プロローグ

 バーのカウンターに一人の男が座っていた。風貌はジーンズにシャツという姿で、まだ若かった。相当飲んでいる様子である。
「おいおい、もういい加減にしろよ」
白髪のバーテンダーが男に声をかけた。
「俺にはいきなり来ちまったよ」
「分かった、分かったってよ。もう何回も聞かされたさ。そんなこといってもしかたがないだろうが」
彼は呆れ返っていた。そんな彼に声をかける女性がいた。
「荒れてるわね、坊や」
年は二十七、八というところだろうか?きちっとローズレッドのスーツを着こなしている。眼鏡をかけているが、なかなかの美人だ。
「そりゃ荒れもするさ、なんとこいつにも来たのさ」
「あら、何が来たのかしら?」
彼女は妖しげな笑みを浮かべていた。
「召集礼状だよ。あんたのとこには来なかったのかい?」
「私はまだのようね。ツキはまだあるようよ。あなたは?」
「こんな老いぼれをいきなり戦地に向かわせるようじゃもう負けは決まってるさ。まだ戦争は始まったばかり。一応こちらの方が優勢だからね」
徴兵制度があるとはいっても、実際に戦地に駆り出されるという可能性は誰しも考えていなかった。韓国への侵攻が始まったところで、増援を送ることはほぼ明らかであった。
老バーテンダーにはまるで他人事のようだ。二人の会話は男にとっては相当癇に障ったらしい。彼は二人に食って掛かった。
「そうか、そりゃ良かったな。俺は一週間後に出頭しろとよ。酒が飲めるのも生きていればこそだ!俺の暗い未来に乾杯」
グラスの中のウィスキーを一気に飲み干すと、彼はそのまま眠り込んでしまった。
「あらあら、情けない坊やねえ」
彼女は若い男の隣に座り込んだ。足を組んで綺麗な太ももが周囲の視線をさらった。
「よっぽどショックだったんだろうなあ。将来を嘱望された優等生だってのに」
「あら、そうなの?」
女性は意外そうな顔をした。
「これでも物理学の分野で、天才って言われてたんだよ。でもねえ」
「でも?」
首を傾げて肘をつく。
「ハタチすぎればタダの人さ」
同情するような目で、彼は視線を落とした。女はくすっと笑うと、若い男を指差した。
「この子貰っていっていい?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながら、彼女はバーテンダーに尋ねた。
「そうしてくれるとありがたいね。ついでに勘定も払っておいてくれないかな?」
「いいわよ、いくら?」
彼女は現金を取り出して、バーテンダーに渡すと、彼を肩に担いでそのまま立ち去った。




たった一つの未来に向かって

               作:矢治浩平   




 日本と韓国との関係はこの十年ほど緊張が高まるばかりであった。両国ともに開戦もやむなしの世論が巻き起こったものの、決定的な事件は起こらないまま一触即発の事態が続いていた。そのため、日本でも徴兵制が導入され、男女関係なく一定期間軍隊に入り、訓練を受けることになった。それから五年の歳月が流れようとしていた。
 日本の海上訓練の最中に韓国のミサイルが飛びこんできたのは両国にとって不幸と言わざるを得なかった。これを口実に日本は韓国にその日のうちに派兵し、重要な工業都市であるP市を占拠することに成功した。日本の行動はあまりにも迅速過ぎたことから、日本の陰謀説がささやかれた。韓国は日本との全面戦争を避ける方向で動いていたのだが、逆にこれが裏目に出た。
 この状態で、A国の仲介が入り、日本と韓国は一時休戦状態に突入した。しかし、これは日本の韓国侵略の幕開けにしか過ぎなかったのである。この隙に韓国は港湾地区の奪取するため陸上部隊の準備を開始し、日本は増援を送り、さらなる侵略のための準備を整えていた。すなわちを民間人の徴集を始めていたのだった。
 日本の砲火にさらされた韓国に比べ、日本内部はまだ普段とあまり変わらない生活が続いていたが、一部のものにはすでに増援のための召集礼状が届いており、日常は変化しつつあった。

 ベッドの上で頭を押さえながら男は上半身をあげた。きょろきょろと周りを見まわした。
「あれ、俺の部屋か?あー頭が痛いぞ!よっぽど飲んだみたいだな」
ブラインドを上げると、東の窓から朝日が差し込んできた。突然の明るい光に目が眩んだ。今までの行動を思い返してみる。昨日行き付けのバーに行ったところまでは記憶にあるが、それからはまったく記憶にない。
 窓に向かって呆然としていると背後から声がした。
「目が覚めたみたいね。コーヒー入れたわよ。飲む?」
振り返ると、目の前に飛びっきりの美人が立っていた。
「あたたたた、幻覚まで見えるな。こんな綺麗なねーちゃんがおれの前にいるわけないもんな」
「幻覚じゃないわよ。とっとと飲みなさい」
その美女は彼にマグカップをつきつけると、ベッドの横にある椅子に座り込んだ。なんだかよくわからずに、彼はカップを受け取る。
「あんた…誰だ?」
「あらあ、ご挨拶ね。昨日はあんなに激しかったのに」
彼女はそのまま微笑んでいた。思わず男は青ざめる。
「冗談よ。酔っ払っているあなたをここにつれてきただけ。あなたが私を知らなくても私はあなたを知ってるわよ。神無月匠(かんなづきたくみ)。将来を嘱望されたこともある若干二十三才。今はタダのフリーター。特技は空手で二段の腕前」
匠はシーツの上でマグカップを持った手を震わせ、頬を紅潮させた。
「うるさいっ、それでいまや。戦場で肉体派に格下げさ。頑丈なのも困りもんだな」
そうして渡されたマグカップの中身を一気に飲み干した。
「確かに戦場で筋肉バカは死んでしまうわね。でも案外生き残るかもよ。あなたに生き残る気があれば、だけど」
「で、何しに来たんだ?ごらんの通り金もなけりゃ、俺はもうすぐ死ぬのさ。死ぬ前に一回やらせてくれるって言うのか?」
匠は落ち着き払った声で彼女にそう尋ねると、彼女は大きな声で笑い始めた。
「そういえばあなたまだやったことなかったわね」
「そんなことまで知っているのかっ」
恥ずかしさで顔を赤くし、再び匠は驚きの表情を浮かべた。
「あなたのことで知らないことなんてないわよ。毎日律儀に日記をつけてることも、まだ研究を続けていることもね。疲れきった体でエンピツとノート相手に戦う姿は感動的ですらあるわね」
ぴくっ、と匠の体が反応した。ベッドから降りると椅子に座っている彼女を見下ろして、胸倉を掴んだ。
「あんた何者だ?そんなこと、俺以外の誰もしらねーよ」
「口の聞き方に気をつけた方がいいわよ。坊や」
彼女がそう言うと、体中から急に力が抜けていった。
「さっきのコーヒー、何か入れたな」
「むやみに人を信用するもんじゃないわよ。これからあなたは命のやり取りをしにいくのよ」
彼女の言葉を全て聞き終わらないうちに、匠の意識は暗い闇の底へ沈んでいった。
 匠が再び気がついたとき、すでに朝だった。
「夢、か?」
行き付けのバーに行ったところまでは記憶にある。しかし、それから先はこの部屋で妙な女に会った。しかし、ここはいつもの自分の部屋に戻っていた。ブラインドを上げると、朝日が差し込んでくる。
 枕もとの目覚し時計を確認して、日付を確認した。バーに行ったのは確か二十九日の夜。そして今日は一日の朝。つまりは…
 まる一日記憶が飛んでいる。
「あの女は夢じゃなかったのか…」
匠はそう思った。
 あれこれと考えてみたものの、結論は出てこない。まずは顔を洗うために、ベッドから降りようとすると、足が何か柔らかいものに当たった。
「なんだ?」
両足を再びベッドの上に戻して、うつ伏せになって匠はベッドの下を見た。その姿勢のまま、匠はしばらく固まっていた。眠っていた頭も一気に覚めた。
 眼下には十四、五ぐらいの女の子が横向きになって寝ていた。匠はベッドの上に座りなおして、床の少女をじっと見ていた。
 しばらくすると、彼女はもぞもぞと動き出した。
「あれ?夢、だったのか?」
少女は目をこすりながら上半身を起こし、床に座って上を見上げた。
「あたた、なんで床なんかで寝てたんだろう?」
匠と目を合わせると、少女は大きく目を見開いて、彼女は首をやや傾けてまま、しばらく匠の顔をじっと見ていた。
「お前は誰だ?」
二人が声を出したのはほぼ同時だった。

 二人はお互いの顔をしばらく見ていた。その少女は、外見上はおとなしそうな、ショートカットのかわいらしい女の子で、将来はさぞ美人になるだろう、という有望さをあちこちにちりばめていた。どちらかといえば、物憂げな表情で本でも読んでいればとても絵になりそうだった。しかし、外見から受ける好印象よりも、匠は年端も行かない女の子に「お前」呼ばわりされる不快さの方が、やや勝っていた。
 しばらく時間が過ぎて、匠は落ち着きを取り戻しつつあった。匠から見れば、まだ年端も行かぬ少女である。匠の方が心理的に余裕を見せたいところだった。その上、少女の方はといえば、匠の顔を見てからというもの、時間がたつに連れて不安さが増しているのが明らかに見て取れた。何かにおびえるような目で匠の顔をじっと見つめた後、自分の服装をじろじろと見つめている仕草は、匠に苛立ちとは別の感情を芽生えさせていた。
 彼女が自分の服装と匠とをなんども見比べた後、一つ溜息をついてジャンパースカートの裾にしばらく自分の顔を埋め込んでいるころには、匠は腹立たしい感情を完全に押さえ込み、彼女に対する憐憫のみが彼を支配していた。
 思い余って匠が声をかける前に、少女は顔を上げてくれた。恐る恐る匠と目を合わせていたが、心配そうに自分を見ている匠にやや安堵の溜息をもらした。少女は大きく息を吸った後、匠に話しかけた。
「あのさ」
「なんだ?」
ぴくっ、と少女の上半身が動いたのが分かった。匠の口調からやや高圧的な空気を感じ取ったのだろう。再び少女は警戒心を匠に抱いたのか、また表情を強ばらせた。匠は再び表情をやや和らげた。少女の体の硬直は再び解けたようだった。
「お前、神無月匠、だよな?」
「ああ、でお前は?ここには金はないぞ」
少女は彼の返答を聞いて、納得したという表情を浮かべた。不安げな瞳で匠の目を見据えたまま、少女は次のように言った。
「だろうな。じゃあ、俺はだれなんだろう?」
少女はすがるような目で、匠を見上げるだけだった。匠にはこの少女がさらに弱弱しく感じた。
「何も、覚えてないのか?」
少女は首を振った。
「いいや、昨日までのことはよく覚えいるよ」
「じゃあ、自分が思っている名前を言ってみろよ」
「………クミ」
小さな声で少女は言った。
「良く聞こえないな。なんだって」
「神無月匠」
今度は、はっきりとそう告げたのだった。
 それからかなり長い時間、二人は話をしていた。自分たちの過去について、じっくりと話し合った。二人の記憶にはやや不整合があるものの、二人は自分たちが同じ記憶を共有していることを認めざるを得なかった。少女も匠も「神無月匠」という同じ人間であると言う結論を、二人とも出さざるを得なかった。
 少女は思いつめた表情で座卓のところでうつむきがちに座っていた。足音が近くに聞こえたので、顔を上げる。
「ほら、コーヒーだ。飲め」
 匠はカップを少女に手渡すと、少女はこぼさないように両手でそれを受け取った。匠はそれを見届けると、そのまま少女の対面に座り込んだ。少女は匠の顔をじろじろと見ていた。
「まだ信じられないなあ」
「お前が信じられなくてどうするんだよ」
匠は溜息をついた。
「確かにそうだな。俺は現実を受け入れるしかない」
少女はそう言いながらマグカップの水面を見つめている。
「俺にしてみれば、お前にからかわれているだけだってまだ半分思っているからな」
「それは俺だって同じだよ」
突拍子もない彼女の返答に匠はきょとんとしていた。少女が匠に向かって顔を上げた、そこにはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「俺の考えていることを教えてやろうか?」
「なんだ?」
「精神交換、だよ」
少女はにこっと匠に向かって微笑みかけた。
「その仮定ならウソツキは俺のほうと言うことになるな」
二人はそのまま大笑いをはじめた。
 コーヒーを飲み干すと、少女は座卓の上のマグカップを洗い場に持っていこうとした。
「あ、俺がやるよ」
「俺のことは気を遣わなくていいよ。そろそろバイトの時間だろ。後片付けはやっておくから、早く行ってきなよ」
匠は時計を見た。確かに、そろそろ出なければ遅刻である。自分が行かなくてもいい、という判断力があるということは、かなり気分も落ち着いているのだろう。
「出て行く前にさ、お前の名前を決めておきたいんだ。何て呼べばいい?」
「名前はもう決めてあるんだ、俺のことは操(みさお)、って呼んでくれ」
名前を聞くと、匠は目をぱちくりさせていた。しばらくして、彼は笑い始めた。
「何がおかしいんだよお」
心配そうな目で、操は匠の方を見た。
「いや、やっぱり同じ人間なんだな、って。俺もお前の事を操と呼ぼうと思ってたんだ」
操の心中は複雑だった。
 はじめにバーで匠に出会った謎の女性。彼女自身はホテルの一室で液晶モニターをずっと覗いていた。彼女の持っているモニターには二人が向かい合っている様子が映されている。なんとなくぎこちない雰囲気になぜか彼女も赤くなる。
「なんか、新婚夫婦みたいね」
匠が少女にコーヒーを手渡す映像を見ながら、彼女はそう言った。

 少女はわざと匠に「いってらっしゃい」と声をかけた。
 ドアを閉めると、玄関先で操はぺたり、と座り込んでいた。はたと思い立つと、匠はやや駆け足でシャワールームに向かった。スカートが足に纏わりついて走りにくかったが、そんなことよりも、とにかく、自分の今の姿を確認したかった。
 服の上からでも、胸のふくらみは見て取れて、外見上、今の自分が、自分が思っている自分ではないことは明らかだった。その上、自分自身の姿形をした他人を間近に見たことは彼女にとって決定的だった。
 彼女は表現しようのない不安を感じていた。
 自分が何者なのか?
 どんな方法でもいいから、彼女が今一番確認したいことだった。
 姿見に映った自分の姿の第一印象は、「清楚な美少女」だった。匠が自分に優しく接している理由がよく分かった。鏡を通した自分の顔を見ると、自分が今どんなに憔悴しているかがより理解できる。彼は目の前の「かわいそうな少女」に手を差し伸べたに過ぎない。
 いい加減鏡で自分の全身を見るのは飽きてしまったので、今度は裸になろうとした。好奇心、だけではない。自分がどんなに変わってしまったのか、きちんと確認したかったのだ。しかし、彼の好奇心は意外なものに阻まれることになった。服を脱ごうとして背中のジッパーに手を伸ばしたが、彼女はうまくジッパーを下げることが出来なかったのである。
 諦めて、彼女は別のことをすることにし、何をしようかと思案することになった。いつもならば、研究に没頭するか、アルバイトでお金を稼ぐかのどちらなのだが、いまの精神状態で研究に没頭しようとしても、集中できないのは明らかなことだ。
 また、アルバイトに出かけようにも今はアルバイトはしなくてもいい。というよりは、このなりでアルバイト先へ行っても、誰も自分だと信じてはくれないだろうし、そもそもすでにそこに自分自身は確かにいるのだ。
 とりあえず、シャワールームから一歩出て、目の前の状況をみた。すると、以前からの懸案事項があることを思い出した。
 床の上に散らかった本を、一冊一冊、片付けていた。床に散らかった紙の山をとにかく一枚一枚片付けていった。分類ごとに、本棚に分け、良く使う資料は机のファイルに綴じていった。何かをしていたかった。何かを一生懸命していないと、また自分が誰であるのかという不安にとらわれてしまう。とにかく、今は、部屋を片付けることに集中していたかった。
 今日の匠のバイト先は昨日のバーの階下にある飲食店である。部屋からそれほど遠くないビジネス街にあり、昼食時は近所のオフィスからやってくるサラリーマンで混雑し、夕方頃になると夕食を当て込んだ客で二度目のピークを迎える。給料はあまりいいとはいえないが、ここの料理長兼オーナーがとてもよい人で、二階の飲み代をおごってくれたりもする。
 もう店も閉めようとするころ、匠はテーブルを拭きながら考え事をしていた。
 今部屋で自分を待っている少女はやっぱり嘘をついているのじゃないだろうか?自分を驚かせたいばかりに、一生懸命自分のふりをしているのかもしれない。
 でも何のために?
 普通の女の子に、そこまでする理由なんて全くない。
 しかも、あの子は自分のことを知りすぎている。
「どうしたの?ぼんやりして?」
「すみません、彩音さん」
気がついたら、手が止まっていた。
「気にしなくていいわよ」
ここの店長は、大学時代の先輩に当たる。一体どうしてこんな人が、理学部などという学部にいたのかは知らないが、研究室にいたときに、よくお世話になっていたのだった。
「才能がないのが分かったから」
と結婚した後は、半分趣味でこの店を開いている。旦那が調理師なのだ。
「そういや、召集されたんだってね?」
「あ、誰から聞いたんですか?」
「上のじーさんよ。お前のとこの若いのが、一昨日大変だったってぼやいていたわよ」
匠は曲げていた腰をまっすぐにした。
「それだけならいいんですけどね…」
匠は床を掃除するために、モップとバケツを取りに行こうとしたが、彩音に呼びとめられた。
「待ちなさいっ」
首の後ろを掴まれ、のどがしまる。
「うっ」
匠はそこで咳き込んでいた。
「まだなんかあるの?」
「いや、その」
興味津々というそぶりで、彩音はテーブルについた。
「早く言わないと、クビにするわよ」
目がマジである。召集されているのだから関係ないという話もあるが、それ以上に彩音の目が怖かった。
「朝起きたら、床に女の子が寝てたんですよ」
彩音は大きく目を見開いた。
「あらまあ奥手だと思っていたけれど、酔っている時はなかなかやるのね」
何だか別の誤解をしているようである。
「ちがいますっ!」
「普通そう考えるわよ」
「ただでさえ頭が痛いんですから、余計なこと言わないで下さいっ!」
そうこうしているうちに、料理場から声が上がった。
「彩音っ、いいかげんにしろっ!」
ここの主人の衛である。
「衛さん、すみませ〜ん」
匠は料理場に向かって頭を下げると、床の掃除をするべくあるべきところへ歩いていった。

 匠が部屋に戻ったとき、部屋の中からモーターが回っている音が聞こえてきた。労働の後のぼんやりとした頭は、そのことをなんとも思わなかった。しかし、ドアのノブに手をかけた瞬間に、実はそれがとんでもないことだということを思い出した。
 ドアを開けると幼さの残る少女が掃除機をかけていたところだった。
「おまえっ、そこのものを触ったか?!」
「ああ、前々から片付けたいって思ってたから、片付けただけなんだけど」
少女はキョトン、と首を傾げていた。
「ここにおいてあった紙、どうした!」
「何慌ててんだよ、俺があんな大事なものを捨てるわけないじゃないか。そろそろファイリングしないとなくなっちゃうだろ!」
操は机の上の大きなファイルを指差した。以前、匠が貯まったノートを整理するために買ってきたものだ。匠が本棚を見ると、丁寧に本が整理されてあった。きちんと、自分が使いやすいように並んでいた。最近よく見ていた本は、きちんと机の上の本立てに置かれていて、それ以外の本はジャンル別にきちんと本棚に並べられている。匠にとってベストとは言えないが、自分に使いやすいように配慮はなされている。このような配慮が出来るのは──
 そう、自分だけだ。
 匠がぼんやりとしているうちに、操は匠の正面間近の距離まで来ていた。
「どうした?」
そう声をかけて数秒してから、匠は目の前に少女の顔があることに気がついた。
「わああぁ」
慌てて尻餅をつく。操はそんな匠の様子を見て、吹き出した。
「何笑ってんだよお」
匠は立ちあがると語気を荒くした。
「いやさ、なんかお前照れてないか?」
「あたりまえだろっ!」
匠はそう怒鳴ると、火照った顔を横に向けた。操はそういう匠がなんだかかわいらしく見えた。
 その夜、操はなかなか寝付けなかった。彼女は自分のベッドで寝ているはずだったが、どこかそれが自分の居場所ではないような居心地の悪さを感じていた。
 彼女がベッドで一人で眠っている理由は、さすがに同じベッドで眠るわけにはいかないからである。どちらがベッドを使うかはあっさりと確定した。匠が「女の子」だからということでベッドを譲ったのである。実は、操の方は二人でベッドに寝ようとしたのだが、匠が拒否した。
「なんでだよ。別にいいじゃん。なんかまずいことでもあんのか」
操は匠に食ってかかった。
「おおありだ!お前鏡見なかったのか?」
「???」
操はさっき鏡で見た自分の姿を頭に浮かべてみた。しかし、何のことかさっぱり分からない。
「お前を襲っても責任取れないぞ」
ちょっと操の顔が赤みがさした。
「分かった」
ということで、操が自分のベッドに寝ることになったのだ。
 床の上で寝転がっている匠の方もなかなか寝付かれずにいた。自分を「匠」と呼ぶ年下の少女の登場はさすがにアイデンティティの揺らぎを呼びこむことはなかったが、彼女が何者であるのかは気になった。
「起きてるか?」
匠は少女に尋ねた。
「ああ」
ベッドの上から不安げに女の子の声が聞こえてきた。
「眠れないのか?」
少女は無言だった。
「なんでこうなったんだろうな」
ほどなくしてベッドの上の少女はそう尋ねたが、床の上の若い男はやはり答えてはくれなかった。操はそのままベッドの真上を見たまま考え事をしていた。
 さらに、しばしの時間が流れたのちに、男から返答が帰ってきた。
「ちょっと外に出てくる」
「どこに?」
「お前には関係ないだろ?」
彼の口調は疑問系だった。ドアがばたんとしまる音が聞こえてきた後、操はそのまま再びベッドの真上に視線を変えた。
 公園のベンチで匠は一人佇んでいると、突然、背後から声がした。
「こんなところにいたのね。探したのよ」
操か、と思って振り返ったが、例の女がそこに立っていた。
「あんたか、一体俺に何の用だ?」
「あの子についてちゃんと説明をしておこうと思ったの。あなたは多分落ち着いていると思うけど、あの子は今ごろ不安で一杯でしょうね」
女は匠の隣に座り込んだ。
「あいつが何者か知っているのか?」
匠は女の方を向かなかった。女も、匠の方を向かず地面の方を向いていた。
「あの子の言う通りよ。あの子はあなた。より正確に言うならば、あなたのコピー」
「コピー?」
「そう。別の肉体に、あなたの脳の記憶を全てコピーしたの」
匠はかぶりを振った。
「そんなことは不可能だ」
「でも事実よ。それをしたのは私だから。その肉体をどこから持ち出したのか、どういう手段でそれを行ったのか。それは、あなたには言えない。でも、私がやったというのは事実」
匠は立ちあがった。
「何のためにそんなことをしたんだ!」
突然の大声にも、女は全く動じなかった。
「あなたに未来を与えるためよ。あなたはこれから戦場に行って、多分死ぬでしょうね。でもあの子には未来があるわ。この国ではまだ女の子は戦場には行かせない。それに仮に戦うことになっても、あの子が相応の年になるにはもう少し時間がかかるわ。あなたの意思を百パーセント継いだ存在が、あなたに出来るの。あの子はあなたではないかもしれない。でも、あなたの希望になりうるはず」
「希望?」
「そう。あの子はあなたの希望。あなたの未来。あの子はあなたなのだから」
女は匠に向かってゆっくりと顔を上げた。
「でも、そうなるためには、あなたがあの子に力を貸さなければならない。だから、あなたにお願いに来た。あの子に未来を託してくれない?」
「うるさいっ!」
「あ、ちょっと待って」
匠は彼女の前から去っていった。
 彼女は匠の後姿を見ながら、ベンチに座り込んだ。
「もう一言言わなきゃならないことがあったのにね。『そして、これは私のためでもあるの、お願い』って。それに私は一つ嘘をついている。あなたは、死ななかった」
匠の姿が見えなくなると、彼女の持っている端末から警告音が鳴り出した。彼女は立ち上がって端末を操作した。
「再び特異点反応…今度はどこに連れていかれるのかしらね?今のところはこのメモのとおりに進んでいるけど…」
ほどなくして、彼女の姿は消えてなくなった。
 走りながら、匠は彼女の言葉を反芻していた。
「あの子はあなたの希望。あなたの未来。あの子はあなたなのだから」
全く同じ記憶を共有しているとするなら、より良い未来を持つ可能性を操は持っている。というのは、明らかに肉体年齢は操の方が若い。それに、彼女は今から戦場に行かなくても良い。ならば、操の方が成功に一歩近いと言っていいだろう。論理的に考えれば、そうだ。
 だからといって、納得できるかといえば、そうではない。
 では自分は何のために存在するのだろうか?戦場に行って死ぬためか?もう一人の匠をこの世に遺すためだけに存在するのか?
 実は、フェイクは、自分の方なのか?
 そういう考えがよぎった途端、彼の足が止まった。彼は深い暗闇に落とされたような気がした。
 部屋に近づくと、窓から灯りが覗いていた。おそらく──操が起きたのだろう。匠の足はさらに重くなっていった。ドアの前に立って、しばらくそのままドアのノブを握っていた。ノブから手を離し、ドアの前で目をつぶってじっと考え事をしていた。一分、二分、何分ぐらいそうしていたのだろうか?彼がドアを開けようかどうか悩んでいるうちに、ドアの方が勝手に開いた。
「何してるんだ?」
操の表情に不安が浮かんでいたことに気づく余裕など、すでに消えてなくなっていた。
「なんでもない」
匠は操のそばをすり抜けるようにして自分の部屋に入っていこうとした。操は匠の様子が何かおかしいの見て、後を追いながら背後から声をかけた。
「どうしたんだ?怖い顔をして」
匠は振り返った。
「お前は誰だ?」
操は一歩下がった。
「俺は…操だよ」
「お前が匠じゃないのか?」
「今は…操だよ」
操の返答に対し、匠の声はだんだん大きくなっていった。
「お前は匠なんだろう?」
「うるさいっ!」
操は頭を押さえながら、そのまま崩れ落ちた。
「一生懸命自分が操だと思い込もうとしているのに、必死になって自分が匠じゃないと思い込もうとしているのに、なんでお前が邪魔をするんだ!」
操はキッと匠を睨み付けた。匠はそういう彼女を放っておいてベッドに入った。操のぬくもりがまだベッドに残っていた。

 朝になった。ベッドで横になっている自分を発見すると、匠は慌てて周りを見渡した。操は毛布をかぶり、両足を立てて、壁にもたれて眠っていた。
 匠は座卓のところで、操をじっと見つめながら、コーヒーを飲んでいた。彼は待っていた。操が目覚めるのをじっと待っていた。彼女の体が少し動いた時を彼は見逃さなかった。
 なぜか心臓の鼓動が速くなった。彼女が目覚める時間がとても待ち遠しかった。今まで待った時間に比べれば、ほんのわずかな時間のはずなのに、彼はそれがとてつもなく永い時間のように感じられた。しかし、彼女が目を開けたのにもかかわらず、彼は彼女に声をかけることが出来なかった。
 思えば、初めて操のことを見たときから、匠の心は決まっていたのかもしれない。捨てられた子猫のように哀しい目をしていた操の姿を見たときから。ただ、自分がそれに気づかなかっただけだ。自分は、ずっと、彼女を守りたかったのだ。
「どうしたんだ?ヘンな顔をして」
操は首を傾げた。
 操が匠の方を見たとき、匠は頬を赤らめていた。操が首を傾げると、さらに匠の顔は赤くなった。
「どうしたんだよ、一体?」
「いや、ごめん。あんまり綺麗だったから」
歯の浮くような台詞に、赤くなったのは操の方だった。
「な、なに言ってんだよ。まったく」
「うるさいっ、誉めてるんだから素直によろこべ」
匠は付け加えた。
「お前はどっからどうみても女の子なんだから」
照れているのを隠すために、匠は台所に向かって歩いていった。冷蔵庫の前に立つと、二人分の食材を取り出した。
 無言のまま二人は朝食を取っていた。二人ともなんどかちらちらと相手の方を見るものの、すぐに目を伏せて黙々とトーストとコーヒーを口に運んでいた。重苦しい雰囲気が二人の間に漂っていたが匠が口を開いた。
「お前、これからどうするつもりだ?」
「どうって、言われても」
操はうつむくしかなかった。
「研究、続けたくないか?」
「そりゃ、出来るものなら、やりたいさ、でも、そんなカネどこにあるんだよ」
やれやれ、と匠は首を振った。
「金の問題なら簡単だよ。奨学金だって何だって取れる。一応お前は表彰ものの研究結果を出せた研究者なんだから、ま、その辺は問題ないだろ。十五才なら立派な天才さ。でもな、学校に在籍するためには、戸籍がいるんだよ。一応、分かっているとは思うけれども、『操』に戸籍がないことは分かってるよな?」
そう、このままでは自分には未来はないのだ。
「あのさ、頼みがあるんだけど…」
「考えていることは分かる、でも、お前ならどんなにそれが嫌な事かよ〜くわかってるだろ?」
肘をテーブルについて、匠はぞんざいに返答した。
「でもっ、お願いっ」
両手を組んで、わざと操は口調を変えて言ってみた。なんとか笑みも浮かべてみる。
匠はあっけにとれれ、ずるっ、肘が滑っていき、そのまま床に倒れこんでしまった。
「あれ、どうした?」
操は両手を床について真上から匠を見下ろした。
「なんでもない」
匠は床から起きあがると、テーブルの上の食器を片付け始めた。
 匠と操の二人は電話の前に立っていた。平面ディスプレイの前には懐かしい両親の顔がもうすぐ浮かんでくるはずだ。
「大丈夫?」
心配そうに操は声をかけた。
「父さんと母さん、ちゃんと分かってくれるかなあ…」
「直接行ってみるしかないだろうな…」
操はくすくすと笑っている。
「お前な、自分の未来がかかってんだぞ!もうちょっと緊張感というものが持てないのか?」
匠は操に怒鳴った。
「俺が頑張ってもどうにもならんからな」
「かわいくないなあ」
そうすると、操は一計を案じた。
「匠さん、お願いっ」
そう言って匠に抱き着いてみると、今度は匠に頭を叩かれた。
「いってー、何するんだよ」
「うるさいっ、中身が俺で演技だと分かってても気になるんだ」
「だからやるんじゃないか」
「するな」
やや頭痛を覚えながらも、実家へ電話をかけた。
 神無月あずさは自宅で掃除をしていた。夫の裕介の会社も、件の戦争の余波をもろに受けており、彼女の気分も憂鬱だったが、それ以上に都会に出ている一人息子のことが気がかりだった。というのは、この地方でも何人かが召集を受けていた。彼女は一人息子が召集を受けていないかどうかがとても心配だったのだ。戦争はまだ始まってはいないものの、着実に暗い影を落としつつあったのである。
 電話のベルがなったので、掃除機の電源を切ると、受話器を手に取った。平面パネルに映った映像を見て、彼女は心臓が止まりそうになった。
 「久しぶり、母さん」
ばつが悪そうに、匠は母親に言った。
「今まで連絡もせずに、どこで何をしてたのよ!」
しかし、声はそれほど怒ってはいなかった。それよりも、愛息子が連絡を取りに来てくれたのがやはりとてもうれしかった。
「ごめんごめん、大事な話があるんだ。近々そっちに帰るつもりだから」
すでに、彼は受話器を置こうとしていた。
「ちょっと匠!待ちなさい!」
あわてて止めようとしたものの、すでに彼の映像は目の前から消えてなくなっていた。

 受話器を置いた匠に、操は近づいていって尋ねた。
「母さん、元気だった?」
「みたいだな。よし、出かけるぞ!」
脈絡のない返答に、操はその場で立ち尽くしていた。
「出かけるって、どこに?」
「お前の服を買いに行くんだよ。ずっと着たきりスズメだろ」
「そんな金どこにあるんだ?」
「あの金を使うんだよ」
「なるほど…」
操は納得した。
 つい最近まで匠は大学院に在籍していた。ある素粒子の性質についての論文を書き、それを博士論文として提出しようとしていた。担当教官の内海にそれを見せたところ、内海は驚きながら彼に賞賛の言葉を浴びせつつも、彼の論文に不備があることを指摘した。
 内海教授がここしばらく成果を出せず、大学から席を追われようとしていたことは、彼らにとって不幸であると言わざるを得なかった。匠は内海のことを尊敬していたが、それは返って裏目に出た。匠の論文を内海は手直しし、自分の研究成果として発表したのである。
 しかし、研究に対する姿勢、取り組み方、手法を指導してくれた恩師であることには違いなかった。彼がいなかったら、今の自分はなかったに違いない。むしろ、人間とはなんともろいものかということを匠は思い知ることになった。
 ここで匠が自分のことを過信しすぎていたのも敗因だった。内海の発表した論文が、自分のものであると彼は主張するべきだった。もし、彼が必死に主張していたならば、内海は非を認めたに違いない。単に魔が差しただけなのだから…
 この論文が、匠にとっての初の実績となることは間違いなく、当時の彼の力では、それに匹敵する論文を書くことは出来なかった。急ごしらえで体裁を整えたもう一つの論文は、審査に通ることができなかった。結局そのまま大学院の在籍期限が訪れ、彼は大学院を去ることになったのである。
 無念だった。それらの二つとは別にあるテーマについて彼はコツコツと研究を続けていた。ゴールの見えない日々であったが、彼はその仕事に対して大きな意義を感じていた。その仕事は自分の使命のように感じていた。研究者として脚光を浴びることができなくなったことよりも、やりのこした仕事を放っておくことの方が彼にとって問題だった。だから、彼は在野の研究者として生きてゆく道を選んだのだ。
 大学を出てしばらく過ぎたある日のこと。彼の口座に匿名で大金が振り込まれていた。内海がせめての罪滅ぼしに、と彼に振り込んだものであった。匠は直感的にその払い主が誰であるのか分かった。今でも内海が尊敬できる恩師であることには違いないが、もっとも軽蔑すべき裏切り者であることも間違いはなかった。だから、今の今までこの金は手をつけることもなかったのだ。
 結果として、彼は学者として生きるチャンスを、自分の手でつぶすことになってしまい、自分を含む二人の人間を、後悔という鎖に繋げることにもなってしまった。内海の金を目の前の少女に使うということは、匠にとっても操にとっても、過去への決別であった。操は匠の決心に素直に従うことにした。

 操は、地味な色のスカートとブラウスを試着しようとした。しかし、昨日と同じように、一人で背中のジッパーを下ろすことが出来ない。
「なんで、俺こんな服を着ているんだよ」
泣きそうになっても始まらない。仕方がないので、外にいる匠を呼んでみた。
「ごめん、ジッパー下ろしてくれ」
匠の叫び声を聞いて、匠のそばにいる女性の店員がニヤニヤとしていた。
「仲がよろしいんですね?」
匠は赤くなった。
「すみません、ジッパー下ろしてあげて頂けませんか?」
「いいですよ」
にっこりと店員は微笑み返した。
「ついでに、下着のサイズ、測ってあげてくれませんか?」
「はあ?」
突拍子もないことを言うので、店員は驚いたようだ。
「あいつ、自分のサイズ、知らないはずなんで」
「はあ、かまわないですけど…」
と店員は試着室に入っていった。
 彼女が試着室に入ると、少女が外見に似つかわしくない格好で、必死にジッパーを下ろそうとしていた。
「まっすぐ立ってくださる?両手はまっすぐに下ろして」
操はその言葉に従った。
 ジャンパースカートのジッパーを下ろしてもらうと、簡単にスカートを脱ぐことが出来た。ブラウスも脱ぎ、その下に着ていたタンクトップも脱ぎ、操ははじめて自分のセミヌードと対面することになった。
「じゃ、サイズをはかりますから、ブラ外しますね?」
ホックをが突然外されて、胸の圧迫感が突然なくなった。
「うわっ」
「あ、ごめんなさい。お連れ様にサイズを測るように言われたものですから」
「い、いえごめんなさい。急だから慌てちゃって」
なんとか動転を押さえて、なるべく女の子らしい言い回しになるように操は努力した。
「じゃ、サイズをはかりますね」
パンティー一枚で立っている目の前の少女の姿に、操はドキドキしていた。
「服着ていると分からなかったけど、思った以上に、胸あるなあ」
メジャーで押さえつけられている自分の胸のふくらみを、じろじろと上から眺めていた。
「お客様?」
横から声をかけられて、操ははっとなった。
「は、はい」
声が上ずっている。
「サイズ、測り終わりましたけど、いくつか持ってまいりましょうか?」
「え、ええ、お願いします」
操がそう言ったので、店員は試着室の外に出た。
 まず、操が選んだのは、地味な色のブラウスと、これまた地味な色のパンツだった。とはいえ、男性ものと違って、パンツをはくと体のラインが良く分かる。腰のあたりで絞ってるので、胸の膨らみもジャンパースカートをはいているよりは、より強調されているようだった。
 試着室のカーテンを開けて、恐る恐る匠に尋ねてみた。
「どう?」
「却下」
「どうして?」
「可愛くないから」
ちょうどその頃、店員が服をたくさん持って戻ってきた。
「ちょっとお客さまには似合わないですね」
店員も苦笑している。
「下着だけではなんですから、適当にお洋服も選んできました。サイズは合っているはずですよ」
「あの〜、背中にボタンとかあると、また脱げなくなるんですけど…」
操が尋ねると、自信有りげに彼女は答えた。
「大丈夫です。脱ぎやすいもの、着やすいものを選んできましたから」
匠はその中から、明るい赤色をしたワンピースを取り出した。
「なるほど、前をボタンだけで留めるようになってるわけね。じゃ、これ着てみなよ」
「なんか、これ、スカートの裾、短くないか?」
「気のせいだ」
「絶対短い」
「女の子はみんな着てるぞ」
「分かってるって」
そう答えて、目をそらすと、さっきから店員がまたまた意味深な笑みを浮かべているのが見えた。
「あの、どうかしました?」
「あ、すみません。仲が良くてうらやましいな、って」
操と匠はほぼ同時に赤くなった。
「な、仲がいいなんてそんな…」
操の方が狼狽している。恥ずかしさでパニくっている操に比べ、匠の方はまだやや冷静さを保っていた。
「分かったから早くそれを着ろ、それもちゃんと買ってやるから」
「じゃ、持ってきたもの全部下さい。で、お願いついでですけど、そのワンピースちゃんと着せてくださいね。その子ちょっと特殊で、女の子らしい格好したことがないんです」
店員はにっこりと営業スマイルを浮かべた。
「ええ、ありがとうございます」
「おいっ、着るのは俺だぞ!」
操は外の匠に抗議したが、そのまま試着室に押し込まれてしまう。
「はいはい、分かりましたからちゃんと着てくださいね」
客よりもスポンサーの方に弱いのは、当然の理であった。

 二人は大荷物を抱えながら、通りを歩いていた。自分の荷物ということで、操が荷物のほとんどを抱えていたが、あるところで、匠は突然、操が持っている荷物を取り上げた。
「あ、俺が持つって」
「周りの目っていうのがあるんだよ」
大荷物を抱えている女の子の荷物を連れの男が持ってやらないことに対し、通行人は匠に抗議の視線を送っていたのである。操は荷物に気を取られて、当然そんなことに気がついてはいない。
「???」
荷物を持ちながらも、体格で勝る匠は先へ先へと歩いていく。操が慌てると、荷物に体が当たって、バランスを崩した。
「ころぶっ」
と思ったら、右肩のところに妙な抵抗感が合った。前方を見れば荷物が散乱しており、やや視線を落とすと、匠が自分の体を支えていた。
「ご、ごめん」
急いで操は体勢を整えたが、なぜか心臓の鼓動が速くなり、顔が火照っているのが分かった。
 匠は体についたほこりを払うと、投げ出した荷物を拾いに回っていた。あらかた荷物を集めて彼女の方を見ると、顔に手を当てて自分の方に背中を向けていた。匠は怪訝に思い、近づいていって操の肩を叩いた。
「おいっ」
「うわっ」
ピクン、と操の体が反応した。
「どうしたんだよ、一体?」
「な、なんでもない」
操は匠の手を振り払うと、自分の分の荷物を持って歩き始めた。
 とりあえず荷物を部屋に置くと、もう昼過ぎだった。買ってきた服の袋で床が埋まってしまったため、二人は並んでベッドの上で座っていた。操の様子はどこかそわそわしていた。
「昼飯、どうしようか?」
操は答えなかった。
「おいっ」
「あ、ごめん」
「なんかさっきから変だぞ」
「いやさ、俺は女の子なんだな、って思って。何か朝からお前妙に優しいし」
朝からずっと受けている「女の子扱い」に操は戸惑っていたのだった。
「考えてみれば、簡単だったんだ」
匠は操の両手を握った。
「お前に一目ボレしてたんだよ。俺は」
真顔でそういう匠に操が吹き出した。お腹を押さえて笑い転げている操が、匠は面白くなかった。
「人がせっかく勇気を出して告白してるのに、なんだよ、それは」
「悪い悪い。でもちょっと見なおした」
操は匠の方に向き直った。匠は、ちょっと機嫌が良くなった。
「俺って、こんな台詞が言えるやつだったんだ」
「そうだよな、中身は俺なんだよな。女の子らしいリアクションを期待した俺がバカだったよ」
また再びめげてしまう匠だった。

 それから二人は散らかった部屋を後に部屋を出た。昼食は彩音の店で取ることにした。彼女に相談に乗ってもらうためだった。今日は休みの日だから店はそれほど混んでいないはずだった。
 いつもは、自転車で移動している距離であるが、それほど遠くないので、歩いていくことにした。部屋を出てから三十分ほどしてから、二人は彩音の店の扉の前に立った。
「うっ、なんか恥ずかしいなあ」
操はなんだか入りづらそうだった。
「気持ちは分かる。俺だって何言われるか」
しかし、信じてもらえそうなのは、彩音ぐらいだった。匠はおそるおそる扉を開けた。
「あら、匠くん。今日はお休みじゃなかったっけ?」
彩音はたまたまレジのそばのところに立っていた。
「ちゃんと客としてメシ食いに来たんですよ」
「匠くん、いつもそんなこといって、お勘定払ったことないんだけど」
「今日は払いますよ、ちゃんと金持ってますから」
 そうこうしているうちに、彩音は匠の後ろに隠れるようにして立っている少女に気がついた。
「あれ、その子、もしかして例の子?」
「ええ、で、そのことで相談があって…」
「分かった」
彩音は店の外に飛び出していった。
 ほどなくして、彩音が戻ってきた。
「どうしたんですか?」
「準備中に変えてきたの。どうせ、ウチの人も休憩取らないといけないからね。いっしょにお昼にしょましょ」
「分かりました」
匠は彩音に笑いながら言った。
 テーブルを囲みながら、匠はこれまでの経緯を二人に説明した。
「なあんだ」
彩音の夫がつまらなさそうに言った。
「一晩男と女が一緒にいて、まだ何にもないの」
「衛さん!」
匠と操は赤くなって、抗議した。
「ホントなんてこと言うのよ」
彩音は自分の夫の頭を叩いた。
「でも、中身はおんなじってホントかもね。二人の姿勢、同じよね」
フォークとナイフを中に浮かせた姿勢は、確かに同じだった。二人は顔を見合わせた。
「でも、完全に信用しているわけじゃないのよ。一応試させてもらうわね」
「はい?」
彩音の目の輝きがどこか妖しいので、ちょっと後ずさる。
「今日はこのあとウチで働いていきなさい」
「はあ?」
「あなたが匠くんだったら、いつもの匠くん並には働いてくれるはずよね?」
「はあ」
操はトーンを落とした。
「何、自信がないの?」
「いや、別に…」
「ま、いいんじゃないの。な〜んも考えずに体を動かすのもいい機会だよ」
もじもじと下を向いている操に他の三人は怪訝な顔をした。
「どうした?なんかまずいこともあんのか?」
心配そうに匠が声をかけた。
「いや、また自分のハダカ見なきゃならないのか、とか思って」
この店には一応制服がある。
「なんだ、そんなことか」
衛が声に出したが、操は抗議した。
「衛さんだって、突然女の子になったら分かりますよ」
「エプロンだけつけてもらえばいいわよ。どうせ夕暮れ時になったら帰ってもらうし、さしあたっては…」
「はい?」
「前の準備中の札を裏返して頂戴」
「了解しました」
操は席を立った。

 夕食を取るピークになるまでの時間、操は彩音の店で働いていた。勝手知ったる店のこと、別に問題なく仕事をこなしていった。彩音は操の働き振りを見て、納得したようだった。
「操ちゃん、ちょっとい〜い」
「は〜い」
テーブルの上の皿を手際よくトレーの上に乗せると、そのまま調理場まで戻ってきた。
「確かに中身は匠君みたいね」
「分かっていただけました?」
「ええ、よくやってくれるミスまで同じとあっちゃ信じないわけには行かないでしょ」
にんまりとする彩音に、操はちょっと頬を膨らませた。
「そのあたりのレスポンスがいつもの匠くんとちょっと違うわね」
「俺もそのあたりは思うんですよ」
守られる立場になったことが、操の精神に大きな影響を与えていた。でも、それはそれで悪くはない。むしろ、ゆりかごの中にいるような心地よさすら感じる。
「匠くんのこと、好きなの?」
「好き、っていうのとは違うと思います」
「どうして?匠くん、いいと思うわよ」
「もし、あいつのことを好きだ、って言ったら究極のナルシズムでしょ。抵抗ありますよ、やっぱり」
彩音は合点がいった、というそぶりで頷いた。
「それに、それなら在学中に言って欲しかったですね」
「残念ね、その頃にはもうあの人と付き合っていたの」
操は、そう言えば彩音がその頃から左手の薬指に指輪をしていることを思い出した。

 操が店を出ようとするころ、時刻は六時を過ぎていて、あたりはもう暗くなっていたが、操は部屋まで歩いて帰ることにした。
 部屋の近くの公園のそばを通り過ぎる時に、操は三人の男に囲まれた。
「ねえ〜彼女、ちょっと遊んでいかない?」
一人が操の右手を掴んだ。
「離してください」
操はその右手を振りほどいた。
「いいじゃないか、別に」
三人はそんな操をせせら笑いながら、さらに操の方に近づいた。
「来るなっ」
操はやってきた一人に蹴りを浴びせた。綺麗に蹴りは命中した。しかし、再び構えて状況を確認してみると、状況は変わっていなかった。
「いい蹴りだ。でも、ちとパワー不足だよ。お嬢ちゃん」
そうこうしているうちに、背後から羽交い締めにされて、そのままずるずると茂みのなかに連れこまれてしまった。一人に腕を土の上に押さえつけられてしまい、一人が注射器を取り出した。押さえつけられている手をなんとか動かそうとしていると、ドスの入った声が聞こえてきた。
「動くと針が折れるぞ!」
操も暴れるのをやめた。注射されてから、一分ほどすると、操の体は今まで感じたことのない感覚に翻弄されていた。
「お前も開き直ればいいんだよ。だったら天国に連れていってやれるさ」
もう操の耳には何も届いていなかった。びくん、と彼女の体が跳ねるたびに、三人は残忍な笑みを浮かべた。
「なんだ、こいつ初めてか。今時の子にしては珍しいな」
経験のある人間なら、すぐに男を求めてくるはずだったが、目の前の少女は体に沸きあがる感覚にただ翻弄されているだけだった。
 彼らが操の下着に手をかけようとしたそのとき、背後に物音がした。三人は焦って振り返ったものの、すぐに安堵した。
「女の子一人手篭めにするのに、薬を使うとはなさけないわね」
いつのまにか、女が一人三人のそばに立っていた。
「お姉さんも相手してくれるのかい?」
にやっ、と彼女は笑った。
「別にいいわよ。この状況で続ける気があるのならね」
彼女のすぐ後ろには、制服警官が数人やってきていた。
「まずい、逃げるぞ」
「逃がすか!」
警官は彼らを追っていった。
 女の傍らには制服警官が一人残っていた。
「ご協力感謝します。最近この当たりで女性が暴行される事件が頻発してまして」
警官の言うことを無視して、女は操の腕を肩にかけて、匠の部屋まで向かった。
 匠はといえば、部屋に戻った後、ずっと荷物をまとめていた。実家に長居することになるので、持っていくものを整理していたのである。床に散らかった操の服も、綺麗にたたんでバッグの中に詰め込んでいった。
「下着はさすがに、ま、いっか」
赤くなりながらも、かばんにつめていく。
 匠の部屋がノックされたのは、ようやく部屋が片付いたころだった。
「はい、今開けます」
ドアを開けると例の女がそこに立っていた。
「またあんたか、なんの用だ?」
「ごあいさつね、この子を連れてきたって言うのに」
女は操を抱きかかえると、ベッドに横たえた。
「何があった?」
「レイプされかかったのよ、この子」
「何!」
「クスリにやられてるわ。一応気絶させてここまで連れてきたけど、多分目が覚めてもまだ効いてるわね」
あまりのことに、匠は声を出すことができなかった。
「まだ、七時前だぞ。いくら暗くなってるからって…」
「あなたらしくないわね。起こった事は全て真実。それが科学者の務めではなくて?」
「それはそうだけど」
人間には感情というものがある。
「う、うん」
二人が口論しているうちに、ベッドの上の操がもぞもぞと動き始めた。
「じゃ、わたしは消えるわね。じゃ、ごゆっくり」
 「ごゆっくり」ってどういうことだ?そう思って、ベッドの上の操をみると、見るからに悩ましい表情を浮かべている。スカートの上からあの部分を両手で押さえて、ほとんど日本語になっていない言葉を漏らしつづけていた。

 操が朝目覚めてみると、匠が裸で横で眠っていた。彼女は自分の姿を見てしばらく声が出なかった。ワンピースの前面のボタンは全て外されていた。そしてワンピースの下に着ていたタンクトップはたくし上げられて、ブラとパンツは脱がされており、何よりもあの部分になにやらぬ不快感を覚えていた。
 とりあえず、彼女はシャワーを浴びることにした。まだ若いというよりは、幼いという裸体を丁寧に洗った。温かい無数の水の流れを体に浴びて、気分が落ち着いてくると、何やら腹立たしい気持ちが沸いてきた。
 脱衣室から出ると、すでに匠は服を着てベッドの上に座っていた。
「俺には手を出さないんじゃなかったのか?」
匠はちょっと苦笑いしていた。
「あんな悩ましい声を上げられちゃね」
今度は操が言葉に詰まった。
「俺、なんかしたのか?」
「ここまで戻ってくるときに、クスリを打たれたらしいな」
それは記憶にあった。三人に取り囲まれて、妙な注射をされた覚えはある。
「即効性の媚薬だってさ。ここに連れてきた人が気絶させてここまで連れてきたんだけど、気がついてからはお前、一人でずっと悶えてたんだぜ」
さすがに匠も恥ずかしいみたいで、顔を赤らめていたが、それ以上に操は顔を上げることができなかった。
「な、なんかお前欲求不満気味だったし、だ、だから、こっちも我慢できなくなって、それで、さ…」
匠のほうもだんだん言うことがしどろもどろになってくる。
「もういいっ、聞いてるだけで恥ずかしいっ」
操はそばにあったクッションを匠に投げつけたが、自分がいったい何に腹を立てているのかは、よく分かっていなかった。
 投げつけられたクッションをベッドの上に置くと、匠は操に言った。
「ま、文句は道中聞くことにして、出るぞ」
「はあ?」
いきなり話が飛んだので、操は顔をしかめた。
「母さんたちに会いに行くんだよ。とにかく時間がない。一週間も立てば、俺は出頭しなきゃならないんだ」
理屈は合っているが、何か釈然としないものを感じながらも、操はその言葉に従った。

 なんとなく気まずい雰囲気の中、二人はターミナルまで到達した。電車が動き始めても、操は窓の外をずっと見ていた。匠はそんな操の横顔をにこにこと笑いながらじっと眺めていた。たまに横を振り向くと、妙な笑みを浮かべた匠の顔が目に入ったので、操はとても気分が悪かった。
 幹線で約三時間、そこから支線に乗り換えて更に三時間。途中、トンネルを抜けると、山あいの金色の絨毯の中を電車は疾走していた。
「涼しくなったと思ったら、もうこんな季節なんだな」
「ああ、この景色は見るのは久しぶりだ」
二人はしばらく車窓から、稲穂の垂れる景色に見入っていた。操の気分は完全に直ってしまったようだ。われながら現金だな、と思って匠は操のはしゃぎようを眺めていた。逆に、匠の方は逆に故郷に近づいたことで、すこしばかり気分が重くなってきた。対面に座っている少女のためにここまでやってきたものの、はてさて両親になんと言ったものか。
 三日ほど前までは、全く同じ精神を持っていた二人であるが、立場の微妙な違いが、二人の精神を大きく変えていた。肉体的に幼くなったせいなのか、匠という保護者が現れたせいなのか、それとも「女性」という肉体に引っ張られているのかは分からないが、操の精神は幾分か幼さを取り戻しつつあった。
 駅に到着すると、両親が揃って迎えに来ていた。二人は匠のそばに連れ添っている女の子にすぐ気がついた。
「匠、その子は誰だ」
「この子のことで相談があるんだよ」
「なっ」
父親は勝手に誤解したらしく、真っ赤になって怒り出した。
「ばかものぉっ!大学を卒業して家にも帰って来ずになにをふしだらなことをしているかあっ!」
「あ、あなた。匠の言い分もちゃんと聞いてやらないと」
おどおどと慌てながら、自分の夫をたしなめた。そばに立っている少女は笑い始めた。
「父さんも母さんも相変わらずだなあ。全然変わってない」
初対面の少女にそんなことを言われて、二人は面食らっていた。「父さん」と「母さん」はまだいい。でも、この女の子に「全然変わってない」なんて言われるほど密接に関係を持った記憶があろうはずはない。
「詳しいことは家に帰ってから話す。とりあえずトランクを開けてもらえる?」
どうも話が思った以上にややこしいのを察したようで、父親は何も言わず息子の言う通りにした。

 自宅の居間なのに、操は居心地の悪さを感じていた。相変わらず父親は険しい表情を崩していないし、隣の匠は相も変わらず頼りなさそうである。
「大丈夫なのかよ、おい」
「うるさいっ、今なんて説明しようか考えてるんだ」
小声でこそこそと会話をしている二人にマサノリは一喝した。
「何を二人でこそこそやっとるかっ!」
びくっ、と二人の背筋が一瞬伸びる。
「こんなに怒っている父さんは初めて見るなあ…」
操は二人に聞こえないように言った。
神無月あずさは息子が連れてきた少女をとりあえず歓迎することにした。彼女の方はといえば、妙な感覚にとらわれていた。初めて会ったはずなのに、あの少女に会ったのは初めてではない気がするのだ。むしろ、昔からよく知っているような錯覚すら感じていた。
 四人分のお茶を入れると、お盆を持って三人が待つ部屋へと歩いていった。夫に湯飲みを渡した後、女の子の前に湯飲みを手渡した。少女は「ありがとう」とも言わず、目をパチクリさせた後、思いなおしたように「ありがとうございます」と小さな声で言ったことがやや彼女の気に触った。。
「さて」
かしこまって座っている両親に、匠は説明をはじめた。
「まず客観的事実だけ述べるとだね、この子がある日突然俺の部屋の床で寝ていた。どうやって入ったのかは知らないが、身寄りがないという。この子のことを可哀相に思った俺は両親にこの子の未来を託そうと思って帰ってきたわけ」
お茶を一口すすってから、父親は匠に尋ねた。
「話はわかった。では、その子が実は家出少女でお前をたぶらかしているだけ、という可能性は考えなかったのか?」
「もちろん、でも、話をしているうちに二人はある結論に辿りつかざるを得なかった。それが、今から話す主観的事実、の方」
湯飲みの中の水面をじっと眺めていた匠の父親は匠の目を見据えた。匠は物怖じすることなく、次の言葉を発した。
「この子も、匠なんだよ」
力強く彼は言った。操はその横顔を見ながら思った。
「俺ってこんなにカッコ良かったっけ?」
しかし、彼女は思いなおした。
「匠がカッコよくなったんだな」
匠との遠い距離を感じざるを得なかった。

 それから、匠がもう少し説明を繰り返すと、操とだけ話をしてみる、ということで、匠は部屋から追い出されることになった。自分の部屋でぼんやりと操のことを考えいたが、まったく気分は落ち着かなかった。
 太陽がもう沈もうかとするころに、操が部屋に入ってきた。彼女の表情を見て、匠は安堵の溜息を漏らした。
「うまくいったみたいだな」
「ああ、父さんと母さんも信じてくれたよ。とりあえずこっちの高校を受けさせるから、戻って来いって。あの部屋も引き払わないといけないな」
部屋から出て行くときに、操は思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。召集のことも話しておいた。父さんと母さん、そのことを話したらすごく悲しそうな顔をしていた。父さんなんか、『話す順番が逆だろう』ってまた怒り出してさ」
「全くだ」
操の背後に父親が立っていた。
「出来が悪くても、俺の息子だからな。まあ、自分のことより他人のことが気になる徒言うことは、お前も成長したということだな」
くすくすと操は笑っていたが、父親はそういう操を咎めた。
「お前はもっと大人になれ。以前の匠に比べて更にガキっぽくなった気がするのは、俺の気のせいか?」
「気のせいじゃないと思うよ。父さん」
操はプイと横を向いた。そういう操に対し、他の二人は苦笑いを浮かべていた。
 その夜、客間にしかれた客用の布団で操は久しぶりに深い眠りについた。ここしばらく、床の上だったり、壁にもたれたり、気がつけば裸の男が横に寝ていたり、とろくな眠り方ではなかったが、今日は安心して眠ることができた。

 それから数日が過ぎた。操と匠は再び町に戻り、部屋の荷物の整理をしていた。ようやくトラックを呼べるようになり、引越しの朝を迎えた。その日は朝から雨が降っていた。どんよりとした天気とは裏腹に、操と匠の心は晴れ晴れとしていた。雨の中運送屋が荷物を満載にしたトラックを見送ると、操と匠は部屋にもどった。タクシーに乗って、匠が召集されている庁舎へと向かっていった。庁舎の門の前にタクシーが止まり、匠だけが車の中から出てきた。
 運転手がドアを閉めようとしたときだった。
「ちょっと待っててください」
運転手に財布を手渡し、操は匠の後姿めがけて駆けていった。匠はそんな操に気がついて、立ち止まった。
「がんばったごほうびをあげよう。目をつぶって」
操は息を切らしながら、そう言った。匠はまさか、とは思ったが、そうなればそうなったで役得であるから、素直に目を閉じた。
 頬に何か感触を得たので、目を開けると、すぐ間近に操の額が見えた。操は匠が目を開けたのにすぐに気づいた。
「お前のことが好きだとか、そんなんじゃないからな。俺のことが好きなこと知ってるから、そのお礼だよ。好きな女の子からキスされたらうれしいだろ」
ガラにもなく饒舌になっていた。赤くなっているのを悟られるまいと、すぐに操はタクシーの方に走っていった。
 タクシーに乗りこむと、運転手は財布を返しながら、操に尋ねた。
「彼氏かい?なかなかやるね」
「そんなんじゃありません!」
すました表情で、操は答えた。

 日本と韓国はそれぞれなんどか小競り合いを繰り返し、わずかに死者と行方不明者を出していたが、意外な結末で戦争は終結した。初めの発端の事件が、B国の陰謀であることが判明したのだ。このことが国際世論に知れると、矛先はB国と勇み足を行った日本に向かった。初めのミサイル事件から三ヶ月で終結したため、「三ケ月戦争」と呼ばれることになる。
 結局、主戦場になり国土の一部が破壊された韓国に対し、日本は一万人ほどの死者と行方不明者をもたらしただけで、戦争は終結した。が、その一万人の中には当然のごとく、神無月匠の名前も含まれていた。
 日本政府は初めは復員軍人の失業問題に頭を抱えていたが、韓国の復旧に援助を出すことが確定し、そのため日本は人手不足に沸き返ることになり、これからしばらく空前の好況の時期を迎えることになる。これは第二次世界大戦後の朝鮮戦争の再来であり、日本政府は韓国国民からさらに恨まれることになったのは言うまでもないが、日本はハト派が政権を握り、韓国への援助を惜しみなく行ったことで、両国の関係は戦争前よりは良好になった。
 経済への影響があまりなかったこともあって、操の進学は滞りなく行われた。匠の死を聞いたとき、両親は当然のごとく泣いていたが、操だけ泣かなかった。なぜ泣かないのかと聞かれたときに、彼女はこう答えた。
「まだ泣いてなんかいられないよ。あいつが死んだ分、俺があいつの分生きなきゃならないんだ」
 なお、少しは女の子らしく育って欲しいという両親のたっての願いで、彼女の進学先は電車で一時間半ほどかかるミッション系の女子高に決まった。



エピローグ

 匠が彩音の前から姿を消して、もう半年が過ぎようとしていた。町の桜はすでに咲き誇り、春の訪れをめい一杯表現していた。空前の好況のおかげで、彩音の店は大繁盛で、今日もうれしい悲鳴を上げていた。
 もう店が閉まろうかという時刻になって、例の女が扉を開こうとしていた。
「すみません、もうオーダーストップなんです」
ドアが開いた方に向かって、彩音は大きな声で言ってから、ドアの方に近寄った。
「分かってますよ。だから来たんです。彩音さん、あなたにお願いがあるんです、聞いてはくれませんか?」
彩音はその女性の姿を一瞬見ると、そのまましばらく立ちすくんでいた。年は彩音と大体同じぐらいで、黒いロングのスカートにベージュのブラウスを着ており、その上にカーディガンを羽織っていた。
 彩音は隅のほうのテーブルに彼女を座らせ、客が全て帰るまで彼女を待たせていた。テーブルの上に紅茶のカップを置くと、話を切り出したのは彩音の方だった。
「待たせたわね。でも操ちゃん。いつのまにかこんなに大きくなったのね。半年前にあったばかりだっていうのに」
皮肉めいた口ぶりで彼女はそう言った。
「ええ、もう十年以上になりますか。戸籍上は二十五になりました」
「雰囲気がよく似てるわ。でも、随分女らしくなるのね?」
「あなたの日頃の努力の結果ですよ」
にっこりと笑う操は年齢的には彩音とあまり変わらないのだろうが、幾分かわいらしく見えた。
「神無月匠が個人でライフワークとして研究テーマを持っていたことを覚えていますか?」
操は彩音に尋ねた。
「ええ覚えているわよ。あなたの部屋を尋ねたときに、開いていたノートにあったわね。
『時間移動の可能性に関して』内海教授に横取りされた研究テーマとは別に、そんなテーマでコツコツと研究を続けていたわね。こんなの誰も相手にしてくれないから、相手にしてくれるようになるまでがんばるんだ、って」
操は答えた。
「そのとおりです。その成果はごらんの通りです」
「ということは、時間移動についての理論を、あなたは打ち立てたのね?」
「でも、その結果は、タイムマシンの存在を否定するものでした。」
「つまり、きわめて確率的な事象として、時間移動が発生する、ということ?」
操は首をやや傾けて、柔らかい笑みを浮かべた。
「因果律は時間の流れとは別にあるんですよ。実は時空間は連続しているもので、可能性は低いにしろ、未来と過去は影響を与え合っているんです。過去が未来へ与える影響が未来が過去に与える影響よりも大きいと言うだけで、実際は未来も過去に干渉し得るんですよ」
「それとあなたが今ここに来ることと、どう関係があるの?」
「匠があなたに言ったでしょう?妙な女に会ったって。あれは…私です」
そういうと、再び操はまっすぐに彩音の瞳を見つめ直した。
「私が過去に干渉しなければ、今の私は存在し得ないでしょう?私はそのことを、あなたから聞いたんです」
そこで、彩音は操の話を打ちきった。
「分かったわ。あなたは私から、未来から来たあなたに会った、そう聞かされたのね?」
「そういうことです。そして、その最後のつじつまをあわせるために、私はここに来たんです」
操は匠に干渉した時刻と出来事を書いたメモを彩音に差し出した。
「これを三年後の私に渡してください。高校を卒業するときに、私はあなたからこれを貰ったんです」
そう言った途端、彼女の体が薄くなっていった。
「どうやらさよならのようです。また会いましょう」
彼女の体は完全に消え去り、宙に浮いていたティーカップはそのまま床へと落ちていった。ほどなくして、ティーカップが割れる音が、部屋に響いていた。



後書き…

 なんだか、私が来たときに比べて、かなり文庫のトレンドが変わってしまったような気がしますし、なんだか私も古株として定着してしまった感じがします。
 さて、一年ぐらい前のことだったと思うのですが、「クリエイターズ・フロア」でこういう議論がされていました。
「Aという人格をBという人間に移植してみる。すると一体その自我は一体どうなるのか?」
という問いです。これに該当する作品として、「リベンジャー真子」という先駆があるわけなんですが、別の解答を出せないものかということで、とある方と書くことを約束していたのです。ところが、やってみるととんでもなく難しくて今までのびのびになっていた次第です。
 正直なところ、読者に「操」と「匠」がちゃんと同一人物に見えているのか、とっても不安です。なにが難しかったのかといえば、書き始めると二人が同じ人間であるように見えないんですよね。特に、片方が男で片方が女だったらなおさら。書きながら、「これじゃ別人じゃねーか」と思いながら、「なんだか失敗系」と思いつつ書いていた次第です。
 リベンジャー真子は面白いお話で、この文庫の中でも好きな作品の一つなのですが、そのあたりは以前から感じていたことでしたので、あえて似たようなシチュエーションにチャレンジしてみましたが、あえなく玉砕してしまった気がします。
 次回はもっと頑張れますように。では、またお会いしましょう。


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