オニキス


 病室の中はしんとした空気がたちこめていた。
 白い布を張ったついたてから現れた人物を見て、ベッドに横たわったままの若島津は静かに微笑んだ。
「日向さん」
「よお、具合はどうだ」
「良くも悪くも。相変わらずですよ」
 ゆっくりとした動作で若島津が上半身を起こすのを、日向は持ってきた花束を椅子の上に置き、手伝った。
「すみません」
 前に来た時よりも、若島津の身体はあきらかに細くなっていた。それは、ある程度予測出来たことだったが、日向をうろたえさせるには十分なものだった。
 最も、そのことを露ほども顔には出さない日向であったから、若島津は微笑んだままでいられるのだ。
 相変わらずなはずはなかった。
 若島津に取りついた病は、日を追うごとに彼を痩せさせている。担当医から三ヶ月前に聞いた病名は、悪性の腫瘍。すなわちガンだった。
 インターハイ優勝の余韻も冷めやらぬ頃、若島津は倒れた。精密検査で発見された病は、すでに若島津の身体を深く蝕んで手遅れの状態だった。
ーもって半年ですー
 目を伏せた医者の言葉に、日向はなすすべもなく立ちすくんだ。
 信じたくなかった。あの身体は、この前まで自分と同じように、完璧に機能していたはずだった。これから先も、ずっとこの友人は自分の隣を歩いていくのだと、日向は疑ったことがなかった。こんな形で道を分かつのは、全く本意ではなかった。
「ああ、花買ってきた。花瓶、あるか」
 日向から受け取った花束を大事そうに抱え、若島津は嬉しそうに花の香りを吸いこんだ。
「綺麗ですね」
 白に近いピンクのダイアモンドリリーの花束は、白いパジャマを着ている若島津にひどく似合っており、一瞬日向は目を奪われて動けなくなってしまった。
 若島津はまるで人間ではないような錯覚が日向を捕らえたのだ。
 すっかり血の気の無くなった肌は透き通るほど白く、肉の落ちた頬や身体は、しかし決して見苦しいものではない。
 若島津の容姿が、かなり人目を引くほど整っているということに、日向はこの病室で気がついた。それまではそんなことを気にかけたこともなかった。だが若島津は、この病室で、会うたびに綺麗になっていくようだった。そう感じたのが、日向一人ではない証拠に、良く一緒に見舞いに行く反町も、同じようなことを言っていた。
ー若島津さあ、なんかやたら綺麗になったって思わない?ー
 どんどん綺麗になっていく若島津。幸せも不幸も、同じように受け止めて、今は穏やかな顔をしている。そんな若島津を見ている日向は、胸に熱い鉛を抱え込んだように、何も言えなくなってしまうのだ。
 ただ、傍にいることしか出来ない。
「…日向さん?」
 黙りこんでしまった日向に、若島津が声をかけた。
「花瓶は棚の下にあると思います。生けて来てくれませんか」
「…わかった」
 病室を出て、日向は洗面所に入った。
「あ、」
 花を生けようとして、その花の丈が少し長いことに気がついた。これでは安定が悪い。
「お貸ししましょうか」
 振りかえると、丁度日向の母と同じくらいの女性が鋏を差し出していた。
「有難うございます」
 素直に日向は礼を言い、鋏を借りた。
「よくいらっしゃるわね。お見舞い?」
「ええ、友人が入院してるもんで」
 素早く花の丈を切りそろえると、日向は鋏を返した。
「綺麗な花だこと。お友達、早く良くなると良いわね」
 目を細めて花を見る彼女の笑顔が一瞬曇った。
「…そうですね」
 あいまいに笑って日向はそこを離れた。
「日向くん」
 顔見知りの看護婦に呼びかけられて、日向は立ち止まった。
「こんにちは」
「こんにちは。…ちょっと良いかしら」
「はい?」
「若島津くんのことなんだけど。ご家族の方が今まで一度も来てらっしゃらないのよ。連絡しても来られるのは使いの方ばかりで…」
「…そうですか」
「あなたは良く来てくれるけど、やっぱり若島津くん、寂しいんじゃないかって思うの。まして彼の病気は…もう治らないでしょ。どうして会いに来ないのかしら。あなたなら何か知ってるかと思って」
 日向は小さく首を振った。
「…そう、呼び立ててごめんなさいね。せめてあなただけでも、ちょくちょくお見舞いに来てあげて」
「はい」
 若島津は家族のことに触れられるのを極端に嫌っている。彼にとって、家族とは何の意味も成さぬものだった。
 若島津の家は、埼玉の旧家だった。後添えとして家に入った母親は、あまり身体が丈夫ではなく若島津が十歳の時に、長く患っていた心臓の発作で亡くなってしまった。そのことは若島津にとって、家での庇護者を失うことを意味していた。母が亡くなってから、血の繋がらない父親は、母と良く面差しの似た次男を疎んだ。中学から日向を追いかける形で、東京の東邦学園に進学した若島津は、それからは母の命日にしか家には帰ってはいない。若島津と、彼の父親の間に、そして若島津と彼と年の離れた兄や姉との間に、どんな確執があるのか日向は知らない。
 けれど幼馴染で、若島津の一番近くにいた日向は、若島津がどんな気持ちであの大きな家で暮らしていたのかを知っていた。
「お帰りなさい」
 病室に戻った日向に、若島津は穏やかな笑みを浮かべた。
 若島津は自分の病名を知っている。告知したのは担当医だった。
ーとても十六歳の態度ではなかったよ。良く落ち着いてたー
 どうしてこんなに静かに待っていられるのだろう。どうしてこいつはこんなに強いんだろう。
 花瓶を枕元のテーブルに置き、ベッド脇の椅子に日向は腰かけた。
「…食事は、進んでるか?」
「食事?…う、…ん。ここのは案外美味しい方なんだろうけどね。最近はあんまり」
「何か欲しいものとかあるか」
 不意に若島津の顔から微笑みが消えた。視線を花に向け、表情を緩ませる。
「…日向さん、そんな顔しないで。俺はそんなに不幸じゃないよ。少なくとも、日向さんに会えた。これはすごくラッキーなことだったし、日向さんが俺にかまってくれて嬉しい。……ただ、俺にはもう家族はいないし、会いに来てくれるのは日向さんだけだから。…嘘でもいいから、日向さんの家族より、今は俺の方が大事だって言って。おばさんや、直子ちゃんたちより、俺を取るって言って」
 必死な顔をして。こんな若島津を放っておけるはずがない。
「お前が一番大事だ。だから絶対に病気なんかに負けるな」
 それは何のためらいもなく日向の口に登った。
ーお前が一番大事ー
 若島津は日向の言葉を聞くと、泣き笑いのような顔をして、大きなため息をついた。
 それは安堵のため息だった。
「有難う」
 囁くように呟いた若島津の声と微笑みは、日向が見た最後になった。
 その晩、若島津の容態は急変した。日向が駆けつけたときには、もう事切れたあとだった。





 意識がだんだんと遠のいていくようだった。
ーお前が一番大事だー
 昼間聞いた日向の声は、優しく若島津の頭の中にこだましていた。死が、怖くないわけではなかった。生への執着心だって、むろんあった。ただ、若島津は十歳の頃母親を病で亡くしている。それ以来、諦めることを覚えた。
 世の中にはどうにもならないことがあるのだ。
 母が亡くなったのも、家族が自分に冷たいのもどうにもならないことなのだ。その中で、日向の存在だけが、若島津の心を癒した。
 四人兄弟の長男で、面倒見が良く、親分肌の日向と幼馴染だったことだけが、若島津を支えたものだった。
 もうすぐ、この苦しさも終わりになるのだ。
 ふいに、身体中の苦しさから解放されえていることに若島津は気づいた。
 先ほどまで耳元でうるさいくらいに名前を呼んでいた看護婦のかわりに、懐かしい声を聞いた気がした。 この声は…。
「…健、私だ、わかるか」
 今更だ。何だって今ごろ彼がくるのだろう。
「何で今ごろになって来るんだ。こいつが待ってた時には一度だって顔出さなかったくせに!」
 日向の声だった。若島津はゆっくりと瞳を開いた。
 ゆっくりと瞳を開いて、もう一度まばたきをした。目の前には、横たわっている自分がいる。その枕元には、父親と日向と、それから医者や看護婦がいた。
 丁度天井にはりついて、下を見下ろしたようなアングルだった。
 ああ、そうか。
 まるで何かの映像を見ているように現実感がなかった。和歌島津はしばらく下の喧騒に耳を傾けて自分がもう死んでしまったことに気がついたのだ。
 もう身体を抜け出してしまったから、苦しくなかったのだ。変な感じだ。このまま消えてしまうのだろうか。
「出て行けっ!あんたはここに来る資格なんてない!」
 興奮した日向の声に、はっと若島津の意識が引き戻された。日向は若島津の父親の胸倉を掴み、殴らんばかりの勢いだった。慌てて医者や看護婦が止めに入る。
 日向は怒鳴りながら、涙を流していた。その涙を見て、若島津の胸は締め付けられそうに痛んだ。
 もう身体を抜け出したのに、左胸の痛みは一緒だった。
 病気で亡くなる人は沢山いる。自分もたまたまその一人だったのだ。そう納得しているつもりだったが、日向の涙は若島津の未練になった。
 まだ死にたくはない。
 自分の母親のように、日向を置いて死にたくはない。
 こんなに、日向が好きなのに。諦めたくなんかない。
 それは母親が亡くなって以来、初めての若島津の我侭だった。
 その時。
 若島津の意識が弾けた。




「…宝ちゃん、分かる?お母さんよ」
 目の前には、見知らぬ女性のアップがあった。
ー宝ちゃん?ー
 天井や壁は白い。ここは病室なのだ。それも自分が入院している個室と全く同じような作りだった。換気扇の色がクリーム色なのも一緒だ。
 しかし、この目の前の涙で目を潤ませている女性は誰だろう。
 ぼんやりと若島津はそう思った。
「お母さん、落ち着いて下さい」
 傍から医者が、興奮気味の彼女を下がらせた。
「私が分かるかい」
 優しく呼びかける医者に、若島津はコクリと頷いた。
「声は出せる?」
 ゆっくりと若島津は口を開いた。
「…はい」
 それは小さな、囁くような声だったが、静まり返った病室には良く響いた。その声に、若島津はようやくびっくりとして、手を口元に持って行った。
 それは、紛れもなく少女の声だったのである。
「君は三ヶ月も眠ったままだったんだ。交通事故にあったことを覚えてるかい?」
 ゆるく若島津は頭を振った。
 交通事故。三ヶ月。眠ったまま。
 医者の言葉を上手く理解出来ない。
 そして、口に当てたままの右手に視線を移して、若島津は愕然とした。
 その右手は自分の手ではなかった。
 インターハイの決勝で、相手チームのフォワードのスパイクで付けられた傷がなかった。親指の付け根のあたりから三センチほどの縫い傷があるはずだった。おまけにこの手は、重いものなど持ったことのないように、ほっそりと白かった。まるで少女の手のようだ。
 少女の。
 若島津はまじまじと自分の右手を眺めた。それから心配そうに覗き込んでいる医者と看護婦、そしてその後ろで泣きそうな顔をしている女性を代わる代わる見比べた。
「少し、記憶が混乱しているようだね。大丈夫。追い追い思い出すよ」
 落ち着かない様子の若島津をなだめるように医者は言葉を続けた。
「君は三ヶ月前に交通事故にあってね、ずっと眠ったままで意識が戻らなかったんだ。だがもう大丈夫。きっとすぐに退院できるよ」
ー違うっ!ー
 若島津はそう叫び出しそうになった。だがようやく落ち着いた、先ほど医者が「お母さん」と呼んでいた女性が枕元にひざまずき、両手で若島津の頬を優しく挟まれたときに。
 その言葉を若島津は飲み込んでしまった。
 自分に向けられた彼女のまなざしは、優しく暖かく、そして懐かしい。
 今にも泣き出しそうな笑顔だった。




 一月。東京は例年にない雪に見舞われた。
 夏に引き続き、東邦は冬の全国大会の優勝旗も手中に収めたのだった。
 今年は三学期が始まるのは、土日の関係で十日からだった。八日が決勝戦だったため、サッカー部の休みは九日の一日だけである。
 その日は前の晩に十センチほどの雪が降ったが、朝からカラリとした良い天気だった。昨晩積もった真白な雪がキラキラと輝いている。
「おはよ、日向さん。…何よ、今からジョギング?」
 ジャージ姿で寮を出ようとした日向に、反町が声をかける。
「おはよう。…笑ってんな。習慣だ」
 手を上げて、外に出てしまった日向を見送って、反町は首を振った。
 日向はまったく練習の鬼だ。昨日日本一になったばかりだというのに、まるで休もうとしないのだ。昨晩の祝杯の席でも、楽しそうにはしていたがいつのまにか姿を消していた。去年まで日向の隣で彼の一番近くにいた友人だったら、楽に日向を休ませられただろうに。
 折角の喜びの気分が、たちまちしぼんでしまった。あれからまだ二ヶ月しかたってないのだ。自分だって落ち込んでいた。日向は自分の倍もそうだろうと思う。
 死は突然で、早すぎた。
 昨日まで、日向は大会で優勝することだけに集中していた。意識的に他の余計なことは考えないようにしていた。まだ日向は、若島津がいなくなってしまったことを、上手く理解できないのだ。
ー日向さんー
 耳に馴染んだ、少しだけかすれ気味の柔らかいあの声で呼ばれている気がしている。いつも振り向いて彼を探してしまう。
 昨晩、学校の講堂で優勝の祝賀会が賑やかに開かれた。
 外は雪が降っていた。
 風はなく、ふわふわとした綿雪が後から後から真っ直ぐに天から降りてきていた。雪は祝福するように優しく降り積もった。
 日向は喧騒に疲れ、一人外に出ていた。
 優勝は出来た。目標は達成されたのだ。その充足感がなかったわけではない。だが、この胸にぽっかりと口を空けている空虚は何なのだろう。
ー日向さん、冬の全国大会でも優勝しましょうねー
 それはほんの半年前の言葉だ。やはりここで、同じように祝賀会が開かれていた。あの時一体自分は何と言っただろうか。どうしても思い出せない。
 覚えているのは。
 夜空を見上げている若島津の横顔。あの時、確かに世界を手中に収めたと思っていたのに。
 手放さなくてはならなかった宝物は、失うには大きすぎ、何をもってしても、この空虚を埋めるにはいたらなかった。




 吐く行きが白い煙の花を咲かせる。ランニングを終えた後に軽くストレッチをして、シュート練習が終わった頃にはもう九時を過ぎていた。いつもならとっくに他の部員が練習に加わるはずだったが、今日は自主トレに出てくる部員はさすがにいなかった。
 当たり前だ。年に何度かの休みの日なのだ。それも明日からは三学期が始まるのだ。今日くらい羽を伸ばしたいと思う彼らの気持ちは良く分かる。
 そう言えば一日も欠かさずに自主トレを行う日向に、若島津は良く苦笑しながらも付き合ったものだった。
ーあんた貧乏性なんですよー
 このグラウンドで。クラブハウスで、教室で。若島津の息使いが聞こえてくるような錯覚が日向を立ち止まらせる。
 日向はブルンと頭を振って、グラウンドを上がった。そのまま寮には戻らず、裏庭の方へ歩いて行く。その先には今は使われていない温室があるのだ。中には何故か古いベンチが置いてあり、冬でもけっこう暖かいその場所は若島津のお気に入りだった。ぼんやりと寝そべったり、図書館から本を持ちこんで読みふけったりしていた。
 日向は時々ここにくる。温室は天気の良い日は、光溢れ、とても静かだった。ここにいると気分が落ち着くのだ。
 ここの空気は変わらない。
 若島津がいたころのままだ。
 雪に埋もれかけた温室は、硝子が反射してキラキラと輝いている。なくしてしまった宝物のように。  日向が温室の扉を開けると、甘い花の香りが彼を迎えた。確かにここは温室だが、実際に使われていたのはもう随分前の話で、今はすっかり野生化した植物が無造作に身体を伸ばしているだけである。花のつく季節でもなければ、こんな香りがするのはおかしい。いぶかしんだ日向は、通路の奥に置いてあるベンチの上に、丁度外の雪と同じ真白いカラーの花束が置いてあるのを見つけた。  一体誰が。
 そっとその花束を手に取る。花はまだ瑞々しく、整えられたばかりだということを伝えていた。  セロファンに金のリボンがかけてあるだけのシンプルな装丁は、その花が持つ洗練された雰囲気にピッタリだった。
 日向は何故かこの花束を見て、懐かしさがこみ上げてきた。この花はまるで自分を待っていたようだった。
 若島津がそうだったように。
ーキイーー
 扉の開く音に、ゆっくりと日向は振り返った。こちらに向かってくる足音が聞こえる。
 草影から現れたのは、髪の長い少女だった。
「……あ」
 彼女は日向を見て、驚いた顔をした。しかし驚いたのは日向も同じだった。
 この場所は裏庭のはずれにあって、壊れた柵を乗り越えてこないと入れないのだ。滅多に人の来ないこの温室に、自分以外の者が来ようなんて、日向は考えもしなかった。
 数秒の沈黙の後、日向ははっとして手にしていえる花束に気がついた。
「あ、これ」
 差し出された花束と日向を見比べて、彼女はゆっくりと微笑んだ。花の溢れるような笑顔だった。
「…優勝、おめでとうございます。…それは日向さんへと思って買ったんです。受け取って下さい」
 日向の肩ほどの身長の彼女は、大きな目で日向を見上げている。
「…あ、有難う」
 釈然としないまま、日向は手にした花束を引っ込めた。
ー…早くー、バスの時間に間に合わないわよー
 後ろから響いた声に、彼女はビクリと振り向いた。そして、日向の方を振りかえる。
「…これからも、ずっと勝ち続けてくださいね」
 そう言い残し、少女は踵を返し、さっと駆け出して行ってしまった。
 後には花束と日向だけが残された。
ーああ、俺とお前がいるんだ。ずっと勝ち続けるさー
 あの夏の夜の言葉がふいに蘇った。
 確かにそう言ったのだ。勝ち続けると。
 それにしても彼女は誰だろう。
 カラーの花束を抱えながら、日向は不思議な懐かしさをかみ締めていた。





 翌日。
「初めまして。蓮尾宝と言います。宜しくお願いします」
 日向のクラスの季節外れの転校生は、昨日の温室の少女だった。


[続く]


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