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D.A. 迷子の小猫

作:猫野 丸太丸


※「D.A.」シリーズの要項はこちら。
http://ts.novels.jp/novel/dirty/angel00.html

 

「もうすっかり梅雨ね。」

 6月から勤めはじめていた病院の夜勤のため、私は午後の雨にうたれながら足を急がせていた。依頼主が変わるたびに道筋を憶えなければならない私ではあるが、5日も通えばもう慣れたもので、通勤のちょっとした裏道を見つけているのだ。私は駅前通りの商店街のパチンコ屋から景品交換所へと道を折れ、ビルの並びの裏手へと向かった。小さな児童公園を抜ければ、病院の通用門は目と鼻の先だ。

 公園に着いたとき、少ししまった、と思った。公園の土の地面には、今朝からの雨のせいでぬかるみと水たまりがあちこちにできている。でも引き返す時間はない、私は傘を構えると思いきって泥道を突っきった。

「どさっ。」

 ああ、言わんこっちゃない。いつまでたっても慣れることのないパンプスのせいだ、私はひどくころんで足首をひねってしまった。トートバッグはブランコのほうへとんで行った、キュロットスカートは泥水が染みこんでお尻がびしゃびしゃだ。

 私はどうにか立ちあがり、左足がアキレス腱断裂も三角腱の捻挫(ねんざ)も起こしていないことを確かめると、慎重に柵をまたいでバッグを取りに行った。

「にゃあ、にゃあ。」

「えっ。」

 私は耳を澄ませた。猫の泣き声だ、どこかしら。

「にゃあ、にゃあ。」

 私は小山の形をしたコンクリートの滑り台のほうへ近づいた。いつもの私なら捨て猫なんかほうっておくかもしれない、でもさっきの泣き声には、なにか違和感を感じたのだ。

「にゃあ、にゃあ。」

 私が小山の下をくぐるトンネルを覗きこむと、はたしてそこにいたのは、一人の人間の男の子だった。

 雨に降られて帰れなくなったのだろうか、男の子はすっかり濡れそぼってトンネルの中で縮こまっていたのだが、不思議なのは、彼が身の丈の半分ほどの段ボール箱に入っていたことだ。段ボールにはタオルが敷かれていて、外側には子供らしい字で「誰か、拾って!」と、フェルトペンで書かれていた。私はやさしく尋ねた。

「あなた、どうしたの?」

 少年はそっぽを向いて、言った。

「にゃあ、にゃあ、にゃあ。」

 私は納得した。

「まあ、そうなの。あなた、捨て猫なんだね。」

「にゃ。」

 私は振りかえった。よく見るとそのトンネルまでの地面に、段ボール箱を引きずった跡がある。この子、なんのつもりか公園の真ん中に段ボールを持ってきて、自分が入って捨て猫ごっこをしていたのだ。で、雨に降られて雨やどり、か。私はくすり、と笑うと、少年に手を伸ばした。

「あなた、お家はどこなの? おねえさんに教えてくれるかな。」

 少年は私の手を引っかいた。

「にゃ!」

 私がそれでも手を伸ばすと少年はもがいて、雨に湿った段ボールは穴が空いてしまう。

「ほらほら。段ボールがやぶけちゃったから、もう捨て猫ごっこはおしまい。」

 少年はそれでも少し暴れたが、じきにおとなしくなった。なんだか様子がおかしい。私は少年に触れた。発熱だ、38度5分ある。私は少年を抱えあげた。

「だめじゃない! 濡れたままでいたから、あなた、とても具合が悪いはずよ。とりあえずすぐそこの病院へ行こう!」

 バッグは後で取りに来ればいい。私はもう暴れる元気のない少年を抱っこして残りの距離を走り、病院の通用口をくぐった。救急受付へ急ぐうちに左足はますますくじけてしまい、パンプスはかかとがつぶれておしゃかになった。

 私の依頼先だったその病院で、その子の身元はあっさり判明した。小児科に入院中の子供だったのだ。

「ええ、もう、札付きのワルっ子ちゃんなんですよ。」

 担当の看護婦が、私にそう教えてくれた。なんでも病院を脱走しては、近所の人やお巡りさんに保護されているらしい。病院としてももう問題児のこの子を親御さんのところに返したいところなんだけど、ちょっとワケありでね、そうもいかないんだわと、その看護婦は教えてくれた。

 少年は点滴を打たれて、すやすやと寝入っていた。少年の名は、黒森 碧樹(くろもり へきじゅ)。その子と一緒に過ごすことになった数週間を、私は忘れることはないだろう。

 

 彼と出逢った次の日の午後に、私は足を引きずりながらその子の病室を覗いてみた。

「こんにちは、昨日の猫くん、いるかな?」

 私が呼ぶと、少年はちらりと毛布のすきまから、こちらを見た。

「熱が下がったのね。よかったわ、肺炎になっていたら、いのちにかかわるところだったもの。」

 私が微笑むと、少年は「にゃあ。」と鳴いて、また寝てしまった。

「猫くん、あなたのお名前は?」

「にゃあ。」

「あれれ、あなたの名前は、『にゃあ』君なの?」

「にゃあ。」

 私はため息をついてみせた。

「碧樹くんってかっこいい名前ね。お父さんが付けてくれたの、それとも、お母さん?」

「!」

「ねえ、教えてよ。」

 私が毛布をひきはがそうと両手を伸ばしたそのときだった。狙い定めた頭突きをくらった私は後ろに倒れた。うっかりベッド柵の下にはさまった左足首が、いやな音をたてた。

 

 碧樹くんの主治医の小児科医が、碧樹くんの肺のレントゲン写真のついでに私の左足も撮影してくれた。

「おやおや、あなたもあの子に油断して、怪我を負わされたのですね。足関節骨折ですよ。公園でくじいたときに骨にひびが入っていたのでしょうが、今回ので完全にずれてしまった。手術を受けて全治1ヶ月というところですね。」

 私は途方に暮れた。いま遂行中の依頼は、片足を腫らしたままではとうてい達成できないものだったのだ。全治1ヶ月か。回復がいちばん早い方法を採らなくてはならない。

「おねがいします、先生。」

 私は頭を下げた。これで私は看護婦ではなくこの病院の入院患者になってしまった。しかし、足の治療に専念するにはそれが一番だろう。ふつうの医者による手術は緊張するものだったが、しかたがなかった、自分で自分の足を切れるほどの力は私にはなかったし。私のそばにあの人、あるいはだれか助手がいてくれたらな、と考えながら、私は麻酔で眠ってしまった。

 

 手術後数日もしないうちに、私は傷にもっとも良いリハビリとして、病院を歩きまわった。病院でこんなにのんびりできるのは久しぶりだ、これも患者ならではの特権だろう。松葉杖姿の私がそのひまを利用して足を向けたのは、やっぱり碧樹くんのところだった。 碧樹くんは私を見るなり真っ青になって、ベッドの柵をぎゅっとにぎりしめた。おそるおそる尋ねてくる。

「おねえさん、入院しちゃったの?」

「うん。碧樹くんと、いっしょね。」

 私は自分の左足の包帯巻きを示した。碧樹くんは毒づきもせず、むしろ真剣に私を心配した。

「ごめんなさい! そんな、おねえさんがけがをするなんて、ぼく知らなかったんだ!」

「ごめんね。あなたみたいな子に頭突きされたくらいで、大人が骨折は、ないよね。」

 私は笑いとばしたが、それでも碧樹くんが謝るのを止めるのには30分くらいかかった。

「どうしたのよ。あなたが落ちこんでると、かえって私もつらいな。」

「そうか。うん。そうだね。じゃあ、これで最後。」

 碧樹くんは傍らの恐竜のプラモデルを持つと、一緒にぺこりと頭を下げた。

「ちゃんと名前を言ってなかったよね。ぼくの名前は黒森 碧樹。ヨーロッパの黒い森にただ1本の、紺碧に輝く魔法の樹には、蒼い小猫が住んでいるんだ。お母さんはそう言ってた、もう死んじゃったけど。」

 いきなりそんなことを言いながら、碧樹くんは屈託ない笑いを見せた。

「おねえさんの名前はなんなの? 『看護婦さん』さん?」

「あら、私の名前を知りたいのね。 ほかの人にはないしょよ。」

 私はおおげさに声をひそめた。

「私の名は、ダーティー・エンジェル。天国から落ちて来たの、みんなを助けるためにね。」

「そっか、よごれた、天使なんだ。」

 彼は英語に詳しいのか、名前の意味を一発で言い当てられてしまった。

 

 どうせ依頼の件は足が回復するまでおあずけなのだからとばかり、その後の私は碧樹くんのところに毎日通うようになっていた。碧樹くんは図画や工作が得意で、よく私に不思議な造形物を作っては見せてくれた。

「これはなに?」

「アポロの、宇宙船。アメリカに行ったとき、展示されていたのを見たんだ。」

 碧樹くんはベッドに寝そべりながら、灰色の折り紙で作った立体のすきまに指を突っこんでくるくる回してみせた。

「これは?」

「ギリシャの宮殿かな。ほら、この像って、首が無いのに翼はあるんだよ。」

 なかには、グロテスクなものもあった。毛糸で作ったヘビの飾りのついた黒塗りのわりばし、それを指して碧樹くんはすらすらと言った。

「これはアスクレピウスのつえ。病院を表わす飾りなんだって。病院なのに毒ヘビなんて、変だよね。あっ、」

 碧樹くんは首をかしげた。

「ダーティー・エンジェルもヘビさん、なのかな。うん、おねえさんはそんなイメージだ。」

「まあ、ひどい。」

 

 ある日は豪雨で、昼間とは思えないあたりの暗さだった。碧樹くんは借りてきた冬用のカーテンで部屋を二重に締め切ると、個室の電気を消した。3つまとめた懐中電灯のスイッチを入れて、模型のひとつに押しこむ。暗闇に、光が舞った。

「わあっ、これは!」

「じゃーん。プラネタリウムだよ。」

 この梅雨空に、星を見られるとは思わなかった。この子の想像力は、平凡に暮らしていた昔の私なんかより、ずっと広くて深いのかもしれない。

 そのとき、外で雷が鳴った。

「にゃあっ。」

 碧樹くんは怖がって私にしがみついてきた。せっかくのプラネタリウムは、転がってベッドの下に落ちてしまう。

「こら、碧樹くん、雷なんかが怖いの。もっと男らしくなさい!」

 そう言って、私はくっついてくる碧樹くんを引き離そうとした。もともとの性格が残っているからだろうか、私は子供をあまやかすのはどうもきらいだ。でもいまは、ただこうしているのもいいかもしれない。熱をもった碧樹くんの身体を抱きしめていると、そう思えてくるのだった。

 

 碧樹くんの家族は面会に来ないのか、と担当の看護婦に尋ねてみると、あ、そうそう大変、明日はお父さんの来る日よ、このあいだのことで怒られるんだわ、とその看護婦はあわてて言った。「お父さんってそんなに怖い人なの?」と私が聞いても、それ以上詳しくは教えてくれなかった。

 では患者さんに直接聞こう。私は碧樹くんにそれとなく話題を振ってみた。

「碧樹くん。明日は、お父さんに会う日ね。」

 クラムチャウダーを運ぶ碧樹くんのスプーンが止まった。

「どうしたの、だいじょうぶ?」

 碧樹くんは少しとまどったが、深くうなずいた。

「うん。ぼくは、だいじょうぶ。あ、そうだ、」

 碧樹くんは急に思いついたように、私の顔をのぞきこんだ。

「おねえさんも、いっしょに来てくれない?」

 

 碧樹くんのたっての頼みということで、私は同席を許された。サングラスをかけた碧樹くんの父親は、30分遅れで現われた。その父親に対する私の第一印象は、最悪だった。禁煙の病棟で煙草をふかしながら、彼は事業がうまくいかないことについてひととおりおしゃべり、でも治療費は心配しないで下さい、とのたまった。それからようやく、主治医に尋ねた。

「で、この子の具合はどうなんだ。また馬鹿なことをやったそうだな。おかしな鳴き声は? 出さなくなったのか?」

「ええ、それはまあ、もちろん。改善してきていますよ。」

 主治医は押しの強そうなその父親に負けていた。

「まったく、ガンや怪我ならともかく、こんななまけ病みたいな病気にかかって、だらしのない。あんたらもいつまで治療を続けるつもりだ? 本当に良くなっているのか。」

「はい、それはもう。ただ、体重の伸びがいまひとつでして、」

「病院でごろごろしているくせに、めかたも増えないのか。この子も早く学校に戻さないと、勉強が遅れるばかりでしょうが、先生。」

「お言葉ですが、お父さま。」

 私はおもわず口をはさんでしまった。

「この子の病気を治すには、まずお父さまのご協力が必要なのです。」

 父親は目を剥いた。

「なんだと、また俺のせいにするのか。俺をこの子にずっと会わせなかったのは、あんたらじゃないか。 第一あんた、足に包帯なんか巻いて、なにもんだ?」

「看護婦ですが。」

 父親はふん、と鼻を鳴らした。

「私は先生と話してるんだ。どうせ看護婦なんかはうちの子を甘やかしてるんだろう、ちょっと黙ってろ。」

 そういうことを言うのか。私が無言でにらむと、父親は少し言いよどんだ。

「まったく。こいつの母親といい、看護婦といい、女はすぐに調子に乗るんだな。知っているか、あいつ、最近具合がいいからといって、碧樹に会いたいだなんて言っているんだ。誰があんな母親失格に会わすか。」

「あら? お母様はお亡くなりになったのでは?」

 私はうっかりそう言って、しまったと思ったが、遅かった。父親はほんとうに怒りだした。

「死んだだと。 碧樹。おまえ、またでたらめを言ったな! 俺が母さんを殺したとでも言いたいのか。じゃあ、おまえのやっていることはどうなんだ、心配ばかりかけて、この卑怯者が!」

 父親が激しく椅子を蹴たてて立ち上がった。碧樹くんは父親の手の届かないところにいたにもかかわらず身を縮めて、けいれんのように手足を震わせた。

「おい! 碧樹!」

「にゃあ!」

 碧樹くんがいきなり鳴いたので、虚をつかれた私。

「なんだと! もういっぺん言ってみろ!」

「にゃあ! にゃあにゃあにゃあにゃあ!」

 両耳を押さえて鳴きまくる碧樹くんと、ののしり騒ぎつづける父親。なんて、親子の会話。

怒りつづける父親を主治医がなだめているあいだ、私は碧樹くんを抱きしめた。それでも碧樹くんは父親から目をそらさず、鳴き声は止まらなかった。

 そんな調子で、父親との面談は不毛に終わった。碧樹くんは人間のことばを、ひとことも話さなかった。

 

 この件で、私は碧樹くんの病気の深刻さの意味を再確認した。

 バタード・チャイルド症候群。親による小児の虐待や放置が続いた場合、その子の成長発育に異常をきたすことで知られている。治療は、愛情を注ぐこと。もしどうしても虐待が続くようなら、あえて実の両親から引き離すことも、必要である。

 でも、碧樹くんのような変化を見せるのも極端である。声変わりもしていない、小学生としてもあまりに小さなこの少年が、ほんとうに15歳だというのだろうか。そして、彼の白い肌に残る無数の傷痕。この父親と碧樹くんとのあいだにどんな過去があったのか、私は想像するだに恐ろしかった。

 もうあの父親とは、二度と会わせないほうがいいのではないだろうか。私はそう言ったが、主治医は、病院の権限ではそこまではできないと言うのみだった。

 

 碧樹くんの体調はいくらか良くなってきていた。梅雨の晴れ間に、私たちは病院から少し離れた森林公園に出た。

「あれはヒヨドリ、あれはモズ。」

 碧樹くんは次々に小鳥たちの名前を挙げていった。

「ああ、池にゴイサギがいるね。ほら、オタマジャクシを狙ってるよ。」

 サギは碧樹くんの言うとおり、ひょい、と首を伸ばして餌を漁った。

 ひとしきり拍手をして鳥たちを驚かせたあとは、碧樹くんは車椅子から立ち上がってでこぼこ道を歩く練習をした。私は傘を持ってあとについた。クヌギやカシの青葉の下で、碧樹くんはよいしょ、よいしょ、とふらつく足を交互に進めた。ふと、その歩みが止まった。

「おねえさん。あれ。」

 碧樹くんが指差す先には、一人のやせた女性が雨傘兼用の日傘をさして、後ろ向きにベンチに座っていた。

「あのかたが、どうかしたの?」

「お母さんだ。あれ、お母さんだよ!」

 碧樹くんは小径をそれ、樹々の間に入るとその女性との直線距離を走りはじめた。私も慌てて追いかける。碧樹くんは雨水の溜まったでこぼこをうまく避けていたが、とうとうベンチの直前で木の根に足を取られて転んでしまった。その物音に振り返った女性は、疑い深い眼差しで碧樹くんを一瞥すると、立ち上がって行ってしまった。

「碧樹くん。苦しくない?」

「はあ、はあ。ごめん。あのひと、お母さんじゃなかった。」

 私は去り行く女性の、背中の曲がった後ろ姿を見ていぶかしんだ。碧樹くんのお母さんは、あんなに痩せて老けた感じの女性なのだろうか。

 気を取りなおした碧樹くんは、半ズボンのポケットからたこ糸を取り出した。糸とするめ、ということは。私はこのごろの雨を集めて勢いよく流れる溝の吐き出し口へと、碧樹くんを案内した。

 溝の石垣の隙間にするめを垂らすと、アメリカザリガニが両手のはさみをゆらゆらさせた。碧樹くんは本で読んだだけであまりこういう遊びはやったことがないのだろう、なかなか釣れないでいた。

「碧樹くん、ちょっとおねえさんに貸してごらんなさい。」

 私は糸の長さを調整して、するめを絶好のポイントに釣り下げた。昔取ったきねづかか、ほどなくザリガニを3匹ほど釣りあげた。

「すごいじゃない、おねえさん!」

「まあね。」

 油断した。私は地面に置いたザリガニを前からつかもうとしてしまい、中指をおもいきりはさまれた。

「痛たたたたっ!」

 それを見た碧樹くんは大笑いして、身体を震わせた。そしてそのまま後ろに反ると、頭から雨水の溜まった溝に飛び込んだ。

 私が必死に彼の足を引っ張りあげたおかげで、彼は溺れずにすんだ。

「だいじょうぶっ。なにやってるのっ。」

 碧樹くんは目をぱちぱちさせた。うん、頭は打っていないようだ。空は明るかったのに、またぱらぱらと小雨が私の顔に当たってきた。

「ごめんね、おねえさん。大笑いしたら、息が苦しくなって気絶しちゃった。でもほら、雨に濡れたって言えば、溝に落ちたことは秘密にできるね。」

 碧樹くんはそう言って笑ったが、私は碧樹くんがほんとうに気絶してから落ちたのか確信が持てなかった。わざと飛び込んだのだ、この子は。そういう考えが頭から、離れなかった。

 

 手術から2週間後には、私は怪我をした足にしっかり体重をかけられるようになった。傷の具合が順調になれば、忙しいほかの看護婦たちが私を放っておくはずがない。私は、少しずつ現場の仕事に復帰するようになっていた。そこで碧樹くんの担当の看護婦とまた一緒になったので、私は詳しい情報を得ようとした。私が碧樹くんととても仲が良いことを理解してくれた看護婦は、今度は話をしてくれた。

あのお父さんが悪い人とは思えない、看護婦はそう言った。私が反発すると、看護婦は答えた。

「だから、あなたはお父さんが碧樹くんを実際に殴るのを、見たことがあるの? 私はないわよ。」

「たしかに見たことはないけど。では碧樹くんの身体のたくさんの傷は? だれがやったって言うの?」

 看護婦は目を剥いた。

「あなた、知らなかったの、あの子の身体の傷はね。腕や顔のは自分でやったものだし、背中やおしりのは、あの子のお母さんが傷つけたものなのよ。」

 なんですって。

「あの子のお母さんって、働きながら碧樹くんを育てたせいでくたくたになっていたらしいんだ。そのせいかどうかは知らないけど、覚醒剤に手を出しちゃったのよ、あの子が小学生のころにね。中毒になった後は育児も仕事もだめになって、それどころか暴力を振るうようになったらしいのよ。碧樹くんの行動がおかしくなったのも、それ以来なの。」

「それじゃあ、お父さんがあんなにいらいらして疲れた雰囲気なのも。」

「そう。お父さん、なんとか家庭を保とうとして必死になっちゃってるのね。あの子をおちついて包みこんでくれる人は、誰もいないのよ。」

 私は調整していた注射器から、うっかり中味を半分くらい漏らしてしまっていた。私は改めて薬液を作りなおした。

「あの子のお母さんは? いまは、どうしているの?」

「ずっと、別の病院に入院しているわ。まだ当分、出られないみたい。」

 

「僕は黒い森で迷子の小猫、お母さんは雪の女王なんだ。」

 碧樹くんは私と一緒に編み物に挑戦していた。碧樹くんの編み棒は私なんかよりずっと軽やかに動いて、真っ暗な空に漂う無数の雪の結晶のような模様のマフラーを編みあげていた。

「お母さんがいなくなった日も、雪が降ってた。でもね、別れるまえにお母さんはぼくにコートもマフラーも、ありったけの服を着せたんだ。だからとても暑い日だった、今日みたいに。そうおぼえている。」

 二人はしばらくせっせと針を動かす。私は話をそらした。

「じゃあ、あなたにとってお父さんはなんなの?」

 碧樹くんは暗い顔もせず答えた。

「お父さんは、お父さんだよ。分かんないや。」

「嫌いじゃないの。」

「嫌いなんかじゃないよ。お父さんはぼくにいい子になってほしいだけなのさ。」

 碧樹くんはテキストをめくって編み物の記号とにらめっこした。

「お母さんのせいでぼくは悪い子になったんだって、言われるんだ。だからぼくはずっと黙っているんだ。お父さんの邪魔にならないように、小さいままでいるんだ。」

「そんな、駄目よ。大きくならなくちゃ。」

「べつに。いらないよ、そんなもの。」

 碧樹くんは編み物をテーブルに投げ出した。グラスに氷を浮かべたバナナジュースを飲む。

「将来、なりたいものはないの? あなたの好きなものは、ないの? 猫はだめよ。あなた、人間なんだから。」

 碧樹くんはすこし考えた。

「好きなものになれるなら、ぼくは看護婦さんになりたいね。」

「看護婦さん? ああ、男だったら、看護士って言うのよ。」

「かんごし? なんだよそれ、にせものっぽい。ぼくは看護婦になるの。うん、そうしよう。」

 碧樹くんは顔を上げた。

「だってぼくのお母さんも、もと看護婦だったんだよ。」

 碧樹くんはまだ端の留まっていないマフラーを、私の首にきつく巻きつけた。暑苦しくて首筋に汗をかいたが、碧樹くんが部屋に戻った後も、私はしばらくそのままにしていた。

 

 その夜も夜勤の手伝いで、私は薬品の並ぶ準備室で明日使う薬品の調整をしていた。私は点滴のボトルの向こうにゆがんで見える病室の扉を見つめた。私と出逢ってからも、あの子の体重は少しも増えていない。自己を否定しているかぎり、彼はなににもなれないのだ。では、たとえばこの調剤にあの薬を混ぜれば、碧樹くんと彼の両親との絶望的な関係を絶つことができるのだろうか。それが私の治療、でも、あんな罪も無い子供の運命に手をつけることになる。ほんとうに許されることなの? いつになく、私は迷っていた。

 だれもいないはずのその部屋で、背後から女性の声がした。

「元気そうね。でも、仕事のほうはうまくいっていないのね。」

 その女性は後ろから左手を伸ばして、白衣の上からそっと私の柔らかな胸をなでた。指先に力をこめる。

「うふふ、かわいい子ね。迷っている貴方の鼓動がはっきりと伝わってくるわ。」

 私は息苦しさをおぼえた。この声は、あの人だ。動悸が止まらない。

「桐香さん、やめてください、苦しいです。」

「当然ね。この苦しみは貴方自身が生んだのだもの。貴方の選択には、許しがたいミスがあるわ。」

 私の左耳のすぐそばで、ささやき声が聞こえた。

「ダーティー・エンジェルは患者を愛してはならない、私はそう教えたはずよ。」

 私は必死に答えた。

「愛しているだなんて。あの子はまだ子供だし、だいいち私はもともと、」

「ふふ、うそおっしゃい。」

 声の主が私の背中に、なにか硬いものを突きつけた。

「分かっていないのね。この治療で、救いを求めているのはあの少年じゃない、孤独な貴方のほうなのよ。」

「違うっ。あなたになにが分かると言うの、桐香さん!」

 私はやっとのことで振りかえったが、そこには誰もいなかった。かわりに私の背に立てかけられていた長い木の棒のようなものが、からからと音をたてて転がった。どこからともなく声が聞こえた。

「貴方にそれを、預けるわ。」

「名前は、アスクレピウスの杖。みすぼらしい木の杖に見えるけど、本物なのよ。人の生死という、もっとも恐るべき運命を変える力を持つわ。」

「せいぜい、がんばることね。でも貴方自身が彼を欲しがっているかぎり、彼の病気はけっして治せない。くれぐれも、診断をまちがえないことだわ。」

 私はひとり、暗い準備室のなかで唇をかんだ。

「私は、まちがってなんかいない。そうよ、まちがったりはしない。」

 

 碧樹くんと父親との、もう何回目かの面談だった。父親はあいかわらず口汚なかった。

「おい、おまえ、いいかげんなにかまともな言葉を言ったらどうなんだ! 15歳にもなるのなら、くだらない思わせぶりなんか使わずにホンネを言ってみろ。俺がおまえにつらく当たったのが憎いか、仕事ばかりで家にいなかったのに腹が立つか。それとも、おまえの母さんを救えなかったのが気に入らないのか? 言ってみろ!」

 碧樹くんはやはりなにも言わずにじっとしていた。父親は待ちきれずに、「時間だ。仕事に戻る。」と言って立ち去ろうとした。しかし、今日は違った。

「まって、ください。」

 碧樹くんが父親のあとを追いかけた。父親は、なんだ、という顔をした。

「じゃあ、言います、ぼくは、宣言します。」

 碧樹くんは枯れかけた声をはりあげた。

「ぼくがじゃまになるのなら。ぼくはもう、お父さんとは一緒に暮らしません! あの看護婦さんと、いっしょにいきます!」

 父親は碧樹くんに劣らず青ざめた顔をした。そして、碧樹くんと私を見比べた。

 碧樹くんが自分から父親に近づいていたことが、最悪の事態を招いた。私には止められなかった、父親の平手が、とうとう碧樹くんの細い体をふきとばしてしまったのだ。

「ふざけるな! おまえまで、おまえまで俺を裏切るのか! 自分の息子が邪魔だと。邪魔だと思うのなら、おまえなんかとっくに捨てている。おまえが病院を抜け出して自殺まがいのことをしたり、病院の誰かに乱暴したりするたびに、どうして俺が仕事を休んで病院に来ていると思っているんだ、自分で考えろ。ちょっと甘やかされたからって、見ず知らずの看護婦についていっていいのか、無責任だ、そんなのは! 俺が腹が立つのは、男のくせにおまえがそうやってうじうじ甘えているからだ! 大人の男なら、自分で母さんを救ってみせるくらいのことを言ってみせろ! そんな腐った根性の奴は、俺の子ではない、どこへでも、勝手に失せろ!」

 父親はそれだけ言い切ると、そのまま行ってしまった。私は碧樹くんを助け起こした。

「いけない、頭を打っている。早く手当てを!」

 

 碧樹くんは目を覚まさなかった。もともと足りなかった碧樹くんの体力はみるみる低下し、危険な徴候を見せた。主治医はあらゆる検査を繰り返したが、碧樹くんを救う手がかりを見出せないようだった。でも私には分かる、その日のうちに死に絶えようとしているのが、碧樹くんの心であることを。私は決心した。

「碧樹くん。あなたは、死なせない。」

 深夜、ほかの看護婦はすやすやと眠ってしまった。ここにいるのは、私と碧樹くんだけ。私は静かに、やせ衰えた少年の頬に手を添えた。

 

 翌朝早く、日がまだ昇りきらないうちに、碧樹は目を覚ました。

「あ。」

 碧樹はのどを押さえた。起き上がった身体から毛布がずり落ち、そのふとももがあらわになる。碧樹は、すらりとした脚線を不思議なもののように眺めた。

「あしが伸びてる。腕も、髪も。きれいだあ。」

 碧樹くんは私を見つけて、自分と私との身体の相似に気づいたようだった。

「そうか。ぼくってば、おんなになったのか。」

 ベッドからそっと足を垂らし、はだしで立ちあがる碧樹。おもわずよろけたので、”彼女”を支えてやる私。碧樹はそのまま私の瞳に映る自分の姿を見つめてから、うっとりとした。

「おねえさんより、ちょっと背が低いだけなんだね、ぼく。お父さんにだってもうちょっとで追いつきそうだ。」

 碧樹は青い病衣の襟を、ふくよかな胸の前でどうにか合わせなおした。すそが持ち上がり、白いパンティが見えてしまう。あわてて両手で隠そうとして、ええっ、おちんちんがないの…と言いかけて、私が聞いているのに気づくと、碧樹は少しはにかんだ。私は微笑んだ。

「碧樹くん。あなた、まだ看護婦さんになりたい? いまならなれるわ。」

「ほんとう? すごいや、ぼく、看護婦さんになれるんだね。」

「ええ。」

 私は「だから私と、」と続けようとしたが、碧樹は私の言葉など聞いてはいなかった。

「そうか! ぼく、元気だったころのお母さんみたいになれるんだね。『みんなが嫌いなぼく』じゃ、なくなるんだね!」

 私はえっ、と声をあげた。

「そうだ、お父さんがまだいるでしょ! 美しくなったぼくを、お父さんに見てもらわなきゃ!」

「待って、碧樹さん!」

 私が止めるまもなく、碧樹はスリッパを履いて病室から飛びだしていった。

 廊下では、目を赤く腫らした父親が長椅子に座っていた。碧樹が近づくと、父親はなにがあったのかとあわてて顔を挙げた。

「お父さん、ぼく。」

「なんだ、おまえは? 俺になにか用なのか?」

 父親はよろよろと立ちあがった。その少女が碧樹だと気づかないのだ。

「じゃあ、俺の話を聞いてくれ。俺のひとり息子が、死にそうなんだ。なあ、なんでこんなことになったんだ。教えてくれ。」

「でも、ぼく、」

 父親に詰め寄られた碧樹がよろける。父親は、碧樹の身体の上に覆いかぶさった。錯乱したのか、とんでもない行動に出る。

「しかしあんた、たまらん身体をしているなあ。俺の女房そっくりだ。こんなところに現われるなんて、天使か、青い天使が母親代わりにあの子のところにやって来たのか。この乳房は、あの子のためのものか?」

 父親はあろうことか、碧樹の胸をまさぐり、パンティをむしりとろうとした。私が止めようとしたときには、碧樹は父親を突き飛ばし、悲鳴を上げながら非常階段のほうへと走って行った。私は倒れ伏している父親を無視して、碧樹の後を追った。

 

 まだ薄着では寒い朝、日は昇ったかに見えたが、厚い雲が流れて来て、空は真っ暗になっていた。碧樹くんは狭い屋上に出ていた。私は足の痛みのせいで階段を昇るのに苦しんだ。やっとのことで屋上への鉄扉を開けると、湿った風に乗って、碧樹の声が聞こえてくる。

「あはは、みてよ、この身体。ぼくのこのむねなんか、お父さんはだい好きさ。お父さんはぼくのあしもなめるかな、お母さんをいじめたときみたいに。きっとそうだよね、」

 碧樹の言葉は止まらなかった。降りだした雨が、彼女の頬を伝う。

「でも、ぼくがお父さんに逢っても、お父さんはぼくのことを、もう分からないんだ。お母さんだって、きっとそうなんでしょう、おねえさん。」

 碧樹の衰弱した両足は急に増えた体重を支えきれない、彼女はまたふらふらと、屋上に積んであった廃棄物コンテナーに手をついた。キャスターが転がり、バランスを崩したプラスチックの箱が落下して、使い古しの注射器や包帯が屋上のコンクリートの上に散乱した。私は必死に言った。

「あなたのご両親がどうだろうと、あなたはあなたなのよ、碧樹さん!」

「うるさい! ねえ、そうなんでしょう。ぼくがいなくなることなんかどうでもいい。ぼくのお父さんが、ぼくのお母さんが、ぼくのもとからいなくなるんだ! そうなんだろう、こたえろ、ダーティー・エンジェル!」

「しかたがなかったのよ、碧樹さん。あなたを助けるためには。」

 私は震える碧樹に近寄ろうとした、必死に両手を伸ばした。

「碧樹さん、賢いあなたなら分かるはずよ。ご両親とあなたが触れ合えばおたがいを傷つけてしまう、まだ一緒には暮らせないわ。ねえ、いまは私についてこない? あなたをこのままにはしておけないの!」

 返事はつれないものだった。

「それはできないね。ぼくは、おねえさんのおもいどおりになんかならない。」

 碧樹は廃棄物の中から黒色の長い棒を拾い出した。あれはアスクレピウスの杖……、いつのまに、どうしてそこに! 碧樹は杖を私に向かって振りかざした。杖の先にしっぽを巻きつけたヘビが、螺旋を描きながら黒い空に舞い躍っていく。

「いのちが大事だというのかい? 『死ぬ』よりつらい『生きる』もあるのに!」

 おもわずひっこめてしまった私の手がもういちど伸びる前に、碧樹は私の手の届かないところへ、空をめざして昇っていった。

「やめて、碧樹くん、死ぬつもりなの!」

 屋上を取り囲むフェンスから身を乗り出した碧樹はせせら笑った。

「死なないさ。もう自分から死んだりするものか。ぼくからなにもかも奪ってしまったダーティー・エンジェル。おねえさんをこの手で殺すまでは。」

 「死」。その言葉とともに、碧樹の握りしめたアスクレピウスの杖、その先の二匹のヘビが私めがけて牙を剥いたように、私には思えた。しかし体力の限界だったのか、碧樹の意識はここで途絶えた。少女の姿の碧樹は杖を抱えたまま、天使のように15階の高さから真っさかさまに翔びたった。

「そ、そんな!」

 私は必死にフェンスの金網の隙間からのぞきこんだ。はるか下、雨に曇るアスファルトの地面に、碧樹くんの身体はどこにも見つからなかった。

 

 黒森碧樹は結局、病院から脱走して行方不明、ということになった。私は自分の足の治療と、もともと果たすはずだった依頼を終え、その病院に二度と戻ることはなかった。その後私がどうしたかって? 決まっている。私はダーティー・エンジェル、それ以上でもそれ以下でも、ないのだから。

 

 1ヶ月後のことだった。夏の日差しが強まるなか、私は次の依頼を受けるためにしっかりした足取りで、ある地方へと向かっていた。

 ちょうどその病院の正門を越えて蝉の鳴く坂道を登っていたときだった。、私は一人の看護婦とすれ違った。病院から出て来たのだろう、そのブルーの白衣を着た看護婦は、白いシーツに包んだ長い杖のようなものを持っていた。

「にゃあ。」

 そうだ。ここの名前は、どこかで聞き覚えがある。碧樹くんの母親のいた病院だ! 

 私は慌てて振り向いた。

「あなた、碧樹くん?」

 しかし、青い看護婦はどこにもいなかった。私はもう振り返らず、そのまま病院へ、私の戦場へと乗りこんでいった。

 いつかまた、碧樹くんに出逢うかもしれない。そのとき私は、二度と過ちを犯さない。きっと、そのつもりだ。

 
 

fin.

 
 


あとがき

こんにちは、猫野 丸太丸です。
 一人称形式のダーティーエンジェルは、ぐっと内省的になりましたがいかがだったでしょうか。
 今回はちょっと伏線(オリジナル設定)を残してみました。
 では、また機会がありましたら、お会いしましょう……。


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Last update:2000/07/09

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