オニキス5


 日向はどうしてしまったのだろう。
 若島津は自室のベッドの上に身体を丸くして横たわった。窓から見える太陽はさんさんと光を降り注いでいる。水色のカーテンを開いた部屋は電気を付けていなくても十分明るかった。
 昼下がりである。
 日向はどうかしてしまったのだろうか。
 淡いパステルブルーのカバーの掛かった羽布団は、今朝、母が干しておいてくれたお陰でふわふわと柔らかく心地良い。
 太陽の匂いがする。
 フレンチカントリーのシンプルな机の上に、ユニフォームを着た日向と二人で映っている写真が銀色のフォトフレームに納まっているのが目に入り、思わず若島津は寝返りを打った。
 あれは天皇杯の時の写真だ。冬の最中に、相変わらず真っ黒に日焼けしている日向の隣に、少しはにかんだ笑顔を浮かべている髪の長い少女。白いダッフルのコートと、やっぱり白いモヘアのマフラーが色の白い彼女に良く似合っている。


 少女の名は、蓮尾宝(はすおたから)という。


 六年前に、十六歳だった若島津健は、悪性の腫瘍、つまりはガンで命を落とした。ところが若島津の意識は、丁度同じ病院で脳死状態であった少女の身体に入りこんでしまった。
 それを知っているのは、若島津の幼馴染だった日向だけである。幼馴染で、ずっと若島津の味方だった日向の存在が、強烈な未練となって、奇跡を起こしたのだと若島津は思っていた。
 その日向が何故、あんな訳のわからないことを言うのだろう。
(どうやら俺はお前が好きらしい。普通に親友としてではなくて)
(好きだ)
 先ほど耳元で囁かれた日向の言葉を思い出して、和歌島津は眉を潜め瞳を閉じる。
 何も考えたくなくて、瞳を閉じた。


 蓮尾宝は、ほっそりときゃしゃでいて、女性らしい柔らかなフレイバーを散りばめた、いかにも守ってあげたくなるような容姿を持っている。肩までの茶色がかったサラサラのストレートと、小造りの頭に少しおとなし気な顔立ちは、まずまずの美人と言って良かった。いわゆるコンパクト・グラマーというプロポーションで、メリハリの効いた優しい身体つきをしている。
 女性としては、かなり理想的な要素を彼女は持っている。
 だから若島津は、蓮尾宝が異性から好かれ易いことを良く理解していたし、今まで上手く対処してきたとも思っていた。
 今日、日向があんなことを言い出すまで。
 日向のことは大好きだ。今この世界中で、一番大切だとさえ言っても良いかも。
 けれどその意味合いは、若島津にとって家族の延長線上にしかないものだった。
 亡くなった母親と同じように、日向は決して自分を裏切ったりしないと、そう思っていた。
 それが今、音をたてて崩れそうになっている。
 お互いにもう社会人になってしまった。
 日向の言う「好き」と言う言葉の意味が若島津に分からないはずはない。
 けれど理解しろと言われても、今の若島津には無理な話しだった。
 日向が何を考えているのか分からない。
 こんなことは初めてだった。
 日向はいつだって優しかった。いつだって誰よりも自分のことを理解してくれていた。母が亡くなって以来、誰よりも自分の近くにいてくれていたのに。
ーコンコンー
 控えめなノックの音に、若島津はビクンと身じろぎした。
「…宝ー、入っても良いか」
「………」
 日向が若島津のことを、二人きりの時でも「宝」と呼ぶようになって久しい。だけど何故だか今はそれが辛い。
 日向が、自分ではなくて誰か別の人間を呼んでいるような気がしたからだ。
 結局日向は、返事をしない若島津を諦めたのか、無理に部屋へ入ってこようとはしなかった。今の若島津に何を話しても無駄だと判断したのかもしれない。
「…今日はもう退場するよ。また連絡するから」
 ドアの向こうから日向の声が、今はとても遠くに感じる。若島津はベッドで丸くなったまま、深いため息をついた。


 日向小次郎は歩いていた。ずんずんと歩きながら、自分の心が弾んでいるのを感じていた。胸の中の若島津への気持ちがクリアになったのが分かった。
 もうずっと、若島津は大切な家族なのだと思っていた。若島津が器を蓮尾宝に変えてからも、それは変わらないと思っていた。
 だが自分の中の、若島津への独占欲に、今日初めて明確な意味を日向は見つけたのだ。
 若島津が、自分以外の誰かの手を取るなんて考えられなかった。そんなこと、許せない。
 けれどまあ、許せないとはねえ。
 薄々感づいてはいたけれど、自分の若島津に対する感情が、これほど自分勝手で傍若無人なものだたことに、日向は肩をすくめるしかない。
 そういうことに関して、何か他人事のように思っていたのに。
 泣きそうな顔で、自分を睨み付けていた若島津の心のひだが、日向には手に取るように理解出来た。
 今ごろは恨まれてしまっているのかもしれない。急に訳わかんないこと言いやがって、とかね。
 この独占欲の持つ名前の意味を、若島津は理解ってくれるだろうか。
 愛してる。
 多少、気恥ずかしもあるそのシンプルな言葉が、日向の頭の中をグルグルと回っている。
「…日向さん?今日オフだろ、どうしたの」
 横浜の寮に戻り、グラウンドに出て行こうとした日向を、同僚の反町が目ざとく見つけて声をかける。
「なんか、じっとしれられなくてな」
 機嫌よく走り出して行く日向の後姿を見て、反町は首をかしげたが日向は全く意に介さない。
 気分が高揚していた。昔から、日向があれだけ若島津の世話を焼いたのは、実はこういう意味があったからという訳ではないだろうけれど。
 好きだなあと思う。
 若島津の、ちょっと生真面目なところや、熱中すると周りが見えなくなってしまうところ。実は涙もろいところや、自分より弱い立場の者にひどく優しいところ。何より日向に対して、裏表なく絶対の信頼を寄せてくれていた。
 その信頼を、ひょっとしたら自分は裏切ってしまったのかもしれない。そのことで、若島津を傷つけたのかもしれない。
 恐らくは、道に迷った子供のような気持ちでいるかもしれない。少し可哀想かもと思う。出来れば、若島津にはいつも微笑んでいて欲しいから。
 けれどその気持ちと相反するところで、日向は若島津に自分の気持ちを理解して欲しいとも思っていた。
 今はもう、すっかり蓮尾宝の身体にも慣れてしまっている若島津に、触れてみたいという欲求がある。
 身体だけが欲しいわけではないけれど、若島津は理解してくれるだろうか。この、自分でさえ、今日まで意識することのなかった想いを。
 若島津に、自分の今の心の内を全てさらしたなら、きっと思いきり嫌な顔をされるだろう。
 そう思って日向はなんだか可笑しくなってしまった。
 始まったばかりの恋愛に、気がついたばかりの割には随分余裕があるようだ。
 自分でもどうしてこんなに大きく構えていられるのか、ちょっと不思議だった。あいるいは心のどこかで、もう自分は知っているのかもしれない。
 若島津が、最後には誰の手を取るかということを。
 その夜、某Jリーグチームの独身寮の食堂では、オフの日に笑いながらグラウンドを走っている日向の目撃者が多数いて、いろんな話題が飛び交ったが(例、失恋の痛手のあまり哀しみを通り越して笑ってしまったとか)結局日向に面と向かってそれを尋ねるものはいなかった。


   翌日、事件は起こった。


「行ってきまーす」
 いつもの時間、いつものように若島津は家を出ようとしていた。玄関で靴を履いて、今にも立ち上がろうとした時に、背後で電話が鳴り響いた。
「はい、蓮尾でございます。…はい?宝ですか?」
 宝の母親の声に、若島津は一旦振りかえった。
 もうすぐバスの時間なのに、一体誰だろう。
「宝ちゃん、反町さんからお電話よ」
「…反町…くんから?珍しいな」
 母親が手渡すコードレスの子機を受け取る。 
「おはようございます」
「あ、宝ちゃん?俺、反町だけど」
「どうしたんです」
 いつにない反町の、少し取り乱した様子が受話器越しに伝わってくる。嫌な予感が若島津の頭をかすめた。
「…落ちついて聞いて。今朝、日向さんが交通事故にあった」
 瞬間、若島津はコードレスを取り落としそうになった。
 反町は今、何と言ったのだろう。
「…え、何て?」
「ロードワークの途中で、道に飛び出した子供を庇って車と接触したらしい。まだ容態は分からないけど救急病院に担ぎ込まれてる。今、病院からなんだけど」
「…すぐ行きます。何ていう病院ですか」
「えーと、よ、横浜市立救急病院。駅の側だから」
 反町の言葉を途中で聞くことを放棄して、若島津は蒼白な顔でコードレスを母親に渡した。
「どうしたの?」
「…日向さんが交通事故にあったって。…私、病院に行って来る。お母さん、学校に今日は休むて電話いれておいて」
「宝ちゃんっ」
 玄関を飛び出した若島津の後ろで母親が呼んでいるが、振りかえっている時間がなかった。
 通勤ラッシュの時間帯だ。タクシーを飛ばすより電車の方が確実だと若島津は判断した。最寄の駅まで必死で走る。こんなに必死に走ったのは、もう随分と久しぶりだった。
 日向が、事故にあった。
 反町の言葉が耳元に残っている。走りながら、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。ホームに滑り込んできた電車に飛び乗って、初めて若島津はポケットからハンカチを取り出して、盛大に自分の頬を濡らした涙を拭った。けれど涙はいくら拭っても、後から後から溢れて来る。電車は割と混んでいて、通勤中のサラリーマンや学生が、肩で息を切らし、ハンカチで目の辺りを押さえている若島津をみて、息を飲むのが分かった。
 けれど若島津にはそんなことは全く気にならなかった。
 神さま。
 ようやく座ることの出来るようになった電車のシートに、倒れるように腰を下ろし、若島津は祈るように両手を組んだ。
 神さま。
 実際に若島津は祈っていたのかもしれない。もしも日向に何かあったら。そんな考えを無理やり頭の中から追い出して、若島津は日向の無事を願っていた。


 駅からすぐの場所に病院はあった。玄関の自動ドアももどかしく足早に院内に入ると、受付でごった返している人々の中、若島津は何処に行けば良いのか迷い、視線をさまよわせた。
 気ばかりが焦っている。
「あ、宝ちゃん、こっち」
 聞き覚えのある声に、はっと振り返ると今朝家に電話をくれた反町が真顔で手を振って、ツカツカと若島津の方へやってきた。
「日向さん、大丈夫。命に別状はないって」
 それを聞いた途端、張り詰めていた神経の糸がふっと緩んだ。肩の力が抜けると同時に、足に力が入らなくなりふらついたところを、しっかりと反町が支える。
「大丈夫?」
「あ…はい。…大丈夫です。それより日向さんに会えますか?」
 安堵でまた、涙腺が緩んできそうになる。もう鼻の奥がツンとしてきた。
「うん、もうすぐ家族の方も来るって。ま、宝ちゃんは家族みたいなもんだから。こっち」
 二階の病室のそばのロビーには、日向のチームメイトや監督らが詰めていた。反町の後をついて行く若島津は、会釈してそこを通る。反町が病室を軽くノックしてドアを開くと、中にいた看護婦が点滴の針を抜いていた。
「すみません、家族の方が来られたですが」
 若島津は思い切って、ベッドの側まで近づいた。日向は頭に白い包帯を巻かれ、眠っていた。
「…あ、あの容態はどうなんでしょう?」
「今は眠っています。奇跡的に外傷は殆どありませんが、脳震盪を起こしてますから精密検査が必要です」
 看護婦の説明に、とりあえず若島津はほっと息をつく。
「……ん」
 その時、回りの気配に気がついたのか、日向のまぶたがピクピクと動いた。
「…日向さんっ」
 若島津の隣で日向の様子を見入っていた反町が思わず声を出した。
 その声に起こされたように、日向は二、三度まばたきをして、ゆっくりと目を開いた。
 看護婦がすぐに日向を覗きこむ。日向はぼんやりとした顔つきでここが何処だか分からない様子だった。首を回し、周りを確認する日向と目が合い、若島津は口の端を曲げて微笑した。
「日向さん、意識ははっきりしていますか」
 看護婦はゆっくりとした口調で日向に話しかけ、日向の脈を取り注意深いまなざしを向けた。
「日向さん、分かりますか」
 黙ったまま返事を返さない日向に、看護婦はもう一度優しく声を掛けた。
「………ここは?」
「病院ですよ。先生を呼んできますから、ちょっと待っていて下さいね」
 やっと口を開いた日向に、安心したように微笑むと、看護婦はキビキビと病室を出て行った。
「…日向さん、大丈夫?」
 枕元に近づいた若島津に、日向は何か釈然としない表情を見せた。
「………?」
「心配したよ、ロードワーク中に事故るなんてさ。宝ちゃんなんて学校休んでここまで駆け付けてくれたんだよ。よーくお礼言っておかなきゃバチ当るよ、日向さん?」
 日向は何も言わない。
 一度口を開こうとして、また閉じる。
「どうかした?」
 心配そうに若島津は日向を覗き込んだ。
「……お前、誰だ?」
 カタン、とその時若島津の中で何かが崩れた。
「…日向さん?」
「やだなあ、何ボケてんの。宝ちゃんだよ?まさか俺の事も忘れちゃったってこと言わないよね」
 眉をひそめて、日向はゆるく首を振った。
「……分かんねえな、俺一体どうしたんだ。自分のことさえ覚えてないなんてっ」
 苛立たし気に日向は吐き捨てる。
「…なっ、日向さん、何も覚えてないの?自分のことも、俺のことも宝ちゃんのことも忘れちゃったの?」
 叫び声に近い反町の声に、廊下に詰めよっていたチームメイトの間からざわめきが漏れる。
「どいて下さい」
 看護婦に呼ばれた医師が、丁度その時病室に入って来た。反町の声が聞こえてしまった様子で、すぐに若島津と反町は病室を出て行くように指示されてしまった。


「宝ちゃん、あんまり気を落とさないでね。日向さんのことだからきっとすぐにケロッとして何もかも思い出しちゃうよ」
 反町の慰めの言葉に、若島津は力無く頷いた。
 結局、その後すぐに埼玉の日向の家族が駆けつけ、一時間後に医者から聞き出した日向の症状は、やはり記憶喪失だということだった。
 頭以外にも検査が必要なので、二週間は入院しなければならないこと、記憶障害が一時的なものかもしれないことなどを医者は説明した。
 黙りこんでしまった若島津を放っておけずにいた反町が、車で若島津を家まで送った。
「何より死んだわけじゃないしさ、怪我だって奇跡的にないって看護婦さんも言ってたじゃない。大丈夫だよ」
 車から降りようとした若島津を力づけるように、反町は陽気に微笑んでみせた。
「…うん。…送ってくれてどうもありがとう」
 泣きそうな顔で、逆に無理やり微笑まれて。
 反町はなんだか胸が詰まってしまった。肩を落として家の中へ消えて行く宝の後姿は、それからしばらく反町の脳裏から離れなかった。


「ただいま」
 リビングに顔を出すと、母親がソファから立ち上がった。
「お帰りなさい。…日向くんは?どうだったの」
 あまりに若島津がうつろな顔をしているので母親は心配気な顔をして側にやってきた。
「…うん、今のところは奇跡的に外傷はないって。ただ脳震盪を起こしてね、意識は戻ったんだけど…記憶が無くなってた」
 そこまで言うと、喉の奥に熱い塊を飲みこんだように言葉が出なくなってしまった。
 日向が、自分のことを忘れてしまったのだ。理不尽だ。自分のことを知っていてくれるのは日向だけなのに。
 少なくとも、今は自分のことを理解してくれる人間はこの世に存在しないのだ。
 それがひどく寂しい。
 今まで、蓮尾宝に生まれ変わってからも、こんな孤独を味わったことはなかった。
「日向」がいなければ、自分がこうして今を生きている必要もないように思えた。日向が死ぬなと願ったから、蓮尾宝に生まれ変われたのだと、若島津は信じていた。
「日向」がいなければ。
「…宝ちゃん、大丈夫よ。日向くん亡くなってしまったわけではないでしょう。良かったじゃない。最悪の結果ではないわ」
 今の若島津にとっては、自分を覚えていない日向など居てもしょうがなかった。それは日向が居なくなってしまったことと同じだ。
「今日は学校休むから。…少し横になってくる」
 今は何も考えられなかった。二階に上がり、機械的に服を脱ぎ捨てベッドに潜り込む。胎児のように丸くなって、若島津は落ち付こうと深呼吸した。
 寂しい。悲しい。苦しい。
 反町も母親も同じことを言っていた。日向がなくなったわけではないと。
 ひょっとしたら今ごろはもう何もかもを思い出しているかもしれない。もしくは明日には。  

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