不確定性原理のあの子



作:U.T.Lenge



 キミカ・ハイゼンベルグのまわりは揺らいでいる。
 彼女――いや、彼でもある――はとても気まぐれで、それは本当の意味で『気まぐれ』であって。それになにより、クラスのほかの誰よりもキレイだった。
 綺麗でいて、それに誰よりカッコよかった。




 〜1〜

 …僕がキミカ(キミカについては『彼』も『彼女』も当てはまらないから、以後こう呼ぼうと思う)に出会ったのは、高校1年になったばかりの春。僕らの入学式があったその当日だ。
 ぎこちなさの混じるざわつきに包まれていた教室。その教室に突然に、軽やかなドアの音とともに現れた不思議な存在感。透明でいて気づかぬことのない確かな存在感。
 それは僕よりも僅かに背の高い、腰先まで伸ばした艶のある黒髪の。そして切れ長で大人びた瞳をした少女だった。僕のすぐ隣の席に座った彼女は僕と目が合うと、ドキッとするような笑顔を見せてから僕に向かって話しかけてきたんだった。
「――ねぇ、私はキミカっていうんだ。よろしくね」
 たったそれだけのなんでもない挨拶だったのに、僕の頭はパニックになったようだったことを覚えている。一瞬心臓が止まりそうになって、それから僕は慌てたように、
「え、うん。よろしく」
 なんて、ちょっと赤くなりながら言ったんだった。なんとか言葉を返しながら、もうどうしようもなく心臓が跳ねていたんだった。
 だからキミカは、僕のほうへ顔を寄せてきて。
「…そっか。緊張してるんだね」
「う、うん…そうみたい」
 そう。それはキミカのせいだから。だから僕はもっと心臓が跳ねて。
「ま、それもそうだよね。周りを見ても新しい人たちばかりだもの。私は今年からこっちに来たから、ホント知り合いなんてぜんぜんいないんだけどさぁ…えっと」
「あ、深山纏。ミヤママトイ」
「うん、マトイね。マトイはこの街出身なの?」
 キミカは僕の内側を知らず、そう問いかけてくる。
「え、僕? 僕は、御門から来てるんだ――」
 と、キミカは僕の顔を見てきょとんとした顔をした。それまでの笑顔が嘘のように。そして僕は一気に頭がさめる。はっとなる。
 …いまさらだけれども、僕は僕のことを『僕』と呼ぶ。それは普段からの癖で、確かずっと前からそう呼んでいて。中学の頃からはよく、周りの皆にその事を「どうして?」と聞かれたりしていた。それを会う人会う人から散々聞かれるのが嫌だった。
 だからきっとまたこの一人称のことを聞かれるんだろう、そう思って。その事を思ってうんざりしそうになったのと同時に、目の前のキミカから――さっき声をかけられたばかりの少女から、その嫌いな質問が飛び出すだろうことが、そのときはどうしてか悲しかった。悲しくて、残念で仕方なかった。
(いつもは初対面の人に対して、こんなヘマはしないのに…)
 だからそう一人思って、わけもなく気が滅入るやら落ち込むやら。そしてまた、別の意味合いで僕は緊張してきて。
 でも、キミカは。目の前のキミカは。
「マトイ、自分のこと『僕』って呼ぶんだ。カッコよくて似合ってるね」
 そう僕を優しく覗き込んで、キミカはその偽りない微笑を返してくれたんだった。

 …だから僕は、その時からキミカに掴まれていた。たまらないくらいに心を掴まれていた。




 〜2〜

 中学の頃から、僕はいわゆる『優等生』を地でいっていた。
 いつもどこかツンとした顔をしていて、ちょっとだけ癖のあるショートの黒髪は、たいていは可愛げのない黒のピンで留めている。時にはいつもにましてとっつきにくく見える伊達メガネをかけて、そしてスカートは膝上5cm以上短くしない。そう、決してしない。
 でも昔からそうだったわけじゃ決してなくて、じゃあ小学生の頃の僕はどうだったかというと――僕は、何の疑問も持たずに男の子の間に入って遊んでいるような子だった。中学1年生の『あの日』がくるまでは。
 …あの日を境に僕は女の子になり、まわりも僕を女の子としてしか扱わなくなった。それまでの男友達もみんな僕に対して距離を置くようになって、その代わりに僕は女の子の世界という、とにかく面倒極まりないヤツに飛び込んでいかなくちゃいけなかった。
 でもそれからまぁ3年がたって、結局変わらぬ今の僕がいるわけで。
「おはよ、マトイー?」
「あ、こら。ひっつくな」
 そして、僕の近くにはいつもキミカがいたわけで。

 そう。僕とキミカはたいてい一緒にいる。クラスのほかの女子と一緒のことももちろんあったけれど、そうなときもそうでないときも、いつも僕たちはすぐ近くにいた。僕がキミカのことを気になっていた一方で、キミカのほうも僕を気に入ってくれているらしかった。それは僕にとってきっと、嬉しいことだった。
 そしてキミカは綺麗な横顔を見せながら、僕に言ってくる。
「マトイ、今日はどうかな?」
「どう…って、キミカ。いいかげん須藤先生に睨まれるよ」
「今日は天気もいいし、そういう気分」
 並んで校門をくぐりながら、キミカは小さく伸びをする。誰もがうらやむようなその均整のとれた身体をそらし、彼女の瞳が一瞬空を見る。
 その一瞬にただ見とれてしまう僕。空とキミカとが交じり合う。視線がそっととけていく。
「…3時限目だけだからね。今日は」
「いいよ。いつもの所で待ってるからね」
 そして微笑むキミカ。あとは二人で他愛のない会話、キミカから漏れるちょっと不思議な会話。そして授業。
 1時限目は古典、2時限目は数学。気がつけば教室からキミカの姿はなくなっていて。
「ちょっと纏、またキミカいなくなってるし」
 クラスメイトの悠子が後ろからそんな小声をあげてくる。
「いつものことでしょ。そのうち気がつけば戻ってくるんだから」
「そりゃそうだけど……纏、キミカの親友の割には薄情ねぇ」
「キミカと付き合ってたらこのくらい気にしてらんないよ」
「確かにそれもそうか。あいつ、気まぐれすぎるもの」
 …そうだ。キミカは何もかもが気まぐれなんだ。
 気まぐれすぎるから。気まぐれすぎるのに。いつのまにか、すぐそこからいなくなりそうなキミカなのに。
 なのに僕は続く物理の時間、開始早々。
「…先生、気分が悪いので保健室行ってきていいですか?」
 物理教師の須藤にそうとだけ言って、一人席を立った。




 そして少しだけ早足で保健室へと向かう。静まり返った廊下を抜ける。校舎の1階一番端っこ、静まり返ったそのドアを開ける。白の扉を開いていく。
「失礼します」
「待ってたよ、マトイ」
 はたしてキミカは、そこに存在している。




 …保健室の窓は開け放たれていた。白いレースのカーテンが風に踊らされていて、その揺らめきの手前にキミカは座っていた。先生用の椅子に腰掛け、両の足を組んで膝上に両手を重ねているポーズ。その長い黒髪が強く静かに流れているキミカ。
 誰も知らない、カッコいいキミカ。
「山口先生、またいないの?」
 後ろ手でドアを閉めながら、僕はキミカに問いかける。キミカは楽しそうにそっと微笑う。
「秘密」
「…ふぅん。ま、いっか」
 それからゆっくりとベッドに腰掛けて。髪留めをはずし、そして僅かな衣擦れの音。僕の胸元から制服のリボンがするりと抜けていく。第二ボタンがそっと外れ、白い肌が垣間見える。
 僕はそしてベッドの上へと身を投げ出した。
「風の音が綺麗だね、キミカ」
「…うん、この時間だけなんだ。気まぐれな風が吹いてくれるのは」
 椅子に腰掛けたまま、顔だけを僕のほうに向けてキミカは言う。キミカは薄く目を閉じて、風の音とカーテンの向こうから来る陽射しに浸りながら、この小さな一室の空気に浸りながら小さく声を漏らす。
「…そしてマトイが、本当に優しい表情をしていられる時間」
 立てかけられたフォトグラフが、コトリと小さな音を漏らす。キミカの指がその音を鳴らす。
「だってホントに気持ちいいんだもの。そうでしょう?」
「ああ。そのとおりだね」
 そしてキミカが、そっと僕の顔を覗き込む。
 その陰の下で、僕とキミカの息と息がそっと触れ合いそうになる。
 …でも不意に視界は光の中へ飛び込んで、そしてキミカは凛々しく立ったまま外の景色を眺めていた。あのキレイな瞳で眺めていた。僕はぼうっとした瞳で、ただそれを眺めていた。ちょっとだけ残念な気持ちと――ほっとした気持ちを抱えながら。
 でもそれだっていつものこと。僕とキミカの間に、この時間だけは言葉なんてないのかもしれない。どこまでも薄情なまでに。でも、それでも少なくとも僕にとっては、きっと。この時間だけの、この瞬間のキレイすぎるキミカを見ていられるだけで十分なはずだった。
 そしてその瞬間だけは、大人びたキミカの姿に見とれているその時間だけは。僕もいつもの僕ではない、『何か』になれたような気がした。

 …そうしてキミカは僕の知らない異国の歌を口ずさむ。静かな声で、力強い響きで。誰のためでなく歌い始める。不意に何もかもが不確かに思えてくるのに、そのキミカの声だけが僕にははっきりと届いてくる。
 ゆらいでいた時間の中に、最初の確かなものが刻まれていく。
 そしてまた、しばし風とカーテンの時間をはさんで。今度は僕たち二人、たいていは僕からとりとめのない話をする。本当にとりとめのない、でもキミカくらいにしかできないような話をする。
 そんなひとつの時間だけが、二人確かに続いていく。
「――それでさ、弟もエミたちみたいにして『もっと女らしくしろ』って口うるさく言うようになったんだよね。ほんと、今のままでも十分メンドくさいっていうのに」
「カズイ君も“お姉ちゃん”にはやっぱり綺麗でいてほしいんだろうね。マトイはなまじ美人なんだから、みんなも色々言いたくなるんだよ」
「それが嫌だからこんな格好してるっていうのに。でも最近ね、なんだかいつもの『フリ』をしてるのが、『フリ』なのかそうじゃないか、わからなくなってきて。
 だから結局いつの間にか、僕も変わっていっちゃうのかなぁって」
 僕は優しく困ったように笑顔を見せるキミカを、その微笑を見つめて話をする。微熱をもって話をする。
 キミカは、この時間だけはいつもと違って、大人びていて。そしてどこか男の人のようだった。でもそれは僕とは違う。キミカはどちらも本当のままのキミカだった。
 そう。不確定にゆらいでいる、ありのままのキミカ。
 黒の流れと微笑みとに包まれたキミカ。
「そうかもね。そうかもしれない。でも私は、今のこのマトイを見ているほうが楽しいし嬉しい」
 そしてそっと肌の触れる音。落ちていく黒髪。その細い指先。
「…もう、なんだよそれ」
 僕は、そんなキミカにもっと心を掴まれていく…。





 〜3〜

 ――あれはいつのことだったろう。その浅黄と群青の、限りない風景の中で。

「ほら、空をみてごらんマトイ」
「え?」
 それは学校の帰り道。丘の上にあるだだっ広い公園の真ん中で、キミカが言った言葉。
 言われるままに空を見上げれば、そこには青くて大きな穴が口をあけていた。何もない空が僕たち二人を見下ろしていた。
「…いつだったか、昔私の知り合いが言ったんだ。『こんな雲ひとつない空をこうして眺めていると、自分が空の底に落ちていく気がして怖くなる』ってね」
「すごい感性だね、その子…」
 キミカの言葉に、僕はため息を漏らした。キミカに言われると、本当に僕自身が空に落ちていっている気がした。空の底が、僕たちのいるこの草原の底に取って代わられて。その瞬間、何もかもが、不確かなものに見えてきて。
 そしてふと思ってしまう。本当にあの青い底へと落ちていけたら、もしかしたら。そのときに何もかもが変わっていくのかもしれない。この不確かさが不意にすべて、僕の内と外とが、心と何かとがきっと…――そんなことを思って。ただ、思ってみて。
 …でもやっぱり、僕にはきっと無理なんだろう。
 だから、すぐ隣で空に吸い込まれているキミカにぽつりと言うのだろう。
「今の僕は、雲のある空のほうが好きだな。空に囲まれている自分が実感できる。そのほうが、自分が確かなんだって思えるもの」
 そう、僕がゆらいでいないと思うことができるから。僕が確かだと実感できるから。それがきっと今の僕の望み。これからもきっと変わらないはずの。

 …空はやはり群青で、そして踏みしめる両足は、僕の確かさと躊躇いとを感じていた。キミカは顔を上げて黙ったままだった。
 でも、本当にそうなんだろうか。僕はそう思い続けるんだろうか。
 たとえキミカが、その群青色の瞳が。僕の見えないその場所で、鉛色の寂しさを見せていたとしても…?












 そして僕は、もっと不確定になっていった。








 〜4〜

 高校1年の春も終わる頃、僕は初めてキミカの部屋に泊まった。そして初めて、僕はキミカに迫られた。
「ね、マトイ。ちょっとこっち向いて?」
「なに?」
 振り向いた途端、頬に優しくキスをされた。
 …ううん、やっぱり優しくというのは嘘だ。確かにそれは唇がそっと触れるようなキスだったけれど、キミカの目はそうじゃなかった。子供同士がじゃれあうような、冗談交じりのものなんかじゃ全然なかった。
「ちょ、キミカ…?!」
 思わず僕はその場で後ずさって、期待と不安とがない交ぜになったキモチでキミカへと顔を向けた。一瞬の間だけきょとんとして、それから何かを確信したかのように…そう、そんな表情で僕に微笑んできたキミカを見た。
「あ、いきなりでびっくりさせちゃったかな?」
 確信犯的な笑顔で、キミカは怖いものなど何もないかのように言ってくる。そしてまた、僕のほうへと顔を近づけてくる。再び僕の横に並び、そして僕の唇から漏れ出る言葉。嘘と臆病とが混じった言葉。
「…悪ふざけがすぎるよ、キミカ」
 だからたしなめるように、僕の本心を包み隠すように僕は言う。本心のかけらもない苦笑を漏らしながら。
「そう? じゃあもっとふざけてもいいよね」
 でもキミカにそんな言葉は通用しない。僕が怯むまもなくその両腕をこの小さな肩へとまわしてきて。
「ま、待って!」
 思わず僕はキミカの肩を押す。頬が熱でふやけてしまいそうな気がして、キミカを直視できずに視線をそらしながら。
「ううん、待たない」
 でも強引に抱きしめられた。キミカの口元がくすりと微笑う。首筋にぞくりとした感触。キミカの、何もかもを壊してしまうような唇の感触。
「…っ! 本気で怒るよ?!」
 たまらずキミカの身体を突き飛ばそうとし、でも僕の手首は彼女にぎゅっと握り締められた。キミカのその瞳に僕は圧倒されていた。
「ね、マトイ」
「な…なに?」
 どきりとしながら答えた瞬間、キミカは僕の首後ろに手を回しながら後ろに倒れこんだ。そのまま引っ張られて、僕はキミカに覆いかぶさって。そして慌てて身体を起こそうとする。キミカの得体の知れない色っぽさみたいなものに、少し怖くなりながら離れようとする。
 でもキミカの両腕が僕を引き止めた。
 はたから見ればまるで、僕がキミカを押し倒しているような格好。そんな状況に頭がくらくらしそうになった。キミカは変わらず僕を見つめていたから、微笑みながらも瞳だけは僕を突き刺していたから。
 だから僕は言葉を飲み込んでしまった。クリーム色のベッドの上に投げ出された、キミカの黒髪に眩暈を覚えた。ボタンの外れかけたキミカの胸元に喉を締め付けられた。
 そう、僕は確かに魅惑されていた。そんなキミカに釘付けになっていた。
 天井から零れ落ちる白い光、僕の影に包まれるその黒髪。息を止めてしまえば、僕の内から鳴り響いてくる…その乱されたリズムが部屋中に漏れ出てしまいそうな錯覚。僕とキミカと、その不確かな音だけの世界。揺らいでいる僕らの世界。そしてドクンと、その確かな音がなって。
 胸の足音が早まっていく。僕は鼓動に包まれていく。そうだ。だんだんと僕はその高鳴りに包まれていって、そして…。
「――ね、マトイ。マトイと私でどこまでやれるか、ためしてみよっか」
「え?」
 思わず、ぽかんとしたままの返事。僕のかすれた声。キミカはもう一度唇を小さく歪ませて、僕をそっと引き寄せようとした。
 …だから、僕はいつになく強い調子で。キモチとはまったく逆の言葉を発していた。
「む、無理だよ絶対!!」
 するとキミカは、間髪いれずその真摯な瞳を投げ返して。
「…どうして?」
「――っ」
 僕は言葉を失って。
 それはただひとつの問いかけなのに。そのたったひとつの問いかけ、強い眼差しに、僕は言葉をなくしてしまった。キミカの顔を直視できずに、投げかけられた光の下で長い長い沈黙を返していた。
 そしてようやく、僕はただ呟く。本当に――消えてしまいそうな声で。
 溢れてしまいそうなそのキモチのなかで、裏腹な心と駆けるような鼓動のなかで。
「…だって、僕は。――僕は男の子じゃない」
 そうだ。その瞬間、確かにそう言っていた僕。言ってしまったあとで、どうしようもないやるせなさに包まれた僕。
 目の前にはキミカの白い肌。ゆっくりと息を呑むその細い首筋、吸い込まれてしまいそうなその黒い瞳。胸を締めつけていくその愛おしさ。
 忘れていたはずの僕の何かを、不意に思い出してしまいそうな…その表情。
 そして。
 そしてキミカは。

「じゃあ、こうしようよマトイ」
「…キミカ」
 にっこりと微笑んで言った。軽くその首をかしげながら、上目づかいに僕を見つめながらキミカは言った。
「マトイはほんとは男の子。でもシュレーディンガーの子猫みたいにして、男の子なのに同時に女の子になっちゃったの。それは蓋を開けてみないとどっちなのかわからない」
 そんなキミカの口元から、確かに漏れ出たその言葉――。


「…だからマトイ。私がその見えない蓋を開けてあげる」










 〜5〜

 ありていにバラしてしまえば、僕とキミカは“最後”までいけなかった。
 それは単に僕のほうが耐えられなくなっただけの話で、キミカとそうなることを望んでいなかったわけじゃないはずなのに。いざとなったら僕の心はその行為に、理由のわからない拒否反応を起こしてしまったらしかった。
 だからそのせいで、僕はあられもない格好になりながらも、あっさりとダウンしてしまったのだった。
「…ごめん。今日はやっぱり、帰る」
 夜も遅く、キミカの家の前で。そのどこか現実感のない洋館みたいな建物の前で。結局キミカと目を合わせることもできず、そうとだけ言った僕。
「んー、いいよマトイ。しょうがないしね」
 どこか苦笑交じりの声で、それでいて残念そうな響きを、少しも隠そうともせずに言ってきたキミカ。
「じゃあまた明日、学校でね。おやすみ、マトイ」
「…うん。おやすみ」
 そして小さくそんな言葉を交わして、僕はとぼとぼとキミカの家を後にした。『ごめんね』なんて薄情な言葉を一度も発しなかったキミカに、少しだけ感謝をしながら。
 それでいてついさっきの出来事に、頭がパンクしそうなくらいにぐるぐるとかき回されながら。僕の中の理解できない気持ちに、どうしようもなく振り回されながら。
 だから翌日も、僕の混乱と戸惑いはやっぱり直らなかった。


「なにキミカ? あんた纏とケンカしたの??」
「ん、昨日ちょっと。まだ許してくれないみたい」
 いつもの教室と、いつもとは違う朝。向こうから聞こえてくる、キミカとエミのそんな会話。苦笑いしながら彼女と言葉を交わし、ふと僕のほうをチラリと見てくる。思わず僕はぷいと目をそらす。
 …昨日のことが引き摺っていて、ううん、それは『引き摺ってる』なんてレベルの話じゃなくて。だから学校で僕はキミカにどう接していいのかわからなかった。顔をまともに見れなくて、だから不機嫌なふりをするしかなかった。
 そんなわけだから僕は、いつものように声をかけてきたキミカにあいまいな返事だけを返してそっぽを向いてしまう。キミカは二度三度と話しかけてきてくれたけれど、僕のがらんどうな反応に苦笑を浮かべてエミのほうへ行ってしまった。
 だからさっきの二人の会話なわけで。僕のほうを覗き込みながら、ちゃっかり僕に聞こえるくらいの小声でエミが言ってきたわけで。
「うわー、ほんと機嫌悪いよアレ。あんたいったい何やったのさ? まさか纏に襲われそうになって返り討ちしたとか」
「あはは…まぁいろいろねぇ」
 いや、エミ。僕が襲おうとしたってどういう見解なのさ。そう思いはしつつも僕は小さくため息をついてしまう。『頼むから誰も話しかけないで』なんてメッセージを、そこはかとなくその息に詰め込みながら外を見る。
 なのに。よりにもよってこんなブルーな時に声をかけてきたヤツというのが。
「よっ、深山。なんか朝からすっげえ欝な顔してるな」
「……なんだ、ヒロか」
 僕の目の前に現れたのは、新坂紘(あらさか・ひろ)。一応中学の頃からの僕の友人で、ついでに言えば今の僕にとって、気兼ねなく付き合えるただ一人の『男友達』。気兼ねなさすぎて挙句の果てには、下ネタまで平気で僕にふってくるようなやつだ。
 そしてその友人。その少し長めの茶髪に軽くパーマをかけた、世間の平均レベル程度に軽そうな雰囲気の彼は、小さな笑みを浮かべながら僕の目の前の席にどっかと腰を下ろした。
 そんな彼に、僕はもう一度ため息を返して。
「…なに? いつもなら小山たちと1組に遊びにいってるだろ?」
「いやさぁ、たまには朝っぱらから深山に絡んでみよっかなあって」
 そして小さく笑うヒロ。僕は頬杖をつきながら、呆れた声で言ってやって。
「よーするに、ワケあり?」
「…う」
 するとやっぱり、彼の表情に小さなダメージが入る。なんか呻き声を漏らしながら。
「ま、まぁいいじゃんかよ。お前だって似たようなもんだろ」
「あぁ、もしかして。この前言ってたバイト先の子」
「くそ、ずばっといきなり当てやがったなお前」
 そして頬杖をつく僕の前、ヒロは机の上に顎を乗せるようにして前かがみになった。指先で机の上の消しゴムをつつきながら、それをため息交じりに眺めて。まわりを少し気にしてか小さい声で言ってくる。
「てかさぁ、デート中にいきなりひっぱたかれたんだぜ? それでそんまま帰っちまって、それ以降メールも電話も音信不通ー。ホントどうしたらいいのか」
 僕はヒロの指先を見下ろしながら、なんとなく想像はついたけれど訊ねてみる。
「で、いったいなにやったの?」
「キスんときに舌入れた。そしたらすげぇ怒った」
 …ああ、いけない。目の前のバカのくだらない会話のせいで昨日のことを思い出しそうになった。
 キミカのあられもない姿が頭の中に浮かびそうになるのを必死でかき消しながら、紅くなってるかもしれない顔を頬杖突いてた左手で隠すようにして。それで僕はそのもやもやを吐き出すようにため息をつく。
「さすがに、それは怒るんだろうね」
 どこかしら、その言葉には昨日の僕の立場が混ざっているような気がしながら。
「そうかぁ? やっぱ、そうなんかな。確かにいきなりキスしたこっちも悪いかもしんねえけどよ」
 横目になる僕を尻目に、なんか天井を見上げながら呟くヒロ。
「…僕はよくわかんないけど、怒るかも」
 ふと、そう思ったことが、自分がその知らない子と同じような反応を――キミカに対してしたことが嫌になる。
 だからそんなへんてこな答えを返して、もう一度小さく息を吐いて。
 と、ヒロになんだか変な顔で見つめられて。
「……なに? どうかした??」
「いや、今日の深山ホントに変だなぁって。ほんと大丈夫かお前」
「別になんにもないよ。ただぼーっとしてたいだけ」
「ふーん、ならいいけど」
 そしてそう言って、ヒロはそれ以上突っ込まないでくれた。代わりに机の上で身を乗り出しながら僕に訊いてきた。
「で、ところでよ。今日の放課後空いてるか?」
「空いてるけど」
 そう事も無げに答えつつ、僕はキミカがいたはずの方向を見た。
「そっか、よかった。…実はバイト先の先輩にいい雰囲気の店教えてもらってさ」
 小さく笑みを漏らしながら、言ってくるヒロ。
 いつのまにか教室の中からは、キミカの姿が消え失せている。
「で、例の子の機嫌直すのに使いたいんだけど、ちょっと敷居の高いトコだから一度下見に行っときてぇなと思って―――」
 そして、キミカのいない一日が過ぎていく。






 〜6〜

 結局ヒロの頼みに付き合って、そのちょっと高めのカフェに寄っていって。
 そして帰りの道でのことだった。見覚えのある一匹の猫に出会ったのは。
「……あれ? この猫」
 夕暮れに伸びる影の先、何をするでもなく道端に佇んでいたその灰色の猫を見て、僕は小さく声を上げる。
「シュウ?」
 それは、キミカが家で飼っている猫の愛称だった。本当の名前はなんだか長ったらしくて、だから普段は愛称で呼んでるってキミカは言っていた。
「ミャア」
 そして僕の問いかけに反応したのか、猫は小さく鳴き声を返す。普通、猫が警戒をしてる相手に対してこういう鳴き声を返すことはあまりないのに。僕がそっと近づいていっても、猫は逃げ出さずにじっと僕を見上げている。
「シュウ…なのかな?」
 ついにほんの1mほど手前まで来た僕は、猫の首が疲れないようにと(どういう自己満足だろう?)その場にしゃがみこんで。それからトンと鞄を横に置き、おそるおそる手を伸ばしてみる。
「あ…」
 意外にも猫は僕の手にそろそろと寄ってきた。食べ物でも期待してるのかと思ったら、二度三度と僕の指先をぺろりと舐めてくる。ころころと喉を撫でてみると目を細めて頭を摺り寄せてくる。…うん、けっこうかわいい。
「やっぱ、シュウだよね」
「ミャア」
 そして僕の再度の問いかけに、猫は首を傾げるようにしてもう一度鳴いてみせて。
 と、そんなときだった。
「おいこらシュウ! どこまで行ってたんだよ」
「…?」
 僕の後ろから聞こえてきた男の子の声。ぴくりと耳をそばだてて顔を上げた猫。首をかしげながら振り向いた僕、って。
「…え、キミカ??」
 思わず言葉が飛び出していた。
 目の前にいるその『男の子』、見たことあるはずの男の子に、僕は今朝の悶着も忘れて問いかけていた。ありえないはずの言葉を投げかけていた。
「えっと、人違いじゃないかな」
 でも男の子は首を小さくかしげながら、苦笑交じりに言ってくる。キミカにはありえない、やや低い男の子の声。帽子を目深に被って、ちょっと大きめのチェック柄のシャツとジーンズ姿。服の上からでも華奢な体躯がよく分かる男の子だった。
「そうですね。すみません」
 真っ直ぐなその瞳だけはそっくりかもと思いながら、僕はそう謝って。
「ウチの猫と、知り合い?」
「友達の飼ってる猫に似てたから。その子、女の子ですけど」
 首をかしげながら訊いてくる彼。それに答えながら、なぜか僕はキミカの面影を探してしまう。
「ふぅん、珍しいこともあるなぁ。さっき“シュウ”って呼んでたよね?」
「この子もシュウっていうんですか?」
「ああ。ホントは親が長ったらしい名前付けたんだけど、めんどいからね。あだ名みたいなもんだよ」
「ふぅん」
 と、不意に猫…シュウが歩き出して。気まぐれなその子は彼のまわりを半周まわると、最後に僕に顔を向けて、向こうへと歩いていってしまった。だからなんだか、場の雰囲気を持っていかれた気分になって。
「あ…じゃあ、ぼ――私はこれで」
「え? そう」
 だから僕も軽く一礼をして。残念そうに言ってくる彼としらんぷりな猫に、僕も背を向けて歩き出そうとした。したはずだった。
 なのにその次の瞬間、僕の常識はひっくり返った。

「――なんて、ね。ほらマトイ、私だよ」
「………?」

 いきなり聞こえてきたキミカの声。確かな女の子の、キミカの声。僕はしばし黙考する。
「え?!」
 そして思いっきり振り返る。
「あはは、マトイってばびっくりしすぎ」
 振り返った先にあったのは、さっきの男の子とまったく同じ格好をして笑っているキミカの姿。間違えようもないその姿。そしてキミカは、思わず目を白黒させた僕にくすりと笑いかけながら、目深に被っていた帽子を脱いでみせた。
 途端、ふわっとキミカの黒い髪があふれ出ていく。男の子のイメージが一瞬にして消え失せて、そこにはいつものキミカがいる。くらりと眩暈がした気がする。
「僕、夢でも見てるのかな…?」
「残念、夢じゃないよマトイ。とりあえず立ち話もなんだし…ウチに来ない?」
 キミカは可笑しそうに笑いながら、そんなことを言ってくる。


 そして昨日の今日だというのに、なぜだろう? 僕はまたキミカの家に上がっていた。他に誰もいない家の中、リビングのソファに座り込んだ僕にキミカが紅茶を淹れてくれて。僕はそれを口にしてから、何より一番の疑問を投げかけていた。
「…結局、キミカって男の子なの? 女の子なの?」
 向かいのソファに座って(最初僕の隣に座ろうとしてきたんだけれど、それだけは断固僕が拒否したから)、唇に指をわざとらしく当てながら逡巡するキミカ。どこからどう見ても女の子なキミカ。
「生まれたそのときは女の子だったらしいね」
 なのにキミカはそう言ってくる。続けてさらに、不思議なことを言ってくる。
「でも30分後に男の子になった」
「…は?」
 思わず間の抜けた問いかけをした僕に、おかしそうな苦笑を浮かべながらキミカは続けてくる。
「また女の子になったのはそれから4日後。不定期な周期でころころと変わるんだ。今は基本は女なんだけど…今日みたいにたまに男になる。びっくりしたでしょ?」
「えーっと、あぁ…うん。そうなんだ」
 またくすくすとキミカに笑われる。そんなキミカを見ながら、僕は何故かキミカの言葉を受け入れてしまっていた。あり得ることとあり得ないこと、その境目が、今の僕の中で不確定になってしまっていた。
 でも仕方ない。僕はさっきももう一度、キミカが女の子から男の子に――そしてまた女の子に変わる瞬間をまざまざと見せつけられたのだから。
 瞬きをしたその一瞬でその在り方を変えてしまったキミカ。僕の頭はその突然さに三度もついていけなかった。でも、それでも、嫌でも事実だけは僕の胸に押し付けられたから。だからそうやって、日常が―――それはきっと昨日から―――ゆっくりと非日常と混じり合っていく気がした。その混じり合いのなかに、不確かさの中に僕とキミカとがいた。
 そしてふと、思いあたったことを尋ねる僕。
「じゃあ、学校でときどきいなくなるのって――」
「ご名答」
 それにキミカはゆっくりと肯いてみせる。ソファにぽふっと肩を預け、僕は小さく息を吐いて。
「…そっかぁ」
 そう言ってぼんやりと天井を見上げて。もうあまりにもびっくりしすぎたせいか、朝のあの戸惑いもなにもかも吹っ飛んでしまったみたいで。それに少しだけ安心したようで。
 なのに、目の前のキミカときたら本当に臆面もない顔をして。

「…ところでマトイ、昨日のことはもう怒ってない?」
「―――っ」
 ああ、もう。それはホントに不意打ちだ。僕は反射的に顔を背けると、瞬間的に熱の上がった頬をキミカに見せないようにして、
「…怒っては、ないよ。もう」
 それだけをやっとの思いで言うことができた。そしてそんな僕の仕草を見透かしたように、キミカはくすりと小さな微笑を漏らした。
 パタパタとスリッパの移動する音。頭上に音もなく現れる影。って、あれ?
「そっか。よかった」
「ひぇ?」
 そして、僕のマヌケな声とともに凛々しいキミカの顔が。『男の子』なキミカが突然脈絡もなく現れたわけで。
 いや、確かに髪の毛は長いんだけどでも顔つきも声も、体格もちょっと華奢だけど男の子してるわけで、そんなキミカに目の前にずいっと来られるのは色々心の準備ができてないわけで!
 ああ、なんて支離滅裂ないつもらしくない僕!
「お、男はダメ! 女に戻って!!」
「えー? 無理だよマトイ。俺が自由に選べるわけじゃないから]
 そしてさらにずずいと顔を寄せてくる。僕は不意打ちなキミカの言葉遣いに愕然とする。
「お、俺…。キミカが『俺』って…」
「あ、すごいショック状況。でも可愛いな」
 すぐ目の前にキミカの瞳。…こ、これ以上ここにいたら襲われる!?
「ちょ、キミカ!――って、あれ?」
 でも僕が懸命な思いで叫んだそのとき、目の前には男の子なキミカはもういなかった。見ればいつのまにかソファの隣にちょこんと座った女の子なキミカが、残念そうな顔を見せていた。
「あーあ、もう戻っちゃった」
 思わず肩をなでおろす僕。かと思うとするりと僕の傍に寄ってくるキミカ。
「ま、いいや。今度は私がマトイに甘える〜」
 そしてそう言ってべたりとひっついてくる。
「疲れた…」
 だからもう、キミカの甘い香りも二の腕にかかるやわらかい感触もどーでもよくなって、僕はため息を吐き出した。
 なのに気まぐれなキミカは、まだ終わってくれなかった。
「ね、マトイ。私はマトイのこと、好きだよ」
「…!」
 そんなふうに、女の子な姿のまま真っ直ぐな瞳で言われる。昨日僕に優しく口づけたままの姿で。
「好きだからね、私のこの身体のことも話した。私は身体が不確定だから…マトイが望むほうの私でずっといてもいい。こっちの私がいいんなら、マトイの前ではできるかぎりこの姿でいてあげる」
 ゆっくりと微笑む。ぞくりとしてしまうその唇に吸い寄せられるような錯覚。
「昨日マトイに拒絶されてね、それで考えたんだ。マトイは本当はどっちになりたいんだろうって。
 ほんとは女の子として男の子を好きになりたいのか、それともやっぱり心は男の子で、女の子のことが好きなのかなって」
「え、ちょ…」
 僕だけをみつめてくるキミカ。その言葉を紡いでいったキミカ。溢れでていく不確かな…ただ一つの感情。
「でもわかった気がする。そんなんじゃないって。そしてだからこそ…私がマトイに惹かれた理由も」
 そして強く呟かれた、どちらともない思い。僕を締め付けていった…キミカの真っ直ぐで深い瞳。
 それが僕の心を捉えて、離さなくて。ただそれだけでいて。
 ああ、止まらないキミカの言葉が僕を強く揺り動かす――

「そう、マトイは私と似てる人。『心』が不確定な人。だから絶対に離したくない」












 〜7〜

 その日、たぶん僕はヒロの家に遊びにきていた。
 適当に散らかった部屋の中、ベッドの上であぐらをかいたヒロと、カーペット上にちょこんと置いたクッションに乗っかっている僕。そうして僕らは二人テレビの画面をじっと見つめている。
 ようするに、単に二人ゲームで対戦してるわけだった。
「あ、コノヤロ! そこでコンボ決めるかフツー?!」
「僕はヒロみたいにセコくいったりしないから、ねっ!」
 そうして部屋に鳴り響くのは耳慣れたゲームの音楽と、絶え間なしにヒロの口から出てくるかけ声やら文句やら。
 でも一心に画面を睨みつつ彼の小言を受け流す僕の眉間にも、きっと皺が寄ってたりする。そしてそれはたぶんいつもの日常。
 そう。ぼちぼちゲームにも飽きてきて、傍らの雑誌を天にかざしながらベッドに仰向けになるヒロも、小さなテーブルに頬杖をついている僕も。さらには唐突に人のバストサイズを興味津々で聞いてくるこいつ(挙句、『俺のサイズと勝負しよう』とか言ってくる)に、容赦なく蹴りを入れる光景もきっと。
 僕とヒロは『男』と『女』ではあるけど。それは単に身体の違いとしてしか認識していない、きっとヒロもそうなのだと思う、そんな日常。
 でもそのとき僕はぼんやりした気持ちで、いつもとは少し違うことを考えていたらしかった。それはきっとキミカのこと、僕のこと。あのときの言葉の何かが、僕の中で引っかかっているということ。
 だからだろう。出来心で、そんな質問をしてしまったのは。

「ね、ヒロ」
「んー?」
 僕の問いかけに、先ほど踵がヒットしたお腹をさすりながらヒロは聞き返してくる。遠慮なく僕は言葉を続ける。
「もし僕がさ、例えばだけど誰か男子のことを『好きだ』とか言ったら…どうする?」
 と、ヒロの動きがぴたっと止まった。
「………」
「………」
「………」
 沈黙はちょっと長かった。目の前のこいつは何とも言えない変な顔をしているので、耐えきれず僕は言って。
「おい、なんで黙る」
「いや…お前頭でも打ったか?」
 そして難しい顔、というよりは呆れた表情をしてヒロは言ってきた。
「どういう意味、それ?」
 思わずムッとして言い返す僕。ヒロはくるりと首をまわして、ベッドの上で頬杖をつきながら言葉を続けて。
「ぶっちゃけお前からそういう話が出ること自体、有り得ねぇと思ってた」
 なんか納得がいかないので、ジト目で付け足してやる。
「言うまでもないけど、単に聞いてみてるだけだからね」
「わぁってるよ。で、だな…」
 と、そう言いかけてチラリと僕を見、すぐにあらぬ方に視線を逸らしながらヒロはまた考え込んでしまう。なんだか本当に困ったような雰囲気を見せてくる。
 今の視線を逸らした意味はなんなんだろう? そんなことをふと考えながら、手持ち無沙汰になった僕は何気なしにクッションの上に座り直し、僕はじっとヒロの言葉を待って。
 いつも僕のことを、他の『女の子』とは違う扱いをするヒロ。きっと昔のこともあって、僕に対しては決して女子ということを意識せず振る舞う彼は、こんな馬鹿げた問いかけにどう答えるんだろうか。
 というか僕は、ヒロにだからこそ何かを期待しているんだろうか。
 僕は、この不確定なキモチをどうしたいんだろうか。
 そんな不確かな自問。今は『女の子』だけどでもそうじゃないはずの僕。そしてそれを昔から、今ではキミカの他にただ一人だけ分かってくれているヒロ。きっと、分かり続けてくれるはずの。
「…お前、中一の夏まではホント『男』だったもんなー」
「ヒロ?」
 そのヒロは突然そんなことを言ってきた。そう、忘れられないあの日のことを。
「なのにいきなり女になっちゃってよ。他の奴らもみんなそれが当たり前になっちまって」
「…うん」
「でもなんつーか、お前の態度とか前と全然変わってないだろ?」
 そしてヒロはまた、僕のほうを横目で見てくる。目を背けずに、わずかな無音のあと静かに僕は頷いて。
「だから、なんだろな…」
 何か言いにくそうにヒロは頭をかく。今日のヒロはどこか違和感を感じる。
「…だから、俺はお前のこと別に『女』だとか意識してなかったんだと思う。昔どおりのままでさ」
 どこか変なヒロは、不意にまっすぐと僕を見る。そして、ちょっと苦々しげな顔を僕に見せてくる。
「なのに、んなこと訊かれると分かんなくなりそうじゃねえか。お前が…ホントはやっぱり『女』なのかもって――」
「…ヒロ!」
 その言葉を僕は遮ってしまった。きっとそれは聞きたくない言葉だった。
 僕が発端でこんなことになっているのに、身勝手にも僕は困った表情を見せるヒロを見上げ、睨んでいた。
 そんな僕を見て、ヒロはその無言の時間に耐えきれなくなったようにため息をはいて。

「――ああ、そうだ。試しにキスでもしてみたらどうか分かるかもな」
 そして話が変な方向に傾いた。
「は?」
 いきなりのヒロの発言についていけない僕。間の抜けた返事を返した後、改めてその言葉の意味を理解して。いや待って、いきなりなんでそういう話になるんだ?
「…ちょっと、それってどういう意味だよ?」
 だからそうジト目で問いつめつつ、なんだかヤな予感がして、思わず身構える。
「うん、単純な理屈だ。キスしてみて気持ち悪かったらお前は男。そうじゃなかったら女ということで」
 でも目の前のヒロは僕の想像を超えて訳が分からなかった。
 そう言いながら、ヒロはベッドの上でゆっくりと身体を起こす。僕の背筋に悪寒が走る。
「まさか冗談だよね?」
「いや、男のありがちな心理としては、相手が可愛けりゃ別に男でも女でもいいかなーと。お前結構美人だし」
「…近寄ったらホンキでぶっ叩く」
 嫌な予感は的中してしまった。僕は徹底的に冷たい声でそう言い切る。
 でも目の前の馬鹿は心底楽しそうな顔ですっくと立ち上がって、
「まぁまぁ、いいじゃん。あ、なんだかホントに面白れえ」
「バカ! ホントにやる気じゃないだろうな!?」
 反射的に蹴り飛ばそうとした足をつかまれた。ムカつくくらいの満面の笑みを浮かべるヒロ。抵抗も空しく、大きな身体が迫ってきた。なんで僕はあんなことを言い出したんだろう。ヒロのつぶやくような一言が僕に突き刺さる。
「目、つぶれよ」
 言われた瞬間、言いようのない嫌悪感が僕を支配する。僕にも理由の分からない嫌悪感。男にそういうことをされるのが嫌なのか、それともヒロがそういうことをしてくることが耐えられないのか…。
 そして『楽しそう』とさっき自分で言ったはずなのに、嫌になるくらい硬かったヒロの声。
「なん、――で…!」
 だからその切れ切れの言葉だけが、今の僕にできた最後の抵抗だった。身を竦めて、顔を俯かせ、『本当にキスなんかしてきたら、死ぬ程殴ってやる』なんてことを思いながら。
 なのにいつものように暴れることが、その当たり前のはずのことが、欠片もできないままでいて。
 …でも、しばらく経っても何も起きなかった。ヒロは何もしてこなかった。僕も、俯いたままで何をしようともしなかった。確かに、その日の僕は、ヒロは…おかしかった。
 だからだろう、やがて恐る恐る目を開いた僕が見た光景。本当に見たこともないくらい困った顔をしたヒロが、頬を掻きながら言った言葉。

「何だろうな…。最近のお前、ホント『女』みたいなときがあってわかんねぇよ」




 ――そんな、夢を見た。










 〜8〜

 そうして真夜中に目が覚める。
 明かりの全部消えた部屋の中で、ゆっくり身を起こす僕。隣に感じるキミカの気配。
 窓から差し込む月明かりが、斜めにキミカの寝顔を映し出している。
 …僕もキミカもちゃんとパジャマを着ている。別にあの後何があったわけでもないし。でも横ですうすうと柔らかい寝息を立てているキミカの無防備な顔と、少しだけはだけた胸元にどきっとなる。
「そういえば、キミカの家に泊まったんだっけ…」
 そう呟いた僕は、青白い光の中のキミカを見下ろした。薄くぼんやりとした夜のヴェールに覆われた横顔は、とてもキレイでいて、そしていつか僕が見た、凛々しさまでもをその中に持っていた。
 …あの春の日に、僕が確かに見惚れたその横顔。それはキミカのどちらの横顔だったんだろうとふと思う。思い、自然と僕はその頬に手を伸ばし、そっと柔らかな白い肌を、流れ落ちる艶やかな黒髪をなでて。
 でもそんなとき、ふとした僕の瞬きの瞬間にキミカは変わる。キミカ自身が言ったように、不確定に。一瞬だけ視界がぼやけた気がしたその次の静寂の中には、月明かりに照らされた男の子のキミカがいる。平均的な男子としてはかなり華奢でいて、でもとても整った顔つきの『彼』の寝顔がそこにある。
 やや細めの長い眉、ほっそりとしたあごのライン、ぷっくりと膨らんだ肉感的な唇。どれもが『彼女』を思わせて、でもまた少し違う『彼』だけの表情を見せている。
 そしてそんな男の子のキミカを眺めおろしながら、僕はまた呟いて。
「意外と、こっちのキミカも平気みたい…」
 それは本当に意外なことだった。すくなくとも去年までの僕なら考えもつかなかったこと。それとも、今この瞬間の僕が変なんだろうか。あのおかしな夢の余韻をまだ引きずっているんだろうか。
 …もしくは、キミカが僕に言ったとおりに、僕自身が不確定になっていっているのだろうか――?

 そうしてしばらく、キミカの寝顔を見ながら考えていた。ううん、実際は考えているような気になっていただけかもしれない。どちらにしろ今の僕には答えは出なかったのだから。
 やがてまた僕の視界がぼやけ、気がつけば『女の子』のキミカがすぐそばにいて。僕にとって一番見慣れた、優しく、凛々しくカッコ良くてキレイなキミカの横顔。
 だからその頬に、昨日のお返しのつもりではないけれど。そっと僕は唇を触れて、そしてするりと部屋を抜け出していった。



 夜と月明かりのあいだを交互に抜けていった先、僕がたどり着いたのは長い廊下の果ての一室。そのリビングで少し考え事をしようと思っていた僕は、思わぬ先客に出くわした。そこにいたのは一匹の猫だった。
 とはいっても電気の消えた部屋のなか、彼の瞳が月明かりに鈍く光っていたからこそ、僕はその存在に気づけたわけで。そしてその猫――シュウは僕のほうをじっと見つめて、微動だにしないでいて。
「シュウ?」
 小声で呼びかけてみる僕。でも昼間と違ってシュウは鳴き声の一つも漏らさず、それにまったく動こうとしてくれなかった。窓を背に映る黒い身体と琥珀色の瞳が、僕には昼間見た愛らしさとは別の、どこか不吉な姿に見えていた。
 それはなんと表現したらいいんだろう。生きてそこに存在しているはずなのに、それが錯覚であるかのような不思議な感覚。…そうだ。まるでキミカが『変わる』瞬間を見ているときのような、当たり前のものがそうではなくなる、キミカに言わせるところの『不確定な瞬間』によく似ている気がする。
 だからだろうか、僕はシュウと視線を交差したまま動くことができなかった。ほんの僅かだけの好奇心と、有り余るほどに感じている何か良くない予感のなか、僕の両足はがんじがらめに縛られたように動かなかった。まるでシュウが僕に魔法をかけて、身体の自由を奪ってしまったように。
「えっと、どうしよっか…」
 そしてこの妙な雰囲気に耐えきれなくなった僕の、間の抜けた言葉にも、シュウはやはり動く気配をみせない。ただ真っ直ぐと、相も変わらずのその瞳に見つめられて、なんだか僕は頭がぐらぐらとしてくる。
 冷たい彫像のようなシュウと、魔法にかけられた僕。
 時計の針の音さえも聞こえない、生命の止まったような時間。
 そんな時間に終わりを告げる、いきなり現れた誰かの存在感。
 そしてその誰かは、まるで僕らのあいだの魔法を振り払うように。パッと部屋の明かりを灯したのだった。


「――眠れないのかな、お嬢さん」
「え?」
 振り返れば、リビングの入り口には初老の男性が立っていた。
 薄いオレンジ色の光の中にぼんやりと浮かぶ、カーキ色のベストとズボンに身を包み、グレーの髪をオールバックにした長身痩躯の姿。どこかキミカに似ている――そう思いながら、言葉を投げかける僕。
「貴方は…」
「何、しがないこの家の主だよ。まぁ…キミカの祖父、と言ったほうがお嬢さんには分かりやすいかな」
 僕の問いにおじいさんが答え、それに僕は慌ててお辞儀を返して。
「あ、えっと。はじめまして。キミカのクラスメイトの深山纏です」
「私はカール。カール・ハイゼンベルグ。…ああ、そんなに改まらなくても大丈夫だよ」
 彼は目を細めながらそう言って微笑う。とても優しい笑みをみせてくる。
 そんななか、ふと僕がシュウを見てみれば…さっきの金縛りの張本人かもしれない彼は、まるで何もなかったかのように小さな欠伸を漏らしていた。
(…あれ? なんかさっきと何かが違うような)
 首を小さく傾げ、そう思う僕。でもシュウはやはり、昼間に見たままの気まぐれな灰色猫だ。だからさっきのシュウが頭をよぎり、ますます僕はこんがらがってくる。
 するとそんな僕を見てどう思ったのか、おじいさんはゆっくりとこっちに歩いてきて、ソファに腰掛けるよう促してきた。
「良かったら少し、お話でもどうかね?」
「え、あ…はい」
 言われるままに僕は腰を下ろす。シュウがカーペットの上で「ミャア」と小さく鳴き、僕に鼻先を向けてくる。そしてトコトコと僕のほうへ。
 今度は一転、僕に興味を示してくれたのだろうか。シュウはソファの横にちょこんと座ってみせた。そんなんだから、膝の上に乗せてあげたい衝動に駆られてくる。
「シュレーディンガーや、すまないがお前は自分の部屋に戻っててくれるかい」
 でも、おじいさんがそうシュウに(どうやら本名はシュレーディンガーらしい。どこかで聞いたことがある気がするんだけど…)呼びかけた。なんだか困ったような響きに聞こえたのは気のせいだろうか。
 それでもシュウはその場で前足を口元に寄せて、身繕いを始めるような、ここにいさせろと言わんばかりの素振りを見せて。
「さ、早く」
 でも、続く彼の言葉。シュウは一度顔を彼のほうへと向けて。
 やがてその言葉を理解したのか、シュウはまた小さくひと鳴きして部屋を出て行った。
 それを残念に見送りながら、『なんかシュウとはすれ違いばかりかなぁ…』なんて思いながら、残ったのは僕とおじいさんの二人。木目調の可愛らしいテーブルを挟んで向かい合う僕に、ふと彼は目を細めながら言う。
「何か、訊きたいことがありそうだね」
 これまた図星の直球だった。
 僕がおじいさんの顔を凝視すると、僕を促すかのように彼は口元に笑みを浮かべて。
「…じゃあキミカのこと、訊いていいですか?」
 だから僕は、キミカに訊けなかった質問をした。キミカのその不思議な体質のこと。それが本当に生まれたときからのものなのかを尋ねてみた。
「――そうか。あの子はマトイ君に秘密を話したのか」
 最初におじいさんが言ったのは、そんな考え込むような科白。そして僕の目をじっと見つめ、問いかけてくる。
「あの子はどういうふうに話をしたんだね?」
「…生まれたときは女の子だった。でもそのあと男の子に変わった、っていうふうにです」
「ふむ…」
 あのときの言葉を反芻しながらの僕の返事に、彼は右手をあごに当てて考え込む仕草を見せ、そして。
「どう話すべきかな。あれは…そうだな。私たちハイゼンベルグの一族にかけられた『呪い』のようなものなのだよ」
 そんな不思議なことをおじいさんは言ってきた。
「だからキミカは生まれながらにして、不確定であることを運命づけられていた」
「呪い…?」
 僕はおじいさんの言葉を反芻する。キミカがよく使う、『不確定』という単語がいやに耳に響く。
「うむ。たぶんそう説明するのが一番わかりやすい。にわかには信じられん類の話だがね」
 さらにそう言って苦笑する彼。僕はそれに複雑な意味の苦笑を返して、
「今日、もうこれでもかっていうくらいに見せられましたから」
「…一日に何度もかね?」
 と、おじいさんは少し意外そうな顔を見せてきた。
「はい。5回くらいだったかな」
「そうか。…最近は少し落ち着いてきたと思ったのだがな。環境が変わったばかりだし、仕方ないのかもしれんが」
 その僕の答えに、彼は小さく唸りながら呟く。
 それはどうも、おじいさんにとってあまり喜ばしいことじゃなかったみたいだ。目の前で難しそうな顔をされた僕は、どう言葉をかけていいのか分からなくて。
 小さな時計の音のなか、しばし僕らは黙り込んで。
 でもおじいさんはそんな僕に気づいたのか、居住まいを正して言ってきたんだった。
「まぁ、私にもこれ以上の詳しい説明はできないのだが…あの子は君も見たとおり、男と女のあいだを不確定に行ったり来たりする体質だ。学校生活をともに過ごすには色々大変なことがあるだろう。
 一緒にいれば君にも苦労をかけてしまうだろうが…できるならば、あの子の力になって欲しいと思ってね」
 その言葉のなか、優しく、困ったような、どこか物悲しい笑顔を見せながら。そして真摯な瞳で僕を見つめてくるおじいさん。僕は一瞬息をのむ。
 でもそんなお願いをされるまでもなく、僕のキミカに対する気持ちはきっと決まっているから。だから。
「もちろん、そのつもりです。キミカは――」
 だからそこまで言いかけて、でも僕は笑顔を一瞬止めて、その先の言葉を言いあぐねる。まぁそれはその、昨日と今日の一連の出来事のせいであったんだけど。でもまさか変な言い方をするわけにも行かないし、それにまだかなり恥ずかしいし…。
 なんて、一瞬のもやもやの末に。
「――僕にとって、大切な友達ですから」
 結局、そんなありきたりな言葉に落ち着く僕。僕のそんな言葉に彼はゆっくりと破顔して。
「…ありがとう。今ここにいないあの子の母親の分も含めて、お礼を言わせてもらうよ」

 …でもそんなときだった。最初に感じたのは微かな目眩。
 何かの違和感を僕の頭が感じ取って、やがてそれが、キミカが変わるあの瞬間に、さっきの不可思議なシュウといた瞬間によく似ていることに気づく。
「――困ったな。まだ話すことがあるというのに」
「はい?」
 そしておじいさんが小さく呟いた言葉。
 僕が聞き取れずに声を返すと、彼は微笑いながら首をゆっくり横に振った。感じている違和感が強くなっていた。
「今日はもう遅い、お休みになるといい。…また、機会があればあの子のことを話してあげよう」
「あ…はい」
 そうして唐突に、夜の雑談はお開きになった。おじいさんはゆっくりと立ち上がり、それにつられるようにして僕もソファから席を外す。
「私はここの片付けをやってから休もう。…では、マトイ君。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
 どこか急かすようにそう言われ、僕は少し面食らいながら、挨拶を返して席を立つ。
 ゆっくりとオレンジ色の明かりに背を向け、真っ暗な廊下へとつながるドアを開けて。そして僕は再び夜のなかへと踏み入っていった。そう、そのときだった。なにかがカチリと切り替わった予感がしたのは。
 ふとした予感が僕の心をよぎる。『ハイゼンベルグの一族にかけられた呪い』――その単語が僕の頭を掠め、だから僕はまさかと思いながら、湧き出てきたその気持ちを抑えることができなくなって。しばしの躊躇のあとリビングの方を振り向いたんだった。
「…え?」
 でも僕が振り返ったとき、おじいさんの姿はリビングのどこにもなかった。
 さっきまで一緒に話をしていた彼は、まるで最初から存在していなかったようだった。
 薄いオレンジ色の明かりだけが浮かぶ、誰もいないリビング。静かすぎるその一室の中、そこに在るのはただ僕一人の痕跡だけの気がして、シュウの気配も、おじいさんがいたしるしも、それはどこにもないように見えて。
 だから訳の分からない身震いに教われた僕は、急ぎ足でキミカのいるベッドへと戻っていく。
 この夜のひとときを記憶の隅へと追いやりながら。早く、少しでも早くこの夜と決別して、キミカと二人、揺るぎのない朝を迎えたいと思いながら…。











 〜9〜

 …はたして、待望の朝はやってきた。

「おはよう、マトイ」
 目が覚めたとき、僕の目の前にはうれしそうに微笑むキミカの顔があった。
 本来は朝に弱い僕の頭も、キミカの微笑を見たからには急速にはっきりとしていく。紡ぎたてのシルクの糸のような、柔らかく真っ白な朝日の中で、僕は薄手のシーツから抜け出しゆっくりと身体を起こす。
 昨日のおかしな夢と、これまた昨夜の不思議なひとときと。そして少しだけ大きく変わってしまったキミカとの関係を思いながら、僕の意識は朝の靄から抜け出していく。
「…うん。おはよう、キミカ」
 そしてそう答えて、僕の頬も自然に緩んで。キミカはそんな僕を見て、また嬉しそうに笑って。
「えへへー」
「ちょ、キミカ?」
 真正面から僕の肩を抱いてきたキミカ。僕は小さく声を上げる。でもそれは一昨日のような拒絶を含んだものじゃなくて、それでも不意打ちなキミカの仕草に小さく心臓が跳ねたことは変わらなくて。
 そんななか、僕はキミカに気づかれないようにゆっくり深呼吸を試みる。右肩に乗っかっているキミカの細い顎、首筋にくすぐったくかかっているその黒髪を起きたての頭いっぱいに感じながら、
「すごく嬉しそうだね、キミカ」
 胸がなんだかいっぱいになりながらそう言う僕。
 そこに、キミカの爆弾が炸裂するわけで。
「だって昨日、マトイから私にキスしてくれたんだもん」
「――へ?」
 僕の時間が、一瞬止まる。
「えっと、キミカ…」
 そして小さな沈黙の後、顔を右手で押さえながら僕は声を上げる。
「ほっぺだったのはちょっと残念だけどねー。でもやっぱこれは、一歩進展!ってことだよね〜?」
 なんで顔を押さえるかって? それはもちろん顔から火が出そうだからで。
「…昨日の夜、あのとき起きてたの?」
 なのにキミカはホントに嬉しそうに、僕の顔を覗き込んでくる。僕は思わず目をそらしてしまう。
「んー、途中からかな? なんだか頬に優しい感触を感じた気がして、薄目を開けたらマトイが私を見下ろしてて」
 それでもキミカはさらにテンションが上がっていって。しまいには両手でほっぺを押さえながら、「きゃー」とか楽しそうに叫びだす始末。
「…もう、キミカってば」
 だから僕の口から漏れた小さな溜息。それは照れ隠しのための、たぶんまったく素直じゃない僕なりの返事。
 穏やかな朝の時間。優しく流れる二人の時間。見たことないくらいに可愛いキミカ。そうしてしばらく騒いでいたキミカだったけれど…不意にすくりと立ち上がって、そして白いカーテンをさっと開け放った。その瞬間に確かに世界が切り替わった。
「ね、マトイ。今日は二人でデートにいこっか」
 そしてそう言ってきたキミカは、さっきまでとは違う凛々しいキミカだった。そんなキミカに僕は改めてドキリとさせられる。
「…いいよ。キミカは行きたいところある?」
 それでも微笑みながらそう返す僕。そのとき、振り向きながらにっこりと笑って、キミカは。
「ううん、今日はマトイが行きたいところに行こうよ。どこにでも連れてってあげるから」
 キミカはそう言いながら、僕が瞬きをした一瞬で男の子へと変わっていた。どこか不敵な笑みを浮かべながら、僕のことをじっと見つめていた。
 そんなキミカの姿に思わず僕は息をのむ。
 さっきまでとはまったく違う場所で、胸の奥がドクンと鳴り、不意に僕は締めつけられていく。まるでキミカの『変化』に引きずられるようにして、その鼓動が僕の心をかき混ぜていく。
 でもそれは一瞬のこと。
 気がつけばやはりキミカは女の子の姿で、そして小さく舌を出しながら、微笑いながら僕に言ってきて。
「へへー。なんて、ちょっとカッコつけてみたのでした! さ、早く着替えようよ。まずは二人で朝ご飯作らなくっちゃ」
「――うん、そうだね」

 そんな僕らの小さなやりとり。そのなかで僕はキミカに微笑を返しながら、心の片隅では急速に意識が醒めていっていた。
 まるで世界が一回りして、昨日のあの夜の時間に戻ったようだった。
 …身体が不確定なキミカ。心が不確定だという僕。そんな僕らだからこそ惹かれあったのかもしれないと、ふとそんなことを思う。
 でも、僕らは不確定で、不安定でいるからこそ。この関係もやはり不安定なものになってしまうんじゃないかと考えてしまう。キミカが女の子から男の子へうつろうように。僕の心が今この瞬間も、どちらに定まることなく彷徨っているように。自分自身を男だとはいえず、女とも決して思えずに。
 だから、ふと。着替えを始めたキミカをベッドの上でぼうっと眺めながら、僕は頭のどこかであり得ない想像をしてみたんだろう。今ここに、男の子の僕と女の子のキミカが存在する光景を。その確定された『もしも』の光景を。
 そして僕は考える。そのもしもが今ここにあったとしたら、果たして僕は同じ悩みを抱えることになるのだろうかと。
 僕は、キミカは…今の気持ちを等しく持ち続けていられるんだろうかと――

「――どうしたの、マトイ? 難しそうな顔をして」
「…ううん、なんでもない」
 でもキミカの呼びかけで僕は引き戻された。この確かな朝の中、やはりキミカは不確定でいて。僕もやっぱり不確定でいて。
 そしてそれこそが今の僕の日常だった。どこまでも不確定な、ありのままのキミカのいる。
 だからだろうか。僕はそんなキミカを眺めながら、キミカにもう一度小さく微笑みかけながら。
 僕はそっと、彼女にだけは聞こえないように呟いてみたんだった。

「あーあ。僕が本当に男だったら、こんなに悩まずにすんだのかなぁ」



2008.4.27 加筆修正




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