オニキス2


 神様なんていない。
 若島津は、十歳の時に母親を亡くして以来、ずっとそう思ってきた。
 神様なんている訳はない。
 半年前、自分がガンで後三ヶ月しか生きられないと医者から告げられた時も、だから衝撃はあっても不思議と取り乱したりはしなかった。
 ああ、そうか。
 たった一言で、若島津は自分の運命に納得した。もちろんそれは酷く残念なことだった。その夏は若島津にとって特別な夏だったからだ。
 初めて全国大会に出場して、優勝したのだ。若島津の親友である日向と共に、勝ち得たメダルは彼の命の次に大事な宝物になった。これから先も、前を走っている親友のすぐ後を一緒に走っていけることを疑ったことはなかった。
 あの夏の日までは。
 それは幸福な記憶だ。真夏の太陽は明るく、空には雲一つなかった。かげろうがゆらめく芝生に、走り疲れた身体を転がせると、土と緑の匂いが鼻腔をくすぐった。すぐ隣には、自分と同じように息をはずませ、呼吸を整えている日向の息づかいの気配が感じられる。
 大きな桜の大木の作り出す木陰は、そこだけ空気が冷たく、沸騰した身体を優しく癒してくれた。
 幸せだった。
 何もかもを勝ち得たような気がしていた。神様なんて信じていた訳じゃないけれど、自分の幸せを認めることに、若島津はやぶかさではなかった。
 あの黄金色の幸福な記憶は、病室のベッドに横たわるようになった若島津を、それでも良く慰めたものだ。
 死の瞬間まで。
 若島津が死ぬ前に、見舞いに来た日向の言葉と共にその琥珀色の記憶は、若島津を落ち着かせてくれた。
ーお前が一番大事だー
 日向の優しさは、綿のハンカチが水を通すように、若島津にストレートに染み入ってきた。たった一人の母親を亡くして以来、日向はいつも若島津の一番近くに居てくれた。
 四人兄弟の長男である、優しい幼馴染。
 日向を残して逝かなければならないことだけが、若島津の未練になった。そしてその未練が、奇跡を起こしたのだった。



 神様は、ひょっとするといるのかもしれない。
 若島津は、鏡の前で髪をときながら、ぼんやりとそう考えていた。
 目の前の鏡に写っているのは、ほっそりとした「少女」だった。肩先まで伸びたしなやかで真っ直ぐな黒髪。キメの細かい真白い肌。小造りの顔に、大きな瞳。健康そうなふっくらとしたピンクの唇。
 その全ては少女の持つものだった。
「宝ちゃん、急いで。朝ごはん食べる時間なくなっちゃいますよ」
 階下からは優しい母の声が響いてくる。はいと返事を返し、若島津は急いで食堂に向かった。
「おはよう、お母さん」
「おはよう」
 テーブルに付くと、もうちゃんと朝食の用意が整っていた。薄いピンクのテーブルクロスの上には、コーヒーカップと、そろいのプレートの上には八枚切りのカリカリに焼けたトーストと目玉焼きが、美しく盛り付けてあった。カップからは良い香りが立ち込め、ガラスの小鉢には苺が盛ってある。
「いただきます」
 嬉しそうな顔で両手を合わせる、そんな一人娘を見て、母親は幸せそうに微笑んだ。
「円ちゃんに迷惑かけないようにね。それからまだ身体が本調子ではないのだから、あまり遅くならないように帰ってこなくては駄目よ」
「うん、分かってる」
 トーストに噛り付き、母親の注意に小さく頷く。
 綺麗で優しいお母さん。
 何も疑うことを知らない、無防備な愛情に満ちたまなざしは、真っ直ぐに自分に降り注いでいる。もう何年も前になくしてしまい、二度と手に入らないと諦めていたものだ。
 若島津はーーー。
 正確に言うなら今若島津の意識が支配している身体は、若島津の身体ではなかった。三ヶ月前に、ガンで死んだ若島津の意識が、脳死状態だった蓮尾宝という少女の身体に入りこんでしまったのは、神様の情けだったのか、それとも気まぐれだったのか。
 どちらでも良い。
 今では若島津はそう思っていた。今、自分は生きている。それが例え、「蓮尾宝」としてであっても、今呼吸をしているという事実に変わりはない。
 寒々としていたあの病室で、蓮尾宝の母親に手を握られた瞬間に、若島津の混乱していた心は不思議と落ち着いて、若島津の時間はゆるやかに流れ出したのだ。
 神様は、多分いるのだ。
 美味しい朝食を取りながら、若島津はそう思っている。それが情けでも気まぐれでも、どちらでも良い。大事なのは、今自分が、生きているということ。
 何かが出来るということ。
 例えば。
 自分が生きているというだけで、この優しい母親を慰めている。嘘をついていても良い。彼女が微笑んでいるのなら。本当の母親を幸せに出来なかった自分だから、せめて彼女を幸せにしたい。  そして、病室で泣いていた日向を。
 身体が元気になると、若島津は日向に会いたくてたまらなくなった。会って、自分のことを話してしまいたかった。何も知らずに悲しんでいる日向に、悲しむことはないと教えてあげたかった。
 自分をここに入れてくれたものは、日向の涙だったのかもしれない。日向の涙は、強烈な未練となって、自分を現世へと繋いでしまったのだ。蓮尾宝の身体をその媒体として。



「宝、あんまりゆっくりしてると遅れるゾ」
「円ちゃんだ」
 玄関から、元気な女の子の声が響いた。若島津はあわてて手の中のトーストを口に押し込むと、慌しく椅子から立ち上がった。
「行ってきまーす」
「気をつけてね。円ちゃん、宝のこと宜しくね」
 玄関まで見送っている母親に手を振り、丁度姉妹のような二人は学校へと向かった。
「叔母さん、元気になったね」
「…そう?」
「うん、宝が眠ってる間は、そりゃ見る影もなかったのよ」
 面倒見が良いらしい、宝の従兄弟は大らかな表情で微笑んだ。
「宝も元気になって良かったね」
「…うん」
 若島津は小さく苦笑して返事を返した。
「信号、点滅だよ。急ごう」
 円は、宝の手を引いて走り出した。濃紺のピーコートの裾がふわりとめくれる。
 柔らかい感触。綺麗でなめらかで、温かい。
 吉野円は、蓮尾宝の同じ年の従兄弟である。学校区こそ違ったが、隣町に住んでいた為、幼い頃から二人は仲が良かったという。どちらかと言えば、人見知りで、引っ込み思案だった宝を、外へ引っ張って遊びに連れだしていたのは、快活で親分肌の円だったらしい。
 宝は、半年以上を病院で過ごし、やっと先週退院したのだった。昨年、入学した高校は、通学に一時間以上かかる公立高だた。このままでは単位が足りずに留年は確実であった。それを配慮した両親は、近くの私立校に編入することを宝に進めた。もちろん編入試験はあったが、成績が良かった宝なら問題は全くないと考えたのだ。
 従兄弟が通っているその私立校に、三学期が始まる前に、宝は編入試験を受けに行かなければならなかった。吉野円は宝の付き添いをしてくれるというのだ。
 母親が付いてくると言っていたのを考えれば、有り難い申し出だったと言わざるを得ない。何しろ初めて行く場所なのだ。
 蓮尾宝にとっては。
 宝の編入先は、東邦学園というスポーツの盛んな私立校だった。
「あ、待って。花買って行く」
「花?…今からどうして」
 花屋の前を通りかかった時に、若島津は立ち止まって、隣を歩いていた円に呼びかけて、さっと店先に入ってしまった。
「いらっしゃいませ。何にいたしましょう」
 店内を見渡して、若島津は少し小振りな真白いカラーを手に取った。
「これを、十七本。リボンかけて下さい」
 支払いを済ませて、店を出て歩き出した宝を見て、円は不思議そうな顔をした。
「どうするの?」
 小さく宝は微笑んだ。
「お祝い」
「何の?」
「昨日優勝したでしょ」
「…サッカー部ね。へー、意外。案外ミーハーなんだねえ。あ、私、日向くんと同じクラスだよ。サイン貰ってあげようか」
 宝は首を振った。
 円は、昔から口数の少なかった従兄弟に、何か違和感を感じていた。死の淵から戻ってきたからなのか、今の従兄弟は何かエキセントリックな雰囲気がある。
 宝はこんな風に穏やかに微笑んでいただろうか。
 そうはっきりとしたものではなかったが、退院してから、宝は少し印象を変えたようだった。
「寒いね」
 先ほどまで晴れていた空は、いつのまにか灰色の雲が低くたれこめている。
 今にも雪が振り出しそうだった。



「その花束、どうする?時間あるからサッカー部のクラブハウスまで行こうか」
「う…ん。ここに古い温室があるって聞いたことあったんだけど、円ちゃん知ってる?」
「…温室?…ああ、裏庭の。何、行ってみたいの」
「うん」
 彼女たちは言われていた時間よりもかなり早めに到着してしまったのだ。
 それにしても温室。どうして宝が温室のことを言い出したのか、またそこに行きたがるのか円には分からなかったが、何か余計なことを尋ねてはならないような雰囲気が、円を押し黙らせた。
「…丁度校内を案内しようと思ってたから、じゃ行ってみようか」
 広い敷地内を案内しながら裏庭の温室に辿りついた時には、空から雪が振り出していた。
 温室は人目のつかない草地に隠れるように、ひっそりと建っていた。使われなくなってから久しいことが一目瞭然なほどに、回りは草が生い茂っている。
 宝が先に立って、温室の古びたドアを開いた。
 温室の中はうっそうとした植物が奔放に身体を伸ばしている。つるシダをよけながら、宝は奥の方へとためらいなく進んで行った。
「宝、待って」
 温室の中を珍し気に見まわしていた円は、先に行ってしまっている宝に慌てて声をかけた。しんと静まりかえっている温室の中に、円の声は大きく響いた。それにはっとしたように宝は立ち止まり、後ろを振りかえる。
 その顔は、妙に満足気にくつろいで見えた。
「ほら、ベンチが置いてある。…日向選手は良くここでくつろぐんだって」
 突然出てきた円のクラスメイトの名前に、ようやく彼女は納得したのだった。
「雑誌のインタビューか何かに書いてあったの」
「うん。いつか行ってみたいなって思ってたの」
「宝は日向くんのファンなんだ」
 クスリと微笑んで、宝は花束を顔に寄せた。
「……そう、日向さんのファンなんだ」
 ベンチの前に立って花束をそこに置いた宝の横顔は、何か神妙な表情をしていた。
「そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
「…分かった。後でまたここに来て良い?」
「そりゃ、良いけど」
「じゃ、花はここに置いとくね」
 チラリと後ろを振り返り、宝は円の方へ小走りで駆け出した。



 無事に試験も終わり、図書館で時間を潰している筈の円を迎えに、若島津は校内を歩いていた。
 懐かしい。
 そう思うほど長くは、この高等部の校舎に馴染んでいたわけはないのに、若島津は強い郷愁をどうすることも出来ないでいた。
 たった半年前までは、ここで日向と生活していたのだ。
 若島津健として。
 この廊下を、走った。階段を上り詰めた先にある屋上で時間を潰した。
 そして今朝行った温室で昼寝をしたり本を読んだり。傍らには時々日向が当たり前の顔をして座っていた。邪魔にならない自然な気配で。
 昨日、国立競技場で行われた全国大会の決勝戦で、東邦学園は昨年の優勝校である長崎の国見校を3-0で下した。
 若島津はテレビでこの試合を観戦していた。
 フィールドを縦横無尽に走り回っている日向を見て、懐かしさに泣き出したくなってしまった。
 もう二度とあそこには立てない。
 それは若島津にとってはかなり堪えることだったが、そんな気持ちが霧散してしまう程、久しぶりに見た日向のプレーにははっとするような切れがあった。
 半年前のインハイの時よりも、数段上手くなっているのが若島津には容易に見てとれた。
 若島津は日向に誘われてサッカーを始めた。日向のプレーはすぐに若島津を魅了した。それは、見る者を惹きつける、華のある、それでいて激しくしなやかなプレーだった。
 それは小学生のころから変わらない。
 苦もなく軽々とボールを操る日向に、感嘆と共に強い憧れが若島津の中に芽生えた。
 早く追いつきたい。日向の隣を共に走りたい。
 その思いが若島津を突き動かした。
 今は昔の物語である。
「円ちゃん、お待たせ」
 冬休みの図書館には、円の他には司書の先生がいるだけだった。
「早かったね。…と言ってももうお昼すぎだしね。よし、何か食べて帰ろうか」
 円は一人掛けのソファから立ち上がり、手にした雑誌を棚に戻した。
「ところでテスト、どうだった?」
「うん、まあまあ」
「ウチの編入テストは、クラス決めの為のものだからさ、安心して良いよ」
 今はもう止んでいるが、朝方から結構激しく降り始めていた粉雪が、何時の間にか回りの景色を白く変えていた。
 温室に向かう途中、校門の前を通った円は腕時計を見て眉をひそめた。
「バスの時間、何分だったっけ」
 東邦学園は丘の上に建っており、通学時間を外すとバスは一時間に一本と極端に本数を減らすのだ。
「あ、じゃ円ちゃんは時間見てきて良いよ。私一人で温室に行ってるから」
「うん、そうだね」
 校門の前で別れて、若島津は一人裏庭へと向かった。朝来た時は草に埋もれていた温室は、今は真白い雪に埋もれていた。
 今日、日向に合えるだろうか。もし会えたなら。
 そんなことを考えながら、若島津は温室のドアをゆっくりと開いた。奥のベンチのある所まで歩いて行くと、人影が見えた。草影になっていて、それが誰であるかは判別がつかなかったが、もしかすると。
「…あ」
 若島津は目の前で花束を手にしている日向を見て、やはり驚いた。
 日向も驚いているようだった。
 どうしよう。まだ何も言葉を考えてはいない。
「あ、これ。…君の?」
 差し出された花束と日向を見比べて、若島津はようやくニッコリと微笑んだ。
 華が開いたような微笑だった。
「優勝おめでとうございます。それは日向さんへと思って買ったんです」
 言いたいことや、伝えたいことは沢山あった。だけど今はまず、昨日の優勝のお祝いを言いたかった。
「…あ、有難う」
 しゃくぜんとしないような顔で、日向は手にした花束を引っ込めた。
ー…早くー、バスの時間間に合わないよー
 その時後ろから円の声が響いてきた。若島津はビクリと後ろを振り返った。
 そしてゆっくりと日向の方を降り返る。
 今ここで全てを話せる状態ではないようだ。
 そう若島津は判断した。今は本当に伝えたいことだけを伝えよう。
「…これからもずっと勝ち続けて下さいね」
 それだけ言うと、若島津はさっと駆け出して行ってしまった。
 まるで風のように。
 後には花束と日向だけが取り残された。
 温室のドアから走り出してきた宝を見て、円は首をかしげた。
「宝、あと十五分ある。今からサッカー部のクラブハウスに行こう。…あれ、花束は?」
「うん、もう渡しちゃった」
 ニッコリと微笑んだ従兄弟の顔と、温室の方を見て、円はえっという風に驚いた顔をした。
「温室に日向くん、いたんだ」
「そう」
「…ご免。邪魔しちゃったかな」
「そんなことないよ」
 肩をすくめた円に、若島津は明るく首を振った。
 もう、急がなくて良い。日向はちゃんとここに居るのだ。そして自分も。
 神様なんて信じてはいなかったけど、やっぱり神様は居る。
「神様って居るんだよね」
 バスを待ちながら突然変なことを言い出した従兄弟に、円は不思議そうな顔をして、それから思い当たったような笑みを漏らした。
「良かったね、日向くんと会えてさ」
 円の言葉に、彼女の従兄弟はニッコリと笑って頷いた。
 神様有難う。今は感謝を。




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