おにいちゃんと呼ばせて(1)

「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃんってば」
聞きなれた声で俺を起こす声がする。いいじゃないか、晴樹、夏休みなんだし。夏休みは惰眠をむさぼるものと相場が決まってるんだ。俺はまだ眠いぞ。
「お兄ちゃん、朝だってば。」
うるせえなあ・・・・
ここは我が神聖な眠りを汚す不埒な輩に正義の鉄槌を下さねばなるまい。ここはひとつ兄の威厳を見せるべきだよな。兄に逆らおうとした見分不相応な志を持った罰を与えるとしよう。ベッドから上半身を上げ、俺は神罰が下るべき対象を目をこすりながら見据えた。それはミニスカートにショートカットの少女だった。なんで女の子がこの家にいるんだ?にこにこと笑うその少女の顔に俺は見覚えが会った。
「は、晴樹。なんて格好をしてるんだっ」
俺の灰色の脳細胞は完璧に活動を開始した。確かにむかしから女の子みたいだとか、女々しいとか言っていじめてきたが、俺はお前の健全な成長を願っていたんだぞ。
「やっと起きた。」
 相変わらずのくったくのない笑顔で晴樹は返答する。
「やっと起きたじゃない。いつからお前はそんな格好をするようになったんだ。」
俺の口調はかなり荒くなっている。一ヶ月ぶりに会った弟が女装して目の前に立っていれば誰だって驚いて、まともな対応は出来ないだろう。しかし、晴樹は俺の質問には答えてくれなかった。
「朝ご飯、もうすぐ出来るから下に降りてきてね。」
ただそれだけ言い残して俺の部屋から出ていってしまった。俺はしばし呆然としていたが、服を着替え一階のダイニングキッチンへと向かった。

俺の名前は内藤雪也。今は高校一年生だ。雪にちなんだ名前がついているのは、俺が雪の日に生まれたかららしい。相当な難産だったらしく、母さんは命を落としかけた。その上に大雪で、停電が起こったのも拍車をかけた。文明国の日本で、まるで100年以上も昔に戻った環境の中で俺はなんとか産声を上げた。
それを親父はいたく感動したらしい。俺は雪の中にめげず生まれたことで、「雪也」と名づけられた。
弟の晴樹とであったのは、ものごころがついてしばらくしたとき、5才のときだ。そのとき、おれは3才の晴樹と初めて会った。後で聞いた話なのだが、親父の親友が交通事故でなくなったらしい。親父は特に身寄りのない親友の忘れ形見を引き取ることに決めたのだ。
ある程度時間が過ぎたとき、俺は親父にどうして、晴樹はうちに来ることになったのかを尋ねたことがある。親父は一言こう言った。
「こいつの父親はな、俺の恩人なんだ。」
それ以上俺は何も聞けなかった。父親の表情に陰が走ったのを俺は子供なりに感じ取ったのだ。
しかし、晴樹がやってきたころ、俺は晴樹には冷たかった。「お兄ちゃん」となぜか晴樹は俺のそばに寄ってきたが、俺は「お兄ちゃんなんて呼ぶな」と晴樹を追い払った。力ずくでそうしたこともある。その度に晴樹は泣き叫び、俺は両親に叱られる羽目になった。
「お兄ちゃんでしょ。あんたは!」と母さんから何度も言われたが、俺は好きでお兄ちゃんになったわけじゃない。一人っ子でそれまで両親を独占していた俺は、この小さなエトランゼは俺から両親を奪ったように見えたのだ。
俺が小学校に上がってしばらくのことだ。俺は学校帰りに公園でいじめられている晴樹を見かけた。そのまま通り過ぎてもよかったのだが、たまたまそのときは気まぐれにいじめている相手と喧嘩をすることになった。双方傷だらけになりながらも、なんとか俺はそいつを撃退することができた。
痛みと疲れで座り込んでいるおれに、晴樹は寄ってきて俺にこう言ったんだ。笑顔を浮かべながら、
「おにいちゃん、ありがとう」って。
あいつが何がうれしかったのかは分からない。初めてまともに相手をしてくれたのがうれしかっただけのかもしれない。しかし、その笑顔は効果抜群だった。俺はそのただのエトランゼだった男の子を初めてかわいいと思った。それ以来俺は晴樹から、「お兄ちゃん」と呼ばれても怒らなくなった。こういうのも悪くない。
こんなことあいつの前と、親の前では言えないけれども、「お兄ちゃん」と笑いかける笑顔は、俺にとっても宝物だ。晴樹は俺から両親を奪ったのではなくて、俺にもうひとつかけがえのない存在をくれたのだと、今ではそう思っている。

それからは結構二人で出歩くことは結構あった。晴樹は「おにいちゃん、おにいちゃん」とどこでもついてきたし、俺は悪い気はしていなかった。しかし、困ったことが起こった。どこにいっても、晴樹は「妹」に間違えられるのだ。
「かわいいねえ、妹さん?」
そう言われて慌てて弟です、と言いかえるのは俺の日常だった。
中学生のとき、俺は晴樹と二人で映画を見に行った。そこを悪友に見つかったのだが、こともあろうに、そいつはこう言ったのだ。「デートかい?」
「あのな。弟とデートするほど俺は物好きじゃない」
「え、これが男の子?」
危うく俺はクラス中の笑い者になるところだった。

そうは言っても、俺はいつかは、こいつのお守りをすることがなくなることは分かっていた。いつまでも人間が小さいわけではない。どんなに女の子らしい男の子だって、本当に女の子みたいになってしまうのはまれだ。人間はどこかで成長して、やっぱり男の子は男の子らしくなってしまう。その時までは、格好いいガーディアンでいたっていいじゃないか。
いつものように泣かされて帰って来る晴樹に俺はこういったことがある。
「泣くんじゃない!男だろ。いつかは俺はいなくなるんだぞ」
「やだ、ずっとお兄ちゃんのそばにいる。」
「あのな、男はいつか別れることになるんだ。」
「そんなのやだ。」
「がまんしろ。それが男というものだ。でも、もし」
「でも、なに?」
「お前が女だったら、ずっと守ってやらんこともないんだけどな。」
「じゃあ、僕女の子になる。」
「なれないよ。あきらめな。」
この言葉は実は自分に言い聞かせていたのかもしれない。俺だってずっとこいつを守っていたくないのかといえば嘘になる。でも、俺達が男同士である限り、許されないことだ。俺も晴樹も守りたい別の誰かを見つけるはずだった。

階下の台所では母さんが朝食の準備をしていた。今日は父さんは休みのようだ。そして、もう一人女の子が母親を手伝っている。確かに、ごく一般的な朝食風景である。しかし、一ヶ月前までは、母さん一人で朝食の準備をしていて、俺は惰眠をむさぼり、弟はテーブルについていたはずだ。
母さんと弟は、母さんの実家に帰っていた。だから、俺は一ヶ月以上母さんと弟には会っていない。俺はそういう面倒な親戚づきあいが嫌いなので家でじっとしていることにしたわけだ。
「どういうことなんだ。母さん」
俺は母さんに食ってかかった。母さんは味噌汁の鍋の前に向かったまま口を開いた。
「何のことだい?」
「そこにいる女の子のことだよ。こいつは誰だ?」
「あんたのかわいい妹じゃないの。自分の妹の顔も忘れたのかい?」
「俺には弟はいても、妹はいなかったはずだ。」
俺はテーブルを拳でどん、と叩いた。母さんはコンロの火を止め、晴樹に味噌汁を配るよう指示した後、テーブルに座った。そして急に真剣な顔になって、俺にこう言ったのだ。
「晴樹はね、男の子じゃなくて、本当は女の子だったんだってさ。たまにこういうことがあるんだってよ。」
え?どういう意味だ?一体何を言ってるんだ?
母さんは俺が混乱しているのを見て取って、さらに説明を加えた。
「たまにね、外見は男の子なんだけど、実は女の子、という子供が産まれるのよ。晴樹がそうなんだったの。これからは晴樹なんて呼ぶんじゃないよ。名前も『晴香』って変えることにしたからね。」
ちょうどその時、晴樹が味噌汁を持ってきた。
俺はなんだか妙な気分でそれを受け取った。
「ところで、雪也」
ここで、父親はようやく口を開いた。
「いきなりで悪いんだがな、こういうことなんで、すぐに引っ越すことにした。すぐに荷物をまとめろ。」
しばらく慌ただしくなりそうだな。じっくり考える余裕なんてなさそうだ。ま、なるようになるだろう。そんなことを考えながら俺は朝食を食べていた。

自分の部屋にこもって俺は自分の荷物を整理していた。ま、高校生ともなれば親兄弟にでも見られたくないものもいくつか隠してある。この際だから捨ててしまおうかな。とまあ、そういう人に見られるとやばいブツを広げているときに背後から声がしたのだ。
「お兄ちゃん。」
「だああ。」
うろたえる俺を見て晴樹は不思議がった。俺は慌てて広げているものを隠し、晴樹の方を向いた。
「どうしたの?」
「いきなり入ってくるから驚いているんじゃないかっ」
「でもちゃんとノックもしたし、何度も呼んだんだよ。お兄ちゃん、気がつかないんだもん。」
俺はとりあえず目の前のものをダンボール箱の中に詰め込み、ベッドに座り込んだ。
「コーヒー入れての。一息ついたら。」
晴樹は俺の隣に座り込むと、お盆をベッドの上にを置いた。盆の上にははマグカップが二個置かれていた。両手でカップを持って、晴樹は自分の口に持っていった。確かにこの顔は晴樹なんだけれども、なんか様子が違うように思える。
「ごめんね。」
マグカップから口を離すと、やや陰りのある表情で晴樹はそう言った。
「私のせいで大変なことになっちゃって。」
俺はなぜか少し安心した。
「やっぱり、お前はお前だな。」
「どうして?」
「俺に迷惑をかけるといつもそうやって謝りに来る。」
そうだ。こういうことが何度もあったのだが、結局俺はこいつの、
「ごめんね、お兄ちゃん」
というその言葉とその表情にやられてしまう。今日もそうだ。
「ま、気にすんなちょっとスケールが違うが、お前に迷惑をかけられるのはいまに始まったことじゃない。いずれ利子を付けて返してもらうさ。」
「ありがとう、お兄ちゃん。」
晴樹はにっこり笑った。この笑顔の威力は、男であろうと、女であろうと、変わらないな、
そう。ああだこうだ言いながらも、俺はこいつのことがかわいいのだ。それは否定できない事実だろう。兄と弟が、兄と妹になったところで、こいつとの関係は変わらないと思う。
それからしばらくして、俺たちはなんとか荷物をまとめ、かなり離れた別の県へ引っ越していった。何せ、知り合いにあまり会うわけには行かないのだ。隣県ぐらいでは、気休め程度にしかならない。しかし不思議なのは親父の手際のよさだ。いともすんなり転校の準備やら、引越し先の手配やらをすましている。実はまだなんか隠してるような気がする。

「おにいちゃん」
「だああ」
俺は、晴樹に呼ばれたとき、再びうろたえてしまった。
だから考え事をしているときに、いきなり入ってくるなっていうのに。どうもやっぱりおんなのこだと判ってから、こいつといると調子が狂う。
と次の瞬間、俺の視線は凍り付いた。
晴樹が着ているのは、チェックのミニスカートに、半袖のブラウス。アクセントに胸のリボン。つまりは、明日から通う中学の制服である。
「えへへ、似合う?」
微笑みながら晴樹は俺の方を見た。
俺の目の前にいる少女は、本当に俺の弟だったのか?
はっきり言おう。好みだ。
「何か言ってよ、もう。」
しばし無反応だった俺に、晴樹は催促をした。
「いや、ああ。よく似合ってる。」
「ホント?ありがとう」
いつもの、威力抜群の笑顔。ま、誉めてやったかいはあったかな。まさかこいつにこんなことを誉めることになるとはねえ。それにこいつの嬉しそうな顔。なんか複雑な気分だな。
俺の部屋を出ていこうとする妹に俺は一言声をかけた。
「なあに、おにいちゃん。」
やや疑問の表情を浮かべながら、晴香は俺の方に向き直した。
「今度の日曜日、二人でどこか行こうか?夏休みにどこにも行かなかったし。」
「うんっ、お兄ちゃん」
元気よく晴香は答えてから俺の部屋を出ていった。さて、明日は俺も学校だ。転校早々遅刻するのもまずい。早く寝ることにしよう。

「おにいちゃん」
「おにいちゃん」
「おにいちゃんってば」
そうか、もう朝か。また晴樹が起こしに来ている。
こいつ、俺と違って早起きだよなあ。
ああ、まだ頭が寝てるぜ。目の前にかわいい女の子の姿が見える。
「おにいちゃんってばあ」
突然大音響の甲高い声が俺の耳元を襲った。俺の灰色の脳細胞もようやく目覚めた。
ベッドの上の上半身を持ち上げ、おれは目をこすりながら声の発生源の方を見た。
「あ、晴樹、じゃないや、晴香、おはよう。」
「おはよう、お兄ちゃん。」
にっこりと笑って、晴香は階段を駆け降りていった。
本当に女の子なんだよな、あいつ。
ようやく実感が湧いてきた。

後書き

皆さんは兄弟姉妹、いらっしゃいますか?私には6つ上の兄と、4つ上の姉がいます。
「コンチェルトをもう一度」の後書きで、僕が昔女の子によく間違えられていた話を書きましたが、書きながらそういう自分を僕は思い出していました。ま、あの時、「女の子だったらなあ」と自分でも思ったことがあります。だってみんなかわいいというんだもん(笑)
さて、今回は予告どおり「性転換した人間の周囲」を描こうと決めておりましたんで、兄の一人称口調で文体を書いています。突然弟が妹になって、「おにいちゃん」って呼ばれたらさぞかしショックだろうな。ということで。ちゃんと続きを考えていますんで、ゆっくりとお待ちください。
ところで「コンチェルトをもう一度」の主人公は、生理的にも男の子だった過去が必要だったので、「原因不明の病気」ってことにしたのですが、今回はむしろ「女性になりつつある兆候」が必要だったのでこういう話になっています。


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