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出会いは偶然
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   ACT・1 出会いは偶然

 俺=紀平 幾斗【きひら いくと】・16歳=は、ハッキリ言って霊感が強い。
 他の人と比べたことはないからどの位のレベルなのかは知らないし、テレビの中に出てくる霊能者ほどではないかもしれないけど、本当に危ないと思うところなんか、写真で見ただけでも分かる時がある。
 しかし、まだ誰にも言ったことが無いし、両親もたぶん知らないんじゃないかと思う。
 俺が初めてこの能力の怖さを知ったのは、確か、小学校にあがる年の秋だったと思うけど――両親とホテルで食事をして帰る時に、前から歩いてくる男が、変に派手っぽい服装をしてるのが見えたんだ。
 母さんは女優をしているから、そんな服装の人間は俺の周りに珍しくはなかったが、中年で見栄えがいいスーツ姿のそれは、妙に視線を捕らえて離さなかった。
 男がすぐ前まで来た時に気がつく……服装が派手なんじゃなく……そこに、歪んだ人間の姿がまとわりついているせいだった。
 ――お母さん、あの人、身体に変な女の人をくっつけて歩いてるよ。
 思わずそう言った口は、眉を吊り上げた母の手ですぐに塞がれる。
 ――幾斗ったら、何を言ってるのよ。そんな失礼なことを……ごめんなさいね。
 ――いえ、そんな、子供の言うことですから――。
 テレビや映画で見慣れている美人に謝られ、その人はニコヤカに去って行った。
 けど、全く重力に縛られないまま、男の肩と胸に手を当てて浮かぶ白い女性は、すれ違った瞬間、ヒヤリとした眼と、そこだけ妙に赤い唇で、俺に笑いかけて……。
 背中がゾウッと粟立った。
 ――全く、時々変なことを言うんだから、この子ったら。
 ――いいじゃないか。案外、本当に幾斗には見えているのかもしれないよ。霊感みたいなものが在ってさ。
 ――貴方までそんな……霊感だなんて、気持ち悪いこと言わないで頂戴!。そんな訳の分からないことは、テレビのワイド・ショーだけでたくさんよ!!。
 その時、本気で嫌悪感を表した母さんの顔を、俺は今も忘れていない。
 父さんも困ったような表情をしてた。
『そうか……ボクには見えても、他の人は見えない物があるんだ……』
 以来、誰にもこの能力のことは言わないようにしてきた。
 これは正解だったと思うね。
 ‘変なものが見える’などと口走ろうものなら、気味悪がられるか変人扱いされるだけだ。だから、俺はとにかく他人に知られないように過ごしてきた。
 それに……。
 俺は、喧嘩も強いし顔もイイ方なんだよ。自分で言うと身も蓋もないけど。
 本当だって。
 ラブレターも結構貰ってるよ。
 たださ……こんなことは霊感以上に人に言えないことなんだけど……俺、小さい頃、女の子に散々苛められたんだ。
「好きだったり気になる相手というのは、かえって苛めたくなってしまうものなんですよ。男の子では良く云われますが、女の子だって同じです」
 泣いて帰ると、お手伝いのアヤコさんは笑ってそう言ってくれた。
 それが本当かどうかは確かめたこと無いけど、結局、その反動で男らしく強くなりたくて空手は四段までやってたし、女の子が近づくと無意識で“恐い顔”になってるらしい。
 それが逆に、今ではカッコイイとか女の子に受けてるんだから、人生分からない。
 まあ、男だから女の子に騒がれて悪い気はしないし、異性に興味が無くはないけど――ああ、そういうのじゃなくて、霊感の話だったっけ――でも、これが少し関係が在るんだ。
 硬派で売ってる俺が‘霊感強いんです’なんて死んでも言えないだろう?。
 だって、カッコ悪いじゃないか。
 考えてもみてくれ……テレビの中での霊能者なんて、いきなり泣きだしたり、気違いみたいに叫んだり、霊感が有る俺から見ても‘マジかよ’って感じだね。
 だから、例え目の前に浮遊霊がアップで見えても、ビルの窓に不自然な真っ白い顔が映っていても、ギクリとはするけど、顔や声には出さないようにした。そして、出来るだけ“何とかは危うきに近寄らず”を心掛けている。
 そうやって、今までは隠し通してきた。
 ――しかし。
 “その時”だけは気を抜いていたんだよ。
 まいったな。あんな事になるなんて思ってなかったんだって。

 高校一年生の二学期の中間テストが終わった放課後、俺は鞄を担いで二階の廊下を歩いていた。
 そこで何だか自分の名前が呼ばれたような気がして窓の外を見ると、校門に向かうコンクリートのスロープで、小麦色の肌と顎下ラインで揃えた茶色いストレート・ヘアの甘いアイドル系美少年が俺を手招きしている。
 親友の一人、原田 鷹弥【はらだ たかや】だ。
 コイツのとこは、母親が歌手で父親がプロデユーサー、かつ、自分もいくつものペン・ネームを使って密かにシンガー・ソング・ライターとしてデビューしているという芸能人一家。
 だからって訳でもないけど、文系には非常に強い。面白いことや悪戯を考えつくのも大抵コイツで、敵には廻したくない策略家でもある。
 俺は窓を開けて叫んだ。
「なんだよ鷹弥!、俺に何か用か!?」
 フルフルと、アイツは髪を揺らしながら首を振り、俺に負けずに叫び返した。
「違うよー。僕じゃなくて孝太郎が幾斗のことを探してたからさー!!」
「孝太郎が何処でだ!?」
「さっき体育館の方に行ったー!」
「何で体育館なんだ!?」
「それが、僕が勘違いしたもんだからさー!!……幾斗が教室に居ないって聞いて‘またどこかの部の助っ人にでも借り出されてるんじゃないか’って言ったんだー!。悪い、孝太郎にも謝っておいてくれよー!!」
 なんだ、孝太郎の奴、俺をまたつまらない実験のモルモットにするつもりなのか?。それとも、また女の話かもしれない。
 それでも、仕方なく体育館の方に行ってみることにする。その途中、ガラス張りのデカイ室内温水プールの横を通った。ウチのU学園高校、私立で金持ちだからね。
 そうしたら、そのプールで誰か泳いでいる。それも、遠目で見てもすげえ可愛い女の子。
 このU学園では、普通の学校なら鍵をかけてあるようなところでも昼間は平気で入れるようになっている。もちろん、備品室とかには鍵がかかっているけどね。だから、生徒の誰かが先生の許可を取って泳いでいたとしても不思議はなかった。
 見たことの無い子だな、なんて思いながらも俺が、つい、その子の側に行ってみようって気になったの……男なら分かるだろ。
 校舎と体育館とここをつなぐ、これもガラス張りの空中回廊から直接入れるプールの観客席の端に来た時、俺はビックリして全身の動きが止まってしまう。ただ心臓の音だけがドッキドッキと波打っていた。
 その子、素裸なんだ。
 ここで、おかしいと気付いてれば良かったんだよ。だけど、ほら、分かるだろう?。やっぱり、本能的な好奇心てのが在ってさ、何時の間にかプールの中で魚になってるその子の姿に見とれてしまってた。
 それで、目が合った途端。
{キャー!!}
「い、いや、違うんだそんなつもりじゃないんだ!!」
 じゃあ、どんなつもりだ?。なんて、何を自分で自分に冗談言ってるんだ、俺わ!。
 俺は冷や汗がどっと流れるのを感じた。焦って逃げ出そうとも思ったが、それはまた卑怯なんじゃないかなんて何をどうしたらいいのか全くパニック状態。
{貴方……私が見えるの?。聞こえるの?}
 これが、声もめちゃ可愛くて――って、おい!、そんな場合じゃない!!。
 次の瞬間、俺の背中にスウッと寒気が走った。
 彼女の科白を訳すと、『私は、誰にも見えないし、声も聞こえないはず』ってことだろう?。
「ま、まさか!」
 俺は今度こそ逃げる体制に入ったね。ちょっともったいなかったけど……。
{逃げないで!、探してたんだから!!}
 叫んで彼女は俺に向かってきた。水から空宙に何の障害も無く真っ直ぐ……つまり――。
 こいつ、人間じゃないっ?!。
 まずい!。なのに、男の本能が俺をすぐには逃がしてくれなかった。
 超可愛い女の子が一糸まとわぬ姿で両手を広げて迫ってきた場合、普通の男なら誰でも後先考えずに俺と同じことをしたんじゃないだろうか。
 そう、俺はつい両手を差し伸べていた。
 白い肌。赤い唇。大きくてくっきり二重の眼。ふっくらとした頬。こじんまりと整った鼻。肩の辺りで揺れる黒髪。
 抱きしめた!!。
 その瞬間、身体の中に何とも云えない感覚が走った。もう、何とも云えない快感が、だ。
 しばらくの空白の後、俺はふらふらと上半分がガラス張りの渡り廊下まで歩いてきて、手すりにしがみつく形で身体を支えた。
「……い、今のは、何だったんだ?」
 しかし、幻なのにスゴイ快感だったぜ。
 なんていう幸福感は、すぐに絶望の縁に直滑降し始めた。
{幻じゃなくてこれは現実よ。本当は分かってるんでしょ?}
 頭の薄暗闇の中に、さっきの女の子が裸で座っている。
「嘘、だろ?」
 目のやり場に困って思わず瞑るとなおさらくっきり見えてしまい、俺は思いっきり目を開いた。
{嘘じゃないってば。今日から一緒よ。よろしくね}
「なんてこった?!。頭から声がするよ!!」
{当たり前でしょう?。私は貴方の中にいるんだから。
 ――あ、自己紹介がまだだったわね。私、エムよ。名字は憶えてないの。貴方の名前は?}
「な、何が、俺の中に居るとか、名字は無いとか…冗談はやめてくれよぉ」
{失礼ね。私は名前を訊いてるのよ}
「あ?、ああ、幾斗だよ。紀平 幾斗――なんつー場合じゃないだろ!。
 だから、成仏したいんだったら御経でも線香でもやってやるから、俺の中から出ろっ!」
{運命なんだから、駄・目・よ・!}
 開けっ放しの目がジンジン痺れてくる。瞬きをすると、ジョワーっと涙が湧いてきてギュッと瞑ってしまいたくなる誘惑に駆られたが、それを精神力で我慢した。
「なにが、運命だぁ?。なぁにがぁ、ダぁメぇだとぉ?」
 きっと、俺の目は座ってたと思うね。エムは俺の中でくすくす笑ってる。
{だって、私が成仏するには特別なことをしなくちゃいけないんだもん。それをするまで、この身体からは出られないのよ}
「分かった、それをしてやる。だから、成仏してくれ!」
{あら、直接的では貴方には無理よ}
「どうしてだ?」
{どうしてって……それは……}
 エムは恥ずかしそうに俺の頭の中でもじもじした。
 頭の中で可愛い女の子が裸でそんなことをしてみろ。硬派でならしているとはいえ、俺も健全な16歳の男子高校生だからな。下半身のあれが、ああなってきて、そのつもりは無いのに……まいったなぁ。
「あのさ、どうでもいいから、裸で居るのはやめてくれないか?……お、俺は男なんだぜ」
 エムの感覚が俺の身体を這うのが分かった。
「そ、そんな事をしたら、あ……もっと、元に戻らなくなるだろっ!」
 その時、俺の肝心な処にエムの手が――。
{あ、これって?}
 二人(?)ともしばしの沈黙。
 そして、口許にタラーッと生暖かい感触が。
 触ってみると指先が真っ赤に染った。
 鼻血だ。
{キャーッ!!}
 あ、あのな、キャーじゃないぜ、俺の方が困ってるんだからなっ!。
{スケベッ!}〈バシン!!〉
 頭の中で、エムは俺を殴った。
 どうやったらそんなこと出来るんだよ、と思いながら俺は気が遠くなっていった。

 目を開けたら象牙色の天井。
 ガバッと跳ね起きると、横で悪友の楠 孝太郎【くすのき こうたろう】がニヤニヤしながら俺を見てやがった。
「やっと起きたか、幾斗」
 この悪戯っ子のような顔。色白で顎の細い、まるっきり東洋系の涼しげな顔つきの中で、キョロッと大きく良く動く眼と、緩い天然パーマが女性の母性本能をくすぐるといわれている。
 コイツは、その童顔の通りにとことん楽天的で明るい面白いこと大好きな性格だ。
 そして、父親がレコード会社のお偉いさんで、母親が元モデルの今はデザイナーをしている。というわけで、時には母親のコレクションにモデルとして借りだされたりしてるくらい、コイツも女の子に人気が高いルックスの持主だ。
 趣味は機械いじりとスケベな話と芸能系情報集め。
「孝太郎……ここは?」
「医務室だよ。お前って細く見えるわりに重たい奴だぜ」
 そうか、俺はきっと何処かで倒れてここに運ばれたんだな。
 さっきのは夢だったんだ。
 いい夢だったが、醒めてホッとする内容だよ。
「幾斗、いったいあんな処で何やってたんだよ。俺が見つけなかったら野垂れ死んでたぜ」
「そんな大げさな……ところで俺は何処に倒れてたんだ?」
「おい、倒れた拍子に頭でも打ったのか?。自分の倒れてた処も憶えてないのかよ…やっぱり、医務室の先生を呼んできた方がいいかな」
 孝太郎は俺の額に手を当てる。
「熱をはかってどうするんだよ。いいから、何処に居たのか教えろ」
「ああ、体育館とプールの間にある渡り廊下だよ」
「え?」
 と、いうことは。
「夢、じゃなかったの、かよ」
 俺は頭を抱えてしまった。
「なに言ってんだよ。鼻血までダラダラ流してて…そういえばお前、裸がどうのこうの唸ってたぜ。まさか、Hな夢でも見てボヨッとしてたのか?。
 そりゃあ、夢だよ夢。
 …幾斗、たまってるんだよ、きっと。いつでも硬派のコチコチで通してるけど、お前も男なんだよな〜。帰りに俺のところへ寄ってけよ。おろしたて無修正の洋物が手に入ったんだぜ。一緒に見ようか」
「そ、そんなんじゃねえよ!」
 そんな簡単に解決する問題じゃない。
「まあ、もう少し寝てろよ。今日はテストの答え合わせや会議で先生たちはカンヅメだからさ。俺は先に帰るぜ。とにかく、寄ってけよ。すっげーんだから、これが」
 ボーッとしたまま、俺は孝太郎を見送った。
 あれ…でも、アイツ、結局何の用で俺を探してたんだろう?。
{ほら、洋服を着たわよ。どう?}
 突然頭で声がしたが、今度は前の様に驚かなかった。
「あん?」
 しかし、こんなこと本当にあるのかよ。頭の中に…別な人間が居るなんて…。
{何よ!。洋服を着てくれって言うから着たのに、気の無い返事して!!}
 目を瞑ると、ブチ猫の模様がついた黄色いワンピースを着たエムが頭の中に居る。
{どぉお?}
「あ、ああ……」
{だからやめてよ。その、ボケた返事の仕方は}
 そうじゃなくて、今度は彼女の可愛さに見蕩れてボケたんだけど……。
「あ、いや、可愛い、よ」
{全っ然、本気じゃないわね。なにさ!!}
 俺、良く考えたら=良く考えなくても=女の子と顔を突き合わせて話しをしたことなんて無いし、ろくな会話をしたこと無いし、まして、洋服を褒めたことなんて無いんだから、こんだけ言えりゃ上等だと思うぜ。
「…ところで、お前、どうして俺を選んだ訳?。どうやったら成仏できる訳?」
{そうそう、そういう話しだったわよね。――ちょっと、目を瞑って、耳を塞いでてくれる?。恥ずかしいから}
 ば、ばかやろう!。俺の頭の中に裸でいた癖に、何が恥ずかしいだ!。感覚だけでなら、俺のあそこにさえ触っただろうが!!。
「あのな、お前、良く考えて物言えよっ!」
{そういえばそうだけど。……でも、本当に恥ずかしいのよ。あのね……}
 それからエムはどのくらいもじもじしていたっけか。俺はその間に2回は欠伸をしたね。
「まあいいや。ゆっくり話してくれれば」
 横の椅子の上に置かれた鞄を持って俺は外に出た。
{だって、女の子がこんなこと言うのって凄く恥ずかしいのよ}
 裸で男に抱きつくよりも恥ずかしいことが有るのか?。
「なんでもいいから、思いきって言ってくれよ!、俺も困るんだぜ」
{本当にね…愛し合った人と……}
「愛し合った人と?」
{……Hするの……}
 下駄箱の前まで来ていた俺は、昇降口から校門に向かうスロープに出る代わりに、背中にロケット弾をくっつけて月の世界まで飛んでいきたくなった。
「ば、ばっかやろう!!」
{素敵な恋人、情熱の恋、夢のように愛し合う二人……キャッ
 本当にこれが夢だったら、俺にだってイイ夢かもな。しかし!、これが現実だと、最悪の悪夢だね!!。夢ならどんなに酷くて嫌なことが在っても目が醒めれば終わる。
 とにかく、俺はダッシュで帰ったよ。結局、孝太郎の家にも寄らないで。

「ただいま!」
 俺は家に入る時に誰も返事をしないと分かっていても癖になっている言葉を言った。
 それに、もしかしたら平日の昼間にお手伝いに来てくれているアヤコさんがまだ居るかもしれない時間だ。
 彼女は俺が小さい時からずっと来てくれている、もう、50代の女性だ。見かけはもっと若く見えるけどね。俺にとっては、本当のおばあちゃんみたいな人なんだ。父さん母さんは俺が小さい時から、家を留守にしがちだったからさ。
「おかえり」
 えっ?と、玄関でつんのめった。予想していなかった人の返事が帰ってきたからだ。
「な、なんだよ、母さん、どうしたんだよっ?!」
「なによ、私が早く帰ってきちゃ悪い?」
「あ、いや、別に……」
 今日は“女難の日”か?。
「一番の古手のNさんが風邪なんですって。本当かどうか知らないけど、やんなっちゃうわよ。代わりに明後日は録りが混むから遅くなると思うわ」
 母さんは賞も数多く貰っている女優だ。
 去年までは羨ましがる奴も多かったが、今の高校に入ってからは、そういうしつこい妬みから解消された。そういう有名人の親を持った奴や、本人がタレントなんてのも、ウチの学校にはゴロゴロしてるからな。
 ちなみに、父さんは普通のサラリーマンである。
「ああ、そう、ふうん。たまにはいいと思うよ。母さんが普通の母親みたいにリビングに居るっつうのも」
「……幾斗、貴方、何か変よ?」
 根っから演技派なせいか、母さんがそういう物静かでしっかりした言い方をすると、芝居の台詞の様に聞こえる。
 特に、今日は図星だもんな。
「えっ?。そ、そんなことありません!」
 まずいっ。揉み消そうとし過ぎて敬語なんか使ってしまった。
「鞄の中味を見せなさい」
 母さんは、つと立ち上がって俺の鼻先に、美人弁護士や白衣の女神的女医なんかに化ける化粧臭くて整った顔を近づけた。
「母さんに見せられないような物でも隠し持っているんじゃないでしょうね。例えば、スケベ本とか」
「も、持ってねえよ、んなもん!」
「ヤマシイ物を持ってないんだったら、怯むことはないはずよ。私の目を見て、堂々と、身の潔白を証明してごらんなさい!。隠してるんでしょH物!!」
「分かったから、見せるから、やめろよ、その芝居がかった言い方は。ここはスタジオじゃないんだぜ。それになあ、丸の内好感度ベスト・テンに入る女優が平気で“スケベ本”とか“H物”とか口走るなよ!」
 俺はリビングのテーブルの上に鞄の中味をブチまけたね。
「どうだっ、そんなモン無いだろ!!」
 孝太郎のウチに寄ってこなくて良かったよ。
 ああ、神様仏様、今日初めての御恵み、ありがとうございます、だ。もし、ここで、そんな物を持ってたら――。
「……幾斗」
「え?」
「これは……何?」
 母さんが差し出している物を見て、俺は目が飛び出そうになった。
 それは、どう見ても………ヌード写真集。
 それも、前から孝太郎の奴が見せびらかしていた外国版“シェスタ・女優E”じゃないか。
 ヒラリとそのページの間からノートの切れ端が落ちる。
≪ 硬派気取りの幾斗へ――。
 いつも意地を張って借りていかないけど、本当はじっくりと読みたいんだろう?。全く、鼻血が出るまで溜めてるなよな。だから…俺のお気に入りの予防薬を貸してやるぜっ!…ああ、俺ってなんて友達想いなんだらう。
   親切な親友、孝太郎 ≫
 俺の首筋は怒りで赤く染った。
 こ…これがアイツの用だったのか…。俺がいつも断わり続けているから…黙って鞄に…。
 …孝太郎…“要らない親切、大きな災い”という言葉を知らんのか、お前わ!。…神様仏様も!、さっきの御礼は取り消すぜっ!!。
「貴方…こんな物が見たい訳?。私の湯上がり姿をいつも見てるでしょう。
 …何よ、私の方が胸も垂れてないし、お尻だって上がってるじゃないの…。こんな格好するだけで写真集が売れるなら世話ないわ。
 …ふうん…」
 母さんがそれに見蕩れている間に、俺はこっそりと鞄の中味を抱えこんで2階に上がる階段へと向かった。今度こそ、神様仏様に感謝しようと思ったね。
 本当にそのまま部屋に戻れてたらの話しだったけどさ。
「幾斗っ!」
 その天を突きそうな怒声に、叩かれた亀の様に首を縮めて振り返ると、母さんは初めに迫ってきた時より遥かに洒落にならない雰囲気だった。
 もう、どうやっても逃れられないと俺は覚悟を決めた。

 こってりたっぷり搾られて、2階の自分の部屋に入るなり俺はベッドに倒れ込んだ。
 そんな放心状態に近い俺の疲れにもかまわずに、エムは話し掛けてくる。
{幾斗のお母さんて、とっても綺麗な人なのに結構恐いわね。まあ、貴方には自業自得ってところだけど}
「なにが自業自得だよ。そんな訳ないだろ!。くっそおっ!、孝太郎の野郎、頼みもしないことをよりによってこんな日に…」
{…あ、そう言えば、お母さん、テレビで見たことあるような気がするんだけど}
「ああ、女優だからな。芸名は浅羽 遼子、本名が、紀平 遼子」
{そうそう、若い頃は某大河ドラマの主役もやった人よね}
 そうか、俺の中に入っているといっても、記憶や感情や考えなんてのは共有はしないのか。それは、不幸中の幸いだったな。全て通り抜けてたらプライバシーの侵害だよ。
 今だって、警察がこんなのを信じてくれれば訴えたいくらいなんだからな。
「ところで、お前、何歳なんだ?」
{お前じゃなくて、エムよ。名前くらい、ちゃんと憶えてよね?!}
「ああ、ああ、分かったよ。…で、幾つなんだ?」
{15歳よ}
「じゅうごぉ?。俺もこの間まで15だったけど……で、いつ死んだんだ?」
{それは言っちゃいけないことになってるの}
「なんだよ。じゃあ何で死んだんだ?」
{それも言っちゃいけないって釘を刺されてるわ}
「誰に?」
{あの世の番人に、ね}
「あの世?、番人?、どっちも信じられる代物じゃないな」
{そんなことを言ったら罰が当たるわよ}
「もう当たってるよ!。お前みたいなのに身体に入ってこられてさ。おまけにその成仏する条件まで、非常識もいいところじゃないかよっ!」
 エムは=どういう形で俺の中に居るのか分からないが=頭の中で座り込んで顔を赤くしながら口を尖らせる。……そういう仕草を現実に見てたら、すげえ可愛いだろうに……なんて、俺は何を考えてるんだ。なんか、得してるような、損してるような、気がする。
{だって、本当なんだもの。
 何も分からなくなって…何処か違う世界を昇っていって、やっとあの世の入口まで行ったのに、成仏リストから外れてるからって入れて貰えなくて…。その番人さんに調べてもらったら、私には魂として次の段階に行く為に決定的に欠けているものが在るんですって。
 ……“業”とか何とか}
「嘘つけ!。俺は霊感が強いけど、そこまで具体的に条件つきの霊になんか会ったことないぜ。勝手に成仏しないでるだけじゃねえのか?。
 だいたい、そんなことを言うその番人だって怪しいもんだ」
 俺はうつぶせたままそう言ってしまってから、きつく言い過ぎたかなと後悔した。
 ハッと気がつくと、彼女の目に滲み出るものが在る。
 本当に、これ、薬の副作用とか、流行りの人工的な幻覚じゃないだろうな。
《そんなことはありません。エム君はれっきとした上級の魂ですよ》
 突然の聞き慣れない声にびっくりして飛び起きた。
{セイラン!}
 懐かしそうにエムが呼びかける。
 その時に分かったんだけど、彼女は感覚的には俺の身体自身に完全に重なってるんだ。
 部屋の中に吹くはずの無いつむじ風が起き、真ん中辺りの何も置いてないスペースに、何かが形を造り始めていた。
 人間?、じゃないな。こんな現れかた。
《こんにちは、初めまして、紀平 幾斗君。久しぶりだね、エム君》
 これが風の中に居るソイツの言葉だということは分かる。しかし、声じゃない。普通に話しかけてる訳じゃないんだ。
 俺の頭に直接響くフルートがメインのコンチェルト。
 なのに、その音が意味を持って理解できるなんて、どう考えても変だ!。訳が分からない。何なんだコイツ!!。また俺の中に入ってくる気なのか?!。
《ああ、自己紹介が遅れました。ボクは“セイラン”といいます。ボクたちのことを一般的に日本人は“天使”とか“精霊”とか呼んでいますね。……ああ、遥かな昔には“凡天”とか“アマンジャク”と呼ばれてたこともありましたっけ。
 そういう訳で、ボクは普通の魂でも幽霊でもありませんから、別に君の身体に入ろうなんて気はありませんよ》
 コイツ、俺の考えていることを読んでるのか?。というより、全てお見通しって感じだ。
《だから、“コイツ”じゃなくて、セイランです》
 とうとう、完全に触れるんじゃないかと思えるほど実体化したのは、170ちょうど在る俺よりも背の高い男(?)だった。
 …白くて縁に虹がかかった羽が背中に生えてなければの話しだけど。
{こんな姿になってから時間の感覚が麻痺しちゃったけど、本当に久しぶりね、セイラン。あの世の入口以来だもの}
 真っ白い、昔ふうの背中に尻尾が付いている=燕尾服ってやつ?=格好をして、金髮の髪が首筋や額にかかるくらいに散らばっている。西洋的とも東洋的ともとれる、均整の取れている引き締まった顔。そして…紫色の瞳。
 たぶん、男?。
《天使に男も女もありませんよ。結構、それくらい常識だと思ってましたけどね。でもまあ、外見的な性は男ですが》
 ソイツが、動き出してはっきり俺の方に向き直った時、俺はつい空手の構えをしてしまった。
「そ、それで、それが、何だよ?。俺、まだ死んだ覚えはないぞ!」
 ニコリと無邪気にソイツは笑う。
《その通りです。まだ死なれては困ります。幾斗君もエム君と同じくらい上級の魂ですし、エム君の願いを叶えてやってくれないと》
「あ、あのなあ…エムの願いっつったって、俺は男だよ。どうやって、あんな…あんな願いを…叶えてやれるんだよ。ふざけてないで、とっとと、この子をどっかの願いを叶えられる身体に連れてって入れてやってくれ」
{なによ、そんなに私が気にいらないの?}
「そ、そうじゃないだろ。でも…例えば、死んだばっかりの女子大生とかさ、そういう方がお前だって都合がいいじゃんか」
 セイランという=天使?、マジかよ?=が、表情を歪ませた。
《“マジ”というのは真面目を約してるんですね。…そう、ボクは“天使”という呼ばれ方が一番好きです。“天”という曖昧な言葉が、ボクの悲しい立場を良く現わしてくれていると思いますから…》
「しかし、何か足りないと思ったら肝心な頭の輪っかが無いじゃないかよ」
《ああ、光輪のことですか。あれは我々が特殊な力を使う時にしか現れないんです。そして、エム君のことですが他の身体に入れ変えることは出来ません》
「だから、説明してくれよ。なんで俺なんだよ」
《それは、幾斗君が選ばれた身体だったからです。だからエム君の願いを叶える義務が在ります。これは運命です》
 ガクリと俺の膝は崩れた。なんの答えにもなってない。
《本当に運命として選ばれた身体でなければ出来ないことが在るんですよ。だから、答えは頭の中でエム君と同化すれば分かることです》
「どうか?」
《彼女と精神的にも一体になることですね。エム君を自分だと思えばいいんです》
 そ、それは嬉しい、あ、いや、困った。そんなこと出来ないよ。
《試してみてから諦めた方がいいんじゃないですか?。
 …ボクは、人間のそういう希望を捨てないところが好きだからこんな職業をしてるんですから》
 ?天使は職業か?。
 …しかし、そうだな、やってみるか。
 エム、エム…。
{…いやん、くすぐったい…}
 エムが身をよじる。顔から火が吹いて、俺の精神統一の努力は砕かれた。
「お、俺は何にもしてないぞ!」
 や、やれればやりたいけど。
 エム、エム、エム…。エ…ム…。
 エ ム 。
 俺の身体はビュッと一瞬にして“点”になった。
 それとも、分子とか原子とかに分解したのかもしれない。無数の俺と、数えきれないエム。それが同時に一つに融け始めた。
《ほら、出来たでしょう》
 セイランは片手を宙でくるっと廻した。その円の中に見慣れた風景が鏡の様に映し出されている。俺のベッドと部屋だ。
[でも…俺じゃない]
 俺の制服をダボっと着ているが、それは確かにエムだった。
「…本当。これ、私だわ」
 エムの声が耳じゃないところから聞こえる。
[なっ、なんなんだよ、これは?!]
 手を見ると、空手をやっていたのが想像できないほど細くて白い指が並んでいて、爪はそんなに伸びていないのに女の子っぽく細長い形をしていてマニキュアが似合いそうだ。
《だから、エム君と幾斗君が入れ替わったということですね。これを“表面化”とでも言いましょうか》
[…ば、ばっきゃろおっ!!。元に戻せよっ!!]
「いいじゃないのしばらくこのままでも」
[いいわけないだろ!、ここは俺んちの俺の部屋なんだぞ!!]
 階段を上がってくる足音がした。母さんだ。まずいっ!。
[ば、馬鹿馬鹿、馬鹿野郎!!。こんな姿で――どうしてくれるんだ!。今日は厄日だぁ……]
 セイランは素早く手をさっきと反対廻しにし、今度は違う仕草をしてから消えた。
 その途端にノックが聞こえる。
〈コン、コン!〉「幾斗、さっきからうるさいわよ!。特に、何の音か知らないけど、女の子の声みたいな軋みが一番耳障りだわ。新しいドラマの台詞を覚えてるんだから、もう少し静かにしてよ!」
 エムに答えられても困るので、俺はやぶれかぶれで聞こえなくてもと大声を出した。
「うん、分かったよっ!!」
 俺の声だ?。
「…そんな大声で答えなくてもいいわよ。分かったなら静かにして」
 母さんは俺が素直に返事をしたからか、ドアは開けずにまた階段を降りて行った。少しは、さっき俺を怒り過ぎたという反省も在ったんだろう。
 俺は自分の手を見て、それから足も確かめた。
 戻ってるよ。
《今は、非常事態だったのでボクが直しました。でも、本当は幾斗君自身の意志で出来ることです。自分は自分なんだという自覚を持つことで戻れます》
 もう姿が見えなくなっているセイランが、やっぱりあの音で頭に話しかけてくる。
{もう、もっと私のままでいたかったのに}
 こ、この脳天気娘がっ!!。
《じゃあ、ボクはもう帰りますね。たまにはエム君を表面化させてあげてください。では、お願いします》
 何、が、お願いしますだよ。逃げるな!、セ・イ・ラ・ン・!!。
「冗談じゃないぜっ!」
《あ、言い忘れましたけど、この事を誰かに言ったら、大変なことになりますから注意してください。その時は、ボクの力でも助けてあげられませんからね》
 どこからどうやって話し掛けているのか、セイランの台詞は俺のボロボロになった心に追い打ちをかけた。
「当たり前だ!、誰かに言ったら俺は精神鑑定だよ!!」
「幾斗っ、アンタはもうっ!、静かにしてよっ!!」
 ヒステリー寸前の母さんの声と不条理な現実にショックを受けた俺は、ベッドにまたうつぶせに倒れ込んでぐったりしちまった。
 もう二度と立ち上がれないぜ。
 これこそ、天にも見離された状態ってやつだよな…。

 余りのダメージに動けなかったはずだったが、昨日は珍しく父さんも早く帰ってきて久しぶりに家族団欒というのをやってしまった。
 そして、やっぱり朝が来るといつもの様に学校に行く。
 それからもちろん、教室に入ってきた孝太郎をすぐに捕まえて、紙袋で隠した写真集を突き返した。
 え?、もちろん、見たよ。あれから寝る前に、しっかり、な。エムは=幽霊でも疲れることが在るのかどうか知らないけど=夕飯を食べる頃から頭の中で眠ってたからね。
「どうだ?、幾斗…良かっただろう?」
「に、にやつくんじゃねえよ。こんな物、俺の鞄に入れてくれてるから、俺は昨日、母親にさんざん絞られたんだぜ」
「へえ、お前の母さんてイメージ通りに堅いんだなぁ」
 そんなことはない!。俺は、ぶるぶる首を横に振りたかったが、止めた。
{幾斗の学校って、本当に金持ち学校よね。それにカッコイイ子が多いわ。女の子の制服も可愛いし。私も着てみたいなぁ}
 エムは頭の中で好き勝手に言っている。しかし、今ここで会話をする訳にいかない。俺は急いで男子トイレに駆け込んだ。
 授業が始まる寸前だから誰もいない。
「おい、学校に来てる時に頭の中でペチャクチャしゃべんなよ。言い返せないからムシャクシャするだろう!」
{じゃあ、貴方も頭の中で話せばいいじゃないの。出来るわよ}
 渋々ながら試してみた。
[だか…ら…さ…。あ、出来る]
{ほらね。これは、これで解決よね}
[あ?、ああ]
 なんとなく、言いくるめられたような気がする。
 授業の間も、かなり上の空。
 考えれば考えるほど、エムが俺の中に居るってことが、騙されたような理不尽のような…もっと難しい言葉を使えば、不条理って奴だよな。第一、俺じゃなければいけない理由が見つからない。次に、それがまた女だってのが嫌になる。最後に、彼女の成仏の条件を満たすには男と愛し合って…セ、セックス?、しなきゃいけないんだぞ。うむむ…。
「どうしたんだよ、幾斗、考え込んで…」
 ポンと肩を叩かれて見上げると鷹弥だった。
「ああ、ちょっと、な…」
 俺と孝太郎と鷹弥の三人は、この高校に入ってすぐから妙に惹き合って仲が良くなった。同じクラスで、俺の後ろが鷹弥、俺の右斜め前が孝太郎の席だ。
 短めのストレート・ヘアで背が高く、着痩せして見えるけど結構がっしりした体格してる肉体派の俺。色白で天然パーマが緩くウェーブを形作る髪、童顔で明るさじゃ学年ナンバー1だろう理系の孝太郎。焼いた肌と伸ばした茶色い髪が甘ったるい感じの顔に、適度な凛々しさを添える分系の鷹弥。
 自慢じゃないが、俺たち三人は女の子たちの人気をかなり集めていて“美少年トライアングル”などと呼ばれているらしい。
「‘ちょっと’じゃないだろ。お前、授業中ずっとボーッとしてたじゃないか。いくらこの学校が大学までエスカレーターでも、ある程度は成績を取ってないと駄目だってことは、お前だって知ってるだろう。それに…」
「それに?」
「お前が昼休みになっても食堂に誘いにこないなんて、どうかしてるよ」
「えっ?、もう、昼休みだったのか?!」
 孝太郎も俺たちが話してる途中から側に寄ってきていた。
「幾斗、昨日のことといい、お前、なんか悩み事があるんじゃないのか?」
 孝太郎が思いだし笑いをしながら言う。
「何だ?、昨日のことって?」
 鷹弥が面白そうに身を乗り出した。
「孝太郎!!」
 俺は慌ててコイツの口を塞ごうとしたけど、椅子にドップリ頬杖ついてたせいで、一歩早く机1つ向こうに行かれてしまう。
「昨日、プールの横の渡り廊下で鼻血ドバドバ出してぶっ倒れてたのさ」
 くうう。こいつに知られた時点で覚悟しとくべきだったぜ!。
「どうでもいいさ!、そんなこと!!」
 わざと強がってポケットに手を入れ、俺は学食へ向かった。
「あ、待てよ、幾斗!。分かった。もう誰にも言わないって!。拗ねるなよ!」
 そういう冷たい態度を見て、少しは反省したらしい孝太郎が追ってくる。コイツはそういうのに弱いんだ。
 しかし、俺はその言葉に寒気を感じながら振り向いた。
「お前なぁ、‘もう’って、何人くらいにふれまわったんだよっ?!」
「そ、そんな恐い顔すんなよ。ほんの二、三十人だってば」
 その数は俺の足腰にヘナヘナきたよ。
「今日の昼飯おごるからさ。な、機嫌直せよ」
 そういう問題かよっ!。
「幾斗、孝太郎も謝ってることだしさ、済んだことは気にすんなよ」
 鷹弥が並んで俺の肩に手を廻した。
 俺は、外見以上に内心がズタズタだった。

   ACT・2 アイドル誕生

 とにかく早く一人になりたくて、俺は終業のベルとほとんど同時に教室を出た。
{何をそんなにふてくされてるのよ?}
 そうだ、コイツが居たんだった。
[テッメーのせいだろっ!!]
{やだ!、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。頭がガンガンするわ}
 それは、こっちが言いたいぜ。
{…ねえ……ねえったら!}
[黙ってろよ!。話したくないんだよ、お前となんか!!]
 エムは頭の中で泣きそうになった。
 おいおい、やめてくれよ。それじゃなくても気が滅入ってるのに、頭の中で女の子に泣かれたりしたら気が狂う。
[分かった!、分かったから泣くな!!]
{だから、怒鳴らないで!}
[…だから、何だよ、何が言いたいんだよ]
 エムは急に顔を輝かせた。コイツ、泣き真似してやがったな!。
{あのね、少しの間、今日のこれから夕方まででいいから、私の姿で街を歩かせて。この頃の流行りや街の雰囲気を知りたいのよ}
[なっ?!…嫌だよ、女の姿になるなんて!]
{だって、私、死んでからずうっと…誰にも会わず、知られず、孤独だったのよ。少しくらい私の時間をくれてもいいんじゃない?。昨日、セイランも言ってたでしょう?。お願いしますって。
 あのね、天使の言うことは、人間、素直に聞かなくちゃ。
 それに………私の姿にならなくちゃ…その…相手が見つからなくて、いつまで経っても成仏できないでしょう?}
 こめかみの辺りがヒクリと怒りに歪んだ。
 でも、まあ、考えてみるとエムも可哀そうな奴なんだよな。15歳で死んじまってたら俺だってこの世に未練が残るだろう。
[……6時までだぞ。絶対その時間には俺に戻れるようにしろよ!]
{きゃあ、嬉しい!}
 彼女は跳ね回って喜んだ。
 まあいいか。こうやって素直に喜んでたりするとエムはやっぱり可愛い…と思う。
 俺は近くのビルとビルの狭間に入り込んだ。
 いやに変な匂いがするし、ゴミだか何だか分からない段ボール箱なんかが転がっている。エムが不快そうな表情をした。俺だってこんなとこに好きで入った訳じゃない。でも、こういうところでもないと、この街で人目から逃げることはまず出来ないだろう。
 俺は昨日したように、精神集中してエムと一体になるように念じた。昨日よりもショックが少なくて済んだのは慣れだろう。
「…嫌だ。制服そのままじゃないの」
 こっちの苦労も知らないで、エムの奴は閉口一番。
[当たり前だろう]
 エムは俺より遥かに背が低いようで、服がダボダボだった。
 彼女はベルトを外してズボンを吊り上げ、そこでまたベルトを回して止め直し、裾も捲り上げる。靴は仕方ないので靴下を脱いでつま先の方に詰めた。
「これで少しはマシね」
[あ〜あ、ズボンがグシャグシャだよ。アヤコさんになんて言い訳すりゃいいんだ]
「じゃあ、あのまま裾を引きずって歩いてた方が良かった?」
 俺のでエムのでもある頭の中で意識体になっていた俺は溜め息をついた。
 U学園の制服はブレザーもスラックスも、グリーンとブルーをメインにした普通のチェック、煉瓦色と灰色を組み合わせたスコットランド・チェック、紺一色、の3種類在って、好きなのを選べる。
 俺は、今日、一番着に入っているグリーン&ブルーの上着と紺のズボンだったのに。
[しょうがないな、どこかで洋服を買って着替えろよ]
 今月はちょっとCDの数を減らすしかないな。まあ、親は自分たちが側に居られない分として、小遣いは毎月結構くれるけど。
「え、いいの?」
[そのまま歩いてて俺の制服だって誰かに分かったらどうするんだよ。胸には学校のマークがデカデカしてるし、襟元に1の3ていう学章が付いてる。それに、男の制服をお前みたいな女の子が着てたら誰でも怪しむだろうが。誰の制服を着てるのかって]
 エムは路地から出る時、外に同じ制服の人間が歩いてないのを確かめて一目散に駅に駆けだした。コイツ、結構頭いいじゃん。
 駅までは1分もかからずに着き、彼女は原宿までの切符を買う。
[なんで、わざわざ原宿なんだよ?]
{だから、今の流行なんかを知りたいって言ったでしょう?}
 電車に乗ると、周りはエムの妙な格好も気がついていない。そういう街なんだよな、ここは。
 原宿で、エムは駅のすぐ側のファッション・デパートで服や靴を買って、その隣のビルのトイレで着替える。そういう格好をすると、まるっきり15歳の女の子だ。
 …え?、み、見てないぜ?!。彼女の着替えるところなんか!!。そりゃあ、俺の感覚は、今、エムの感じるものに頼らざるを得ない。でも、自分がその気になればこちらから感覚を捨てることも出来るんだよ。
 制服はきちんとたたまれて紙袋に収り、俺は正直ほっとした。さすが女の子。そういうのはきっちりしてる。
{私、実は原宿って初めて来たの}
 エムは嬉々として街中の店を覗くんじゃないかと思うくらい歩きだした。
 俺としては、自分の身体の中に居て他人事な感じを味わうのも最初は面白かったよ。
 でも、飽きた。
[…女って、何でそんなに同じようなのを見てて飽きないんだろうな]
 休日にたまに付き合わされる母さんの買物の時も、俺は運動量以上にぐったりしてしまう。そうして、いつしか、眠っていた。
 それは俺が寝たすぐ後だった(らしい)。
「か〜のじょ、ちょっと振り向いてよぉ」
 エムは無視して先を急ぐ。6時までしか自由な時間は無いのだ。
「ねえ、ちょっとだけでいいからさぁ」
 男の癖に、なんて甘ったるい声。
「ねえってばぁ」
 彼女の堪忍袋の緒が切れる。振り返ると、想像通りのにやけた男が立っていた。
「しつこいわね!。私、時間が無いのよ!!」
「やっぱりぃ、か〜わいいよ、きみぃ」
「だから、私にはこういう暇は無いの!」
「あら、怒っても絵になるよね。そこまで可愛いとさ」
「聞こえないの?。私、急いでるのよ?!」
 男は踵を返して先に行こうとするエムの前に立ちはだかる。
「声もいいよねぇ。ねえ、5分だけ、5分だけでいいから、話しを聞いてよぉ」
 彼女はそれでこのうっとうしさから解放されるならと、諦めてうなずいた。男は喜んで名刺を差し出した。

 きっかり6時。俺はエムの声で起こされた。
{…斗、幾斗、起きてよ、幾斗ったら!}
[あん?、ここは、何処だ?]
{家の近くの駅に戻ってきたわよ。ねえ、どうやって着替える?}
[ん?、ああ、交番の後ろに廻ると駅から出てる歩道橋の下にトイレが在る。あそこは通りの裏で人目にはつかないから、入口附近で見張ってて男用が空になったら中に入れよ]
{嫌よ、何で男用なの?}
[馬鹿たれ、入る時には周りを伺うことが出来るけど、出る時にもし誰か居たらどうするんだよ。その時、俺は男なんだぜ]
{…それもそうね…}
 彼女は巧いことトイレに駆け込んで、個室に閉じこもった。
 しかし、そこからが巧くいかない。
 俺からエムになる時は、俺の方が全てのサイズで上回るからそのままでいいが、エムから俺になるにはいったん全ての物を身体から取り除かないといけないことが分かったのだ。
 つまり、素裸で変身しなければいけない。
 想像しただけで身体中がむず痒くなった。あ、違うぜ、嬉しいだけ…じゃない。だって、神経が集中出来ないだろうが。彼女も‘誰も見ていなくても絶対嫌だ’と言い張る。
 だいぶ時間をかけて、俺たちは途方にくれていた。
{あ、幾斗、下着だけユルユルで着ておいて、それで変身するっていうのはどう?}
[それはいい。そうしよう。それしかない]
{幾斗がトランクス派で良かった。これなら、ホットパンツ感覚ではけるもん。ブリーフだったら、きっと…}
 そこまで言って、エムが顔を火照らせたのを感じる。…恥ずかしがるなら最初から言うなよな。俺まで変な気分になるだろうが。
 解決の方法は見つかったが、俺はちょっとがっかりした。…いいだろ、それくらい。
 とにかく無事に変身を終えて、俺は自分に戻った。そして、戻ってきた全身の感触を確かめて制服を着込み、空になった紙袋には代わりにエムの服を入れる。その服はもちろん持って帰る訳にいかなかったので、駅のコインロッカーの中に放り込んだ。
{これで、私になるのも簡単になったわね}
[あのなぁ、しょっちゅうこんな疲れる綱渡りをさせられてたまるか!]
{いいじゃないの。幾斗のケチ!}
 ケ、ケチじゃないだろっ、俺の金で服から何から買いこんだくせに。
 家に帰ってからやっぱり動いていたのは俺の身体だったんだ、と、足の重みで分かる。エムは夕飯前にぐっすり満足そうに眠ってしまった。やりたいことだけやって、こういう疲れだけ残していきやがって!。
 しかし、怒っても眠ってもエムは可愛い。つい、微笑んでしまうくらいに。
 風呂に入る時に眠っていてくれると意識せずに身体を洗えるから気が楽だ。切り離せるとはいえ、アイツの気配は常に感じているんだから。女の子を感じながらあんな処を無事に洗える奴がいたら、そいつはもう男じゃないよ。
[おやすみ]
 俺は寝る時、眠っているエムに聞こえないのを承知で呟いた。
 俺は、自分がこの奇妙な共同生活(?)に巻き込まれて受け入れつつあるのを感じていた。いいんだか、悪いんだか。でも、もう、食べる時も寝る時も一人ぼっちじゃない。
 そんなことを考えながら、俺も眠りに落ちていった。

 それから、2週間。
 あれからはエムも大人しくて、2回だけ、替えの下着が欲しいと言った時と、ジーパンを買いに行った時に変身しただけだった。まあ、映画に行きたいとか、音楽が聞きたいとか、テレビが見たいとか、そういう程度の我が侭なら、何回も言ったけどね。仕方なく、半分程度はきいてやったさ。
 父さんと母さんは相変わらず留守にしがちだったし、アヤコさんともろくに顔を合わせない内に、俺はエムとの関係に慣れた。
 しかし俺は、突然、度胆を抜かれることになる。
 孝太郎が学校に持ってきた投稿写真系のアイドル雑誌を休み時間にめくっていたところ、紛れもないエムの姿がそこに載っていたからだ。“街で見かけた可愛い子”とかなんとかで、読者の投票で一番になった子には“ミス・マイタウン”とかになれると書いてある。
「…あ、やってるな今年も。これで“ミス・マイタウン”になった子は確実にアイドルへの道が開かれてるんだよ」
 後ろから鷹弥が覗き込んで言った。俺の手はワナワナと震えたね。
「そうそう、この学校に居る“滝村 由美子”とか、“工藤 しおり”とか、他にも昔からこれでデビューした子は多いもんな」
 孝太郎の補足で今度は口の端が引き攣る。
「でもさ、今年はこの“平紀 恵夢”ちゃんがダントツだよ」
「うん、気の無さそうな素振りがまたいい」
 思わず、バサリ、と本が手から落ちた。
「どうしたんだ、幾斗、顔色悪いぜ」
 鷹弥が不思議そうに言う。
「幾斗、お前こんな処で発情すんなよな」
 孝太郎が笑いながら目の前で手を振った。
 冗談じゃない!。
 俺は走りだした。二人が何か叫んでいるのが分かったが、声は耳に届かなかった。今の俺はそれどころじゃない。男子トイレにそのまま駆け込んで、俺は個室に入った。
[エム!、起きろよ!!]
{……ん…嫌だ、怒鳴らないでって、いつも言ってるでしょう?。何よ、興奮しちゃって}
[興奮?!。そんなもんじゃねえよっ!!。見たんだぞ、俺!。お前が雑誌に載ってるの!!。どういうことなんだよ!、説明しろよ!!]
 エムは耳を塞ぐふうで聞いていたが、それからきょとんとする。沈黙がしばらく流れた後、彼女は急に思い出したというように笑い始めた。
 お前なぁ…笑い事じゃないっての!。
{あ、ああ、あれのこと。初めて街を歩き回った時のことね。心配しなくていいわよ}
[何が心配しなくていいんだよっ!!、実際に載ってるんだぜ!]
{だって、教えた住所も電話番号も全部出鱈目なのよ}
 俺の背中に流れていた冷や汗が退いていく。
[…本当に…大丈夫なんだろうな…]
{だって、私、幾斗の家の住所も電話番号も知らないもの。必要ないから}
 ホッと安堵の溜め息をつきながら、完全に俺は脱力感に囚われたよ。
 これが事件の発端になるのも知らないで。

 その時はそれで済んだ。
 ただこれ以降は、エムの姿で外出する時、“雑誌に載っていた子”として指さされたり、声をかけられたりして、その度に俺たちは逃げ回ったんだぜ。マスコミの力がこんなに恐いとは思わなかった。母さんも時には騒がれたりしているけど、そういう時には機嫌が悪くなる訳が分かって、俺は息子ながら心底同情したね。
 だからやっぱり気になって、次の号は真っ先に自分で買った。
 自分のベッドに座って、恐る恐るページをめくっていくと、グラビアにあの投票の中間結果が載っている。鷹弥と孝太郎が言った通り、エムはダントツで1位。
 それだけでもゾッとしたのに、次のページで俺たちは絶叫しかけた。
{な、何よこれ。これじゃもう外を歩けないわ!!}
 エムは半ベソだ。俺も口が塞がらない。
[な、何が“謎の美少女を君が探そう!”だぁっ?!]
 『平紀 恵夢ちゃんは謎の美少女!。彼女を目撃した方は一報ください。本人だと分かった場合は10万円。写真付きなら20万円さしあげます』という具合だったのだ。偽の住所も電話番号も、これでは役に立たない。かえって、火に油を注いでるようなもんだ。
[………しょうがないな。落ち着くまで変身は御預けだ]
{えーっ!!}
[何が‘えー!’だ。これこそ自業自得だぜ]
{そんな…困るわ…まだ相手も見つかってないのに…}
[そんなこと言ったって、しょうがないだろう?。とにかく我慢しろ!]
《それはボクも困ります》
 突然、部屋の中に風が舞った。
[困るのはこの俺じゃねえかよ、それになっ]
 俺が文句を言い終わる前に、セイランが決して人間ではないあの格好で現われた。
[尾けられたりしてエムと俺が同一人物だとばれたらどうすんだよ!!]
《それはその通りです。ですが、エム君は幾斗君の身体に、もう、同化してしまっているんですよ?》
[だからなんだよ、俺には関係ないだろう?!]
《それはそうもいきません。なにしろ、両方が選んだからこうなったんですから》
[お、俺は選んだりしてないぜっ?!]
《それは不思議ですね。幾斗君が受け入れなかったならば、エム君は入ることが出来なかったはずなんですけど…?》
{そうよ。幾斗が受け入れたから私は貴方の中に入れたんじゃないの。拒絶されたら無理だったもの}
 俺は、顔が熱く、背中は寒くなる。
 そういえば、あの時、俺、“受け入れる”と思われるようなことをした気がする。エムがフワッと来て、俺は両手を広げて…。
 …したよな。
《困るんですよ。エム君が自分の姿になれないというのは…。これは、幾斗君にも関係することです》
 かなり深刻そうな声でセイランが、また口を動かさずに言った。顎のところに手を当てて顔も苦しげだ。あのブチ猫付きの黄色いワンピースを着たエムも沈んだ顔をしている。
 なんだよ、なんなんだよ?!。俺の想像は二人が黙っている間に、ゴロゴロと悪い方に転がっていった。俺やエムの気が狂うとか、俺ごと死んじまうとか…俺は…でも、俺は、もしもエムだけが消えてしまっても………。
{…私、月が1度廻る間に最低1日以上表面化していないといけないのよ。これは、魂の呼吸と同じ。でないと…}
 俺とエムはセイランの、何者にも属さないが整いまくった顔を息を呑んで見つめる。
《エム君の魂は、このままでいられなくなる》
[え?]
 意味が分からない。俺は意識の目でエムを、実際の目でセイランを、そして、どこかから自分を見つめている感じがした。
[どういうことなんだよ…はっきり言えよ!!。エムはどうなるんだ?!]
 俺はトボケてる天使に詰め寄る。
《それは…》
 セイランの声(音?)は急に厳かに響いた。
《…ボクも知りません》
 気が抜けた俺は仰向けにベッドに沈む。ベッドじゃなくて気分はバッドだ!、ああっ、下らないダジャレだ!。俺、混乱してる。
《本当に面白くないダジャレですね》
 セイランが妙に冷静に突っ込む。
 う、うるせえな!、どうでもいいだろうが!。それよりも、分かるように説明しろよっ!!。
《だから、エム君の魂が消滅するのか、あるいは、破壊されるのかボクにも分かりません》
 え?…消滅…破壊…それは…え?。
《しかし、その時は幾斗君にも影響が出るのは確かですね。なにしろ、身体の中に同化している魂が存在しなくなる衝撃を生きている人間の身で受けるわけですから。
 そして…魂の行方がどうなるかなんて、我等全てを生み出した神のみぞ知る。
 でもボクは神の姿さえ知らないんですよ》
 …なんつー頼りない天使だ。
《仕方がないでしょう。神といわれる偉大な存在に決められた姿は在りません。
 それに、魂というものが何であるかが普通の存在である我々に分かってしまったら、それこそ気が狂うでしょうね》
 お前と一緒にされたくないよ、俺わっ!。
《質は違いますが、ボクも貴方たちと同じ儚くて悲しい者ですよ》
 フッとセイランは顔を曇らせた。勝手にシリアスしてるんじゃないっての!、一番困ってるのは俺だ!!。
 だいたい、神様は俺を困らせて楽しんでるんじゃないかと思うぜ。これ以上の罰が当たる訳ないから、いっそ呪ってやろうか?!。
 俺が鬱うつしていると、キンと響く声が在ってビクリとベッドから飛び上がる。
{なによ、さっきから!、二人だけで話し込んじゃってさっ!!}
 …あ…そういえば、俺、セイランが頭を読むに任せてて会話(?)してたもんだから、エムには聞こえていないんだ。
[…悪い。俺、混乱してて、言葉にするのを忘れてた]
 座り直しながら俺は心の声で弁解した。
{…とにかく、そういう訳で私が貴方の中にもう入ってしまっている以上、ある程度は私になってくれなくちゃいけないのよ}
 そんなこと知ってたら、きっと、あの時に両手なんか広げなかったと思うぜ。例え、男の本能を捨てて、も。
 …自信は無いけどさ。
[しかし、お前に変身したら、たちまちマスコミの餌食だぜ]
{そうかもしれない、でも…}
 少しの沈黙が在った。
 しかし良く考えると、初めから声の会話が在った訳じゃないな。そういえば、セイランが声を出したらどう聞こえるんだろう?。
「こう聞こえるんですよ。
 ………こうなったら、二人の関係を隠したまま、エム君だけを公開しましょう。それには、代理人が必要ですが、その役はボクがやります」
[セイラン、それお前の?]
{私も初めて聞いたわ}
 セイランはニヤリと笑う。
 男でも女でもない声。でも、やっぱりどこか楽器ぽくて不思議な感じがした。普通の人間にはどう聞こえるのか分からないけどな。
「ついでに、ボクが人間界を歩く時の姿を見せましょうか」
 強い風を感じて一瞬目を瞑る。
「どうです?」
 セイランは真っ黒い礼服の様なダブルのスーツに黒いYシャツを着て、真っ赤なネクタイを指でつまんだ。髪の色も黒に変ったが、瞳だけは紫のままだ。翼はもちろん無い。
[…セイラン、天使だというのを隠したい気持ちは分かるが、それはやり過ぎだぜ…]
{…ほんと、まるでヤクザみたい…}
「そうですか?。気に入ってるんだけど」
 セイランだけが話しているのに気が付いた俺は、やっと声に出して言った。
「せめて、Yシャツは白にした方がいいぞ」
{ネクタイも落ち着いた赤にしてよ}
 明らかにがっかりしながらセイランは再び風に包まれる。
 次に現れた時、Yシャツは白かったが、ネクタイはさっきよりも目立つ赤黒斜め縞だった。
 俺は溜め息をつき、エムも頭の中で肩をすくめる。二人とも“仕方無いだろう”のつもりだったが、セイランはOKととったのか嬉しそうに微笑んだ。そして、内ポケットから目の色を隠す為らしい真っ黒なサングラスを取り出してかける。
「これで、完璧ですね。…後はボクに任せてください」
「任せろってどうするつもりだよ?」
{うん。私も訊いておきたい}
「エム君の事は全てボクがマネージメントします。幾斗君との関係は決して分からないようにね。それで、事と次第によっては二人の力を借りることになるかも知れませんが、学業に影響が出るようにはしないつもりです」
 この科白、俺の通ってるU学園の中ではよく聞くよ。俺には今まで関係なかったけど。
《結果は逐一報告します。幾斗君はシステム手帳を持ってるでしょう。直接連絡できない時は、そこに、幾斗君しか見えない字で出しますから。では…風と共に去りぬ……》
 セイランは手で宙に何かの形を造る。
「あっ!、エムの代理人だって証拠はどうするんだよ?!」
 来た時と同じ様にアイツは消えちまった。
{…風と共に去りぬ…ねぇ。結構、ビジュアル・オタクなのよ、セイランて}
[ビジュアル・オタクの天使かよ……そうか、あいつ、俺の母さんに似てるところが在ると思ってたんだけど、今、分かったよ。芝居がかってるんだよな、話し方や仕草が]
 そこまで考えて、俺はゾッとした。
 なんか、悪い予感がするぜ。俺のこういう勘は当たってるんだよな。たいてい…。

 不安なまま一晩が過ぎた。
 俺は、一晩中、人前でエムに変身したり、学校の連中、孝太郎や鷹弥までに指さされたり、半分エムで半分俺になったりする、悪夢を見続けてうなされた。
{まったくもう、私まで睡眠不足}
 朝、エムは頭の中でブツブツ文句たれてる。
 誰のせいだと思ってんだよっ。女の神経が細かいなんて誰がそんな嘘をつきやがったんだ、くそうっ!!。
 教室に入る時、俺は妙にこそこそした。昨晩のは夢だと分かっていても気になったのだ。
 しかし、普段と変わらない。当たり前か。
「幾斗、おはよう」
 鷹弥の笑顔を見て、俺は心底ホッとした。
「おっ、幾斗、おはよっ!。お前がこの間興奮した雑誌の今月号、持ってきたぜ」
 孝太郎も鷹弥の机の上に座り、いつもと同じ明るさでひらひら手を振って俺を呼ぶ。あの…悪の根源の雑誌を手にして…。
「もう買って読んだよ」
 そう言い放って、俺は鷹弥の席の前に在る自分の机に座った。
 二人は“ええっ?!”という顔をする。
「あ、いや、ちょっとさ、先月の投票の結果が気になってね」
「な、ダントツで彼女が1位だっただろう?」
 鷹弥はしたり顔だ。孝太郎も雑誌を見ながら言う。
「そうそう、それに彼女、住所も電話番号も明かさない、今時のアイドルなりたがり少女とは一味違ってミステリアスでいいよな」
「ああ、本当にどこに住んでんだろうな」
「俺、今日からカメラを持ち歩いてるんだぜ。見つけたらすぐにバッチリさ」
 お前等もかよぉ。この、裏切者め!。
「幾斗、なに悔しそうな顔してんだよ。あ、お前、持ってくるつもりでカメラを忘れたんだろう?。でも、貸してやらないぜ!」
「いらねえよ!」
「幾斗、お前も結構ミーハーだったんだな。お前が目を付けた子だからって、お前の彼女じゃあるまいし、そんなに怒るなよ」
 お前等、俺の悩みを知ってて笑ってるんじゃないだろうなぁ?!。
「その程度の子なんて何処にでも居るよ。ここら辺にだって居そうだぜ」
 意識しなくても、俺の声は自分で分かるくらい暗かったよ。自分で自分が可愛そうになってきたね。
「…あれ?。この子のしてるタイ、ウチの学校のじゃないか?」
 孝太郎がギクリとする言葉を投げた。
 椅子の足が悲鳴を上げるのも構わないで、俺は後ろに身体ごと振り向く。女の子たちがキャッと驚いたんだか笑ったんだか分からない声で、俺をもっと焦らせた。
{そういえば、タイはそのまま使わせてもらったのよ。アクセントが欲しかったから}
 エムが心配そうな顔をしている。
「ほんとだ、よく見るとそうかもな」
 鷹弥が頷いた。
「そっ…そんなことはないって!」
 俺は必死で雑誌を手で隠す。
「どうしたんだよ、幾斗、いつものクールなお前じゃないぜ」
 鷹弥が太くて形のいい眉の間に縦皺を寄せ、孝太郎も不思議そうな顔をした。
「まるで、この子の正体を知ってるみたいな言い方じゃんか?。まさか、お前の隠し子、な訳ないな、隠し妹とかで、血がつながってなくって危ない関係になってるとか?!」
 孝太郎、なぜ一気にそこまで飛べるんだよ、お前の頭わ!。
「勝手に言ってろよっ!」
 俺は出来るだけ平気そうな顔で前に向き直って机を元の位置に戻す。出来れば、この机みたいに俺の頭の中も元に戻したいよ。

 その日の夕方、手帳に浮かんだ文字に呼ばれて、俺はあるラジオ局に来た。
 セイランからのメッセージだ。その証拠に、思いきって孝太郎や鷹弥の前でその手帳を広げて見せても、何の反応も無かった。
 ジーパンにTシャツというありふれた姿だったので、目的地の控え室の前までは誰にも見咎められなかったが、そこで足が止まる。
 何気無しを装っても鋭い眼付きの男たちが、通る人間を一人づつ舐め回すように見ていたのだ。きっと、エムがここに来るという情報を手にして張っている連中だろうということは、俺にもすぐに想像がついたよ。
 でも、気が付いた。アイツ等は、女の子や女の子らしいものにしか注意をしていない。
 俺は堂々と入って行くことにした。この作戦は当たったね。チラリと走るくらいにしか視線がこなかったもんな。たぶん、俺がこの部屋に入るのを見届けた奴は居ないと思うよ。他の部屋を開けるふりでソイツ等を振り返ると、誰もこっちを見てなかったからね。
 鍵を持ってこられたら開けられるだろうけど、中に入ってすぐに気休めで鍵をかける。
[セイラン!、セイラン!!]
 俺が念じると、いつもの風と共に、あの人間界用の姿でアイツは現れた。もちろん、Yシャツは白くて、ネクタイは赤と黒の縞で、サングラスをしてたよ。
《ようこそ。今日は少し忙しくなりますよ。すぐにエム君を表面化してください》
{…ハア、何だか変身する前から、私、あがっちゃってるみたい…}
 エムは鳴りもしない胸を押さえている。
[でもセイラン、あの鍵は外から開けられるんだぜ。途中で誰か来たらどうするんだ?]
《大丈夫。ボクが開けられないようにしておきました。ここでの準備が全て済むまでは誰も邪魔は出来ません》
 そう言われても、俺もエムも緊張してて今日の変身は時間がかかった。着替えの間は、いつもの様に俺は感覚を外す。
{…こういうの、一度、着てみたかったのよ。幾斗、見て…}
 壁に埋め込まれた大きな鏡に彼女が映っていた。ほんの10分くらい前まで俺だったのが信じられないくらいの変わりようだぜ。
 鮮やかなオレンジ。袖にヒラヒラ、胸元は広く開き、フワリとしたスカート。ウエストと首にお揃の黒いビロードのリボンを結んでいる。足元は踵の低い、やっぱりオレンジのパンプスで、不思議な左右対象じゃない模様で細い革が足首辺りに巻きついていた。ターンをすると、袖とスカートが跳ねる。
 これだけの衣裳を着ても、エムは決して衣裳負けしないで、かえってそれさえ自分の魅力の一部みたいに輝いていた。
{幾斗、どう思う?}
 お化粧も、いつの間にかしているようだ。女ってこんなに変わるのか…。
[どうって言われてもな…]
 こういう時、素直に言えない気持ちって、あるだろう?。それを自分でも認めると、何だか相手が急に遠い存在になるようで…。
{…いいわよ、もう。…幾斗の馬鹿っ!}
[な、何で馬鹿呼ばわりされなきゃいけないんだよ?!]
{フン!、だ!!}
 何だよ、そんなに綺麗になったのを自慢したいのかよ!。元は俺の身体だぜ?!。
「さあ、喧嘩はそこまでです。行きますよ」
 セイランに手を曳かれて、俺、じゃなくて、エムは外に出た。セイランがドアノブに手をかけると、鍵は初めからかけられていなかったようにすんなりドアが開く。
 ウオッ、なんて歓声があちこちに上がった。
「平紀 恵夢ちゃんですねっ!。声を聞かせてくださいっ!!」
「恵夢ちゃんこっち向いてっ!」
「貴方が代理人の義理のお兄さんですねっ!!、どこと契約なさるんですかっ!」
 エムはセイランの後ろに隠れるようにしてアイツの腕をしっかり握り締めている。
 震える感覚が伝わってきた。
 俺は、この頃、後悔ばっかりしているけど、今日はかなりハイ・レベルな後悔だった。
 さっき、エムが俺に期待したのは賛辞じゃなくて、励ます…というより、支えの言葉だったんだ。これから、自分自身とはいえ他人の身体を借りて、この間まで魂として一人ぼっちだった女の子が、これからマスコミ相手に渡り合うのに不安が無い訳はない。
 俺には…分かるよ。俺も、お前と出会うまで一人ぼっちだった気がする。
[エム…大丈夫だ、俺も一緒に居る]
{幾斗……うん…ありがとう}
《ボクもですよ。大丈夫。彼等は直接エム君に触れないようにしてありますから》
 気が付くと、その通り、俺たちの為に道が開いていた。

 俺は、ラジオのスタジオというのはテレビのと違って暗くて狭いものだと思っていた。ところが、俺たちの案内されたところは、狭いことは狭いが外がガラス張りで綺麗にライト・アップされていた。つまり、外を歩いている人込みから丸見え状態なんだ。
 スタジオとも音調室ともつながっているスタンバイ・ルームで関係者たちが待っていた。
「この子が平紀 恵夢君です。よろしくお願いします」
 セイランがまずそう言って名刺を出し、挨拶の口火を切る。それにしても、コイツはいつの間に名刺まで…。
「ああ、良く来てくれたね。私はこの番組のプロデユーサーの――」
 しばらく、俺たちは紹介の嵐の中に居た。セイランの手に名刺の束が出来た頃、ディレクターが言う。
「自然に話してくれていいんですよ。君が話してくれるって事自体が大事なんだから」
「は、はい」
 勧められた椅子に座ったエムは声が少しかすれていた。小粒の喉飴と様々な飲物が彼女の為に前のテーブルに並んでいる。
「あと5分です」
 アシスタント・ディレクターが告げた。
 エムは片手でセイランの手を握り、もう一つは自分の胸に当てられている。直接関係しない俺でさえ緊張で目が眩んだ。
「1分前です」
 エムはスタジオに入る。
 セイランが手を離す瞬間、俺たち三人は他の人間には聞こえない言葉を交わした。
{いってきます}
《大丈夫。エム君は一人じゃない》
[そうさ、俺が居るんだから]
 声ではない会話は非常に早い。このくらいなら一瞬だ。
 エムは示された一番外側の椅子に座る。前には男の人、横には女の人のDJが居た。さすがに見えるところで放送するだけあって美形揃い。オープニングの音楽と、それに続く声は録音済の物が流された。
「大丈夫。緊張しないでね」
 その音楽の影で横の女の人が囁く。
「そう、気楽に友達と話すつもりでいてくれればいいんだよ」
 男の人も微笑んでいた。
「…さ〜あ、今日も楽しくお送りします。今日の担当は“KIMU”と」
「“トモチャン”でぇす。…ねえ、KIMU、今日は、知る人ぞ知る、可愛いゲストがオープニングから来てくれてるのよ」
「うん、噂の“謎の美少女”だよね。皆に代わってバッチリ訊いちゃおうね」
「そうです、街の話題を独占してる“平紀 恵夢”ちゃんです。どうぞ!」
 突然にふられてエムは少し詰まる。
「あ、初めまして、平紀 恵夢です」
「あれえ、まだ少し緊張してるかな?」
「はい…」
 俺は頭の中で言った。
[なんだよ、いつも俺にブーたれてる元気はどこいったんだよ!]
{わ…私、そんなにブーたれてばっかりじゃないわよ!}
[その調子だろ。いつもの調子さ、エム]
 ガラスにサングラスをして微笑んでいるセイランが映っている。
「まず君の年齢を訊いてもいいかな?」
「15歳です」
「えっ、15歳なの?。若いとは思ってたけど…」
「やだ、KIMUったら。恵夢ちゃんが同い年に見えたなんて言ったら許さないわよ!」
「そんなこと思ってないさ。ちょっと…若いのか大人っぽいのか分からない、不思議なところがあるよね、恵夢ちゃんて」
「ええ、よく言われます」
「そんなこと、よく言われちゃうの?」
「はい。大人に見えることもあれば、小学生に見えることもあるって」
「ああ、分かった。何だかしっかりしてそうなのに、フッと壊れそうな頼りなさが見えるからだよ」
「そうでしょうか?。私は生意気と背伸びのせいかと思いました」
「あははは…あ、ここで1曲かけようね…」
 どうやら、第一段階はクリアしたようだ。曲の間も三人は会話を続け、エムがリラックスしてきたのが分かる。曲が最後に近づいて、三人ともまたマイクに集中し始めた。
「さて、今度は、恵夢ちゃんの謎の真相を迫っちゃおうか」
 男性にそう言われて、エムがピクリと反応する。俺はまた言った。
[大丈夫。誤魔化せ!]
 にこやかに、しかし、ほんの少ししたたかそうな顔で女の人が訊く。
「恵夢ちゃんは何で全てを謎にしてるの?」
「そうですね。両親も学校もそういうことを許してくれないんです」
「そうかぁ、それは困ったね」
「ええ、私はお話ししても構わないんですけどね。なんていうか、昔気質なんです。私の周りの大人の人たちって」
「あはは、昔気質はよかったね」
「だって、正体が分かったら芸能関係の活動を一切禁止すると言われているんですよ」
「じゃあ、謎がばれちゃったらこういう活動が出来なくなっちゃうんだ」
「そうなんです。未成年の辛いところです」
「ふふふふ…、そうねえ、未成年だもんね。じゃあ、いずれは公開しちゃうのね?」
「そうですね、その頃までこういう活動を続けていられればですけど」
「大丈夫だよ。こんなに可愛くて面白い恵夢ちゃんだもん」
「そうよ、これからも頑張ってね」
「…今日のオープニングゲストは平紀 恵夢ちゃんでした!」
 また曲がかかった。その間にさっきのアシスタント・ディレクターの指示で俺たちはスタジオからスタンバイ・ルームに戻る。エムはスタジオを出る時に振り返って、二人共にそれぞれペコリとお辞儀をした。
 スタンバイ・ルームで座り込むと、エムは喉が乾いていたらしくウーロン茶を紙コップに2杯もたて続けに飲む。曲が終わると再びあの二人はしゃべりだした。
「しかし、可愛かったよね。恵夢ちゃんて」
「うん、真っ直ぐに私たちの目を見て話してくれるのよ。素直で素敵な子だったわ」
「また、ゲストで遊びに来てほしいね」
「そうね、このまま…謎のままで居られるように本当に願ってるわ」
 また、芸能界独特の挨拶の応酬があってから俺たちは廊下に出る。その途端、ワッと、それこそ蝿の様に報道陣が群がった。
「恵夢ちゃん!、サイズを教えてよっ!」
「お義兄さん、どこと契約するつもりなんですかっ?!」
「これからも芸能活動をするんですかっ?!」
 さっきと質問の質が変わった。今の放送を聞いていて、プライベートなことは訊いても無駄だと理解したんだろう。
「プライベートに支障をきたさなければ、エム君は活動をしていきます。そして、どこの会社にも属する気はありません」
 セイランは片手でエムを守りながらもう一つの手を内ポケットに入れた。
 ある一定の距離を持って囲んでいた連中が、怯んで後退る。
 そりゃあ、あの格好でそんなことをすれば、ヤクザがピストルを取り出すのにソックリな雰囲気になるからね。
「御用の方はこの電話番号にどうぞ」
 パアッと俺たちの周りに白い紙が舞う。
 その一枚をエムがつかんだ。
 急いで拾いまわる連中を尻目に俺たちはあの控え室に戻る。
 エムが俺のシャツとトランクスに着替えると、急いで俺は俺になり、残りの全てはセイランが持って消えた。あの世にもそういうのをしまう場所が在るのか?。
 セイランが消えた途端に、やっぱり鍵が意味の無いことを知った。ドドッと取材陣が押し入ってきたのだ。
 我に還って、俺はアルバイトの掃除夫を装って部屋を片付ける真似を始める。
「あれっ?!…おいっここに女の子と背の高い男が居ただろう!。どこに行った?!」
「え?、ああ、あの二人ならもうとっくに出て行っちゃいましたよ」
「そ、んな、はずがないっ!。ずっと見張ってたんだぞっ!!」
「はあ、だって本当ですよ」
 俺はシラを切り通した。頭の中では解放されたエムがウフフと笑っている。馬鹿、今、笑うと、俺までつられそうだぜ。それでも、全員外に出るまで、俺は笑いを押さえていた。
 ラジオ局の外に出ると、ジーンズのポケットに紙切れが入っている。
“ 平紀 恵夢 代理人
平紀 聖嵐
電話 (★★★★)1234
FAX (☆☆☆☆)5678”
[セイランの奴、やりすぎだよ。こんな嘘っぽい電話番号]
{いいじゃない、これで丸く収まるのなら}
 俺は急に笑いだした。エムも笑っている。
 町中でこんなに笑うなんて頭がどうかしていると思われるだろうけど、俺たちは緊張の糸が弾けた反動で笑い続けた。

   ACT・3 喧嘩と罠

 それからも俺とエムの、いや、平紀 恵夢の芸能活動はボチボチ続いた。
 セイランは俺の都合をまるで全て知っているように、ちょうどいい間隔と時間で仕事を入れてくれた。いや、アイツだったら俺の生活の全てを俺以上に知っているといっても全然驚かないけどね。
 しかし、困ったのはエムにすげえ人気が出てきたってことだ。こういう、たくさんの人間が関わることになると、セイランでさえ見通せないらしい。
 エムでいる間、俺たちはスクープを狙う連中から尾け回された。
 でも、セイランは仕事を受ける時に、仕事中はそういう連中をエムに近づけないことと、プライベートに関しての質問をしないこと、そして、出来るだけマネージャーである自分が側にいられることを条件にしていた。
 セイランが側についていると、不思議にそういう連中も近づいてこれない。まあ、アイツ、人間じゃないからな。
 え?、変身が何故いつもいつもばれないかって?。そりゃあ、テレビ局のトイレでだったり、木の茂みの中でだったり、時にはセイランが待ち合わせ場所に乗ってきた黒塗りの車の中で変わったり、結構大変なんだよ、これが。
 でも、俺でいる間は誰も関心を向けないからな。顔は全然似てないし、背格好も違い過ぎるし、それにどう見ても男だしね。
 それでも、チョコチョコとは服や帽子で変化をつけた服装で出かけたよ。エムの居るところにいつでも俺が居るんじゃ、やっぱり気がつかれないまでも問題だろうからな。
 どこの事務所にも所属しないままでテレビやラジオで話題になっている“謎の美少女”は、芸能関係に強い俺の学校でもかなりの噂の種になっていた。姿形や声、名前と年齢、それ以外は文字通り謎なんだから。
 でも俺も、この頃はそういうエムの噂話を聞いてもだいぶ焦らなくなってきた。

 そう、今日までは巧くいってたんだよ。

 今日はファッション雑誌の撮影会。
 撮影スタジオに行くと、広い綺麗な控え室でセイランが待っていた。こういうところは人の出入りも結構在るし、毎日その顔ぶれも変わるから、人に気が付かれずに簡単にそこまで入ってこれたんだ。
 そして、変身まではなんの問題も無く進んだんだよ。
「よろしくお願いします!!」
 この頃になるとエムの挨拶も板に付いてきたよな。やっぱり、もともと、こういうのに向いてる奴なんだなあ。
 ところが、急に彼女はスタジオの中で足を止める。
「やあ、君が平紀 恵夢ちゃん?。はじめまして、黒田 隆司です」
 横からすっと手が出された。
 いかにも、『自分はいい男でしょう、ね?』みたいに白い歯を光らせてソイツは笑っている。俺より背が高く髪も長かった。確かに見栄えがいい顔立ちをしてるけど、目尻が下がっていて、鼻もちょっと広い、少し甘ったるい感じだ。
 灰色のスーツを流行り風に前を開けて着崩している。
「あ、初めまして…」
 エムが手を差し出すと、相手は引っ張り込むようにそれを握った。俺だったら、即、コイツの腹に正挙ぶち込んでるぜ。
「恵夢ちゃんて…噂や写真より、ずっと可愛いね」
「…お世辞がお上手ですね」
「お世辞じゃない。僕のこの目を見ても信じてはもらえないかい?」
 顔をグッと近づけられ、エムは赤くなって手を引き抜く。やっぱり、正挙だけじゃなくて廻し蹴りも入れてやろうか。
「今日の撮影の相手が君だって聞いて、楽しみにしていたんだよ」
 こっちの事情も知らないで、黒田は涼しげに笑って言う。
「そうなんですか、黒田さんも今日のモデルなんですね。私、こういうの初めてなんです」
「恵夢ちゃんは撮影会が初めて?。へえ、今までこんないい素材を何で皆んな逃していたんだろうね。…まあ、お互い気持ちよくやろうよ」
「はい、よろしくお願いします」
 あのサン・グラスが相変わらずヤクザっぽいセイランがスッと言葉もないままに二人の間に割り込んで、エムをカメラマンに紹介するために連れて行った。
 カメラマンは“水原 留美”という女性で、この人の名前なら俺も聞いたことがある。もうかなり昔から有名で新人というより中堅クラスだ。この頃はヌード写真集とかも撮っている。あん、俺が知っている理由はそれだろうって?。まあ、ね。
 俺はファッションには興味が無いから、どんな服を着せられたのか良く見てなかったけど、かなり着替えをさせられたようだ。
「…いいね、恵夢ちゃんて。何か在りそうで、あたしの腕以上のモノが撮れそう」
 水原女史はファインダーを覗きながらそう呟く。
 お世辞なのかと思ったら本気だったらしく、撮影が終わった時にセイランのところに来て‘写真集の予定が在ったら、あたしに声をかけてくださいね。’と言った。
[それはそれでいいから、早く控え室に戻ろうぜ。腹減ってきたよ]
{そうね。かなり着せ替えさせられたから疲れたし}
 振り向いた途端に、灰色の壁。アイツだ、黒田とかいう。
「良かったら、今日は一緒に食事でもいかがですか?。美味しいカレーを食べさせてくれる店なんですけど」
「え?。…でも、どうしようかしら」
 エムがセイランを見上げる。俺は即座に言った。
[断われよ。家に帰ればアヤコさんが作ってくれてるんだから]
《どうしますか?、エム君》
 セイランはいつもこういう申し出が在る時はエムに選択を任せる。
 彼女が彼女でいる間は、その自由な意志を最大限尊重するつもりだからだ。俺に対しても同じ様に接してくれる。あくまでも、俺たちがやることは俺たちに選ばせるのだ。だから、仕事に関わることでセイランが用意する洋服なんかをエムが気にいらなかったことがないのは、彼女が意識的無意識的に着たいもの、望むものが用意されるからなんだろう。
 まあ、時々は“どうしてもやってはいけない”って言うことも在るけどね。それは、俺たちの存在自身に関わることだけだ。
《嫌なら、さりげなくボクが断りますよ》
 でも、この時ばかりは無理やりにでも断ってほしかったよ。嫌な予感が俺をかすめる。
[嫌だよ、俺]
 俺は断固として抗議した。
《でも幾斗君、今はエム君です。そして、この申し出はエム君にされたものです》
 セイランが正しいのは良く分かる。分かるけど、だから、余計に腹立ってくるんだよ。
 エムはしばらく考えている風だったが、顔を上げて言う。
「ええ、少しなら…いいわ」
[なんだよ、その少しっつうのはよっ?!]
《幾斗君、エム君で居る間は、エム君の意志が尊重されます。エム君だって幾斗君の意見を知ったうえで考えているはずですから、別に無視をしている訳ではないでしょう。運命ですから、仕方ないんです》
 運命か。なんだよ、いつもそれで片付けやがって!。
「良かった。レストランにもう予約をしちゃってたんだよ。君たちが来てくれなかったら、僕が三人分食べなきゃいけないところだった。
 まあ、高級料理なんてのは二人分食べたくらいでちょうどいいんだけどね」
 黒田の冗談に、エムが楽しそうに笑った。俺はだんだん、超不機嫌になってきたぜ。こういう舌が巧く回り過ぎる奴を俺は信用できない。
「そのまままでも綺麗だけど、笑うと可愛さが加わってもっと素敵に見えるよ。
 今日、恵夢ちゃんに着られた洋服の内のいくつかは可哀そうだったよね。君自身の魅力に服の方が負けちゃっててさ」
 ペラペラペラペラ…良くこんな歯が抜けそうな科白を思いつくもんだな。エムが今度は嬉しそうにはにかんだ。ちきしょう、あったまきたぜっ!!。
 控え室に帰って着替える間中、俺は口も利けないほどムカムカきてた。
{何よ、幾斗ったら、まだ拗ねてるの?}
[うるせえな]
{いいじゃない。たまには同じ仕事をしている人と話しをしてみたかったんだもん}
[黙れよ!]
{怒らないでよ、滅多に無い機会なんだし。…幾斗だって学校でいつも友達たちと楽しそうに話してる癖に…}
[うるせえって言ってるだろっ!。聞きたくねえよ、黙れ!!]
 それっきり、俺はエムから全てを切り離した。勝手にしやがれっての!!。

 どのくらい経ったのか、俺はいつの間にか眠っていた。
《…幾斗君、今、君にしか聞こえないように話しかけています》
[セイランか。ここは何処だ?]
《ボクの車の中ですよ。エム君は眠っています。もう、ボクが幾斗君の姿に戻しました》
[そうか]
 俺は目を開ける。俺の姿と洋服だ。
《食事の後、カラオケにも行ったので、もう、7時半近くです。家にはまだ誰も帰ってきていませんから、このまま幾斗君を送っていこうと思っているんですが…》
「そうしてくれよ」
《会話方式だとエム君にも届く可能性が在りますから、ただの思念にしてください》
 ああ、その方が俺も気が楽だ。エムとは話ししたくない気分だからな。
 どうしたんだ?。何か在ったのか?
《スタジオから、ずっと尾けられているんです。後ろを見てください》
 俺は後ろのカーテン越しに刺さる光に注意した。ライトは1つだ。バイクだな。困るよ、そのまま俺の家に来たら俺がエムと関係在るってバレるだろ。
《そうなんです。そこで相談なんですが、在る場所でエム君を置いてくる真似をしたいんです。本物じゃなくて幻ですけどね》
 そりゃいいぜ。で、それから俺を送ってくれればいいんだよな。
《ええ、でもそれはボクだけではできませんから、幾斗君に協力してほしいんです》
 ああ、いいよ。
 車は俺の家から余り離れていない高級マンションの門のところに来た。この門を開けるには許可証が要るはずだぜ。まあ、セイランには何でもないことかな。
 その通り、セイランが例の魔法の手を上げると門は自動的に開いて中に入ることが出来た。
《幾斗君の頭の中に浮かんだエム君の姿を映しますから》
 え?、俺の?。
《早く》
 マンションの入口に着いてセイランはいったん降り、俺の座っているところのドアを開ける。しかし、必死になって俺が思いついたのは、なぜか最初に俺に向かってきたエムだった。
《そんな、裸の姿なんて駄目ですよ》
 焦らすなよ、余計に固まるだろう!。おっと、これならどうだ。
《服装が車に入った時と違いますが、それでいいでしょう》
 猫の模様の黄色いワンピースを来たエムが車から降り立つ。
 これでも幻かよ。触れそうだぜ。と、思わず伸ばした手はすり抜けた。セイランはまた元のように車に戻る。
《まだ頭の中に描いていてください。門を出るまで》
 セイランが車を出すと、その幻はしばらく手を振ってから建物の中に消えた。そして、車も門の外に出た。それらしいバイクが門の横の壁に、こちらから隠れるように止まっている。
 ちくしょう。降りて行って怒鳴りつけてやりたいぜ。
《駄目です。そんなことをしたら、君がこの車に乗っているのが知られてしまう》
 分かったよ。考えるだけにしとく。
《人気が出てきてしまった以上、これからも尾け狙う奴が出てくるでしょう。幾斗君も気をつけてください》
 ああ。
 なあ、ところでこんなに有名になったのに、エムの家族とかがどうして騒がないんだ。
《………》
 そうかよ。こういうことは訊いちゃいけないって訳か。
《エム君も言っていたはずですよ。彼女の生前の事は死んだ原因や理由も含めて教えられません。もちろん、偶然か何かで知ってしまったとしたら、それは貴方の運命ですから仕方ないですけどね》
 運命か…そんなもの本当に在るのかよ。
《そ、それは、我等全てを生み出した…》
 “神のみぞ知る”だろ。
《ええ…》
 セイランの声というか音には珍しく不協和音のようなものが混ざった。
 その理由を訊こうか訊くまいか考えている内に、俺の家の前に着いてしまう。誰も追ってきている気配は無かった。
 じゃあ、降りるか…。
 車から出て家の門を開け始めた俺に、セイランが話し掛ける。もちろん、車はドアも窓も何処も開いていなかったけどな。
《エム君が成仏する条件を覚えてますか?》
 俺は身体が固まった。
 忘れるはずないだろうが!。顔が火を吹くぜ。ったく。
《それならいいんです》
 ギクシャクしながら俺は門を締めて玄関に向かう。離れたって、セイランとの会話には支障が無いのを知っているからな。
 なんだよ、しかし、あらたまって。セイラン?。
《……運命が本当に在るのか、という、幾斗君の言葉の意味を考えていたんです》
 だって、仕方ないんだろ?。運命なんだろ?!。分かりましたよっ。くそおっ!!。
《違うんです。そうじゃなくて…》
 まただ。セイランの声から透明なハーモニーが消えている。
《…いえ、今日は御苦労様でした。また》
 俺が家の鍵を開けて中に入るのと同時に気配がなくなった。振り向くと、エンジンの音もさせていないのに車ごと消えていた。

 次の日の土曜日、今日も仕事が在ったはずだが、例の手帳に“急にキャンセルになりました。”とセイランの字が浮かんでいる。
 俺は、安心と落胆の両方が自分の中に在るのを感じた。
 エムは昨日俺がやったように全てを切り離しているらしく、気配だけがしている。
 ベッドに転がって天井を眺めていると、階段を上がってくる音がしてアヤコさんの声が言った。
「幾斗さん、今日はクッキーを焼いてみたんですよ。一緒にお茶を頂きませんか?」
 アヤコさんがウチに来るのを続けている訳は、母さんのファンだってことが大きい。それに、子供の居ない彼女にとって俺が可愛いせいだと思うよ。
「ああ、今、行くよ」
 下に降りて行くとリビングのテーブルの上に甘い匂いをさせて、小さい頃はねだって焼いてもらった洋菓子が、色とりどりにお皿に盛られている。
「ああ、いい匂いだ。アヤコさんの焼いたクッキーは最高だよ」
「まあ、そうですか。この頃は幾斗さんも色々と忙しいようで余りお話しが出来なかったですから、もう、これを食べて頂く機会も無くなったかと思いました」
「そんなことないよ。アヤコさんの作ってくれる夕食とお菓子は、俺、世界中のどこのレストランに行っても注文したいくらいだ」
 ハーブ・ティーの優しい香りに包まれながら、俺はぱくついた。
 喉につかえたのをお茶で下すなんてのを3、4回はしたね。それくらいアヤコさんのクッキーは美味しいのさ。
「ねえ、幾斗さん」
「ん?」
「何か悩み事でもあるんですか?」
 ぐっと詰まって、熱い紅茶を流し込み、俺は舌を火傷してしまう。
 その様子を、可愛くて堪らないというように微笑みながら、真っ白くなってしまった髪を上品にまとめたアヤコさんが見つめていた。
 俺の遠い記憶のアヤコさんはもっと黒い髪で、顔もぽっちゃりしている。でも、今でも笑い皺で彩られた目と口は余り変わっていなかった。笑顔が似合うんだよ、アヤコさんは。
「何でそんなこと訊くのさ?」
「ええ、さっきお帰りになった時に言った“ただいま”が、小さい頃にお友達と喧嘩して帰ってきた時にそっくりだったからですよ」
「…そうか」
 アヤコさんは相変わらず笑っている。
 この人には隠せないな。セイランだって、俺のことをこの人以上に知ることは出来ないよ。
 そして、この人以上に俺が素直になれる相手は居ない。
「あのさ、アヤコさん、どうして喧嘩なんてしちまうんだろうなぁ。
 別に、嫌いな訳じゃないし、理由だって後から考えると、てんで下らない事なんだよな。それで、何をどうしたらいいのか…。
 …俺、自分でもよく分からないこと言ってるな」
「あら、まあ、幾斗さんも本当に大人になって…。そんな難しいことを考える歳になったんですね。いつの間にか、私の背を抜いてしまうはずだわ」
 彼女は一瞬驚いた顔を、また微笑みにして俺を見た。
「俺が背が高くなる歳になっただけだよ」
 照れ隠しで、俺はまたクッキーを齧る。アヤコさんは黙した笑みのまま、真っ白いカップを口に運んだ。
 そして、落ち着き払ってゆっくり言う。
「…私も、女学生の頃はそういう“哲学的”といわれるような事を悩みました。本もたくさん読みましたし、友達たちと議論なんて生意気なこともしましたよ。
 親に反対されて家出同然に演劇の道を選ぶような事もしましたしね。
 それから、結婚して、子供も主人も亡くして、ここに御手伝いに越させて頂いて…ずいぶん色々なことを経験してきたのに、未だに女学生の時に悩んだ問題の答えは分からないんです。
 …ごめんなさいね、ちゃんとした答えになっていなくて………」
 普通、誰かがこんなゆっくり話したら、途中で俺はどついてるね。でも、アヤコさんの場合は許せる。まあ、セイランの時も許してるけど。
「あ、謝らなくてもいいよ。
 ……でもさ、アヤコさんが演劇を志してたなんて初めて聞いたな。それで、ウチの母さんと知り合ったんだ」
 彼女は頷いて、また深く笑った。
「その話はまた今度にしましょう…。
 ただ、この歳になって一つだけ分かったことがあるんです。大人になるということは、よく云われるように物分かりが良くなることじゃない、と。
 白を黒と言えたり、上手に嘘をつけたり、巧く自分を守れたり、そういう上手な誤魔化し方を憶えるのではなくて、本当の大人というのは悲しいことから逃げないだけの強さを持つことだと思います。
 事実は時に残酷ですからね。
 幼い時は、辛いや苦しいの一つ一つで泣いたり傷ついたり。でも、それは本当の意味での悲しみじゃないんですのよ。次の日にはもう忘れてしまえるんだから。時が経つにつれて、その中から、本当に逃げてはいけない悲しみを見極めて、真っ直ぐ向き合うことが、大人になることなんですよ、きっと。それも、勝つとか負けるとかではないんです。
 …偉そうなことを言ってしまったわね。
 それで、幾斗さんは喧嘩したその人の気持ちを本気で聞いて、自分の気持ちもちゃんと話しをなさったんですか?」
「え、…知らない。聞いてない」
「そうですか…。何にも話し合わずに喧嘩なさったんじゃ、憶都さんがこうして悔やんでいるように、相手の方も悩んでらっしゃるかもしれないですね」
 俺はハッとする。
 アヤコさんの言う通りだ。
 俺は、いつも自分のことだけしか考えていなかった。運命がどうとかなんていって誤魔化して認めなかったのは俺の方だ。
 アイツが俺の中にいるのは逃げちゃいけない事実なんだ。
「サンクス、アヤコさん」
 彼女は、何だか俺の今の気持ちまで分かっているように深く頷く。
 2階にとってかえって手帳を見ると、思った通り、今日の新しいスケジュールが入っていた。そして、玄関から飛び出そうとする俺をアヤコさんが引き止める。
「幾斗さん、これ、持って行ってちょうだいな。私一人じゃこんなに食べきれないんですもの」
 彼女が渡したのはクッキーが入った布の袋だった。
「うん、貰っていくよ」
「相手の方の御口にも合うといいんですけれど…」
 ニッコリと笑うアヤコさんに、俺も釣られる。
「ああ…絶対に気にいるさ!」
 手帳に書いてあった通り、セイランは家に一番近い公園の前で車を止めて待っていた。
《機嫌は直りましたか?》
 いつものように澄ました顔に微かな笑いが浮かぶ。
「ああ、ばっちり」
 俺は車の中に急いで飛び乗って、精一杯念じるとエムを呼び出した。
{…幾斗?}
 頭の空間に浮き上がった彼女は訝かしげな表情で首を傾げる。
[あのさ…俺…あの………え、エムがやりたいなら何でもやればいいんだよ。この身体、もう半分はお前のもんだ。いけるところまでいこうぜ!]
{…私、幾斗の意見を全然考えなくて悪かったと思ってるわ}
[ああ、俺も悪かったよ。お前の気持ちを考えてなかった。お前だって生きているのにさ。
 いつか…お前が成仏できるようなことになったっていい。俺は、きっと無意識にでもお前を認めて受け入れたんだから]
 俺は変身する前に、アヤコさんのくれた袋を膝の上に乗せた。それは小さい頃撫でられたアヤコさんの手のように暖かかった。

 しかし、問題はそこで終わりじゃなかった。
 それから数日後、あるマンションの中に入るエムの姿がスキャンダルとして週刊誌に載ったんだ。
 俺がそれを知ったのは、いつものごとく芸能関係の情報通である孝太郎からだった。
 そして、食堂で昼飯を食べ終わった頃。
「おい、幾斗、あの恵夢ちゃんて、男と同棲してるって話しだぞ」
「え…!」
 絶句。
 そんな馬鹿な。あ、ある意味では当たってるけどさ。俺と住んでるんだから。でも、そんな…まさか。
「あ、それなら俺も仕事してる時に読んだぜ。えっと、ク、ク…ん〜、何とかいう新人Bクラスのモデルだよ」
 鷹弥がそんなことを言ってる間に、目の前にバサリと女性週刊誌が広げられる。俺が絶対に買えないような代物だ。
「ほらこのページさ。俺じゃなくってがっかりしたよ」
 孝太郎の冗談は俺の耳すらかすらなかった。それこそ食い入るように読んでたからな。
 『謎まみれの美少女は男まみれ!!』だと?!。
 冗談じゃない!。エムも俺の中で困ったような顔をして覗き込んでる。その両端に鷹弥と孝太郎が居るから、確かに今は男まみれだけど。
 う、そんな馬鹿なこと考えてる場合じゃないっ。パニクると超下らないダジャレを考えつくのって、俺の癖なのかな…。
 確かにエムがマンションを入っていくところだ…あ、これ、この間の高級マンションのだよ。あれ、でも、遠くから撮っている写真は場所が違う。確かに入口は良く似ているけれど違うマンションだぜっ!!。
 なんだこれわ?!。相手は誰だよ!。
「黒田ぁ?、黒田 隆司が同棲相手?!…ば、ばっきゃろう!、そんなこと在る訳ないだろうっ!」
 声が裏反る。
 そのマンションは黒田の名義で、エムがいつもそのマンションに帰るとか、御丁寧に黒田と一緒に食事をしているところと同じ車=つまりセイランのなんだけど=に乗込む写真まで載っていた。
「こ、興奮するなよ、幾斗」
「そうだよ、相手がお前じゃなかったからってさぁ」
 鷹弥と孝太郎は急に俺から離れる。
 俺が空手有段者だということは二人とも知っていた。今、俺の周りには殺気が漂っているに違いない。
「くそうっ!、こんな訳ないだろ!!。だって、あの日もエムは俺と…」
{幾斗、駄目よ、声が出てるわ!}
 ハッとして左右を見ると、二人の表情が恐れから疑いに移っていくのが分かった。
「幾斗、お前、今の言い方、ちょっとおかしくないか?」
 まず、鷹弥が咳払いしてから俺の肩に手を置く。
「ああ、ちょっと聞き捨てならねえ科白だよな」
 次に、孝太郎が上目がちに見ながら反対側の肩に寄り掛かった。
{今のはまずいんじゃない?。あれじゃ私と貴方が関係ありますって白状してるようなものだもん。今すぐならフォローできるわよ}
 エムがそう言ったが、今の俺はそんな気力を持ってない。
[いいよ、もう疲れた。親友のアイツ等にまで隠していくのは、親に隠してるより自己嫌悪なんだよ]
 これで肩の荷を全部降ろしてやる!。
「お前たち、言っても信じないかもしれないけど…」
 俺が言いかけた途端。
《…駄目ですよ、幾斗君。最初に言っておいたはずです。エム君のことは誰にも知られてはいけないと》
 だしぬけにセイランの忠告の音が聞こえた。
 そういう強い口調の時は大人しいフルートじゃなくてトランペットみたいな大きいのが前面に出てくるんだな。
[分かってるよ。でも、この二人は俺の親友なんだ。事実そのものじゃなくても、エムが、というかあの女の子が俺に関係するってことだけでも話しておきたいんだよ]
 俺は真剣だった。しばしの空白。
《…そうですね。今、この二人の心の中を覗き込んだんですが、幾斗君に対しての真剣な気持ちが溢れているのを感じます。
 外の部分だけ話すのならいいでしょう。
 それに、いざという時に味方になってくれるかもしれない。巧く誤魔化すことを祈っています》
 アイツの声が消える。
 エムもセイランの言葉を聞き終わってホッとしたように微笑んだ。
「ここじゃ何だから…」
 俺は二人を図書室に誘う。

 私立の成金趣味らしく金をかけた図書室は、利用する生徒の数に比べて異常に広かった。
 だから生徒たちは読書の為じゃなく、他のことで使うことが多い。時々ヌキウチで行われる先生の見回りに気を付ければ最高の井戸端なのだ。
 俺たちは出窓部分に並べられた席を選んだ。よく見えてしまうようで、さりげなく書架に隠れている、この絶好の場所がたまたま空いていたのだ。
「本当に誰にも言わないでくれよ。俺とあの子の為に」
 目の前に鷹弥と孝太郎の顔が心配そうに、しかし、はっきりと俺の言葉を受け入れようと待っている。
 しかし、どう説明すればいいのか…。
{前に誰かが言ってた“血のつながってない妹”にしちゃいなさいよ。安易だけど突飛だから、案外、いいかもしれないわ}
 飛び過ぎるような気がするが…まあ、いいか。どうせ、そこら辺は嘘なんだから。
「コホン…これは俺の家でも話題にしてはいけないことになってるんだけど、あの子は、エムは俺の妹だ。しかし、血はつながっていない」
 意外にも、二人は『やっぱり』という顔をした。これから、どう続けようか…。
{私の両親が死んで、貴方の家の養女になったってことにしたら?。セイランは設定そのままで私の義理のお兄さんでいいでしょ}
 う〜ん…養女ねぇ。
「…えっと…父さんの学生時代の親友の娘なんだけど、両親が死んでしまってウチの養女になったんだよ。…で、でも、一緒に住んだことはない。そう、向こうの義理の兄さんの処に住んでいるんだ。その父さんの親友という人の家庭が、これがまた、結構複雑で…ね」
 話している俺が疑っちまうような眉唾物なのに、孝太郎は同情する目で頷いた。
「そうか…よく在る話しだよな」
「そうだな、俺の家も色々在ったから分かるよ」
 鷹弥のは、同情というより同感といっていい口調だ。
 そうか、それぞれ在るんだな。俺だけが全ての悩みを背負ってるみたいだとかいうのは、俺の思い違いで思い上がりだったんだ。
「それに…俺が分からない夫婦の間の問題も在るようで、俺の両親は彼女に10年以上会ってない。きっと、色々と問題が在るんだと思うよ。母さんは一応の女優だし。
 だけど、俺は歳も近かったし、その義理の兄さんとも仲が良かったんでたまに会ってた。
 もちろん、親にナイショでさ…」
 良くこんな事がペラペラ出てくるもんだと俺は自分で感心した。
{こういう条件なら、幾斗と私が親密だけど距離を置いた関係だっていえるわね}
 だんだん自分の言っていることが事実みたいな錯覚がしてきて、俺は最後の方は自信を持って言い切ったね。
「それで、彼女がこういうことで騒がれると、やっぱり兄貴として心配なんだよ」
 ここで俺は話し終えたという印に、半分芝居、半分本気の溜め息を付いた。
「そうか、分かった。…良く話してくれたな、幾斗。じゃあ、彼女の名前は本当は“紀平 恵夢”なのか」
 鷹弥がそう言って俺の肩を叩き、孝太郎も手を組んで“分かるぜ”みたいにする。
「名字も反対の“平紀”にするなんてやっぱり彼女も隠しておきたいんだろうなあ」
 ああ、俺、霊感がいいからなのか、友達の選び方を間違えなかったぜ。コイツ等をこの間は一時でも“裏切者”なんて呼んだことを、俺は後悔したね。
「ああ、だから、出生の秘密とかがばれないように向こうの義理の兄さんが代理人になってある程度誤魔化しながら活動してるんだ。
 …一時的には騒がれるかもしれないけど、すぐにこんなもん収るさ」
 そこで鷹弥が首を傾げた。
「そうかなあ?、俺はそうは思わないよ。
 かなり大手の会社が彼女の獲得に動いてるらしい。ルックス、話題性、雰囲気、全てが満点に近い。これで売れなかったら嘘だよ」
 芸能界に首まで浸かっていると自覚している奴の言葉は、俺にグサッとくる。
「うん、ボクの父親の会社系の芸能雑誌も乗り出したらしいし、スポーツ新聞の連中もブームになれば乗っかりたくてウズウズしてるよ」
 余計なことを付け足す孝太郎の言葉が止めを刺した。
「しかし、それはラッキーだなぁ、今度俺にも彼女を紹介してくれよ」
「あ、そういう抜け駆けは無しにしようぜ」
「…あのなぁ…孝太郎、鷹弥……」
 ……やっぱり、少し、友達選びは失敗したかもしれない………。
「…お前等、そこに行き着くかぁ?!」
{いいじゃないの。誤魔化せただけでも。本当にいい人たちね}
 エムがクスリと笑った。
 何だか、俺だけ真剣になってて…なんだか、馬鹿らしくなってきたぜっ!。
「それで…お前はこの噂が嘘だっていう証拠を持ってるのか?」
 サラッとした髪を掻き上げて形のいい眉を寄せ、鷹弥は急に声を潜めて訊く。
 今さっき話したことがちゃんと秘密だと分かってくれてるらしい。俺も出来るだけ二人に顔を寄せてこの間の出来事を答える。
「…ふうん、そりゃタイミングが良過ぎるなぁ。その黒田って奴、きっと、恵夢ちゃんを利用して自分の名前を売るつもりなんだな」
 腕組みをした孝太郎が、長い睫を瞬かせた。
 エムは暗い顔をしている。
 そりゃ、一度は心ときめかせた相手が自分を利用する為だけに近づいたと知ったら、誰でも落ち込むだろうさ。
 その顔を見ていると、なおさら黒田の奴が許せなくなってきた。
「そうだろ?。それに、エムはあんなマンションには住んでないんだぜっ」
 興奮して俺は大声を出すところだった。
「……幾斗、お前、恵夢ちゃんのことになるとキャラクター変わるなぁ」
 顎に手を添えながら鷹弥が言った。孝太郎も腕を解いて大きな眼を見開く。
「そうだな、いつも硬派でガチガチに固めてるのにさ」
 二人は顔を見合わせてニヤリと笑ってから、わざとらしく俺にも笑いかけた。
「…な、なんだよ。お、俺は兄貴としてだなっ…」
「いいからいいから、興奮するな」
「血が繋がってないんだろ?」
「ば、馬鹿やろう!、血が繋がってなくてもなっ!、身体は…」
 そこまで言って、俺は自分の言葉で顔から火が吹くくらいに赤くなる。二人のニヤツキがもっと派手になった。
「か、勘違いするなよ…身体と言ってもそういう意味じゃないんだからな!。……俺とエムは…え〜と……身体は他人でも、心も他人で……それが一心太助というか、いや、そうじゃなくて!」
{……幾斗、そこら辺で止めといたら?、どんどんはまってるわよ?}
 呆れ顔でエムが呟く。
 言葉をいったん止めて深呼吸してから、俺は本題に戻した。
「とにかくだな、俺はこの黒田って奴が許せないんだ。なんとか出来ないかな」
 鷹弥がいきなり俺の肩に腕を廻す。
「ふふん…そういうことなら俺に任せろよ」
 薄くて整ったコイツの唇がこんな風に笑いで歪むと、そこらの女よりもよっぽど色っぽく見えるから恐いぜ。
「ちょっと二人とも耳を貸してみろ―――」
 俺と孝太郎は鷹弥に顔を近づけた。
 しかし、エム、お前までが頭の中で耳に手を当ててどうするつもりだ。
「―――っていうのはどうかな」
 言い終わって鷹弥はまたあの艶美な笑みを浮かべる。
「それはいい。変に否定するだけの記者会見をするよりも、そうやって徹底的に恥をかかせた方が効果的だ」
 孝太郎はあの黒目がちの眼を茶目っ気たっぷりにクリクリッとさせて含み笑いをした。
「しかし、これは都合がいい舞台がまず必要になるだろう……」
 そう言いかけた俺の頭にセイランの声が閃く。
《それはボクに任せてください。あの例のマンションの1室を用意しましょう。それ以外は貴方たち三人にお願いしますよ。では…》
 気配が消えた。
「…あ、そういうことならエムの義兄さんがマンションを用意してくれると思うよ。エムの方に俺から伝えておく」
 宙に目を泳がせて計画を反芻しながら鷹弥が呟く。
「そうか、それは丁度いい。この計画はどれだけこっちが用意した舞台に信憑性が在るかで勝負が決まるからね」
「ふふふ…何だか楽しくなってきたな…」
 子猫が昼寝しているような顔で孝太郎は何度も肩を回した。
 結構コイツ等って危ないかもしれない。
{類は友を呼ぶ…よ、幾斗}
 俺?、なんで俺が危ないんだ?。全然、身に憶えがないぜ…?。

   ACT・4 運命の復讐

 土曜日の夜。俺たちは計画実行の為に集合した。セイランは来なかったが、この間カムフラージュの為に使った高級マンションの1室と必要な器材の全てをこの計画の為に本当に用意してくれた。
 基本的な家具はソファからベッドに至るまで既に備えられていて、このまま誰かが住もうとしても可能だろう。ベージュで統一された室内は上品でセイランの羽を思わせた。アイツらしい趣味だな。苦笑してしまう。
「いいのかな、このマンションすごい高いっていう噂だぜ。この計画の為にここまで…恵夢ちゃんの御義兄さんって太っ腹だよな」
 細かい内装を整える為に来て、孝太郎はそう感心をしていた。
「いいんだよ、あの人は」
 俺だって普通の人間がこんなことをしたら色々考えるだろうけど、セイランに関してはそういう心配をする気が無い。
「でも、このくらいの処を見繕ろわないと、この計画は台無しになるからね。さすがだよ、センスがいいね、そのお義兄さん」
 鷹弥は桜色をメインにしたセンスのいいカーテンを窓にしつらえつつ言った。
「で、黒田の誘き出しは巧くいってるのかな」
「ああ、そっちの方もセイ…義兄さんに任せてあるから大丈夫だと思うよ」
「しかし、どうして恵夢ちゃんの大事な時にお前が居られないんだよ、え?、幾斗」
 花瓶に花を活けながら、孝太郎は責める。
「しょ、しょうがないだろう。父さんの仕事の関係で今日しか母さんの舞台を見に行けないんだからさ。ウチの母さんてそういうところはうるさいんだよ」
 これは半分本当だった。父さんは、今日、その劇を見に行ってるんだ。
「とにかく、7時になったらエムが来るはずだから頼んだぜ」
「分かりましたよ。お兄様」
「俺たちが付いてるんだから大丈夫」
 あのなあ、俺だって本当は一緒にいるんだからな。無意識に口が不機嫌そうに尖る。
 殆ど用意が済んだのを見計らって後は二人に任せ、俺は外に出て2基在るエレベーターの一つに乗った。
《このエレベーターを何分か止めますから、その間に着替えて変ってください》
 セイランのあの音楽の声が聞こえてきた途端に、電気で上下に移動する箱はシュウと動きを止める。そして、隅に紙袋を持ったセイランが現れた。
 いつものようにエムへと変ると、何故だか、もうこれでどういうことがエムに起きても手を出せなくなったという無情感が沸き上がる。
 初めてだよ。こんなこと考えちまうのは。
「行くわよ…幾斗、セイラン…お願い…」
 最後の“お願い”という言葉で、エムもなんらかの不安を感じているのが分かった。
《ええ》
[任せろ]
 下に向かっていたはずのエレベーターは元の階へと上がり始めた。

 鷹弥も孝太郎も初対面で緊張しまくっていた。
 白い綿のシャツにソフト・デニムのベストと同じ素材のロングの巻きスカートという姿でエムは二人の前に立っているはずだ。
「こんばんは…えっと、原田 鷹弥さんと楠 孝太郎さんですね…。今日は私の為にお手数をかけてごめんなさい」
 笑いながらエムが差し出した手を、二人は俺に見せたことのない恥じらいの顔で握り返す。思わず、俺は吹き出した。
[…しかし、エム、“初めまして”だぞ]
{あ…いつも見てるもんだから…}
「あ、初めまして、孝太郎です」
「初めまして、鷹弥です。僕のことは呼び捨てにしてくれていいですよ。幾斗の親友なんだから」
「なんだよ鷹弥!…恵夢ちゃん、俺も呼び捨ていいよ!!」
 何やってんだ、コイツ等わ…。
「幾斗兄さんのお友達を呼び捨てには出来ませんよ」
[幾斗兄さん…?…がーっ!]
 言われ慣れていないエムの言葉を聞いて、頭の中で精神だけになっているくせに俺の背中に寒気が走る。
「…とにかく、もうすぐ黒田さんが来ます。
 セイラン兄さんも幾斗兄さんもこれなくて申し訳ないんですけど、お二人によろしく言ってました。私からもお願いします」
「もちろん、任せてください」
「幾斗が居なくったって俺たちが居れば大丈夫ですよ!」
 だから、俺も居るんだっての!。
〈トルルルルル…トルルルルル…トルルルル…〉
 その時、インター・フォンが鳴って、三人は一斉にそちらに振り向いた。
「来たな…。孝太郎、機械の調子はどうだ?」
「ああ、ビデオ・カメラは3台とも良く映ってるよ」
「そうか、じゃあ、僕等は隣の部屋にいますから、恵夢ちゃんは最後までばれないように誤魔化してくださいね」
「ええ…」
 答えながら恵夢は受話器を取り上げる。
「…もしもし…あ、黒田さん…」
 三人は目配せをしあった。
「…ええ、今、鍵を開けますからどうぞ…」
 受話器を置くと、彼女はインター・フォンの横についているセキュリティ・パネルに触れる。鷹弥と孝太郎はもう消えていた。

 ソファに居心地悪そうに座って、エムはチャイムを待っている。
〈ピンポーン!〉
 ビクッと立ち上がって玄関に向かった。
「はい、どうぞ…」
 ドアを開けると、まず、真っ赤な薔薇の大きな花束が鼻先に差し出される。
「…こんな花がどれだけ束になっても、君の美しさには勝てないと思ったんだけど…」
 いかにもブランドの茶色いスーツを着込んだ今夜の黒田は、少し髪を切ってきたのか綺麗にオール・バックが決まっていた。
 しかし、不細工とはいわないが、相変わらず垂れ目で締まりの無い顔だぜ。
「あ、りがとう…どうぞ、リビングの方に…」
「じゃ、遠慮無く」
 本当に遠慮など知らないようにズカズカとこの男は入ってきた。そして、上着を背凭れに掛けると、許される前に勝手にソファに腰を下ろしてしまう。
「何か…飲みますか?」
 花瓶の横に花束を置きながらエムは訊いた。
「あ、そうだな…ビールが在ったら貰えるかな」
「ええ、在ると思います」
 本当に在るのか?。
 しかし、冷蔵庫の中を覗くと、しっかり缶ビールと普通のジュースが入っている。
「あれ?、恵夢ちゃんはビールを飲まないのかい?」
「私、未成年ですから…」
「ふふふ…堅いんだね。でも、そんなところも僕は好きだよ」
 は…歯が浮くぜ。
「…しかし、恵夢ちゃんが僕を招待してくれるなんて本当に嬉しいな」
 初めの1缶を一気に飲み干すと、黒田は横に座ったエムの膝に手を乗せた。
 …手刀でこの腕を折りたい。
 エムはスッと逆に膝を向けてその手から逃れた。黒田はそれも恥じらいの為と勘違いしたらしく、含み笑いで手を退く。
「今日は、あのお義兄さんは居ないの?」
「セイラン義兄さんは…今日は出掛けています。だから、黒田さんに来て頂いたんです」
「くくく…ますます嬉しいなぁ…」
 また迫ってこようとする黒田の胸をエムは押し返した。じっと、エムは相手の目から視線を外さないで訊いた。
「…黒田さん、あの噂、貴方はどうするおつもりなんですか?」
「あの噂?…ああ、あの雑誌の。事務所の方ではね、ちゃんとしたお付き合いをしているのなら公表した方がいいって言ってくれてるんだよ」
「“ちゃんとした”?…だって私たち、あの時、一緒にお食事をしただけじゃないんですか?」
「それはそうだけど、これから事実を作ってもいいんじゃないかなぁ」
 グイッと再びコイツは体重をかけてくる。
 …脳天…かち割られたいかぁ。
 必死で押し返しながらエムは続けた。
「私、困ります。ちゃんと事実を言ってください。私も記者会見で本当のことを言うつもりですから…」
「ははは…それはいい。否定すればするほどマスコミって奴は根掘り葉掘りほじくってくれるんだ。そうすればもっと騒がれるぜ」
「黒田さん…貴方は最初から?」
「当たり前だろう。マスコミなんて利用するだけ利用してやればいいのさ。アイツ等だって仕事が増えて嬉しがってるんだから、お互い様だ」
「…まさか、写真を撮った人も?!」
「ああ、売れないカメラ・マンがあれで一躍スクープ・メーカーさ。世の中はな…ギブ・アンド・テイクなんだよっ!」
 ガッと、いきなり奴はエムを押し倒す。
[変れっ!、エム!、俺が撲ちのめすっ!!]
{幾斗、大丈夫だから我慢して!}
 抵抗を続けながらも、エムはチラリと隠されたカメラにも大丈夫のサインを送った。しかし、だんだんソファの端に追い詰められて行く。
「これで既成事実の出来上がり…だ」
[エムっ!、もう誰にばれてもいい!、俺に変れっ!!]
《幾斗君、腕に意識を集中するんです》
[セイラン?!]
 腕…俺はイメージで黒田の腕に差し手をして、背中に捻り上げた。
「うがっ!」
 奴が身体を反り返す。
{幾斗!、もういい、それ以上は止めて!}
 エムの叫びに、仕方なく俺は腕を離してイメージも止めた。
「…黒田さん、マスコミはそんなに甘くはないですよ。私はこんな…アイドルになんてなりたくはなかった。でも、マスコミの力でここまで引っ張られてきてしまったんです。
 …正々堂々と努力していればきっといつか認められますから…」
 静かに言って、エムは黒田を立たせる。
「…正々堂々…?…そんなもん、役に立つもんかっ!。何が“アイドルになりたくなかった”だよ!!、お前みたいに生まれつき恵まれてる奴に何が分かるってんだ!…馬鹿なマスコミを利用して何が悪いっ?!」
 血走った目で黒田は彼女を睨め付けた。
 身体を堅くしてエムは後退る。
 しかし、もう、奴は迫ってはこなかった。
「…もういい…記者会見でも何でもしろよ。こっちはこっちでやらせて貰うぜ」
 上着を持った黒田は荒々しくドアを蹴って出て行ってしまい、残されたエムはヘナヘナと床に腰を下ろす。
「恵夢ちゃん!、大丈夫か?!」
「しっかりしてよ、恵夢ちゃん!…あ、孝太郎、急いで黒田を追ってくれ。きっと近くでカメラ・マンと落ち会うはずだ」
「あ、ああ…。じゃあ、恵夢ちゃん、気を確かに持ってよ…」
 孝太郎は馬鹿に口径の大きい望遠レンズが付いたカメラを手に走って出て行った。
 何も話さないまま、鷹弥とエムはソファで向き合っている。どのくらい経ったのか分からなくなった頃、孝太郎が戻ってきた。
「ナイス・タイミングだったよ。黒田がカメラ・マンと話してるところも、同じ車に乗ったところもバッチリさ!…あれ?、二人ともどうしたの?」
 いつも明るいコイツの声が、今日に限って騒がしい。
「恵夢ちゃん、ショックだった?。でももう安心しなよ。証拠がこれだけ揃えばアイツはマスコミに総スカンを食らうこと間違いないんだから」
 孝太郎は、ドッカとばかりにソファに座って戦利品のようにカメラを振り回した。しきりに鷹弥がウインクして見せる。
「孝太郎…」
「それとも、もっと具体的にコテンパンにしたかったとか?」
「孝太郎、もういいんだってば。分かったからさ。お前はよくやったよ」
「へへへ…そうだろう、そうだろう!」
「………」
 呆れている鷹弥と得意そうな孝太郎。性格丸見えの二人を前に、じっと指を組んで座っていたエムがポツンと言う。
「…ごめんなさい…一人にさせて貰っていいですか?。こんなことまでして頂いてこんなこと言うのは…すごく…失礼だと思うんですけど…後は義兄さんたちに頼みますから、帰って頂けないですか…?」
 何か言いたそうな孝太郎の肩を押し止め、何も言わずにフッと微笑んだ鷹弥は、隣の部屋から二人分の鞄を取ってきた。そして、やっと事態が飲み込めてきた相棒の腕を引いて去って行った。
 ごめんな、鷹弥、孝太郎。
 でも、俺も今はエムと同じ気持ちなんだ。
{幾斗…私…}
[何も言わないでいい]
{黒田さん…可哀そうだった}
[同情は…しないほうがいいぞ。アイツが惨め過ぎるぜ]
{………}
 エムの目にジワリと沸いてくるものが在ったが、俺は気がつかないフリをする。
{何で私みたいなのが売れて、黒田さんのように真剣に考えてる人が駄目なのかしら…私なんて……ねえ、幾斗…}
[それは………]
《それは運命ですよ…》
 俺が言えなかったことを言いながら、風がやってきた。
{運命…}
 そう言わなければいけないことが在るのを俺たちはもう知っている。

 その晩の内に、セイランは全てにカタをつけた。
 あらゆる芸能関係の番組と雑誌にビデオ・テープと写真を送りつけたのだ。明日から、どんなに黒田が足掻こうと奴の芸能生命は終わりを告げることになる。
 そして、エムはデビューして以来、最高のわがままを言った。
{今夜は私の姿のままでお風呂に入りたい}
 たぶん、両親の帰りが遅いことは確実だったから、俺はそうさせてやることにした。

 次の月曜日に学校で会った時、鷹弥と孝太郎はのっけから機嫌良く俺を迎えた。
「幾斗…悪かったかなぁ。お前の活躍の場を残しておいてやらなくてさ。俺なんか、機械を扱って大活躍だったんだぜ。なあ、鷹弥?」
「そうそう、孝太郎のおかげで大成功だったよ、うんうん。でも、影の功労者は聖嵐さんていうお義兄さんだよね」
「ああ、その話はもうエムから聞いたよ」
 俺は、複雑な気持ちで二人の手柄話を聞く。エムも同じように何ともいえない顔だ。
「でさ、今朝のワイド・ショー、黒田の奴はどこの局でもケチョンケチョンさ」
「ああ、完全に僕の作戦は成功だね」
「中にはアイツの昔の女関係まで引っ張り出してきてめちゃくちゃに攻撃してたところも在ったんだぜ」
「でも、あの番組って先週までは恵夢ちゃん攻撃の急先鋒だったんだよ」
「そうそう、変れば変るものだよな。芸能番組にもちょっとは良心が在るのかな…って、あんなコロコロ態度を変えてて良心なんて在るわけないか」
「ああ、マスコミなんてそんなもんだ」
「あははは…」
「ははは…」
「………」
「………」
 二人は黙り続ける俺の顔を、突然、覗き込む。
「恵夢ちゃん…あれから大丈夫だったか?」
「もしかして、まだ落込んでる?」
 どうやら、マシン・ガンのように話を連発した訳は、これを訊く前振りだったらしい。俺が暗い表情をしてたから心配したのも含まれているのだろう。
「いや…うん…そうなんだ」
 俺が溜め息をつくと、二人ともシカメ面になって考え込んだ。
「…でもさ、黒田の奴、自業自得さ。気にしないように恵夢ちゃんに伝えてくれよ」
「そうだよ、あんな奴、同情する価値も無いんだから…」
 エムが微かに微笑む。
「ああ、必ず、伝えておくよ」
 俺も笑った。
「まだお前たちに言ってなかったな。
 本当にありがとう。これはエムの分。感謝してるよ。これは俺…」
 ホッとしたように、鷹弥は俺の右手を、孝太郎は左手を取る。三人で笑い合いながら、これが…俺はずっと続くと思ってた。

 だんだん昼間が短くなってきて、夕焼けがすっきりと綺麗に色づくようになってきた。
 そして、前と変りの無い、二足の草鞋=といっても、それぞれ違う姿をしているんだから正しい表現じゃないかもしれないけどさ=の生活が未だ続いていた。
「恵夢ちゃん、お疲れ様でした〜」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様〜」
 例の女流カメラ・マン、水原女史の熱心さにセイランが折れて、とうとう写真集を出すことになったんだ。
 といっても、本格的なものを出すのはエムもセイランも反対したので、ある写真雑誌の別冊という形を取ることになったんだけどさ。
 そして、今日はその撮りの初日だった。
{…なんだか、本当に疲れちゃった。テレビに出るよりもこういう写真を撮る方が意外に疲れるのよね}
 首を左右に揺らして解しながらエムは廊下に出る。ここは出来たばかりで、未だ入居者が殆ど居ないマンションの3階だ。
 実は、今回のコンセプトは“平紀 恵夢の私生活”なんで、普通のマンションを借り切って自宅に居る時のコイツっていうのを撮ってるんだ。まあ、全部嘘っぱちだけど、それでも水原女史ときたらリアリティにこだわるんだよな。
 これから、学校やリゾートでも撮っていくらしいから大変だぜ。
《テレビが持久力が決め手の長距離だとすると、撮影は瞬発力が勝負の短距離ですからね。比較的短い長距離より短距離の方が当日の疲れは重いんですよ。でもまあ、次の日以降の疲れも入れると同じになるんじゃないですか》
[セイランの言うとおり!。いつもは次の日の昼間に学校行ってる俺が疲れを背負ってやってるからな。お前は気付かないだけだよ。たまには自分で責任をとれよな]
 声を出さない会話は、もう俺たちの間では普通になっちまった。
{何が“責任を取れ”よ。幾斗の身体でしょ。…ねえ、喉が乾いた…水のボトルは?}
《あ、現場に忘れてきました》
{え〜、脱水症状になっちゃうわよ}
[お前ってば…この頃、わがまま過ぎるぞ!]
{だって…撮影ってライトを浴びっぱなしだから本当に喉が乾くのよ}
 いつものように紫の瞳を隠すサン・グラス顔でクスッと笑ってセイランは踵を帰す。
《ボクが取ってきますよ。エレベーターの前で待っててください》
{セイラン、優しい。だから好きよ}
[…お前な〜…ったく!!]
 奴の黒いスーツ姿が去って行くと、俺はどうしても文句を言う気になった。
[こら!、エムっ!!]
{な、なに?、幾斗ってば急に}
[なに?じゃないぜ!。本当にこの頃お前はわがままだぜ。芸能界で売れてるからっていい気になり過ぎじゃないか?!]
{そんなことないわよ…私、いつでもこんな仕事は辞めてもいいと思ってるんだもん}
[…あのなぁ……初めのいきさつがどうであれ、お前はこうして自分の意志で階段を昇ってきた。その段を1つ上がる毎に何人の人間を蹴落としたと思ってるんだよっ!]
{そんなの……私のせいじゃないわっ!}
[いいや、わざとじゃなくたってしているのはお前なんだぜ!。中途半端なら、きっぱり辞めちまえよっ]
 意識の薄い膜を通して俺たちは睨み合う。
[第一、お前、本気で成仏する気は在るのかよ?!]
{え…}
[いつまで俺の中に居座るつもりなんだ?!。俺の身体は、この世でお前を遊ばせるために在るわけじゃないぜ!!]
{ひ…どい…私の気持ちも知らないでっ!}
[何がだよ!、お前こそ俺の…あっ?!]
 俺たちはエレベーター・ホールの前まで来ていた。
 そのホールの柱が波打っている処に立っているロング・コートの髭面に俺は見覚えが在る。
 でも、まさか…。
「…待ってたよ………あの時は、よくもやってくれたな…」
 やっぱり、黒田だった。
 エムはパニックで動けない。
 奴がポケットから抜いた手にはキラリと光るサバイバル・ナイフ。
[エム!、逃げろっ!!]
 我に還ってエムは後ろを向いた。
 スローモーション。
 廊下に出るとミネラル・ウォーターのボトルを持ったセイランが歩いてくるところで、こちらの気配を感じたのか白い顔はいっそう色を失っている。
《幾斗君!、エム君!!》
 その音が聞こえるのと、腰に衝撃を受けたのとは殆ど同時だった。
 突き上げる力に、俺たちの身体は洒落て低めに作ってある手すりを超える。
 そして、一瞬にして、重力から開放された。
[エム、お前は1回死んだこと在るんだっけ…死ぬのは苦しいか?]
{馬鹿っ!、死ぬって決まった訳じゃないでしょ!!。諦めないでっ!!}
[…あ…エム…悪いな、死んじまったら成仏させられない]
{そ…んなこと…馬鹿……私なんて…}
[今度の身体は…女を選べよな]
{…幾斗っ、死んじゃやだっ!、死んじゃ駄目っ!!}
 しかし、あのセイランの嘘つき天使野郎。俺はまだ死なないって言ってたじゃないかよ。

〈ドン…!〉

 目が開いた。
 いったいどのくらい経ったのか…なんて、死んだ人間に時間は関係ないか。
 そうだ、俺、死んだんだ。しかし、16歳だぜ…呆気なかったなぁ。
 だいたい、あんないい加減な天使の言葉を間に受けてだな…。
《別にいい加減じゃ在りませんよ》
 セイランっ?。
《まだボクが向こうの世界に通してないのに、死んだなんて決めつけないでください》
 じゃ、ここは?…どこなんだよ?。
 …ああ、何にも無いじゃないか。やっぱり、死んだんだろ。正直に言ってくれよ。
 覚悟は出来てる。
《だから、勝手に覚悟しないでほしいですね。
 幾斗君は、今、生と死の境の精神界に居るんです。ちゃんと下も見てごらんなさい》
 下?……あ…俺が…寝てるよ、病院だよ。
 側に居るのは…アヤコさんだ。いや、母さんも父さんも…ああ…鷹弥、孝太郎…。
 みんな………あれ?、エムは?。
《エム君は…あの身体の中に閉じ込められて、出られないんです》
 閉じ込められて?…どういうことだ?。
《身体が地面に落ちる瞬間に、エム君は幾斗君の魂を外に押し出したんですよ》
 何でそんなことを…?。
《…死んでいく痛みを…エム君は知っていますからね》
 あ…そうだった…な。
 ………。
 なあ、俺の身体は助からないのか?。
《分かりません》
 だってお前、俺はまだ死んじゃ困るって言ってただろうが。この嘘つきが。
《嘘つきとは心外ですね。天使は嘘が言えないんですよ》
 ………本当に嘘つきだなこの野郎。
《いえ、幾斗君が未だ死なないというのは確かだったんですよ。運命の法則ではね》
 なんだ?。運命に法則なんて在るのか?。
《在ります。…ただ、詳しくはボクも知らないんですけど…》
 またそれかよ。
《いいえ、今回の理由は分かっていますよ》
 なんだよ、じゃあ、教えろ。
《…たぶん…エム君が成仏したくないと考え始めたのが原因だと思います》
 成仏したくない?。なんでだ?。
《……分かりませんか?》
 ………。
 …まあ…そんなこと…いいや………。
 なあ、俺の身体が生き返るなら、1つお願いが在るんだけどさ。
《なんです?》
 俺の身体…エムにやってくれないかな。
《え?》
 だからさ、エムにやってくれないかなって言ってるんだよ。…何度も言わすな。
《幾斗君はどうするんです?》
 俺は…まあ、まずすんなり天国行きだろうから、成仏させてくれ。
《天国というものが在るかどうか…向こうの世界のことはボクにも分かりませんが…》
 お前って…徹底的にいい加減な天使なんだな。
《完全分業ですからね、ボクたちは。だから初めに言ったはずです。儚い存在なんですよ、我々、不完全な者というのは…》
 …で、どうなんだ?。
《ああ、エム君に幾斗君の身体をね…それは無理です》
 なんでだ?。俺の中に居るエムが表面化出来るんだったら、それも出来ると思うぞ。
《…考えてみてください…その身体の本当の魂は1つだけなんですよ。
 そんなことが出来るのなら、初めから無理やりにでもエム君を元の身体に戻していました》
 …そういえばそうだな…。そうか、駄目なのか…。
《…エム君も幾斗君も…全く…本当に世話がやけますね…》
 お、俺がいつお前に世話してもらったんだよっ!。俺がかけられてるんじゃねえか!
《まあまあ…では、後でまた…》
 後でまた…?…あ、おいっ、待てよっ!。
 …消えた。
 こんな訳の分からない処で一人、どうすりゃいいんだよ、俺は。
 …セイラン、恨むぜ!!。

《…エム君……エム君…》
 セ、イラン…あ…私……幾斗は…?。
《幾斗君は精神界に居ますよ。そして、この身体をエム君にあげてくれと言っています》
 そんな…私は、いつもいつも我が侭ばっかり言ってたのに……嘘でしょう?。
《いいえ。ボクは嘘が言えないんです》
 ………嘘つき。
《……幾斗君もエム君も…人間の身で天使とこんなに近しく付き合える機会が在るのは珍しいことなんですよ。それなのに、なんで天使の本質を見つめてくれないんですか》
 …冗談を聞いてる気分じゃないのよ…私なんてどうでもいいから、幾斗を元に戻して!。
《嘘でも冗談でもありませんよ。…しかし、どちらもこのままでは不可能です》
 あの時、私が…ああ…幾斗のことを押し出したりしなければ…!。
《でも、苦痛から幾斗君を庇う為にはああするより仕方なかったじゃないですか。
 …よく一人で痛みに耐えましたね、エム君》
 でも、そのせいで幾斗は…死んじゃうんでしょ?、そうなんでしょ?!。
《エム君…ボクが向こうの世界の入口で言った条件を憶えてますか?》
 え?…もちろんよ。それがこれとどう関係するの?。
《エム君がこの身体から出る時に入れ違いにならば、幾斗君を戻すことが可能なんですよ》
 本当?!……あ…でも、私、まだ…そんなこと…してない。
《してない?…どういう意味ですか?》
 だから…成仏するには愛した人とHしなくちゃいけないんでしょ……もう、恥ずかしいこと言わせないでっ!。
《成仏?、H?……ボクが何時そんな言葉を言いました?。………あのね…もう一度、きちんと、思い出してください。
 ボクが告げた運命の言葉はなんでしたか?》
 え、えっと…“誰かを愛して愛される”でしょう?。
《そうです。その言葉の本当の意味を理解すれば、もう、エム君はこの身体に居る必要は無くなるでしょう》
 “誰かを愛して愛される”…の…本当の意味…?。
 …私は………。

 薬の匂いで満ちている病室。
 黄色がかったビニールのカーテンに包まれて、それこそ天使のように麗しい顔に透明で不粋な酸素マスクをつけた少年は、悲しみの波の中心で動かずにいた。
 そして、本物の天使は頭の上に光る輪を浮かべて、誰の目にも映らないまま、その額にそっと唇を当てる。

 また目が開いた。
 でも、今度は少し様子が違う。
 周りが真っ黄色だよ。俺…変なことで体力を使った憶えはないけど…あ、もしかしたらここはあの世か?。
 しかし、妙に薬臭いし、息も苦しい。
 …え…息…?。
「うわっ…幾斗が目を開けてるよっ!」
「あ、本当だ!」
 …孝太郎と鷹弥の声?…じゃあ、ここは?。
「…い、幾斗さん…うぅ…よく生きてらして…本当に…良かった…」
 アヤコさん…ということは、やっぱり?!。
「全く!、親より先に死んじゃうような親不幸には、私は育てていないんだから!」
 言葉とは裏腹にポロポロ泣きながら母さんは父さんに支えられてる。
「お前…さっきまで生死を彷徨ってた息子にそれは……でも、本当に良かった……」
 本当なんだ。本当に生き返ったんだ。
 というよりは、初めから完全に死んでた訳じゃないんだろうけどさ。
 でも…何か足りない…何なんだ?。
 誰かが………誰かがここに足りないんだよ。

   ACT・5 忘却の彼方に

 ビルの3階から落ちたわりに怪我が軽かったのは、出来たばかりのそのマンションの見学者用テントが真下の玄関部分に張ってあったからだった。
 遅刻して2週間ぶりに登校した学校は、当たり前だが、記憶と全然変っていなくて安心した。ただ、女の子たちが入れ替わり立ち替わり退院祝いを持ってくるのにだけは疲れたけどね。
 この昼休みにも、そんな子がちょくちょくやってきては色とりどりの箱を置いていく。
「な〜んだよ、全校女子生徒の半分以上が貢ぎ物を持ってきたんじゃないか?。こうしてみると“硬派の紀平君”の人気はやっぱり根強いじゃんかよ。憎いねっ!」
「きっと、今日中に倉がたつよ。ほら、もう机の上には乗り切らなくなってきた。…わ…これ、男子の先輩からも来てるじゃないか」
「危ねーっ!」
「ったく、この罪な美少年めっ!」
 鷹弥と孝太郎は自分たちも散々はしゃいでくれてるくせに、それを棚に上げて誰かが来る度にからかう。
「…るせーな!、お前等、俺が復帰したのより、からかえる方が嬉しいんじゃないか?」
 からかわれること自体は悪くないけどさ。本当に元通りになったんだって実感できて。しかし…それが、何となく…違うなぁ…。
 何が、と、訊かれれば答えられない、というか、思い出せないんだ。
 それでも、心に…空いている部分を感じずにはいられない。もしかしたら、あの事故の時、俺、本当は半分死んじまったのかもしれないな。
 事故といえば…。
 医者は俺が意識を戻してすぐに診察した時、腰の辺りを何度も探って‘何故あんな深い傷が痕も残さずに消えたんだ?’なんて言ってた。そういえば、腰に包帯がぐるぐる巻かれてたんだ。それも、血だらけのやつが。
「…なあ、孝太郎、鷹弥…」
 俺は思い切って二人に訊いた。
「俺、どうして死にそうになったんだっけ?」
「あはは…そんなことか、それはさあ…あれ?…なんなんだっけ。鷹弥、憶えてるか?」
「あれ、孝太郎もそうなのか。僕も思い出せないんだよ。でも、落ちた本人が憶えてないんだから……あ、ごめん、幾斗」
「何で謝るんだ?」
「いや、お前、頭を打ったらしいからさ…」
「あ、そうか…幾斗、ごめん。俺ももう1回思い出してみるac」」諱cう〜ん…」
 二人とも、そんなに一生懸命考えなくても…悪いことしたな。
「いいよ。もう。俺、気にしないから」
 席を立って窓際まで来ると、中庭の桜の木は殆ど葉が付いていなかった。何だかこの頃の時間は早く過ぎてっちまう気がするぜ。
「あ、あれ?」
 見覚えのある車が校門を入ってくる。
「どうした、幾斗?。傷でも痛むのか?」
 鷹弥が肩に手を掛けた。
「いや、今、ほら、校門から入ってきて正面玄関につけてる車、シルバー・グレーのジャガー、あれ、ウチのじゃないかと思ってさ」
「ふうん…あ、誰か降りてきたよ」
「どれどれ…あれ?、あの女の子、平紀 恵夢ちゃんじゃないか?!」
 いつの間にか側に来ていた孝太郎が小さく叫ぶ。
 その声を聞きつけた何人かのクラス・メイトたちも窓際にやってきて、口々に降りてきた女の子の噂をし始めた。
 降りたのはその子一人だけで、車は校門から出ていってしまう。ナンバーを確かめようとしたが、遠過ぎて自分の家の車かどうかは分からなかった。
「…ヒラキ エム…?」
 俺は口に含むように呟いてみた。響きに何故か懐かしさを感じるのに、記憶は知らん顔をしている。
「芸能人の母親を持ってるくせに、相変わらずその関係に疎いな、幾斗は。
 それにしても、絶好調のアイドル“謎の美少女”平紀 恵夢を知らないってのは行き過ぎだぜ。今だってオカルトなミステリーで話題なんだから」
「“謎の美少女”?、“オカルトなミステリー”?」
「なんだ、本当に知らないのか」
 本気で怪訝そうな表情で孝太郎は俺を見た。代わりに鷹弥が答える。
「この間まで身元や私生活を一切隠し、どこの事務所にも所属しないで、モデルやバラエティに売れに売れてたアイドルだよ。だから“謎の美少女”さ。
 だけど、お前の事故が在った日から行方不明になってたんだ」
「行方不明だって?」
 今度は自分の番だとでもいうように孝太郎が続けた。
「それがこの間、都内のある病院で半年以上意識不明で入院してたのが発見されたんだよ。原因は交通事故でね。外国から一家揃って帰ってきたばっかりだったらしい。一緒に乗っていた両親は亡くなったんだけど、彼女一人が生き残って、それ以来ずっと植物人間状態だったんだってさ。
 それがどうやってアイドルとして活動をしていたのか、これが“オカルトなミステリー”だ」
 霊感の強い俺はすぐに頭の中に“生き霊”という言葉が浮かぶ。背中が粟立った。
 そういうのには近寄らないに限る。

 俺がやっとプレゼントの山を自分と親友二人のロッカーに詰め込んだ頃、ホーム・ルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。
 畳んだ段ボール箱とパイプ椅子を持った担任の先生が…あ…れ?。
 俺は、その黒ずくめで背が高くつかみ所の無い美貌を持った男を横目に、斜め前に座っている孝太郎に身体を傾け、勢いこんで訊く。
「おい!、俺たちの担任て、あんな奴だったか?」
「…あ、お前、遅刻して来たから朝礼で見てなかったんだっけ。N先生さ、先週、盲腸を抉らせちゃって腹膜炎を起こしたもんだから、急に代わったんだよ。
 今度の先生、ちょっとカッコイイだろう?。鈴木 聖嵐なんていう気取った名前なんだぜ」
「セイラン…?」
 この名前を呟いた途端、俺は胸がムカムカしてきた。
「あ…紀平 幾斗君、遅刻しても職員室に寄ってくれればよかったのに。……あ、この段ボール箱は君の退院祝いです。プレゼントを持って帰るのに必要かと思いましてね」
 黒服の担任はツカツカと俺の処に歩いてきて組み立て式の段ボール箱を差し出す。
 クラス・メイトたちがドッと笑った。
 妙に教師らしくない顔。視線がカチ合う。な、なんなんだ…?…コイツの目の色って尋常じゃない。紫だ!。
 なんで誰も気付かないんだ?。
「ん〜…なんで鈴木先生は幾斗が困ってたのを知ってたんだ?。……分かった。職員室までプレゼントの山の噂は届いていたか。ますます有名人だな、幾斗」
 後ろの席の鷹弥がそう言って俺の背中をつつく。
 俺がムスッと納得のいかない顔をしているのを無視して、鈴木という先生はもう一つの荷物であるパイプ椅子を教壇の横にしつらえた。
 そして、入口に向かって手招きをする。
「やっぱり、さっきの!」
「すっげえ!」
「わ〜、可愛い!」
 入ってきた少女に全員が歓声を上げた。俺も…溜め息をついちまう。
 肩の辺りに揺れている髪、大き過ぎずクッキリ二重で長い睫に守られた眼、整っていて小さめの鼻、赤くて形のいい唇、自然に白くて丸みがある頬。U学園の女子の制服は元々この辺りでもダントツの人気が在る可愛さなのだが、中身が決して負けていない。
 見覚えは全くない…はずなのに、知っているような気がした。やっぱり、テレビか何かで見たことが在るんだろうか。
「…明日からこの学校に通うことになった紀平 恵夢君です」
 額に散っている髪の毛を掻き上げながら鈴木先生は黒板にその名前を書いた。
 えっ、という感じに生徒たちが退く。
 その中で、たぶん俺は一番驚いてて、息をグリッと無理に飲み込んだ為にむせそうになった。
「紀平 恵夢です。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる。笑うと更に可愛さが引き立った。
「彼女は、紀平 幾斗君の妹さんだそうです」
 その先生の言葉に、俺は今度こそ死にそうなほど息を詰める。
 教室の中にざわめきが揺れた。
 全員が俺と教壇の上に立っている少女を見比べている。
「同じ名字で紛らわしいので、便宜上、二人を幾斗君と恵夢君と呼ばせて貰います…あ、幾斗君、そんなに息を詰めるとまた死にかけてしまいますよ」
 コイツ……ますますムカつくなー!。
「じゃあ、恵夢君はそのパイプ椅子に掛けててください。明日までに机を用意しておきますから。じゃあ、今日の連絡事項ですが…」
 澄まして進めていく教師の横顔を俺は睨み付けた。見れば見るほど、鳩尾に突きを食らわせたくなってくる。
 おまけに…俺と再び目が在った瞬間、確かにコイツは思わせ振りなウインクをした。
 かーっ!!、な、なんだコイツわっ?!。

 終業のチャイムが鳴ると、俺はすぐさまプレゼントの山を悪友たちに頼むと、質問攻めから逃げるように、まだ実感が湧かない妹=本当かよ=を連れてダッシュで帰った。
 俺は前にも似たようなことが在った気がする。こういうのをデジャヴとかいうんだよな。
 とにかく早く一人になりたくて走る。いや、今回は早く二人になりたくてだけど……あ、そ、そういう意味じゃなくってだぜ!。
 遠巻きに俺たちを見ている連中が居るのは、俺の横に居るコイツのせいだろう。いや、その横に俺みたいなのが座っているせいでも在るだろうけどさ。
 電車に乗って、今日、初めて会った妹の顔をチラリと見た。
「どうしたの、幾斗?」
 笑い返されて、また目を逸す。
「い、いきなり呼び捨てか?。俺…未だ何も聞いちゃいないんだぜ」
「ああ…そうね。本当は“初めまして、幾斗兄さん”て言わなくちゃいけないのよね」
 “幾斗兄さん”で、何故か俺の背中はゾッとした。
「う…!…いい、呼び捨てでいいっ!」
「クス…じゃあ、私のことも呼び捨てにしてよ。…それから、おじ様とおば様がね‘幾斗には二人の退院が重なったんで未だ何も話してないから’って、私から話すように言われてるの。面白いご両親よね」
「…いい加減なだけだぜ…」
「あら…ご両親のことそんな風に言うの?」
「言いたくもなるだろ。こんな重要なことを息子に言わないで決めた上に……」
 と、そこで、彼女の暗い表情に言葉を切る。
 そういえば、コイツの両親は事故で亡くなってたんだっけ。まずかったかな。
「…まあ、いいさ。で、どうしてウチなんかに来る破目になったんだ?」
「それが、私にもまだ良く分からないんだけど…この間まで、半年間以上、私は意識不明で入院していたわ。それが、目が醒めた途端に有名人扱いで大騒ぎされて…途方に暮れてたの。
 そしたら、父の大学時代の親友だったっていう紀平のおじ様が迎えに来てくださって…」
「…どこかで聞いた話だな…?」
「貴方もそう思う?。私も、どこかで聞いた話だと思いながら、それでも、それしか選べなかったのよ。だって、親戚や親類なんて…一人も居ないんだもの…」
「そうか………」
 俺たちは黙ってた。
 頭の奥がウズウズとする。思い出せそうで思い出せないもどかしさに似た感じだ。
 家に近い駅に着いて俺たちは降りた。
「あの時、担当のお医者さんは‘植物状態だった人間にそんな活動をするのは不可能だ’って発表してくれたのに、それが余計に騒がれて…。生きるか死ぬか…いいえ…絶望的なくらいだったらしいのにね」
「それでも、生き返ったんだろ、こうして」
 電車の中よりはこうして歩いている方が人の目を気にしなくて済んだ。それでも、時々は無遠慮に指さす奴は居たけどな。
「ええ…そう。意識が戻った時、私ね、不思議なくらい“生きたい”と思った。すごく“生きていたい”って思ってた。だからこうして元に戻れたような気がするの。
 この気持ちは、そのアイドルになっていた時に生まれたのかもしれない。
 でも…本当のことを言うとね…笑わない?」
 上目がちに顔を覗き込まれて焦る。
 彼女の背の高さは、俺の口の辺りにちょうど秀でた額が当たるくらいだ。
「“生きたい”というより“恋をしたい”と思ってたの」
 ポウッと丸い頬が桜色に染る。
「い、いいんじゃないか?、それは」
 吊られて俺まで赤くなっちまう。なんなんだこの感じは。
「…幾斗に訊きたいんだけど」
「え?」
「変なことなんだけど……ねえ、私たち、どこかで会ったことがない?」
「あ…俺も…同じことを訊こうと思ってた」
「私、考えたんだけど、その、もう一人の私が…私が意識を失っていた時に活動していた私が…幾斗に会ってたんじゃないかって」
 ああ、そうか。そうかもしれない。
「俺、霊感が在るんだ。だから、もし恵夢が自分の身体を離れた状態…“生き霊”っていうんだけど…そういう状態で居ても見ることが出来たかもしれないな」
「幾斗、霊感なんて在るの?。すごいわ」
「すごい?。そんなこと…初めて言われたよ…というより、他人にこんなことを話すのは初めてなんだ」
 本当に…初めてだ。ずっと隠してきたのに。
「ねえ、家に帰ったら、アヤコさんのクッキーが食べたいな…」
 急に思い出したように恵夢は言った。
「うん、俺も大好きなんだよアヤコさんの焼いてくれたお菓子って……あ?…アヤコさんのクッキー、もう食べたのか?」
「え?…いいえ。幾斗の家に行くのは今日これが初めてなの。だって、昨日まではホテルに居たんだもの」
「そうだよな、俺が昨日、家に帰った時には居なかったよな…」
「でも…私、でも、何故かしら、アヤコさんのクッキーが食べたいって、すごく思ったの」
「………」
 俺たちは金縛りに遭ったように足を止めて顔を見合せる。
 何も言葉はなかったが、俺の胸には沸き上がってくるものが在った。見開かれた恵夢の目も何かを物語っている。
 無言で微笑みながら再び歩き始めると、いつの間にか家に一番近い公園のそばまで来ていて、その道の向こうに見覚えの在る黒塗りロング・ボディが、駐車していた。


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