ある暑い日

 更衣室のドアのそばで、少女はタオルを体に巻きつけたまま座り込んでいた。
「やっぱり恥ずかしいよう」
もちろん、タオルの下は水着を着ている。地味な紺の水着を着ていて、髪は長いのだろう。丁寧に団子状に編み込まれている。
「今更何言ってんのよ。何年女の子やってるの?」
…ほんの数ヶ月前からだって。
 雅は心の中でつぶやいたが、目の前の少女はそんなことは知らない。
「優、先に行っておいでよ。僕は後からいくから」
なるべく平静を装い、優の目をじっと見つめて雅はそう言ったが、心中は読まれていた。
「雅、黙って帰るつもりでしょ?」
じろっと優は雅の方を見た。泣きそうな顔でで雅はぶんぶんと首を振るが、すなわちそれは雅の言葉を肯定している。
「仕方がないわね。そこまで言うんなら帰っていいわよ。一泳ぎしたらあたしも帰るから」
雅はほっと胸をなで下ろして、更衣室に戻った。優はドアを開けて入っていく雅を見送ると、そのままドアのそばに立っていた。
 しばらくすると、雅が戻ってきた。
「優、僕のした、した、した…」
「どうしたの、雅ちゃん?」
「僕の下着っ!」
「知らないよ」
「嘘つきっ」
雅は真っ赤になって抗議した。
「だって、なかったよ。僕の下着」
「そりゃそーよ。あんたスーパーですでに水着来てたんだから」
「あーーー!」
雅は思い出した。ここに来る前に、優にスーパーまで水着を買いに連れて行かれていたのだ。その時に、
「どうせ、すぐプールに入るんだから、来ていったらいいじゃん」
とかそそのかされて、水着を服の下に着込んだのだ。その時に確か下着は、優に渡したはずである。
「やっぱり優が持ってるんじゃないか!」
「バレたか」
「バレたか、じゃないよ。僕の下着、返してよ」
「いいじゃない。一緒に泳ごうよ」
「やだ」
「あ、そう」
と、雅のロッカーの鍵を引ったくった。
「あ…」
と、雅が呆気に取られているうちに、優はプールサイドへ駆け出して行く。
慌てて雅は優を追いかけた。
 プールサイドに立ってきょろきょろと、プール全体を見渡しても、優の姿は見えない。
「あれ、どこに行ったんだろう」
さっきまで恥ずかしがっていたのも忘れて、プールサイドを一周しようと歩き出した。しかし、ずっと歩いているうちに、雅はあることに気が付いた。心なしか、すれ違う男性陣の視線が自分の方を向いているような気がする。
「もしかして、僕見られている?」
ふっと、足元を見ると、同じ年ぐらいの男の子が雅の水着姿を見上げていた。見られていた恥ずかしさから恥ずかしさから、カァっと雅の頭に血が上る。
「きゃああああ」
 雅の叫び声に、少年はいずこへかと消えてしまったものの、女の子の悲鳴に人だかりが生まれてくる。当の雅は、少年に恥ずかしい角度から見られていたという事実から、パニック状態に陥っていて、まともな判断が出来ない。ぺたりと座り込み、両腕で体を抱きしめ、震える雅。
「怖い」
増えていく人だかりに、恐怖心だけが膨れ上がる。恐怖心が極限まで来たときに、誰かが雅の背中をさすった。
「ひっ」
嫌悪感に雅の全身に鳥肌が立つ。
「何おびえてんのよ、あたしよあたし」
その声に聞き覚えがあった。雅はやや理性を取り戻し、おそるおそる後ろを振り返ってみる。すると、優がちょっと膨れた顔で立っていた。安心したのか、雅の目からほろりと涙が零れ落ちる。
「ひっく、ひっく」
「ちょ、雅、マジ?」
親友の予想もつかない事態に優は狼狽した。彼女の直感が面倒なことになりそうなことを告げる。
「怖かったよお。怖かったよお」
雅は優の足に抱き着いて大声で泣き始めた。
「よしよし、あたしが悪かったから早く泣き止んでよね。恥ずかしいんだから」
呆れながら彼女は雅が泣き止むのを待っていた。

 プールサイドで雅と優はタオルを肩にかけて座っていた。
「ほんっとにもう、今日ばかりは呆れたわよ」
「ごめん」
珍しく雅はしゅんとしていた。
「いつも強気で生意気な桐生雅はどこに言ったのよ。水着着るのなんて別にはじめてじゃないでしょうが」
「初めてだもん」
優の思考回路はここでスリープした。
「今なんて言った?」
いくばくかの空白の時間の後、優は強い口調で雅を問いただす。しかし今度は、雅の方がやや思考能力を取り戻しつつあった。
「ん?気のせいだよ。気のせい」
「確かあんた着たことないとか言わなかった?」
「そんなこと」
と口篭もったのは肯定のように取られた。
「じゃ、あんた今までプールに来たことなかったの?」
「う、うん。まあ。そんなとこ」
にこっ、と雅は微笑んだ。内心では、「やべえ、このままじゃボロがでる〜」と泣き顔を作っていたのはもちろんである。
「じゃ、今日一日で出来る限り慣れなきゃね」
「え?」
ここまで大騒ぎになっただけに、すぐ帰れるものだと思っていた。
「そんなあ、帰ろうよお」
「嫌よ。あんたのおかげで満足に泳げてないんだから。ほらっいくよっ!」
立ち上がると優は雅の手を引っ張った。

 やっとのことで雅はプールから脱出し、優と雅は手近な喫茶店に入っていた。
「それにしても、恥ずかしがるにもほどがあるわよ」
「男の子にじろじろ見られていると恥ずかしくない?」
「そんなこと言ってたら泳げないでしょ!」
「だからプールなんて行きたくないって行ったじゃないか」
はあっ、と優は溜息を吐いた。
「だいたいこの暑いのにその格好何よ。暑くない?」
「体の線見せるの嫌なの。学校でスカートはくことにすら抵抗あるのに」
雅はいつもの通り、長袖のシャツとジーンズ、と非常に暑苦しいのであるが、優の方は淡色の上はノースリーブ、ショートパンツと非常にすずしげである。
「暑いよ。暑いけどしかたがないじゃん」
「仕方がないってどういうことよ」
「男の子の目の保養になるなんてまっぴらごめんだよ」
しばらく優は黙り込んだ後、白々とした目で雅の方を見た。
「そんなけだものみたいに言うのって良くないと思うよ」
「男の子なんて、みんなそんなもんなの」
「やけにムキになるわね。昔男の子となんかあったの?」
「そんなんじゃないけど、とにかくそうなの」
ぷいと横を向いて窓の景色の方を雅は見た。どうせこれ以上話し掛けても何も答えてくれそうにないので、優は追求するのは止めて、目の前のパフェを食べることに集中することにした。

 その日から何日かが過ぎた。雅は朝から自分の部屋で勉強をしていた。彼女の日課だ。この前は優に連れ出されたが、それも午後のこと。朝早く起きて、涼しいうちにお勉強をこなし、昼からは適当に過ごすというのが彼女の夏休みの日常だった。
 ピンポーン。インターフォンがなった。
「ま、母さんが出るだろ」
気にも留めずにそのまま続ける雅。後しばらくしてから、部屋がノックされた。
「雅、お客さんよ」
椅子を一回転させて、母親の方を見る。
「僕に客?誰?」
「麻生さんとおっしゃるんだけど、どうする?」
「分かった、降りる」
階段を降りて、玄関先まで雅はやってきた。
「ふ〜ん、そんな服も持ってるんだ」
玄関先には優が立っていた。
「家の中だもん。この暑いのにあんな格好してられないよ。別に部屋の中で誰かがじろじろ見るわけじゃないし」
今日はコットンのノースリーブの薄茶色のワンピースを着ていた。スカートの丈はひざ上10cm程度。角度によっては、中の下着がのぞいている。ブラの上に直接着ているようだ。
「よく似合ってるよ」
「ありがと」
ちょっと雅の顔がほころんだ。優は少し意外に思った。
…この子、こういう言葉にもちゃんと喜ぶんだ。
じろじろと自分を見る優にちょっと気恥ずかしくなって、やや顔を赤らめた。それに悟られまいと、雅は優に尋ねる。
「わざわざこんな時間から何の用?」
「あ、数学と物理の宿題で分からないとこがあったから、聞きに来たの。朝ならいつでもいるからって言ってたじゃない。迷惑だった?」
心配そうに優が尋ねる。
「ううん、そんなことない」
雅が力いっぱい首を振ったのを見て優はほっと胸をなで下ろした。
 雅は優を自分の部屋に案内して、またドアの外に出ようとした。
「ごめん、ちょっとベッドの上にでも座ってて」
「どこ行くの?」
「テーブルと座布団取って来る」
確かにこの部屋の中には二人で並んで座れるような場所はない。バタン、とドアが閉まると優は物色し始めた。
「しっかし、えらく殺風景な部屋ね」
CD。壁にはポスターの一枚もなく、机の上にはマスコットや小物の一つもない。本棚にはマンガの一冊もなければ、ティーン向けの雑誌も立てかけられていない。あるのは参考書と、小難しそうな本ばかり。机の上にはノートパソコンが一台。ぽつんと置かれ。とても年頃の女の子の部屋だとは思えない。
「優、ごめん!ドア開けて!」
ぼうっとしていると、ドアの外から雅の大声がした。急いで優はドアを開けた。
 熱心な雅の講義が終わる頃には、すでに時刻は正午を回っていた。
「いつも、ありがとうね」
引きつった笑みを浮かべながら、優は雅に言った。何とか教えてもらった内容は理解したものの、優の脳みそは爆発寸前だ。授業中ここまで熱心に聞いていればさぞ成績も上がることだろう。
…毎度のことながら疲れるわ
そんなことを考えていると、ドアから音がした。
コンコン。
いつもは「ガチャ」といきなり開くのだが、優がいるから気を遣っているのだろう。
「いいよ、入っても」
ドアのノブがガチャと開いて、恭一郎が入ってきた。
「どうしたの?」
「優ちゃんもいるし、どっかに食べに行かないか?」
「どうする?」
申し分けなさそうに雅は座っている優に目をむけるが、雅の心配はまるで杞憂だった。
「行くっ!」
元気の良い返事が返ってきたのだ。怪しいぐらいに目がらんらんと輝いている。
「じゃ、僕着替えるからちょっと待っていてくれる?」
「え?」
階段を降りようとした優の足が止まる。ニヤニヤと笑って、雅の方を向く。
「そのままでいいじゃない、別に変じゃないし」
「そうそう。お客さんを待たせるもんじゃない」
「いや、そんなこと言っても」
「あんただって、小さいときはそんな格好してたんでしょうが。似合ってるんだからとっとと出る出る」
無理矢理手を引っ張られてしまう。
「いいじゃんかあ。ちょっとぐらい待っててよお」
雅はたまりかねてその場に座り込んだ。
「人に見られて恥ずかしいような格好を家の中とはいえするもんじゃないでしょ」
そうこうしているうちに、階下から声が聞こえてきた。
「あなたあ、雅〜、まだなの〜、車網出しちゃったわよ。早くでないとご近所に迷惑だから早く出てきてくれない?」
 雅にはそれが死刑の宣告のように聞こえた。
 ファミリーレストランの一角で、雅と優は並んで座っていた。雅の不機嫌そうな顔と、優の笑顔が対照的である。
「こんなカッコ誰かに見られたら」
「何いってんのよ。今の雅見たら、普通の男の子なら一発よ?」
…んなこと分かってるよ。
雅はそう言いたかったが、それはさすがに踏みとどまった。客観的に、あくまで客観的に自分の容姿は評価できるが、目の前の少女はそうは見てくれないだろう。そんなことで、彼女を失うのは得策じゃない。しかし彼女の理性は、完璧ではなかった。
「だったらなおさら嫌だ」
雅はぷいと頬を膨らませて横を向いた。

 食事が終わった後、優はそのままスタジオまで練習に来ていた。優を含めた4名で、文化祭に行われるコンサートにエントリーしているのである。本番まであと二ヶ月。ようやく通しの練習が出来るようになってきて、練習にも気合いが入ってくる。
 キーボードの鍵盤に手を乗せたまま優は昼間の出来事を思い返していた。雅の行動を一つ一つ思い出すたびに、顔がにやけてしまう。
「何だよ、気持ち悪いなあ」
ギターを持った少年が優を叱咤する。
「隆一、桐生雅ってコ、知ってる?」
少年はいきなり不機嫌になった。
「知ってるよ。お前のクラスの秀才だろ。顔はまあまあだけど、にこりと笑いもしないじゃねーか。何楽しくて生きてんだろうね」
優はいきなり大きな声で笑い始めた。ツボにはまったらしく、なかなかこっちの世界に帰ってこない。バンドのメンバーも唖然として優を見つめる。
「大丈夫か?優」
心配そうに、隆一が優に尋ねた。
「いや、今日の雅を見れば、あんたもきっと考え方を変えるわよ」
脈絡のない返答に、メンバー一同呆然としている。ぽかん、としているメンバーに今度は優が叱咤した。
「ほらほら、ぼーっとしてないで、練習よ練習。無様なところは見せられないわよ」
「まったくだな」
呆れたように隆一が答えた。

後書き

今回は、「コンチェルト」一作目の空白の時間を埋める形になっています。夏休みのどこか、ほのぼのとした夏の暑い日の数日を描いてみました。肝心の本編の方は20KBほど書き進みまして、全然順当に進まないです。「夏」をテーマに書いているのですけど、このままでは、「夏」が終わってしまうので、じゃ、夏をテーマに書こうかな、とか思ったりして。これ書いたから本編の方書かないというわけではないんで、待っていた人は安心して下さい。
それでは、またお会いしましょう。