チョコレートに想いを込めて

 桐生雅章が原因不明の病魔に襲われてから約一月が過ぎた。バレンタインデーの当日、ピアノのレッスンが終わった後に香住と恭一郎は雅章の病室へと向かった。香住はこんこんと眠り続ける雅章のベッドの横に、チョコレートの入った箱を置いた。日に日に変貌を続ける雅章を彼女は痛々しく見つめていた。
「雅章君、どうなるんですか?」
「そんなこと俺に分かるもんか」
───お願い!神様、雅章君を死なせないで
 彼女の祈りは神に届いたが、それは彼女の思いとは異なる形で届く事になった。
 年月は過ぎ、再びバレンタインは巡ってくる。

 2月の初めのこと。その日は朝から冷え込んでおり、雪がちらつくほどだった。外は強く冷たい風が吹き荒れ、歩く人に襲い掛かる。そんな中でも、普通の学校には暖房はない。しかし、ストーブの火のない中でも、高校生たちは健気に日常会話を続ける。優と雅は机を向かい合わせにして、昼食のひとときを過ごしていた。大学受験を一年先に控えて、受験勉強を始め出す生徒もちらほらいるが、彼女たちにそのような意識は見られない。
 雅は、ミニスカートの下は厚手のストッキングをはいており、ブラウスの下には紺のセーターを着ていにもかかわらず、食事をしながらずっとガタガタと震えている。
「よくそんなカッコで寒くないなあ。女が冷え性なんて絶対に嘘だ」
いつもやり込められる目の前の少女に向かってここぞとばかり反撃を開始する。
「天下の桐生雅も寒さには勝てないのかしら?」
勝ち誇ったように言いきる優。こちらは、ストッキングなんてはいていない。生足だ。
「勝てないね。ブレザーとミニスカートは寒さに堪えすぎる。こんな服を制服に指定するなんて、人権侵害も甚だしい。オヤジの趣味もここに極まれりだね」
辛辣に批評する雅に、優が攻撃の手を強めた。
「その姿をつい最近まで喜んで見ていたのはどなた?」
饒舌だった雅の口の動きがやや鈍くなった。
「今は同じ女の子なんだし、そんな冷たいこと言うなよ」
 弱々しく返答する雅を見て、優はくすくすと笑っていた。そこへ背後から声がする。
「確かに」
その人物は、そこで一呼吸置いた。
「ストッキングやタイツに護られているよりも、生足の方がいい。雅は色気がなさ過ぎるぞ」
雅は背後を振り返る事もなく、冷たく抑揚のない声で言いきった。
「女の子二人を目の前にしてそんなこというかな? デリカシーのかけらもないと、女の子に嫌われるぞ、隆一」
再び雅は冷静さを取り戻しているかのように見えた。しかし、それは単なる虚勢にしか過ぎない事を、優が明らかにする。
「そんなこといいながら、顔がにやけてるよ。もしそうなっても、自分だけはずっと味方だって顔ね」
言い終えた途端、ボンとゆでダコのように真っ赤になる雅だった。どうやら、優の言った事はかなり的を射ていたようだ。隆一は笑いながら、手近な椅子に座り込んだが、雅は真っ赤になって下を向いたままだった。
「ねえ、隆一」
優は矛先を隆一に変えた。
「こういう雅って、かわいいと思わない?」
何気ないその言葉は、雅の視線を約90度上方に変化させる事になった。
「かわいいだって?」
顔が赤いのはそのままだが、まっすぐに優を見つめ、視線はかなりマジである。
「うん、かわいいと思うよ。あたしは」
「かわいいかわいいって連発するなっ!恥ずかしいんだから」
そして、雅とは対照的に優の頭はは氷のように冷たかった。雅の態度があまりにおかしいのを見て、極めて冷静にそれを煽ったのだ。
「雅ったら、照れちゃってかわいい」
その言葉は、結果として雅の理性を完璧にふっ飛ばす事になってしまった。こうなると、人間誰しも言う事は支離滅裂になるものだ。
「お願いだからこれ以上かわいいと言うのはやめてくれ〜!」
雅の絶叫が教室に響いた。

 終礼が終わると、雅はそそくさと校門を出た。
「み〜やびっ」
後ろから呼ぶ声を聞いて、雅の足は少し速くなる。
「あ、逃げる事はないじゃない」
優も足を速める。それに気がついた雅は駆け出した。
「雅ったら昼間の事があるから逃げるなんて、かわいいとこあるわねっ」
「そんなんじゃないっ」
「つ〜かまえたっ」
立ち止まって振り返った瞬間に、優がにこにこと笑いながら雅の腕をつかんでいた。
そのまま雅はずるずると、学校のそばの喫茶店へ連れて行かれた。
 二人がテーブルに座り込むとすぐに、雅はぶつぶつと文句を言った。
「何だよ、一体。僕は忙しいんだ」
「そういうすねてるところもかわいいわね」
「子供じゃないんだから、かわいいかわいいと連発するのはやめてくれ」
思わず雅は立ち上がった。
そこへ、お店のマスターがオーダーを取りに来た。
「実際かわいいんだから、いいんじゃないの?」
「マスターまでそんなことを言うんですか?」
冷静になって雅は再び席についた。
「ちょっとした仕草とか、態度とか、十分雅ちゃんは女の子らしくてかわいいと思うよ」
第三者からの率直な意見に、雅はかなりショックを受けた。
「ぼ、僕が女の子らしくてかわいい?かわいい?」
放心状態になって雅はぶつぶつとつぶやき始めた。
「あ〜あ、しょうがないなあ。この子にはココア、私にはミルクティーを下さい」
「放っておいて、大丈夫?」
「ええ、多分もう少ししたらこっちの世界に帰ってきますから」
「了解」
マスターはくすくすと笑いながら、カウンターへと向かった。
 ホットココアのカカオの匂いに雅は気づき、カップを手に取った。
「絶対僕の反応を見て遊んでるだろう?」
両手でカップを持って、ふくれっつらでココアを飲む仕草は、誰が見てもかわいいと言うだろう。
「だって、そういう雅って本当にかわいいんだもん」
「もういい。で、僕をどこに連れて行く気?」
「ふふふふふ」
不気味に笑う優に、雅は背筋が寒くなった。

 2月に入ると、どこのお店でもバレンタインデーの特設コーナーが出来る。駅の近くにもスーパーがあって、その一角へ優と雅はやって来ていた。優は売り場でチョコレートを物色していたが、雅は売り場に入っていこうとはせず、一人女の子でごったがえすお菓子売り場を外から見つめていた。
「ココアおごってくれた優にはお礼を言うけど、なんで僕がこんなところに来なきゃならないんだ?」
「あんた、2月14日が何の日か知らないの?」
一人ごとを言ったはずが、優がそばに戻って来ていた。
「バレンタイン‐デー(聖バレンタインは二六九年頃殉教死したローマの司祭) 二月一四日。聖バレンタインの記念日。この日に愛する人に(特に女性から男性に)贈り物をする。わが国では一九五八年頃より流行。広辞苑にはこう書いてあるね」
優は思わず天を仰いだ。
「クラスの男の子に配る義理チョコと、好きな男の子にあげる本命チョコは女の子のたしなみでしょ」
「確かに、この時期になるとチョコをあげる女の子に間違えられるのが嫌でチョコレートは買わなかったな」
「なるほどね。元々男の子なのに今無茶苦茶かわいいのがなんとなく分かるような気がするわ」
妙なところで納得する優。
「それはそうとして、隆一にチョコあげる気はないの?」
「あげる気があるとかないとかいう以前に、自分がそういう身分だという事をすっかり忘れてたよ」
まじめな顔でそう言う雅に、優は肯いた。
「そう思ったから無理矢理連れてきたのよ。義理チョコをクラスの男の子にばらまけとは言わないから、せめて隆一ぐらいには買ってあげなさい」
「やだ」
雅の返答は否定形だった。
「今僕が女の子だからって、そんなわけの分からない行事につきあう義理はないね」
なるべく表情を変えないように気を付けながら、雅は優の側を離れた。
「ちょっと雅、待ちなさいってば」
しかし、買い物かごの中はチョコレートでいっぱいである。売り場を離脱する事も出来ず、雅を追いかける事は出来なかった。
 店を出て、優が後ろについて来ていないのを確認すると、雅はほっと安堵のため息を吐いた。
「チョコレートだって?冗談じゃない。なんで僕がそんな面倒な事しなきゃならないんだ?」
自分がチョコレートを渡している姿を想像してみた。思わず顔が赤くなってしまう。
「やめやめ。考えただけで恥ずかしい」
それ以上雅は考えない事にした。

 バレンタインデーはもう目前に控えていて、あからさまにそわそわしている女の子もいる。そんな女の子たちを雅はやや複雑な面持ちで見ていた。放課後にバレンタインデーの話題で沸き返る女の子を見て雅は思った。
「僕もあげたほうがいいのかな?」
隆一が喜ぶのは間違いないかもしれない。
「そういや、あいつのこと僕あんまり何も知らないなあ」
ちょっと不安になる。
 下足室で靴を履きかえるときに、後ろから声がかかった。
「桐生雅先輩ですね?」
かわいらしい女の子の声だ。靴を履き替え終わってから雅は声の方を向いた。厳しい顔をして女の子が一人立っている。先輩、と呼ぶところを見ると一年生なのだろう。
「早川先輩にチョコレートあげないって本当ですか?」
「はあ?」
いきなりの言葉に雅はちょっと面食らった。そう言えば優が隆一は競争率が高いとか言っていたな。隆一のファンの一人っていうところだろう。
「チョコレートあげないなんて酷すぎます。本当に桐生先輩、早川先輩の事好きなんですか?」
女の子って、そんなことぐらいで人の愛情を判断するのかあ。妙なところで感心する雅ではあったが、彼女への返答は厳しかった。
「失礼な子だね。それをどこから聞いたか知らないけど、それと君とどう関係があるわけ?」
「私早川先輩の事が好きです。桐生先輩となら幸せになれると思ったのに、チョコレートぐらいあげたらいいじゃないですか!」
このセリフに雅の怒りは更に高まった。
「じゃ、君とならもっと隆一は幸せになれるって言いたいわけ?そう思うのなら、僕に言わず、隆一に直接言えば?僕に言う事じゃないじゃん」
向こうの女の子もその言葉はかなりこたえたのか、その返答はかなり支離滅裂になってきた。
「何よ!あんたみたいな男女をどうして早川先輩が選んだのかちっともわからないっ」
その子はそう言うと走って去っていってしまった。
「やれやれ、何だったんだ。あの子」
ぶつぶつ言いながら、雅は校門を出た。

 「なんで僕こんな事をしてるんだろう?」
 自室の窓から差し込む夕日を浴びながら、雅はチョコレートを融かしていた。大きな鍋をお湯で見たし、ストーブの上においてあった。小さな鍋にチョコレートを削っていれ、そのまま鍋をお湯につける。するとだんだんチョコレートは融けてくる。材料のチョコレートやラッピング用の部材は、帰りに買ってかえったのだ。当人は、あんまり周りがうるさいので、それだったら作った方がましだと判断したらしい。
「ああ、なんて面倒なんだ。女の子って」
そうは言いつつも、雅の左手はお湯に沈まないように鍋を支え、右手はせっせとチョコレートをかき混ぜる。十分な量のチョコレートが融けたら、しゃもじですくってそのままアルミのカップの中に流し込む。
「ほんっとに周りの連中はああだこうだとうるさいんだから」
と言いつつも、結構神経を集中させている。20個ほど流し込み終わると、トレーに載せて冷蔵庫に向かった。
 そろり、そろり、と階段を降りる。父親はこの時間ならレッスン中だし、母親は夕食の買い出しに出ている。もし母親に見つかっても女の子らしくなったとむしろ喜ぶだろう。しかし、父親に見つかるとやっかいなことになるかもしれない。
「おい、雅」
台所に入ろうとするところで、低い声で後ろから呼び止められた。ドアのノブにかけた手が一瞬離れる。
「ん、何?」
雅は引きつった笑顔を父親に見せた。
「いや、何でもない」
雅、と呼んだ瞬間の彼女のの表情と、彼女が手に持っているものを見て、彼はそれ以上何も言わなかった。

 「先生、先生ってば。弾き終わりましたよ」
香住は恭一郎に向かって言った。香住は高校二年生。学校は違うが、雅と同い年だ。
「あ、香住ちゃん、ごめん。いいと思うよ」
「先生、トイレに行ってからなんか様子が変ですよ。何かあったんですか?」
ややためらったが、恭一郎は香住に尋ねた。
「そりゃ娘さんに比べれば私は下手かもしれませんが、ちゃんと見てもらわないと困ります。」
言葉ほどには香住は怒っていない。その証拠にさっきからニコニコと笑っていた。
「香住ちゃんもチョコとか買ってるのかな? 」
いきなり香住は大声で笑い始めた。
「先生、女の子にストレートにものを聞きすぎですよ」
「え?」
「雅さんがチョコレートを準備していたんでしょ?」
「ああ、まさかあいつがあんなことするとは思ってなかったからなあ」
口篭もる恭一郎に、香住はさらに大声で笑い始めた。
「雅さんも年頃の女の子なんですから。娘さんのこととなると、クールな桐生先生も形無しですね」
ころころと笑い転げる香住に対し、恭一郎は話題を変えた。
「こういう話はやめやめ!次弾きなさい、次」
「はいはい、私もお月謝を無駄にしたくはありませんからね」
再び両手を鍵盤の上に置いた香住は恭一郎に向き直り、一言付け加えた。
「でも今度はちゃんと聴いて下さいね」
「ぐ」
恭一郎はそれ以上何も言えなかった。
 香住のレッスンが終わる頃、雅はまだ台所にいた。出てくるところを見つかると恭一郎や香住に何を言われるか分からない。彼らが出て行くまで、じっと待っているつもりだった。ピアノの音が止んで、10分ほど経った。ゆっくりと台所のドアを開け、階段を上がろうとした。
「雅さん」
「ん?」
かわいらしい女の子の声に、階段にかけようとした雅の足は、再び床に戻った。いつもの笑顔で雅は振りかえる。
「あ、香住ちゃん、レッスンは終わり?」
「ええ」
そう返事した香住はそのまま、雅のそばに行き耳元でつぶやいた。
「チョコレート、うまく出来ました?」
リトマス試験紙のようにそのまま雅の顔は真っ赤になった。
用は済んだとばかりに、くすくすと笑いながら香住は恭一郎の元に向かった。
「今日はお世話になりました」
深々とお礼を下げる香住に一応恭一郎は聞いてみた。
「あいつに何を言ったんだ」
「内緒です。もういない雅章さんに、ちょっといじわる」
靴の紐を結びながら、香住は言った。
「ね、先生。雅さんが女の子に近づいていって、さみしいのは、先生だけじゃないんですよ」
ドアを開けながら香住はそうつぶやいた。ドアが完全に閉まった後、恭一郎はまだ階段の側で固まっている雅に声をかけた。
「聞いたか色男。男に入れ込んでる場合じゃないぞ」
「そんなこと言われても困るよ」
「良かったなあ。雅章を好きだと言ってくれる女の子がいて」
「なんか複雑な気持ちだね」
雅はそのまま自分の部屋に戻った。

 お昼休み、一握りの勇気を振り絞って隆一のいるクラスに向かった雅は、大きな肩透かしを食らわされることになった。
「え、隆一休み?」
「うん、風邪らしいわよ。みんながっかりしてるの。あなたがチョコ渡さないっていう噂が流れてから躍起になってる子が結構いたんだけどねえ」
そういえば、さっきから冷たい視線をあちこちから感じる。
「わざわざ手作りのチョコ用意したんですって?」
「どうせ買ってきたチョコレートを融かすだけだろ? 別に大した事じゃないじゃん。僕がチョコをあげるあげないでどんどん騒ぎが大きくなるんだもん」
しかし、そんなことは誰も信じない。照れ隠しとしか思っていないようだ。実際雅自身、そういう部分は否定できない。
 自分の席でラッピングされたチョコレートを雅は一人見つめていた。
「雅ちゃん」
「あ、嵯峨野君。ちょうど良かった。ちょっと待ってね」
かばんの中からもう一つチョコレートを取り出した。
「はい、いつもお世話になってるお礼。クリスマスのときもお礼してなかったし」
「君からチョコレートを受け取るって言うのはなんか複雑だなあ」
そういって嵯峨野智和が手を差し出したとき、雅の表情から笑顔が消えた。
「そんなこと言うならもうあげない。ふんだ」
「そうだ、そんなことを言うなら俺達が許さないぞ!」
いつのまにか、二人を取り囲んでいる男子生徒の一陣。智和の額には冷や汗が浮かんでいた。
「じょ、冗談だよ。天下の桐生雅からチョコレートを貰ったというだけで、自慢できるからね」
「あ、みんなの分もちゃんとあるよ」
雅は、さらに一回り大きな箱を取り出した。しかしもちろん、おそらく人数分はない。
「みんなで食べてね」
にっこりと微笑む雅からチョコを受け取ると、そばで争奪戦が始まった。それを一瞥して雅はいじわるな笑顔を浮かべた。
「とりあえずチョコレートを作った甲斐はあったな。あ〜あ、みんな僕のどこがいいんだろうね」
「……」
呆れ顔で頬杖をつく雅に、智和は思わず背筋が寒くなった。
「相変わらずもてるわねえ。義理チョコは配らないんじゃなかったの?」
優が隣の席にやってきた。
「たくさん作りすぎてあまっちゃったから、もったいないし、だったら配ろうかなって。僕一人じゃ食べきれないし」
「そういう冷静な判断をするところが、雅らしいといえば雅らしいわね」
「そうなの?」
小首を傾げる仕草がみょうにかわいい雅だった。
「で、これどうするの?」
「あきらめるしかないかなあ。あいつの反応が見たかったんだけど。折角作ったけど、また今度にしよう」
「今日渡したい?」
そう聞く優の表情には妖しい笑みが浮かんでいた。
「もういいよ。別に今日じゃなくても」
 そういった彼女の顔はわざと優の方を見ていなかった。そこで優は一計を案じた。
「ねえ、雅。今日放課後、暇?」
「うん」
「今日ちょっと付き合ってくれない? おいしいケーキのお店見つけたんだ」
「いいよ」
 そばで見ていた嵯峨野智和だけが、優の妖しい笑みに気がついていた。

 すたすたと歩く優の後ろを雅はついていく。学校から電車で何駅か乗った後、駅から30分以上歩いている。
「うーん、この辺だと思ったんだけどなあ」
頼りない声を出しながら、優は住宅地の中を歩く。
「あ、あった!」
優が大声を出した場所には、喫茶店など存在しなかった。ただの家の門を背にして、優は言った。 
「ここが隆一の家だよん」
そう言った瞬間に、雅は優に背を向けた。
「僕帰るから」
雅は振り返って歩いて戻ろうとしたが、優の声を聞いて立ち止まった。
「いいわよ、帰れるのなら帰っても。わざわざ一駅余分に歩いたんだから」
言われてみれば、ここからどうやって帰ればいいのか、皆目分からない。よくある住宅街のご多分にもれず、目印になるようなものは全くない。
「じゃ、がんばってねえ」
「こら、置いていくなあ」
雅の絶叫がむなしく響く中、寒風がそれをかき消すかのように吹いていた。

 ドアが開くのを待っている時間が、永遠の時間にも感じられた。五秒、十秒
「もうだめだっ!」
雅は走って逃げようとした。迷ってもいい。とりあえず、この場を逃げよう。
 門に背を向けて走っろうとすると、後ろから女性の声がした。
「うちに何か御用かしら?」
その声を聞いて、雅は金縛りにかかったように動けなくなった。走って逃げようとするのだが、足が竦んで動かない。やっとのことで、声の方に体を向けると、物静かそうな中年の女性が立っていた。
「あ、あの、これ隆一君に渡して下さい」
 雅がそう叫んだ瞬間、その女性は初めは呆気に取られていたが、雅から包みを受け取るときには、緊張する雅の様子を見て口元をほころばせた。しかし、少女は自分が包みを受け取った瞬間に、背を向けて駆け出していた。
「待ちなさいっ!」
強い口調に、ぴた、と雅の足は止まった。その間に、彼女は門を開けて雅に近づいていった。
「折角来たんだからお茶でも飲んでいきなさい」
彼女は雅のそばまでやって来て、雅肩に手を置いた。一瞬雅の体が硬直する。
「いいでしょ? ね?」
背を向けて震えたまま、こっくりと、雅は肯いた。

 居間に通された雅は、ソファの上である種のいこごちの悪さを感じていた。ドアのノブががちゃりとなっ他。さっき自分を呼び止めた中年の女性がお盆の上にカップを二つ載せていた。
「あなたが、桐生雅さん?」
「はい」
雅は返事をした。
「良かった。違う女の子だったらどうしようかと思ったわ」
「どうしてですか?」
「一度あなたとお話をしてみたかったの。うちの隆一に『音』を取り戻させてくれたそうね?」
雅はその女性に問いかけた。
「早川さんも音楽関係の方なんですか?」
「今の名前は早川尚美。でも、反町尚美といえば、佐々木君の弟子なら名前だけは知っているのではなくて?」
雅は頭の中のデータバンクを探してみた。佐々木先生が唯一自分より天才であると認めた女性が一人だけいたと聞いた事がある。その名は反町尚美。しかし、その才能を惜しまれながらも、その才能が世に出る事はなかった。彼女は音大を卒業後すぐに結婚したからである。雅も在学中に弾いた演奏のテープをいくつか聴かせてもらった事がある。優しくて、暖かな音だった。
「どうしてピアニストになろうとしなかったんですか?」
「ピアニストになるよりも、今の旦那を幸せにすることが私にとって大事だったの。佐々木君なんかは今でも、音楽会の損失だって言うわ。でも、コンサート漬で家庭を壊してしまうよりも、隆之に、あ、主人の事ね、ピアノを聞かせる事の方が私には大事だったの。」
 雅は紅茶を一口すすった。
「おいしい」
「よかった。うちで一番いい葉っぱを出したのよ。大事なお客様ですもの。将来隆一のお嫁にくるかもしれないんだから、大事にしなきゃね」
 尚美の雅に対する反応は悪くなかったが、ここまでの尚美の話と尚美の表情を見ていて、雅の顔はやや暗くなっていた。この人は女の幸せを満喫している。才能も何もかもなげうって、自分の子供と、自分の結婚相手に尽くす事で幸せをつかんでいる。自分には、多分こんな事はできない。
誤解しないで欲しいことがあるの」
「なんでしょうか?」
「私はね、隆之と隆一のために生きる事が自分にとって幸せだと思ったからそうしたの。あなたが今女だからとか、才能があるからなんて関係ない。自分の生きたいように生きなさい。そして、胸を張って幸せになりなさい。それがあなたの義務よ」
一息ついた後に、微笑みながらこう付け加えた。
「でも、隆一の面倒はちゃんと見てやってね」
尚美は一瞬、片目を閉じた。雅はしばらく目をパチクリさせていたが、やがて笑顔が自然に飛び出していた。
 雅がふと窓を見るともう日は沈みかかっていた。
「え、もうこんな時間? 僕もう帰らなきゃ」
「慌ていてると『僕』に戻るのね?」
尚美に笑いながら問いかけられ、雅は一瞬凍り付いた。
「知ってたんですか?」
「何を?」
「僕が、その、昔」
「そんなことはどうでもいいことよ。あなたは今女の子で、隆一の大事なガールフレンド。私にとってそれ以上のことに何の意味があるの?」
「そうですね」
雅はそれだけつぶやいた。
「もう遅いし、家まで送るわ。またいらっしゃいね」
「ありがとうございます」
雅は深々と頭を下げた。

 雅が家に戻ってくると、女物の靴が一つ玄関に置かれていた。
「ただいま」
居間の扉を開けると、制服を着た女の子がソファに座っている。
「あれ香住ちゃん?今日もレッスン?」
ドアの側に鞄を置いて、香住のそばまで雅は歩いていった。
「いいえ、雅さん、いいえ、雅章さんを待っていたんです」
自分のことを「雅章」とあえて呼んだ事に雅は一抹の不安を覚えた。香住は手に持っていた紙袋を真剣な表情で雅に手渡した。
「去年渡せなかったから。今年渡しておきます。雅さんではなくて、雅章さんに」
「どうして?今の僕は…」
香住は雅の口を自分の唇で塞いだ。そのまま雅は動けなかったが、しばらくすると香住の方から唇を離した。
「な、なに?香住ちゃん?!」
思わず口を手の甲で押さえた後、雅は香住に尋ねた。
「今でも、雅章さんが一番好きな人には違いないんです。あなたが今女の子で、一人の男の子に恋している事は分かっています。もう雅章さんの事はあきらめています」
「だったらどうして?」
「あなたのことを一人の男の子として見ていた女の子がいたことを、忘れないでいて欲しいんです。あなたがあなたであるために」
そこまで言い終えて、香住は大きく息を吸った。
「ところで、隆一さんにはちゃんと渡しました?私みたいに後悔する事になっても知りませんよ」
「え?うん、一応」
頬を赤らめて下を向く雅に、香住は安心した。
「よかった。雅章さんにはこんな思いはして欲しくなかったから」
ごめんね、と雅は言おうとしたが、思い直した。
「ありがとう、香住ちゃん」
「どういたしまして」
その笑顔に嘘はなかった。

 雅が駅から学校まで歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「あ、隆一、おはよう」
隆一がニヤニヤと笑いながら、立っていた。
「風邪はもういいのか?」
雅はわざとチョコレートの事には触れなかった。
「ああ。悪かったな。昨日はわざわざ来てくれたのに」
「しょうがないよ。バレンタインなんてどうせ女の子の勝手な都合なんだし」
人事のように言う雅に隆一は笑い出した。
「でもお前みたいな天邪鬼には、そういう日は必要だろ?」
隆一は一枚のハガキ大のカードを、雅にちらっと見せた。

 いつもそばにいるあなたへ、いつも言えない想いを、このチョコレートに込めました。
なんか、僕少女してるね?でも、この感謝の気持ちは本物だよ。 桐生雅

「このカード、大事に取っとくよ」
半分本気半分冗談で、隆一は言った。
「ふんだ」
 雅は頬を膨らませた。

 

後書き

 先に宣伝しておきますね。

ホームページ http://www2k.biglobe.ne.jp/~yaji/

となっております。まだ見てない方は一度ご覧ください。僕に対するイメージが壊れる事間違いなし。

 さて、「お前このシリーズもう二度と書かないとか言ってなかったか?」って。一時の気の迷いだと思ってください(笑)
 このシリーズはまだ、私の本性を押さえている方でして、私の真実の姿に近いのは、そうですね、どれなんでしょうね? まあ、一部の方は本性が見えてきたかもしれませんが、その実体は自分でもよく分かっていなかったりします。
 今回はお約束のバレンタインです。まあ別に、「書け」という圧力がかかったからというわけじゃないんですが、バレンタインですから季節ものを書くのはお約束だろうという、それだけの理由です。2月に入ってそのことを思い出しまして、大急ぎで書きました。
 初めは「バレンタインではずかしまくる桐生雅」をイメージしていたのですが、それじゃ意味がないという事で、ほとんど書きあがった後で、部分部分に修正をかけました。距離を置きながらも、バレンタインが気になっている姿を想定したのですが、みなさまに届きましたでしょうか?
 ということで、またお会いする事がありましたら、よろしくお願いいたします。ご意見ご感想は、yaji@iris.moemoe.ne.jpまで。迅速に対応いたしますので、なにとぞお願いいたします。
 


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