オニキス3


 季節外れの転校生の名は、蓮尾宝(はすお たから)と言った。
 肩先までの色素の薄い、茶色っぽい髪を流したまま、頬づえをついて窓の外を眺めている転校生は、あっと言う間にクラスに溶け込んでしまった。一つは同じクラスに同性の従兄弟が
いて、上手く彼女をクラスに馴染ませたということもあったが、それ以上に可愛らしい容姿は、見る者の保護欲をかきたてる。
 守ってやりたい。
 蓮尾宝は、一見、そんな風に思わせる、儚さやもろさを連想させる少女だった。長期入院あけの、病あけであることを知らない者はいなかったし、彼女の華奢で色の白い身体は、今に も崩れ落ちそうに見えるときがあった。
 彼女は決して声を荒げることなく、穏やかでひっそりとしていたが、どんなに目立たなくしていても、不思議な輝きが内から溢れているのを隠すことは出来なかった。


 日向小次郎はぼんやりと斜め後ろの、蓮尾宝の横顔を眺めていた。
 花束など、割に貰い慣れていて、いつもは寮のおばちゃんに引き取って貰ったりするのだが、何故か日向はあの花束を、珍しく自分の部屋へ持って帰ってしまった。もちろん部屋に花 瓶なんてないので、洗面器に水を張ってラッピングもそのままに壁に立てかけている。
 その花の名前を日向は知らなかったが、白とグリーンと黄色という優しい寒色系の色合いとシンプルな形を気に入ってしまった。そんなに派手ではなく、どちらかと言うと、豪華ではあ るがおとなしい清楚な感じが今は居ない親友を思い出させた。
 二ヶ月前にガンで亡くなった日向の親友は、若島津健と言った。日向は、幼馴染で幼いころから薄倖だった若島津の力になりたいと、そればかりを思っていた。
 若島津は十歳の時に母親と死に別れ、血の繋がらない父親や義兄たちと上手く折り合いをつけることが出来ずに、中学からは日向を追いかける形で、埼玉から東京の東邦学園へ進 学した。高校に入った夏に、若島津が不治の病であることが分かり、その年の初秋に彼は静かに息を引き取った。
 早過ぎた親友の死は、日向の知らぬ間に、日向の胸に深い傷を作った。
 あの笑顔を亡くしたなんて、まだ信じられない。


 窓の外を見ていた転校生が何気なく振り返ると、今まで彼女をじっと見つめていた日向と、必然的に目が合ってしまった。彼女は最初、戸惑ったような顔をして、それからふんわりと微 笑んだ。その微笑は、女の子特有の、媚びや甘ったるさがみじんもなく、邪気のない、いたずらを見つかった子供のような微笑で。
 突然日向は胸をグイと掴まれたような懐かしさで息苦しくなり、慌てて視線を逸らしてしまった。
 やはり似ている。
 若島津と同じ。同じ種類の人間のように、彼女を取り巻く空気を日向は良く知っていた。
「宝、お弁当持ってきた?」
 昼休みになるとすぐに従兄弟の円が宝の机に寄ってきた。
「うん、お母さんがしっかりも持たせてくれた」
「いいな、叔母さん料理上手いもんね。食堂にお茶あるからさ、食堂で食べよう」
「円ちゃんは?お弁当?」
「今日は学食。早く行かないと良い席なくなるよ」
 良い席?あの食堂に良い席とか悪い席とかあったかなあと、かつてこの学校で過ごしたことのある若島津の意識は考えてみた。何はどうあれ、蓮尾宝にとって、この学校は未知の場 所であるのだ。おとなしく円の後について行った方が良い。
 それにしても、どうして女の子はこんなにつるむのが好きなんだろう。割とさばさばしている性格の円には助かるが、トイレくらい一人で行かせてくれと、内心若島津は食傷していた。
 きっと季節外れの転校生で物珍しいのだろうけれど。
 食堂に着き、どんどんと先へ歩いていく円の後を、若島津である蓮尾宝は不思議そうについて行き、目的地へ到着してくるりと満足気な顔で振りかえった従姉妹に、やっと納得した。
「ここよ。良い席でしょ」
 東邦の食堂は広い。増築と改築を重ねた結果として、丁度段々畑のような間取りになっており、円が宝を連れて来た場所は、窓際の中程の席だった。
「…なるほど」
 ランチを買って来ると円が席を離れると、若島津は密やかにそう漏らした。その場所はサッカー部員の指定席をすぐ下に眺めることが出来るのだった。食堂の通用門とサッカー部のクラ ブハウスが目と鼻の先なため、自然とサッカー部員はその通用門近くで食事を取ることが多くなり、いつしかその場所はサッカー部の指定席のようになってしまっていた。
 その指定席がここからは良く見渡せる。
 若島津は腰を下ろして、ざわざわとしだした食堂の中に懐かしい顔を捜す。
 もうあの場所には座れないけれど。
 上級生の後に、二年生や一年生が入って来る。若島津の目は、すぐに日向を見つけた。ランチのトレーを抱えて、隣のクラスの反町と一緒に席につく。幸いに日向はこちらに向かって 腰を下ろした。ここは上段になっているから日向の表情は良く見え、逆に日向の方からはなかなかこちらに気が付きにくいというラッキーな場所である。
 こんな場所があるなんて考えもつかなかった。
 同じクラスになったといっても、堂々と日向を見ることが出来なかったけれど、ここでならじっくりと観察することが出来る。
 サッカーをしている日向ならば、再会する前に競技場やテレビで見ることが出来たが、こうして普段の顔をゆっくりと見るなんて何ヶ月ぶりだろう。
 日向は、少し痩せたようだろうか。背は高くなったようだった。ちゃんと元気に生活していただろうか。
 自分が居なくても。
「たーかーら。そんな切なそうな目で誰見てんの」
 …ああ、俺のことか。
 頭上から聞こえてきた声に、一拍遅れて顔を上げると、円が人の悪そうな笑みを浮かべている。若島津はまだ「宝」と呼ばれることにしっくりこないのだ。
「…切なそうな目って」
「分かってるって。日向くんのこと見てたんでしょ。どう、ここなら良く見えるでしょ」
 ええ、すごーく。でもその切なそうな目って一体。
「日向くんってさー、確かに良い男よねー。でも去年くらいからあんまり笑わなくなったの。ま、男は影がある方が良いけどね」
 宝の前に座り、円はお茶を注いでいる。
「…前から比べると少し痩せたかな」
「ブラウン管と実物じゃ違うって。……まあ、多分痩せたんだろうけどさ。親友がね、去年の秋に病気で亡くなっちゃったの。それからかな、日向くん、無口になったの。……はい、お茶。 濃い方が好きだったよね」
「…有難う」
 亡くなった親友って、やっぱ俺のことだよなあ。
 なかなか複雑な気分で若島津は円から湯のみを受け取った。
 そしてお茶の色を見て、げんなりする。
 お茶は渋そうに濃い色をしていた。
 若島津はどちらかというと、お茶は薄い方が好きなのだ。
 これ、飲まないといけないだろうなあ。
 小さくため息をついて、若島津は可愛らしい小花のプリントのお弁当包みを開いた。
 おお、豪華。
 上段と下段に分かれた楕円形のお弁当箱をそろえると、自然と口もとに笑みが浮かぶ。宝の母親が丹精こめて作った弁当なのだ。
「相変わらず美味しそうねー。叔母さんの料理って、料亭顔負けだもんね」
 上段はオカズ。下段はエンドウ豆ご飯。オカズの彩りも鮮やかで、まずあなごの黄味寿司(茹で卵の黄味に酢と砂糖を少量混ぜたものの上にあなごを乗せたもの)、草小芋(里芋のお 煮付けに青海苔をまぶしたもの)、小海老の塩焼き銀杏添え、鯛の子うま煮、焼魚、ミンチカツと荒挽きウインナー。
ー今日は初日だからね。お弁当力作よ。頑張って来てねー
 今朝方、出がけに母親が言った言葉を思い出す。
「いただきます」
 若島津は神妙な気持ちで、お弁当に手を合わせた。
 母親の愛情は何のためらいもなく、真っ直ぐに降りてくる。時々居心地が悪くなるが、彼女を傷つけたくはない。十歳の頃に死に別れた母親が幸福でなかった分、彼女には幸せになっ て貰いたい。
 母親の手料理なんて、もう二度と食べられないと思っていた。多少の不自由はあるけれど、こうして今生きていられることに、やはり感謝したい。いや、別に若島津はそんなに食い意 地がはっている訳ではないけれどね。
「美味しい」
「あ、鯛の子、頂戴。ちょっとで良いから」
 円の必死な顔を見て、若島津は小さく笑うとお弁当箱を差し出した。
「はい、一個食べなよ」
「わーん、有難う。これ、好物なんだ」
 幸せのお裾分けである。もともと本当の自分への弁当ではないのだから、これくらいなら許されるだろう。円は美味しそうに食事をしている。やはり食事は一人で取るよりは、絶対に誰 かと一緒に取る方が美味しい。
 日向は。
 日向はちゃんと美味しく食事を取っているのだろうか。
 若島津は箸を止めて、円の肩越しに、日向の様子を見た。
 隣に座った反町が、何か日向に話しかけて、珍しく声をたてて日向が笑っている。
 良かった。
 同じ空気を吸いこめる位置で、日向の笑顔を見られるのだ。もう日向に逢えないと思っていた。その未練こそが、自分をここに還してくれたのだとしか考えられない。
 もし、自分が本当は蓮尾宝ではなくて「若島津健」だと知ったなら。日向はどうするだろう。信じてくれるだろうか。もし信じたとして、困惑するだけなのではないだろうか。
 少しでも、喜んでくれるだろうか。
 昨日の短い再会では、何も伝えられなかった。早く日向と話したいという気持ちに変わりはなかったが、どう説明して良いのか、若島津には分からない。素直に話して、果たして日向 はどう思うだろうか。
 実はそれが一番の気がかりで。
 若島津は箸を置いたまま、湯のみに手を伸ばした。ぼんやりとお茶を飲んで、思わず咳き込んでしまう。
 すっかり忘れていたが、お茶は果てしなく苦かったのである。
「宝ったら、大丈夫?」
「…っ、はー。だ、大丈夫」
 まだ小さく咳き込んでいる若島津に、宝は笑いを隠すことが出来ない。
 改めてお茶を飲んで、ほっと息をつくと、本当に何気なーく、下段の日向と目が合ってしまい、あれっと若島津は思った。これで今日は二度目である。目が合うってことは、日向もこちら あを見ていたと言うことで。
 日向は今度は目を逸らさずに、小さく笑みを浮かべている。どうやら今のをしっかりと目撃されていたらしい。
 何となくバツが悪くて、今度は若島津の方が先に視線を逸らしてしまった。
 転校生は珍しいからなのか、それとも、日向のタイプが「蓮尾宝」のような女の子なのか。
 後者だったらどうしようと、少し複雑な気分で若島津は箸を持ちなおした。


 六時間目の授業が終わると、あっと言う間に生徒たちは姿を消す。
「宝はどうする?前は帰宅部だったでしょ。一応、東邦は文武両道がモットーだから、何かしら部活動に入らなきゃいけないんだよね」
 そうだった。
「円ちゃんは?」
「私は剣道部よ。…でも宝には運動部は無理だわね。中学の時、体育2だったもんね」
 体育が2?
 確かにそう、良く動く身体ではないなあと思っていたけれど、それにしても体育が2。
 そんな人種も居るんだなあと、人ごとではないのだが、やはり人ごとのように感心する若島津は、自慢ではないが、今までずっと体育は10だった。
「今日はいろいろ見学してみる」
「…そう?じゃ帰りは一緒に帰ろう。6時30分のバスで帰れるから。良かったら最後にウチに見学に来なよ」
 若島津が頷くと、円は安心したように笑った。殆ど母親のようなノリで面倒を見てくれる従姉妹は、それからすぐに教室を後にした。
 若島津も鞄を持って、教室を出る。行く場所はもうとっくに決めていた。
 一年生の教室は四階にある。半年前、部活の為に駆け下りた階段を、今はゆっくりと降りる。あの時は1分でも1秒でも時間が惜しかった。早く練習に行きたかった。
   サッカー部専用の競技場のスタンドに入ると、もう数十名の見学者が双眼鏡やオペラグラスを片手にサッカー部の練習を見学していた。その殆どが女子生徒である。若島津はその集 団から少し離れた後方の位置に腰を下ろすと、懐かしそうに辺りを見まわした。
 短い笛の音に、若島津の意識が引き戻される。どうやら柔軟とパス練を終えた彼らは、今からミニゲームを始めるらしい。二年のレギュラーに、一年の選抜メンバーで対抗するらしかっ た。一年生で唯一、今年の冬の大会でレギュラーを通した日向は、一年のメンバーの中にいる。総合的には二年生に分がありそうだが、日向にはそれに対抗できるだけの能力があっ た。
 サッカーはなかなか点が入らない。いくら中盤を繋いでも、決定力がなければ固い守備の前に点は入りにくい。一年組は守備に力を入れさえすれば、あとは日向が点を取るだろう。
 若島津はそんな予想を立てた。それだけ日向の実力が今の高校生レベルではないということだ。日向のライバルである大空翼が中学の卒業を待たずにブラジルへと飛び立ってから、 事実上、日向のサッカーは技術的に孤立したのだった。誰も日向を追ってこれなかった。一番近くに居たいと願った自分さえも、日向にとってはチームメイトではあったが、それ以上には なりえなかった。
 日向は選ばれた人間だった。サッカーばかりではない。自然と人を思いやる心を持ち、何事にも肯定的で安定していた。
 本当は若島津は、日向のようになりたかったのだ。いつも手を引いてくれた優しい幼馴染み。
 突然、わっと歓声が上がった。日向が点を入れたのだ。オフサイドギリギリのパスを受け、ディフェンダー二人をあっさりと交わしての綺麗なお手本のようなシュートだった。
 知らず知らずのうちに若島津は両手をしっかりと握り締めていることに気がついて、苦笑する。ここでどんなに力を入れて、試合を見ていようと、自分はもうあそこには戻れないのだ。だ としたら、せめてゆっくり肩の力を抜いて試合そのものを楽しめば良いのに。
 どうしてもそれが出来ないのだ。
 日向の動きが素晴らしければ素晴らしいほど、あのシュートを止めてみたいと、一緒のグラウンドに立ちたいという欲求を、若島津はどうすることも出来ないでいた。
 どうしようもない。今、自分は若島津健であって、若島津健ではない。
 蓮尾宝という、運動が苦手な少女なのだ。
 少なくとも。
 こうして、日向と同じ空気が吸える。また日向のプレーを見ることが出来るのだ。あまり贅沢を言うとバチがあたる。
 確かに、これで十分。
 若島津はそう、自分に言い聞かせていた。
 試合は若島津の予想通り、一年生のチームが勝った。試合終了のホイッスルが、冷たい風の中に響いた。


「あー、やっぱりここに居た」
 ミニゲームが終わった後の練習風景を、懐かしさを噛み締めながら若島津が見入っているところに、制服姿の円が現れた。
「あ、もう部活終わったんだ」
 慌てて時計を見ると、もうあと5分ほどで六時半である。
「走らないとバスに間に合わないよ。ほら、早く」
 迎えに来た円に両手を合わせて謝ると、若島津は急いで円の後を追った。競技場からバス停まで全力疾走状態の円の後を追う若島津は、すぐに自分の息が切れ始めたことに驚いて しまった。案の定、バス停についたときには、足はガクガクでなかなか息が納まらない。
「ふー、間に合った」
 丁度バスが来たところだった。
 東邦の生徒たちのせいで、たちまち市バスはスクールバスと化す。やっと息を整えた若島津は、円の隣に座った。
「で、日向くん、カッコ良かった?」
 唐突に円から日向の名が出て、若島津はドキリと隣を向いた。
「何よ、ずーっと練習見てたんでしょ。あの寒いなか」
「……うん。カッコ良かった」
 そう言えば、そう。競技場の観客席はコンクリである。冷えないわけはないのだが、若島津は寒さなど感じる余裕がなかった。
 カッコ良い。
 確かにそうは思うけどさ。円の言う、カッコ良いとは少しニュアンスが違うかもしれないけれど、やはり日向のプレーはカッコ良い。見ていて、目が離せなくなるくらい。
 女の子なら、素直に口に出せる言葉を、若島津も口にして見る。多少意味が違ってもそう思う気持ちに嘘はなかった。


 結局、蓮尾宝は転校してから一週間がたっていたが、まだ部活を決めていなかった。若島津にとって、信じられないくらいにこの身体は思うように動いてくれない。とりあえず、身体馴 らしをかねて、毎朝ランニングを始めた。最初はすぐに息が上がり、筋肉痛で足も痛んだが、一週間もたつとようやく身体が慣れてきたようだった。
 まだ暗いうちからのランニングに、母親はあまり良い顔をしなかったが、身体馴らしだからというと、素直に頷いてくれた。基本的に、無茶を言わない限り、彼女は一人娘の意見を尊重 してくれいている。
「宝は事故にあってから、しっかりしてきたわね」
 そう言われてドキンとしたが、彼女は本当のことに気がついてはいない。長期の入院が一人娘を少し大人にしたという程度にしか感じてはいなかった。宝の性格は、ひょっとしたら若島 津のそれに酷似していたのかもしれない。
 誰かに、ちゃんと本当のことを話してみたいと若島津は思いはじめていた。
 とにかく日向には、ちゃんと話さないと、とは思っていたが、なかなかそういう機会もなく、転校して一週間がたっていたのだ。
 その日は土曜日で、朝から雪がちらついていた。
 放課後、まだ部活に入っていない若島津は、サッカー部の練習を見に行っても良いなと考えていたが、競技場の観客席の工事のため、観客席の入り口には仕切りが張ってあった。バ スの時間にはまだ大分あった。
 この時間なら。
 若島津は校庭の裏庭の方へと向かった。柵を乗り越えて、その先に行くと、今は使われていない温室がある。誰にも邪魔されずに時間を潰せる、若島津のお気に入りの場所だった。
 温室の中は、外よりはいくらかマシであったが寒いことに変わりはなかった。
 古い木製のベンチに毛布がかけてあるのを見つけて、若島津は微笑んだ。中等部の頃から、冬になると日向は寮の毛布を一枚くすねてここへ持って来たものだ。
 今でも日向はここに来るのだろう。
 前と変わらずに。
 若島津は鞄を枕に、ベンチに横になって毛布をかぶった。こうしているとそう寒くはない。
 まぶたを閉じると、懐かしくて、自分が蓮尾宝であることなど忘れてしまいそうになる。
 ここが大好きだった。
 日向の隣だと、すごく楽に呼吸が出来た。ずっとこのままだと良いと何度思っただろうか。
 目を閉じたまま、何時の間にか若島津は眠りに落ちていた。


 ひどく降り出した雪に、これ以上の外での練習は無理だと判断したサッカー部の監督は練習を早めに切り上げた。
 それにほっとしながら部員たちはクラブハウスへと向かう。風邪でもひいたらサッカーが出来なくなる。レギュラーの健康管理は徹底していた。
 そんな中で、日向はクラブハウスへは向かわずに、裏庭の方へ走って行った。
 温室は、日向にとって、気持ちを落ちつける場所になっていた。
 今は使われていないその場所は、中等部の頃から、若島津と良く一緒に過ごした場所だった。
 温室の扉を開け、奥に置いてあるベンチのところまで行こうとした日向の足が、一瞬止まった。
 まさか。
 誰かがベンチに横になっている。まるで去年までの若島津のように毛布を深くかぶって、丸くなって眠っているのだ。
 ドキドキと高鳴った胸を意識しながら、日向は眠っている誰かを起こしてしまわないように、ゆっくりとベンチへ近づいた。
 そこには。
 安らかな顔で、転校生が眠っていた。


 どうして。
 呆然と日向はそこに立ちつくしていた。
 どうして彼女がここに居るのだろう。確かに、彼女、蓮尾宝(はすお たから)に初めて会ったのはこの温室の中でだった。
 あれからずっと日向は考えていた。
 どうして宝はここに花束を持って来たのだろう。どうしてこの温室のことを知っていたのだろう。
 そして、どうして彼女は、二ヶ月前に亡くなった親友を連想させるのだろう。
 宝の周りにはいつも誰かがいて、二人きりで話せるチャンスをなかなか作れなかったが、日向は明らかに宝に興味を持っていた。話しかけたいと思っていた。
 けれど、何を。
 若島津のことをだ。どうして彼女に、もう亡くなってしまった親友のことを話したくなったのか、日向には分からない。
 今まで誰にも話したいとは思ったことがなかったのに。
 激しく降っていた雪は何時の間にか止んでいた。雲の隙間から太陽の光が漏れ、地上に幾状かの光の線が降りる。急に温室は明るく太陽の光を十分に取りこみ、気温さえも上がったようだった。
「……ん…」
 宝が寝返りを打った。
 日向の心臓が高鳴る。
 ゆっくりと宝は瞼を開き、その視線の先に写る日向を見て、ごく自然な笑顔を漏らした。
ー…おはよ、日向さんー
 日向は、聞こえるはずのない声が、確かに耳に届いたのを感じた。
「……あ…、」
 絶句してしまった日向に、蓮尾宝がはっとした表情を見せた。
「ひゅ…うが…さん」
 ゆっくりとベンチから身体を起こすと身体にかけていた毛布がずり落ちた。急激に冷たい空気にさらされて若島津はブルっと震えた。
「…蓮尾、…も、俺のこと、日向さんって呼ぶんだ」
 日向は強張っていた表情を戻して、足元に落ちた毛布を拾い、ホコリを払って宝の肩にかけてやった。
「すみません」
「…座ってもかまわない?」
 コックリと若島津は頷いた。
「あ、そうだ。まだロクにお礼も言ってなかったけど、このまえは花束を有難う」
「…いいえ。優勝おめでとうございました。夏のインハイよりも数段良いプレーでした」
「夏も見てくれてたんだ」
 日向の言葉に若島津は曖昧に微笑んだ。ゴールポストの前に立ち、日向のプレーを残さず、つぶさに見てきた。もうあの場所からは、日向のプレーは見ることが出来ない。
「…私…が、ここに居て、驚いたでしょ」
「…うん」
「日向さんとは、本当はもっと早く話しをしたいって思ってたんです。なかなか言い出せなくて、今日になってしまったけど」
「俺を、待ってたのか」
 そうかもしれない。ここで、日向が来るのを待っていたのかもしれかなかった。
「私が、半年間、入院してたのはご存知ですか」
「ああ、交通事故だったんだろ」
「入院していたのは、K大付属病院です」
 宝の言葉に、日向は目を見開いた。
「…若島津と、同じ病院?…若島津と知り合いだったのか」
 どう言ったら、日向は信じてくれるだろうか。
「私は、七月に事故にあって、ずっと意識のない状態だったそうです。三ヶ月後に、やっと意識が戻りました。私の意識が戻ったのは十月二十一日です」
 宝は何を言おうとしているのだろう。
 日向は魅入られたように、宝の横顔を見つめた。どこか遠くを見ているような宝の横顔を。
 K大付属病院。十月二十一日。
 もどかしい、何かが喉元までこみ上げているのに、それが何なのか日向にはわからなかった。
 ふいに、宝はそれまで足元を見ていた視線を、真っ直ぐに日向へ向けた。
「日向さん、わかりませんか?」
 真剣な顔で。
 じっと宝は日向を見つめた。
「俺が、わかりませんか?」
 繰り返し話す、宝の言葉に、日向は弾かれたように立ち上がった。
 ザワザワと日向のうぶ気が逆立った。宝は、祈るように両手を組み合わせて、日向を見ている。
 必死な顔で。
 先ほどからの違和感の理由がやっと日向に理解できた。
 癖だ。
 何か、考え事をしているときに、若島津は両手を組んで、じっと足元を睨み付けていた。
 丁度、先ほど宝がそうしていたように。宝は、今自分のことを何と呼んだのだろう。
 日向は信じられないものを見るような目で、宝を見つめた。
「…そんな、化け物でも見るような目で見ないで下さい」
 寂しそうな宝の声に、我に返る。
「…お前、誰だ」
「十月二十一日の朝に、気がついた時には、俺は”蓮尾宝”でした。蓮尾宝の身体に、俺の意識が入りこんでしまった、と言うのが正確なところですね」
 宝の口調は、もはや少女のそれではなかった。こういう話し方をする友人を、日向は良く知っている。
 でも、まさか。そんなことはありえない。
「…若島津、なのか」
 日向の口から、若島津の名が出たときに、彼女はうっすらと微笑んだ。
 その微笑は、病室でよく若島津が日向に見せていた、透明な柔らかい微笑みと同質のものだった。
 それから彼女はゆっくりと頷いたのだった。



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