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華代ちゃん拾遺A(華代ちゃんシリーズ)
「固茹」

作:原田聖也
(原案者:真城 悠)

「華代ちゃん」シリーズの詳細については

http://www7.plala.or.jp/mashiroyou/kayo_chan00.htmlを参照して下さい


 こんにちは。初めまして。私は真城華代と申します。

 最近は本当に心の寂しい人ばかり。そんな皆さんの為に私は活動しています。まだまだ未熟ですけれども、たまたま私が通りかかりましたとき、お悩みなどございましたら是非ともお申しつけ下さい。私に出来る範囲で依頼人の方のお悩みを露散させてご覧に入れましょう。どうぞお気軽にお申しつけ下さいませ。

 報酬ですか?いえ、お金は頂いておりません。お客様が満足頂ければ、それが何よりの報酬でございます。

 さて、今回のお客様は…。






 ――深夜。
 とある巨大な屋敷。
 ――パンッ、パンッ、パンッ――
 渇いた銃声。
 続いて廊下に響く慌ただしい大勢の足音。男達の怒号。
「――二人やられた!」
「ヤツはMエリアに向かったぞ!」
「追え!ヤツは一人だ!絶対に逃がすな!」
「慌てるな!ヤツはもう“トラップド・マウス”だ!」
「そうだ!あそこは袋小路だ!」
「じっくり追いつめろ!」



 ――窓の無い廊下。ドアも無い。通路と壁と天井があるのみ。
 そこを猛烈なスピードで駆ける男。
「……ハアッ……ハアッ……ハアッ……」
 荒い息遣い。派手な足音。
 男は身体にピッタリとフィットした黒い服を着て、右手には拳銃を持っている。
 一九〇センチ以上の長身。引き締まった体躯。精悍な顔。異様に鋭い眼光。
 男は裏の世界に住む人間。血生臭い世界を生き抜いてきた歴戦の猛獣。
 数々の危険な依頼を見事にやり遂げてきた彼は、今回の依頼も途中まで順調に遂行していた。
 だが――
(――畜生!最後の最後で、どじっちまった!)
 猛獣は心の中で自分に毒づく。ギリギリと歯をくいしばる。
(とにかく、この屋敷から脱出しなければ!)
 しくじった猛獣は、今や追われる身となっていた。そして、敵に捕まることは即ち彼の“死”を意味している。
(絶対に、逃げ延びてやる!そして――)
 猛獣は、“ある決意”を胸に秘め、自らの脚を叱咤した。



 ――猛獣が走り去った後。
 いつの間にか現れた人影が一つ。猛獣の進行方向をしばし見据える。そして、一つ頷いた。



 ――数十秒後。なおも走り続けている猛獣。
 乱れた息。乱れた足音。
 窓もドアも無いこの廊下が、彼には果てしなく長く感じられる。
(出口は何処だ!?出口は無いのか!?)
 それらしいものは見当たらない。ただ、壁に挟まれた通路が続くのみだ。
 時を追うごとに猛獣の焦燥は増大していく。

 しばらく走っていると、ようやく廊下の突き当たりに辿り着く。猛獣は、その角を右に曲がる。
(――!!)
 相変わらず窓は無い。だが、ドアがあった。無数の木製のドアが通路を挟む双壁に並んでいる。何かの部屋だ。
 そして、その廊下の三〇メートル前方は――
(――くそっ!行き止まりだ!)
 進路が途絶えてしまっている。彼は袋小路に追いつめられていた。
(どうする!?引き返すか、それとも……)
 猛獣は足を止め、自問する。だが、選択肢は一つしか無かった。
『そっちだ!そっちにいるはずだ!』
『慌てるな!他に逃げ道は無い!』
『慎重に行け!』
(――!!――)
 大勢の声。大勢の足音。敵は近くまで来ている。もう引き返せない。拳銃を握る彼の右手に力が入る。
 だが、弾は三発しか残っていない。この状態で大勢の敵と正面から向き合うことは自殺行為だ。
(頼むぞ!!)
 敵の視界に捉えられる直前、猛獣は首を一つ縦に振ってから、最後の賭けに出た。

 ――バンッ――
 と、猛獣は手近にあったドアを勢い良く開け、その先の闇に転がり込む。
 続いて、流れるような動作で姿勢を修正し、両手で拳銃を構え、暗闇の部屋を確認する。
(……人の気配は無い……誰もいないな)
 確認が済むと、猛獣は部屋のドアを閉め鍵を掛け、照明をつけた。
 すると、そこは使用人の私室……女の部屋だった。どうやら、この一角はメイドの居住エリアらしい。
(そんなことは、どうでも良い!)
 猛獣は窓に駆け寄る。勿論、そこから外に出るためだ。ここは二階だが、猛獣が脱出するには問題の無い高さだ。しかし――
(畜生!駄目だ!)
 窓には頑丈な鉄格子が、はめ込まれていた。おそらく、他の部屋も同様だろう。
 彼の退路は完全に断たれてしまった。猛獣は最後の賭けに敗れたのだ。
(なんてこった……)
 猛獣は落胆の溜息を吐き、恨めしそうに窓を見つめる。
 だが、こうしている間にも敵が迫ってくる。彼は再度の選択を迫られる。
(この部屋の何処かに身を潜めて敵をやり過ごす、もしくは反撃の機会を窺うか?それとも、別の部屋に入ってメイドを人質に取るか?)
 猛獣の冷静な頭脳は、当然、前者を選択した。冷徹な連中に対して、メイド程度の人質は殆ど無意味に等しいからだ。
 隠れる場所を探し、部屋を見回す猛獣。
 まず、目についたのはベッドの下だ。だが、
(くっ、狭い!)
 ベッドの下のスペースには、屈強な体格の男が入れる程の余裕が無かった。
 続いて視界に入ったのは、重厚そうなクローゼット。かなり大き目のものだ。これなら、体格の大きい猛獣でも隠れることができる。
 猛獣は、それに近づき取っ手に両手を掛け、それを力まかせにガチャリと引く。ギィと軋むような音を立てて扉が開いた。その直後――

『しーっ!』

(うわっ!!)
 猛獣は危うく大声を上げそうになる。
 そこには、彼の予想もしない物があった。……いや、人物がいた。
 その人物は小学生程度の少女。それが上から吊られたメイドの制服や私服その他の中に埋もれるようにしてクローゼット内に一人で座っている。
(な、何でこんなところに少女が!?)
 猛獣は小さな少女の突然の出現に肝を冷やす。だが、何故か当の少女は不審な大男の出現に全く驚いていない。騒ぐ気配も無い。
 それどころか、少女は口に右手人差し指をあて、猛獣に向かって静寂を促すサインを送ってきている。
 予想外の場所から予想外の人物、予想外の反応、予想外の行動。
 冷静な猛獣も、さすがにこの時ばかりは混乱した。少女の持つ“裏の世界とは縁遠い容姿”も手伝って、彼は自分が別の次元へ来てしまったのではないかと錯覚した。
『早く、おにーちゃんもここに隠れて』
 少女は囁くような声で、何故か猛獣を促す。
「――え?あ、ああ……」
 驚愕のあまり呆然としていた猛獣は、少女に言われるがまま、彼女と一緒にクローゼットの中に収まってしまう。



 重厚な扉が閉められ、クローゼットの中は完全な暗闇。眼は役に立たない。
 吊り下げられた女物の衣類の中に、縮こまる大きな男と小さな少女。
 猛獣は混乱した頭を必死に整理しようとする。だが、何もまとまらない。考えれば考えるほど混乱は大きくなる。
 これまで裏の世界で様々な事態に完璧に対処してきた彼でも、この様な珍妙な事態に遭遇した経験は皆無だ。
 状況についていけない猛獣に、隣りの少女が囁くような声で話し掛けてくる。
『おにーちゃん』
『……ああ……』
『困っていることがあるんでしょ?』
『……ああ……』
『あたしに話して。力になってあげるから』
『……ああ……』
『何に困っているの?』
『……ああ……』
『……ちゃんと聞いてる?』
『……ああ……』
『日本のダイトーリョーは?』
『……ああ……』
 猛獣は生返事。まともに応答することができない。
 それを受けて、少女の声が少しきつくなる。
『ちょっと!ちゃんと聞いてよ!』
『……あ、ああ、何だい?』
 ようやく猛獣は少女の言葉に反応した。いや、反応できた。
『困っているんでしょ?』
『ああ、とても困っているよ』
 猛獣の言葉を確認すると、少女は闇の中で何やらゴソゴソと動く。そして、猛獣に何かを差し出してくる。
『――はい、これ』
 猛獣は手探りでそれを受け取る。目で確認することはできないが、どうやらそれは小さな紙切れのようだ。だが、彼にはそれが何を意味するものであるのかは分からない。
『……お嬢ちゃん、これは?』
『名刺よ』
『名刺!?』
『そう。セールスレディの必需品よ。一応ここに“ココロとカラダの悩み、お受け致します”って書いてあるの。――そうそう、あたしの名前は“華代”よ。よろしくね』
 少女は得意げに暗中の紙切れを解説した。
 一方、猛獣は再び混乱を強める。子供から名刺を渡されるような経験は当然、初めてだ。
 クローゼットを開けてから、初めての事例に遭遇し続けている彼は、完全に事態への対処法を見失っていた。先程などは自分自身すら見失いかけていた。
 これは、彼にとって非情に危険な状態だ。平常心を失うことは彼の世界では“死”に繋がるからだ。
(早く現状を打開しなくては……ここを敵が見つけたら一巻の終わりだ。俺は、まだ死ぬわけにはいかないんだ!)
 混乱した頭の中で必死に打開策を探す猛獣。“ある決意”だけが彼に残された僅かな冷静さを支えていた。
『また、上の空になってる!』
 少女から声を掛けられる。だが、猛獣の方は少女を相手にしている場合ではない。
 彼は、それを声に出す――
(うるさい!こっちはガキの相手をしている余裕は無いんだ!気が散るから黙ってろ!)
 ――のを、すんでのところで思い止まった。
 直前に、幾多の危機を乗り越えてきた彼の歴戦の頭脳が、素晴らしい推理と作戦を導き出していたのだ。



(そうか!分かった!分かったぞ!このガキが何者なのかが!コイツを上手く利用してやれば脱出も可能だ!まだ、運は俺の味方だ!)



 すぐさま冷徹な猛獣は作戦を実行に移す。

 第一段階――暗闇の中にいる相手の会話に合わせ、相手と懇意になる。

『なあ、お嬢ちゃん』
『“華代”よ』
『……ああ、華代ちゃん。おにーちゃんは今、とっても困っているんだ』
『さっきから、それを聞いてるんですけど……。私に相談して』
 暗闇の中で、少女は冷徹な猛獣に耳を近づけていく。
(よし、順調だ)

 第二段階――相手の同情を買い、いざという時の保険を備えておく。

『おにーちゃんには華代ちゃんと同じぐらいの妹がいるんだ』
『ふーん。そうなんだ』
『その妹はとっても重い病気で苦しんでいるんだ』
 冷徹な猛獣は遠い目をする。暗闇の中で。
『かわいそう。治らないの?』
『いや、方法が一つだけある――』
 猛獣は小さく溜息を吐く。そして少女の方を向き、話を続ける。
『――免許を持っていない有名なお医者さんに手術をしてもらえば、助かるかもしれないんだ』
『そうなんだ。よかった』
 少女の声は、彼女の心からの安堵を表している。ここからが猛獣の腕の見せどころだ。
『だが、それにはお金が要る』
『お金?』
『そうさ、お金。英語で言えば“マネー”さ。イギリス英語で言うところの“ポンド”……』
『違うよ。“ポンド”はお金の単位でしょ。イギリス英語でもお金は“マネー”よ』
 少女が目ざとく指摘してくる。だが、間違いを幼い少女に正された猛獣は何故か、ほくそえむ。
(やはり、俺の睨んだ通りだ)
『ごめん、ごめん。華代ちゃんは頭が良いんだね。感心しちゃうな』
『えへへ、それほどでも』
 照れる少女。猛獣は大袈裟に彼女を誉め、彼女の前で作り笑いを浮かべる。暗闇の中なのに、だ。これも冷徹な作戦の内。抜かりは許されない。
 そして、猛獣は話を本筋に戻す。
『――とにかく、お金が必要なんだ。それも、とてつもなく沢山のお金だ。そのお金を貯めるために、おにーちゃんは、とてもとても危ない仕事をしてきたんだ』
『どんな、お仕事?』
『それは言えないな。お客さんの秘密は守らなくてはいけないからね。華代ちゃんもセールスレディをしているなら分かるだろ?』
『……え、あ……うん』
 何故か、少女は戸惑う様子を見せる。それを見て……正確には“聞いて”……猛獣は(いくら彼女でも“守秘義務”までは知らなかったようだな)と判断した。
 猛獣は少女の動揺には構わず、話を続ける。
『――だが、その危ない仕事も今日で終わる。いや、終わるはずだ』
 冷徹な猛獣は感慨深そうな顔をする。ちなみに、これは演技などではない。彼が少女にしている“妹の話”は全て真実だ。
『この屋敷で手に入れた情報を、依頼人……お客さんに渡せば、多額の報酬……沢山のお金がもらえる。そうすれば、妹に手術を受けさせることができるようになるんだ――』
(――そして、妹が助かれば裏の世界とも“おさらば”だ。その後は足を洗い、唯一の肉親である妹と二人っきりで静かに暮らしていくつもりだ)
 これが猛獣の“決意”だった。
 猛獣は将来に待つささやかな幸福に想いを馳せる。そして、愛しい妹の笑顔を思い浮かべ、目に熱いものが込み上げてくるのを自覚する。
 だが、彼はすぐに冷徹な眼差しに戻る。この屋敷からの脱出に失敗したら、彼の苦労が全て水の泡になるからだ。……いや、それだけではない。彼が死ぬと、病弱な妹の世話をする人間がいなくなってしまう。

 第三段階――相手の同意を得つつ、作戦の実行に着手する。

『――ただ、少し、まずいことになってしまったんだ』
『まずいこと……困ったことっていう意味ね?』
『ああ、そうさ。悪いヤツらに追われてしまってね。そいつらに見つかると、おにーちゃんは酷い目にあわされた上に殺されてしまうんだよ』
 冷徹な猛獣は若干大袈裟に怯える演技をする。暗闇の中で。
『大変じゃない!早く逃げなきゃ!』
 少女は慌てたようだ。声を高くしている。
 彼女の反応を見て、猛獣は再び、ほくそえむ。
(あと一息だ!)
『そこで、“セールスレディの華代ちゃん”に“お願い”があるんだけど。――良いかな?』
 猛獣は彼女の自称と思われる部分を強調する。これも冷徹な作戦の内だ。冷徹な猛獣は、純粋な少女の善意な反応を待つ。
『分かったわ。あたしがおにーちゃんが逃げられるように助けてあげる』
(掛かった!)
 猛獣は、暗闇の中で冷たい笑みを浮かべた。



 ここで、猛獣の推理と作戦について説明しておかなければならない。
 彼は部屋で起こった一連の奇妙な出来事から、この少女の素性について一つの結論に達していた。
 推理の鍵は――
 住人のいないメイドの部屋。
 メイドの代わりに部屋にいる少女。
 その少女がクローゼットの中に潜んでいたこと。
 そして、そもそも、この物騒な屋敷に少女がいること。
 ――この四つだ。

 この四つの状況と照合して矛盾の出ない少女の素性……それは即ち、



 ――屋敷の主人(つまり敵のボス)の娘――



 早い話、この少女はメイドの一人と“かくれんぼ”をしていたのだ。勿論、そのメイドが、この部屋の住人だ。
 かくれんぼの際に、少女はメイドの裏をかいてクローゼットの中に隠れた。そして、メイドは少女が近くに隠れていることを知らずに、部屋の外を探しに行ってしまった。
 間抜けなメイド。まさに“灯台下暗し”だ。
 そして、メイドと“かくれんぼ”をするような子供は、屋敷の主人の血縁に間違い無い。これは王道だ。お約束だ。
 さらにつけ加えておくと、裏の世界と大きな関係があるこの屋敷で、家族で暮らしているのは主人一家だけだ。それ以外の子供が屋敷内にいる可能性は極めて低い。
 先程も、さりげなく少女に探りを入れておいた。彼女の前で、わざと“お金”と“通貨単位”を混同して言ったのだ。そこへ彼女は見事に食いついてきた。
 このぐらいの幼い年齢の日本人で、アメリカ英語とイギリス英語の区別ができ、なおかつ、お金と通貨単位の判別がつく子供はあまりいない。おそらく帰国子女か特殊な教育を受けている子供に限定されるだろう。ボスの娘と思われるこの少女は間違いなく後者だ。

 そして、冷徹な猛獣が企てた『ボスの娘を利用する』作戦とは――



 ――ボスの娘・人質作戦――



 単に屋敷にいる人間を人質に取ったのでは、冷酷な追手には通用しない。メイド程度では人質の用を為さないのだ。
 だが、ボスの娘なら話は別だ。彼女を人質にすれば、敵も迂闊に手を出せなくなるはず。そうなれば、屋敷からの脱出も容易になる。
 そして、屋敷から出てしまえば、如何ようにも逃げることができる。猛獣の勝利だ。
 あとは、折を見て、不用になった少女を解放する。
 作戦の工程は、少女と懇意になる第一段階に始まって、屋敷を無事に脱出する第三七段階、折を見て少女を解放する第四六段階を経て、自分が無事に帰宅する第五九段階、拳銃の手入れに余念が無い第六五〜七七段階、翌朝に得意のコーヒーを煎れる第八一〜九五段階、馴染みの花屋で赤いバラの花束を購入する第一一三段階、花屋の女性店員と親しげに会話する第一一七段階、病院で看護婦と世間話をする第一二三段階、病室で愛しい妹を見舞う第一二七段階、そして、差し出したバラの花束に妹が感激し涙する感動の第一二八段階、で終了することになっている。



 そして、現在の工程は――

 第四段階――少女を“協力的な”人質にする。

 このために、冷徹な猛獣は少女の“訳の分からない会話”に合わせ、彼女の同情を買う発言をしてきたのだ。
『それじゃあ、是非とも“頼む”よ。華代ちゃん――』
(――大人しく人質になってくれ)
 冷徹な猛獣は少女を拘束するために、狭い暗闇の中で彼女の方へと手を伸ばす。
 一瞬、自分の妹と同じ年頃の少女を半ば騙していることに罪悪感を覚えて、彼は躊躇う。
 だが、余計な考えを振り払うように首を横に振り、
(これも妹のためだ。華代ちゃん、悪く思わないでくれよ)
 と再び行動を開始する。
 そして、小さい少女の身体に、猛獣の大きな手が触れそうになった。その時、
『はい。おにーちゃん、眼を閉じて』
 少女が不意に声を発し、彼の手をすり抜けるように身体を移動させた。彼の手は虚しく空を切る。
(――!!――)
 猛獣は狭く暗いクローゼットの中で少女を見失い(?)慌てる。焦って、上から吊られた衣類をかき分け、少女の所在を確認しようとする。
『お、おい、華代ちゃん。何処にいるんだ?』
『いいから、眼を閉じて。あと、じっとしててね』
『あ、ああ、分かっ……いや、違う……俺に協力……助けてくれるんじゃないのかい?』
『そうよ。だから、あたしの言う通りにしてね』
 これは予想外の展開だ。猛獣の冷徹な計算では、言う通りにするのは彼自身ではなく、人質になる少女の方だったはずだ。これでは立場が逆だ。
 猛獣は困惑した。彼には少女の意図が全く分からない。そもそも、何も見えない暗闇で眼を瞑ることに、一体どのような意味があるというのだ?
 猛獣は再び冷静さを失ってしまった。このままでは、彼が立てた一二八工程の作戦が全て水泡に帰してしまう。
 そして、焦燥した猛獣は暗闇の中で闇雲に手を動かし、強引に少女を捕らえようとする。クローゼットの中を隅から隅まで探る。だが、手に触れるのはクローゼット内に吊られた衣類ばかりだ。肝心の少女を掴むことができない。
 少女の気配は間違いなく感じる。だが、歴戦の猛獣は彼女に触れることができない。
 逆に、少女の声だけが彼の耳に触れてくる。
『もう!おにーちゃんたら“あわてんぼさん”なんだから!――良いわよ。このまま、やっちゃうから――』
 少女のその台詞をきっかけに、猛獣の身体に異変が起こった。狭い暗闇の中で。
(うわっ!?)
 猛獣の全身を奇妙な感覚が襲ったのだ。
 最初に頭部がむずがゆくなった。そして、上からサラサラとした至極細い、そして長い糸のような物が無数に流れ落ちてきて、猛獣の顔や肩に掛かる。
(な、何だ?変な服が上から落ちてきた!)
 闇の中で驚いた猛獣は、慌ててそれを払い除けようとする。だが、その糸の束は彼から離れない。払っても払っても、サラサラという微妙な音を立てて彼の顔や肩にまとわりついてくる。まるで、彼の頭と一体になっているようだ。
(ど、どうなっていやがるんだ!?――)
 暗闇で自分の状態を確認できない彼は動揺する。いや、まともに動揺する暇も無く、次の異変が彼を襲う。
(――うっ、苦しい!)
 突然、胸が何かに圧迫されるような感覚に襲われる。そして、その圧迫は時を追うごとに増大していく。
 少し間を置いて、猛獣は圧迫感の原因に気がつく。もともと、彼は身体にピッタリとフィットした動きやすい服を着ていたが、現在は胸の部分だけが異常に窮屈になっていたのだ。
 彼は息苦しさを感じ、胸に手をやる。
(なな、な、何だこれは?“むにゅ”って……え?ええ!?)
 手が受け取ったのは異常に柔らかい刺激。胸が受け取ったのは歴戦の猛獣でも、今までに一度も経験したことがない奇妙な刺激。
 猛獣は、もう一度その刺激を確認しようとする。だが、何故か、それをすることが躊躇われた。その刺激が恐ろしくなったのだ。特に胸が受け取った刺激には、彼を奈落の底に突き落とすような威力があった。冷酷な世界を生き抜いてきた猛獣ですら戦慄してしまう恐怖の刺激。それは……。
 だが、戦慄している暇はない。その間にも異変は続く。
(……!?……!?)
 今度は全身だ。急に服全体の締めつけが弱くなり、妙な開放感が全身に訪れる。彼の身体にピッタリと張りついていたはずの服は緩々になってしまった。丈も全く合っていない。
 猛獣は大人の服を着ている小学生のような感覚を味わう。
(…………?)
 混乱のあまり、暗闇の中で呆然とする猛獣。呆然とするあまり、自分が混乱していることすら忘れてしまった哀れな猛獣。その彼の耳に闇の中から少女の声が届く。
『うんうん。上出来、上出来……っと、あとは服ね。えーと……確か、この屋敷の場合は――』
 その直後、新たな異変が猛獣を襲った。全身に、何かでくすぐられるような感覚が訪れる。
(……ひ!?……)
 犯人は猛獣自身の着ていた服だ。それが突然、あるところは身体に程よくフィットし、あるところは身体をきつく締めつけ、あるところは軽く締めつけ、あるところは緩いままであったり、あるところはさらに緩くなったりして、暗闇の中にいる猛獣の身体に多種多様な刺激を加えてくる。
 猛獣は、その刺激に耐え兼ねて思わず声を上げて――
 ――しまう前に、別の声が猛獣の耳に飛び込んできた。
「……ん、ああっ!」
(……!!……)
 彼は慌てて口をつぐむ。息を潜める。
 ――聞こえたのは女の声だ。
(まさか、メイドが部屋に戻ってきたのか?)
 猛獣の緊張が高まる。鼓動が早くなる。
 彼はクローゼットの外の部屋に意識を集中する。暗闇の中で眼光を鋭くする。だが、部屋に誰かがいる気配はない。
(それじゃあ、声の犯人はガキか?くそっ、騒がれると厄介だ!)
 野獣はクローゼット内にいるはずの少女に沈黙を促そうとする。
 だが、その前に――
『よし、今日も完璧。バッチリよ、おにーちゃん。あとは自分で上手くやってね』
 その言葉を最後に、少女の存在がクローゼット内……いや、この部屋から完全に消えてしまう。
(――え?え?気配が……?そんな馬鹿な?)
 動転した野獣は少女の名を呼ぼうとする。だが、思わぬ邪魔が入った。

 ――ガチャリ……バタンッ――
(……!!……)
 木製のドアの鍵を乱暴に開け、殺気と共に数人の人間がメイドの部屋に入ってくる。
 敵の襲来を察知した野獣は、クローゼットの中で息を殺し、外の気配を窺う。
「ヤツはいたか?」
「……いや、誰もいないみたいだぜ?」
「気をつけろ!隠れているかもしれん!」
「そうだ。油断するな」
「ところで、この部屋の人間は何処に行ったんだ?」
「……確か、翌朝づけで配属される新しい住込みのメイドが、今日から入っているはずだ」
「だから、その新入りは何処に行ったんだよ!?この夜中に!怪しすぎるじゃねーか!」
「お前は相変わらず鈍いな。『新入りのメイド』と言ったら“御曹司”だろ」
「……ああ、そうだったな。――ということは、今ごろは“お楽しみ”ってわけか」
「そういうことだ」
「けっ、この非常事態に、大層な御身分だぜ。“坊ちゃん”はよぉ」
「さあ、無駄口を叩いている暇は無い。この部屋も調べるぞ」
 声の主達は部屋の中を捜索し始める。
 一方、クローゼットの中で敵の会話を聞き、気配を探っていた猛獣は
(この部屋にいる敵は三人。いずれも男――かなりの手練れだ。しかも、バランスの取れたチーム構成をしている。俺一人で正面から挑んだら、まず勝てない)
 と冷静に相手の力量を判断した。

 退路を断たれ、人質には逃げられてしまった。
 そして、猛獣自身が敵に見つかるのは時間の問題だ。
 少女が敵に“ここ”を教えてしまう可能性もある。
(タイミングを見計らって、こちらから打って出るしかない)
 敵は三人。残された銃弾も三発。遊び弾は許されない。
 冷徹な猛獣の拳銃を握る手に自然と力が――
(あ?あれ?銃は?……俺の拳銃は何処だ?)
 ――入れられなかった。いつの間にか、彼の手元から拳銃が消えていたのだ。
(しまった!動転している間に手から離してしまったんだ!)
 これは歴戦の猛獣には、あるまじき行為だ。
 彼は慌てて、暗いクローゼット内を必死で探す。敵に見つかる恐れがあることを忘れて、ゴソゴソと物音を立てて探し回る。
 これも歴戦の猛獣には、あるまじき行為だ。
 ちなみに、サラサラとした無数の細い糸は、今も彼の顔と肩にまとわりついている。猛獣は、“それ”と吊られた衣類を払い除けながら拳銃を探し続ける。だが、一向に見つからない。猛獣は慌てる。慌てまくる。
(そうだ。もしかしたら、無意識の内にホルスターに納めたのかも)
 そう思いついた猛獣は、暗闇の中で彼の腰にあるはずのホルスターに手を伸ばす。だが、その手がホルスターに触れることは無かった。
(なっ!?ホルスターも無くなってる!?)
 動転した猛獣は(身体の何処かにホルスターが引っ掛かっているのでは)と、意味不明の期待を持って、全身を手でベタベタと叩いて確認する。勿論、ホルスターも見つからなければ、拳銃も見つからない。
 だが、何も見つからなかったわけではない。
(!!な、何だ!?どうなっているんだ?俺の服は!?ふ、服が変わっている!?)
 猛獣は自分が身につけている服の異常を見つけた。いつの間にか猛獣はスカートを穿いていた。いや、スカートだけではない。歴戦の猛獣は、あろうことか全身に女物の衣類をまとっていたのだ。
(お、俺は一体?)
 服が異常なのか、自分の頭が異常なのか、判断つきかねた猛獣は暗闇の中で顔面蒼白になる。
 そこへ、
 ――ガチャリ――
 とクローゼットのドアが不意に開けられ、強烈な光が差し込んでくる。
 漆黒の世界に長時間いた猛獣は、目が眩んでしまった。
(しまった!!見つかっちまった!!)
 万事休す!絶体絶命!一巻の終わり!
 丸腰の猛獣は殺されるのを、ただ待つしかない。
(さらば妹よ。お前を残して死ぬ、妹不幸な兄を許しておくれ――)
 猛獣は眼を瞑ったまま、潔く覚悟を決めた。だが、覚悟を決めたくせに、恐怖で身体を縮こまらせている。
「何をしている?」
 敵の一人が怯える猛獣に話し掛けてきた。
 それに対し、猛獣は眼を瞑ったまま
(何してるって?見れば分かるだろ!隠れてたんだよ!それで、お前達に見つかっちまったんだよ!分かりきったこと聞くんじゃねぇ!このボケナス!……それから、この女装は俺の意志とは無関係だからな!勘違いするなよ!このスットコドッコイ!)
 と心の中で毒づく。本当は恐怖のあまり声が出ないだけなのだが。
「……まあ良い。そこから早く出ろ」
(『出ろ』だと?ふざけるな!殺すなら、今すぐ殺せ!勿体つけるんじゃねぇ!覚悟が鈍っちまうじゃねぇか!)
 猛獣は眼を瞑ったまま、心の中だけで叫ぶ。敵の「出ろ」という要求には絶対に応じない。何故なら、いつの間にかスカートを穿いている自分が、少し恥ずかしいから。何より、自分の女装を人前に晒したくないから。
「……怯えきっているな。ふん、よほど恐かったのだろう」
(畜生!悔しいけど俺は怯えてるよ!本当に恐いよ!ぶっちゃけた話、死にたくないよ!)
 恐怖で眼を瞑ったまま、遂に涙を流してしまう猛獣。ガタガタと震えてしまっている。女装した上に、涙を流し震えている猛獣……彼の裏の世界での経歴は、最後の最後で台無しだ。
「おいおい、泣くな。こんな経験は初めてか?これからも似たようなことが“ちょくちょく”あるかもしれないから、覚悟しておかないと駄目だぞ」
(ああ!初めてだよ!死ぬのはな!もう二度と御免だ!『これからも“ちょくちょく”ある』なんて恐ろしいこと言わないでくれ……え?『これからも』?)
 猛獣は違和感を覚えた。敵の言葉と彼の心の叫びが微妙にずれているのだ。
 それだけではない。敵の殺気も消えている。
(ど、どういうことだ?)
 それを確認するべく、猛獣は瞑っていた眼を開ける。泣き腫らした眼を、おずおずと開ける。すると目の前には
「ほら、俺の手を掴め」
 と猛獣にぶっきらぼうに手を差し伸べる黒いスーツ姿の敵がいた。
(――ひいっ、やっぱり殺される!)
 猛獣は再び恐怖で身を固くする。
「怖がるなよ。……しょうがないな」
 敵は猛獣の手を掴むと、半ば強引に彼をクローゼットから引っ張り起こした。
(――あっ!――)
 猛獣は敵の物凄い腕力に殆ど抵抗することができず、敵の為すがままヨロヨロと立ち上がった。そして、猛獣は敵の力強さと自分の非力さに動揺する。
 この時、彼は“歴戦の猛獣”から“非力な猛獣”に格下げとなった。
(え?……何だか全身に力が入らないような……。どうしちまったんだ、俺の身体は?)
 そう考えて、猛獣は自分の手を確認する。すると、
(な、何だ?この小さい手は?細い指は?)
 そこにあったのは猛獣の見慣れた手ではなかった。彼本来のゴツゴツとした大きな手の代わりに、色白の小さく繊細な手が存在していたのだ。
 彼は“繊細で非力な猛獣”になっていた。
「どうした?手などを見て?」
 動転している猛獣に、敵が心配そうに声を掛けてくる。猛獣は慌てて手から眼を離し、敵の方を向く。すると、
(げっ!!でかい!コイツら、なんてデカイ図体してやがる!!)
 猛獣は、改めて見た敵に驚愕する。敵は三人とも猛獣よりも頭一つ分以上、背丈が高かった。猛獣の身長は一九〇センチ以上あったはずだから、彼らは二メートルを悠に超える長身の持ち主ということになる。
 猛獣は自分より遥かに巨大な存在を前にして、恐怖のあまり後ずさりをする。
 だが、力の入らない状態である上に、慣れないスカートを穿いて、微妙に踵の高い靴を履いている猛獣は、つまずいて後方にバランスを崩してしまう。
「きゃあっ!!――!?」
 驚きの声を上げた猛獣は、自分の発した声を聞いて更に驚く。異常に高い声だったからだ。
(この声は、さっきクローゼットの中で一度だけ聞いた声!?その声が俺の喉から出たということは……まさか!?そんな!?)
 驚きに次ぐ驚きで頭が真っ白になった“高い声色で繊細で非力な猛獣”は、そのまま後方に倒れかける。
「危ない!!」
 目の前の敵が、すかさず猛獣を支え、軽々と抱きかかえる。
(――えっ!?――)
 猛獣は敵の胸に、すっぽりと収まってしまう。
 いつもの猛獣なら、すぐに敵の束縛から逃れようとするはずだが、今の彼は数々の異常事態との遭遇で、抵抗する気力をすっかり失っていた。
 萎えた猛獣――それは猛獣とは呼べない。これからは、彼のことを単なる“獣”と呼ぶことにする。
「大丈夫かい?」
 敵は今度は優しく獣に話し掛けてくる。
 獣は敵の胸の中で、恐る恐る声を出す。
「……え……は、はい」
 やはり、高い声……そして、澄んだ声だ。獣の耳に入ってきた彼自身の声は、間違いなく女の声だった。
 自分の声に戸惑っている獣に敵は、なだめるように話し掛ける。
「銃声やら大声やらが飛び交っていたからな。初日からいきなり物騒な音を聞かされて、お前は恐くなってクローゼットに隠れていたんだろ?そこへ、身長一八〇センチ以上の物騒な大男が三人も飛び込んできたんだから、怯えない方がおかしい。驚かせて悪かったな」
「…………」
(……へ?馬鹿な!コイツらの身長が一八〇センチだって!?それじゃあ、コイツらより頭一つ身長が低い俺の立場は……身長一九〇センチ以上の俺の立場は一体どうなるんだ!?)
 これは一九〇センチ男のアイデンティティの崩壊の危機だ。獣は必死で思考を巡らす。
(――ま、まさか。俺が小さくなったのか?……そう言えば部屋全体が最初に見た時よりも広くなっているような……って、そんな馬鹿な!!有り得ない!!)
 この部屋に入ってから、その「有り得ない」ことばかりを経験してきたくせに、未だに「有り得ない」という言葉を信奉している獣。変なところで信心深い獣だ。
 獣は敵の胸の中で必死に「有り得ない」という題目を念じ続ける。必死になるあまり、あろうことか彼は敵の胸にすがりついてしまう。
 この時点で彼の呼び名は“小動物”となった。
「ヒュー、ヒュー。やるねぇ。この、色男が」
「あついよ、お二人さん」
 他の敵が小動物を抱きかかえた敵と抱かれている小動物を冷やかしてきた。冷やかされた敵は、小動物を抱いたまま抗弁する。
「よせ!二人とも!別に俺はそんなつもりじゃ……」
「へへっ、顔が赤くなってるぜ」
「その“女”に惚れたんだろ。顔に書いてあるぞ」
「お前達、いい加減にしないと怒るぞ!」
 そんな敵の会話を敵の胸の中で聞きながら、小動物は一つの結論に達していた。推理の鍵は……(以下略)。

 そして、小動物は部屋に備えつけられている大きな鏡を見て、自分の結論の正しさを痛感した。
 鏡の中には、黒いスーツを着た男に軽々と抱きかかえられた一人の女――サラサラとした美しく長い黒髪、色白で綺麗な肌、丸みを帯びた華奢な体躯、胸部に柔らかそうな二つの膨らみ、一五〇センチと少しの身長、そして、この屋敷のメイド用の制服と思われる黒い服にフリルの付いた白いエプロン姿、の若い娘――が、若干の幼さが残る整った美しい顔で、泣き腫らした眼で、おずおずと“猛獣であった女”を見つめ返す姿があったのだ。

「――そうだ、こうしてはいられない」
 猛獣から小動物になった女を抱えていた男は、思い出したように言うと、彼女をベッドの上に優しく降ろし、座らせる。そして、
「もう、落ち着いただろう?」
 と確認してくる。彼は最初のぶっきらぼうな口調に戻っている。
 自分に起こった変化に呆然としている女は、
「……はい」
 と無意識に弱々しく高い声で頷く。男はそれを聞くと
「よし、もう俺達は行くから、お前は戸締まりをして休め。物騒なことがあった翌日でも、メイドの仕事は平常通り早朝から行われるからな。無理やりにでも、寝ておいた方が良い」
 と素っ気無く言って踵を返す。そして、
「他の部屋を探しに行くぞ!」
 と他の二人を促した。だが、
「おいおい、折角、良い雰囲気だったんだから、このまま一晩ぐらい、このメイドと一緒に過ごせばいいのによぉ」
「そうだ。あとのことは俺達二人に任せろ。“マウス”の一匹ぐらい、お前がいなくても俺達と他のメンバーで充分対処できるぜ」
 残りの二人は変に気を遣う。仲間想いの腕自慢らしい。
 一方、猛獣だった女は、自分が“マウス”と形容されていることを知り、怒って頬を膨らませようとする。だが、彼女は『その膨れっ面が可愛かったらどうしよう』と余計な心配をして、すんでのところで思い止まってしまう。残念。
 ちなみに、敵がつけた“マウス”という表現は、猛獣だった女の現在の小動物っぷりに、なかなか当てはまっている。これが“ハムスター”なら完璧だったろう。惜しい。“トラップド・ハムスター”。敵は、そんなことを知る由もないが……。
 もう一方、仲間からの気遣いを受けた男は、急に険しい顔になる。そして、
「駄目だ!まず、任務が最優先だ!それを外れてメイドごときの面倒を見るわけにはいかん。そして、屋敷内で裏の任務を遂行する俺達は、必要以上に“表の人間”と関わってはならない。冷徹な掟を忘れたとは言わせないぞ!」
 と厳しい口調で言う。律義な男だ。裏の社会に置いておくには勿体無い。
「けっ、無理しちゃって……頭が堅いんだから、旦那は」
「せいぜい、後で悔やんでくれよ『可愛いメイドを“御曹司”に取られた』ってな」
「無駄口を叩くな!!」
「へいへい」
「はいはい」
 そして、三人はメイドの部屋を出て行こうとする。
 猛獣から小動物になった女は、不意に“ある些細な疑問”を持ち、慌ててそれを男達に投げ掛ける。未だ慣れない自分の高く澄んだ声に違和感を感じながら。
「あ、あの……」
「何だ?」
「ここの主人に、小さな娘さんはいらっしゃるんですか?」
「……いや、いない。いるのは二五歳の“御曹司”だけだ」
(ということは、“あの少女”に関する俺の推理は外れていたことになるな……)
 裏の社会を生き抜いてきた自分の冷徹な頭脳の陰りに、すっかり落胆し肩を落とす現女。そして、落胆のあまり、もっと別なことに落胆しなければならないことをすっかり忘れている元男。
 自分が“男だった”ということよりも“裏の世界の住人だった”ということの方が、今の彼女には重要らしい。さすがは“歴戦の猛獣”であった小動物。“腐っても鯛”ならぬ“可愛くなっても猛獣”だ。
(そろそろ、俺も裏の世界から引退だな……)
 始めから、そのつもりだったくせに……。
 猛獣から小動物になった女は最後の意地とばかりに、背中で哀愁を表現しようとする。“背中で哀愁”は裏の社会では一流の証だ。だが、その小さく可愛い背中では、土台無理な相談であった。“哀れ”。
 そんな哀れな彼女に男達の二人が
「可愛いお嬢さん、“御曹司”は手が早いから用心しなきゃいけないぜ。今日は無事だったみたいだけどよ」
「まあ、手を出されて『嬉しい』って言うメイドは結構多いがな。けけ」
 と忠告(?)する。それを最後に三人は部屋を出ていった。
 言うまでもないが、三人の男達は終いまで彼女のことを“単なる新入りのメイド”としか見ていなかった。彼らが“小動物な彼女”のことを“元歴戦の猛獣”として見てくれるはずもなかった。これからも、それは変わらないだろう。彼女は“そのこと”を少し寂しく感じた。
(さらば裏の世界よ――)
 切なさで再び涙が溢れそうになる。だが、彼女は“その泣きっ面が可愛かったらどうしよう”と余計な心配をして、すんでのところで思い止まってしまう。ケチ。



 ――男達が出ていった、しばらく後。
 一人になった女は、おもむろにベッドから立ち上がる。
 頼りない足取りでドアの側へ行き、力の無い繊細な指で鍵を掛ける。
 続いて、サラサラと顔に掛かる長い黒髪を一度、小さく華奢な右手で不慣れに払う。
 そして、泣き腫らした眼で、広くなった――正確には相対的に天井が高くなった――メイドの部屋を見渡す。
 すっかり華奢に変わり果てた自身の身体も見渡す。
 最後に一つ溜息を吐き、高く澄んだ声で一言。
「……それで、明日から俺は、どうすれば良いいんだ?」
 彼女は、明るいんだか明るくないんだか判別つけがたい自分の将来と、明日に控えているメイドとしての職務に想いを馳せた。
 そして、確実に迫っているであろう自分の貞操の危機と、妹に今の自分の姿をどう弁解するべきかという大問題に頭を痛めた。

 深夜の部屋には悩ましげな美しいメイドが一人――






 今回の依頼は実にスリリングでした。あまりにスリル満点だったんで、サービスし過ぎちゃいました。何しろ、命の危機から救ってあげただけでなく、依頼を達成させてあげて、裏の世界から足を洗わせてあげて、しかも再就職先まで面倒見てあげたんですから。ちょっと至れり尽くせりのような気もします。まあ、これも“妹想いのおにーちゃんに免じて”ってことで……本当は“兄想いの妹さんに免じて”なんですけどね。そうそう、妹さんの手術も、めどが立ったそうで、良かったですね。これからは、どうか兄妹……いえ、姉妹仲睦まじく暮らしていって下さい。あとは玉の輿になれるかが問題ですが、そこら辺は自分で努力してもらいましょう。

 何か困ったことがありましたら何なりとお申しつけ下さい。今度はあなたの街にお邪魔するかも知れません。

 ちなみに、私は“守秘義務”を守りませんので、その点はあしからず。

 それではまた。



 あとがき
『何故、『固茹(「かたゆで」と読んでやって下さい)』というタイトルにしたのか?』
 はい、「ハードボイルド」と銘打つと、この作品を読まれた方から「こんなん、ハードボイルドちゃう!」と突っ込みを入れられそうだからです。「固茹」にしておけば、「そうです。これはハードボイルドではないんです」と誤魔化しができます。
 ……嘘です。本音は「他の方に『ハードボイルド』というタイトルを使って欲しいから」です。私は、もっと本格的なハードボイルドの世界が、華代ちゃんにぶち壊される様を見たいのです。
 というわけで、誰か気が向きましたら“本格的なハードボイルドの世界×華代ちゃん”を「ハードボイルド」というタイトルで書いて下さい。お願いします。

『ハードボイルド+メイド+妹……このネタってもしかして?』
 秘密です。ちなみに、作中でメイドを“使用人”と表記できなかったのは、私が軟弱な証拠(一度は使用人という言葉で書き上げたのに……自分に嘘をつけなかったんです)。

『作中に出てきた“黒いスーツの三人組”って、もしかして……?』
 私の「裏と表に拘った作品」に、チラッと出ていましたね。流用してしまいました。他の設定も流用しています。

『それじゃあ、二五歳の御曹司は、あの人?』
 秘密です。

 さて、今回の“拾遺・華代ちゃん”は前作以上に、意味不明の内容になってしまいました。もともと不条理物なのに、更に不条理にしてしまって、書いた本人が混乱してしまっています。混乱に次ぐ混乱で、何に混乱していたのかも把握できなくなってしまいました。主人公よりも作者の方が事態について行けなくなってしまって……。
 これは、私の物語の作り方が「このシチュエーションに華代ちゃんがいたら、どうなるんだろう?」を出発点にしているせいです。ですから、キャラクターは殆ど全自動状態。計算ゼロ。蓋を空けてみるまでは、作者自信にすら結末が分かりません。これは、本家の作り方の「裏」ですね。

 前作と同様に華代ちゃんの登場シーンを工夫してみました。「如何に彼女を面白く登場させるか?」文章の下手な私は、ここに命を懸けていたりします。それで、肝心のTS部分がおろそかになっているわけですから世話無いんですけれど。
 それでも、前回ではゼロだったTSシーンを、拙いなりにも書けたことには満足しております。本家には遠く及びませんけどね。
 しかし、物語が長くなり過ぎました。通常の倍以上の長さです。アニメで言うところの1時間スペシャルばりの長さ(シリーズ比)です。こういうところは、もう少し何とか短くまとめられるようにならないといけませんね。
 しかし、読み返してみると“華代ちゃん”の登場シーンが少ないこと少ないこと。原案者の真城さん、どうか怒らないで下さいね。

 次回の“拾遺・華代ちゃん”は余計な仕掛けの無いストレートな内容にしたいです。
 それではまた。

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