オニキス6


 はっと気がつくと、窓からは夕日が射し込んでいた。ベッドサイドの時計を手に取ると、もう六時前だった。家に着いたのが三時ごろだったから、二時間以上も眠っていたようだ。
 どんな夢を見ていただろうか。
 何か夢を見ていたような気がするのだが、夢の内容が思い出せない。夢の中の焦燥感だけが、握り締めた両手の中に取り残されているようで、若島津は手のひらを開いてそれをまた組み合わせた。
 そろそろ起きて、下に降りていった方が良いだろう。先ほどは母に心配をかけてしまったようだし、そろそろ夕飯の時間だ。そう言えば今日は昼食も食べはぐれてしまった。喉がむしょうに乾いてもいた。
 若島津はあえて、日向のことを考えないようにしてベッドから起き上がり、服を着るとすぐに階下へ降りていく。
「…おはよう」
「あら、起きちゃった?さっき様子を身に行ったら眠ってたから。お腹すいたでしょ。すぐ夕飯にしましょうね」
 母親は一人娘に気を使っているようだった。
「眠ったら喉乾いちゃった」
 若島津は冷蔵庫からウーロン茶を取りだし、トクトクとグラスに注いだ。グラス一杯のウーロン茶を飲み干してほっと息をつく。台所には良い匂いが溢れており、若島津の空っぽの胃を刺激した。
「今日はね、子詰めイカと若竹のお煮付けアオサのお汁。花寿司も作っちゃった。花寿司は沢山作ったから、お隣に持って行ってくれる?」
「うん、分かった」
 若島津は母親が用意していた花寿司が載った皿を受け取ると、すぐに隣の家へ向かった。
 夕食はすべて若島津の好物で、とても美味しかった。母親の無言の気遣いが有りがたい。
 こんな時でも、有りがたいと思った。


 日向が事故に合って五日がたっていた。
 土曜日で宝が勤めている東邦大の図書館は半ドンである。
 どうしよう。
 若島津は悩んでいた。あれから何の連絡もない。
 きっとまだ日向の記憶は戻らないままなのだろう。
 会いに行くべきか、それとも。
(お前、誰だ)
 あの瞬間、若島津の中で、日向は見知らぬ「他人」になってしまった。記憶のない日向に会いたくないのは、ごく自然な自衛本能からだった。日向が自分のことを忘れてしまっているという現実に、目を背けたいのだ。
「…蓮尾さん、どうしたの。ぼんやりして」
 図書館のカウンターで、新しく購入した本の補強とカード作成の作業をしている手を、何時の間にか休めてしまっていた若島津に先輩格の同僚が心配して声を掛ける。
「…え、あ、何でもないです」
 慌てて若島津は手を動かし始める。
「今日、午後あいてる?何か食べて帰らない?」
「すみません。…友人が入院してて、今日はお見舞いに行くつもりなんです」
「あら、大変ね」
 図書館の壁の大きなボンボン時計は十一時五十分を指している。後一時間ほどで今日の仕事は終わる。
 さっきは同僚に見舞いに行くと言ってしまったけれど。
 日向が記憶を無くしても、毎日は容赦なくめぐってくる。地球はそれでも回っているのだ。
 日向は今ごろどうしているだろうか。
 そればかりが気になっていた。


(健ちゃん、遊びに行こうよ) 
 裏庭の壊れかけた垣根をくぐり抜けて、離れにある自分の部屋へ日向はよくやってきた。
 親分肌の優しい幼なじみ。
 母親が亡くなって、自分の居場所をあの家に見つけられずにいた時に、日向のひまわりのような笑顔は若島津の故郷になった。
 日向を追う形で家を出て東邦へ入学したあの頃は、今でも黄金色の記憶として若島津の胸の奥底に納まっている。
 幸せだったと思う。今が幸せでない筈はない。けれどあの頃の心身ともに満たされていた充実感は、恐らくもう二度と経験することは出来ないだろう。
 それも全て、日向がいたからこそだった。
 日向が記憶を無くしてしまって、どうしてこれほど衝撃を受けたのか。
 今ほど若島津は、自分がいかに日向に依存して生きてきたかを思い知らされた。自分の不思議な運命を、真っ直ぐに受け止めてくれた日向の度量の広さは、幼いころから少しも変わらずにいたものだ。自分は庇護される者として、ただ丸くなって甘えていれば良かった。
 記憶の無くなった日向に会うのが怖かったのは、自分を否定されてしまいそうだったから。
 病院へと向かう電車に揺られて、若島津はつらつらと自分を整理していた。それは少しばかり辛い作業だった。
 天気は良い。まばゆい春の太陽に回りの建物は金色に反射している。
 日向の本当の気持ちを、考えたことがあったろうか。
 あまりに近くに居過ぎて、そんなことを考えたことなどなかった。
 日向は常に自分が望む形で、一番自分の近いところに居てくれたから。
 それは昔から変わらぬもの。連綿と続いてきた日向の優しさだった。
(好きだ)
 そう言われてうろたえてしまったのは、今まで日向から無償で貰い続けていた一種肉親的な情愛を無くしてしまいそうだったから。
 自分は日向に対して、何て利己的で排他的だったのだろう。
 日向が、大好きなのに。
 気分は下へ下へと落ちこんで行く。ようやく駅につき、ホームに降り立った時、若島津は大きなため息をついてしまった。
 土曜日の午後、ホームは混み合いともすれば人の波につられてあらぬ方向へ行ってしまいそうになる。若島津は何度も人ごみに足を取られて、やっと改札を通った。
 ゆっくりとした足取りで病院へ向かう。
 日向に会って、それから。
 ぼんやりとしている若島津の目に、突然色とりどりの花々が飛びこんできた。病院前の交差点の角に、小さな花屋があったのだ。思わず足を止めて、ガラス張りのショーウィンドウに飾られているカラーとカスミ草に目を奪われてしまう。
 白に黄色の花弁が鮮やかなカラーは、シンプルでいてシャープなラインが流麗で気品に溢れていた。
「何かお探しですか」
 花に見入っていた若島津に、花屋の店員が優しく声をかけた。
「…え、ああ。…入院してる友人をお見舞いに行こうとしてたんですけど、手ぶらで来てしまったなって思って。花束を作って頂けますか」
「有難うございます。どんな花にしましょうか」
 アルバイト風の、若い青年は元気良く店内に入って行く。その後は追って若島津も中に入った。店内は所狭しといろんな花が溢れていた。若島津の視線はごく自然にカラーの花を捜していた。カラーはガラスケースの中に束になって銀色の鉢に納まっている。
「カラーにしますか。これは今日入荷したばっかりですから、十日くらいは持ちますよ。匂いもきつくないしお見舞いにはちょっと色が寂しいけど、あしらいに黄色のミモザアカシアなんか使ったら明るい感じになるでしょう?」
 手馴れた様子で、青年はカラーを五、六本とミモザアカシアを手の中にまとめて若島津に見せてくれた。彼の言う通り、カラーとミモザアカシアの花束はかなり感じが良かった。
「本当ですね。それでお願いします」
「有難うございます。ええと、これだと三千五百円になります。…けどお客さん、美人だから三千円に負けときますね。リボン掛けますからちょっと待ってて下さいね」
 花束は綺麗に仕上がった。なんだか若島津の心をも、少し軽くしてくれるようだった。
「有難うございます」
 花屋を後にして、青になった交差点を渡る。いつのまにか心は静かに澄んでいた。
 日向に会ったら何て言おう。「お前は誰だ」と言われたら、何て答えよう。
 今まで日向が無償で自分にしてくれていたことを、還したいと若島津は思った。日向のことを、理解したいと初めてそう思った。
 しかし病院に入り、二階の病室に着いた時に、若島津はノックの手を止めてしまった。病室のネームプレートに、日向の名が外されていたのだ。病室を変わってしまったのだろうか。
「あ、すみません。少し前にここに入院していた日向さんは部屋を変わられたんですか」
 丁度通りがかった看護婦を捕まえて、若島津は尋ねた。
「あら、お見舞いに来られたんですか?日向さんなら昨日退院されましたけど」
「…退院?こんなに早くですか?」
「ええ、まあ検査は一通りすんでたみたいですけど、本人がどうしても早く退院したいって…駄々こねたみたいですよ」
 思い出したように若い看護婦はクスリと笑った。
「あ、あの自宅に戻られたんでしょうか」
「さあ、そこまでは」
 肩を竦めて看護婦は行ってしまった。
 一人廊下に取り残された若島津は、これからどうしようと考えた。しかし考える前に足は勝手に動いていた。
 日向に会いたい。
 ここから日向の所属しているチームの寮までは歩いて二十分ほどなのだ。とりあえず寮に行って、うまくしたら日向に会えるかもしれない。駄目でも誰かに消息を聞けるはずだ。
 ツカツカと足早に病院を出て、寮までの道を歩く。横浜は開けてはいるが東京に比べるとまだまだ町に緑が残っている。民家の垣根から七分咲きほどの白木蓮の花が、目に止まる。綺麗だと思う。もうすぐ桜も咲き始めるだろう。
 春が来たのだ。
 人通りの少ない川縁の道を歩きながら、ふいに若島津は歩調を緩めた。前方から誰かが走って来る。見覚えのある白いトレーニング・ウエアに身を包み、リズミカルな足取りでランニングをしている。
 あれはー。
 若島津は足を止めてしまった。どんどんと日向は目の前に迫ってくる。後三メートルというところまで日向が近づいた時、するりと若島津は手にしていた花束を落としてしまった。
「…あ」
 日向はもう目の前に来ていた。慌てて花束を拾おうと手を伸ばすより先に、日向がごく自然な動作でそれを拾って若島津の方へ差し出した。
「…はい」
「……っ」
 若島津は口を開こうとしたが、あまりに突然の再会に戸惑い、結局何も言えなかった。ただ黙って花束を受け取る。
 日向は、まるで見知らぬ他人を見るような目で、自分を見ている。
「…ひょっとして、この前病院に来てくれた人かな?」
 日向は五日前のことを覚えていたのだ。
 コクン、と若島津は頷いた。
「…ちょっと話そうか」
 花束と、偶然ではないような再会に、日向は何か感じたようだった。
 瓦の方に日向はスタスタと歩いて行く。下にベンチがあった。若島津は足元に気をつけながら日向の後をついて行った。先に日向が座った隣に腰掛ける。
「寒くない?」
「…いいえ」
「良い天気だね。ね、その花束、ひょっとして俺に?何か前にも同じような花束、貰ったような気がするんだけど、あれもやっぱりあんたがくれたのかな」
「日向さん、……やっぱりまだ。…記憶は戻らないみないですね」
「うん、実はそう。あんたが分かったのだって、寮の部屋にあった写真を見たから、なんだ。蓮尾、宝…さん?俺、あんたのこと、何て呼んでたの?」
「わ……宝って」
 日向は思ったよりずっと元気そうだった。
「反町がさ、すごーく起こってね。誰のこと忘れても最愛の恋人のことを忘れるヤツがあるかって。…俺たち、恋人だったの?」
「…恋人かどうかは分からないけど。…はい、これお見舞い」
「サンキュー。綺麗だな。これ、カラーって言うんだよね。好きな花だな」
「身体の方は?もう大丈夫?」
「うん、じっと寝てるのに我慢ならなくてね。さっさと退院してしまった」
「…良かった」
 ポツリと漏らしたため息のような若島津の呟きに、日向はチラリと鋭い視線を向けた。
「俺が、おまえのこと、綺麗さっぱり忘れてても?」
 いつの間にか、日向の顔から笑顔が消えている。
 鳥のさえずりが静かに空間に優しく響いていた。
「…日向さんが死んじゃったらどうしようって、それだけ思ってた。私は、日向さんが居なかったら多分生きてなかったから」
 さすがに日向は、少し突飛な若島津のこの言葉に、面食らったような顔をして、それからクックッと笑いはじめた。
「なんかすっげえ台詞。ドラマみたいだな」
「…うん、でも本当だよ」
 そう真顔で言う若島津の顔を見て、日向は笑いを引っ込めた。
「ご免、…お前のこと覚えてなくて」
 肩を竦めて日向はそう呟いた。
 記憶を無くしてしまってさえ、日向は優しい。
 そう思った時には、涙が溢れてしまっていた。ポロポロと涙の粒が膝の上にこぼれ落ちた。
「反町の言う通りだな。何か俺、すっごく悪いことしてる気分。ほら」
「…有難う」
 首にかけたスポーツタオルを日向から受け取って、若島津は涙を拭き取った。
「ご免なさい」
「お…宝が謝ることない」
 何度も深呼吸して、やっと若島津は涙を止めることに成功した。
「落ちついた?」
「…うん」
「…あー、もどかしいな。俺さ、やっぱお前のこと知ってる!こんな美人忘れる自分にも腹立つよ」
 半分は冗談のように、日向はそう言って若島津に微笑みかけた。
「…大丈夫だから。日向さんが私のこと忘れても、私はちゃんと日向さんのこと覚えてるから。これからもずっと側に居るから」
 祈るように手を組み、若島津は自分の足元を見つめた。
「焦らなくて大丈夫だよ、日向さん」
 そう言った途端、若島津は日向に抱きすくめられていた。びっくりして若島津は一瞬身体を強張らせたけれど、すぐに身体の力を抜いた。
「……キスして良い?」
 若島津の耳元に、そっと日向は呟いて、五センチほど顔を離した。真近にある日向の、いつになく真剣な目の色に若島津は黙って頷いた。
 まるで何度もそうしてきたように。
 羽根のように軽く、二人は口を触れ合わせた。
 ゆっくりと放して、お互いの顔を見つめ合う。
 こんなに近くで日向の顔を見たのは初めてのような気がした。日向はこんな顔をしていたのだ。
 いつの間にか太陽は傾き、川の水面はキラキラと淡いオレンジ色に輝いていた。
「…ご免、ちょっとの間で良いから肩抱いたままで良いか?」
「うん」
「何か、安心した。この五日間、実はもう苛々して落ちこんで、もどかしくて混乱して…。そして何も覚えてないってことで不安だったし寂しくもあって…。何でこんなことになったのかなって、ちょっと怒ってたし焦ってた。…何かすごく大切なkとおを思い出せない悔しさって分かるかな。今さ、思ったんだけど忘れたくない大切なことっておまえのことだったのかな。……俺も大概調子良いね。前からそうだった?」
 最後の方はちゃかして、軽く微笑まれて、若島津はカッと頬に血が上るのを感じた。
「…う、ん。日向さんは長男だったからね。ウチの母親にも受け良かったよ。口上手くってね」
 前々から日向にはタラシの素質があると思っていた若島津は、結局小さく吹き出してしまった。こんな風に笑ったのが、随分久しぶりに思える。
 自分だけが苦しんでいたのではない。記憶を無くしてしまった日向の方が遥かに苦しかったはずだ。今はもう、日向の願うことならどんなことでも叶えてあげたいと思う自分が居る。
「日向さん?…好きだよ」
 若島津はさらりとその言葉を口にした。ほんの一週間ほど前に、日向から貰った同じ言葉だった。


 母親に何と言い訳しよう。
 ぼんやりと目がさめて、まず若島津はそう思った。傍らで子供のように眠りを貪っている日向が身じろぎした。安心しきった顔だ。幾分それは幼く見える。かろうじて真近で顔を判別できるほどに光量を絞ったベッドライトをたよりに、若島津は日向の顔が良く見えるように身体を横にした。
 蛍光塗料の文字盤は十一時を指している。もしこのままここに泊まるつもりなら一旦家に電話を入れておいた方が良いだろう。
 それにしても幸せそうな寝顔だ。満腹して、満足したって顔してる。
 まあ、こんな顔をしてくれたのなら、一肌脱いだかいもあったものだ。
 そんなミもフタもないようなことを考えながら、若島津はそっとベッドサイドの受話器を取った。ゼロ発信で家の番号を押す。
 三回目のコールで、母親が出た。
「もしもし、お母さん?宝ですけど」
「宝ちゃん、どうしたの。こんなに遅く。今何処から?」
「…えっと、横浜なんだけど、もう終電に間に合わないようだから、今日は…こっちに泊まります。明日学校休みだし」
「…横浜って。……わかったわ。明日は気をつけて帰って来なさいね」
 こう言う時の女親の勘というものは、全く鋭い。割合にあっさりと引き下がった母親にほっとしながら若島津は受話器を置こうとした。 「じゃ、おやすみなさい」
「日向くんに宜しくね」
 やっぱり横浜という地名を出したのが致命傷だったか。しっかりバレてしまっている。チン、と受話器を戻して寝床にもぐり込むと、しっかり寝こけている日向からグイと抱きすくめられてしまった。
「……っ」
 当たり前だが二人とも何も身に着けてはいない。こんな風にぴたりと身体を寄せると、触れ合う肌からじかにお互いの鼓動が感じ取れる。何だか非常に照れ臭いような気にもなったが、日向の意識が全くないことが、今の若島津には救いだった。
 けっこう気持ち良いかも。
 頬を日向の胸にぴったりとくっつけて、身体ごと日向の手の中に抱き込まれて。
 何だか幸せな気分で、若島津は眠くなてしまった。こんな風にくっついてしまう前は、何だかちょっと悲壮な覚悟とかしていたけれど。
 いざ触れ合ってみると、思ったほどキツクはなかったし、日向は性急にならず気を使ってくれているようだた。
 記憶が無くなっても、こんな風な気遣いは変わらない。
 優しい日向。
 人を好きになる幸福な豊かさを、若島津は噛み締めながら眠りについた。


 結局あれから日向は若島津は放そうとはしなかったのだ。日向は若島津をベンチに残し、一人大慌てで寮に戻ると着替えて若島津を迎えに行った。折角横浜まで見舞いに来てくれたのだから晩飯は奢らせてくれと押し切ったのだ。相変わらず押しの強さに引きずられて中華街で夕食を取って、もう帰るからと若島津が日向に告げた時。
 日向の泣きそうな瞳に若島津は捕まってしまった。
 あんな瞳をして、
「離れたくない」
 なんて言われて。今の若島津が、今の日向を放っておけるはずもなかったのだ。
 なしくずしに口説かれたと言えないことはなかった。恐らく日向は本能的に今の若島津になら、何を言っても聞き入れて貰えることを嗅ぎ取ったのかもしれない。自分にとって今何が必要か、それを良く日向は理解していたのだ。
 惜しむことのない真っ直ぐな愛情。
 それが必要だった。
 記憶を無くしたことによって、この五日間蓄積されたストレスからやっと今日解放されたのだ。
ー焦らなくても大丈夫だよ、日向さんー
 そう言って微笑んだ、自分を見舞いに来てくれた彼女を見たときに、心の中のわだかまりやストレスが霧散していくのを感じた。
 彼女が必要なのだと、もう次の瞬間には分かってしまった。
 もう大丈夫。
 蓮尾宝の身体を無意識のうちに腕に納めて、日向は記憶を無くして以来、初めて安眠を貪っていた。
 翌朝目覚めた時に、何が待っているのか不安を感じることもなく。


 これは、どういうことだろう。
 目がさめると自分の腕の中に、宝が、いや若島津が眠っている。
「……ん…」
 ちょっと待て。すごーく美味しいシチュエーションということは分かるが、どうして自分はこんな場所でこんな格好で、しかも腕には若島津を抱いて寝ていたのだ。
 パニックして記憶を上手く辿れない日向は、腕の中で小さく身じろぎした若島津の感触に頭の中が真っ白になる。
 硬直して目をパチパチさせている日向は、グラグラと揺れる心と身体を持て余してしまった。
 この状態って、もしかすると拷問かもしれない。
 抱いている宝の身体は、想像していた通り白くて柔らかで。
 髪が流れて、耳からうなじの辺りが、薄いレースのカーテン越しに漏れる朝の陽光にまぶしくさらされている。
 じかに接している肌から健やかな鼓動が伝わってくる。
 一瞬若島津を叩き起こしたい衝動に駆られた日向は、しかし結局穏やかな寝顔を見て、それが出来なかった。
 眠っている顔は可愛らしい。こんな安心しきった顔で眠っている若島津が愛しいと思った。
 けど、これはどういうことだろう。
 恐ろしいことに昨晩のことを全く自分は覚えてはいない。それどころがここが何処なのか、何故二人でいるのかさえ。
 確か、確か、「昨日」若島津に告白したばかりである。若島津は混乱して、それからやっぱり怒って、あのまま日向は寮に退散したのだ。
 それから、それから。
 今日は何日だろう。
 すっかり混乱した日向は、手の中の若島津の存在のおかげでなおさら思考がまとまらない。
 あー、もうどうしてこう身体ってのは正直なんだろう。
 若島津を胸に抱いて、しかも二人ともヌードなわけで。若島津の目が覚めたなら、今の日向の状態は一発でチョンバレである。
 日向が一人でそうこうしている内に、腕の中の若島津がまた身体を動かした。二、三度瞬きを繰り返して、ゆっくりと目を開く。ぼんやりとした視線はすぐに日向を捕らえた。
「…おはよう、日向さん」
 小さくあくびをして、若島津はもぞもぞとまた日向の胸の中に顔を埋めようとした。半分まだ寝ぼけているのだ。
「…ちょっと待った!」
「………ん、…何?」
 顔だけ上げて、若島津は目を閉じている。昔から若島津は寝起きが悪かった。
「起きろ、おい、若島津っ」
「…………え」
 若島津の意識が、ゆっくりと鮮明になる。
 今、日向は自分のことを何と呼んだだろうか。
「……日向さん、何て?」
「……す、すまん。…何でここに居るのか、記憶に無いんだか。説明してくれ」
 日向は困惑を顔に貼りつけて、どうして良いのか分からないように口をへの字に曲げている。それは若島津が良く知っている日向の表情だった。
「ひゅ、日向さん、俺の名前は?」
 思わず若島津は勢い良く身体を起こした。
 自然、何も着けていない上半身があらわになる。
「…すまんが身体、隠してから説明してくれ」
 もろに視線に宝の、真白い胸や肩が入ってきて、日向は赤くなって目を伏せた。
「…あ、…ご免」
 慌てて若島津は今までかぶっていたシーツで胸元を隠した。
「あ、だから俺の名前、言ってみて」
「…何言ってんだ。蓮尾宝だろう」
 日向の方も身体を起こして、隣を向く形で答える。
「そっちじゃなくて」
「若島津だろう、それがどうした」
 そう、日向が答えた瞬間、若島津はなんとも言えないような表情を浮かべた。
「良かった…っ。記憶が戻ったんだよ、日向さん。日向さんは六日前の月曜日の、朝のロードワーク中に女の子庇って交通事故に巻き込まれたんだよ。…覚えてる?」
「…ロードワーク中って…ああっ」
 ようやく煙に包まれたような記憶の中から、あの日の朝の記憶が蘇ってくる。
「女の子は無事で、日向さんも奇跡的に外傷はなかったんだけど脳震盪を起こしてて、記憶喪失になってた。病室に見舞いに行った俺に向かって、お前誰だ?なんて言ったんだよ」
 泣き笑いのような顔で、言葉は非難しているけれど、若島津はあきらかに喜んでいた。
 何だか、若島津のほっとした様子に、非常に心配をかけてしまったような気はするのだが。
「………ご免な」
 考えるようり先に、言葉が出てきた。恐らく記憶を無くしていた自分よりも、若島津は孤独だったはずだ。
 けれど若島津は太陽のような笑顔で、小さく首を振った。
「…で?」
「何?」
「何で俺たち、裸で一つベッドに寝てるワケ?」
 今度は若島津の方が赤くなる番だった。


「いらっしゃい」
 日向が開け放しにしているガレージに車を入れると、その音を聞きつけた若島津が玄関から出てきた。
 淡い透かし模様の入った黄色いAラインのワンピースに、ショート丈のレースのカーディガンを羽織っている宝は、春の季節そのもの笑顔で日向を迎えた。
「おう、はい、お土産」
 対する日向は、いつになく緊張した面持ちで車から降りると、助手席に置いてあった春めいた色の花束を若島津に渡した。
「…有難う。日向さんが花持ってくるなんて珍しいね」
「そりゃ、今日くらいは俺だって気を使う」
 明るいグレーのスーツにネクタイという、かしこまった格好でやっと日向は微笑んだ。
「そう?」
「そう。俺はお前ん家のお袋さんは得意だが、親父さんは苦手なんだ」
「そっか、一人娘だもんね」
「ま、頑張るから」
 この笑顔を手に入れるためだ。
 日向は一つ、深呼吸して蓮尾家の玄関を開いた。

 


 
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コメント:
お疲れ様でした〜。最後まで読んで下さった方、掲示板に感想を書いてくださった方々、人気投票に票を入れて下さった方々、それから この話を心良く掲載して下さった八重洲さま、どうも有難うございました(TT)
ど、どうも長モノ書きですみません(TT)トランスネタは、もう、大大大好きで、それを大好きな若島でやったら…という思いつきでこの話を書きました。日向さんが若島を好きになるのは……ワタシがコジケンなので、仕方ないんです。安易でも安直でもカンベンして下さい(TT)コジケン以外の方が、果たしてコレ読んで面白かっちゃろか??とか思っていたのですが、管理人さんの優しいお言葉に甘えてとうとう書き倒してしまいました。少しでも、楽しんでいただけたら幸いです。若狭しゆこ。

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