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 ガールフレンド

  Taika Yamani. 

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  第三話 「自分たちらしく」



 『逃げ出してごめんなさい。でもどうしていいかわからなかった。初瀬だなんて思えなかった。』

 六月十三日、火曜日の朝。
 病院の入院病棟の待合室、高槻初瀬の携帯電話に届いていたメール。
 送信時刻は真夜中。妙にしおらしいそのメールの差出人の名前は、春日井エリナ。
 昨日、性転換病によって男から女になった初瀬のお見舞いに来て、途中で病室を飛び出していった少女。
 同時に、佐藤美朝からのメールも二通届いていた。
 エリナと一緒に初瀬のお見舞いに来て、エリナが飛び出すきっかけになった言葉を言った少女。そして、昨日の初瀬と何度もキスをした少女。
 美朝のメールは他愛もない内容だった。美朝はこうやって、初めて携帯を買ってもらった時からずっと、初瀬にしてみればどうでもいいような内容のメールを気ままに打ってくる。昨日の夕方も、初瀬が別れ際に「気をつけて帰れよ」と言い聞かせていたからか、『いま電車に乗ったよ』『駅に着いた』『ぶじとうちゃく』という複数のメールを出してきていたし、今日の最新の一通もおはようのメールだった。
 昨夜の日付のもう一通のメールも、長文だった割にたいした内容ではなかった。夜に初瀬もメールを出していたから、その返事などで、いつも通り顔文字や絵文字交じりにごく他愛もないことの羅列。
 ただ、そのメールの最後は、いつもと少しだけ違っていた。おやすみなさい、また明日ねの挨拶の前に。

 『キスしてくれて、好きって言ってくれて嬉しかった。』

 初瀬は今の自分のほっそりとした指で、今の自分の唇に触れて、色々なことを思いながら、二人にそれぞれ返事を出した。
 胸が痛くなることを書いてよこしたエリナに対しては、変に気を遣いたくなくて、あえて挑発的な内容で。
 『おまえはバカか。おれはおれに決まってるだろ』
 美朝へのメールもシンプルだ。昨日もたくさん話をしたし、今日もお見舞いに来る予定になっているから、あえてメールで言うべきことは少ない。今週は部活を休むという話も昨日の別れ際にすませていた。
 『今日はアイス忘れるなよ』
 昨日はひたすらお互いに夢中で、アイスのことはすっかり忘れていたから、軽く催促だけしておく。
 美朝のお父さんとお母さんからも励ましのメールが来ていて、初瀬はまた色々なことを思わされながらも少し胸を温かくして、退院したらこちらから会いに行きますという内容の短いお礼のメールを返した。
 美朝からの返事はすぐに、また二通来ていた。
 エリナは美朝と違って頻繁にメールをする方ではない。午前中、仕事に行く前に様子を見に来た父親の相手をしたり、病院の美容室で髪を切ってもらったりした初瀬が、お昼に携帯を確認した時、無駄に多数のメールが飛んできていたが、その中にエリナからのメールは含まれていなかった。
 『ごめんなさい、アイス買ってたんだけど、エリナちゃんがそのまま持って帰っちゃってたみたい』
 「持って帰ってたのかよ」
 初瀬は美朝のメールに無邪気に笑って、華奢な小声でつっこみを入れて、もう一通の『みんなもお見舞い行きたいって言ってるけど、まだ断っておくね』という内容のメールにも目を通して、まためるめると二通のメールを書いた。
 『今日は金はエリナに出させとけ。他のやつは連れてくんなよ』
 『おまえはおれのアイスに恨みがあるのか。今度三倍返ししろよ』
 美朝へのメールと、エリナへのメール。
 なかなか適当なひどいメールだが、気心の知れた相手だから問題なしである。美朝はエリナだけにお金を出させようとはしないだろうし、エリナへの三倍返しの要求も半分冗談だ。エリナが本気にしたらしたで、今度改めてどこかに一緒に食べに行けばお互いに楽しい。
 昨日のエリナが、あの後アイスをどう処理したのかを想像すると、初瀬はなんだか笑えると同時に胸が痛くなったが、態度を変えるつもりはなかった。
 特別な二人にメールを出すと、初瀬は他のメールを流し見て、中学からの女友達の『笑う準備完了!』というふざけたメールにまたちょっと笑って、『写メを送れー』などという悪友たちのメールもとりあえず放置して、元気よく午後のリハビリに向かった。
 どうやら美朝が休み時間に二通目のメールを出す時に、その場にいた連中がこぞってメールを書いたらしく、ふざけ半分のメールが多かった。悪友たちは気を遣ってわざとふざけているのか、それとも素でこの態度なのか、どちらにせよ変に遠慮される方向に気を遣われるよりはずっといい。この先友人関係が変化することを、初瀬は覚悟しているが、みんなまだ「今の初瀬」の実物を見ていないせいもあってか今のところ以前通りで、内心少しほっとした。
 その分余計にエリナのことが気になって、初瀬は美朝とエリナのことばかりを考えながらリハビリをこなした。



 リハビリで身体を動かして、衝動的に少し無理をして、また鬱屈を抱え込んで、汗をかいたから病室で着替えて。
 その後の診断で、土曜日の退院が仮決定した、午後四時過ぎ。
 それまでに仮眠を取り損ねた初瀬は、美朝がくるとわかっていながら眠りこけていて、お見舞いにやってきた美朝にやたらと心配されてしまった。おまけに髪を切ったことを大げさに嘆かれた。
 今の初瀬の髪は、「肩甲骨のでっぱりが隠れるあたりで切ってもらった」という本人の言葉より長めで、まだ背中の半分を越える長さがある。初瀬はこれでも鬱陶しいからと、母親が用意していたシンプルな赤いヘアゴムで二つに束ねていた。首の横あたりに髪があるとなんだか落ち着かなかったから、首の真後ろで半分に分けて二束だ。前髪は、少し悩んだがワンレンのままはわずらわしかったから、気になったら伸ばせばいいやということにして、目にかからない長さで切ってもらった。
 今も充分に長い初瀬の髪は、フロントはさらさらとおでこを覆って、サイドは後ろにまわって形のよい耳がむき出して、バックは首の後ろで二つに細くまとまった後、きれいに背中に流れていた。
 少し地味とも言える髪型だが、ナチュラルに活動的な印象も混じって、今の初瀬の端整な容貌を清潔に彩る、自然体な雰囲気のヘアスタイル。初瀬はしばらくこの髪型で通してみる予定だが、にっこり笑っていれば明るい愛嬌のあるきれいな女の子なのに、言動や振る舞いは男の子のそれで、ある意味色々とミスマッチだった。
 「でも、似合ってるけど、やっぱりもったいないなぁ」
 「うっさい。しつこいぞ」
 ベッドの上に座る初瀬は、セミロングの髪の美朝――今日はサイドを淡い紺色のヘアピンでとめている――に言われるままに一度髪をおろしたりしたが、やいのやいの言われるうちにだんだんとうんざりしてきて、すぐにまた二つに束ね直した。
 とても残念がる美朝を、初瀬は半ば本気で邪険にして、美朝も少しむくれたが、お見舞いのアイスを食べるうちに機嫌は直る。水色の半袖オープンパジャマ姿の初瀬があーんと言い出して、夏の制服姿の美朝もはにかみつつ喜んでお返しをして、二人和やかに時を過ごす。
 忘れないうちに授業のノートの受け渡しもして――これも昨日渡す予定だったがエリナがそのまま持って帰っていた――、「うげー」と嫌そうな顔をする初瀬を、美朝は笑って慰めていた。
 「ね、どうせなら、髪、前に出してみない?」
 そんな勉強の話題や学校の話題などが一区切りついた後、美朝は不意に話を戻した。
 「なんだよ、まだ言うか」
 「そうじゃなくて、こうやってね――」
 以前とはまったく違う初瀬の高い声には、うんざりとした音色が宿っていたが、美朝は構わずに動く。
 椅子から立ち上がってベッドに身を乗り出した美朝は、こうやってね、と言いながら、初瀬の首に両腕をまわすように、初瀬の後ろ髪に手を伸ばした。
 「後ろで二つ結びなだけでも、きれいだけど、肩から前に出すと、もっと可愛いと思うの」
 反射的に身じろぎをする初瀬の艶やかな髪を、美朝は丁寧に優しく手に取って、両方の肩からそれぞれ前に流す。
 「これなら、簡単だし、手間でもないでしょう?」
 「……別にいいけど、似合うか? なんか狙いすぎっていうか、あざとくね?」
 「そんなことないよ。可愛いよ」
 パジャマが内側から盛り上がっている部分にかぶさる長い髪を、初瀬はちょっと複雑な表情で見てさわって、そのまま両手を首の後ろにまわした。もう日常的に体感させられている、今の自分の肉体のすべてを意識しつつ、手慣れないしぐさで赤いヘアゴムをいじる。
 「なんか落ち着かんなぁ。首もこそばいし、すぐ戻っちまいそうだし」
 「あ、じゃあ、ちょっと結ぶ位置を横にすればいいよ」
 「んー」
 初瀬は胸の奥にくすぶるやるせなさを押し殺して、美朝に言われた通り、首の真後ろで結んでいた位置を少し横にずらしてみた。が、最初から前に流す前提で束ねる位置を決める、ということなのだろうが、初瀬はいまいちピンとこない。
 むき出しの肘を揺らして曖昧な表情で髪をいじる初瀬に、美朝はくすっと笑って、サイドテーブルから卓上鏡を手に取った。
 「ほら、見て。ね? 可愛いでしょ?」
 「……まあ、確かに、髪型一つで雰囲気は変わるな」
 初瀬は両手を首の後ろにまわしたまま、美朝が持つ鏡の中の、まだ「見慣れない少女」と真っ向から視線を合わせる。
 大きな襟のついたゆったりした水色の半袖パジャマに身を包んで、五つの大きめのボタンをきちんととめて、ゆとりのある首まわりからほっそりとした鎖骨の一部が自然に覗ける、髪の長い女の子。
 確かに、初瀬の目から見ても、その少女のきれいに整った顔立ちや、抜けるように白い瑞々しい肌に、左右の首元から胸に流れる艶やかな黒い髪はよく映える。
 が、似合うのは似合っていたが、初瀬としては、やはり多少狙いすぎな気がする髪型だった。
 もう少し成長すればもっと自然に色っぽく似合うのかもしれないが、今はまだ、雰囲気を可愛くやわらげて、どこか幼い印象になるヘアスタイル。
 髪から手を離した初瀬が、首を軽く傾けてみると、鏡の中の少女も同じ動きをする。パジャマのまろやかなふくらみにかぶさる二束の長い髪が、初瀬の動きに合わせて柔らかく揺れた。
 「でもやっぱりもったいないなぁ。せっかくあんなに長かったのに」
 「しつこいっつーの。ちょいずらしてみたけど、コレ後ろはどうなんだ?」
 「あ、うん。――全然、変じゃないよ。可愛いよ」
 突然背中を向けた初瀬に、美朝は一瞬ドキッとしながら、見たままを答えた。横に無理矢理ずらしたせいか少し乱れているが、二つに分けられた髪の光沢がきれいで、赤いヘアゴムも自然なアクセントになっていた。髪が左右によっているから、透き通るようになめらかなうなじも覗けて、ほのかな色香が漂っていた。
 「――ね、どうせなら、リボンとかしてみない?」
 「なんだよ、リボン? 別に試してもいいけど、なんか面倒そうじゃね?」
 「そんなことないよ、ただ結ぶだけでもいいし。もっと上でポニーテールみたいにするのも、すごく似合いそう」
 「って、そういや、おまえがリボンとかしてるの最近あんま見ないな?」
 最近の美朝は、セミロングの髪を昨日のようにナチュラルに肩に流すか、サイドを軽くヘアピンでとめる程度というのが多い。そのヘアピンも学校に行く時は髪に溶け合うものばかりをチョイスして、今日のヘアピンも清潔に大人しい印象であまり目立たない。
 「え、あ、ん……、だって、わたし、子供っぽくなっちゃうから」
 「別にいいじゃん、少しくらい子供っぽくても、可愛いんだから」
 美朝が童顔を少し気にしていると知っているから、初瀬は頬をほころばせて、素直な本音で甘くからかう。美朝は一瞬言葉につまったようだが、すぐに照れたように嬉しそうに笑った。
 「じゃあ、今度初瀬くんも一緒にリボンだね」
 「なぜそうなる。おれを巻き込むなっつーの」
 くすくす笑って、美朝は鏡を置いて椅子に腰掛け直す。それから、美朝は笑顔のまま、お互いに気付かないくらい少し態度を引き締めた。
 「エリナちゃんも、中学までは、リボンとかよくしてたのにね」
 「ああ、あいつの髪長かったからなぁ。小学校の時はしょっちゅうだったな。あのまま伸ばしてりゃよかったのにな」
 『みあはエリナが髪切った時も騒いでたよなぁ』
 当時の初瀬は、エリナが髪を切った理由を勘繰ってしまって、色々な意味でショックだったが、美朝が騒ぐからすぐに落ち着いて受け止めることができた。少し胸が痛くて、懐かしい記憶。
 「――わたしも、髪、伸ばした方がいい?」
 「ん? あー、はは、なに気にしてるんだか。似合ってるんだから、無理して変えなくていいよ。色々見てみたいって言えば見てみたいけど、おまえは今くらいの髪ってイメージが強いし――」
 可愛くて好きだしな、と続きかけた言葉を、初瀬はなんだか照れくさくなって飲み込んで、無意識に自分の首の肌をつまむように撫でた。
 「まあ、エリナも長い髪ってイメージが強かったからさ。今はもう短いのも見慣れたけどさ」
 「……うん、そうだね。もったいなかったよね。高校入るからって、切ることなかったのにね」
 「そうだよなー。ホントもったいなかったよなぁ」
 エリナが髪を切った理由は、おそらくそれだけではない。そのことを知っている初瀬は、胸の小さな痛みを隠して、照れ隠しも混ぜて、わざと軽く美朝に応じる。
 美朝も、中三のバレンタイン前頃にエリナが初瀬と何かあったことは察しているが、それ以上深く話題を掘り下げない。
 そんな話の流れの中で、美朝はタイミングを見計らったように、まっすぐに今日のエリナのことを切り出した。
 「エリナちゃん、女の子になった初瀬くんのこと、初瀬くんって思えない部分があるみたい」
 「……まあ、見た目は他人で初対面の女だからな」
 美朝は昨夜のうちに電話でエリナと話をして、今日のお見舞いにも誘ったらしいが、エリナは掃除当番と部活を言い訳にして断ったという。エリナは今の初瀬に会うことに抵抗があるらしい。
 初瀬としては不満もあるが、エリナ本人のメールにも書いてあったことだから、その美朝の言葉はわかりやすいものだった。今の初瀬の姿や声は、初瀬自身から見てもまだ見慣れぬ女で、自分とは思えない。美朝の方がどちらかというと希少で、エリナの態度も無理もないと初瀬は思う。
 美朝はさらに、「エリナちゃん、初瀬くんと女子同士になるのも抵抗あるのかも」と少し曖昧に所見を述べたが、その言葉も初瀬には重かった。
 それは深読みすれば、初瀬の自惚れでなければ、同性愛への抵抗ともとれる。初瀬と女性との恋愛は、もう異性愛ではなく、肉体的には「女の同性愛」という形になる。昨今は法整備が進んで同性間の結婚も認められているが、男同士であれ女同士であれ、同性愛への偏見や嫌悪や抵抗は根強い。初瀬も、他人がやる分にはどうでもいいが、自分が同性――男性――とどうこうなんて気色悪すぎて考えたくもない。初瀬に男の同性愛への嫌悪があるように、エリナにも女の同性愛への嫌悪があるのかもしれない。初瀬は覚悟をしていたつもりだが、エリナの態度で実感させられるのは少しきつかった。自分の身体が男ではなくなっている現実に、ネガティブな感情がしつこく湧き上がってしまう。
 それでも、初瀬はエリナに譲るつもりはなかった。
 もともとエリナは、家族の性格の影響か、自分からだれかに甘えたりするのがあまり得意ではない。だから初瀬は、いつも通りに、初瀬の方から素直に積極的にエリナに構う。
 『おまえも明日は見舞いに来いよ』と、初瀬はエリナにまたメールを出した。美朝が今日もキスと抱擁の余韻を残して帰った後に、なんとなく微かな後ろめたさと切なさを感じながら。
 エリナの態度がどうであれ、初瀬はエリナに遠慮するつもりは絶対になかった。



 初瀬がエリナからの返事を確認したのは、翌日、水曜日の朝。
 昨夜も自分の身体と二人の女の子を想って寝付けなくて、時間をかけて身体を慰めて眠って、気だるく目覚めた朝。この日も寝起きから自分の身体を再認識して、ここ数日同様鬱屈から始まった朝。
 メールの送信時刻はまた真夜中だった。
 『まだ会えない。初瀬と違ってわたしはデリケートなのよ』
 エリナもメールであれば多少はいつも通りに振る舞えるのか、後半は軽く冗談を言い返すような台詞だが、前半の言葉とともに、深読みすると、今の初瀬にはやはり重い。だが初瀬はあえて気にしないフリをした。
 『デリケート! m9(^Д^)』
 普段顔文字はあまり使わないが、わざわざふさわしそうな顔文字を探し出して返信して。
 もろもろの予定を消化して昼に携帯を確認すると、さすがに少しはカチンときたのか、短い返事が来ていた。
 『どうせわたしはみあとは違うから』
 『当たり前のこと言うな。みあはみあで、おまえはおまえで、おれはおれだろ』
 初瀬はなんとなく気に障って、反射的にそう返事を出したが、深く考えると、エリナのその言葉も軽くはなかった。単純に拗ねたとも取れるが、意味深に解釈する余地がある。
 やや曇りがちな昼下がり、初瀬は赤いスウェットの半袖パジャマ姿で病院の中庭で短時間太陽の光を浴びて、リハビリのストレッチやウォーキングをしながら、今の自分の身体への感情を押し殺して、気になる二人の女の子のことばかりに思考をめぐらせる。
 エリナの中には、もしかしたら、美朝への屈折した劣等感のようなものもあるのだろうか。
 普段なら気付かなかったのかもしれないが、無駄に考える時間があるから、初瀬は漠然と気付いた。
 親友と言えるほど仲がいい友達同士である、美朝とエリナ。昨日の美朝の様子を見る限り、エリナに対する美朝のスタンスは特に変わっていないらしい。色々と思い悩んでいるらしいエリナを、美朝は良くも悪くも、今は見守ることを選んでいるようだった。
 だが、エリナの方は、そんな美朝に対しても、平静ではいられないのかもしれない。
 一昨日のお見舞いの時、エリナが急に帰ったのは、美朝が初瀬に対して露骨に好意を表現したことが最後のきっかけで。直接的な表現ではなかったが、さらりとして重い物言いでもなかったが、「女の子になっても初瀬くんは初瀬くん」「初瀬くんなら女でもいい」と、初瀬本人に言い切った美朝。初瀬にまっすぐに気持ちを伝えて、真っ向から体当たりするように、一途にぶつかってきた美朝。
 そんな前向きな美朝とは違って、今の姿の初瀬を初瀬だと思えないらしいエリナ。元の身体とは大きく変わってしまった初瀬を、女の身体になった初瀬を、初瀬と女同士になったという現実を、どれも受け入れがたいらしいエリナ。
 そして、初瀬の自惚れでなければ、まだ初瀬のことを好きでいてくれていたエリナ。だからこそ、見知らぬ同性という形になる今の初瀬を、受け止めることができずにいるエリナ。
 初瀬としては、身体がどうであれ自分が自分なのはまったく同じつもりだから、距離を置くよりは真っ向からぶつかってさっさと慣れた方がいいと思うのだが、エリナとしてはそう単純にはいかないらしい。
 そんなエリナの気持ちは、初瀬もわからなくはない。初瀬も自分の身に置き換えて考えてみれば、美朝やエリナが突然見知らぬ男になったりしたら、かなりショックを受けて激しい葛藤に苛まれると予想ができる。が、気持ちはわからなくはないが、納得はできない。納得したくなかった。
 『ただでさえおれだってきついっつーの……』
 どんなに開き直っているつもりでも、まだ今の自分の女の身体への抵抗や不満もあるし、元の身体への未練も根強く、一人の夜に懊悩することもある。
 「いい加減電話しちゃろか」
 初瀬は少し真剣にそう考えたが、今の初瀬は「声」も元の男の声とはまったく違う女の声だ。初瀬自身まだ自分の声とは思えず、自分の口からやけに可愛い女の声が飛び出ることにこっぱずかしさや情けなさや反発があるし、違和感も強い。本人ですらそうなのだから、エリナはそれが初瀬だとはなおさら思えないかもしれない。声だけがクローズアップされる電話では、余計にこじれる可能性もある。意識すれば多少は男性的な低音の声も出せるが、どこか不自然な作った声になってしまうし、どうがんばっても元の声とは全然違う。
 『いっそ手紙でも書いてみるか?』
 今時古風な発想も頭に浮かんで、初瀬は小学校時代に強制的に付き合わされたお手紙ごっこ――女の子たちの可愛いレターセットを使ったわざわざ手紙にする必要のない手紙のやりとり――を懐かしく思い出したりしたが、今回は子供のお遊びではない。携帯メールでさえまどろっこしいのに、紙の手紙なんていっそうまどろっこしい。そうでなくとも、真面目な紙の手紙はなんだか気恥ずかしいし、今のこの状況では何を書けばいいのかもよくわからない。
 『会わなきゃ何も始まらないだろ』
 そう追加のメールを出すだけで我慢した初瀬は、美朝がやってくるまでもんもんと午後を過ごした。
 ちなみに、午後のリハビリ中に学校の担任教師がお見舞いにきたが、特筆すべきことは何もなく、どうでもいい余談である。
 だんだんと他の友人からのメールも増えて、彼彼女らともメールのやりとりが始まっていたが、これも余談である。もともと筆マメではない初瀬は、悪友たちへのメールは実にぞんざいで、夜に適当にまとめて返事を書いたり、美朝とエリナのメールのついでに気が向いたら出すといった具合だった。
 さらに余談だが、初瀬がメールを確認するたびに、ほぼ毎回美朝からのメールが届いているのも、これも言うまでもないことである。相変わらず絵文字や顔文字交じりに、最近美朝が興味を持ったことや、初瀬が退院したら一緒にやりたいことなどなど色々な内容で、いつも携帯メールとしては長文気味で、複数来ていることも頻繁にある。今日もこれから会うのに、昨日も一昨日もお見舞いで二人きりの時間を過ごしているのに、今は病院でしか会えない分、美朝の話は尽きないらしい。他愛もない美朝のメールに、初瀬は気を抜いて気軽に返事を出していた。
 気を抜きすぎたのか、お見舞いに来た美朝の前で、初瀬はお昼寝を我慢できなかった。
 露骨に昨日の会話の影響で珍しく髪をリボンで結んでいる美朝に、ちょっとドキドキして、照れ隠しにからかって笑い合った後。
 美朝がTS病の話題を持ち出して、一人で調べたり友達と一緒に調べたというTS病関連の話題や病室にあるハウツー本などの話をして、今の初瀬の美容や服装についてまであれこれ話が広がるうちに、初瀬の眠だるさは限界に達していた。
 「すまん、みあ、今日は眠い……」
 初瀬はうとうとしながらガールフレンドの相手をして、ちょっと不満げな心配げな彼女をそっと抱き寄せて、優しく唇を奪って、頬を赤くする彼女を笑ってなだめて、堪え切れずに浅い眠りに落ちた。



 エリナからの次のメールの送信時刻は、また真夜中だった。
 六月十五日、木曜日の朝。携帯を確認した初瀬は、「エリナのやつちゃんと寝てるのか?」と思いつつ、メールを読んだ。
 『いつから学校くるの?』
 初瀬は一瞬面食らった。
 美朝と違って、エリナのメールは要点のみで短いことがほとんどだから、何を考えているのかわかりづらい。いつもなら、気軽に電話もできるし毎日顔を合わせていくらでも直接話せるから、メールの短さなんて気にならないのだが。
 ともあれ、今後の予定を訊ねてくるのは、少しは前向きになってくれたと捉えていいのだろうか。
 『学校は早ければ来週中、遅くとも再来週月曜の予定』
 とりあえず回答を書いた後、初瀬は率直な文章を付け加えた。
 『まさか学校行くまで会わないつもりじゃないだろうな? いい加減今日は見舞いに来いよ。部活もないだろ』
 木曜日は週に一度の七時間授業の日で、休養日にあてている部が少なくない。エリナの新体操部も初瀬と美朝の弓道部も、基本的に木曜と日曜は休みだ。樟栄高校の運動部は「無理のない範囲でやる気の分だけやる」という傾向で、一部の例外を除いて、全体的に強豪とは言いがたい。
 初瀬は返事がすぐに来ることを期待していなかったが、今度の返事は早かった。
 昼に確認すると、恒例の美朝からのメールだけではなく、エリナからのメールも来ていた。
 『部活はないけどやめておく。暇ができたら会いに行ってあげる』
 初瀬はその内容にちょっと眉を寄せて、すぐに返事を出した。
 『暇ができたらっていつだよ。来ない気ならこっちから押しかけるからな。退院は明後日に決定』
 土曜日の退院が正式決定したのは、今日の午前の診断でのことである。昨日来て明日も来る予定の母親や、美朝や兄にも、初瀬は退院日決定のメールを出した。
 もう九日ほど経過して、身体の自由もだいぶ取り戻しているから、家で過ごすだけなら今日にでも退院できるのだが、まだすぐ疲れて眠だるくなるし、本調子には程遠い。リハビリの運動も病院の方が安全で広い場所を使えるし、明日には婦人科の検診やカウンセリングなどの予定もあったし、無理に急ぐ理由もないから、明後日まで入院生活を続ける予定だった。
 エリナの次のメールも早かった。
 『勝手にきたって追い返すから。まだ体調良くないんでしょ?』
 仮眠から起きて美朝が来るまでの待ち時間にメールをチェックした初瀬は、また予想外に早いエリナのメールを驚き喜びつつ読んで、だんだんとエリナが普段通り砕けた雰囲気になっているように感じて頬を緩ませて、即座にメールを返した。
 『ちょっと出歩く程度ならもう問題ないよ。動きすぎるとすぐだるくなるけどな。退院したらおまえに会いに行くくらい朝飯前だ』
 一緒に届いていた美朝のメールは、土曜なら退院に付き添いたいとあったが、午前の退院になるかもしれず、まだどうなるか決まっていない。事前の相談では兄が車を出してくれる予定だが、もしかしたら両親も一緒かもしれないし、その場合は車が窮屈になるだろうから、美朝たちが来ても別に帰すことになるかもしれない。
 初瀬はそんな内容を簡単にまとめようとしたが、長くなりそうだから直接言うことにして、遊び半分なメールを返した。
 さらに次のエリナのメールも早かった。
 が、その前に、初瀬は今日もお見舞いに来た美朝に、胸がざわつくことを告げられた。エリナの件ではなく、完全に別件。美朝本人のことだった。
 いつもより一時間遅い木曜日、平日の面会は午後八時まで可能だが、初瀬は美朝の帰りが遅くなるのを気にして、初瀬の夕食時間になる六時には帰るように促すから、他の日よりも時間が少ない。
 学校が終わるなり急いでやってきたこの日の美朝は、五月下旬のニュージーランドへの修学旅行のお土産と、旅行中の写真をきれいにまとめたファンシーなアルバム帳を持ってきていた。修学旅行に行けなかった初瀬は、大げさに嘆いて半分本気で悔しがって羨ましがったが、そんな冗談半分の初瀬に、美朝は真顔で反論をした。
 「初瀬くんが病気になんてなるから悪いんだよ。初瀬くんのこと気になって、わたしもエリナちゃんも全然楽しめなかったよ」
 まっすぐに言う美朝に、初瀬はちょっとドキッとして、同時に自分が病気で女になってしまったことに暗い感情を抱きつつも、わざと軽く笑って言い返した。
 「せっかくの修学旅行なのに、なにもったいないことしてるんだよ。そこはおれの分まで楽しんでくるとこだろ」
 「でも、初瀬くんがいないと、やっぱりつまんないよ」
 「――まったく、贅沢なやつだな」
 不思議な嬉しさとネガティブな感情を隠して初瀬が茶化すと、美朝も表情を緩めて、だが真面目に「うん、だから、いつかまたちゃんと一緒に行きたい」と初瀬を見つめる。
 初瀬は少し照れくさくなって、それでいて自然な笑顔になって、無防備な甘い声で冗談めかした。
 「そうだな、その時はちゃんとバスガイドしろよ?」
 「うん、ちゃんと案内してあげるね」
 美朝もすぐに明るく笑う。
 「でも、バスまで貸し切ったらたいへんだよ?」
 「いや別にバスはいらんから」
 「それだと、バスガイドさんじゃなくて、ただのガイドさん?」
 「そんなこまいとこつっこむなよ。どっちも似たようなもんだろ」
 「あは、そうなのかなぁ?」
 若草色のパジャマ姿の初瀬と夏の白い制服姿の美朝、今は同じくらいの背丈の二人、ベッドサイドに並んで座って、腕も脚も触れ合うくらいに寄り添って。笑顔でじゃれあって、お互いの太ももに橋をかけるようにアルバムを広げて、時系列順に写真を眺めて、のんびりと修学旅行の話をする。
 空港での待ち時間の写真や、飛行機内での写真。前半のファームステイ先で、地平線の見えるような草原で羊と戯れている写真や、冬が近づく南半球の夜、暖炉の傍でなにやら美味しそうなものをみなで食べている写真。
 さすがに笑顔で写っている写真が多いが、軽く笑って見せているだけでどことなく気持ちが入っていない表情に見えるのは、初瀬の欲目なのだろうか。どこかまわりに気を遣って取り繕ったかのような、美朝やエリナの笑顔。
 自分のせいで二人が心から楽しめなかったと思うと、初瀬は変な優越感と同時にまた少し悔しくなったが、『マジでいつか絶対みあとエリナとここに行こう』と決意を新たにして、今は素直に美朝との時間を楽しんだ。
 そして、そんな旅行の四日目の話の途中で。
 「んと、それでちょっと初瀬くんのこと話してて、んとね、急にね、――初瀬くんのかわりになれないかなみたいなこと、言われた」
 美朝は少しためらいがちに、クラスの男子に告白めいた発言をされたことを、口に出した。
 美朝が初瀬のために写真を撮っている時に、同じクラスの柏木陽光が声をかけてきて、最初は当たり障りのない会話をしていたのに、突然の言葉。
 「……ふーん」
 初瀬はとっさに気のきいた反応ができず、ついそっけない態度になった。
 「だいじょうぶだからね。ちゃんと断ったからね」
 「…………」
 美朝はまっすぐに「初瀬」を見つめて、目をそらさない。
 初瀬は美朝を束縛する権利を持っていないが、なんだか胸がモヤモヤした。一瞬無意識に『人が病気でたいへんな時に人の女になにしやがるんだ』と傲慢な思考も脳裏をよぎる。その男子は、元気のない美朝を見かねて衝動で口走ったのかもしれないが、初瀬はこの件についてだけは、自分の男友達がどんな気持ちでどれほど勇気を振り絞ったかなんて、思い遣る優しさはない。
 「……初瀬くんも、少しは、イヤとか、思ってくれる?」
 「アホ。当たり前だろ」
 「……当たり前、なんだ……」
 美朝は少し驚いたように、嬉しそうな笑顔になる。初瀬は目をそらして、無意識に自分の首の肌をつまむように撫でた。
 「自分でも、勝手だと思うけどな」
 「そんなことないよ。イヤって思ってもらえない方がイヤだよ」
 「そんなの女を束縛するような男ってことじゃん。好きな女がモテたら自慢に思うくらいがいいだろ」
 初瀬は美朝に視線を戻して、軽く冗談めかす。美朝は「好きな女」と言われて、身体を揺らして目を輝かせた。
 「人に自慢とかされても、全然嬉しくないよ。初瀬くんだけに好きでいてもらう方がいいよ」
 「――なんだよ、そんなに束縛して欲しいのか?」
 「ん……、わたしは、初瀬くんになら。ずっと、独占してもらいたい」
 「っそーかそーか、みあって実はMだったのか」
 初瀬は感情が溢れそうになって、またわざと半分茶化す。
 本音だった美朝も少し照れながらむくれて、「もう、そんなんじゃないよ」と初瀬をぶつ真似をした。
 瞬間、初瀬は衝動的に、美朝の腕をつかんで強引に抱き寄せた。
 「きゃっ」
 美朝のアルバムが床に落ちる。小さな声を上げた美朝の片手が、とっさに初瀬の胸に押しあてられる。
 「おれは欲張りなのかな」
 ――みあとエリナが全部欲しい。
 初瀬はその言葉を飲み込んで、自分の腕の中の柔らかくていい匂いがする美朝の身体と、自分の乳房を弾力的に圧迫する美朝の手の痛いようなうずくような刺激を感じながら、美朝を抱く腕に力を込める。
 美朝は、初瀬の内心をどこまで察しているのか、頬を上気させて微笑んだ。美朝の立場からすれば、今の初瀬の態度は煮え切らない不実な態度と言えるはずなのに、美朝は初瀬を責めない。
 「うん。初瀬くん、昔から欲張りだったから」
 美朝は小さく身じろぎをして、初瀬のまろやかなふくらみから手を離して、そのままそっと力を抜いて、初瀬の身体に身体を寄せる。美朝の視線が一瞬初瀬の艶やかな唇に走り、美朝のきらめく瞳が、初瀬の瞳に接近する。
 そんな美朝がやたらと可愛く見えて愛おしくて、初瀬は衝動を抑えて明るく笑った。
 「そうだな。おれは昔も今も、ずっと欲張りってことか」
 「あ、開き直ってる」
 「その方がおれらしいだろ?」
 目の前できれいな表情で笑う初瀬に、美朝も素直な笑顔で反論をした。
 「そうだけど、でも、自分らしければなんでもいいなんてこと、ないよ? 悪いとこは反省して直さないとダメだよ」
 「いや、別に悪くはないし」
 「えー、そういうのは初瀬くんの悪いところだよ」
 冗談半分なのか、美朝もくすくす笑う。二人自然に、少しずつ顔を寄せた。
 「フォローはみあに任せた」
 「あは、わたしに押し付けるの?」
 「おれもいつもおまえのフォローを押し付けられてるからな」
 お互いの香りも混ざり合う至近距離。
 またちょっとむくれた美朝に、初瀬はからかうように笑って、最後は初瀬から、そっと口と口を触れ合わせた。
 まだ初瀬は美朝を恋人にするとは言わないし、言えないが、もう美朝を手離したくない気持ちは際限なく強くなっている。美朝を求めれば求めるほど、自分の身体が男ではなくなっている現実が重く心に突き刺さるが、初瀬は目を背けない。
 美朝の存在が自分にとってどれほど大きいか、初瀬は強く感じながら、今はただひたむきに美朝との時間を大切に楽しむ。
 目のふちをほんのりと赤く染めた美朝と見つめ合って、初瀬は美朝を優しく抱きしめて、何度も甘い口づけを交わした。



 今の自分の身体のことや、これからのこと、気になる二人の女の子のこと。
 色々なことを思いながら、初瀬がメールを確認したのは夕食後だった。
 美朝が今日も名残惜しそうにお見舞いから帰った後で、仕事帰りの兄が前日の予定通り学生時代からの恋人――小学校の時に紹介されて初瀬も美朝たちも仲のいい女性――と一緒に初瀬に会いに来る前。
 美朝からの他愛もない内容のメールと一緒に、エリナからのメールを、初瀬の携帯電話は受信していた。
 『調子に乗って事故とかあっても知らないから。健康になればいつだって会えるんだから無理はしないで』
 おまえに会いに行くくらい朝飯前だ、という初瀬のメールに対する、エリナの返事。
 少しそっけないが初瀬を気遣うような文面で、初瀬はエリナの気持ちがにじんでいる気がして、胸を熱くしながら即座に返事を出した。
 『おまえが来ないから悪いんだろ。そんな余計な心配するくらいならおまえから会いに来い』
 その次のエリナのメールも早かった。
 初瀬を優しく気遣う未来の義姉――初瀬の中ではもう確定済み――とのやりとりが終わって、もろもろ所用をすませて、のんびりと夜を過ごした後。
 まだ早い時間だがもう寝る準備をして携帯を確認したら、また美朝のメールと一緒にエリナのメールも到着していた。
 『みあは退院付き添うの?』
 昼に退院日決定のメールを出していたから、その時点で、美朝とエリナの間で退院の付き添いの話がでていたのだろうか。
 初瀬の直前のメールをスルーしているし、内容はなんでもないことで相変わらず短いが、初瀬はエリナがやはり少しは前向きになってくれているような気がして、調子に乗って返事を書いた。
 『退院は朝だから付き添いはムリ。兄貴の車で昼前には家に着く予定。おまえも退院祝いに来いよ』
 退院が午前中と決まったのもほんのさっきだ。兄が病院側と退院予定時刻などを確認して、すんなり話はまとまった。初瀬たちの通う高校は土曜日も授業があるから、付き添いたがっていた美朝は残念がるだろうが、学校をさぼってまでやるようなことではない。
 『今日はもう寝る、おやすみ』
 最後に一行添えてエリナにメールを出した初瀬は、美朝にも同じような内容のメールを出した。



 翌日、六月十六日、金曜日。
 美朝からの恒例のメールは、たくさんのがっかりな言葉と絵文字で埋まっていた。
 たかが退院の付き添いなのに、事前にその可能性も知らせてあったのに、美朝は本当にとても残念であるらしい。が、それはそれとして、後半にはしっかりと『学校終わったらすぐおうちに行くね』と書いてあった。
 『明日来るのはいいけどちゃんと昼飯食ってから来いよ』
 今日もまたお見舞いで会うのに、もう明日の昼食のことをしたためた初瀬である。
 エリナからのメールもちゃんと届いていた。
 『退院祝いはまた今度にしておく。ただでさえ休んでるんだから、ちゃんと勉強もしておきなさいよ』
 微妙に前後で脈絡がない文章。普段のエリナの態度に近いから、初瀬はなんとなく嬉しい部分もあるが、嫌な方向の日常性である。電話やメールや日常会話なんてそういう流れも多いとはいえ、ちょっとげんなりにもなる。
 『今度っていつだよ。おれに勉強させたかったらとっとと会いに来い』
 エリナにそうメールを出した初瀬は、空いている時間に美朝とエリナの手書きの授業のノートなどを開いてみたが、三分で眠くなった。なんとか一時間半はがんばってみたが、思考が乱れがちでそれ以上は集中できなかった。
 期末試験ももう遠くないし、受けられなかった中間試験の追試も待っている。赤点補講で夏休みが潰れるのは勘弁だから、やらなきゃと思うが、やる気が出ない。
 ちなみに多少余談になるが、初瀬たち三人の普段の学校の成績はそれなりにいい方である。特に美朝は毎日の授業だけで充分いい成績を取れるタイプで、意外にディベートや小論文なども器用にこなすし、定期試験でもいつも学年のトップテンに食い込む。美朝は将来は、法律事務所に勤める初瀬の母親の影響もあってか、初瀬に言わせれば「百歩譲って変に似合わないこともないかもしれない?」ということになるが、弁護士や司法書士になることも考えているらしい。
 薬剤師などに少し興味があるらしいエリナは、家で毎日真面目に勉強をして、常に学年で五十番以内を維持している。が、時々さらに上位に入るが、総合点で美朝に勝つことは滅多にない。運動面ではエリナが勝つことが多いが、種目によっては美朝に軍配が上がるから、小中学時代のエリナは悔しそうな顔をすることが多々あった。普段勉強しないのにいい成績をとる美朝に、初瀬もずりーぞと笑っていじわるをして遊んでいたものだ。
 その初瀬は、エリナたちほどではなくとも意外に上から数えた方が早いが、普段家での勉強をサボりがちだから、その時々の勉強具合による波が大きい。
 「……中学ん時みたいに、エリナが教えてくれればやる気になるのに」
 中学時代には、初瀬は何度もエリナと二人で勉強会を行っていた。高校に入ってからも時々勉強会をしているが、最近は美朝も含む三人で試験前のみで、中学の頃とは形が違う。
 家で勉強をしなくてもいい成績が取れる美朝は、自分が特別興味を持つ分野以外、人に教えるのがあまり上手ではない。おまけに、初瀬と一緒に勉強会となるとどうしても遊びたくなるらしく、邪魔になることが多かった。勉強嫌いの初瀬が、すぐ美朝の誘いに乗って勉強を投げ出すからなおさらで、エリナはよく怒っていたものだ。
 『初瀬くんは、別に勉強しなくても、わたしが養ってあげるのに』
 『おー、いいなそれ、おれの将来はみあのヒモなのか』
 『なにバカ言ってるのよ。ふざけてないでちゃんとやりなさい』
 中学時代のエリナと初瀬が、美朝抜きで二人で勉強会をするようなったのはそういう流れで。中三の夏に部活を引退するまではそう頻繁ではなかったが、エリナも三年になって習い事をやめていたから、引退後はほぼ毎日だった。
 初瀬が今も基礎学力を維持できているのは、この勉強会の効果が大きい。美朝とエリナと同じ高校に入るために、そして勉強以外の時間も作るために、時々兄にも家庭教師代わりになってもらって、一人の夜にも集中して机に向かっていた日々。
 初瀬にとって、その頃の記憶は、ただ懐かしいだけの記憶ではない。
 「……やっぱり、会わないとなんにも始まらないのに」
 初瀬は午前中、ずっとそんなことばかり考えていた。
 そして午後。
 お昼時にメールを確認し、午後の検診の後にもメールをチェックした初瀬は、つい感情的になった。
 落胆よりも、鬱憤に近い感情だった。美朝からのメールはいつも通り来ていたし、他の知り合いからのメールもだいぶ交じるようになっていたが、エリナからのメールが来ていなかったのだ。今日から体育で週一回のプールの授業が始まったようだから、何かと余裕がないのかもしれないが、美朝からのメールはちゃんと届いている。昨日の頻度の方が例外だっただけだと頭ではわかるが、初瀬の感情は激しく揺れた。もともとメールだけのやりとりなんて、まどろっこしくて初瀬には合わないのだ。
 『おれはおまえに会いたいんだ』
 感情的に、初瀬はエリナに短いメールを出した。電話だったら、初瀬は思いっきり怒鳴っていたかもしれない。
 表情も声も伴わない無機質な文章だけのそのメールが、シンプルなその言葉が、相手にどう伝わったのか、初瀬は知らない。
 そのまま気持ちを引きずって、お見舞いに来た美朝に心配されるまで、初瀬の機嫌は直らなかった。
 その反動で、美朝との時間は濃厚なものになった。感情が揺れやすくなっていたのか、初瀬は自分を気遣う美朝にじんときて、彼女を手招きして脈絡なく抱きしめて。美朝は少しびっくりしたようだが、すぐに嬉しそうに抱き返してくれて。
 美朝がエリナの話題を出して近況を教えてくれた時には、初瀬は胸の奥にちくんと痛みを覚えたが、それはほんの短い時間だった。エリナが動かない以上は大きな話にならず、美朝もすぐに話題を変える。
 美朝と過ごす時間は、やはり楽しい。
 自然と空気はほぐれて、どちらからともなく唇を重ねて。
 美朝の頬に手をあてて、時々くすぐるように耳にさわって、指を通すように優しく髪を撫でて。ついばむようなキスをして遊んだり、はむはむと唇で唇を甘噛みしたり、照れて笑い合ったり。
 はにかんでじゃれあって、何度もキスをしてぬくもりを感じ合って、無防備な笑顔で他愛もないおしゃべりをして、初瀬は美朝と二人で、とても甘い時間を過ごした。



 エリナからのメールを受信したのは翌朝、退院する土曜日の朝。
 また真夜中の送信。ずっとメールが来なくて、不満と不安を味合わされていた初瀬は、パジャマ姿のまま待合室に足を運んで携帯を確認して、少しほっとして、エリナからのメールを読んだ。
 『月曜の夕方、空いてる? 二人だけで会いたい』
 「おしっ」
 初瀬は小さくガッツポーズだ。
 エリナにどういう心の動きがあったのか、やっと待望のメール。
 初瀬としては、この状況ではエリナを優先して今日でも明日でもいいのだが、明日の日曜日はもう美朝と約束をしている。美朝はエリナも誘ったらしいが、エリナが断ったことを、初瀬はすでに美朝から聞いて知っていた。
 エリナは明日は他の用事があるのか、それとも、美朝を交えた状況では嫌だということなのか。二人だけで会いたい、というエリナの気持ちを想像しながら、初瀬はすぐに返事を出した。
 『月曜は空いてる。おれの家でいいか? 待ってるからな』








 to be continued. 

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初稿 2012/03/05

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