浮かべた。
「その身体って、確か、性格性質設定は何も施していなかったよな」
「はい。それがどうかしたの?」
「あっ、いや……」
 額を指先で押さえる父親。
「どからどう見ても女性にしか見えなかったものでな」
「それで、どうかしたんですか?」
「あっ、いや。ちゃんとその身体に適応しているか訊こうと思ったんだが……」
 少女としての息子に見つめられ、気恥ずかしさを感じる父親。どうもいつもの会話の勝手が出ない。
 目を背けたまま、
「そこまで適応しているなら何も言う必要はないな。今日の所は研究室に戻るが、後で泣き言を言ってきても取り合わないからな。一ヶ月間しっかりとその身体でいろよ」
 鞄を手に取り立ち上がる父親。
「あれ? お父さん、晩御飯食べていかないの?」
 そこへ睦が現れた。
「お兄ちゃんの料理、美味しいんだよ」
「何? 樹が作るのか?」
「あっ、お父さんも食べていくなら、ちゃっちゃと作っちゃうね」
 食べるとは一言も言っていないのに、勝手にそう決めつけてキッチンに向かう樹。
 そんな息子の後ろ姿に、父親はポリポリと頭を掻きながら、
「まぁいいか。これも実験の一環だしな」
 ちゃんと調理系の知識が頭に入っており、それを実際に行えるかを知る必要があった。

 食堂のテーブルにつく父親と妹。そんな二人の前に作り上げた料理を並べていく。
 それから、何か思いだしたのか、
「あっ、そうそう。これ」
 ズボンのポケットから数枚の紙を取り出した樹。それは昼間に買い込んできた着替えの領収書だった。
「金額がやけに多いようだが……」
 一瞥しただけで合計金額を算出した父親。さすがは研究者とでも言ったところか。
「やぁね、お父さん。女の子の服はお金がかかるものよ」
 コケティッシュに微笑み、樹は茶碗にご飯をよそおう。
 ズゥ……
 口を付けた椀。中身は味噌汁なのだが……
「この味は!?」
 驚愕する父親に、先にその味を味わっている睦はクスッと微笑んだ。
「ねっ、お母さんの味にそっくりでしょ」
「ああ」
 低く唸る父親。
「こいつは確かに母さんの味だ……」
 一流料亭と互角の料理ぐらい並ぶとは思っていたが、まさか、ここまでできるとは考えもよらなかった。
「お父さん。おかわりは沢山あるから、どんどん食べてね」
 言われるまでもなく、久しく味わっていない懐かしい味に、父親の箸は進む。
 腹をパンパンに張るまで料理を堪能した父親に、そっとお茶を差し出す樹。
「おっ、気が利くな」
 番茶をすする父親。
 この頃になると、さすがに女性としての息子に慣れたのか、二人の間に会話の華が咲く。
 そんな二人を見つめる睦。時折会話に混ざるが、すぐにそこから抜ける。
 家族団らん。
 それはいいことだ。だけど違う。
 何かが違う。樹と父親の会話を横で聞きながら、独り疎外感を感じる睦だった。

§

 その疎外感がある種の嫉妬に、そして嫌悪感に変わるまで、しばしの時間も必要なかった。

§

 自分よりも早く起きる女性の兄。


ジリリリリリィ――――
隣の樹の部屋から目覚まし時計の音が鳴り響く。


。兄のだたるき起く遅もりよ分自

 朝食を作る女性の兄。


『睦ちゃん。朝御飯よ』
朝食を作り終えた樹の呼ぶ声がキッチンから聞こえてきた。



。兄のだたいなら作を食朝


 洗濯をする女性の兄。

『睦ちゃん。洗濯物があったら出しといてね』
洗濯機の前に佇む樹。



。兄のだたいなしを濯洗



 炊事洗濯すべてを自分の代わりに行ってくれる女性の兄。


『あっ、睦ちゃんはそこでくつろいでいていいのよ』
何かしようと手を伸ばす度にそう言ってくる樹。



。兄のだたたいいなしも何てせ任に分自をてべす濯洗事炊


 今まであたしがやってきた全てのことをし、そして温かく包み込む女性の兄。

 ただ、黙って自分を見守る兄の姿は何処にもない。

 何処にも……

 そして、今までの自分の居場所も……























「睦ちゃん。アルバイトに行く時間よ」
























§

 睦を呼びに妹の部屋にやってきた樹。ノックして開けた扉の向こうでは、カーテンを閉めた薄暗い部屋の中で俯いたまま立っている睦の姿があった。
「睦ちゃん!?」
 いつもと違う睦――いや、それ以前に今までの人生でこんな姿の妹を見たことがない。
「…………違う」
 微かな声で呟きを洩らす睦。
「えっ? 何を言ったの!?」
「……違う」
「違う!? 何が?」
「あなたはあたしのお兄ちゃんじゃないわ!」
 見上げた睦の瞳には涙が浮かんでいた。
「何言ってるのよ、私はあなたのお兄ちゃんよ」
「違う! 本当のお兄ちゃんはぐーたらでずぼら、あたしが色々として上げないと何もできないような人よ!」
 あまりにも酷い言われように苦笑の一つでも浮かべたいところだが、睦のあまりにも真剣な瞳にそれすらできなかった。
「だから返してよ! あたしのお兄ちゃんを返して!! あたしの居場所を返してよ!!」
 必死に訴える睦。彼女が何故そんな事を口走っているのか分からない。ただ、樹には『居場所』の一言が気になった。
「睦ちゃんの……居場所?」
 言われてみれば、この身体になってからしてきた家のことの全ては、今まで睦が行ってきたことである。
 それを自分が取ったことが、睦の存在意義を揺らがした言ったところか……
 けど、
 それは、
「睦……それは違うよ」
 静かに首を横に振る樹。いつしか言葉遣いが本来の樹のものに変わっていた。
「俺はそんなつもりで、お前の前にこの姿で存在しているんじゃない」
「……お兄ちゃん?」
 見つめた兄の顔は慈愛のこもった笑みを浮かべていた。
「俺がこの身体でいる間は、お前は『母』じゃなくて一人の『娘』として甘えていればいいんだよ」
「……娘?」
「そうだ。お前は長いこと俺の、親父の、八雲家の『母』でいようとし続けた。だからこれは、お前の居場所を奪うことじゃなくて、お前の本来あるべき居場所を作ってやったつもりだったんだ」
 幼き頃に母を亡くした樹睦兄妹は、亡くした母の代わりにお互いがそれぞれの保護者となった。
 兄はぐーたらで何もできないかも知れないが、黙って妹を見守り続けることにした。
 そして妹は、亡き母に代わりに兄の面倒を見続けることにした。
 いつかお互いの前に自分の代わりになる『恋人』が現れるまで……
「お兄ちゃんに……ううん、お母さんに甘えていればいいんだよ、睦」
 そっと睦を抱きしめる樹。
 愛おしげに妹の頭を撫でてやる。
「あっ……」
 キョトンと見つめ樹。
「お母さんの匂いがする……」
 鼻孔をくすぐるは、幼き頃に嗅いだ懐かしい匂い――
 幼き日々――自分はその温もりの中に居場所を見出していたのを思いだした。

§

「それじゃあ、お兄ちゃんが女性の身体を選んだのは、あたしに居場所を作るためだったの?」
 アルバイト先の水風鈴に向かう道中、訊ねてくる睦の顔には哀切に満ちた表情はない。
 あるのは、新しい自分の居場所を見つけたことに対する嬉しさだけだ。
「それも理由の一つだよ。俺は口べただからな。こんなコトでしか、お前に何も返してやれないからな」
 わざと、いつもの口調で言うことで、照れを隠した樹だった。
 そんな兄の腕に、睦は嬉しそうにしがみつく。
「ちょっと、睦!? 女同士でそう言うのは……」
「いいの。お兄ちゃんはお母さんだからいいんだよ」
 まったく取り合おうとせず、腕にしがみついたままの睦。
 そんな二人を、水風鈴の店前を掃除していた風季が見つけた。
 何処か異様なモノを見たように目をまん丸にしてる風季。
「何か、異様に仲が良くなっていない?」
「そう?」
 一度首を傾げる樹。右腕には睦がニコニコとしながらしがみついている。
 そして、
「それが兄妹ってもんよ」
 ニコッと微笑んでみせた。


 
   5:フォトグラフィ

 夏休み入って早2週間が過ぎようとしていた8月初旬のとある暑い日――
 夏の陽射しを肌に浴びながら街を歩く樹。薄い空色のワンピース姿で颯爽と歩くその様は、何処かぎこちなかった2週間前と違い、どの角度から見ても少女そのものだった。
 その証拠に、街を歩いている樹に声をかけてくる男の多いこと。いくら外見が美少女でも、中身が男の樹は同じ男から声をかけられてもあまり嬉しくないのか、どの誘いにものらなかった――もっと、どこか声をかけられていることを楽しんでいる節があるのは否めないが……
「ねぇ、キミ」
 久しぶりのアルバイトの休日、クレープ片手にブティックの紙袋を提げながらウィンドショッピングを楽しんでいた樹は、背後から呼び止められた。
 またナンパか――と心の中でウンザリしながらも、それを微塵も表情には出さず美妙な笑みを浮かべた顔で振り返った。
 …………?
 自分を呼び止めた人の姿を見て、キョトンとする樹。そこにいたのは、自分の歩調に合わせて車道を併走する一台のワンボックスカーの窓から身を乗り出している口ひげを生やした男だった。
 窓を覗けば、中には運転している男と奥にもう1人の計3人いた。更に、車内に業務用のカメラとかが置いてあるのが目に入った。
「今暇無いかな? ちょっとした番組の取材やってるんだけど、キミみたいな綺麗な娘を探していたんだよ」
「えっ!? 綺麗って?」
 白い陽に灼けていない肌に紅みが射す。例えレンタルボディとは言っても、褒められればいい気がしないわけがない。
「そう、そう」
 髭の男は立ち止まった樹に併せて車を停止させ、ごそごそと車内を漁って取り出した一枚の名刺を差し出してきた。
『去オ夕工房 代表取締役 笹井猛』
「七夕工房?」
「テレビ局から下請けで番組作っているプロダクションだよ」
 乾いた笑い声を上げる笹井。
「もっとも、私が社長で、スタッフがカメラマンと音声のこいつら二人だけの弱小だけどね」
「はぁー」
 何と応えていいのやら……曖昧な気の抜けた返事をする樹。
「それで、私に何か?」
「ちょっとした番組の取材やってるんだけど、出演してくれないかな? 手配していたモデルの奴が、風邪で寝込んじゃってさ、困ってたんだよ」
「えっ!? 私がテレビに?」
「そう、そう。ちゃんと出演料も払うしさ、どうかな?」
「う〜ん……」
 口元に人差し指をあて、小首を傾げて悩む樹。笹井の姿を一瞥してから、
「やっぱりいいです」
 キッパリと断った。
「そんなこと言わずにさ、頼むよ。ウチは弱小だからさ、穴開けるわけにはいかないんだよ」
 ドアを開けて樹の細い手首を掴む笹井。
「ちょっと、止めて下さい!」
 振り解こうと力を込めた瞬間――
 ――チカッ――
 蚊に刺されたような鋭い痛みを掴まれた手首に感じ、樹はそのまま倒れ込むように車内に乗り込んだ。
 そして、車は走り去っていった……

§

「う……ん…………」
 頬に冷たさを感じ樹は瞼を開けた。気怠そうに瞳を動かすと、コンクリート剥き出しの天井や壁があった。
 建築途中で放棄されたビルなのか、見上げた天井は全てが埋まっているというわけではなかった。穴の向こうに空が見えるあたり、最上階に自分がいることが分かった。
 手を付いて上半身を起こす樹。ただ、何かがおかしい。
 微かな違和感を感じながら右手を見ると、手首には紅い小さな点が見えた。
 そして、それに伴って記憶が甦ってくる。
 テレビ出演を頼まれ、それを断った際に手首を握られ、そこに鋭い痛みを感じ、気を失ったことを。
 次第にハッキリしてくる意識。
 ――と、同時に、樹は自分の置かれた現状を理解した。
 自分に向けられて映像を撮り続けている一台のカメラと、建築資材に腰掛けている笹井達の姿が見えた。
 彼らもまた樹が目を覚ましたのに気付いたのかこちらに顔を向けた。
「おや、もう目覚めましたか」
 若干の驚きの表情を浮かべる笹井。だが、それもすぐに消え、口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「これは何の真似よ!?」
 壁に手を付いて立ち上がろうとするが力の入らない樹。
「あっ、無理しない方がいいよ。逃げないようにと、連れ込む際に麻酔の他にも遅効性の筋肉弛緩剤を打ってあるから」
 言われてみれば全然力が入らない。辛うじて四肢や頭を動かすことはできるが、それだけだ。その場から逃げようにも、立つことすらままならない。
「何なのよ、私をさらって」
「なぁに。キミにビデオに出演して貰うだけだよ」
「ビデオ?」
 笹井の言うビデオが真っ当じゃない物だというのは簡単に理解できた。
「ウチはね、テレビ番組の下請けじゃなくて、本当はレイプ物の裏ビデオを撮ってる会社なんだよね」
 レイプの一言で樹の肌が粟立つ。心の中に今までの18年間の人生で感じたことのない恐怖が芽生える。女としてのSEXに興味が無いわけではない。だが、それでレイプされることを望んでいるわけでもない。
 身体を小刻みに震わしながら尻をついたまま後ずさる樹だが、背中がすぐに壁に当たる。
 そんな悲愴感漂う樹に近付くとその線の細い顎をクイッと持ち上げ、笹井は下卑たる笑みを浮かべた。
「なぁに。演出上で始めは強引に行くが、後で気持ちよくなるドラッグをくれてやるから、安心するといい」
「クッ!」
 歯噛みし睨み付ける樹。それが今できるせめてもの抵抗であった。
「フッ」
 笹井は小さく鼻先で笑い、樹の着ているワンピースの襟元に手を伸ばした。
「キャァッ!」
 短い悲鳴。
 力任せに破かれたワンピース。手を振り下ろす際に指の一本が下着の一部にでも引っかかったのか、白い清純そうなブラジャーまで引きちぎられていた。
 露になった乳房を押さえてうずくまる樹。バクつく心臓が手に伝わってくる。『犯される』と言う、恐怖は、限界に達しようとしていた。
 クルリときびすを返す笹井。今まで後ろに控えていたスッタフの部下2名に短く命令を出した。
「犯せ」
 その言葉を待っていたかのように、二人の男達は樹に向かって飛びつくかのように駆け出してきた。
 今にも自分を掴み上げようと伸ばされた手。
 男達の瞳の奥に、樹は狂気の色を見た気がした。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ――――!! 誰か、助けてェッ!!」
 甲高い悲鳴も悲痛な叫びは、都会の喧騒に飲み込まれて誰の耳にも届かなかった。
 だが、その想いは天に通じていた。
 ――――ッ!
 瞬く閃光に樹に迫る男達の手が止まった。
 見上げれば天井の無い穴の空いた部分からカメラを向けている紅いバンダナの青年が一人いた。年の頃は樹と同じ18才ぐらいだ。
「あんたら。犯罪行為はそこらへんで止めときな」
「何だ、貴様は!」
「何だかんだと言われても、ただの通りすがりのアマチュアカメラマンの白井ってもんだけど」
 何処か人を食った印象の白井。そんな彼に、笹井は部下達に上に行くように命令を出した。
 慌てて駆け出す男達。
 ――――ッ!
 それを制するように、フラッシュが再度焚かれた。
「あっと、僕の元に来る暇あったら逃げた方がいいよ。警察に連絡して置いたから」
 白井は右手でカメラを構えたまま左手で携帯電話を取り出した。
 それを見て、笹井の顔色が青くなった。
「おい、あいつのことはいいから、ずらかるぞ!」
 号令一発、機材をかき集めて逃げ出す三人。
 彼らが完全に建物から去っていったのを待って、白井は覗いていた穴から飛び降りてきた。余程身が軽いのか軽々と着地する。
「大丈夫かい」
 優しげな言葉と共に、白井はフロアーの片隅に転がっていたブティックの紙袋を差し出した。
「これ、服なんだろ? 着替えた方がいいよ」
「あ、ありがとう」
 片手を伸ばして受け取る樹。白井の顔を間近に見た瞬間、破れたワンピースを押さえるもう片方の左手に、
 ――トクン――
 大きく跳ねる心音が伝わってきた気がする。
「着替えられる?」
「あっ、うん……」
 腕を動かしてみると、握力200とまではいかないが、着替えることができる分には回復はしていた。普通の人では考えられない尋常じゃない回復力は、樹の身体の中にある特殊処理された免疫機構が働いてるためであった。
「じゃあ、僕は壁の向こうにいるから。あっ、警察には連絡してないけど、してもいいなら入れておくよ」
 警察を呼んだというのは白井のはったりだった。レイプされそうになった樹の気持ちを汲んでのことだろう。警察を呼べば、レイプされかけたのが公になってしまう。
「未遂に終わりましたからいいです」
 白井の申し出を断る樹。それ以外にも、レンタルボディのモニターをしている手前、警察沙汰になるわけにはいかない。
「何かあったら、大声で呼んでくれればいいよ」
 そう言い残して壁の向こう側に去っていく白井。
 着替えようと、破れたワンピースを脱ぐ樹は、自分の身体がほのかに火照っていくのを感じた。
 そんな心の高鳴りを落ち着かせるように一度深く深呼吸する樹。
「落ち着け、落ち着け、樹。コレはただの恐怖からくる疑似恋愛感情にしか過ぎなんだから……」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 心理学では、恐怖に対するドキドキと恋愛感情のドキドキはかなり類似したパターンで、恐怖を味わっている時に身近に異性がいると疑似恋愛の感情が芽生えると言われている。それが、自分にも起こっているものだと思い込もうとしている樹だった。

 買ってきたデニム地のミニスカートに横縞のTシャツ、それに白のパーカー姿に着替え終わった樹は、破られたワンピースとブラジャーを紙袋に入れ、白井のいる壁の向こうに向かった。
 着替えることによって多少は気持ちが落ち着いた樹だが、ノーブラでいることに羞恥心をかき立てていた。
 ブラジャーをしていないことを覚られないように、胸の前で紙袋を抱える樹。
 ほとんど抜けたとはいえ、多少は弛緩剤が残っているのか、少し足取りがおかしい。が、それも後数分もすれば全快する。
「?」
 キョトンとする樹。ゆっくりとした足取りで向かった壁の向こう側には、白井の姿はなかった。
「あっ、こっちだよ」
 頭上から聞こえてくる声に、見上げれば屋上へと続く階段から顔を覗かせる白井がいた。
「何を……何をしてるんです?」
「街を撮っていたんだ」
 白井は屋上にカメラを設置して、街の風景を俯瞰で撮っていた。
「街……ですか」
 カメラをやらない樹には、何が面白いのかあまり理解できないでいた。
「さっきはビックリしたよ。ここで街並みを撮っていたらいきなり下からキミの悲鳴が聞こえてきたからね」
「先程は本当にありがとうございました――しらい――さん?」
「白井。白井あきら。あきらでいいよ」
「あっ、私は八雲樹。私も樹でいいですよ、あきら君」
「へぇー、樹ちゃんって言うんだ」
 何気ないあきらの一言に、
 ――トクン――
 おさまりかけていた胸の高鳴りが再び鳴り始めた。
『樹ちゃん』
 幼き頃を除けば、名前にちゃん付けで呼ばれたことは無い。純粋に女の子として樹を見ているあきら。
 冷静に考えれば、知り合った人にここまで女性扱いされたのは初めてだ。
 男であろうと女であろうと、睦や風季にとっては『樹』でしかないのだ。店の店員とかナンパしている男達は、樹のことを女の子として見てくれるが、それとてその場限りの出会い。名前を教えあう関係でもない。
「どうかしたの、樹ちゃん?」
 話しかけられるだけで胸の鼓動が逸る。
 あきらの顔をまともに見られないほどの高鳴りを感じ、いつしか俯く樹。
「体調悪いようなら救急車でも呼ぼうか?」
「あっ、ううん」
 慌てて必要ないことを告げる樹。
「ちょっと考えごとしていたから」
「そう? 何なら携帯貸すけど、知り合いに連絡する?」
 携帯を差し出す白井に、樹は首を横に振った。
「心配かけるとうるさい奴らだから」
 どんどんどんと募っていく自分の気持ちを誤魔化すように、樹はわざと本来の口調でぶっきらぼうに答えた。


 
   6:シャウト

 静かな足取りで朝の通学路を歩く制服姿の睦。そんな彼女の後ろ姿を見つけた風季が足早に駆けながら彼女の肩を叩いた。
「おっはよう、睦♪」
「あっ、おはよう、風季ちゃん」
 睦並ぶと、歩調を彼女に会わせて歩き出す風季。キョロキョロと何かを探すように見渡す。
「ねぇ、ばか兄貴は? もしかして今日の登校日は休みとか?」
 妹と仲良く一緒とまではいかないが、それなりに似た時間帯に家を出る樹の姿も近くにあるはずなのだが、その日は何処にも見当たらない。
「さすがにあの姿ではまずいから」
 軽く微苦笑を浮かべてみせる睦。
「先生に話を付けるために、早朝に出ていきました」
「ふ〜ん。それで姿は? まさか男子用の制服ってわけでもないでしょ」
「あたしの予備を貸したから……」
 今朝、樹に頭を下げられて、睦はしかたなしに自分の制服を貸した。
 どうせ夏休みの登校日でしかないんだから、そこまでして学校に出なくても休めばいいのにと睦は言うが、樹は三年間の皆勤がかかってるからと、借り受けた女子用の制服を着込み学校へと行ってしまった。
「たっはっはっは……。すっかりと、女の子になっちゃったわね」
 何処か複雑そうな顔で乾いた笑いを洩らす風季。そんな幼なじみのお姉さんに、睦は神妙そうに話しかけた。
「それで、風季ちゃん。お兄ちゃんがおかしいんですよ」
「おかしいって? 既にあの姿であること事態がおかしいと思うけど」
「そうじゃなくて。昨日の夕方に家に帰ってきてからおかしいんですよ。何処かぽわ〜んとしちゃって、何を聞いても上の空だし、料理は塩と砂糖を間違えたりして……」
「昨日のバイトの休みに何かあったんじゃないの?」
 軽く肩を竦める風季。何がどうおかしいのかは、実物を見るまで何とも言えないのが彼女の考えだった。

 学校に着いた風季は、睦と別れて三年生の教室のある三階に向かう。
「おはよう」
「あっ、おはよ、風ちゃん」
 廊下を歩く知人とあいさつを交わしながら自分の教室に入った風季。扉をくぐった瞬間、窓際の席の一画に男子生徒の人集りができているのが見えた。
 人集りのある席の位置でだいたいの理由を察した風季だが、聞かずにはおれない。
 男子生徒とは違い、少し距離をおいてそちらを窺いながら話している女子生徒の輪に顔を出す風季。
「何? どうかしたの?」
「あっ、風ちゃん。あれよ、あれ。さっき先生が言っていたけど、あの娘、八雲君ですって」
 風季の予想通り、人集りの中心にはセーラー服を着込んだ髪の長い少女――樹がいた。イメージチェンジなのか、ポニーテールと違い髪をおろしたその姿は大人しい少女に見える。頭に着けているカチューシャが、リボンの代わりのモニター用のセンサーであろう。
「なんでも、お父さんの手伝いでレンタルボディーのモニターをしてるんですって」
「そう言えば、いつまであの身体でいるのかな?」
「先生が夏休みの間だけだって言っていたけど……」
「あ、良かった。それなら、一緒の更衣室を使うなんてことはないわね」
 口々に色々と教えてくれるクラスメートに微苦笑を浮かべる風季。
「でも何で少女なのかしら、風ちゃん知ってる?」
「どうせ、頼まれたのが少女の身体のモニターなんでしょ」
 当たり障りのないことを言っておく風季。まさか興味本位で選んだとは言えない。それを言ってしまうと、樹に向けられる目が、好奇の目から軽蔑の目に変わりかねない。それは幼なじみの風季としてもあまりいい事とは思えれない。
「あっ、そうか。それなら良かったね」
「良かった?」
 友人の何気ない一言に眉を顰める風季。
「だって、趣味だったら風ちゃんが可哀想じゃない」
「どうして私が可哀想なの?」
 問いかけるが、その答えを聞き出す前にHRの始まりのチャイムが教室に鳴り響いた。

「ふぅ〜」
 担任の話を頭の中で素通りさせながら、愁いを帯びた溜息をつく樹。
 先生に前もって頼んだおかげでクラスメート達はパニックにはならなかったし、親に無理矢理頼まれてと言ってあるから、女性の身体でいることで女生徒達に軽蔑されることはなかった。
 ただ、それで好奇の目が向けられなくなるはずもない。
 キーンコーン、カーンコーン――――
 HRの終了を示すチャイム。担任の話も丁度終わり、学級委員が号令を発する。
「起立」
 ほとんど反射的に立ち上がる樹。心ここにあらずと言った感じだ。
「礼」
 頭を下げると、長い髪が一緒に垂れた。それを手で後ろに払いながら、樹は席に着いた。
 緩慢な動きでHRで配られたプリントを鞄に入れていると、
「八雲。お前、女になるってどんな気持ちなんだ?」
「ねぇ、八雲君。レンタルボディって借りるのにいくらぐらいかかるの?」
「なぁ、胸触らせてくれないか?」
「いつからその身体でいるの?」
 HR前はそれなりにちゃんと答えていた樹だが、放課後のチャイムと共に殺到してきたクラスメートの矢継ぎ早の質問責めには何一つ答えない。
 代わりに、セーラー服の袖から伸びる白く細い腕を、集まってきた生徒の1人が持つ未開封のお茶の缶に伸ばした。
 生徒達に何事かと思う間を与えず、樹は奪い取った缶をそのまま縦に握りつぶしてみせた。
 その際、吹き出した中身のお茶が間近にいた数人の生徒達にかかるが、それにさえ反応できないほど彼らは呆然としていた。
「ごめん。ちょっと独りにしてくれないかな」
 そう言って、鞄片手に立ち去る樹。後に残るは握りつぶされた缶のみ。
 樹が教室から出てしばらくして、彼らの金縛りは解けた。
「何だ、あいつ?」
 怪訝に思うクラスメート達に、何気なくフォローを入れおく風季。
「長期のモニターを続けている上に久しぶりの学校で、情緒不安定にでもなったのよ」
 そして、
(……多分ね)
 自分に言い聞かせるように心の中でそう付け加えるのだった。

§

――――き。――つき。いつき。樹!」
 耳元で叫ばれ、持っていたトレイを落とす樹。木製トレイの乾いた音が店内に響くが、幸か不幸か客の姿が誰一人として無かったため、迷惑をかけることにはならなかった。
「何よ、風季。耳元で叫んだりして」
 耳を押さえて、樹はムスッと頬を膨らませた。
 そんな樹に、
「…………」
 言葉を失う風季。いつもなら女の子らしい仕草をしていても、突然の出来事にはついつい無意識に地――男がでていた樹なのだが、今の対応は完全に少女のものであった。
「あんた、もしかして……」
 何かを言いかけたそこへ、
 カラン、カラン――
 店内にカウベルが鳴り響く。
「あっ、いらっしゃいませ」
 樹に話しかけた言葉を打ち切り、風季は来店者にあいさつをした。
 扉を開けて入ってきたのは、1人の青年だった。それも紅いバンダナをした――
「あっ」
 小さく驚きの声を洩ら樹。
 水風鈴にやってきた客は、あきらだった。
「あれ? 樹ちゃんじゃない」
 あきらもまた樹の存在に気付き、軽く微笑み返す。
「へぇ〜。キミって、ここでバイトしてたんだ」
「あっ、うん」
 頬に朱が射す樹。あきらの視線に耐えられないように俯いてしまう。
 トレイを両手に持ってモジモジとする樹。そんな兄の姿に、睦は信じられないモノを見たように、目をまん丸に見開いていた。
 一方の風季は、そんな樹の態度が頭にあったのか、さして驚いてはいない。ただ、小さく呟くだけだった
「やっぱり……」
「やっぱり?」
 怪訝に風季の顔を見る睦。
「もしかしてと思っていたけど……あいつ、あの人に恋してるみたいだね」
「そんな〜」
 悲愴感を浮かべながら兄達を見るが、確かに風季の言うとおり恋をしているのがありありと分かった。
「あんなお兄ちゃんで、風季ちゃんはいいの?」
「いいのって言われてもね……」
 風季は軽く口元に冷笑を浮かべた。
 恥じらいながらも楽しげにあきらと話している樹。そんな、すっかりと少女の心を持ってしまった幼なじみの姿に、風季は胸の奥に切ない痛みを感じていた。

§

「ふふ〜ん♪ ふ〜ん♪ ふふ〜ん、ふ〜ん♪」
「嬉しそうね、お兄ちゃん」
 鼻歌混じりに夕飯を作る樹。そんな兄に、テーブルに食器を並べながら睦が声をかける。
「あっ、やっぱり分かる?」
 ニコニコとして答える。
「夕方にお店に来ていたあの人って誰なの?」
「う〜ん、命の恩人かな……」
 口元に人差し指を添え、小首を傾げてそう答えた。
「命の恩人?」
「うん。まぁ、そんなところだよ」
 あまり、昨日の出来事を語りたくないのか、言葉を濁す樹。
「それで、助けてくれたお礼をしたいって言ったら、写真のモデルをしてくれって頼まれたの。何でも、あきら君ってば、プロの写真家志望なんだって」
「モデルってヌード?」
「そんなことあるはず無いじゃない。街並みをバックにしたポートレートよ」
「それで、いつモデルをするの?」
「再来週の水曜日よ――アルバイトがお休みの」
 他にも休みの日はあるのだが、それらの日は研究室に身体機能のチェックに行かなくてはならない。
「再来週の水曜日って……確か」
「そうよ。この身体の最後にはもってこいのイベントじゃない」
 悪戯っぽく微笑む樹。
 その日は、樹が少女になって丁度一ヶ月目で、少女としていられる最後の日だった。
 そして……

§

 開店の準備をする風季。
「ふ〜ん。あいつ、女性としての最後の日をデートで終わらせるんだ」
 一緒に準備している睦の話に、さしたる興味を示さない。ただ、それで全ての感情を隠し切れるわけでもなく、彼女の瞳には微かに寂しげな色が帯びていた。
「いいの、風季ちゃん」
「いいのって何が?」
「だって、今日は……」
「別にいいわよ。あいつと私はただの幼なじみでしかないんだから」
 チラッと見た振り子時計の針は八時を指そうとしていた。睦の話が正しければ、今頃、駅前では樹があきらと待ち合わせをしている頃だ。

 駅前の噴水の前に佇む樹。その姿は、あの日のパーカーとミニスカートだった。もっと色々と着飾ってこようかと考えたが、あれこれ悩んだ末、それが適当だと思った。あきらにも自然な格好で来てくれと言われていたし。
 腕時計を見るともうじき八時になろうとしている。駅前にやってきて既に30分近くは経過していた。
「ふぅ〜」
 始めての少女としてのデートに気が逸って、ついつい早く来すぎてしまった。
「待ったかな?」
 その声に反応して顔を上げる――が、
「あっ、ケイさん。ううん、別に」
 やってきた青年は、樹の隣で同じように待ち合わせをしていた少女の連れだった。
 仲よさそうに連れ立って歩く二人。
 羨ましそうに眺めている樹は、すぐ隣から聞こえてきたシャッター音に反応した。
「あっ、あきら君」
 そこには、いつの間にやってきたのか、カメラを構えたあきらが立っていた。
「やぁ、お待たせ」
 返事を返しながらも写真を撮り続けるあきら。
「ちょっと、やめて下さい」
 恥ずかしがる樹だが、あきらは平然とシャッターを切り続ける。だがそれも、ファインダー越しに、樹の瞳に光るモノを見つけると、写真を撮るのをひとまず止めた。
「ごめん、ごめん。待っているキミの姿があんまり魅力的だったから」
 魅力的と言われ悪い気がしない樹は、泣くのを止めた。
「それで、これからどうするんですか?」
「軽く散歩でもしながら、樹ちゃんの姿でも撮っていこうと考えているんだ」
 撮影プランなど考えずに、いいものがあったらその都度写真を撮っていくと言うあきら。樹には異存がなかった。

§

 夜と言うほどではないが薄暗い街。
 昼中は快晴だったのに、突然降り出してきた夕立に窓ガラスが見る間に濡れていく。
 夕立で客足の途切れた水風鈴の店内は閑散としていた。客のいない店内で、風季と睦の二人のウエイトレスはテーブルや椅子を整えていた。カウンターではマスターが静かに珈琲を煎れていた。
 カラン、カラン――
 カウベルの音に目を向ければ、慌てて飛び込んできた樹とあきらの姿があった。
「樹?」
「あっ、風季ちゃん。タオル貸して、タオル」
 カサを持って出歩かなかったのか、二人ともびしょ濡れである。
 仕方なしにタオルを取ってくる風季。このまま二人を席に着かせると椅子が濡れかねない。
「はい、樹」
「ありがとう」
 受け取ったタオルの一つをあきらに渡し、樹は濡れたポニーテールを拭く。
「あっ、紹介するの忘れてたわね。
 こちらはあきら君。私の恩人なの。
 で、こっちが、幼なじみの風季ちゃんに、妹の睦」
「こんにちは、風季ちゃんに睦ちゃん」
 嫌味のない爽やかな笑顔浮かべるあきらに、睦は風季の背中に隠れて頭だけ出して軽く会釈した。
「初めまして、あきらさん。樹が世話をかけたそうで、私からもお礼を言わせてもらうわ」
 素っ気なくも礼の言葉を言い、深々と頭を下げる――が、
 あげた顔には複雑な笑みが浮かんでいた。
「それから、私のことはちゃん付けで呼ばないくれる。キミに親しくされる由縁なんてないから」
「あっ、ごめん」
 素直に謝るあきらだが、隣で聞いていた樹は違った反応を見せた。
「ちょっと、親しくしたっていいじゃないの。私のお友達なんだから。
 あっ、もしかして私があきら君と仲が良いことに妬いてんの?」
 少し戯けたように言う樹だが、風季には冗談と通じなかった。
 ――ッ!!――
 風季の中で、押し止めていた溜まり溜まった感情が弾けた。
 ┘└
 ┐┌(怒)

 こめかみに浮かぶ血管。
 バッシィ――――ン!
 樹はいきなり頬を叩かれ、キョトンとした。
「樹のバカァ!」
 そのまま樹とあきらの間を割って、店の外へと駆け出していく風季。
 突然、目の前で起こった出来事に唖然としているあきらを後目に、叩かれた頬をそっと撫でる樹。
 音の割にはたいした痛みはない。ただ……
 あいつ……泣いていた……
 久しく見たことのない幼なじみの涙。
 最後に見たのっていつだったか……
 トンッ――
 軽く入り口へと背中を押された。
 っとっとっと――2、3歩歩んだところで振り返る樹。そこには、目で追いかけろと訴えているあきらがいた。
 コクッと小さく頷き、慌てて飛び出す樹。
 ヤレヤレと苦笑を浮かべるあきらは、隣から見つめる睦の視線に気付き、顔を向けた。
「どうかしたんだい?」
「いいんですか、おに――おねえちゃんを行かせて」
「お兄ちゃんでいいよ。樹クンが男の子なのは分かっていたから」
「えっ!?」
 おもむろに、あきらは頭に巻いていてバンダナを外した。ただ、それで彼の頭を束縛する物が無くなったわけでは無かった。
 あきらの頭には、硬質感のある何か――ポニーテールを結わえるリボンの下にあるモニター用の装置によく似た物が装着されていたのだ。
「それって……」
「僕もレンタルボディのモニターをしてたからね。それに、所長さん――君達のお父さんから、先行してモニターを始めた息子さんが少女の身体を選んだのも聞いていたから」
「お兄ちゃんはその事を知ってるんですか?」
「教えてないから、気付いていないんじゃないかな?
 まぁ、少女としての樹クンは、心の底から『今の僕』に恋をしていたみたいだからね、教えたりして夢を砕くのもなんだしね」
 少し考えてから、
「あきらさんって、本当は男性なんですか? それとも女性なんですか?」
「さぁ〜。どっちかな」
 やんわりと微笑むあきら。
「どっちにしても、白井あきらは白井あきらでしかないんだよ。例え、どんな身体になっても、自分という自己が変わることはないよ。ちょうど、今の樹クンのようにね。
 少女の心で僕に恋心をいだいても、結局のところ彼の心は始めから風季さんのことを愛していたんだよ。今の今まで気付いていなかったようだけどね」
 コトッ――
 丁度あきらが立っている前のカウンターにコーヒーカップを置くマスター。
 何か分からず不思議そうな顔をするあきらに、
「おごりだって」
 マスターの言葉を拡張して睦が言った。

§

 水風鈴を飛び出した風季は、傘もささずに雨降る街を走っていた。
 濡れて重くなったスカートが足にまとわりつき、決して速いとは言い切れない。さらには足を取られたのか、転び水たまりの水を浴びている。
「風季!」
 ビクッ!
 名前を呼ばれ、小さく揺れる風季。
 頭を上げて振り返ると、そこには同じようにびしょ濡れの樹が立っていた。
「なに拗ねてんだよ! いつものお前らしくないぞ」
 差し伸べた手を弾く風季。
「何がいつもの私よ! あんただって、私の知ってる樹じゃないじゃない!! あの、あきらとか言う男の事が好きなんでしょ。私なんか追ってこないでお店に戻りなさいよ!」
 泣きながら叫ぶ風季。水たまりの水をすくって樹にかける。
 あまりに大人げない幼稚な行動だが、樹は敢えて避けもせずそれを被る。
「憧れはあったと思う。惹かれた心も認める。けど、それは少女としての『八雲樹』だ。明日になればいつもの俺に戻る。なのに、何で待てないんだよ」
「だって、だって……今日は――」
 ファッファン――
 言葉を遮るように鳴り響くクラクション。そして、薄暗い雨の中の二人を照らし出すヘッドライト。
 ドライバーが運転席で何かを叫んでいるが、まったくと言っていいほど聞き取れない。ただ、その慌てた手振り身振りでトラックが止まらずここに突っ込んでくることが分かった。
 咄嗟に風季を抱きかかえて跳ぶが、少しだけタイミングが遅れた。ガードレールを突き破って突っ込んできたトラックが、風季を庇うように抱える樹を掠めながら壁に打ち当たった。
 風季を抱えたまま歩道を滑る樹。そこへ、吹き飛んだガードレールの破片が雨と共に降ってきた。
「クッ――」
 破片の存在に気付いても、横になった体勢じゃどうしようもない。奥歯を噛みしめ風季を守るように身を固める樹。
 運良く、破片は樹を傷つけることはなかった。ただ、ポニーテールを縛るリボンにモニター用のセンサーごと突き刺さっていた。
 真っ直ぐに垂らせば太股まで届く黒髪も一緒に切断され、肩に辛うじて届く程度のセミロングになっていた。
「いつつぅ……」
 顔を顰めて立ち上がる樹。トラックに掠められた際にヒビでも入ったのか、肋骨痛みが走る。
 自分の痛みに耐えながらも、風季を気遣う。
「大丈夫か、風季」
「私は大丈夫だけど……樹、あんた、何処かケガしたんじゃ!?」
「あばらにヒビでも入ったようだ。
 だけど、お前にケガが無くてよかったよ」
 ホッと一息付く樹だが、それだけでも痛みが走る。
「よかったじゃないよ! どうして私を助けたの!? 樹一人なら、ケガすることなく助かったはずじゃ……」
 ポム――
 風季の頭を軽く撫でる樹。
「俺はお前を守ると、お前の小母さんに誓ったからな」
「お母さんと?」
 あれは、風季の母の今際の際での約束だった。そして、樹の想いでもあった。
「大好きな風季をずぅーっと守るってな」
「だ、だいすきって――」
 風季の顔が顔が真っ赤になっていく。
 はおっていたパーカーのポケットに何とか左手を入れて小さな箱を取り出す樹。指輪を納める小さなケースだ。
 風季の目の前でケースを開ける樹。その中には、風季の誕生石であるペリドットの指輪があった。
「俺が今日という日を忘れていると思ったのか?」
 浮かべる苦笑は、痛みに対するやせ我慢からか……
「誕生日おめでとう、風季」
「い、いつき……」
 浮かぶ涙でハッキリ見えない樹の顔は、ニッコリと微笑んでいた。
 受け取ろうと伸ばした手。だが、指輪を取らずにそれを樹に押し返す。
「どうしたんだよ」
 キョトンとする樹に、風季は人差し指を立てた。
「1日、1日だけ待ってあげる。だから、ちゃんと男としての八雲樹であたしにちょうだい。
 だって、今の樹にはお礼のキス一つできないじゃない」
 そう言ってはにかんだ笑顔見せる風季。空を覆い尽くしていた灰色の雲はいつしか晴れ、夕焼けの紅みを帯びた光の帯が二人を照らしていた。


 7:リセット

「元の身体に戻せないだって!?」
「どうしてなんです、小父さん」
 息子とその幼なじみの少女に迫られて、渋面づらの所長。
 昨日の事故での樹のケガは、新陳代謝と治癒能力が強化されていたため、寝ている間に全て全快していた。
「どうしてもこうしてもあるか! センサーを壊したお前が悪いんだろうが!! あれは随時その身体をモニターしていて、そのデータが保管されていたんだぞ!! それが壊されたら何にもならいだろうが!!」
 切断された髪の毛は、肩で綺麗に切り揃えるだけで済んだが、一度壊れたモノはどうしようもなかった。
「だから、壊れたのは事故で俺のせいじゃない。不可抗力だって言ってるだろ!」
「そう言われてもな……契約条項に記してあったはずだが、不可抗力だろうが何だろうが、壊した場合は更にモニターの期間を延期すると」
 契約条項など、あまりにも多いためまともに読んでもいない。
 隣で聞いている風季は、何が何だか分からないでいる。ただ、分かることと言えば、
「小父さん。樹はまた一ヶ月間この身体でいるんですか!?」
「まぁ、そう言うことになるな。
 だから始めに何度も念を押したのに。本当にその身体でいいのかと」
 ブツブツと呟く所長。
 何かを思いだしたのか、戸棚から一枚の紙を持ってきた。
「それから、この装飾品に関する領収書は無効だ」
「装飾品?」
 所長の言葉に反応したのは風季だった。一方の樹はまずいと顔を顰めている。
「宝石の代金まで必要経費で落とすことはできないぞ」
「宝石?」
 樹がそんなものを身に付けているのを見たことがない。
 考えられるとすれば……
「樹。私の誕生日プレゼントはちゃんとあんたのお金で買ったの?」
 問い詰めてくる風季から目を反らす樹。
「まさか、私の誕生日プレゼントまで、必要経費で落とそうとしたの?」
 気まずそうに小さく頷く樹。
 ┘└
 ┐┌(怒)

 こめかみに浮かぶ血管。

 奮える声。
 きつく握り締めた拳が震える。
いつきの――バカ!


−End−


 
 

[ RENTAL BODY Ver3 〜微熱風味〜 ] ■あとがき■

 あ〜、疲れた。
 さすがに100枚(四百字詰め原稿用紙換算枚数)越えると疲れるもので……(枚数的には今までのRBシリーズの平均数の約1.8倍くらいかな)
 ラストで一章分抜かなかったら、二倍の長さを越えていたかも(ラストで抜いた部分が、RB4に流用した設定で書かれるはずだった部分です/簡単に言えば、予告であったライバル社の産業スパイとの絡みです/おかげで張っておいた伏線が残ったまま(爆)/途中までは書いてみたんだけど、かなりおかしくなったので削除しました)

 何はともあれ、これでRENTAL BODYシリーズはひとまずの終わりです(気が向いたら、挿し絵付けてVerUPするかもしれないけど)
 2bitはネタを求めてしばらく冬眠に入ります。
 あっ、掲示板には書き込みに現れますし、自分の頁は随時更新します。冬眠するのは、ただ単純にTSを題材にしたネタが尽きただけってのが正解だったりします。それに、寄贈用作品にかまけて、自分の頁が全然更新されていない事実に気付きまして(爆)
 他に、年賀状のシーズンに向けて、少しCGの特訓でもしようと考えていますし……


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