ネムリノクニ                                              

                              ノリシロ2


 第1章 ネムリノクニへヨウコソ







 <1> 無言電話


 「プルルル、プルル、ガチャッ」

 携帯電話から聞こえてくる無言のメッセージ。受話器の先にいる人の静かな息遣い。数秒だろうか、沈黙が続いた後、相手は諦めたように電話を切る。まるで現実との接点をプツリと切るように。
 
 私はポケットに携帯電話を仕舞うと、車窓越しに流れ過ぎる風景を見た。日本国中のどこにでもあるような平凡な町の様子は私に言い様のない苛立ちを掻き立てる。それをどこにぶつけたら良いのか分らずにただ沈澱していくのを黙って眺めているしかないのだ。そっとポケットの中に手を差し込むと、つるりとした携帯電話のボディ-に触れた。硬質で私の体温で生暖かくなったそれの静かな寝息が聞こえてきそうだ。それだけではただの機械なのに、その先に人間の存在を感じるとき、それはこのうえなく愛おしい存在に思える。流れ過ぎる風景は過去へと私をいざなう。

 その日、父は家に帰ってきた。そして、それは父との1ヶ月ぶりの再会だった。父と母の関係がおかしくなったのは、3年前に妹が行方不明になってからだった。冬の冷たい雨がしとしとと降る日に、妹はいなくなった。母は妹を迎えに行かなかったのがいけなかったのだ、と自分を責めた。父はそんな母のことを放って仕事に熱中するようになった。私はそんな二人の姿をただ見ているしかなかった。自分のことで精一杯だった。父が自分の勤める中学校に近いアパートに住むようになって、私は母をひとりで背負わなくてはならなくなった。母は妹がいなくなってから、家に閉じこもることが多くなった。そして、食卓には3つのお皿が並んだ。母、私、そして妹の食事。母はまるで今にも妹が玄関のドアを開けて、ただいまと元気に姿をあらわすと信じているようだった。そして、決してそんなことは起こらなかった。

 ひさしぶりに見る父は幾分元気を取り戻しているようだった。それは家族と一緒に妹のことを切り捨てて忘れようとする一人の寂しい中年男の姿だった。私はそんな父を責めることはできない。私も母を捨て、妹との記憶も捨て、新たな世界に旅立ちたかったからだ。でも、そんなことはできない。触れれば今にも壊れてしまいそうな母を放っておくわけにはいかない。父にも私にも見捨てられたら、きっと母は死んでしまうだろう。

 父は居心地の悪そうにテーブルの前に座っていた。母は下を向いてテーブルの上に乗る離婚届けを眺めていた。

 「悪いな」

 父はすまなそうに言った。私は黙って父の顔を見ていた。
 
 「健一。母さんを頼むぞ」

 「父さん。これで本当に良いの?」
 
 「ああ」

 父は寂しそうに私の顔を見つめた。父の顔はしばらく見ないうちにずいぶん老けて見えた。父も父なりにこの問題に決着をつけようとしているのだ。

 「健一。ちょっと席を外してくれるか。母さんと二人で話したいことがあるんだ」

 私は立ち上がると、部屋から出ていった。母は依然として放心しているみたいだった。

 そのときだった。2階から電話の音が聞こえたのだ。父と母は気づいていないようだった。空耳かと思ったが、それは確かに電話の呼び出し音だ。2階には電話はないし、携帯電話を私は持っていなかった。階段を上がると、それは父の書斎から鳴っていた。音は切れることなく鳴り続けた。音に耳をすませながら、私は音の出所を捜した。机の近くを通ったとき、音が引き出しから鳴っているのに気がついた。引き出しを開けようとすると、鍵がかかっていた。 
 私は本棚のあ行の百科辞典を引き出すと、間に挟まった小さな薄っぺらい銀色の鍵を見つけた。鍵穴にそれを差し込むと、固い鍵の開く手ごたえを感じた。引き出しを開けると、ピンク色の携帯電話がさまざまな書類の間に混ざって音に身を震わせながら横たわっていた。それを取り上げると、私は通話ボタンを押して、受話器の先に耳を傾けた。

 「もしもし。秋山先生ですか。あたし、清水伶です。ちょっと話したいことがあって」

 その声はまだ幼さを残した女の声だった。言葉をとつとつと話す調子はなぜだか寂しげだ。

 「先生、聞いてるの?」

 私は息を潜めて彼女の発する声に神経を集中した。

 「あなた、だれ?」

 警戒するような声音だった。私はなにも話さないでいると、電話はガチャっと切れた。

 父が階段を上がってくる音が聞こえた。私は携帯電話を自分のズボンのポケットに忍び込ませて、急いで廊下に戻った。階段を登り終えた父は私がそこにいるのが意外そうだった。 

 「電話鳴ってなかったか?」

 父は落ち着かないようすで私を観察するようにきいた。

 「いいや」

 父は私からなにかをかぎとろうとしていた。

 「そうか。なら良いんだ。何となくなそんな気がしたんだ」

 まだ納得していないようすでそう言うと、父は書斎に入ってドアを閉めた。明らかに父は狼狽えてた。まるでいけないものを見つけられた子供のようだった。

 その日、結局父は離婚届を母に預けて帰っていった。電話については特にきいてこなかった。机に携帯電話がないのに気づいても、私にきり出しにくいのだろう。
 
 それ以来、私はときどきその携帯電話を取り出すと眺めた。その最新機種の携帯電話には清水伶という名前とたったひとつの電話番号が入っていた。きっと受話器の先の住人は父の愛人なのだろう。それも学校の教え子なのだ。家では音が鳴らないようにバイブに変えた。電話は動き出す気配を見せなかった。それは壊れているかのように静かだった。あの寂しげで助けを求めているような声。さらっと冷静な声の裏側に潜む悲しみを秘めた声。私はいつしか彼女から電話がかかっていくるのを心待ちにしていた。
 
 私はそれからその携帯電話をいつも持ち歩くようになった。そして、ある朝突然ポケットの中で携帯がブルブルと震えた。急いで通話ボタンを押して、受話器を耳につけた。相手の息遣いが聞こえた。何かを話そうとして話せないでいる、そんな感じがした。それにしても、なぜ彼女は電話をかけてきたのだろうか。父は彼女に電話を自分が持っていないことを伝えたのではないのか。私から話そうと思ったけれど、もし喋ったらその瞬間に彼女は電話を切ってしまうような気がして止めた。数秒の沈黙の後、電話の切れる音がした。それから、携帯電話は決まった時間に鳴り出すようになった。そして、今朝もまるで習慣のように鳴り出した。そして、沈黙の後、切れる。まるで何かを諦めるように。

 <2> 今朝の電車

 電車の中はラッシュで混んでいた。むしむしする車内で私は窓に顔を押し付けられながら、急ぎ足で走り去る風景を見ていた。流れ過ぎる風景に混じってそれが見えたとき、私の心は高鳴った。ビル街の灰色の空にひらひらと白いワンピースが翻っていたのだ。風を孕んで気持ち良さそう踊るワンピースは氷上のバレリーナのように見えた。それに気がついている人間はわたしひとりだけのようだった。わたしはその行方を目で追い掛けた。きっと誰かの洗濯物なのだろう。生活感というものを拭い去った高層ビルの隙間を縫うようにして飛ぶ白いワンピースはとても輝いて見えた。

 そのとき、背後に視線を感じた。後ろを振り返ると、同じようにワンピースの姿を追っている人がいた。私の高校の制服を着た彼女は空を睨みつけるようにして唇を噛んでいた。日焼けしたチョコレート色の肌と少し茶色い長い髪を後ろで束ねた彼女を私は知っていた。1年C組佐伯恵。彼女は僕のことに気がついていないみたいだった。彼女の瞳の奥に白いワンピースが翻る姿が見えた。

 目的の駅につくと、大量の人間が降りていった。彼等のほとんどが私と同じ学校の制服を着ていた。その中に佐伯恵の姿もあった。私はその行列に加わるべく電車を降りた。何気なく電車の中を覗くと、同じ制服を着た頬のこけた男が佐伯恵のことを穴が空くほど強く見つめていた。彼女はそれには気がついていないようだった。その目は顔に空いた二つの大きな空洞のようで、とてつもなく深い闇を宿していた。彼は電車が動き出しても佐伯恵のことを見つめていた。電車が視界から消えても、きっと佐伯恵を見つめ続けているのだろう。彼の顔を私はどこかで見たような気がしたが、思い出すことはできなかった。

 <3> 噂

 教室に着くと、隣の席の藤原貴が声をかけてきた。藤原は小柄の割にがっしりとした体格をしていた。顔つきが厳つく目付きが鋭いので初対面のときは、恐いやつなのかなと思ったけれど、付き合ってみると人懐っこく話すいいやつだった。

 「おい、お前に貸したビデオ早く返せよ」

 藤原からHなビデオを借りていたのをすっかり忘れていた。 

 「ああ、ごめん、ごめん。あれまだ見てないんだ」

 「延滞料金とるぞ。他にもみたいやつがいるんだ。木村も見たがってたし。おお、噂をすればなんとやら、おい、木村がきたぞ」
 
 藤原が指差す方向に、ひょろっと背の高い日焼けをしたヤサ男がにやにやしながらこっちに近寄ってきた。木村宗一は私と同じサッカー部で、私を通じて藤原とも親交があった。

 「俺の悪い噂でもしてたのか?」木村は僕らの顔を交互に見ながら言った。

 「そうじゃないよ。秋山がお前が見たがってたビデオを早く返さないって話してたんだ」

 「関川夏美のやつか」

 「そうそう」

 「くそオ。あれ、めちゃくちゃ見たいんだ。秋山早くおれに見せろ」

 木村はそういうと、私に詰め寄った。目が血走っている。よっぽどビデオが見たいらしい。

 「分った。分った。なるべく早く見るよ」

 木村をなだめながら、今朝佐伯恵を見たことを思い出した。

 「そう言えば、今朝佐伯のやつを見たんだけど、あいつ、おれに挨拶しないで無視しやがった」

 木村の顔が少し曇った。 

 「そのことで、ちょっと話があるんだ」

 木村はいつになく真面目にそう言った。秋山はすぐに察して違うクラスメートの話の輪に加わった。木村と私は廊下に出ると、木村は廊下の窓際にもたれかかり、私の顔をじっと見た。

 「秋山。鏡沢先輩の噂を聞いたか?」

 「なんだ、何かあったのか?」

 「そうか。まだ知らないのか」

 「佐伯のことと何か関係があるのか?」

 木村はこくりと頷いた。

 「佐伯が北島先輩と付き合っているのを知っているだろ」

 佐伯恵は1年生の女子マネージャーで、彼女が3年の北島先輩と付き合っているのは、サッカー部内では周知の事実だった。

 「1週間前、北島先輩が鏡沢先輩と殴り合いの喧嘩をした。鏡沢先輩が佐伯に手を出したことに北島先輩が激情したらしい。実際に佐伯と鏡沢先輩がキスしている現場を目撃したという部員もいるんだ」

 「その話なら聞いたことあるよ。結局は誤解だったんだろ」

 その後、佐伯が鏡沢先輩のことが好きで、自分から無理矢理鏡沢先輩にキスを迫ったことを認めたのだ。それが原因で北島先輩は佐伯と別れたと聞いていた。

 「そこから、まだ話は続くんだよ。佐伯に未練を残した北島先輩が彼女の家の前をうろうろしていたらしい。そうしたら、ちょうどそこに鏡沢先輩と彼女が抱き合っているところを目撃して、頭に来た北島先輩は後日鏡沢先輩に問いつめた。『なんであすこにお前がいたんだ。彼女とは関係ないと言ったじゃないか。もしお前さえ彼女との仲を素直に認めたら、おれは佐伯のことを諦める』そしたら、鏡沢先輩はなんて言ったと思う。『お前は勘違いをしている。おれは佐伯とは一緒にいなかった』って言ったんだぜ」

 木村は話に興奮してきたのか鼻息を荒くした。

 「それでどうなったんだ?」

 「最近では北島先輩は佐伯のあとを付け回しているんだ。登校する前から彼女の家の前で見張っているらしい。廊下にじっと蹲りながら、彼女のクラスの授業が終わって彼女があらわれるのを待っているんだ。おれもその姿を見たことあるけど、もう昔の北島先輩の面影はないよ。顔見たときは、ゾッとしたね。眼の周りが落ち窪んでいて黒々とした隈ができているんだ。喋るときなんかときどき奇声をあげたりするらしい。完全に狂ってるって噂だ」

 そのとき、今朝電車の中で佐伯のことを見つめていた男の顔が蘇った。どこかで見た顔だと思ったけれど、あれは北島先輩だったのか。あまりにも顔つきが違ったいたので分らなかった。

 「でも、それなら北島先輩の噂だろ。なんで鏡沢先輩の噂になるんだ」

 木村はまっていましたという顔をすると、得意そうにエッヘンとせき払いをした。

 「おれは見たんだ。鏡沢先輩が佐伯と一緒にいちゃついているところ。偶然だったんだけどね。もちろん後ろには北島先輩があとをつけていたよ。でも、北島先輩は全然鏡沢先輩たちに声をかけることすらしないでじっと見つめて、ほくそ笑んでいるんだ。気持ち悪かったぜ」

 「それでお前はどうした?」

 「昨日、問いつめたさ。北島先輩が可哀想じゃないですかってね。でも、鏡沢先輩はとぼけて、おれは知らないって言うんだ。それでおれきれちゃって、つい怒鳴っちゃったわけ。悪いのは鏡沢先輩だろ。おれも見てるし、他のやつらだって目撃してるんだし」

 木村は本当に腹を立てているようだった。木村が自分のことのように怒るのも無理はなかった。北島先輩は木村を自分の弟のように可愛がっていたのだ。しかし、私には鏡沢先輩が嘘を言っているようには思えなかった。サッカー部のキャプテンである鏡沢先輩はどの部員からも尊敬されていたし、北島先輩とは親友といってもよいほどの仲だったからだ。木村は私に話してスッキリしたのか晴れがましい顔をしていた。
 
 始業の鐘が鳴ると、廊下にいた生徒たちはみな教室の中に入っていった。

 「それじゃあ。おれ教室戻るわ。それと当分おれたちサッカー部の練習でないから。鏡沢先輩が非を認めるまでな」

 木村はそう言うと、隣の教室に入っていった。

 <4>煙突

 英語の授業の間、窓側の席に座っている私は窓から外の景色を見ていた。さっきから見ているのだが、どこかしらにおかしいところがあるように感じる。学校は高台に立っており周りの住宅街を一望に見ることができる。いつも、授業中に窓越しから外を眺めているから、何か風景に変化があれば見間違えるはずはないのだ。そして、明らかにおかしな一つの変化に気づいた。

 新しく建てられている住宅街の一画に大きな煙突がにゅっと突き出し、黒い煙りをモクモクと吹き出しているのだ。僕の住んでいる住宅街とは100メートルも離れていない場所にだ。あすこに工場があるなんて話を聞いたことはない。

 その煙突もまた奇妙な風貌をしていた。下が極端に太く、徐々に上に行くに従って細くなってゆくのだが、中央付近になってまた太くなる。まるで花瓶のような形をしている。そして、その大きさがまた異常なくらい大きいのだ。それが天にそびえるように立っている姿は異様で、無気味ですらあった。

 それを眺めながら、窓から差し込む日射しの暖かさに徐々にうっらうっらと眠気が襲ってきた。他の生徒が英訳を読むのが片耳に聞こえた。それはまるで子守唄のように私を眠りへと誘った。私は知らぬ間に心地よい暗闇へと潜り込んでいた。いつまで眠っていたのだろうか?気がついたときには、すでに授業は終わりかけていた。

 学校の授業も終わり、私がサッカー部の練習に顔を出そうと、下駄箱から靴を取り出していると、誰かが私の背中を叩いた。振り返ると、そこには木村がニコニコしながら立っていた。彼の片手には黒い傘が握られていた。昼間は冬晴れで、日射しも肌を刺すほど強かったし、雨が降る様子すらなかったのに。

 「木村。お前傘なんか持ってきてどうしたんだ」

 木村はニコニコと笑いながら言った。

 「もうそろそろ雨が降り出すころだ」

 「天気予報では今日は雨は降らないっていってたぞ」

 私がそう言うと木村は別段気にするわけでもなく傘をさして手を振りながら校門をくぐって行った。雨も降ってないのに、あいつ、いったい、どうしたんだと思いながら、靴を履き替え、そのまま外に出ると確かに雲行きが怪しくなっていた。黒い雨雲が垂れ込み、冷たい湿った空気を肌に感じた。すると、ポツポツと雨粒が制服に当たり、最初は弱く次第に強く雨が降り出してきたのだ。私は急いで玄関の軒下にはいった。今では大粒の雨がアスファルトを叩き付けるように降っている。地面に触れるほど低く垂れ込めた雨雲ははるか向こうまで続き、とっても止みそうな気配はない。木村が言っていたとおりだ。

 「秋山。どうした」 

 私は後ろを振り返ると、赤い傘を持った鏡沢先輩が立っていた。鏡沢先輩は身長が190センチ以上あり、すらりとした細みの体格をしていた。雑誌のモデルにならないかと誘われるほどの端正な顔だちは女子の羨望の的だった。切れ長の鋭い目は男でもドキリとする。その先輩の表情から私の様子を不思議がっているようだった。

 「鏡沢先輩。今日の部活は休みですか?」

 鏡沢先輩は私の顔をおかしなものでも見るように見ていた。まるで私が冗談でも言っているのではないかと疑っているような視線だった。

 「当たり前だろう。こんな雨じゃ練習できないからな」

 私はさっきからあることが気になっていた。なぜ、鏡沢先輩も傘を持っているのだろう。このような天気を二人の人間が予測していたなんて偶然はそうはないはずだ。疑問を口にしようとしたとき。

 「傘持ってきてないのか?」
 
 鏡沢先輩は私の制服が濡れているのを指差しながら言った。

 「はい」

 鏡沢先輩は私に自分の傘を差し出した。
 
 「先輩はどうするんですか?」

 鏡沢先輩は鞄から折畳み傘を取り出してにやっと笑った。
 
 「おれは持ってるから、使えよ。でも、今度は絶対傘を忘れるなよ。雨は危険だからな」 

 私は雨が危険という言葉を理解できなかった。風邪をひくぞなら分るけれど、危険というのは何やら意味が違うように思われた。鏡沢先輩は厄介者を追っ払うような仕種で私を外に追い立てた。わたしは急いで鏡沢先輩が貸してくれた傘を開くと、傘の柄には私と同じ『秋山』という名前が書かれていた。しかし見覚えがなかったので、きっと、誰かの忘れ物なのだろうと思った。

 町を歩く人々は皆傘をさしていた。いろいろな色の傘が町を埋め尽くしている。そして、町のどこを歩いていても、あの煙突の姿を見ることができた。降りしきる雨のなか、煙突はモクモクと煙りを吐き出していた。そして、その煙りは町を覆い尽くす垂れ込めた雨雲に吸収されていくようだった。

 
 <5>ネムレ

     

 気味が悪いほど静かな深夜に、私は寒さに目を覚ましました。冷たい風が室内に入り込んでいるようです。外では風がうなりを上げています。庭の楓の木の枝が窓にカタカタと当たる音が気になって再び寝付くことができません。私は窓を閉めようと、布団から抜け出しました。生暖かい布団から抜け出すと、寒さが体に入り込もうとします。部屋のなかは冷えきっており、口から白い息が漏れました。部屋のカーテン越しに街灯に照らされた楓の枝の影が見えます。その影は大きな老婆の手のように不気味に見えます。風を孕んだカーテンがゆらゆらと揺れています。暗闇は濃度を増し、毒虫が腐肉に蠢くように室内に忍び込んできます。私はカーテンを手で押さえると、窓は2cmぐらい開いていました。私は窓を閉めると、想像以上に大きなガタンという音に思わず飛び上がってしまいました。カーテンをさっと閉めると、私は布団のなかへ急いで入り込もうとしたのです。そのときです。私は見てしまったのです。鏡に映るあれを。私は体から冷たい汗がだらだらと流れてきました。人間は恐怖に体が凍り付くというのは本当なのですね。私は鏡に背を向けていました。しかし、背後にあれの気配を感じます。そして、もう一度あれを見てみたいと思いがつのってきます。甘い誘惑はどんな恐ろしいものを私に見せようというのでしょうか。もし、そこに映るものがあれならと考えると、恐怖は増幅してゆきます。今では目は冴え、暗闇の奥に佇む者の正体を見破ることもできそうです。奇妙に空間が歪んでいるようでした。今、私はあの世とこの世の狭間にいるのかもしれません。わたしの耳に苦しそうな喘ぎ声が聞こえます。喘息患者特有のヒュウヒュウという神経に触る喘ぎ声。私はそっと横目で鏡を覗きました。そこには、行方不明の妹のびっしょりと濡れそぼった青白い顔が浮かんでいました。

 <6>変貌

 私は昨夜、気味の悪い夢を見た。目が覚めると、着ていたパジャマはぐっしょりと汗で濡れていた。体がだるく、体中の関節が弛んでいるように歩くときに足腰がガクガクした。顔を洗い、居間に行くといつ来たのか父が母と一緒に朝食を食べていた。それは3年前のいつもの毎朝の光景だった。ここに妹がいたら、そう思うと悲しさが込み上げてきた。すると急に今朝見た夢に出てきた妹の顔が頭に蘇り、背筋が寒くなった。濡れた髪が張り付いた妹の顔を思い出すのはあまり良い気分ではなかった。それにしても、今朝の光景は何かがおかしいと頭が告げていた。

 母親はほんのりと薄い化粧をしているようだった。昨日までは外に出かけるときでさえ、口紅ぐらいしかしなかった母が指に薄いピンクのマニュキアをしている。父のネクタイを締める母の肉の薄い手が父の厚い胸を淫靡な仕種で這わせていた。父は父でその変化に気づいているそぶりすら見せない。私の目がおかしくなったのだろうか。母親のパーマーがかけられた髪はくろぐろとし瑞々しい髪質に変わっているようだ。最近薄くなった髪の毛はしっとりとした艶で髪が濡れているように見え、クルクルと丸められた髪先は徐々に肩にストレートに垂れ下がってきているように見える。母はぷくっと膨らんだ柔らかな唇で父の唇を塞ぎ、ピンク色に光る舌をその口に入れ、唾液のくちゃくちゃという音を立てた。母は父の大きく膨れ上がった股間を掴むとそれをピンクの長い爪先で摩っている。スーツのズボンの股間はその動作に誘われるように大きくなっていった。父は弛緩したような顔をして中空に視線を漂わせていた。私はどう声をかけたら良いのか分からなかった。とにかく、荷物を持って家を出た。その背中越しに服と服が擦れ合う音が聞こえた。

 私の頭は動転していた。これはいったいどうしたことだ。母のあのいやらしい笑みが頭に浮かんだ。何かに憑かれたかのような母の変貌は不可解だった。それに、どうして父は家にいたのだろう。それも朝に。考えれば考えるほど疑問は膨らみ、私は考えるのを止めた。もし、母と父がやり直すなら、それにこしたことはないではないか。たまたま私が突然にああいう現場を目撃しただけの話で、特に問題もないではないか。そう思いながらも、普通じゃない何かを私は感じていた。

 昨日の雨が嘘のような陽気だった。今日もあの煙突が見えた。そこから吐き出される黒い煙りが風にたなびいていた。冷たい風が体に入り込もうとするのを襟もとを押さえて防ぐと、学校へと急いだ。駅を降りた町の雰囲気が妙だった。いつも朝になると賑わっている駅前には人の姿が見られない。商店街には人がちらほらといるだけだ。学校への道筋は新興住宅街になっているのだが、気のせいか、その住宅群が黒ずんで新築の建物には見えなかった。まるで12、3年は経っている建物のように見える。壁のペンキも一部は剥げかけている。そこに住む人々も30代前後の若い夫婦が多いのが、今朝はその人たちの姿を見ることはない。コンビニエンスストアーがあった場所は空き地になり、どこから来たのか分からない中年の男がテントをはっている。そして、ところどころの壁が壊され、近所との境目がわからなくなっているところもあった。
 道を歩いていると、いきなり『行き止まり』と書かれた木の立て札がアスファルトの道路上に突き刺してあった。誰がこんなことをしたのだろう。その先にあった道は木の壁に塞がれ、通ることができないようになっていた。しょうがなく回り道をしてやっと学校につくことができた。学校は昨日と違うところはなかった。もう、かなり遅刻をしている。急いで教室に駆け込むと、倉橋先生は私の顔を見てニコニコしていた。いつもならネチネチと怒られるのだが、今日はすんなりと注意されただけで済んだ。

 授業はいつもとなにもかわった様子はなかった。いきなり女生徒が男子生徒に抱き着くということもなく、学校内の様子も昨日とかわらない。私は窓から見える煙突を眺めた。もうすでにこれは私のなかで習慣になりはじめていた。異様なほど黒々とした煙をまき散らしながら煙突はそびえ立っていた。その煙りは絶えることがなく、天高く登っていた。

 しかし、変なことが一つだけ国語の授業にあった。国語の授業中に藤原が教科書を読むように言われたのだ。そのとき、藤原は困ったような顔をした。そう言えば、今日藤原と話してないのを思い出した。もしかしたら教科書を忘れたのかなと机の上を見ると、ちゃんと教科書はある。先生はもう一度藤原の名前を呼んだ。その声には明らかに怒気が含まれいる。藤原は観念したように、教科書を持って立ち上がった。

 「23ページの6行目だ」

 藤原が口に溜まった唾をごくりと飲み込む様が見て取れた。

 「え〜、あ〜『僕の落選なんて問題じゃない・・・・・・」

 教室中がざわめきだした。藤原は読むのを途中で止めてしまうとうつむいて黙り込んだ。

 「藤原。お前、声どうしたんだ?」

 「昨日からおかしいんです」

 藤原は恥ずかしそうに小さな声で言った。その声は昔の野太い低く響くような声ではなくなり、鳥が囀ような高い声に変わっていたのだ。彼はそれを恥じるように顔を赤らめながら、みんなの視線から顔を逸らせていた。

 「可愛い〜。女の子みたい」

 一人の女生徒が大きな声で言うと、教室中に笑いがどっと湧いた。

 「静かにしなさい」

 先生は生徒と同じように笑いを堪えていた。

 「藤原。もう座っていいぞ」

 そう言われると、藤原はしょぼくれて椅子に座った。その藤原の横顔を隣の女子が見てくすくすと笑っていた。
 
 昼休みに藤原の姿はなかった。途中で帰ってしまったのだろう。国語の授業のとき、大きな声で叫んだ女子は藤原のことをまだ話していた。
 
 「藤原君ってあんなに可愛い声してたっけ」

 「してない、してない。だってあれじゃ女みたいじゃない」

 「でも、顔とか可愛くなってなかった?」

 「そうなのよ。前は恐い印象があったけど、今日はなんだか目もととか可愛かった」

 「そうそう、睫毛とか長いし、目もクリッとなっちゃって可愛いくなってたよ」

 「藤原くんもしかして整形でもしたのかな?」

 「声までするか?ふつう」

 「それじゃあ、女の子になろうとしてるのかな」

 「いやだ。ニュハーフてやつだ」

 「キャハハ」

 確かに藤原の声は声変わりをしていない男の声というより、女子の声に近いものだった。昨日まで野太い声を出していた藤原がなぜ急に高い声になってしまったのか不思議だったけれど、私はそれを今朝の事件と絡めては考えなかった。結局、授業が終わるまで藤原は帰ってこなかった。

 放課後、廊下で鏡沢先輩が佐伯恵に向かって顔を真っ赤にして怒鳴っていた。普段鏡沢先輩が怒ったところをあまり見たことがないだけに、よっぽどのことなのだろう。佐伯恵は眼に涙を浮かべ泣き出した。鏡沢先輩は佐伯恵を諭すように話しだした。

 「北島はいいやつなんだ。だから、君の口から僕達がなにも関係がないことを言ってくれよ」

 「あたし、北島先輩なんかどうだって良いんです。鏡沢先輩が好きなんです。どうしてこんなに好きなのに受け入れてくれないんですか?」

 佐伯恵は涙声で訴えながら、両手を鏡沢先輩の背中にまわしてぎゅっと抱き付いた。手は強くしがみついているせいか、白くなっていた。

 「痛い」

 「こんなに、こんなに好きなのに。どうして受け入れてくれない。あなたに好きになってもらえるなら、あたしは整形でも、性格矯正でもなんでもする。どこが気に入らないの?教えて。この鼻、この口、この目、それともこの体。なんでも直すわ。そうしたら、愛してくれる?好きと言ってくれる?」

 「止めてくれ。痛い」

 「離さないわ。絶対に。あたしはあなたが望む女になるわ。だから、愛して」

 その様子を変に思ったのか、彼等の周りに生徒たちがざわざわと集まってきた。佐伯恵は彼等を睨み付けると、すっと鏡沢先輩の体から離れた。

 「あたし。諦めないから」

 そう言うと、佐伯恵は私の横を通り過ぎて急ぎ足で階段を駆け降りていった。彼女の背後に白いワンピースがゆらゆらと揺れているのが見えた。目をゴシゴシと擦ってもう一度見ると、それはもう見えなかった。目の錯覚かなと思いながら、鏡沢先輩に話し掛けた。

 「先輩大丈夫ですか?」

 鏡沢先輩は相当痛かったのか顔を歪めていた。しかし、私のいぶかるような視線に気づくと、直ぐにその表情を消した。
 
 「なんでもないよ」

 昨日、木村の話を思い出した。いかにも何かありそうだったが、それ以上聞くこともできない。

 「そうですか。それでも、なにかあったら相談してくださいね」

 「ああ。ありがとう」

 ふと見ると、先輩が昨日と同じ傘を持っているのに気がついた。

 「先輩。今日も傘持ってきてるんですね」

 先輩はそんなこと当たり前だろうというように、大事そうに傘を胸に抱いていた。

 「また、忘れたのか?ちゃんと持ってこないと危険だ」

 「先輩。どうして傘がないと危険なんですか?」

 先輩の顔は急に青ざめた。まるで何かを恐れているようだ。

 「とにかく、傘は持ってくるんだ」

 そういうと、鏡沢先輩は足早に階段を降りていった。

 外に出ると、雨雲が昨日と同じように低く垂れ込めていた。昨日のこともあるので、部活に行くのは止した。それに今朝の両親の様子も気になった。それに町の様子も。

 <7> 肉片

 私が早く家に帰ってくると、母の部屋で妙な喘ぎ声が聞こえてきた。その声は中年の女性の太い声というよりも妙に甲高いぬらぬらした声だった。誰だろうと部屋の中をそっと戸の隙間から覗くと、ほっそりとした白い足が畳の上に投げ出されていた。それは私が覚えている母親の足よりも細く、艶やかな膚をしている。両足の指の爪はベージュ色に綺麗にマニュキアが塗られていて、その両足の指と指が狂おしいほどに縺れあい、からみ合っている。それはまるで女性と女性がからみあっている姿体を私に連想させた。そして、そのもつれあう動きに合わせて布が畳に擦れるザッザッという音、アアアア、アアンという艶かしい女性の声が聞こえるのだ。タンスが影になって、それ以上は見ることはできない。私が奥を覗きこもうとしたとき、ガタッと大きな音をたてていまい、しまったと思った瞬間、女の声は消えてしまった。私は気まずさからそっと戸を閉めると、自分の部屋に行った。

 あの声が母のものであったのかどうかはわからない。夕食の席では母は一言もしゃべらなかった。しかし、今朝よりもいくぶん落ち着いた感じの母の様子は私の不安を少しやわらげてくれた。しかし、妹がいなくなってから寂しい雰囲気の家に母の強い香水の匂いが漂っているのは奇妙だった。

 夕食の献立のレアステーキを赤い口紅をひいた口で頬張る母の目は怪しい光を宿していた。油や血がギトギトに口の周りにつくのも気にしないで一心不乱に食べる母。ステンレス製のナイフとホークが部屋の照明に照らされて冷たく光った。私はその姿に圧倒されて食欲が湧かなかった。ステーキを食べ終わった母は私がステーキに手をつけていないのを目にすると鋭い目でギロッと睨みつけた。

 「なんで食べない」

 それは心が震えるほど冷たい声だった。

 「食欲が湧かないんだ」

 言葉が喉元に詰まった。
 
 「食べろ」

 母は私の冷えきったステーキが乗った皿を自分の方に引き寄せた。そして神経に触るキーキーという音を立てながら肉をナイフで切った。私の前には冷えて固まった白い脂肪が浮いた肉片がお皿に乗っていた。その細かく切られた肉の断片から赤い血がびちょびちょに滲み出ている。母はその一つをホークで突き刺すと私の方に差し出した。
 
 「食べろ。うまいよ」

 私はその肉片を見てなにやら吐き気を催した。それはとても気味の悪いものに見えたからだ。私はホークを置くと席を立とうとした。そのときだ。母の白い腕が私の手を掴んだのは。今朝父の胸をまさぐっていた手の生々しい記憶が蘇った。その手は冷たく、異様なほど白い。私は力任せにその手を引き離そうとした。しかし、母は凄まじい力で私をねじ伏せて椅子に座らせた。それはとても普通の女性の力とは思えなかった。そして、私のからだを押さえつけながら、ホークを私の手に握らせた。

 「食べろ」

 母は肉片の刺さったホークを無理矢理に私の口に運んだ。私は一生懸命に口を開けないように歯を食いしばった。母は肉片を口になすり付け、力任せに私の口に押し込もうとする。顎を持つと、力任せに口をこじ開け、私が肉を食べるように仕向けた。押し込められた肉が口の中に入ると、脂肪のギトギトした嫌な食感が口に広がった。私は諦めて口を動かし、肉を噛み切り、飲み込んだ。すると、どうだろう。それは凄く美味なのだ。口に広がる肉の脂肪と血の味はこれ以上ないほどのもので、私は皿を引き寄せると一心不乱に肉片を口に運んでいた。そう、さっき母がしていたようにだ。

 その夜は早く寝床についた。あの肉を食べたあと、頭がとても重く感じられ、意識は朦朧としていたのだ。ふかふかとした布団に包まれながら、鼻に母の香水を感じた。それが合図のように意識は湿った暗闇、眠りの世界へといざなわれた。そして、またあの夢を見た。
 
 <8> ホクロ
 

 翌朝、鏡を覗き込むと、何やら違和感を覚えた。よく顔を見ると、その原因が分かった。私の右目下に泣きぼくろのようなものができているのだ。睫毛も長くなり、目の印象が華やかになったように思える。よく見ると瞼も一重だったのが、二重になってきているようだ。その目はまるで別人の目のようで、私の意志とは関係ないところで動いているみたいだった。

 制服に着替えて居間に行くと、母は台所で食事を作っていた。父はいなかった。今朝は特別変わった様子もないようだ。しかし、相変わらず母の服装は若がえっていた。どこで買ってきたのか、体にぴったりとした赤いミニスカートに白いブラウスを着ていた。スカートからむっちりとした太股とほっそりとした白い足が伸びていた。よく見ると、足先にはベージュ色のマニキュアが塗られていた。昨日のあの足の持ち主はやはり母だったのだ。私が母の足をじっと見ていると、母は私ににやっと笑いかけた。私はそれを無視して、食卓について朝食をとった。御飯を食べながら、昨晩食べた肉片の味が舌に蘇ってきた。唾が口に溜まり、あの肉が食べたいと思った。

 「母さん。昨日の肉はもうないの?」

 「今はないけど、今晩ならあるわよ」

 「じゃあ。また食べようね」

 「ええ。いいわよ」

 「嬉しいな。ああ、早く食べたい」

 母の顔に恍惚とした笑みが浮かんだ。その顔はあの肉を頬張る母を思い出させた。

 <9> 富川アケミ

 その日は町中が濃い霧に包まれていた。湿った空気は頬の皮膚を舐めるように通り過ぎた。霧の先に霞んで見える学校の校舎は朽ち果てた古い城跡のようだった。私と同じ学校の生徒たちは何かにおびえるように体を震わせながら歩みを進めていた。ここでこれから何かが起こる予兆みたいなものを皆が感じているようだった。私もなにやら嫌な予感がした。

 私が教室の自分の席につくと、まず一番最初にあの煙突の姿を捜した。煙突は霧に霞んでよく見えなかったが、もくもくと上がる黒煙の姿だけははっきりと捕らえることができた。椅子を引きずる音とともに横の席に誰かが座る気配がした。藤原が来たのかと思い、横を振り向くとそこには見たことのない女が座っていた。うねるような長い黒髪は緩やかに腰元まで伸びていた。大きな瞳は少し緑色を帯びてうるうると潤いをたたえていた。その白い皮膚はその下に赤い血が流れているのかと疑うほどのものだった。制服は彼女の二つ目の皮膚のようにすんなりと体に溶け込んでいた。周りのみんなは誰も彼女の存在に気がついていないようだった。それほど、自然に周りと同調していた、まるで昔からここに存在しているみたいに。

 私の肩がトントンと叩かれた。ビクッとして振り返ると、そこには木村がいた。木村の眼は私の方を向きながらも、背後の彼女の姿を覗き見ていた。

 「どうしたんだ?お化けでも見たような顔して」

 木村は不思議そうにきいた。

 「いや、なんでもない」

 私は彼女から眼が離せないでいた。その様子を見て、木村は納得したように頷くと私の耳もとに囁きかけた。

 「富川アケミが好きなのか?」

 「へッ」

 私は木村の言うことが理解できなかった。

 「図星か」

 木村はひとり納得したように頷いていた。

 「ところで、藤原を知らないか?」

 木村はおかしなことを聞いたかのように首を傾げた。

 「藤原って誰だよ」

 木村は笑いながら言った。

 「おれの隣の席に座っていたやつだよ」

 しばらく木村は考え込むと、ぷっと吹き出した。

 「おれを担ごうとしてるんだろう。騙されないぞ。おれは」

 「本当に知らないのか?」

 木村は真剣な顔になった。

 「いいかげんにしないと怒るぞ」

 そう言うと、木村は教室を出ていった。そのとき、隣に座る富川アケミという女がこちらを見ているのに気がついた。明らかになにやら驚いているようだった。

 <9> 混種 

 富川アケミは先生から指されると、すっと立ち上がり綺麗な声で流暢に英文を読み上げた。私はそんな彼女の横顔を眺めていた。どこを見ても非のうちどころのない美少女。それも周りの人間は誰もが彼女の存在を当たり前のように受け入れている。それどころか、彼女についてきくと、みんな私が冗談を言っていると思うのか、まともに相手をしない。私の横に座るこの女の正体が何ものであるのか?藤原はどこに行ってしまったのか?学校が終わりを迎える頃にはその疑問は抑えきれないほど大きく膨らんでいた。
 
 終業の鐘が鳴ると一斉にみんな帰り支度を始めた。同じように帰ろうとしている富川アケミに私は声を掛けた。

 「富川さん。ちょっと話があるんだけど、いい?」

 富川アケミは別段驚いた様子もなく私の顔を楽しそうに見つめた。
 
 「いいわよ。でも、ここではなんだから、屋上に行きましょう」

 そう言うと、彼女は鞄を持って一人スタスタと教室を出ていった。私はその後を恐る恐るついていった。階段を上がる彼女の背中を長い髪の毛がゆらゆらと揺れていた。短いスカートから伸びるほっそりとした白い足は私の眼を奪った。その彼女の後ろ姿を見ながら、私の中にある確信が芽生えていた。彼女はきっと藤原のことを知っているという確信だ。

 ガタンという大きな音と共に金属の厚い扉は開かれた。朝からの霧は晴れることなく、町中を包み込んでいた。屋上も濃い霧に包まれ、ドアから霧がモアモアと忍び込んできた。富川アケミはその視界の悪い霧の中に入ると、そのまま見えなくなった。私も入ろうとしたが、体中から冷たい汗がじんわりと滲み出てくるのを感じた。明らかに体が入るのを拒否していた。

 「どうしたの?話があるんでしょう?」

 彼女の余裕のある声が聞こえてきた。その声はまるでこの状況を楽しんでいるようだった。私は思いきって霧の中に飛び込んだ。冷たい空気がすっと体をすり抜けるのを感じると、目の前に富川アケミが立っていた。そして、その背後に黒い大きな煙突がにゅっと突き出ている霧に包まれた町の光景が見てとれた。

 「秋山健一くん。あたしに何か用?」

 アケミの眼がいたずらっぽく笑っていた。

 「君は何ものだ?」

 私は言葉を詰まらせながら話した。声は心持ち震えていた。

 「あはっはあああ。そうきましたか。う〜ん、どう答えようかな?そう、あたしは富川アケミ、17歳、あなたと同じ2年D組のクラスメート」

 「嘘をつけ。おれは知ってるんだ」

 アケミはいじわるな眼をよりいっそう光らせた。

 「何を?あたしの何を知っているの?あたしは誰?ねえ。教えてよ。知ってるんでしょ」

 私は唇を噛み締めた。

 「なあに、知りもしないで偉そうに言って。あたしの存在に気づいているから、面白い存在だと思ったのになあ。残念ね。失望したわ」

 アケミはからからと腹を抱えて笑った。その高慢な態度はよりいっそう彼女を美しくした。

 「お前は藤原をどこかにやっただろ」

 私は試しに藤原の名前を吹っかけてみた。根拠はどこにもなかった。

 「あれまあ。なんであたしがそんなことをしなくちゃいけないの。藤原君はあたしの世界に来たがったから、あたしは彼を受け入れただけ。それは彼の意志が選んだこと。あたしが無理矢理誘ったわけじゃないわ。言い掛かりはやめて。失礼しちゃう」

 「藤原はどこにいる?」

 アケミはケラケラ笑った。

 「直ぐに戻ってくるわ。でも、それより前にあなたも同じところに行くの」

 「どういう意味だ」
 
 「こういう意味よ」

 富川アケミは私に歩み寄った。私は逃げようとしたが、体がまったく動かなかった。今では彼女の顔は私の前にあった。近くで見ると、よりいっそう彼女の美しさが尋常ではないことが分った。妖気すらはなっている彼女の色香に酔わされたように体はいうことをきかなかった。彼女の規則的な息遣いをまじかに感じることができた。

 「静かに」

 初めて、アケミは優しく私に語りかけた。アケミは私の眼と自分の眼の焦点を合わせるようにして見つめた。私は彼女の瞳孔の収縮する動きすら見ることができた。アケミの長い髪が風に揺られて、顔にかかった。その髪の毛の間から覗いた瞳はとても深い闇を宿していた。それと似たような瞳を見たことがあった。そう、昨日の朝電車で見た北島先輩の瞳だ。私がその闇に吸い込まれそうになったとき、瞳にハッとしたような震えが揺らいだ。それは一瞬だった。しかし、それはまさしく驚きの表情だった。そして、アケミの目にいたずらっぽい光りが戻った。
 
 「あああ、面白いやつ。混じってるわ。君はきっと楽しみな存在になる気がする。だから、今は放っといてあげる。どうせ、明日にはあたしはまたいなくなるし」

 アケミはケラケラと笑うと、私の唇をピンク色の舌でペロッと舐めた。アケミの唾液は私の唇を濡らし、私の体は金縛りから解放された。

 「じゃあね。バイバイ」

 アケミは手を振りながら屋上の柵のある霧の奥に消えようとしていた。
 
 「お前は何者なんだ」

 私は大声で叫んだ。声は空気を震わせることなく霧に吸収された。アケミはそれに答えることなく、柵から飛び下りると霧の中に吸い込まれるように消えた。私は恐る恐る柵から下を見下ろしたが、そこにはもう誰もいなかった。

 <11>狂気

 屋上での出来事は私の心を掻き乱した。この町はどこか狂い出している。その原因が多分富川アケミにあることは間違いないように思われた。

 屋上にいたときには気づかなかったが、もう日が暮れかかっているようだった。階段には切れかかった蛍光灯がちかちかと点滅していた。人がいなくなった廊下は静かで薄気味悪かった。照明が消された真っ暗な教室がいくつも並ぶ廊下を歩いていると、目の前を人影が通り過ぎた。あまりに突然のことにぎょっと心臓が縮み上がるのと同時に、嗄れ声が私に呼び掛けた。

 「秋山くん」
 
 暗がりでよく見えなかったが、それが北島先輩であることは声で分った。木村が噂していたほど奇妙な声をあげることもなく、落ち着いた感じの話し方だった。暗闇に眼が慣れてくると、北島先輩が廊下の隅に蹲っているのが分った。

 「どうしたんですか?こんなところで」

 北島先輩が大きく息を吸い込む音がした。

 「君は会ったんだろう。彼女に」

 カノジョという言葉は私に富川アケミのことを思い出させた。

 「誰のことですか?」
 
 北島先輩の嗄れた笑い声が廊下に小さく響いた。

 「佐伯恵さ」

 木村から聞いた話は間違っていないようだった。きっと北島先輩は佐伯を待っているのだろう。
 
 「いいえ。会っていません」
 
 「嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。誤魔化してもダメだよ。私は知ってるんだ。君も彼女を自分のものにしようとしているんだ。あの柔らかな唇もあのふくよかな乳房もみんな独り占めにする気なんだな。そうはいかないぞ。私が許さないからな。クウウウウキイイイイイキ。アハアハ」

 奇声を交えながら話す北島先輩の声は尋常なものではなかった。狂気の混じった眼が暗闇に爛々と輝くのを見たとき、私は身震いがした。彼を刺激しないようにしながら、後ずさり、私たちの距離がある程度開くと、私は後ろを向かずに駆け出していた。背後から北島先輩の狂気の雄叫びががらんとした校舎の中で反響するのが聞こえた。

 <12>契り

 富川アケミと北島先輩に出会ったあの異常な日から数日は、私の生活は普通とは言わないまでも平穏な日々が続いた。相変わらず、母の若い服装は続き、エスカレートしていた。それにあわせるように、母は若さを取り戻しているようだった。前まではミニスカートを穿いていても体のラインが崩れているので、見苦しいこともあったが、最近ではミニスカートから覗く足はよりいっそうほっそりとしていた。太股はぴちぴちと弾力的になり、顔つきも今風の20代後半の女性といってもおかしくなく、化粧の仕方も現在風に変えていた。私と二人で歩いていたら、きっと姉と弟に間違えられるに違いない。それとともに母の私に対する言葉使いも変わった。最近では友人のような話し方で私の名前を呼ぶ。歌の趣味もテレビに出てくるアイドルの歌を好むようになり、服装も彼女らのような格好をするようになった。今では、妹のことを言わなくなった。

 もう一つ気になっていることは、私の眼のしたのホクロだ。このホクロができてから、私の目もとの印象は変わってしまった。瞳は瞼を押し上げるように大きくなり、瞼は二重になり、綺麗なアーチを描く長い睫毛によって縁取られた。その眼は独自の意志を持つかのように鏡を見る私をどきりとさせた。私の涼しげな目線は女子の顔を赤らめ、男子の心を乱した。この眼の変化に合わせるように、今まで顔の中で印象が薄かった薄い唇は厚みを増し、ほんのりと赤みがさしているように見えた。この唇は私の知らない間に甘えるようにすぼまったり、前に突き出したりした、まるでキスをせがむように。そして、サッカーで日焼けした私の膚は透き通るほど白く透明感を持ち、手で触ると吸い付くようなしっとりとした滑らかなものになった。それに伴い顔全体が垢抜けした。白い肌は移植されたように徐々に体中に広がっていった。しっとりとした肌は私の素肌に潤いを与え、柔らかな印象を私に与えた。私の筋肉質の腕はほっそりとし、細い二の腕の下にたっぷりとした皮下脂肪が蓄積され、私の腕の筋肉の栄養分を吸い上げているようだった。私の男としての強さはほっそりとした美しさに変換され、徐々に私の体にあやしい色香を築き上げていった。最近では女子からのラブレターが私の下駄箱に山のようにはいっていることがあった。そして、少数の男子からのラブレターも。そのような体の変化に周りは気づいていた。木村は最近、私の印象が変わったと言う。私を見る目付きもだんだんと他人に接するような感じになった。

 そして、毎朝私は起きると、鏡の前に自分の顔をうつしだす。そこに写る顔は昔の私の顔ではなく、自然と人の心を惹き付けるような涼しげな切れ長の瞳をした綺麗な女性的な顔だ。これが自分の顔だとは思えない。顔の一つ一つのパーツが自己の意志をもって動いているような気がするのだ。

 今朝、教室に着くと、私は自分の席の隣にショートカットの女が座っているのを見た。富川アケミに出会って以来、その席はずっと空席だった。富川アケミのことを周りに聞くと、皆知らないと首を横に振った。いまではあの女の存在をみんな忘れてしまっているようだった。
 
 私はそれが富川アケミだと思い、急ぎ足で自分の席の方に行くと、女の肩に手をかけて自分の方に振り向かせた。その女は驚いて丸いぱっちりとした瞳を大きく見開いた。ふっくらとした可愛い感じの女で富川アケミとは似ても似つかなかった。

 「なんですか?」

 その女は甲高い声で私に言った。その声はまだ小学生の女の子のように幼かった。

 「あ、ごめん。他の人と間違えちゃって」

 その女の子は疑問がとけたようににこっと笑った。

 「そうなんですか。あたし昨日転校してきた薙なるみです」

 昨日は学校を休んでいたから、その間に転校してきたのかと私は思った。なるみは手を差し出して、こちらににっこりと微笑みかけた。

 「握手!!」

 私は知らぬ間に手を差し出して彼女の手を握っていた。すると、なるみは声を大きくして叫んだ。

 「わあああ、あなたの手って女の子みたいに柔らかいんですね」

 そういわれて、私はすぐに手を引っ込めた。なるみは傷ついた顔をして悲しそうに上目遣いで私の顔を見つめた。その大きなうるうるとした今にも泣きそうな目を見るともうどうしょうもなくなった。

 「ごめん」

 と謝ると、私は彼女に手を差し出した。直ぐになるみの顔に笑みが戻った。

 「わああ、膚なんかすべすべしてる。うらやましいなあ」

 そのなるみの小さな手で手の平を撫でられるとくすぐったくて笑ってしまった。それを見て、なるみもニコニコと嬉しそうに笑った。この瞬間、私たちは友達になった。




                                         第2章につづく

                        






 






 あとがき

 ひさしぶりに小説を書きました。『ネムリノクニ』はいかがでしたでしょうか?楽しんで頂けたら幸いです。とにかく、「考えれば分ること」を書き上げたかったんですが、今は無理ということが嫌が上でも分ってしまった。だから、これを書いたんです。今回のテーマは現実と虚構の間を彷徨う主人公の姿です。ネムリというのは誰にでも訪れます。女の子だって。男の子だって。老人だって。子供だって。でも、眠ったあと、また現実世界に戻ることができるから、人は安心して眠れるのです。もし、一生覚めない眠りというものがあれば、それは死に等しいでしょう。たとえ抵抗しても、結局は眠りに征服されてしまう生物。その眠りを題材にもし眠りが現実を覆い尽くす力をもったらと考えたら、こういう小説になりました。もちろんTS小説です。でも、私の小説の書き方はきっとTSを書きたいというよりはTSは小説を書く中での一つの要素のような気がします。もし、よろしければ叱咤激励のメッセージをください。意志の弱い人間なのでみなさんの元気がもらえれば幸いです。それでは、また会いましょう。この小説のもう一つのコンセプトは書き上げることですからね。  

     第2章  アナタトイウ存在   夏に掲載予定(反響次第)
 
     ノリシロ(改め)ノリシロ2 深夜MISIAを聞きながら


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