オニキス4


ー何て呼んだら良い?ー
 そう日向は若島津に尋ねた。驚く程の柔軟さで、日向は若島津の言葉を信じた。暗くなりかけた 空に気づいて、慌てて若島津が温室を出るまで、夢中で話し込んでしまった。
 別れ際にそう尋ねた日向に、若島津は二人の時は「若島津」で良いけど、そうじゃない時はそれじゃ まずいですね、と答えた。
 中身は若島津でも、もう若島津は存在しない。
ーすげぇ複雑だけど……お前は今、生きてられて嬉しいか?例え若島津健としてではなくても。もし そうなら多分、お前がどんな形にせよ生きてくれていて、俺は嬉しいと思うー
 日向がそう言った時に、若島津はほっとして泣きたくなってしまった。他の誰でもない、若島津健の 死をあれほど惜しんでくれた日向だったから、早く本当のことを話したかった。
 例え事実を受け入れてくれなくても。
 死の病さえも受け入れた若島津が、このチャンスを肯定しているのを、日向は聡く感じとっていたのだ。
 相変わらず、日向は優しかった。どんな時でも味方になってくれていた今まで通りに。
「ただいまー」
 バスに乗るのが五時過ぎだった為、家に戻ったのは六時を回ってしまっていた。
「お帰りなさい。今日は遅かったのねえ。すぐご飯よ」
 リビングに顔を出して、二階の自室に戻ると鞄を置いて、シェットランドセーターと赤いチェックの スカートに着替える。もう随分と慣れてしまったけれど、やはりスカートをはくにはすごく抵抗があった。
 冬である事も手伝って、ようするに寒いのだ。スースーするしね。
 けれどこの部屋のクロゼットにはジーンズはおろか、キュロットさえ皆無なのだ。アルバムを開くと 宝はパンツ系の服装をしていない。可愛らしい小花のプリントのワンピースやらフリルのついたスカートやらは沢山あるのだけれど。今度買物に行った時に、絶対ジーンズを手に入れようと誓う若島津だった。 
 若島津が階下に降りていくと、すでに夕飯は出来上がっていた。
「美味しそうだな。いただきます」
 嬉しそうに食事をしている宝を、これも嬉しそうに母親は眺め、それから母親の方も食事をはじめた。父親は仙台へ単身赴任であるので、食事はいつも二人きりである。父親は宝の退院の日に一度休みを取って戻ってきたが、それ以来会ってはいない。
「ね、宝ちゃん。今度の土曜日、久しぶりに二人で買物にいきましょうか。早く行かないと冬のバーゲンが終わっちゃうわ」
 土曜日って言ったらサッカー部の練習が沢山見れる日ではあったが、たまには母親のリクエストにも答えないと、一人娘としては立つ瀬がないよなあと若島津は考えた。
「うん、いいよ」
「それでに、日曜日は予定入ってる?」
 伺うような表情の母親を不思議に思いながら、若島津は小さく首を振った。
「…別に入ってないよ」
「千葉の叔母さんがね、どうしても宝ちゃんと食事をしたいっておっしゃるの。今日電話があってね」
「…良いけど、何でわざわざ千葉から出てくるの?」
「……それがね、あまり真剣に考えなくても良いんだけれど。…そうだわ、まだ確かめたことがなかったけど、宝ちゃんね、今お付き合いしている方はいないわよねえ」
「…うん」
 何か話しが見えない。
「誰か好きな方は?」
「お母さん?何か話しが見えないんだけど、どうして叔母さんと食事するのにそんなこときくの?」
「実はね、千葉の叔母さんとこの有三くんとね、顔合わせさせたいって」
「…なんで?」
「…お見合い」
「…誰と誰の?」
「ご免なさーい。千葉の叔母さん、押しが強いじゃない。お母さん断れなくて。宝ちゃんに彼氏でもいればそう言って断れるんだけど、お母さん嘘は下手だし」
 娘の不穏な表情に気がついて、母親は箸を置いて両手を合わせた。
 見合いって…。
 若島津は絶句して、それからどう対処して良いか、素早く考えた。
 これはとにかく何としても、回避しなければならない問題である。
「駄目、行かない」
「そんなこと言わないで。お母さん、助けると思って。会うだけでいいから」
 若島津は一つ、息を吸いこんだ。
「好きな人、いるの。今日お付き合いを申しこまれたから、お見合いなんて出来ない」
 今度は母親が驚く番だった。


「…それで?」
「すみません。勝手に日向さんの名前だしちゃったんだけど」
 翌日、昼休みの屋上である。
 いくら昼休みで天気が良いとは言え、一月の屋上に出てくる者はいない。風があり、かなり 寒いのだ。
「うん、仕方ないな」
「それでね、次の日曜に…連れて来いって」
「家にか?」
「うん。…多分ね、心配なんだと思う。見合いの話は本当に義理だったみたいで上手く断れたんだけど」
 ほとほと困り切ったという表情で若島津はため息をついた。
「一応さ、俺って一人娘でしょ。……なんかまだまだ先のことだけど、将来のこととか考えたら、ちょっと暗くなってしまったわけです」
 そう言って若島津は苦笑してみせた。
「わかった。とりあえずさ、今度の日曜だな。行くからさ」
「すみません、助かります」
「いいってことよ。他ならぬ若島津の頼みだしな」
 日向は、また若島津の力になれるのが、単純に嬉しかった。昨日一日は、確かにパニックしていたし どうしたら良いのか、はっきりとは分からなかったが、一晩考えた末に、今まで通りに振舞おうと決めたのだ。例え若島津が若島津の姿をしていなくても。
 蓮尾宝が若島津であるのは疑うべくもない。
 昨日の彼女の告白は、あまりに突飛過ぎるもので現実的ではなかった。しかし彼女の言うことが嘘でないことは、何故か日向には最初から分かっていたのだ。
 若島津のことなら、何だって分かっている。小さな癖から、好き嫌い、何を望んで、何を考えていたのかさえ。
 ずっと若島津を気にかけてきた。日向にとっても若島津は肉親のような、いや一度無くしたと思った時にかけがえの無い存在であったと気がついたのだ。
ーカタンッー
 その時、背後で何か物音がした。二人は同時に振り返る。一、二歩踏み出した若島津を、手で制して、日向はつかつかと屋上の入り口のドアに手をかけ、勢い良く引いた。
「覗きか、あんまり良い趣味とは言えないな」
 バツの悪そうな顔で、隣のクラスの反町と円が中腰で日向を見上げている。
「…円ちゃん?」
「いや、あの。…ご免。宝のこと心配でさ」
「そ、そうなんです」
 しどろもどろの二人に、若島津と日向は顔を見合わせ苦笑した。
 この風であるし、この距離である。恐らく会話の内容まで聞かれた訳ではないだろう。
「見られたんなら、別に隠すつもりはないけどな。反町、蓮尾が可愛いからって、手なんか出すなよ」
 しれっと日向はかまをかけてみた。
「…ホント!ちょっと、宝、良かったじゃない」
 円はすぐに宝の方へ走り、宝の肩を抱いて喜んでいる。
「…日向さんが、蓮尾ちゃんのこと気にしてるのは気がついてたけど、へえー。ああ、良かったですね。俺はもちろん祝福しますよ。先越されたのはちょっと悔しいけど。いや、食堂で日向さんが女の子と歩いているのを見かけて、取るものも取り合えず追いかけてきたんです。そしたらもう先客がいて」
 若島津は日向の言葉に面食らった顔をしたが、すぐその話に会わせることにした。なるほど、二人が付き合っていることにすれば、こうやってこそこそ隠れて会う必要もない。
「あ、もうすぐ昼休み終わっちゃうよ」
 宝の声を合図に、四人は屋上から教室へ戻った。
 そしてその日のうちに、日向と宝は東邦で知らぬ者はいないカップルになっていたのだ。


 日向がバスのタラップを降りたときには、すでに若島津はバス停で日向を待っていた。
「よう」
「すみません」
 若島津は、いや蓮尾宝は、濃いブルーのフード付きのコートに明るいクリーム色の小花のプリントスカートという出で立ちである。
 可愛いなあと日向は思い、はっとする。外見は確かに可愛いが、中身は若島津である。
「…寒いな」
「そうですね」
 二人並んで歩くさまは、やはり若いカップルにしか見えてないのだろうなあと、日向は少し複雑な気分になった。
「…その、寒くないか」
「ああ、スカートでしょ。今日は長いの着たんですけどね。実はすごーく寒いんですよ。でもジーンズの一本もタンスに入ってないんですよね。…アルバムたよりにコーディネイトしてるんですけど、変ですか」
「いや、…良く似合ってる」
 日曜日の午前十一時。空はカラリと晴れている。
「一応、食事して、少ししたら家を出るって言ってますから」
「分かった。…折角だから久しぶりに町まで出るか?」
「ええ、いいですよ」
 バス停から歩いて十分ほどの住宅街で二人は足を止めた。
「ここです。どうぞ」
 若島津が先に玄関のドアを開き、日向を促した。
「ああ、…失礼します」
「お母さん、ただ今ー」
 玄関で若島津は声を張り上げた。すぐに母親が顔を出す。
「お帰りなさい。あらあら、どうぞお上がりになって。いつも宝がお世話になっております。今日は ご無理言って、ごめんなさいね」
「いいえ、初めまして。日向小次郎と言います」
 日向は落ちついて深々と頭を下げた。さすが社交辞令に慣れた長男である。相手が年上で初対面の場合、きちんと挨拶が出切るかどうかで随分と印象が変わるものだ。
 母親は、頭をきっちりと下げている日向を見て、おやという顔をした。
 それがすぐに笑顔に変わる。
「どうぞ、早くお上がり下さいな」
 日向が顔を上げて彼女と目を合わせたときに、二人とも一瞬変な顔をした。
「…どちらかでお会いしたかしらねえ」
「…そうですね。俺も今、そう考えてたんですけど」
 二人とも、顔見知りではない。けれど何処かで知っている顔だったのだ。
「お母さん、廊下は寒いでしょ。日向さんも早く部屋に入って来て下さい」
「…そうね。こちらにどうぞ」
 若島津に急かされて、三人はリビングへ入った。広めにとられた窓から、明るい日差しが射し込んでいる。南向きの暖かな部屋だった。広さで言うと、十二畳くらいのリビングは、窓の側に応接用のソファセットとTVセットが置かれ、丁度中央が食堂になっている。もう片方に台所がある。台所とリビングは、食器棚で間仕切りされているが、後はついたて等がなく、空間を生かすように低めの嗅ぐが配置されている。部屋は塵一つ落ちておらず、その家の女主人のきちんとした性格を表していた。
「もう少し、お昼の用意に時間がかかりそうだから、日向くんはあちらで休んでて下さいな」
「お母さんの料理はすごく美味しいんですよ。ちゃんとお腹、空かせてきました?」
 微笑みながら、若島津が紅茶とチョコレートボンボンを載せたトレーをソファの前のローテーブルに置いた。
「はい、どうぞ」
「すまん」
 若島津は、どちらかと言うとコーヒーは苦手で、寮の部屋には、金色のフォッションの大缶がいつも切らさずに置いてあり日向は良くそれをご馳走になったものだった。
 琥珀色の液体が、白いカップに勢いよく注がれる。銀色のティーストレーナーをめがけて、三十センチほど上から、器用に紅茶を注ぐ姿は確かに見覚えがあった。
 もうもうと湯気のたっているそれを、息を吹きかけて少しさます。
 一口飲んだ、熱い紅茶は少し緊張気味だった日向を落ちつかせてくれた。
 それは間違いなく、若島津の煎れた紅茶の味だった。一つ一つ。蓮尾宝から若島津自身がチラチラと顔を出している。
 それを発見することは、日向をほっと安心させた。
「美味いな」
 日向の言葉に若島津はニッコリと微笑んだ。
「…あ、ここのボンボンも美味しいんですよ」
「うん、サンキュ」
 日向が甘いものに目がないことを、若島津は知っている。
 三人がテーブルにつくと、和やかなムードで食事が始まった。
 黄緑色のホウレン草のクリームスープに、茹鳥とレタスのサラダ。メインディッシュは蟹クリームコロッケ。
「わ、ご馳走ですね」
「お口に合うと良いけど。
「いただきます」
 料理は文句なく美味しかった。三人とも食事中はそう多くを口にしなかったが、誰もが満足している空気があった。
「大変美味しかったです」
 デザートの苺のムースを食べ終えた後に、満足したように日向は礼を言った。
「そう言って貰えると、嬉しいわ……ああっ!」
 急に大声を出した母親に、二人ともびっくりと顔を向けた。
「…どうしたの?」
「病院よ!…あら、大声出してごめんなさい。日向くんとは病院で会ってたのよ。宝が入院してた病院で、何度か見かけていたの。一度、鋏を貸したことがあったの。ダイアモンドリリーが綺麗だったのを覚えているわ。何度もお見舞いに来てるって看護婦さんたちから聞いたことがあったのよ」
 ダイアモンドリリーという、懐かしい花の名前を聞いて日向も合点がいったという風に大きく頷いた。
「ああ、そうですね。何処かでお会いしたなって思ってたんですけど。病院で何度かお会いしてたんですね。あの時はどうも有難うございました」
「お友達はどう?もう退院されたの?」
 胸のつかえが取れて、嬉しそうな顔で母親は尋ねた。
「…い、いえ。…去年の秋に…、亡くなりました」
「まあ、…ごめんなさい」
 笑顔を消した母親に、日向は小さく首を振った。
「幼馴染で、本人も不治の病だってことはしってましたし納得して静かに息を引き取りました。…残念だったですけどね」
「そうだったの。…でも偶然ね。宝も同じ病院に入院してたなんて」
 若島津は思わず神妙な顔をしてしまった。日向は若島津の顔を見て、安心させるように微笑んだ。
「そうですね。でも宝さんが東邦に転校してくれたのは、俺にとっては嬉しい偶然でした。こんな風に言うと、すごくわざとらしいですけど。これからも時々遊びに来ても良いですか」
「…ええっ。家は子供は宝一人だけでしょ。私も息子が出来たみたいで嬉しいわ。また是非遊びに来て頂戴ね」
 どうやら日向は合格点を貰えたらしい。
 若島津は、こうまで日向が上手くやるとは思ってはいなかった。なんとも口が上手い。案外とマダム キラーの素質があるのかもしれないなあと、内心苦笑してしまった。


 それからしばらくして、二人は家を出た。
 外に出た途端、若島津は噛み殺していた笑いを解放させた。
「なんだよ」
「いや、日向さんって役者だなって思って」
「役者はそっちが上だろう」
「ええ、まあそうなんですけどね。…新しく母親が出切るって良いものですよね。俺は彼女が好きなんです」
「…そうだな」
 日向は、若島津は十歳の時に母親を亡くして、どんなに悲しんだか一番近くに居たから良く知っているのだ。
「またお袋が出来て良かったな」
「ええ、せいぜい良い子にならなくちゃって思ってます」
 若島津の顔から、笑顔が消えた。立ち止まった若島津に、日向が振り向く。
「日向さん、俺はね。例えこれからずっと蓮尾宝として生きていかなくちゃいけないとしても、今こんな風にあなたと話せることが嬉しい。例え嘘をついてても、あの人をお母さんって呼べることが嬉しいんです」
「うん、だったら絶対に気づかれるな。…嘘をつきとおせよ。俺はちゃんと知ってるから。若島津が生きてるって。俺一人が知ってれば、十分だろう」
 だから俺には甘えて良い。
 そう日向の深い瞳は語っていた。
「…うん。日向さんが知ってるなら十分」
 有難うと言葉いはしない。けれど日向になら十分に伝わっているはずだ。
「で、どうする。折角だから映画でも見るか」
「…良いですよ。でもこれじゃ本当にデートですねえ」
「だって俺たち、恋人同士だろう」
 小さく笑って日向は歩きだした。
「まあ、そうなりますね」
 確かに傍から見れば、彼らは微笑ましい年若いカップルにしか見えたい。他のカップルのように手を繋ぐとか、腕を組むことはなかったけれど。
 日向とまた昔みたいに同じ時が刻める事実が嬉しい。同じ場所に立つことはかなわなくても、もう十分だと若島津は思った。
「また、一緒に遊びに行こうな」
 帰り際の、日向の言葉は、それからもずっと続くことになる。


        ー六年後、東京ー


 日向小次郎と、若島津健、いや蓮尾宝は二十二歳になっていた。あれから再び若島津の時間が動きだしてから六年がたっていた。二人とも大学はエスカレーター式でそのまま上に上がり、無事に四年間の大学生活に終止符を打った。
 日向は大学卒業後、Jリーグのチームに入団し、好成績を収めている。一方、若島津は大学卒業後に東邦の図書館に司書として就職することが出来た。
 二人の関係は、まだ六年前と何ら変わりはなかった。


「蓮尾さん、お客さまよ」
 背の高い脚立に座って、書庫の整理をしていた若島津に、同僚の女性が声をかけた。
「あ、すみません」
「もうお昼の時間だから、出て行っていいわよ」
 先輩の有り難い言葉に礼を言って、若島津は書庫から図書館のカウンターのところで早足で歩いた。
 すぐに目当ての人物を発見する。相手もこちらに気がついて、軽く手を振った。
「日向さん、もう帰ったんですか」
「うん、ちょっと挨拶に寄ったからさ。昼飯でも一緒にと思って。出れるか」
「ええ、丁度昼休みです。ここの学食で良いですか」
「ああ、懐かしいな」
 二人で並んで歩き出すと、一成に図書室に居る者の視線が二人を追って移動するが、昨年まで二人はこのキャンパスの学生だったのだ。
 いい加減にこの現象にも慣れっこになっていた。
「何かここを二人で歩いていると、まだ学生みたいだね」
「そうだな」
「イタリアでのキャンプはどうだった?」
「面白かったぞ。報道はちょっとうるさかったけどな。随分勉強にもなった。俺も一度はあんなところで揉まれてみたい気もしたけどな」 
 ちなみにオリンピックやユースの大会等で、日向小次郎の名前はかなり売れていた。昨年はセリエA からも契約の打診があったのだ。
「だからイタリアに行けばって言ったのに。やっぱり日本とはレベルが違うでしょ」
「まあな、あっちでもきっと面白かっただろうけどさ。俺は日本が良いんだ」
 いろんな条件がからみあって、結局日向は今のチームを選んだ。けれどその第一条件は、若島津の側から離れない、となっていたことに最近ようなく日向は気がついた。
 憧れだったセリエAからの打診を、あんなにあっさりと断ってしまったのは、実は若島津を置いて、日本を離れたくなかったからだ。
 学食は、まだ十二時少し前で、割合に空いていた。
「おばちゃん、A定二つ」
「はい、A定二つね」
 オレンジ色のトレイを受け取り、二人はあまり目立たない隅の方に腰を下ろした。
「いただきます」
 手を合わせて、ほっと息をつく。
「やっぱり、日本人は白いご飯にお箸だよな。ここの学食さえ美味しく感じるぞ」
「ふふ、じゃ今度また家に遊びに来て下さい。母がまたご馳走したいって言ってましたから」
「そう言えば、ここんところ忙しくて、ロクに挨拶もしてなかったな」
 久しぶりの再会で、空気が弾んでいる。およそ一ヶ月ぶりの再会だった。
「ニュース見てたけど調子は良いみたいですね」
「まあな。折角試合に出してもらえるんだ。ベストコンディションに持っていくのは義務だろう」
 熱い緑茶を飲みながら、ほっと日向は息をついた。
「そうだ、これ」
 日向はポケットから銀色の細いリボンのかかった、水色の小さな箱を二つ取り出した。
「…お土産?」
「そう、大きい方は叔母さんに。いつも手料理ご馳走になっているからさ。小さい方は…お前にと思って」
 見覚えある箱である。手渡された箱には蓋の中央に銀色で社名が箔押しされている。
「…これってさあ」
「うん、叔母さんにだけっていうのも何か変だろ」
 確かにそうだ。蓮尾家では、日向は一人娘の馴染みのボーイフレンドである。日向の言葉は正論だった。小さい方の箱を眺めて、若島津は日向の顔をうかがった。
「有難うございます。…開けて見ても良いですか」
「ああ、もちろん」
 若島津は日向の言葉を待って、銀色のリボンに手をかけた。スルリとりボンがほどける。
 箱の蓋を開けると、箱の色と同じ水色のビロードを張ったケースが納まっていた。
 若島津は顔を上げ、困ったような表情で日向を見つめた。いいから開けて見ろよと日向が目で頷く。
「…あっ」
 プラチナの台に長方形の黒い石。その回りを小さなダイアモンドが取り巻いている。
「綺麗だろ。アンティーク風が最近の流行だって店員が言ってたんだ」
「ええ、まあ。…オニキス、ですね」
 手の中のきらめきをぼんやりと若島津は眺めている。
「そう、オニキスって言うんだってな。叔母さんの方はパールのブローチ。俺のお袋とお揃いのヤツ。店員に選んでもらったんだ。で、お前に何かって思ってたら、そこの店員がいろいろ説明してくれてさ」
「オニキスって、中世ヨーロッパで大流行した石なんですよね。…喪中でもつけて良い石だって」
「…うん。俺もその時初めて教えてもらった。なかなかシックだし、お前の趣味かなって思ったしさ」
 なんとなく若島津には、何故日向がこの石を選んだのかが理解出来た。
「有難うございます。大切にしますね。でも高かったんじゃないですか?」
 やっと微笑みを見せた若島津にほっとして、日向も笑みを漏らし首を振った。
「折角だからつけてみろよ」
 そっと指輪をつまんで、若島津は自分の右手の薬指にそれを付けた。
「よく指輪のサイズなんて知ってましたね」
 それは吸いつくように若島津の、蓮尾宝の指にぴったりだった。
「叔母さんが八号だって言ってたの覚えてたんだ。成人式の時に真珠のネックレスと指輪をプレゼントされただろう。ああ、やっぱり良く似合ってる」
 宝のほっそりと華奢な指に、細かい造りのオニキスの指輪は綺麗に映っていた。


「ただいまー」
 若島津が家に戻ったのは六時過ぎになっていた。食事を終えて、日向とは別れた。日向はそれからすぐに埼玉の実家に帰るといった。そのうちにまた顔を出すからと、最後に微笑んだ。
 相変わらずに日向は、若島津のたった一人の良き理解者で、かけがえのない親友だった。
「お帰りなさい。日向くんからさっき電話があったわよ。今度の土曜日に遊びに来ても良いかって」
「そう?じゃ後で電話しとこうかな。実家の方からだった?」
「ええ、親孝行しに帰ったって。もう帰ってたのね」
 夕食のテーブルに付く前に、若島津は今日日向から預かった、母のお土産を手渡した。
「はい、日向さんからお母さんにお土産だって。今日大学の方へ挨拶に来たついでに、図書館にも寄ってくれてね。頼まれたの」
「まあ、私に?」
「うん、いつも手料理ご馳走になってるからって」
「嬉しいわ。日向くんって本当に、何て言うか気のきく子よね」
 母親はすぐに包みを開いて、感嘆のため息を漏らした。
「ちょっと、宝、見て頂戴。なんて綺麗なの」
 流線を描くプラチナの台に、大粒のパールが七粒散りばめてある上品なブローチだった。
「綺麗。お母さん、良かったね」
「宝は?何をお土産に頂いたの?私にお土産を買ってきてくれるくらいなんだから、あなただって頂いたんでしょ」
「…うん、まあ。私には指輪だったよ」
「…ええっ指輪?まあ、まあ、どうしましょう。良かったわね。おめでとう」
 目を輝かせて、母は自分のことのように喜んでいるが、若島津には「おめでとう」という言葉が今一つ理解できなかった。
「…そりゃ、良かったけど、そのおめでとうって何?」
「何って、婚約指輪じゃないの?」
 無邪気な母の言葉に、若島津は一瞬頭が空白になった。
「婚約?…婚約って…。違う、早合点しないでよ。ほら、これお土産に貰ったの」
 そう言って、若島津は昼間、日向に貰った指輪の箱を開けて母に見せた。
「…これって、オニキス?そうね。確かにこの石を婚約指輪に使うってことは…ないわねえ」
「そう、ただのお土産だよ。お母さん、考えすぎ」
「考えすぎって、あなた。日向くんとはもう長いでしょ。そりゃあなたたちはまだ若いけど、結婚とかそんな話は出ないの?」
 結婚って。
 鳩が豆鉄砲を食らうってこういうことだろうか。若島津は呆然と真面目な顔の母親を見つめた。
「…結婚って…やだなあ。ま、まだ日向さんも私もそんなこと考えてないよ」
「そうなの?お母さんは日向くん、大好きだから賛成なんだけどな」
 賛成って何にだ。
 ふらふらする頭を押さえて、若島津はソファに腰を下ろした。
 母親はそんな一人娘を見て、こっそりため息をついた。まだまだ結婚なんて考えてないらしい娘を少し残念にも思う。
 日向は、母から見ても何の遜色もない理想的な宝の相手だ。何より誠実で実直そうな人柄が気に入っている。
 彼にならば、一人娘を差し出してもきっと後悔はしない。日向の真剣で優しい眼差しが、ずっと娘に向けられてきたことを彼女は良く知っていた。


 食事の後に、若島津は早々に二階の自室へと引きこんだ。
 今までなるべく考えることを伸ばしていた問題である。母は一人娘の幸福な結婚を願っている。
 けれど若島津は。
 誰か男性と付き合うなんて、耐えられなかった。高校時代から日向が居てくれたおかげで、他の者からちょっかいを出されることは少なかったが、それでもちょっかいを出す馬鹿は居る。
 当たり前だが、男に迫られても、若島津には気持ち悪いとしか思えなかった。かと言って、女性に恋するということもない。
 だいたいが、そういう方面に淡白で、ドロドロとした恋愛感情が若島津には良く分からない。恋愛感情のもつれで殺人が起きるなんて、全く信じられないタチなのだ。
 高校を卒業した張るに、日向の家に遊びに行ったことがあった。数年振りの故郷だった。若島津であった頃の自分をふっきれた訳ではなかったけれど、心の中ではもう血も心も繋がらなかった家族を許していた。幸せであることが、若島津に許す余裕を与えたのだ。
 隣を歩く日向が居なければ、こんなに穏やかな気持ちになれなかったのかもしれない。
 さて、それにしてもどうしよう。
 若島津はベッドにゴロンと寝転がって、日向から貰ったオニキスを眺めた。
 指輪という言葉の持つ、微妙なニュアンスに戸惑っている自分が居る。今は、蓮尾宝の母親の願いは何だって叶えてあげたい。だけど結婚は。
 自分一人で出来るものではないし、そんなこと考えたくもなかったのだ。まだ二十二歳という年齢を考えれば、先の話だと高をくくってはいられるけれど。
 いつか笑えなくなる時が来るかもしれない。
 その時、自分はどうするのだろう。
 ちゃんと、母を満足させることが出来るだろうか。


「どうした、何か元気ないな」
「そうですか」
 土曜日。母の手料理に満足して、日向は呑気に新聞などに目を通している。若島津はまた出そうになったため息を、慌てて噛み殺した。
「本当に私にまで有難うね。とっても嬉しいわ」
 食後の紅茶を、母がソファまで運んでくれる。
「いいえ、そんな風に喜んで貰えるなんて、買ってきたかいがありました」
「ほら、たからはちゃんとお礼を言ったの?」
 何か浮かない顔をしている娘に、彼女も気がついたようだった。
「ええ、もちろん」
「それじゃ、お母さんは今からお茶のお稽古に出るから、どうぞ日向くん、ゆっくりしていらしてね」
 一年ほど前から始めているお茶の稽古に、母が出て行く。彼女は一人娘を日向に任せることに、何の抵抗抵抗も感じてはいなかった。
「何かあったのか」
 二人きりになると、再度日向は若島津に尋ねた。若島津は苦笑して首を振る。
「別に何も問題はありませんよ。今の所はね」
「…今の所はって?」
 若島津は一瞬、この前の出来事を言おうか言うまいか迷ったが、真剣な表情の日向に、結局話してしまうことを決めた。
「オニキスの指輪を貰ったでしょ。お母さんに、指輪を見せずに先にただ、指輪を貰ったよって言ったらさ、誤解されたんです」
「なんて?」
「…婚約指輪をもらったって思ったらしいんです」
 流石にこの若島津の言葉に、日向も絶句した。
「おめでとうなんて言うんですよ。俺は何て言って良いか、本当に困りましたよ」
「…そう、だな。俺とお前は付き合ってることになってるからな。お袋さんがそう考えても不思議じゃないな」
「ちゃんと誤解だって言っておきましたけどね」
 肩を落として、若島津は答えた。
「今は、このままで良いんですけど、そのうち、お母さんが真剣に一人娘の結婚問題を言い出したら、どうしようかなーって思っちゃったんですよね」
「…そ、…そうだな」
 二人して無言になってしまい、若島津は真剣な面持ちの日向に低く笑った。
「まだ、先の話ですけどね。あ、日向さんが悩む必要はないんですよ。これは俺の問題なんですから。もうお互い、結婚なんて口にしても可笑しくない年になっちゃったんですね」
「…そうだな。…お前はさ、誰か好きな人とか居ないのか?」
「結婚したいような?」
 そう言って若島津は可笑しそうに微笑んだ。
「男と結婚したいなんて、考えたことないですよ。かと言って女の子に惚れる、なんてこともないですしね」
「そ、そうか」
 どうやら日向の方が真剣に悩んでしまったらしい。日向は変わらない誠実さで、ずっと自分に接してくれている。幼子が、自分の両親に絶対的な信頼を寄せているように、若島津も日向にそんな信頼を無意識のうちに持っていた。
 それが壊される日が来るなんて、考えたこともなかったのだ。
「…もしさ、俺がお前と結婚するとしたら、叔母さんはどういうかな」
「日向さん?何変なこと言ってるんですか。そりゃ諸手を上げて賛成してくれるとは思いますよ。日向さんはお母さんのお気に入りだから。でも俺と日向さんが結婚なんて無理な話でしょ」
 呆れたように若島津は微笑んだ。
 微笑む顔は愛らしい。
 その若島津の論理が分からない日向ではない。日向ではなかったのだが、先ほどの若島津の口ぶりで、日向はある危惧を抱いてしまった。
 若島津は一度母親を亡くしている。だから今の母親を大事に大切にしてきた。もし、蓮尾宝の母親が将来、一人娘の結婚を真に望んだなら。
 もしかすると若島津は母親のために結婚するくらい、厭わないかもしれない。
 けれど若島津が、誰か他の男と結婚するなんて。現に若島津は悩んでいる。若島津の一番近くに居たからこそ、日向は和歌島津がこういうときに何を考えているのか手に取るように分かるのだった。
 若島津がもし、母親の為に自分の好きでもない男と結婚すると言うのなら、間違いなく日向はそれを阻止するだろう。けれど、もし、それが母親のためなどではなく、若島津の意思であったなら。
 自分には止める権利なんてない。
 そう考えたときに。
 どうしようもない焦燥感が日向を包んだ。
 黙りこんでしまった日向に、若島津は心配そうな目を向けた。
「お前がさ、もし後何年か後に、母親のために結婚する気になったらさ、その時は俺に声かけろよ。俺がお前と結婚するから」
「…何言ってるんですか?」
「…うん、今気がついたが、俺はお前が誰か他のヤツと結婚するなんて許せないって思ったんだ。どうやら俺はお前が好きらしい。普通に、親友としてではなくって」
 たっぷり三十秒の沈黙の後、若島津は信じられないものでも見るように日向を見つめた。
「……日向さん、とにかく俺は今は誰とも結婚するつもりなんて無いです」
「そうか、良かった」
 にっこりと日向は微笑んだ。日向とて、告白してすぐどうなるとも思ってはいない。とりあえず、今若島津はフリーな状態であるのだ。
 だったら。
 後は攻撃あるのみである。
 若島津の方は混乱した頭で、機嫌の良さそうな日向を見つめた。何か日向がこんなことを言い出すなんて全く予想外だった。
 日向は自分が誰かと結婚するなんて許せないという。それくらいなら、自分が結婚するとまで。
 でも結婚って。結婚って。
 何だか若島津はだんだんと腹が立ってきた自分に気がついた。こっちは結構真剣に悩んでいたのに。
 急に理解できないことをさらりと言ってのけて、どういうつもりなのだろう。
「…良かったって、日向さん」
「どうした」
「どうしたって。熱でもあるんじゃないですか。どうして俺と日向さんが結婚しなければならないんですか」
「だから、俺がお前が誰か別の男と結婚するのが嫌だからだって言ってるだろう」
「…まあ、全く考えられないことではありますけど、それってかなり身勝手だと思うんですけど」
「人を好きになるって、一種そういうところがあるだろう」
「…誰が、誰を?」
「だから、さっきから言ってるだろう。俺がお前をだよ」
「日向さんが、これは分かります。誰をですか。蓮尾宝が好きなんですか。それとも蓮尾宝の格好をしている若島津健が好きなんですか」
 むっとしている若島津の言葉に、一瞬日向は考え込んでしまった。
 若島津の言うことはかなり複雑で、その答えと自分の気持ちも複雑だった。
「後者、だと思う。多分。そう怒るなよ。俺の言葉が足りなかったのは謝る。お前が若島津だから、好きなんだ」
「…じゃ、もし俺が十六の時、ガンで死ななかったら」
「お前さ、美人だよな」
 突然日向は若島津の手を取った。若島津は思わず逃げようと、逃げの体制を取った。
「蓮尾宝が美人で良かったなーって思う。俺ってどうやら面食いだったみたいだし。でもな、蓮尾宝はお前に似てきた。若島津に似てきた。俺は若島津の顔も身体も好きだったしな。だから嬉しい」
「…何訳の分からないこと言ってるんです?」
「俺も無茶言ってるなって思う。だけどはっきり言えるのは、俺は蓮尾宝を好きになったんじゃないってことだ。お前だからだ」
 そう言って、日向は若島津の、今は完全に自分の腕の中に納まる両肩を掴み、ぐいと引き寄せた。
 若島津は混乱したまま、目をパチパチしている。
 うそ。
 硬直している若島津に、内心少し罪悪感を感じながら、それでも日向はうでの中の、今ようやく気がついた大事な存在に、顔を寄せた。
ーパチーンッ!ー
 恐らく初めて。
 若島津は次の瞬間に、瞬間湯沸し器みたいに沸騰した頭で、日向の顔を平手で打ち、物も言わずにリビングを飛び出した。
 まだ恋の身勝手さなど若島津は知らなかったが、どうして腹が立つのか、心の何処かで不思議に思いながらバタンと自分の部屋のドアを閉じた。
 口づけされる一瞬前に「好きだ」そ囁かれた言葉は、若島津を人間不信に陥らせた。
 一方日向は。さすがに平手が飛んでくるとは思わずに油断していた。手の平の形がくっきりとついてしまった左頬に、左手を当てながら、前途多難なこれからを思い、苦笑していた。どうしたら若島津は自分の言葉を信じてくれるだろうか。この気持ちに偽りのないことを。
 道は険しい。けれど目標が消えてしまったわけではない。指をポキポキ鳴らしながら、日向は不敵な笑みを浮かべた。亡くしたと思ったことを考えるなら、今までぼんやりしていたことが嘘のようだった。
 愛している。
 その言葉をどうやって信じてもらおう。
 午後の日差しは柔らかで、日向はとりあえず紅茶の後片付けからはじめようと腰を上げた。      

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