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MONDOさん、minoさん、藤本 渚さん……そしてすべての阪神ファンに捧げる──










 2012年4月7日──

 プロ野球・セントラルリーグは第二節を迎えていた。
 ここ阪神甲子園球場では伝統の一戦、阪神対巨人第二回戦が行われていた。
 両軍先発、阪神・スタンリッジと巨人・杉内の投げ合いは、投手戦と呼ぶにふさわしいロースコア。
 新井貴浩のサードゴロで上げた文字通り「虎の子」の一点を守り抜き、阪神が勝利した。
 熱狂的なことで知られる阪神ファン。加えて憎悪の対象ともいえる巨人相手に連勝したことで、皆上機嫌であった。

「わはははっ、今日も阪神勝ちよったで〜っ!!」
「「「勝った〜勝った〜また勝った〜♪ ニクい巨人にまた勝った〜っ♪」」」

 甲子園駅から阪神電車で一本。
 大阪の中心地・梅田に戻った男たちは、駅ビル地下の居酒屋で祝杯を挙げていた。
 全員が黄色いタイガースはっぴを着たままだが、ここでは珍しくも何ともない。
「そらこっちには、往年の名選手二人分の名前を持っとるヤツがおるからなぁ。阪神の選手もブサイクなことでけへんで──」
「せやなぁ……藤村 実サンよぉ♪」
 酔ったおっちゃんたちが、間に座っている中肉中背の若い男の背中をばしばし叩く。「実サン」と呼ばれたその青年は、むせてせき込みながらも、照れ笑いを浮かべる。
 虎党としては、やはり対巨人戦の勝利は格別。些細なことでは怒らないほど上機嫌なのだ。
「いやぁ、苗字が藤村富美男と同じやちゅうんで、下の名前を村山 実から取ったいうんやから、ウチの親もたいがいやで……」
 とか言いつつ、短い黒髪をかきあげる。勝利を呼び込むラッキーボーイ扱いも、まんざらでもないようだ。
 ちなみに彼──実の誕生日は1月23日。藤村、村山と並ぶ阪神黎明期の名選手にして三人目の永久欠番、吉田義男の現役時代の背番号「23」と、最初の監督の時の「1」が合わさっているあたりも、この命名に一役買っているらしい。
 もっとも現在23歳の実は、吉田の二度目の監督時代を知らない。
 黄金期の阪神……バース・掛布・岡田の強力クリーンアップ、そしてあの「呪い」の発端を──


 虎党たちはこの日の試合を振り返り、酒と勝利の余韻に酔いしれていた。
 実もしたたかに酔っ払い、フラフラと千鳥足で帰宅中。
 と──
「う……っ」
 勧められるまましこたま飲んだこともあって、急にもよおしてきた。
「あ──」
 あたりを見回すが、近くにトイレは見当たらない……しかし、そういう時に限って切迫する尿意。
「……おっ」
 ちょうどいいモノを見つけた。
 店の前に置いてある、白いスーツを身につけて腕にステッキをぶら下げ、温和な笑みを浮かべた恰幅の良い老人の姿をかたどった等身大の人形。
 実は何を思ったか、それに向かって放尿し始めた……要は局部を隠せればよかったらしい。

「わあああっ!! 何しとんねんっ!!」

 たまたま店先に出てきた店員が泡食って止めようとするが、すでに膀胱は空っぽ、出し尽くしていた。
「ん? ああ悪い悪い……カンニンな。電信柱やと思ったらオッチャンやったんかぁ」
 電信柱ならいいというわけではない。
「オッチャンやったんかぁ……やあらへんがなっ。もうどないしてくれんのや? うちの看板みたいなもんなんやでっ」
「そないゆうたかて……仕方ないやんっ。阪神が勝つっ。嬉しゅうてっ、酒も進むっ。……酒飲んだらっ、立ちションしとうなるっ。んでっ、ええとこ見つけたらしてしまうっ。……っちゅうわけやっ。……ひっく!」
「……ホンマかなんなぁ──」
 酔っぱらいの思考に「脈絡」を求める方が間違いだ。虎党の大トラだけに。……上手いこと言った(笑)。
 ブツブツ言いながら粗相を洗い流そうとバケツを取りに店員が店の中に消え、実もフラフラとその場を立ち去った。

 その直後に立ちのぼる、怒りの──否、むしろ『怨念』のオーラ。
 その出所は、実が粗相をした人形だった。

 人の形をしたものには、魂が宿る。
 そう……それはかつて阪神の優勝時に、道頓堀に「ダイブ」させられたのと同じもの。それからしばらく阪神が低迷を続け、いつしかそれの「呪い」とまで言われたいわくがある。

(ぅおのれええぇぇ…………85年にくっさいドブ川に放り込んだだけやのうて、ようもこないな、ばばっちぃ真似をっ! …………そおか……そないにしとうなるっちゅうんやったら、阪神が勝っても立ちションでけんようにしてこましたるっ!!)

 人形だけに顔は微笑んだままだが、大阪弁でまくしたてる。
 そして新たな「呪い」が、いささか特殊な形で彼──藤村 実に降りかかった……




iger2012

作:城弾



 翌日の対巨人三回戦、阪神は敗れた。
 不機嫌なだけで、実には特に何も起こらなかった。
 実は実家のパン屋を手伝っている。父親がパン職人、母が店頭での販売。彼の仕事は父のパン作りの手伝いと、できあがったパンの配送だ。
 焼きたてのパンを、車でいろんなところに届けていく。その中に近所の幼稚園もあった。
 実はここに来るのが嫌だった。理由はしごく単純。
「やあパン屋さん、ご機嫌斜めですな♪」
 ニコニコと笑みを浮かべて出迎える男に、思わず身構えてしまう。
 年の頃は五十台。でっぷりと肥えた身体に、ふちのある眼鏡とすだれ頭……威圧的なところなど何もない。どちらかというと温厚な印象を受ける、どこにでもいる普通の「おじさん」である。
 彼はこの幼稚園の園長だ。
「…………」
「しかしまぁ。こちらも二連敗してますからね。まだまだ借りがありますからな」
 この園長、熱狂的な巨人ファンなのである。だからシーズンになると、阪神ファンの実といがみ合う。
 そして巨人が勝つと、まるで自分の手柄のように自慢を始める。実はそれが嫌なのだ。
 もちろん仕事にその手の私情を挟むのは論外である。だが、両者とも仕事よりプロ野球の応援の方が優先順位が高かった。
 ちなみに大阪にだって巨人ファンは大勢いる。嫁(旦那)や子ども、あるいは担任の先生やクラスメイト、または上司や同僚、部下がみな揃って阪神ファンであろうとも、その凄まじいアウェー感の中で一途にG党を貫くのだ。
「いやぁ。それにしても去年の首位打者・長野、主将・阿部、男・村田とクリーンナップの三連打……気持ちよかったですなぁ」
「ぐむむむ……」
 負けてしまうと何も言えない。何しろはっきり数字に出る。
 実は耐えるだけだ。
 園長はその様子に、さらに調子に乗る。
「それに若武者・宮國の初先発……いや、初登板での初勝利といい気分ですよ。槙原の再来ですわ。わっはっは」
 槙原博巳。かつて巨人に在籍した右腕投手。バース・掛布・岡田のバックスクリーン三連弾の時の投手が彼なので、その映像だけ見てると阪神に弱い印象があるが、通算成績は38勝10敗と、大きく勝ち越している。
 そしてその初登板も阪神戦で、延長10回の完封というデビューである。高卒で入団。二年目で初登板というのも共通していた。
「は! プロ野球を担う若手の初登板に、お祝いに初勝利をくれてやったんやっ。負け越しといてえばんなっ」
「な、なんですと?」
 気持ちのいい勝利にケチをつけられると、穏やかではいられない。
「……ふんっ、若いのに健忘症のようですな。たった四年前の『メイク・レジェンド』をもう忘れたとは」
 つい余計なことまで口にしてしまう。
 2008年。前半戦を快調に飛ばした阪神はオールスター前にマジックが点灯したものの、けが人続出で失速。逆に出遅れていた巨人は途中で戦力が整い、後半で驚異的な追い上げを見せた。
 最大13ゲーム差をつけられていた巨人が、土壇場でひっくり返したというものだ。
 それは阪神ファンには屈辱の記憶。
「ぐぬぬ……そんなもん過去の栄光やろが……二年連続でV逸やんか……」
「そちらは六年ですがね」
「なんやとっ!?」
 しかし、こんなやり取りをしていて不思議とトラブルにならないのだから、両人ともある意味では大人なのかもしれない。
 言い合っていることは、子どものケンカに毛が生えたレベルなのだが。


 月曜日が移動日。それを挟んで第三節。
 4月10日火曜日、六連戦の最初。
 タイガースは広島東洋カープ相手に、マツダスタジアムで戦っていた。
「ぶちさん、どないや?」
 実は虎党仲間である田淵の家に駆け付けた。
 パン屋の仕事は夕方で終わっている。両親も揃って阪神ファンなので、仕事さえきちんとしていれば文句は言わなかった。
 仕事を終えた仲間の阪神ファンたちがすでに、大画面テレビで観戦していた。
 アルコールとつまみはお金を出し合う時もあれば、持ち寄ってきたりもする。「ぶちさん」こと田淵氏の家は、シーズン中は彼ら虎党の溜まり場と化しているのだ。
「おう、楽勝やで」
 阪神が遠征なので、仕事終了後に仲間とテレビで観戦し、そのまま試合経過を見守る。
 ご丁寧には黄色いはっぴを着こんでの観戦だ。
 試合は10−2と阪神の圧勝。大勝だった。
「よっしゃああ! 勝ったで!」
 湧き上がる田淵家のリビング。夫人もちゃんとわかっていてビールを運んできてくれる。できた人だ。
 そのまま祝宴を挙げる虎党たち。
「今シーズンは調子ええ。巨人はあのザマやし、こりゃ今年は最下位巨人と阪神優勝でダブルでめでたいかもな」
 繰り返すが、阪神ファンの巨人憎悪にはすさまじいものがある。かつて、巨人の正力名誉オーナーが「アンチ巨人も巨人ファン」と発言したことがあるが……少なくとも大阪の虎党たちは、東京の代表たる巨人を心底忌み嫌っている。
 タイガースの日々の試合を漫画にしているサイトで、阪神が関係ないにもかかわらず、巨人の2011年クライマックスシリーズファーストステージ敗退を喜ぶ始末。
 2012年の巨人はスタートダッシュに完全に失敗。一時は借金7でV率0%という事態に陥っていたので、アンチGが怪気炎を上げるのも無理からぬ話だ。

 ……だが、ここでとんでもない事態が発生し、実たちは野球の話どころではなくなってしまう。

「みの……る? お前、いつの間にアタマ金髪に染めたんや?」
 応援仲間の一人、佐野がそう指差してきた。彼自身酔いが回って、幻覚か何かと思っているらしい。
「何ゆうて……え? な、なんやこれっ?」
 気が付くと、実の髪が長く伸びていた。それも金色の髪と黒髪が入り混じっている。
「なんか、トラジマみたいやな……」
「……てゆーか、あんた誰や?」
「? 何ゆうとんねん? オレ……あ? なんやこの声?」
「み──実、鏡見てみ……?」
 目をまん丸にした田淵から手鏡を渡され、覗き込むと、

「だ、誰やこれ……?」

 鏡の中には見知らぬ美女がいた。
 白い肌、卵形の輪郭、ちょっときつめだが美人の範疇に入る顔かたち。
 手鏡には映っていないが、胸は大きく盛り上がり、ウエストは折れそうだ。
 安産体型そのもののヒップに、針金のような細い脚。男物の服が、逆に女性の性を強調していた。
「……え? 写真か?」
 鏡に貼り付けたいたずらだと思った。しかしそうつぶやいたままの口の動きを、鏡の中の美女がトレースする。
「こ──これホンマにオレの顔? ……それにこの声?」
「まるっきし女の声や」
「たとえるんやったら、歌うことで鎧をまとう戦士っちゅーか」
「紅白に出てきそうやな……」
「阪神ファンとしては好印象なんやが──」
 酔っぱらっているからか、仲間の反応も妙に楽観的だ。
「ちょっと遊ばんといて〜や。なんやねん……オレ、女になってしもたんか?」
 胸元にずっしりとした感触がある。触る──というか押し込むと、柔らかいし弾力もある。
「お、おっぱいや……」
「ほ、ほな、下はどないなっとるんや?」
 向かいに座っている藤田がそう尋ねるが、怖くて触れない。


 分析が阪神の勝因から、実の性転換現象に変わった。
「なんぞ変なもんでも食うたんか?」
「それか、なんかに呪われたんとちゃうか?」
「お祓いやったら、近所の教会の神父はんに頼んだろか?」
「グリーンウェル神父やろ。いつも『神のお告げ』とかゆうとる──」
「その前にオレ、おとんやおかんに息子やって判ってもらえるやろか……?」
 何しろ性別が変わっているのだ。田淵はふーんと鼻から息を吐いて腕を組んだ。
「……そやな。親御さんに連絡せなあかんな」


 梅田近辺の某長〜い商店街の片隅にあるパン屋、ベーカリーふじむら。そこの店長で実の母でもある真弓が田淵家に駆けつけた。
 彼女に応援仲間全員が証言したのと、実本人でないと知らないであろうことを口にしたので、このトラジマの髪をした美女が自分の子ども──実だと分かってはくれたのだが。
「せやけどまぁ……何をどないしたら、こないなんのや?」
 当然の疑問が真弓の口をついて出た。
「……オレが知りたいわい!」
 不機嫌に怒鳴る、実だった美女。
「けどまぁ、なったもんはしゃあないわ……幸いけっこう別嬪やし、この分ならウチの店の看板娘になれるなぁ」
 あまりにも現実的すぎる判断だった。
「……ちょい待ちおかんっ、今のオレは絶望的な気分なんやで……」
「男がうじうじしたらあかんで」
「いや真弓さん、今の実は女やさかい──」
 応援仲間の一人、川藤がフォローになってないフォローにはしる。しかし、真弓もさすがに考え直す。
「……そやな。とりあえず明日になったらお医者行こか。藪先生んとこ」
「今その名前を聞いたら、とても行く気にならんな……」
 実際は名医ではあるのだが。


 4月11日。美女になった実は、かかりつけの医者に診断をしてもらう。
 レントゲンやMRIなどを駆使して調べられたが、診断結果は「きわめて普通の肉体」と出た。ただし女性としてだが。
 子宮や卵巣があり、乳房の乳腺も発達している。そして男性のシンボルなどはどこにもない。完璧に女性である。
 念のため髪の毛も調べたが、黒い部分は本当に黒髪。金色の部分は正真正銘の金髪だった。
「ありえへんで、こないなこと……神サンでも怒らせたんとちゃうか?」
 医者が口にするべき言葉ではないが、確かに超常現象以外の何物でもない。
「そんな……オレ、別に変なことしとらんで──」
 あの日、酔っぱらって「白い人形」に立小便したことはすっかり忘れている。
「……皆目、見当つかんで、ホンマ」
 対処法も見当たらない。だが、とりあえず女性としてではあるが、健常体と判明したため帰宅となった。


 4月12日。
 引きこもりたい気分だったが、実は母親にたたき起こされた。
「いつまで寝とるんや! パン屋の朝は早いんやで、みのり」
「み……のり? おかん、オレは『みのる』やで」
「女で『みのる』は変やろ。今日からは『みのり』って呼ぶで。ええな?」
「オレは女やないで……」
 その言葉を聞いた母・真弓は瞬時に背後をとる。そして胸に手を回す。
「ちょっ、おかん、なにすんね…………あああっ!?」
 胸をいじられ、今まで感じたことのない感触に、思わず出したくもない声が出た。
「こないに立派なもんつけとって、何が女やないって? ええな、男に戻るまで、お前はパン屋の看板娘や!」
「そんなぁ……」
 実……みのりは泣きたくなった。


 実としての仕事はパン焼きの手伝い、そしてメインはパンの配送である。
 しかし、女性化したことでリスクが生じた。免許の提示を求められたらややこしくなる。
 それを言われて抵抗をあきらめ、実は仕方なく店先に出た。
「……けどなぁおかん、店に出るんはええけど、なんでこないな恰好やねんっ?」
 いわゆるメイド服である。黒いワンピースはスタンダードだが、黄色いエプロンでタイガースカスタムということになっている。
「ひらひらスカートは女を可愛く見せるんや。ウチももうちょい若かったらなぁ……」
 夢見るように遠い目をする真弓。客がいないからいいのだが。
「こんな派手なん、おばはんしか着ぇへんで」
「なんかゆうたか?」
 猛烈なひと睨み。
「な、なんもありまへん──」
 そんな母親の迫力に押されるみのり。
「日本橋やったらいっぱいおるそうやないの。ウチの店もあやかろー思てな」
「へえへえ」
 観念して店に出ようとするみのりを、真弓が引き止める。「……ちょい待ち。みのり、あんた化粧もせんと店に出る気か?」
「それゆうたら、オレ、ノーブラやで」
「うーん、やっぱ絆創膏だけやったらあかんか……後で買いに行こか」
「…………」
 みのりはため息をついた。しかしこの母親には逆らえないので、なすがままにされるのだった。


 タイガースは連勝中だが、みのりの心は晴れなかった。
 まるで男に戻れず、ずっと女のまま。下着一式と何着かの女性の服、化粧品まで買い揃えられた。
 さらにお店に出るために、メイクを覚えさせられた。……パン屋ですよ。違う意味の「お店」じゃないですよ(笑)。
 そして服装と相まって、本当に看板娘になってしまう。
 商店街界隈にも阪神ファンは多い。服装、そして髪の色が虎党の心に響いた。
「うーん、阪神さまさまやな」
 パン屋が繁盛して上機嫌の母、真弓であった。
 対してみのりは不機嫌だ。一日中の愛想笑いはけっこう疲れる。
 配送に行けば車中で営業スマイルは無用だが、それも今はできないのでだめだ。
 とはいえ近場の幼稚園には、台車でパンを運ぶ羽目に。人目につくことこの上ない。
 目立つ金髪を染めようとするが、なぜか毛染めがまったく効かない。逆に全部金髪にしようとしてみたが、これもだめ。
 そもそも女性への変身自体が普通ではないのだ。不思議な力が原因となるとどうしようもない──と思い、みのりは髪を染めるのを諦めた。
 そうしたら、「トラのお姉ちゃん」と園児たちの人気者になってしまった。
「誰がお姉ちゃんやねん」
 と言いたかったが、子どもといえどお客相手に怒鳴るわけにもいかない。さらに我慢がストレスを溜めていく。
 このまま女性として周知されるのではないかと、不安にもなっていた。
 園長には「雇われている」と説明し、実ではない別人に成りすましている。その際、野球が分からないことにしておいた。
 女性化だけでも腐るのに、巨人が勝って自慢顔をされたくないからだ。
 もっとも園長は、みのりに「いかに巨人が素晴らしいか」を声高らかにアピールしてきた。実の時は阪神ファン相手ということで敵愾心むき出しだったが、どこのファンでもないのなら、巨人ファンになってもらおうということらしい。
 さすがにこれは、みのりの計算違いだった。


 4月14日。
 ささやかにみのりのうっ憤を晴らしていたタイガースの連勝。
 しかし甲子園での対中日戦、7−4で敗れてそれが3で止まってしまった。
「くそっ、野球までうまくいかへんっ!」
 仕事が終わってテレビの中継を見ていたが、阪神が負けてしまった。
 だが──
「みのり? あんたいまの声?」
 驚きに目を見開いた母親に、そう指摘される。
「ああ? 声がどないした……あー、お、男の声や!?」
 途端に違和感に気がついた。ブラのカップにフィットしていたはずの部分がなくなっている。
 スカートをめくりあげて、股間を触る。「あ……あるでっ!? オレ、男に戻っとる──」
「……ホンマや。ほれ、不細工がおるで」
「なんやと!?」
 しかし鏡を見せられて納得。男の顔で女性のメイクをしていた状態だ。
「わわっ!」
 店に出ていた時にしていた化粧を、まだ落としてなかったのだ。
 みのり──実はあわてて洗面台に走った。
「不思議やなぁ。ついさっきまで娘やったのに」
 首をかしげる真弓。
「なんでもええやん……そもそも男が女になるんがでたらめなんや。逆にいきなり元に戻ってもおかしくないで」
 五日ぶりに男物を着た実が上機嫌で言い返す。「……そやっ! 皆、ぶちさんところに集まっとるな。……よっしゃ、報告してこよ」


 阪神ファンのみで構成される集まりだから、勝てば祝勝会、負けたら反省会である。
「二回で試合終わっとったな……」
「初回にむこうの一番(打者)が二回打席に立つようじゃ、話にならんで……」
「スタンリッジもなぁ──」
「相手投手を二回で引きずりおろしたっちゅーのに、うちの打線は何やってんのや……」
 まるで全員が「阪神の監督」であるかのように愚痴のオンパレード。
 ヤケ酒である。誰もいい表情していない。そこに実が最高にいい表情で飛び込んだ。
「おーい、みんな見てくれ〜っ!」
「なんやねんっ、阪神負けたっちゅうのに笑ろて……って、実? 自分、いつ男に戻ったんや?」
 田淵が驚くのに続いて、みんなも驚いた。女になってからというもの、実はここに来てなかったのだ。
 本来の姿で現れて、女性化を失念していた。だからずれたリアクションになる。
「さっきやさっき。気ぃ付いたんは、ちょうどゲームセットの頃や。いつの間にか男に戻っとってなぁ」
 阪神の負けは、その場の面々の頭からすっかり消え去り、そのまま実の復活祝いになった。


 14日に続き15日も敗戦。
 阪神が負け続けているのにかかわらず、実は女性化しなかったため一人だけ上機嫌だ。
「……ひとりだけ何浮かれとんねん」
 連敗で気分がささくれだった佐野が、ニコニコ顔の実にインネンつける。
「今のオレは、めったなことでは怒らへんねん」
 言葉通り、めっさサワヤカな笑顔だった。「……ああ、生まれてからず〜っと当たり前に男やったからわからへんかったけど、女になってもうて、改めて男やっちゅーことのありがたみとかが身に沁みたで……」
「実さん、うちも女やで。その言葉、聞き捨てなりまへんな」
 田淵夫人がやんわりと言う。
「ああすんまへん奥さん。けど、最初から女やったらええけど、途中からっちゅーのは面倒でっせ。なってみて分かったけど、女はいろいろ大変や」
「ん、そこんとこ理解してくれるんでしたらええんですけど」
「そんなに大変なんか? 同じ人間やで」
 その立場に立ったわけではない藤田が、もっともな質問をする。
「大変やでぇ。いっつも人の目気にせなアカンし、化粧せなアカン、服きちんとせなアカン、肌見せたらアカン、力はない、ブラジャーは窮屈やし、立ちションもでけへんのやから、やっぱ不便やで……」
 女性化した原因がちゃんと出ていたのだが、さすがにそれには気が付かなかった。
「……楽な男に戻れて、ホンマ嬉しいわ」


 だが、それも束の間だった。
 4月17日。ほっともっと神戸での対東京ヤクルト戦。
 阪神は四回、ブラゼルの四号2ランで先制し、七回には満塁からマートンの2点タイムリー。助っ人コンビの挙げた四点を、投手陣が零封で守り切り、勝利した。
「やったで!」
 この日は田淵家でテレビ観戦。家主である田淵。招かれた川藤、佐野、藤田、江本、そして実といういつもの面々は歓声を上げた。
 だが……
「な、なんや……? また胸がずしっと──」
 阪神が試合に勝った瞬間、実の肉体がまた変化し始めた。
 体が華奢になり、胸は反対に膨らみだす。目に見えて分かるほど肌が白くなり、髪の色もまた金髪の房と黒い房が混じる。
「またや……また女になってしもた!」
 甲高くなった声で悲鳴を上げる実……否、みのり。
「せっかく男に戻れたのにな……」
「ほんまやで……阪神も勝ってめでたいっちゅーのに……」
 こんな時でも阪神の勝敗が気になるあたり、骨の髄からのファンともいえる。
「……そうかそれや! 分ったで!」
「何がや? エモさん」
「お前、阪神が勝つと女になるんとちゃうか?
 大胆な仮説である。
「……んなあほな」
「あほとはなんやあほとは。あほはお前や。お前があほやから、解説ができへん」
 本気で怒る江本。だが冷静になって解説──もとい説明を始める。
「考えてみ。実が最初に女になったとき、阪神勝っとったやろ。ほんで三連勝や。その間、お前ずっと女やったやろ」
「言われてみたら……」
「ほんで負けたとたんに男に戻った。で、今日や。偶然とは思えへんで──」
「せやけど、ホンマにそんな?」
「論より証拠や。次に阪神が負けた時にお前が男に戻ったら、この説は正しいで」


 翌日の4月18日。甲子園に場所を移しての対ヤクルト戦。3−2で阪神はヤクルトに敗れた。
 この日はみのりの両親も、一緒に田淵家にお邪魔していた。
 その眼前で、娘が息子に戻っていく──
「……ほ、ホンマや」


 さらに19日、同じカードで4−3と阪神が勝利。途端に実は女性化する。
 20日、横浜に移動して対ベイスターズ戦。これには敗れて、みのりは男に戻る。
 翌21日も連敗して変化なし。だが22日に11−3で阪神が勝利したら、また女性化してしまう。


 まとめると、実は阪神が勝つと女性化して「みのり」になる。この変身は阪神が負けない限り解けない。
 引き分け、あるいは試合のない時は、それまでの性別を維持したままということが判明した。
「カラダ張ったボケとは……生粋の関西人やな」
「好きで男と女を行ったり来たりしてへんわ……」
 みのりが可愛らしい声で怒鳴り返した。13時に試合開始だったので夕方には終わり、ちょうどいい時間の祝宴だった。
「明日は移動日やろ。ということは明日も女のままか」
「あかん、おかんが家で手ぐすね引いて待っとるわ……大阪のおばはんは派手やけど、オレにまで押し付けんといてほしいわ……」
 ベーカリーふじむらは日曜祝日は定休日。翌日は振替休日でもなく通常営業。
 一日、看板娘として店で愛想笑いをすることを思うと憂鬱だった。


 4月23日、月曜日。プロ野球のない日。
 最低でも24日の試合終了までは女のままだ。
「おかん、そろそろこれ汚れてきたんとちゃうか?」
 なんとかしてワンピースを着るまいとしているみのり。そんな娘に母は、
「そやね……そろそろ暖かくなったし、これでどうや?」
 ヒョウ柄のド派手な服を見せられ、みのりはドン引きした。「……あかん、あかんて。そらおばちゃんの服や」
「贅沢やなぁ。せやったらこれはどうや?」
 タイガースはっぴだった。ただし女子向けのピンク色。
「う……ま、まぁ、これやったらまだええけど──」
「そおか。ほなこれもつけてな」
 猫……いや、トラミミカチューシャである。
「うっ。……ま、まあええわ。阪神グッズやし……」
 メイド服やヒョウ柄おばちゃん風の服よりは抵抗が少ない。あくまでも比較してだが。
 ブラウスとミニスカート、その上からピンクのはっぴ、そしてトラミミカチューシャ。
 かくして「六甲おろし」の流れる中、みのりはその姿で接客した。
 目立つ風貌で、すっかり商店街の人気者だ。


 4月24日から、本拠地甲子園での対広島東洋カープ三連戦。
 一戦目に阪神は完封負けを喫し、その瞬間にみのりは「呪い」が解けて男に戻る。
 自宅だったのですでにメイクは落としてある。着替えるだけでよかった。
 しかし次の4月25日、26日と連勝し、実は女性に変わる。


 通常の日程なら金曜日から次のカード。しかしゴールデンウィークに突入し、祝日の4月30日に試合があって、都合九連戦。
 その関係もあり、金曜日は試合がなく、25日の試合終了からずっと女のままでいるみのりだった。
「あかん……あかんで……日曜日にはひと月ぶりに会えるっちゅーのに……」
 彼──彼女は何故か焦っていた。


 4月28日土曜日。今季初の東京ドームでの対巨人戦。
 この日は土曜ということで、みのりは仲間たちと一緒に田淵家でテレビ観戦していた。
 試合は阪神が能見、巨人が杉内とそれぞれ相手チームの天敵同士の投げ合い。しかし意外にも阪神が大差でのビハインド。
 頼みの能見が三回五失点では話にならない。
 当然だが雰囲気が悪くなる田淵家の居間だが、みのりの表情は輝いてきている。
 そしてゲームセット。7−2で阪神が巨人に敗れた瞬間。
「やったぁぁぁぁぁっ!」
 両手を挙げてみのりは大声で叫び、見る見るうちに男に戻っていく。
「……あ゛?」
 不機嫌なところに、こんな巨人ファンのような歓声……皆、思わず実を睨みつけた。
「なんや実……お前いつから巨人ファンになったんや?」
「裏切る気か?」
 当然だが、四方八方から詰め寄られる。
「い、いや、カンニンして……オレ明日デートなんや……」
 前回のデートは、この体質になる前だった。
 もしここで阪神が勝利して、女のままだとキャンセルするしかない。
 事情を話そうにも女声──同一人物だと信じてもらえる気がしない。それに何より、このふざけた体質を彼女には知られたくない。
 だからひそかに阪神の負けを祈っていた。生まれて初めて阪神の負けを願った。
「うーん、事情は分からんでもないけど……ここで喜ばれたら、俺らも気分悪いで……」
「まあまあ、巨人も今年初めて東京ドームでのウチ(阪神)との試合、最初のひとつくらいサービスや」
 下手な言い逃れだったが、この時点では、まさか東京ドームでの成績が、あんなことになるとは夢にも思わなかった一同である。


 4月29日。阪急梅田駅、午後一時。
 「カッターシャツ」の上からジャケットにパンツ──すべてメンズ服でキメ揃えて彼女を待つ。
 改札を見ていたら花柄ワンピースの女性が出てきた。実は顔を輝かせて、彼女に手を振り叫んだ。
「若菜ちゃん、こっちや!」
「実くん!」
 彼女の名は竹之内若菜。実の高校時代の同級生、そして「いいところのお嬢様」である。
 グループ交際に始まり、次第次第にまとまっていき、今では二人で会う間柄だ。
「ごめんなさい。待った?」
 長い黒髪が清楚な印象。房を後方に回してバレッタで留めているのも清潔感がある。
「待ってへんよ。ここ地元やし、五分でこれるで」
「まあっ」
 上品な笑い方をする。実際に「お嬢様」だった。
「ほんで、今日はどこに連れてってくれるん? みのりちゃん」
「みのりちゃん!?」
 「心臓が飛び出る」というのは、まさにこの時の実の心境。まさか女になる体質がばれている?
 阪神の勝敗で翌日の性別が決定されるなんて知られたら、彼女との関係もここまでの気がした。
「あ、うちったら……カンニンな。お父様がうるさいんよ。せやから男の子の番号は、みんな女の子の名前で登録してんのよ」
 携帯電話のことである。実だからみのり──母親の真弓と同じ着想だったらしい。
「そ、そぉか……」
 ばれたわけではないと知り、ほっとする実だった。
 映画を見て食事。そして今は梅田のど真ん中にあるショッピング施設の「観覧車」で二人きり。
 しかしデートの最中も、実は落ち着かない。
 阪神の試合が気になっていけない。もちろん自分の性転換体質が理由である。
 よりによってこの日はデーゲーム……巨人の東京ドームの土日の試合は、基本的にデーゲームなのだ。
 もし阪神が勝利したら、若菜の目前で女性化してしまう。
 この日の試合開始が午後二時。
 前年から取り入れられた「統一球」が極端な低反発で打球が飛ばず、最近は試合時間が短い傾向があるため、三時間前後と予想された。
 つまり阪神の試合展開では、五時に女性化してしまう危険性もあるのだ。試合経過が気になるのは当然だ。
 試合は2点のビハインドのみ。
 東京ドームは両翼100メートル、センター最深部は120メートルの表示だが、そこを結ぶ「膨らみ」がなく直線に近い。
 つまり「右中間」「左中間」は距離が短く、打球が飛び込みやすい傾向がある。十分に試合をひっくり返せる。気が気ではない。
 実は携帯電話で、試合の状況を頻繁にチェックしている。
 今も喫茶店で飲み物をオーダーするや否や、即座に携帯電話をサイトにつなげていた。
「うふふっ……実くんはホンマに阪神が好きなんやね」
 幸いにして若菜はおっとりした性格ゆえ、怒り出しはしなかった。
「あ……ごめん」
 デート中に肝心の相手を放っておいてはまずい。素直に謝る実。
「ねえ、うちも今度スタジアムに連れてってな」
「若菜ちゃんを!? 若菜ちゃん、野球、わかるようになったんか?」
「うーん……ちょっとくらい、やったら」
「ほんまかいな?」
 変身体質がある。甲子園などで性転換した日にゃたまったものじゃない。
 だから彼女を連れては行けない……そこで一計を案じる。
「若菜ちゃん、ヒットと安打の違い、分るようになったんか?」
 もちろん同じである。しかし若菜はそれを別物と認識するほどの野球音痴。実はそこを突いたのだ。
「もうっ、実くんったらいつまでも」
「いやいや……わからんかったら球場行ってもつまらんで。ほな、パスボールとワイルドピッチの違いは?」
「え、えーと……」
 割と似て見えるかもしれない。
 パスボールは投球に問題ないのに捕手が取れないケース。ワイルドピッチは逆に捕手が取れないような暴投である。
「ウエストボールとピッチドアウトの違いは?」
「???」
 ウエストボールはスクイズなど相手の意図を見抜き「明確な意思を持ち」外した球。ピッチドアウトは様子見で「とりあえず」外した球である。
「ランダウンプレーの結果。サードランナーが三塁に戻り、同時にセカンドのランナーが三塁に着いた。両方とも塁についていて、それにタッチした場合アウトはどっちや?」
「実くんのいけず……」
 先のランナーが次の塁に達するかアウトにならない限り占有権は消えない。ゆえにセカンドランナーにはまだ三塁に着けず、二塁から飛び出した形なのでタッチされたらセカンドランナーがアウトである。
 実のところ、後者はプロでも混乱するレベル。野球音痴が分かるはずはない。
 気を悪くさせてでも、球場へ同行はしたくない実だった。


 門限もあり、若菜は五時前に帰路に就く。
 彼女を笑顔で見送った後で、実は即座に試合をチェックする。
 2−0で、阪神は完封負けを喫している。
 ほっとした自分に驚く。
(……いやいや、これ若菜ちゃんの前で女にならんで済んだからや。オレは生粋の阪神ファンやで)
 巨人で現役投手、阪神で投手コーチを務めた西本 聖氏はかつてこう語った。「巨人ファンにとって巨人は趣味の一部。阪神ファンにとって阪神は生活の一部」と。
 それほどまでに、「阪神」は日常に密着しているのである。実のこの想いも、無理のない話なのだ。


 翌日4月30日。この日に予定は特に何もない。
 だからそろそろひとつくらい勝ってほしいと実も思っていた。しかし澤村とメッセンジャーの投げ合いは互いに譲らず、「三時間半を超えたら新しい延長イニングに入らない」というルールもあって引き分けに終わった。
 男のままでいられたが、東京ドームでひとつも勝てず、憮然とする実だった。


 さらにその後のナゴヤドーム、対中日戦。二敗一分けと阪神はひとつも星を取れず、田淵家に集まって観戦していた面々は頭を抱える。
「ああああっ……やはりナゴドは鬼門なんやっ!!」
「あそこにはきっと生贄の、山羊の首が埋まっとるに違いないっ!!」
「人工芝をはがしたら血で魔法陣が描いてあるんやぁっ!!」
「呪われた球場や〜っ!!」
 オカルトのせいにしたくなるほど、阪神がナゴヤドームを苦手としたのが2010年(これは巨人も同様であったが)。
 二年たっても、その苦手意識は払拭されていないのだ。


 九連戦の六戦目までで〇勝四敗二分けという事態になると、さすがに実も「男でいられるからいいや」などと言ってられなくなってきた。


 5月4日。甲子園に舞台を移しての対巨人戦も、初戦を落として結局五連敗。
 「巨人キラー」能見を立ててまさかの連敗。能見自身も巨人戦連続3回KO。しかも今度は圧倒的に優位のはずである本拠地で……こうなると神通力がなくなって来たのかもしれない。
 チームの対巨人戦も四連敗である。


 やっと5月5日のこどもの日に勝利する。そして実は、みのりになる。
「ああ、また女になるんか……まあ、阪神もこれ以上負けたらやばいしな……こういう体質や。しゃあないで」
 さすがに阪神の負けが続いていたこともあり、みのりは意外にサバサバとした表情で女性化を受け入れていた。
 しかし翌日に負けて、男に戻る。
 阪神は九連戦を一勝六敗二分けと、進撃に大きくブレーキがかかっていた。
 その埋め合わせなのか、翌週、新潟での広島二連戦は連勝。
 一日おいて横浜でも勝利。ひとつ負けたが、日曜に勝って四勝一敗。
 少しだが持ち直してきた。
 直前が阪神の勝利でみのりは女のまま、そのまま交流戦に突入した。


 交流戦という条件ではこの「呪い」がどうなるかと思われたが、どうやら同じらしい。
 阪神がいきなり連敗して、男の実に戻る。
 そのままなかなか調子が上がらない。男でいられるのはいいが、こうも阪神が負けているといい気分ではない。
 そしてそれに拍車をかける存在も……
「いやぁパン屋さん、調子どうですかな?」
 配達先の幼稚園の園長がイイ笑顔で殴りつけたくなってくる。
 にこやかな笑顔はいい。だがその原因が宿敵・巨人の好調にあると思うと、阪神ファンとしては気分が悪い。
「しかしまぁ、飛ばない飛ばないといわれる統一球ですが、それならそれで戦いようがあるというもので」
 一時期は全員が四番打者といわれたチームだが、それで二年連続V逸している。
 このシーズンも四月は借金7までいき、巨人は「優勝絶望」とまで言われていた。ところが戦い方を変えて、バントなど小技を多用する細かい『スモールベースボール』で快進撃を見せ始める。
 九連戦のラスト。5月6日の阪神戦から交流戦に突入しても、その勢い止まらず、5月25日の千葉ロッテマリーンズ戦まで、三つの引き分けを挟みつつ十連勝。
 日程の関係もあるが、二十日間にわたり負けてない。
 そりゃ巨人ファンの機嫌もよくなろうというものである。
 対する阪神は、交流戦最初の北海道日本ハム戦、楽天イーグルス相手の甲子園のゲームを連敗。続く京セラドーム大阪での対オリックス戦も敗れて五連敗。
 いくら男を維持できたところで、実も機嫌がよろしくない。まして、こんな風に自慢されればなおさらだ。
 さらに応援仲間との間がまずくなっていた。
 実の立場は理解できても、阪神が負けるように願うなら、余所でやってくれというわけである。実の方も、裏切っているような気分で後ろめたかった。
 いっそのこと、阪神ファンをやめられれば楽であろう。
 さすがに巨人ファンに鞍替えするのは極端でも、野球に無関心になればこんなに苦しまないですむ。けれど……何度裏切られても、見限っても、それでもここに戻ってきてしまう。
 阪神というチームにはそういう魅力──それも魔性のものがあった。


 皮肉な展開が待っていた。
 5月23日。対オリックスで連敗を脱して続くソフトバンクにも勝ったが、その週末にデートが控えていた。
 しかし現状はみのりの姿。説明に困る。
 そして26日。土曜の試合は引き分け。これで日曜日は最低でも西武戦が終わるまでは女性のままだ。
 試合開始は午後二時だが、若菜は夕方には引き上げる。
 事実上デート中はみのりのまま。
「ううっ、あんまりや……オレが何したっちゅーねん……」
 みのりは泣く泣く携帯電話で「風邪ひいたのでデートはキャンセル」というメールを送信した。
 だが、これが意外な形で彼──彼女に影響するのだった。


 日曜の対西武戦は敗戦。男の実には戻れたが、どのみち五時までは女性だからデートのキャンセルは正解だった。
 続く甲子園での千葉ロッテ戦は9−9という壮絶な打ち合いで引き分け。
 そして次の31日、続くロッテ戦は緊迫した投手戦であった。
 その試合を、実は応援仲間と田淵家で観戦していた。
 そこにありえない来客があった。
「な……なんでここに? 若菜ちゃん」
 なんと実の恋人、若菜が真弓に連れられて田淵家にやって来たのだ。
 実の母親の連れということで、田淵夫人も快く居間に通した。
「実くんが風邪ひいたって聞いて、やっと時間取れてお見舞いに来れまして。お家の方に行ったらこちらやと伺いまして」
「おかん! なんで連れてくるんや?」
「ええやん、このまま引き分けやったら大丈夫なんやろ」
「阪神が勝ったらどうすんねん?」
「実くん、阪神勝ったらうれしいんやないの?」
 実の言葉に疑問を感じた若菜は、素直にそれを口にする。
「そ、そやけど……い、今はあかんねん──」
「……?」
 きょとんとしている若菜。それも当然。「阪神が勝ったら美女に変身する」なんて話、目撃しない限り理解できない。
「まあまあ、よう来てくれはった。むさくるしいとこですが、どーぞ」
 家主の田淵が笑顔で歓迎する。
「はい、上がらせてもらいますね」
「あかん、あかんのや……」
「あーもうっ、こないなったら実、みな知ってもらえっ」
 田淵が、年長者らしくアドバイス。
「……関係壊れたらどないすんねん──」


 甲子園、そしてテレビの前のロッテファンは、サヨナラ負けのピンチに気が気でなかったに違いない。
 阪神ファンでありながら、「気が気でない」のが実だ。
「打つな……ブラゼル……打たんといてくれ……」
「何ゆうとんねん? ここで打たな勝てんやろが」
「勝ったらあかんのや……」
 しかしテレビの中から快音が響いた。ブラゼルの打球はライト前ヒット。決勝点が入って阪神のサヨナラ勝ちだ。
「「「やったでぇぇぇぇぇっ!!」」」
「あかぁぁぁぁんっ!!」
 好対照であった。その場から逃げようとする実を、みんなで抑え込む。
「ほれ、いつまで逃げとる気やっ!?」
「覚悟決めんかいっ」
 押さえつけている間も、実の姿が変わる。悲痛な叫び声が上がる。
「わ、若菜ちゃん……み、見んで……見んといてくれええええっ!!」
 だけど、若菜は逆に視線が逸らせない。彼女の目の前で実の体が縮み、肌の色が目に見えて白くなる。
 肩幅が狭まるのに反比例して、胸がせり出す。髪が伸び、金髪と黒髪が交互になる。
「み、みのる……くん?」
 何を見ているのか、何が起きているのかわからなかった。
 目の前で恋人が女性になっていく。そんなことがすぐに理解できるはずもない。


 すっかり美女になったみのりは、若菜の前でべそべそと泣いていた。
「もしかして……それがデートをキャンセルした本当の理由なん?」
 若菜のつぶやきに、みのりは力なくうなずいた。そしてすべてを告白した。自棄であった。
「阪神勝ったら女の子になって、次に負けへん限り戻らへんの?」
「そや……けったいな呪いやで……」
 あくまでも上品さを感じさせる表情の若菜に対し、やさぐれてふてくされた表情のみのり。
「ほな、もし今度の土曜日に阪神が勝ったら、次の日、実くんは女の子なんやね」
「……は?」
 何かおかしい……彼女の態度は否定や嫌悪、拒絶という感じではない。
 若菜はみのりの手を取った。柔らかい手が柔らかい手を包む。
「実くん、阪神の応援しましょっ!」
「はい!?」
「うちのお父様、男の子相手の外出にはキツイけど、相手が女の子やったら割とゆるいんよ。せやから実くんが女の子なら、毎週デートできるで♪」
「そ、そないゆうたかて……」
 まさか女性としての自分を受け入れられるとは思わず、みのりは混乱している。
 もしかして、男としての自分はたいして魅力がないのか……? そんな思いもよぎった。
「……どんな姿でも、実くんは実くんやよ」
「若菜ちゃん…………おおきに、おおきにな……」
 そのほほえみは女神か天使か。みのりにはどちらにも思えた。


 好きな相手に受け入れられたことで、実──みのりにも余裕が戻ってきた。
 しかし奇妙なもので、その週末、次の週末と阪神は土日に勝てなかった。
 やっと交流戦終了間際の6月16日、千葉での対マリーンズ戦に勝利。午後二時試合開始だったので、夕方には結果が出て、翌日の緊急デートが決定した。


 前回同様、梅田駅で待ち合わせ。
 しかし、「みのり」は落ち着かなかった。
 そろそろ梅雨入りで蒸してきたのもあり、またいい加減スカートにも慣れたので、足をさらせるスカートでのコーディネートは受け入れられた。だが、いざ駅前でスカートとブラウスという姿でいると、どうにもまわりの視線が気になる。
 そうでなくてもやたら目立つ髪をしている。あれから何度も試したが、やっぱり黒髪にも金髪にも染められない。
 奇異の目で見られるのが、とてもうっとうしい。
「みのりちゃん、ごめんなさぁい」
 遅れて若菜がやってきた。
「若菜ちゃん」
 やっと合流できた。ここから移動できる。
「お待たせ。さぁ、行きましょ」
「うん。でも、どこに行くんや?」
 今回は女同士のせいか、主導権はどちらというわけでもない。
「お洋服買いに行けへん?」
「お、ええな。若菜ちゃんやったら、やっぱふりふりひらひらやな」
「みのりちゃんはレザー系がええかな? けど、そろそろ暑うなってくるし、思い切ってキャミソールに挑戦せえへん?」
「なんでやねんっ」
 大阪人はボケられたら必ずツッコむ──というのは偏見である。しかし、この二人は高校時代からの付き合いだ。だからアドリブもできた。
「うふふっ、うちの方が女の子の先輩なんやし、任せといて」
「ちょ、ちょっと……」
 若菜に強引に手を引っ張られ、みのりは目を白黒させた。


 インナーはある程度、母親に揃えられている。もちろん今もちゃんと着用しているので、下着売り場はスルーする二人。
 その分、アウター選びに時間をかける。若菜は何かのスイッチが入ってしまったらしく、次から次へとみのりに服を用意した。
 完全に女性扱いだったが、みのりはそれでも楽しくショッピングができ、若菜が選んできた何着かを購入した。


 予想外なのはもう一つ。みのりの「知名度」だ。
「あっ、みのりちゃんや」
「ほんまや……勝利の女神やぁ」
 見知らぬ人にそう言われて、みのりは首をかしげた。
「誰が勝利の女神やねん?」
 知らない相手だが、馴れ馴れしく言われてついきつく問い返す。
「あんさんのことに決まってまんがな。何しろ阪神が勝ったら、店に出てくるんやさかい」
「そ、そんなん他人の空似や……」
「いやいや、その髪は間違えようないわぁ」
「……うっ」
 何しろ目立つ髪である。一発で姿を覚えられる。そして阪神が勝った時だけお店に現れるのが、一部に伝わっていた。
 そのためいつの間にか、本人も知らないところで「梅田の女神」と呼ばれていたのだ。
 ちょっとした有名人である。これではとてもではないがゆっくり買い物などできない。
 喫茶店あたりだとなおさらそうはいかない。よりによって窓際の席で、目立つことこの上ない。
 通りを歩く人は皆、金の房と黒の房が交互になっている髪の美女を、もの珍しそうに見ていく。とてもじゃないが「買い物」の続行は無理。
 せっかくのデートを早々に諦めた二人だった。


 交流戦のラスト。
 千葉ロッテマリーンズ四回戦は、引き分けに終わった。阪神は、9勝12敗3分けという成績である。
 交流戦優勝は17勝7敗で巨人──ここまでずっとパシフィックリーグのチームに優勝されていたのを、初めてセントラルのチームがとった。
 10の貯金を上乗せした巨人に対し、阪神は借金3の形。差が開く。
 当然、阪神ファンとしたら面白くない。
(オレが阪神の負けを願っているからか……? けどしゃあないで。阪神が勝つと女になるんや。たまったもんやない……)
 言い訳じみたことを心中でつぶやくみのりである。


 6月17日、交流戦終了。
 その後四日間試合がない。雨天中止の試合はこの日に組まれることになっていた。
 阪神は試合がない。
 つまりみのりは16日から21日の間、ずっと女性のままである。
 髪の色こそ特殊だが、ちょっときつめの美人でスタイルもいい。なので店先に出ているとナンパ男が後を絶たない。
 うんざりしてきた。
(やっぱあかん……女ではあかん……阪神には負けといてもらわへんと……)
 心にもないことを思うみのり。だが、この願いはかなってしまうのである。


 6月22日、リーグ戦再開。
 対横浜戦で待望の(?)敗戦。久しぶりに男に戻った実だが、すぐにまた阪神が勝ち女性化。
 翌日の24日、日曜日の同カードも勝ち連勝。月曜は試合がなく、実──みのりは三日間を女性として過ごした。


 26日からのナゴヤドームでの対中日三連戦は、いわゆる3タテ。
 続く神宮でもひとつ負けて四連敗。
 30日に勝利してまた女になったみのりだが、女になることより阪神の負けが込んできた方が心配だった。
 女性化したにもかかわらず、ほっとしてしまうほどだ。
 それもつかの間。神宮での三つ目を落とすと、今期の鬼門ともいうべき東京ドームでの三つを全敗。
 七月になるというのにいまだに東京ドーム未勝利である。
 松山での対広島戦も連敗で6連敗。神宮でひとつとったがその前後で4連敗と6連敗ではたまらない。


 ここまで来ると、実力差以外の要因を求めてしまうのがファンの性。
「実〜っ、お前、女になりとうないからって、阪神の負け願うてへんやろなぁ……?」
 7月8日の対巨人戦は日曜でデーゲーム。午後二時開始で、試合は六時になる前に終わっていた。
 現在は午後八時。田淵家での「反省会」である。
「そんな佐野さん、あんまりや……いや、願わんかったゆうたら嘘になるけど、せやからって、この連敗オレのせいなんか?」
「いやいやそこまではゆわへんけど、なぁ……阪神勝ったら女になるなんて不思議な体質や──」
「……ふざけた体質ってゆうた方が近いで」
「茶化すな。そんだけ不思議なんやったら、お前が『女になりとうない。阪神負けてくれ』って思う気持ちが連敗につながっとっても不思議やないで……」
「酷い!! 言いがかりやっ」
 佐野の言葉に、実は思わず立ち上がった。
「おいおい、それはちょい言いすぎやで。佐野」
「そやそや、実の立場からしたら、阪神勝つたびに女になっとったらたまらへんで」
「阪神の勝ち負けは実の性別にかかわっとるけど、実の方が阪神の勝敗動かせるとは思えへんわ」
「せや、それやったら真っ先に監督休養しとるで」
 負けが込むと、矢面に立つのは阪神の監督である。
「前の監督の時はなぁ……巨人と五分やったのに……」
「いくら新米監督でも、こらあかんで」
 前任者、真弓監督の時は三年連続で対巨人戦は五分の成績。しかし和田新監督でのこの年は、対巨人戦にここまで五連敗。
 その巨人がすでに首位に立ち、着々と勝ち星を重ねていた。
 阪神との差は開く一方だ。


 交流戦が導入されて現在は三分割といえるが、いまだにオールスターゲームがシーズンの折り返しとみなされている。
 その前半戦ラストゲームも、また巨人相手。連敗していて実は男のままだ。
 甲子園での試合は引き分け。借金10で折り返し。
 たとえば巨人がその状態だとしたら、淡白なファンは早々に諦めてしまう。
 熱狂的な阪神ファンは簡単にはギブアップしないが、それでもこの現実は重くのしかかる。


 オールスター前後に公式戦がないため、その期間は男のままでいられた実。
 だがオールスターブレイクを挟んで連敗中だ。
 後半戦突入直後のナゴヤドームで連敗。一日挟んでの横浜戦にも負け、とうとう7連敗である。
 男のままでいられても、気分はよくない。
 まわりの仲間たちにも重苦しい空気に包まれていた。もはや愚痴すら出てこない。
「……本当にオレが願うとるから阪神負けてんのか?」
 とうとう実自身がそれを言い出した。
「あほか。そんなんで負けるんやったら、俺らのチカラで阪神がV10達成しとるわっ」
 田淵がその弱音をバッサリ切った。
 熱狂的で知られる阪神ファン。その「念」が勝敗を左右するというのであれば、間違いなく優勝しているという意味である。
 逆説的に実の責任などないと言っているのだ。
「だいたい実、お前気にしすぎなんや。病気みたいなもんやろ……しゃーないやん」
「せやけど、たんびたんび女にはなりとうないわ……変な目ぇで見られるし──」
 実の気持ちも理解はできる。田淵たちは皆、黙りこんでしまった。


 7月29日。対横浜三連戦の最後。
 横浜先発は三浦大輔。阪神にとっては天敵ともいうべき存在だ。
 阪神ファンが彼を嫌う理由がもう一つある。三浦は巨人には全く通用しないのである。
 勝ち星を阪神から奪い、それをせっせと巨人に「献上」しているという形が、阪神ファンにはおもしろくない。
 ところがこの年は違っていた。
 三浦は巨人戦で七年ぶりの勝利を上げ、逆に阪神戦には弱くなった。
 この試合も六回終了時点で阪神が四点リード。連敗脱出に期待がかかるどころか、楽勝ムードである。
 実の表情も、割と明るい。順当にいけば試合終了と同時に女性化するのだが、さすがにこの大型連敗脱出が見えれば、明るい表情にもなる。
 ちなみに「実」と『みのり』が別人であるかのように思わせるべく、女性の性を強調するアイテムとして口紅がポケットにある。
 いつ女になってもいい……そういう思いで勝利を待っていた。
 試合は七回の裏、阪神の攻撃中。勝利まであと少し。
 その時、田淵は江本と佐野に目くばせした。うなずいた二人はそれぞれ実の腕をとる。
「……?」
 仲間の行動の意味が分からず、きょとんとする実。しかしそのまま玄関にずるずると『連行』される。
「ちょ、ちょお待てっ。阪神勝っとんのやで。せやのに表出たら、人前で女になってまうやろがっ?」
「だからええんや」
「ええわけあるかぁっ! 終わったらなんぼでも付きおうたるから、人前で変身するのだけはカンニンや〜っ!!」
 しかし聞く耳持たれず、実はそのまま外へ連れ出されてしまった。


「離せっ……離さんかいっ…………離してくれぇ〜っ!!」
 抵抗むなしく、実は梅田の繁華街まで連れてこられた。比較的小柄な実だから、暴れても屈強な男二人は振りほどけない。
 そして暴れるから、逆に注目を浴びてしまう。
「なんやなんや?」「捕り物かいな?」
 野次馬たちが集まってくる。物見高いのが大阪人の特徴だ。
「くっ、来んな……こないでぇ…………見ないでえええぇ……」
 半泣き声でイヤイヤする実。そんな彼にかまわず、田淵はワンセグで試合の経過を確認する。
 ゲームセット──阪神が横浜を下した瞬間、実の変身が始まった。
「な、なんや?」 「……手品かなんかか?」
 驚く野次馬の前で、実は女性化、みのりになってしまった。
「な、なんなんやこれ?」「男が別嬪さんに変わりおったで……!?」
 超常現象を目の当たりにした野次馬たちは声も出ない。やっとぽつりぽつりとしゃべり出した。
 その前で田淵が説明しだした。
「皆、おどろかしてすんまへん。ここにおる藤村 実は、不思議なことに阪神が勝つと女になってまうんです」
「「「んなあほなぁ!?」」」
 目の前で変身を見ても信じられない。全員が一斉にツッコんだ。
「あ……ホンマや。阪神勝っとる」
 同じようにワンセグで確認した何人かが、まわりに伝えた。
「……てことはあんた、ホンマに勝利の女神サンかぁ!?」
「……へ?」
 衆目に「変身」をさらして泣き崩れていたみのりは、このリアクションにあっけにとられる。
「だってそやろ。阪神が勝つと女になるんや。……せやから阪神を祝福しに来る女神サンやっ!!」
 本当言うと阪神絡みで「罰」を与えられているのだが、そんなことはどうでもよかった。
「い、いや……そんなんちゃいますし……」
「謙遜しなさんなって。こらエエでぇ」
 口々にみのりを讃える野次馬たち。中には握手を求める者もいる。
 この反応にみのりは呆然となった。
「みてみぃ。大阪人は情が厚いんや」
「そやで。誰もお前のことを笑ったりせえへん」
「せやから女になるのを、気にする必要なんてないんやで」
 それが目的で、あえてみのりをさらし者にした。とはいえ、本人としては理解はできても納得はいかない。
 それにさすがにそこまで吹っ切れない。しかし、

「おや? パン屋の?」

 パンを配達していた幼稚園の園長──巨人ファンの園長が居合わせた。
「あ、ど……どうも」
 知り合いに会って、とりあえずごまかし気味に会釈する。
「何の騒ぎです?」
 園長は標準語のアクセントで尋ねた。言葉といい、巨人ファンであることといい、実は関東の人間じゃないかとみのりは思った。
「ああ、阪神が勝ったんで、それで──」
「なるほど……長いトンネルでしたからねぇ。そりゃ騒ぎもしますか」
 ごまかす田淵。うんうんとうなずく園長。これだけならよかったのだが……
「こちらは引き分けでひと休みですよ。まぁ六まで伸びた連勝は継続中ですがね」
 巨人はこの時点で首位である。園長はまるで自分の手柄のように上から目線で自慢を始めた。「……うち(巨人)はプラス6で阪神はマイナス6と。ずいぶん差がひらきましたなぁ」
 大阪の梅田で阪神をけなすとは自殺行為だが、みのりが野球を知らない設定だったので、「問題ない相手」と判断してつい本音が出たらしい。
 しかし、阪神ファンが切れるには十分だった。みのりはその瞬間、自分が女になることなどどうでもよくなっていた。
 その空気も読めずに、園長はさらにダメ押しのひと言を口にしてしまった。

「……このままいけば、こっちは三年ぶりの胴上げが見れそうですよ」

 この時点でほぼ優勝を逃していた阪神ファンには、これが引き金だった。
「…………やかましい」
「はい?」
 可愛い声なのだが、それが地の底から響くように聞こえた。
「やかましいっゆうたんやぁっ! いい気になんなよおっさんっ! 阪神はこのままでは終わらへんでっ!!」
 啖呵を切ると、みのりはポケットから口紅を取り出して塗る。
 真っ赤な唇からさらに威勢のいい言葉が出てくる。
「なんてったってウチは阪神の『勝利の女神』なんやからっ!!」
 面白いもので、暖かい阪神ファンに包まれるより、宿敵巨人ファンの暴言に対する怒りで実──みのりは吹っ切れしまった。


 ここから、実はもう女性化を気にしなくなった。
 さすがに球場へ出向くのは騒ぎになるからと自粛しているが、阪神が負けるように願うのはやめた。
 女性化を気にしないのであれば、阪神にはどんどん勝ってもらいたい。
 そしてどうせ美女になるのだからと、みのりは女子としてのファッションやメイクを楽しむようにもなっていた。
 ポジティブに「女の子であることを楽しもう」というわけである。
 ところが皮肉にも、みのりが応援を再開した途端、8月2日から11日にかけて阪神は8連敗を喫した。
 その中には東京ドームでの試合も含まれていた。この時点になっても、まだ東京ドームで勝ててなかったのだ。
「なんやねん! せっかく人が覚悟決めたっちゅーのにっ」
 女になるのもいとわず阪神を応援し始めたのに、これでは叫びたくもなる。


 実質的に、阪神のVは遠のいていた。
 そして九月二日。対広島戦で勝利を収めたものの、巨人もデーゲームで横浜に勝利する。
 このあと巨人が全敗、阪神が全勝しても同率。その場合は直接対決の成績が決め手になるが、この時点ですでに対巨人は負け越していた。
 すなわち、阪神V逸である。
 追い打ちをかけるように、阪神の主砲・金本の引退が9月12日に発表された。
 連続フルイニング出場の記録を塗り替えた「鉄人」も、右肩の故障で最後三年は不本意な成績に終わっていた。


 実は相変わらず、阪神の勝敗で翌日の性別が変わっていた。
 吹っ切れたし慣れてしまったが、それでも球場へ行くのはやめていた。
 とはいえ、順当に行けば今季最終戦は甲子園。それが金本の引退試合になるだろう。
 2003年、2005年の優勝だけでなく、阪神に貢献してきた選手の最後。見届けたい。しかしこの体質では……
「実、甲子園行かへんのか?」
 田淵がやんわりと問いかけた。
「行きたいわい……オレかて金本はんにお礼言いたいねん……」
 それが実の本音だった。
 10月5日、対ヤクルト戦を0−2で落とし、実は男のままである。
 残りはあと一試合。これが金本の引退試合だ。
「せやけど──」
 さすがに甲子園で女性に変身したくはなかった。
 だけど、あるメールが実の背中を押した。
 若菜からのメールである。

「実くん、最後の試合、一緒に応援しに行きましょう。わたしを甲子園に連れてって」

「『タッチ』の南ちゃんかいな……」
 その文面に、ふっと力の抜けた笑いが出た。


 10月9日。
 阪神タイガース2012年ラストゲーム。同時に金本知憲引退試合。
 大観衆が最後の雄姿を見ようと、甲子園球場に詰めかけていた。
 その中には、四月以来の観戦となる実の姿もあった。
 いつもの応援仲間である田淵、佐野、江本、川藤、藤田……それに加えて、生まれて初めて球場に来るという若菜が彼のそばにいた。
 試合は阪神・能見、横浜・三浦で始まった。
 最初のうちは野球音痴の若菜にやさしく解説していたが、阪神が点を入れて優勢になると、俄然張り切りだす。
 若菜そっちのけで大声を出して、阪神を応援している。
 「勝てば女性化」というのは、この時点で実の頭にはない。
 もちろん四番・レフトで先発出場した金本の打席では、ボルテージが最高に上がる。実は何もかも忘れて、ひたすらに応援した。
 試合は二回から登板したメッセンジャーが最後まで横浜にホームを踏ませず、鉄人のラストゲームに花を添えた。
「やったでぇぇぇぇぇっ!!」
 実の歓声が、途中から女性のものに変わっていく。「……あー、始まりよったわ」
 そして意外と冷静になっている自分に気付いた。


 しばらくして……
「お待たせ〜っ」
 ミニスカートにシャツという姿のみのりが、女子トイレから現れた。
 簡単だが化粧もしている。手にしたポーチすら女物だ。
「どう? ウチ可愛いやろ♪」
 女性化をすっかり受け入れ、むしろ楽しむようになった結果である。だからこそ甲子園まで来れたのだ。
「うん、みのりちゃん可愛い」
 興奮気味に若菜が答えた。
「おおきに。ま、これも次のゲームで阪神負けるまでなんやけどね」
 しかし、実──みのりは完全に忘れている。今日の試合は、金本の引退試合であると同時に……
「何ゆうとんねん。実、これ最終戦やで」
「……え?」
 川藤に指摘されて思い出した。みのりの手からポーチが力なく落ちた。そして、

「うそぉ……ほな、もしかして来年の開幕までオレ、ずっと女のままなんかいなぁぁぁぁぁっ!?」

 甲高い声が、甲子園のスタンドに響き渡った。
「ホンマに? みのりちゃん」
 どちらかというと嬉しそうに尋ねる若菜。
「ううっ、どうやらそうみたいや……」
 それを感じ取れずに、落胆した口調のみのり。
「来年まで女の子なんやね……せやったら今度、旅行に行かへん? 女の子とやったらお父様も許してくれる思うわ」
「う……ま、まあええけど──」
 こんなメリットがあったとは。そう思うみのりだったが。
「せやけど、仮にオープン戦の勝敗が影響するとしても、二月までは女のままなんて……そんな長い間──」
 さすがに四ヶ月は長過ぎる。このままだと下手すると、「恋人」から「女友達」になってしまうのではないかと危惧してしまう。
「結構なことやないか。その間『勝利の女神』がおるんやから」
 そんな心情を知ってか知らずか、あるいはポジティブにとらえさせるためか、楽観的な口調で田淵が口をはさんだ。
「ぶちさん……試合もないのに『勝利の女神』に何の意味があるねん?」
「そうでもないで──」




















 10月25日、プロ野球ドラフト会議。
 これまで一位指名のくじをことごとくはずしてきた阪神だったが、この年は大物新人二名の交渉権を獲得できた。
 それに対してファンの一部では、「梅田にいたはる『勝利の女神』のご加護や」という声が上がっていたとか。

(Game Set)




あとがき

 発想のきっかけは「少年少女文庫」さん。
 諸事情で「NO SISTER NO LIFE」「佐藤君と鈴木君」「鈴木君と佐藤君」という作品のアレンジをしないように頼んだこと。
 しかしなんか否定している気分になり、なら逆に編集さんの手を借りようと思い立って。
 どうせだから僕だけでは書けないような物をと思い。
 編集さんが大阪の方なので、そちらのアドバイスをもらう。あるいは投稿した際にアレンジと。
 「大阪」でもっとも僕が分かるものということで「阪神タイガース」が浮上。

 阪神が負けると女の子……女になりたくないし、阪神も勝ってほしいから阪神応援。大阪の人でそれはおもしろくもなんともない。なので
 阪神が勝つと女の子……女になりたくないから阪神には負けてほしい。けど阪神ファンとしては……というジレンマを中心に展開しました。

 変身の原理に「あの人形」なのは「阪神で呪いならこれしかない」ということで。
 さすがに実在するのでぼかした表現ですが。

 苦労したのは現実の阪神の試合を調べながら。
 僕自身は東京在住の巨人ファンで、それが大阪舞台に阪神ファンを描くのですから。
 特にお世話になったのが「阪神タイガース公式サイト」と「阪神守護天使〜今日のおちちゃん〜」というサイト。
 また阪神ファンの友人。大阪在住の女性の絵師さんにいろんなアドバイスをいただきました。
 この場を借りてお礼申し上げます。
 作中出てきた、巨人ファンの園長は文庫編集さんの「実話」をアレンジして。
 また阪神ファンたちが言っていた「ナゴドには山羊の首が埋まっている」は友人のコメントからいただきました。

 ネーミング。
 主人公は劇中設定と同じ。
 阪神の永久欠番。藤村富美男氏の苗字と、村山実氏の名前を拝借しました。
 ただ「実……みのり」はとある実在アイドルを取り上げた漫画の主人公(あちらは女装)とかぶるなと思いましたが、やっちゃいました。
 その他の登場人物も阪神OBから。
 我ながら「竹之内若菜」というネーミングは「ナイス」と思いました(笑)。

 タイトルの「S」が大文字なのは『TS』ということで(笑)。

 お読みいただきまして、ありがとうございました。
 城弾

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