Lost Race 〜光輝の巫女

文 West

ルナの章 その1 綻び掛けた封印

 キャハハハハ。
 歓声を上げ、真っ直ぐに伸びた通りを数人の子供達が駆けぬけて行った。
彼らはいつでも元気な存在だが、秋のこの時期は特別だった。何しろ催し物としては一年を通して最大の、収穫を祝う祭りが近いのである。
 今から派手な出し物や美味しいものの並ぶ屋台を楽しみにしているのは何も小さい子らばかりではなかった。
 その光景を目を細めて見ている大人達にとってもまた、輝月祭と呼ばれる祭りを滞り無く迎える事は最大の喜びと言えた。
 祭りが近付くにつれ、買い物客の財布の中身を当て込んで市場の商品が増えて行く。その中には確かに珍しい物もあるにはあるのだが、見るからに眉唾な品も少なからず存在した。
 言わば最大の祭りである輝月祭は市場のガラが最も悪くなる時期でもあった。
 そういった手合いの商人にとっては、リィンのような年端も行かない少年は格好のカモに映るらしく、今も
「よお、兄ちゃん。珍しい薬草要らないかい」
 そう言って声を掛けられた。
 見ると男の言葉通り差し出された手の中には何かの草が握られていた。
「山に入って採って来たものさ。魔物が出て大変だったんだ。見ろよ、この傷」
 得意げに口上を並べ立てた男は自分の腕と脚に巻かれた布切れを指差した。
 ここ、ルネイグは四方を山々に囲まれた地だ。山の向こうには恐ろしい魔物が住むとされ、この地の誰も魔物の徘徊を恐れて麓にすら立ち入れずにいた。
 彼が本当に山に入って行ったとすれば大したものだ。けれども、残念な事にそれはあり得そうにない。
「そうなの」
 リィンの全く気の無い返事に男は随分と拍子抜けした様子で
「何だよ、ちっとは同情してくれないのか。そんなんじゃ安くなるものも、安くならないぜ」
 ぶつぶつと不平を言った。
「いらないよ、ザムザの葉なんか」
 途端に今までにこやかだった男の顔が、ひどくびっくりさせられた事によって何とも情けない表情へと変化する。
「ザムザの葉でしょ。森にしか生えない」
 確かに珍しいには違いないが、ザムザは森の奥まで行けば幾つかは目にする事が出来る薬草だ。
 リィンは値札を見た。幾らなんでも500シリンは行き過ぎだ。
 口をあんぐり開けたまま、男はリィンを観察する。
 返事は無い。
 見つめたままで離れない視線は何でこんな子供が草の素性まで知ってるんだとしきりに不思議がっていた。
 答える代わりに男の腕の何重にも巻かれた布をリィンは指差すと
「カリンの森の蛇は大抵は毒なんか持ってないけど、ごくたまに猛毒を持っているやつがいるから気を付けて。噛まれればすぐ判るよ。すごく痛いんだ」
 慌てて男が患部を押さえた。心当たりがあるようだ。
 それを見てリィンは続けた。
「2、3時間で死んじゃうから、もし噛まれてたら今頃ここにはいられないだろうけどね。しおれ具合からして昨日の夜摘んだもののようだもの、それ」
 それから彼は極力相手を安心させようと笑った。
 けれども男は化け物でも見るような目でリィンを見、それ以上何かを売りつけて来る様子も無かった。
 リィン自身も別にここに遊びに来た訳ではない。他に目当ての買い物があるので、すっかり生気を失ってしまった商人に別れを告げ、食料品の店の並んでいる方へと歩いて行く。
「リィン! 朝来たばかりなのに珍しいな」
 箱から果物を出しては店頭に並べていた商人が、彼の姿を見つけて威勢のいい声を張り上げる。まだ20前の、感じのいい青年だ。
 リィンは彼の店で足を止めた。
「食堂での昼御飯の売れ行きが思った以上に良くて、このままじゃ晩に出す分の材料が足らなくなっちゃったんだ」
 早くも並んだ果物をリィンは物色に掛かった。
 家業で忙しい両親に代わって、9歳の時から食材の仕入れはリィンの役目だった。もう3年になる。
 その分目も肥えて、程よく橙色に熟れた柿と茶色い梨とをすぐに拾い上げた。
 10個ずつ買って、合わせて200シリン。妥当な線だ。
「宿屋と同時に食堂経営ってのも結構大変なんだな」
 リィンを見て呟くマロー。
「仕方ないよ。山に閉ざされた聖地じゃ旅行目的以外は旅人なんか殆ど見掛けないから、宿屋だけじゃ絶対やってっこけないもの」
 選んだ果物をマローに手渡しながら、リィンが告げる。
 頼めばマロー達が店まで持って来てくれるのだが、彼はそれをしなかった。こうして自分の足で回れば安くて新鮮な掘り出し物を探す事が出来るし、何より平和で活気のある市場の空気に触れる事が好きでもあった。
 先程彼に紛い物を掴ませようとした商人をびっくりさせた豊富な知識なども、こうやって出入りするうちに自然と覚えたものだ。
「まあ、何にせよ商売繁盛はいい事だよな。お互いルナ神に感謝しなくちゃな」
 気のいいマローはそう言って片目をつぶった。
「そうだね」
 リィンの方もつられて笑う。
 やがてマローは後ろにあった果物を一つ掴んだ。
「ま、来た甲斐はあると思うぜ。面白いもんが入ってるからな」
 そう言ってマローが見せてくれたものは程よく熟れた、皮のところどころにヒゲのようなものが生えている、あまり大きくない茶色い実である。球というにはちょっとばかりいびつな歪みがあって、見た感じは楕円を膨らましたものに近い。
 見た瞬間にリィンは目を見張る。ヤムの実と言って、この時期しか採れない代物だ。
「ヤムじゃない! こんなの、どうしたの?」
 びっくりした様子のリィンの問い掛けだ。
 マローは男前の顔立ちをにやにや笑いに歪めつつ
「さっきのお前の話じゃないが、今日は商品のはけがすこぶるいいみたいだ。今日の分の売り物が多くて幾つかは置いて来る事にしたんだが、品目が足らなくなって一旦店を閉めて家から運んで来たのさ」
 農耕が盛んであるここバルゼックでも、ヤムの木はあまり栽培されていなかった。実が栄養たくさんで滋養強壮に良いとされるが、育てるのが難しいのと甘味の他に独特の苦味があって苦手とする人も多いからである。
 但し薬としては驚くほどに需要が高い。
「どうだい。ちょっとばかり癖があるが、お前の親父さんの腕なら面白い料理が出来るだろう。安くしとくぜ」
 言われてリィンは値札を眺めた。確かにヤムの実としては破格に安いが他の果物の2倍以上高い。
 取りあえず両親から預かって来た貨幣袋の中身と相談するしかないようだ。
「それにしたって、よくこんなに栽培できたね」
 一つ手に取ってしげしげと観察した。
 マローは得意そうに鼻の頭を指で撫でて
「栽培にいい場所を見つけてそこで作ったんだ。これからはこの値段で売ってやれるよ」
 口調から自信の程が窺えた。この価格で安定供給されれば間違い無く他の店は太刀打ちできないだろう。
 結局2袋程買い込んだ。実が小さいので袋にずっしり詰まって重い。
「他に欲しいものは?」
「煮物に使えそうなキノコ。何が入ってる?」
「ちょっと待ってな。いいのがあるから」
 そう言うと奥の方に置きっぱなしの箱の中を調べに行った。
 マローのみならず、市場に出入りする殆どの商人とリィンは知り合いだった。
 皆、年に似ずしっかりした孝行少年の彼に一目置いていて、進んで新鮮で質のいいものを回してくれた。
 じきに戻って来たマローは茶色と灰色を混ぜたような色合いのキノコを手に持っていた。
「グナ茸だ。それでいいだろ」
「もちろん」
 だしとして使うと美味しい、おまけに良く汁の味の染み込むのがグナ茸の特徴である。そのまま客に出すには地味だが煮物にするなら打って付けだ。
 そのグナ茸を50個程包んでもらった。
「まいどーっ」
 持つのに苦労するくらい中身のぎっしり詰まった袋とともにマローの店を出る。
「こんなに買い込む予定は無かったんだけどな。まあ、いいか」
 思った以上に膨れた荷物を眺め、リィンは独りごちた。
 昼下がりの陽気の中、祭りが近付いた事もあって大勢の買い物客で市場はごった返している。ちょっと早いが晩の食事の材料を求める主婦らしき姿も中には見られた。
 リィンはひとしきり行き交う人々の姿を楽しむと今度は真向かいの魚売り場に寄った。
「らっしゃーい!・・・あれま、リィンじゃないか」
 そこでは威勢のいい中年女性のキルケが隣村のエナンから運んで来た魚介類を商っていた。彼女もマローと同じ反応をした。
 キルケの店では幾つかの魚はこれ見よがしに客の面前で焼いてみせる。
 活気ある市場の中を焼き魚の香ばしい匂いが漂い、行き交う人々の食欲を否応無しに誘っていた。
 リィンは針魚を注文した。身体が細く長いので、この名が付いていた。
「それじゃ持ちきれないだろう。これに入れていきな」
 あまりの量に危うく荷物を落とし掛けたリィンの姿に、急いでそばにあった編み籠を押し付けるようにして寄越した。
 自分の横幅ぐらいある見るからに丈夫な造りの籠を両手で受け取ったリィン。
「あ、ありがとう。でも、いいの?」
 上目遣いに訊いた。大きさといい、ものといい、どうみても商売道具のように見える。
「なーに。上得意さんだからね、当然だよ」
 キルケは豪快に微笑む。
 円筒状の籠は、果物と魚を入れてもまだ隙間があった。
 残るはパン粉を手に入れれば、今回のリィンの市場での買い物は終わりである。
 店を出ようとした所で引き止められた。
「そうだ。これ、アリールに渡しておやり」
 キルケから何かの紙包みを渡された。さわって見ると何か小さくて丸いものを詰めた感じで、所々凹凸があった。
 包みとキルケの顔を交互に見比べるリィンに
「玉貝さ。あの子の好物だろ」
「いくらなの?」
 尋ねつつリィンの右手が貨幣袋の口紐を解いた。そのまま手を入れようとした瞬間、キルケは大きく首を横に振る事で彼の動作を押し止めて
「いいから持っておいき。今年も輝月祭の時にしっかりとしたお祈りをあの子に捧げてもらわなきゃならないからね、何せ、私らの一年の安全がそれに掛かってるんだ」
 最後の言葉は実は完全な照れ隠しである。キルケなりにエナン出身の巫女であるアリールの身を色々気遣っているのだが、はっきりした物言いからは思いも寄らない照れ屋な面が彼女にはあって、こうやってすぐに自らの損得を口にする傾向にあるのだ。
 そういう彼女の顔を立て、ここは素直に好意に甘える事に決める。
 玉貝の包みを追加した籠を持って店を出る。
「ありがとうよ」
 立ち去る背中にキルケの朗らかな声が聞こえた。
 最後に出口に向かう途中立ち寄った店で上質のパン粉を3袋買う。すると籠はいっぱいになった。
 出口の所で買い忘れがないかを改めて確認する。
「果物に・・・魚に、アリールへのみやげか。野菜はまだあったはずだし、どうやらこれだけみたいだ」
 使命を果たし終えた満足感から大きく伸びをしたい気分だったが、荷物を抱えていてはそうもいかない。仕方なく肩だけを上下に動かした。
「さてと。次はアリールのところに行かなくちゃ」
 毎日結構な重さの生鮮食品を運んでいるお陰でリィンの全身には多少の筋肉が付いている。
 それっ。
 掛け声と共に難なく荷物を持ち上げると、軽快な足取りは既に月の社(やしろ)へと向けられていた。

 バルゼックの木造ばかりの家屋の群れの中では珍しい、石で造られた社は丁度村の北外れに位置する小高い場所に建てられていた。
 左手で上手に籠を支えつつ、やはり石で出来た扉を押し開いて入ってみる。と、中には誰もいず、窓から差し込む日差しにひっそりと照り映えた黄金色の神像が目に付いた。
 彼女、ルナは月の女神であり、リィン達月の民ははるか昔に彼女によって生み出された、少なくとも人々はそう信じて来た。
 現在では熟練した司祭の力をもってしてもその貴き姿と声に触れる事は不可能であるが、慈愛に満ちた瞳でもって、今なお自分の愛し子である彼らを見守っていると伝説は語り伝える。
『その瞳が夜空に昇る月であり、だからいつまでも丸いままで形が変わらないのだ』。
 このお伽話にも思えるような言葉を聖地の子供達は子守唄のように親から聞かされた。リィンも例外では無い。
 実際、ひっそりと輝く月は聖地に暮らす人々にとってもう一人の母だった。その変わりのない穏やかな光と一切の尖りの見られない丸い形に触れる事で、彼らは山の向こうの魔物の脅威を一時忘れ、今日と変わりない明日の訪れを心から信ずる事が出来るのである。
 しばらく神像に見惚れていた事に気付いたリィンはゆっくりと神像の横の扉を引き開けた。
 途端に古い書物独特の湿った匂いが鼻を刺激した。
 奥の本の積まれた棚の前に人の姿が見えた。彼、司祭のブラウンはそれまで持っていた本を脇に置いて、こちらを振り返った。
「リィンか。ゆっくりしていくといい」
 言われてリィンは奥に進んだ。
 ブラウン師は本の題名と中身をぱらぱらと見てはしきりに順番を並べ替えていた。
 試しにリィンはその一つを覗き込んだ。が、見た事の無い文字で題名すら読む事が難しかった。
 仕方なく、入口付近にあった椅子にどっかりと腰を下ろす。同時に持っていた荷物も床に下ろした。
 そして尋ねた。
「ブラウン師、アリールはどこですか」
「月の雫を集めに行ったよ。今年も祭りが近いからな」
 ブラウンが本を持つ手を一旦休めながら答えて来た。それからはまたせっせとリィンには理解できない何かの規則に則った並べ替えを続けた。
「そうですか・・・」
 巫女としての仕事に熱心なアリールの不在は別に珍しい事では無かった。特に輝月祭が近付いたせいかこの所のお出かけは異常に多かった。
 しかし今日は彼女の喜ぶ顔が見られると期待していただけに、判っていても落胆は否めないものがある。
 折角好物の玉貝を持って来たというのに。このままブラウン師に言付けて帰ろうか。
 リィンが腰を上げるべきかどうか迷っていると
「あの子もリィンが来ると知っていれば出掛けるのを多少遅らせてでも待っていたのだろうが、今はあまり社にいたくない理由があるから無理もないな」
 何故か大きなため息まじりのブラウン。彼もその理由とやらにいたく手を焼いている様子だ。
 聞いているリィンはそれが何なのか気になって仕方が無かった。
「理由? 何ですか、一体」
「ティモットだよ」
 ブラウンの口から出たのはリィンも知っている村の住人の名前だった。村の中央より少し南側に住む、顔はハンサムだがあまり朗らかとはいえない青年だ。
 リィンは思わず顔を顰めた。何故かリィンをやたらに敵視してしているティモットは、向こうの方が6つも上であるにも関わらず、事ある毎にリィンに突っかかって来るのだ。
 この前など、買ったばかりの針魚をぶちまけられる寸前だった。どういうものか市場の入口付近をうろうろしていた彼は、すれ違いざまに急にリィンにぶつかって来て、服に魚の生臭い匂いが付いたと騒ぎ立てたのだ。
 その時は慌てて駆け付けて来たキルケやマロー達、それに市場に買い物を楽しんでいた最中のアリールに助けてもらい、事無きを得たが、しばらくリィンを睨み続けていたティモットは人脈では勝ち目が無いのを悟って、「いつか抹殺してやる」と言って自分の家の方へと走って行った。
 リィンからすれば自分が何故そこまで恨まれるのか見当も付かないが、とにかく関わり合いになりたくない存在であるのは間違い無かった。
 当然、そういう経緯はブラウンの耳にも届いている。ティモットと聞いて途端に身構えたリィンの反応を見て、無理も無いがなと笑っていた。
 そうこうするうちにブラウンは本の整理を終えてしまった。どうやらリィンがこの部屋に来たのは作業の終わり頃だったらしい。
「やっと終わった。では、お茶にするか」
 ブラウンは別の扉から一度部屋を出ると、しばらくしてから2個のカップを乗せた平たい大皿を持って戻って来た。
 カップの内の片方をリィンに勧めた。立ち昇る白い湯気がリィンの顔に掛かっては消えて行く。
 一口入れた途端、ガヌアン茶の爽やかな苦味がリィンの喉に染み渡った。
 自分もしばらく美味しそうに飲んでいたブラウンはやがて先程の話の続きを始めた。
「輝月祭でダンスがあるのはリィンも知ってるだろう」
 言われて頷いた。月が丁度真上に来る頃開始される、甘い雰囲気の恋人達にとっては最大の楽しみの一つだ。
 基本的にはパートナーは変えず、月が山の端に姿を消すまで踊りは続けられる。ルナ神の面前で踊るので、一緒に踊った二人は永久に結ばれるとまで若者の間では噂されている。
 このダンスの申し込みをきっかけとしてくっついた恋人同士も少なくない。言わば男女の縁結びには持って来いの催しなのだ。
 そのダンスのパートナーを何とかアリールに受けてもらおうと、この所ティモットがアリールに付きまとっているとブラウンは告げた。
「仕事があるからとアリールはあっさり断ったらしい。ただ、過去には巫女が好きな人と踊った例もあると聞くから、その答えではティモットは納得できていないのだろうな」
 再び大きなため息をつくと
「リィン。お前にやたら突っかかるのもアリールがお前の事ばかり構うのが気に入らないからさ。恋する男は大なり小なりティモットみたいな行動を取るもんだ。彼の場合、行き過ぎてはいるが」
「そういうものなんですか?」
 言われても良く理解できなかった。きっとアリールやティモット達との年齢の差にあるのだとリィンは考えた。
 周りを見れば自分と同じ年の子供達は男も女も無邪気にそこらを駆け巡っていた。
 育ち方のせいで精神的には下手な大人以上に大人びたリィンだが、やはりあくまでも日常生活の範囲内に限られているようである。
 戸惑っているリィンの様子にブラウンは優しく締め括った。
「まあ、そのうちお前にも判る時が来るさ。もっとも、それではアリールは不満のようだが」
「?」
 ますます訳が判らなくなってしまった。
 ブラウンはそんな彼の当惑ぶりを微笑ましげな表情で見ているだけで、それ以上何かを言ってはくれなかった。
 仕方なく持って来た籠を眺める。受け取り主不在のまま、玉貝の包みは籠の中で静かに眠っていた。
 棚の横の台の上に置かれた水時計を見る。もう夕刻近い筈だが、依然アリールは戻ってくる気配が無かった。
 遅まきながらリィンは思い出した。月の雫とは月見草の花弁に現れる小さな水滴の事で、花が咲くのは月が出る時だから、夜にならないと回収できないのである。
 こうやって待っていたのは無駄以外の何物でもないようだ。
 リィンは立ち上がろうとした。
「ところでアリールに一体何の用だったんだ」
 ブラウンが訊いて来た。視線は持って来た籠に釘付けになっている。
 一旦は上げかけた腰をすとんと下ろしたリィンは籠から目当ての紙包みを取り出して彼に手渡した。
「実はキルケが玉貝をくれたんです。アリールにと言って」
 書物に親しむあたり、学者めいている感のあるブラウンの顔が見る間に綻んだ。普段は自分を厳しく律する彼も、愛娘が喜ぶと知って思わず父親としての面が出たのだ。
「そうか。わざわざ済まなかったな」
「いえ、お礼ならキルケに言ってください。それじゃ、食材も持って帰らなきゃいけないし、これで失礼します」
 籠をしっかりと手にしたリィンが今度こそまっすぐに立ちあがった。
 ただでさえ時間が経っていた。急いで持って帰らないと折角の食材が傷んでしまう。
 ブラウンはじっと何かを考えているように見えた。
 リィンが部屋を出ようとした瞬間、彼は思い出したように言った。
「そうだ、リィン。荷物を家に届けてからでいいから、アリールに渡して欲しいものがあるんだ」
 返事も聞かずに一旦奥に消えたブラウンは、すぐに何かの入れ物を持って来た。小さな丸い筒だ。
 これには月の魔法がかけられていると彼は言った。
「月の雫はこの筒に入れないと効力を失ってしまう。済まないが月が姿を見せないうちに急いで欲しい。場所はカリンの森の奥にある泉だ」
 手渡されたそれをリィンは受け取った。
 持っているだけで不思議に心が落ち着いた。ルナ神の魔法がかけられているとブラウンはいうが、多分本当なのだろう。
 頼みを快く承諾すると、もらった物を籠に大事に入れてリィンは社を後にした。

 家に荷物を届け、森に入った頃には夕方を迎えていた。赤く染まった木々の隙間を渡る風が肌に心地よい。
 虫の音と葉ずれの音を除けばカリンの森は静寂に包まれていた。草に包まれた地面を踏みしめながら、一歩一歩奥へとリィンは移動して行く。
 泉と聞いた時点で目的地は理解できていた。
 市場に出入りする商人から、カリンの森にはちょっとした泉があって、そのそばには数種の珍しい薬草が群生していると以前耳にした経験があった。
 まさか月見草まで生えているとは知らなかったが、多分そこだろう。
 泉が近くなると、アリールの姿はすぐに見つけられた。彼女はまだ蕾の状態の花の前で、草で出来た絨毯の上に腰を下ろしていた。
 朱に染まった夕日はこの場所にも等しく降り注いだ。アリールの普段は雪のような肌も今は綺麗な茜色に輝いている。
 こちらに背中を向けている為、飽きずに花を見つめるアリールはまだリィンの訪れに気がついていない。似合っていた彼女の周囲の空気をすぐに壊すのが勿体無くて、リィンはゆっくり近付いて行った。
 彼女のそばに自分も腰を下ろした。気付いてアリールが驚いた顔を向けた。
「リィン?」
「これ。ブラウン師から預かって来た」
 リィンは持って来た筒状の容器を忘れない内に彼女に渡す事にした。
 受け取ったアリールが怪訝な表情で筒を観察した。
「これをお父様が?」
 青灰色の透き通った瞳がリィンをじっと見つめていた。リィンは頷いて
「月の出ないうちに渡して来てくれって。よく判らないけれど、これがないと雫を取ってもダメらしいんだ」
 そう言ってリィンはまだ花を付けるには間がある月見草の群れを眺めた。
 咲いている月見草自体は何度か見た事があった。月の光と同じ黄色の、地味ではあるが綺麗な花だ。
 リィンの説明にアリールはますます首を傾げ、そして呟いた。
「そうだけど・・・でも、私、ちゃんと持って」
 そこまで言い掛けて彼女は口を噤む。父親の意図が理解できたのだ。
 何故だか頬を赤く染めている。
「そっか。父さんたら」
「え、なんだって?」
 花を見ていたせいで上手に聞き取れなかったリィン。
 アリールの顔は依然朱に染まっていた。それをぼんやり眺めながら夕日のせいだろうかとリィンは思った。
「う、ううん。大した事じゃないの。それより」
 アリールはそれ以上説明を加えようとせずに話題を変えようとした。
「リィンは月見草の咲くのを見た事がある?」
 言われて彼は首を横に振る。ルナの象徴でもあるこの小さな草花は丁度月の現われと共に一斉に花弁を付けると伝えられるが、実際にそれを経験した事はない。
 月の出と共に眼前に現れる花の群れ。考えるだけで充分神秘的だ。
「そういえば、一度見てみたいな」
 途端にアリールがはしゃいだ声を上げる。成熟しつつある年頃の身体を寄せて訊いて来た。
「本当に? じゃあ、これから一緒に見ない?」
 断る理由などこれっぽっちも無かった。リィンはあっさり首を縦に振った。
 彼が森に入った時に比べると夕日はだいぶ西へと動いていた。夜の訪れももうすぐだ。
 その時。
 何かがぱらぱらと降って来た。草のようだが種類を確かめている余裕はリィン達には無い。
 続いて聞きなれた動物の鳴き声が静かな森に響き渡った。
 ニャーア。
 それが猫だと気付いた瞬間、アリールはどこからか現れた白猫にじゃれつかれていた。夢中であちこちを逃げ回る。
 やがて木の陰からにやにや笑いを貼り付かせた少年が顔を覗かせる。いたずら者として村では評判のミックである。
「大成功〜」
 悪びれもせず高らかに口笛を鳴らすと、彼は二人の方へとやって来た。
 やがて落ち着きを取り戻したらしいアリールが、きつく新参者を睨み付けた。
「またミックね! き、今日という今日はーっ」
 怒りを露にし、現れたミックにアリールが襲いかかって行く。それをミックは難なくかわした。
 一見じゃれ合っているとも見える二人をよそに、一人月見草を見つめるリィンの表情は先刻とは別人のように厳しくなっていた。彼は急いで二人を呼んだ。
 依然険しい顔のまま、目の前の月見草を指し示した。
「これを見て」
 月見草は非常に繊細な造りをした草花だ。それがさっきの騒ぎのせいで踏みしだかれ、一つ残らず萎れ掛けていた。
「そんな・・・このままじゃ、人数分の雫が手に入らなくなっちゃう」
 見る間にアリールの顔が蒼白になった。唇が衝撃に震えている。
 リィンは急いで尋ねた。
「他の所には生えていないの?」
「わからない。でも・・・」
 アリールは言い淀んだ。薬草集めなど、この森に仕事でよく出入りしているだけに、自分の知らない他の月見草の存在には否定的なようだった。
 考えてみれば、リィン自身もここにやって来るまでかなりの距離を歩いたが、ザムザは所々で見つけられても、月見草らしき草花は見掛けた記憶が無い。
「取りあえず森を回ってみよう。きっとすぐに見つかるよ」
 半分は自分に宛てた言葉だった。
 とにかくあちらこちらを探すしか無かった。このままどうしても雫が手に入らなければ輝月祭を執り行う事すら危うくなるのだ。
 守護神であるルナの魔力を具現化したものとされ、向こう一年の村人の息災を願う上で、月の雫の存在は祭りの儀式に欠かす事は出来なかった。
「ご、ごめん」
 肩を落としたままのアリールの姿に、ミックが見る影も無いくらいに萎れた顔付きで謝って来た。他愛の無いいたずらのつもりが村全体の問題にまでなってしまった事に、今更ながらひどく罪悪感を覚えているのだろう。
 静かに皆を取り囲む木々はいつしか太陽と同じ赤色を失って、やがて下りる夜の帳にふさわしいように自身の色を変えて行こうとしていた。
 もうじき昨日と同じ夜がリィン達の上に訪れる。
 けれどもそれはいつもの優しい夜では無かった。
 月の出は何より彼らを安心させてくれる出来事であるのに、夜闇に抱かれようとしている世界と同様に、呆然と立ち尽くす三人の心にも不安という名の暗闇が忍び込もうとしている。
 それを首を横に振って懸命に振り払う。
「行こう、辺りが暗くならないうちに」
 自分の中で次第に大きくなる不安を押し隠して、他の二人をリィンは促した。
 答えを待たずに、自分から歩き出す。
「ええ・・・」
 力無く頷いたアリール。幾分伏せられた瞼の奥で、輝きの鈍った目が黙って先を行くリィンの姿を見つめていた。
『リィン。あなたは本当に見つかると思っているの?』
 背中を見せたままのリィンから、片時も視線を離さない彼女の様子は、必死でその事を問い掛けているようにも感じられた。
 残るミックは大人しく後を付いて来ていた。彼も今は殆ど口を開かなかった。
 暮れ行く森の中をともすればうつろになりがちな足取りでリィン達三人は歩いて行った。

 どれ程の時間が経過したろうか。
 とうとうリィン達三人はカリンの森の一番奥までやって来ていた。
 悪い予感というのは大概その通りになるもので、ザムザなどの珍しい植物を数多く発見しても、肝心の月見草はそれが生えていた痕跡すら見つける事が出来ないでいた。
 さっきのような開けた場所は森に他に見られず、月の女神の申し子である月見草は月の光を充分に受けられる場所にしか生息しないのである。
 もう、三人の先にあるのは山だった。
 魔物を恐れて人が踏み込まないせいだろう。伸び放題になった鬱蒼とした茂みが麓を境にして大きく前方へと続いていた。
 見た感じ、植物の種類はカリンの森と大きく異なっているようには思えない。
 ここの山頂付近なら多少は月の光も差し込むだろうから、もしかしたら月見草が見られるかもしれない。かすかな期待を胸にリィンは暗い山の中へ踏み込もうと一歩足を前に出そうとする。
「リィン! だめっ」
 突如背中に衝撃を感じ、足を止めた。
 神官衣に包まれたか細い腕が彼の身体毎抱き締めた。アリールだ。
「どんな危険があるか、わからないのよ。絶対にだめっ」
「でもさ」
 リィンはゆっくり振り返った。不安に揺れるアリールの瞳が、責めるように彼を睨んでいた。
 けれども彼は彼なりの言い分があった。
「魔物がいるのは山の向こうの筈だろ。だったら」
「それでも村の誰も入ろうとしないじゃない。私達も村に戻りましょ、ね?」
 リィンへの提案というよりは懇願である。
 その訴えの真剣さに負けて、内心すっきりしないながらもリィンは2人の方へ戻って来た。
 漸くアリールは傍目には安心しきった様子で、努めて朗らかに告げた。
「前の晩に採った雫があるからそんなに無理に採らなくても大丈夫なの」
 前半珍しく早口になったのは何がしかの嘘が含まれているからだろう。
 雫の量か、それとも以前に雫を集めた事そのものか。
 いずれにせよ、その何かを隠すように不自然なくらい明るく微笑んだ。
 アリールの彼の身を気遣っての弁解を、リィンは大人しく聞いていた。
 けれど相槌が彼の口から飛び出す事は無かった。
 そっと振りかえって後ろを眺めた。
 後を付いてくるミックは相変わらず俯いたままでいる。こんなに大人しい彼を見るのは今回が初めての事である。
 二人の様子に、リィンはとある決心をしていた。
 単身山に入る為には、さすがに丸腰では心細い。一旦バルゼックの村に戻る事に、リィンは文句を口にしなくなった。

 歩いているうちに、重なった木の葉の隙間から月光が差し込んで来た。
 前方で急に森が開けつつあるのが見てとれた。出口である。
 ここからでは空を仰いでも月は全てが見えず、既に夜の帳が下りたことしか一行には確信出来ずにいた。
 森の中で不安な夜を迎えたせいなのか、妙に世界が暗く感じていた。外との接点が見えた事で全体に少し早足になる。
 森を歩く間に多少は持ち前の元気を取り戻したらしく、一番先に駆け出たミックが鋭い声を上げた。
 幼い身体を震わせ、彼は天を見上げていた。
 声を聞き付け、歩みを速めて出て来たリィンもまた、夜空に固定されたままのミックの視線にゆっくり上方を仰ぐ。
 ルナの化身である月がそこにあった。しかし見慣れた満月では無い。
 右の斜め下方にそこだけ虫の食ったような、どうみても光の無い部分が生じていた。
「こんなことって・・・」
 最後に出て来たアリールも、ミックと同じで異様な月の姿に不安を隠せずにいた。
 聖地の人々が固く信じて来たルナの永遠の守護。その象徴である月が、はっきりした理由は判らないが欠けてしまった。
「たかが草じゃないか。どうしてしおれただけで、こんなになるんだよ」
 信じられないと言わんばかりのミックの顔と声からは、すっかりいつもの不敵さは失われている。
 限界まで子供らしい小さな瞼を開いたまま、震え、放心したように変貌した月を見つめ続けるミック。
 アリールと彼の血の気の失われた表情を見ながらリィンは考えた。
 こうなった原因として思い当たるものといえば、やはり雫を手に入れられなかった事しかない。
 少しの間、逡巡する。山に入る心構えそのものは森を出ようとする前から既に出来上がっていた。
 けれども、それは村で装備を万全にしておいての話だ。何も無しに魔物が出るかもしれない場所に向かうのは・・・。
 アリールもミックも未だ見なれぬ姿となった月から目を離せないでいた。
 尋常でない2人を見て、リィンは自分に言い聞かせた。このままの状態の月が続けば、彼らだけでなく、村の全員が永遠に魔物の影に怯えて暮らしていかなければならないのだ。
 彼の立場に他の12歳の少年が置かれていたら、頭から追い出そうとしても離れない未来への不安に我を失っていた事と思う。
 幸か不幸か、彼の持っている子供には似つかわしくない分別が、胸にくすぶる恐怖をよそに現実的な対応を選ばせた。
 どうにも落ち着かなく感じる欠けた月から一度も目が離れずにいるアリール達にリィンは告げた。
「二人とも先に村に戻っていてくれる?」
 口調こそ優しいが、相手に有無を言わせない鋭さを秘めていた。
 今まで天ばかり仰いでいたアリールが、リィンの秘めた思いを察した途端現実に立ち帰り、速い動作で振り向いた。
 少し遅れてミックもリィンの方を向いた。
「リィン、まさか」
 真っ向から視線をぶつけて来たアリール。明らかに彼の否定を期待していた。
 そうだとも、違うとも、リィンは言わなかった。
 禁忌とされた地に一人踏み入る事に不安を感じない筈がない。それを心からどうしても追い払うことが出来ないからこそ、今ここでアリール達に引き止めて欲しくなかった。
 誰かがそこに向かわなければならないのだ。その事はアリール自身にもよく理解できている筈だ。
「リィン・・・」
 何とか目顔で訴え、思い止まらせようとするアリールの心配に、間をおかずにリィンは
「雫を手に入れ次第戻ってくる。そうすればきっと全て解決するよ」
 そのまま立ち去ろうとした。
 その彼が思わず足を止めて振り向いたのは、アリールが急いで彼に追い付いて来たせいだ。
 ちょっと怒った様子で睨んで来た彼女は頑強に主張した。
「私も行くわ! 月の雫の回収は元々巫女である私の仕事だもの、いいでしょ」
 リィンは内心迷った。確かに怪我の回復の出来るアリールに共に来てもらえば、もし魔物に襲われた場合でも心強いのは間違い無い。
 しかし結局リィンは申し出を跳ね除けた。
「だめだよ、アリール。今の村に君はきっと必要な存在だと思う」
 そろそろ村でもこの月を見て騒ぎが大きくなっている頃だろう。そこで誰かが不安を大きくしていても、月の巫女であるアリールや司祭であるブラウンの言葉なら、再び落ち着きを取り戻し、耳を傾ける事ができるかもしれない。
 そう思うと、今アリールを山に連れて行く訳にはいかない。
 変わらぬリィンの決心に、やがて彼女は白旗を掲げた事を示す長いため息を吐いた。
 次いで表情を引き締めた。
「わかった。私は私の出来る事をするわ」
 普段大人しい分、一旦こうと決めたらどうにも引かない性格の持ち主である事が、これまでのリィンとの付き合いを通し、身に染みてアリールには判っていた。
 少なくとも外見だけは、月の巫女として村人達を護ろうという使命感にアリールは満ちていた。
 リィンは胸を撫で下ろす。
 彼女もその父親のブラウン師も非常に優れた月の神官だ。もし村に何か起こったとしても、二人に任せておけば大丈夫だと彼は思った。
「リィン兄ちゃん、アリール姉ちゃんの事は任せな。ちゃんと村までおくって行くよ」
 アリールより一足早く自分を取り戻していたミックがそう言って少々照れた様子を見せた。彼なりにアリールには済まないと感じているようだった。
 ミックは手の付けられないいたずら者として大人達からは煙たがられているが、子供同士での評判はリィンの知っている限り悪くないように思えた。それもきっと、今ちらりと見せたような面が彼にあるからだろう。
 原因を作ったからと言えばそれまでだが、アリールの側にミックが付いてくれていてリィンは良かったと思った。
「うん。頼んだよ」
 リィンは容器を手に持った。
「そろそろ、僕は行くよ」
「待って!」
 彼女は持ち歩いている薬入れから、小箱に詰められた白い軟膏のようなものを取り出した。
「魔物相手に怪我をした時はこれを使って。元々は解毒剤だけど、一応は傷にも効くはずだから」
 そこで急に声のトーンが落ちた。
「ザムザの薬でも作ってあれば良かったんだけど・・・」
 最後はかすれ気味の声で呟いて歯噛みする。
 毒蛇を除けばカリンの森は大して危険は無く、そのせいでいつも持ち歩いている薬袋にも大した用意をしてこなかったアリール。仕方の無い事とはいえ、こんなものぐらいしかリィンに渡せない自分がとても悔しそうだった。
 リィンは彼女の心配をこれ以上大きくしないうちに、精一杯の笑顔で薬を受け取った。
「ありがとう、アリール。心強いや」
「気を付けてね」
 まだ年若いが、アリールはかなり力のある巫女だった。彼女の調合した薬や回復の業には村人達が何度も助けられている。
 その彼女が多少なりとも傷に効くというのであれば、充分何がしかの効果はあるだろう。
 2人に背中を向けたリィン。引かれるようなアリールの眼差しを感じる。
 その事に気付かない振りをして、彼はたった一人、出てきたばかりの森へと消えた。
 目指すは誰も踏み込んだ事の無い魔の山の山頂である。

 リィンの予想通り、バルゼックの村では村の中央の噴水に集まった人々が一斉に空を見上げていた。
 集まった人々の年齢も、性別もまちまちだが、その表情は同じ不安に塗り潰されている。
「今日のお月さま、へん」
 まだ5歳になるかならないかという少女が母親に連れられたままで小首を傾げる。ルナ神の話は聞いているから、今見ている月が当たり前の状態で無い事までは理解できるのだが、その意味するところはとんと判らない様子だった。
「お母さんも、そう思わない? ねぇ」
「そうね・・・」
「お月さまってずっと丸いものじゃなかったの? あたし、そう聞いたよね」
「ナシル! ちょっとぐらい黙ってて!」
 隣に位置する母親の方は立っているのが不思議なくらい、足が前後左右に震えている。実際見た瞬間は一旦よろめいて、娘に注意を受けていた。
 どうして母親が自分を叱ったのか理解できず、少女は恐怖感から稚い顔を引きつらせ、それから火の付いたように大きく声を上げて泣き出した。
 親子から少し離れた所では、老齢の男性が年を経て白くなった髭のみならず、すっかり血の気が引いた顔面をも蒼白に変える。
「わ、わしらが一体何をしたというのじゃろう」
 うわごとのように呟いた。傍らには何故か黒い帽子が落ちていて、恐らくは彼が被っていたものだろうが、それにも気付かないようだった。
「私達、これからどうなるの? 魔物に食べられちゃうの?」
 見るからに怯えた声の主は綺麗な若い娘だ。手入れの行き届いた腰までの伸びた茶色の髪を不安に震わせて、彼らを見下ろしたまま何も語ってくれない月を眺めていた。
 村中が言い知れぬ不安に包まれる中、いつしか誰かが言い出した。
「不心得者がいるに違いないよ」
 告げたのはどこかの主婦らしき女性で、彼女に村人達の視線が集中した。
「不心得者?」
「ルナ様を怒らせた人間がきっとこの村にいるんだ。今にそいつを探し出してひどいめに合わせてやる」
 吐き捨てるような口調で告げた彼女は、いると決め付けた裏切り者を何度も殴る仕草を見せた。
 平然と同胞を疑ってかかる彼女の態度に、密かに同じ疑惑を抱いていた他の村人達も思わず顔を顰めていた。
「モリィ、やめるんだ」
 司祭のブラウンが同じように不快感を露にしつつ、村の長をも兼ねている立場から女性を諌めた。
「まだ原因が何かも判っていないのだ。憶測で人を傷付けるのはよしてもらいたい」
「ふん」
 まだ納得の行かないらしい暗い瞳が告げたブラウンを憎々しげに見た。
 余所者風情が口を出すなという顔付きだった。
 ブラウンの出身は隣村のエナンで、この村にやって来たのは前の司祭が亡くなった時、僅か4年ぐらい前の事だから、確かに余所者と表現すればそうかもしれない。
 しかし、経緯はどうでも相手は現在バルゼック一の実力者だ。そのブラウンに睨まれては、気の強いモリィも渋々ながら従うしかない。
 彼女は誰とも顔を合わせようとせず、眉を吊り上げたままで黙っていた。
 取りあえずモリィが矛先を納めたところで、現状の説明をブラウンは開始した。
「さっきエナンのゼムゥ村長と魂文(スピレト)にて会話した。やはりあちらでも、同様の現象が生じているらしい。少し離れたセリト、イゼルアにおいても事情は同じだ」
 魂文(スピレト)というのは高位の月の神官の間で用いられる、精神と精神の対話を可能とする通信手段である。
 ブラウンの口から出た他の村の状況は大方の予想通りとはいえ、聴衆の不安そのものは急速に拡大した。
 全ての村に共通して起きたという事は、それだけ今回の異変が規模の大きく、原因の見えないものであるのを物語っていた。
 集まった村人達はその場に立ちつくすだけで、誰も口を開こうとしなかった。
 ブラウンは少しでも彼らの恐怖を和らげようと、最後に追加する。
「現在、司祭達の間で古い書物を当たっている。解読に多少の時間は掛かるが、対策を見つけられると思う」
 自分の中で湧きあがる焦燥と表情とを切り離すのに苦労した。目立った成果を挙げられないことが司祭にある者としてブラウンは口惜しかった。
 それでも、先の見えない不安に苛まれていた村人達が徐々に落ち着きを取り戻す。
 非常にゆっくりではあったものの、その変化にブラウンは内心胸を撫で下ろした。
「もしかしたら、異変は今晩だけの事かもしれない。軽はずみな行動から同胞を傷つけるような事があれば、それこそがルナ神の御心に背くものだ」
 諭すような口調で言う。
 長としての威厳がはっきりと言葉に篭められていて、反発するモリィですら頭を垂れた。
 村の人間達の態度に今度こそ肩の荷を下ろしたブラウンのもとに、不安を押し隠した雰囲気のアリール達がやってきた。
 月の司祭と巫女が一堂に会した事で、未だ納得できていない様子のモリィなどを除くと大抵の村人達は取りあえずは安心したようで、次第に家路に着く。
「お父様。リィンが・・・」
 ブラウンの隣まで歩いて来た彼女は急に身体を寄せ、それだけを耳打ちした。
 後は視線を落ち着かなげに左右に動かして、周囲の人間達の様子をしきりに窺った。
「一旦戻ろう。その方がいいだろう」
 どうやら人払いを願っている彼女の様子と先程の言葉から、何か良くない事が起きたとブラウンは悟った。
 アリールは彼の申し出に多少なりとも安心した表情を見せた。
 それからおもむろに頷いて来た。
 二人はまだ人の残っていた広場を後に、早足で北の社へと歩いて行った。
 それを確認するとミックは一人、南に向かって駆けていった。

 一方のリィンは月見草の特徴を頭に思い描きながら、木々の生い茂った山の中を山頂目指して進んだ。
 どこも似たような景色で、木々の隙間に垣間見える月が無ければすぐに迷ってしまいそうだった。
 山は魔物どころか、生き物の生息する気配すら感じなかった。あるのは植物だけで、死んだような世界だ。
 カリンの森を歩いている時は紅葉しかけた木の葉を渡る夜風が寒いぐらいだったのに、今はそれも消えてしまっている。
 両方の足が疲れ、肌に随分と傷が出来ていた。
 これらの感じからすれば結構昇って来たと思うが、まだ山頂はかなり先の事のように思える。
 リィンの目の前には大小様々な木々がまるで通せんぼをするように続いていた。
 ここまで何度も休みたいという思いに駆られた。その都度リィンはわざと足の運びを速め、誘惑を頭から追い払った。
 その甲斐あってか、きつかった勾配がやがて多少平坦になった。
 変化した傾きに沿ってさらに進んで行く。
 月の見える面積が大きくなるのと同時に、勾配が殆ど水平に変わった。どうやらこの辺りが山頂に位置するようだ。
 近くに開けた場所が無いかリィンは辺りを見回して、少し離れた所にそれを見付けた。
 そこでは満面に月の光を受け、月見草の群れが黄色の花を咲かせていた。
 中心に行くにつれ窪んだように見られる花はその窪みに透明な液体を溜めていた。これが求める月の雫である。
 アリールから預かって来た筒をリィンは取り出して、蓋を取り外した。
 口から雫をそっと流し込む。それを全ての月見草に対して行った。
 何度確認しても、持って来た筒の底には一見水かと思うような透明な液体が溜まっているのが見える。
 しかし水と違い、試しに入れ物毎振ってもチャプンという大きな音は生まれなかった。代わりに銀鈴のような澄んだ響きが、彼の息遣いの他は静寂を保った山の中を流れた。
 全体では十本近く生えていたおかげで、思った以上に多くの月の雫がリィンのものとなった。
 雫を見付けるまでは険しかった表情も、今は屈託の無い笑みに満ちていた。
「早くアリールに持っていってあげよう」
 そう言って再び蓋を元に戻して、踵を返しかけた時。
 樹木の陰となった叢に、何か大きな物体が倒れているのにリィンは気付いた。やっとの事で発見した月見草に夢中だったあまり、さっきは気が付かなかったらしい。
 一瞬魔物かと疑ったリィンが恐る恐る側に寄ってみると、それは人間の男性のようである。勘違いに胸を撫で下ろした反面、男を細かく観察すればする程リィンは首を捻った。
 彼は一見頭に巻き付けただけのような布で作られた帽子を被り、山頂の土に汚れた衣類は手首や足首の所で急に窄められていた。そんな服など、今まで見た事も無かった。
 どうみても聖地の者では無いらしい男はリィンに背中を向けて倒れている。気を失っているのか、それとも眠っているのか、起き上がる気配は見られなかった。
 リィンの心からは未だ彼が魔物だという疑いが完全には拭えずにいた。それでも危険が無いらしいと判断して、ゆっくりと今度は男の正面へと回った。
「!」
 胸の辺りに剣で裂かれたように真一文字に裂け目が出来ていて、暗闇で判りにくいがそこから赤黒いものが覗いていた。
 手を伸ばして触ってみると、多少は固まり掛けているがまだ粘り気のある生温かな液体を指先に感じる事ができた。
 リィンは急いで彼を仰向けに変えた。
 月の光に照らされた男性の胸部に、赤い筋が見えていた。
「怪我してる・・・」
 相手は魔物かもしれないという思いから手を差し伸べるのに少なからず逡巡した。
 このまま放っておけば助からない事は確かだった。
 ついにリィンは意を決して懐の袋を取り出した。アリールから貰った軟膏を胸部の傷口にと塗り付ける。
 徐々に出血が治まって来るのが見て取れた。一旦は安堵するリィン。
 しかし男に意識を取り戻す様子はなかった。もしかしたら傷を受けてから時間が経ち過ぎているのかもしれない。
 呼吸が多少だが弱まりかけていた。
 アリールがここにいれば。そんな考えが、一瞬、頭の片隅を過った。
 こうしていても仕方が無い。
「このままじゃ危ないかも」
 リィンは彼を一旦は背負いかけた。が、男のがっしりした体格は予想以上に重く感じられた。
 彼は男性を一度叢に下ろし、それから渾身の力を篭めて一気に持ち上げる。
 そのままおぼつかない足取りで歩き出した。気を抜くとすぐに前後左右によろめいてしまいそうで、大地の感触を確かめつつ一歩一歩着実に進んだ。
 来る時に一旦は通った為に、木と木の間に所々隙間の出来た場所があった。そこを縫うように進みながら、そろそろと麓の方へ降りて行った。
 途中、何度も考えた。
 このまま、魔物かどうかも判らない男性を連れてバルゼックに戻ったら、村は大騒ぎになるに違いない。
 しかし、例えそうであったとしても、怪我をした者をそのまま放っておく事だけは、リィンにはどうしても出来なかった。

 カリンの森に入ったところで、戻って来た風の音に多少緊張が解けたせいか、急に足の疲れを感じた。考えてみれば自分の倍とはいかぬまでも、それに近い体重をここまで子供の小さな身体で背負って来たのだ。
 足を動かそうとするが、目に見えて景色は変わらないような気がして、ついに男を地面に下ろした。
「だめだ・・・」
 呼吸が随分と荒く変わっていた。
 身体が動かなくなった分、気持ちだけが急いて行く。
 それから直に、ふと風に混じって人の声が聞こえた。次いでパタパタと足音が近付いて来る。
「見つけた!」
 人影は森の入口で分かれた筈のミックだった。
「ミック?」
 思わぬ者の登場に大きく目を見開いたリィンを見てミックはにやっと笑った。
「アリール姉ちゃんなら、司祭と社に戻って行くのを見届けたぜ」
 そう言ったミックの視線はリィンから傍らの男性へと移動した。
「リィン兄ちゃん、こいつは?」
 そう言って指差した。男の聖地の人間ではない格好を見れば彼が山から連れて来られた事は明白だった。
 ミックは改めて男を観察する。
「・・・魔物ってもっと怖いもんだと思ってた」
 ぽつりと呟いた。
 リィンも同じ事を考えていた。
 月の庇護の陰で魔物に怯えて暮らして来た自分達。だが、魔物の正体についてはっきりこうだと告げられる人間は考えてみれば誰もいない。
 異国の装束の男性の呼吸は山で見つけた時より、更に弱まって来ている。その彼を今度はミックが持ち上げた。
「そらっ!」
 年が下なだけにリィンより更に小さな腕が、男の上半身を自分の胸の高さで支えているのが見えた。
 そのミックが声を掛けて来た。
「何やってんだよ、兄ちゃん。早く反対側を持ってくれよ」
「・・・いいのかい?」
「何の事だよ」
 幾分表情を赤くしてミックは上目使いに睨む。つまらない気遣いをするなと暗に告げているのだ。
 リィンは言われた通り下半身を持った。
 まだ疲れは溜まっているものの、必要な力が半分で済むようになった為、これなら何とか運べそうだった。
 それだけではない。思わぬ援軍を得た事で精神的にも随分楽になっていた。
 2人の少年は前後で一人の人間を抱えながら、夜闇に包まれた森を進んで行った。
「それで、どこに連れてくつもりなのさ。この分じゃ薬じゃ間に合わないだろうし、社か?」
「魔物かもしれない人間の治療を月の神官であるアリールやブラウン師には頼めないよ」
「・・・他に誰が回復の術なんか使えるんだよ」
「一つ心当たりがあるんだ」
 リィンが5つの時だ。調理場のスープが全身に掛かるという事故が起きた。
 父親のマザク、母親のエスティナ共にリィンを調理場に入れないよう気を付けてはいたのだが、丁度輝月祭の忙しい時期で、目を離した隙の出来事だった。
 痛さに全身を掻きむしろうとするリィンを、一度抱きしめたエスティナは不思議な言葉を口にした。それは今までリィンが聞いた事の無い言語だったが、その歌うような響きに包まれるにつれ、急速に全身の痛みが和らいで行った。
 今のリィンにその時の火傷の痕は残っていない。間違い無く母親の不思議な力の証明だとリィンは考えていた。
 本当なら家族にだって迷惑は掛けたくなかったが、このまま男性を死なせる事だけはしたくなかった。急いで治療だけしてもらったら、使ってない地下室にでも彼を運び込めばいい、そう心で言い聞かせて自分を納得させた。
 村の入口が見えて来た。
 このまま正面から入って行くのは危険だ。
 けれども男性の呼吸は随分と弱くなっている。裏まで悠長に回っている時間は無かった。
 一旦男性を下ろしたミックがリィンから離れ、村に入って様子を偵察に行く。
 戻って来た彼は満面に笑みを浮かべていた。
 安堵したリィンはミックに告げた。
「ありがとう、ミック。ここでいいよ」
 びっくりしたミックが目を剥いた。
 しばらくしてから諦めた様子で告げた。
「・・・わかったよ」
 少しふてくされたように見えたミックの顔がついと近付けられる。
「兄ちゃん、ほどほどにしないと今に自分の身を傷つけるぜ」
 お人良しの事を言っているらしい。
 しばらくその態勢のままでいた少年は、急に素早い動きで離れた。振り返らずに夜の世界へ消えて行く。
 再び一人っぼっちになったリィンは渾身の力で男性を背負い上げ、家に向かって歩き出した。

「リィン!」
 夜になっても帰らぬ彼を、両親は相当心配していたようだ。食堂も珍しく早仕舞いして、時折外を眺めてはリィンの姿を探していたと父親であるマザクが言った。
 まだ祭りには日にちがある分、宿屋の方の客は殆ど見掛けなかった。
 だから男性を堂々と運び込む事が出来た。
 彼の容態にマザクもエスティナも一様に厳しい表情をした。
 2人とも男性の素性についても、着ていた服の事さえも何も言わなかった。
 “山で倒れていた”とリィンが話した時点で全てを飲み込んでいた。
 男の表情は殆ど土気色に変わっていた。
 やがてエスティナが不思議な呪文の詠唱を始めた。それは幼い日にリィンが聞いたものと良く似ていた。
『全ての生き物の母にして、慈愛の女神たるルナ。どうか彼の者の消え行く生を哀れみて、今一度弱りし命の灯火を我に燈させんことを』
 “快癒”の聖言(ホーリク)の詠唱が終わっても、すぐには変化は現れなかった。動かぬ男性をエスティナは表情を変えずにただ見守り続けた。
 傍目には永劫とも思われる時が過ぎ、心なしか顔に赤みが差して行く。
 ここに来てエスティナがようやく表情を緩めた。マザクも微笑んだ。
 客間のベッドに横たわる男性の呼吸はまるで眠っているような穏やかなものになっていた。
「もう、大丈夫」
 胸を張って呟くエスティナは普段の明るい雰囲気の彼女に戻っている。
 ほっとしたリィンは母親の業に心を打たれると同時に、今更ながら両親に多大な危険を負わせた事に気付いた。
 もし家に男性を連れて入る時に誰かに見られていたら・・・
「ごめん。どうしても放っておけなくて」
 項垂れたリィン。その頭をマザクが優しく撫でた。
 精神的には相当に大人びたリィンだが、マザクとエスティナの前では普通の12歳の子供に見えた。
「なぁ、リィン。魔物なんて本当はいないんだ。いるのは・・・」
 そうマザクが言い掛けた時。
 けたたましい音が聞こえ、階下のドアが勢い良く開けられた。
 それと時を同じくして中年女性の耳障りな叫びが響き渡った。
「ここの坊主が連れて入るのを見たんだ。あたしゃ一人でも行くよ!」
 遅れて数人の足音がドヤドヤと入ってくる。
「待つんだ、モリィ。もう少し調査してから」
「そんな事をしていて、魔物に逃げられたらどうするんだい!」
 モリィは忌々しそうに吐き捨てた。階段を掛け昇ろうとして、誰かに捕まったらしく
「ええい、放しよ! お放しったらっ」
 声の意味するところを知ってリィンは蒼くなった。
 マザクもエスティナも突如始まった階下の大騒ぎに険しい顔をしていた。
 2人は互いに視線を交し、何事かを目で相談し合った。
「あなた・・・」
「うむ」
 どちらの顔にもやや哀しみを帯びた決意が浮かんでいる。
 エスティナは言った。
 それは先程男を回復させる時に見せた、巫女を思わせる厳しい表情と全く同じであった。
「リィン、手を出して」
 言われるままにリィンが手を伸ばすと、エスティナは自分の右手にあった指輪を外して、リィンの指の同じ位置に通した。
 指輪は静かに銀の輝きを放っている。
 顔を上げて母親を見つめたリィンの耳に、再びエスティナの呪文が響き渡った。
『全ての者の慈母たるルナ、この者の名はリィン=バーディック、汝の敬虔なる使徒にして新たなる封印の巫女なり。この者リィンを受け入れ、相応しき力を与え給え』
 詠唱が終わると同時にリィンの全身が指輪と同じ銀の光に包まれて行く。
 母の胎内に戻ったような不思議な安心感の中で、リィンの身体は急速な変化を遂げていた。
 父親と同じで褐色であった筈の髪が亜麻色にと変わった。
 もともとあまり男の子っぽくなかった顔の輪郭はさらに柔和な印象になり、全体に線が細く感じられるようになっていた。
 思春期前の少年らしく真っ平らであった胸には二つの盛上がりが現出している。
 身長は僅かながら伸びていた。体重は、きっとかなり増えた事だろう。
 今やリィンの身体の全てが綺麗なカーブで構成されていた。
 丁度成人したかどうかといった、15歳位の少女らしい肉体がそこにあった。
 彼女は母親に良く似ていた。母親は彼女に告げた。
「カリンの森に行きなさい。今の貴女なら見えるはず」
 少女となったリィンが訳も判らずに頷いて見せた瞬間。
 ドタドタと階段を駆け上る足音が聞こえた。どうやら戒めを振り切る事にやっとモリィは成功した様子である。
 それに気付いたエスティナは弾かれたように部屋の入口を潜りぬけようとした。
 マザクは既に部屋を出ていた。
 やや遅れてリィンはエスティナの後を慌てて追おうとするが、母親は
「来てはだめ!」
 もう少しでエスティナの腕を掴まえられそうだったリィンが思わず手を引っ込めるのと同時にドアが大きな音を立てて無情に閉まった。
 エスティナは最後に短い聖言を詠唱した。
「母さん・・・母さんっ」
 どんなに扉を開けようとしても、扉はぴくりとも動かなかった。幾ら鍵が掛かっていたって前後に揺らすぐらいは可能なはずなのに。
「はぁ・・はぁ。見つけた! この裏切り者どもめ」
 廊下ではリィンの焦燥をよそに、息を切らせたモリィが横に大きい身体を揺すってやって来たらしい。
「早く言いな! 魔物をどこに隠したんだい」
 マザクもエスティナも悲しげに笑うだけで何も答えなかった。
 勢い良く隣の部屋の扉の開く音が聞こえた。
 動き回る足音と共に、何かを探すような、物同士が擦れ合う時の響きが壁越しに聞こえて来る。
 しばらくすると物音は止んだ。
 悔しさに顔を歪め、拳を震わせてモリィは叫んだ。
「くっ・・・。他に部屋は無いようだし、こうなったら、あんたらだけでも連れて行く。さ、来な!」
 足音が遠ざかる。
「父さん! 母さーんっ」
 リィンはドアにぶつかり、それが及ばないと知ると、今度は力の続く限り両の拳で叩いた。
 もうリィンにも判っていた。母親が最後に唱えた聖言、あれがこの部屋毎廊下と切り離してしまったのだ。
 外からは既に何も聞こえなかったが、それでもリィンは休む間もなく叩き続けた。
 やがて彼女は全身の力を使い切り、崩折れるようにして気を失った。


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