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 忙しい日々が目まぐるしく過ぎていき、「女性」として振る舞い、お客たちに見られ、扱われることで、メイド喫茶『Twinkle ☆ Star』の六人は、自分たちが本来男性であることを段々忘れつつあった。
 愛美子はクビをかしげながらも、あるときは体育会系のノリで男性客たちを罵倒し、またあるときは恥じらうような――本人に自覚はないが――接客を繰り返していた。
 ラビは外見通りの小さな子どもそのものな笑顔で「お兄ちゃん」たちを喜ばせ、元気娘の麻耶はそのスタイルで男性客たちを悩殺、沙羅の優しげな笑みは、“同性” である女性客すら魅了した。
 そんなお客たちに評判が良いのが、実はナツメの作る料理。その繊細な盛りつけと味で、リピーターが少しずつ増えてきている。男性客の一部は色仕掛け(?)で釣ることができるかもしれないが、それだけでやっていけるほど甘くはないだろう。
 まがりなりにも飲食店、それに本来の目的である「臨床実験」のためにも、店に閑古鳥が鳴くような事態は避けたい。
 リーダーであるかなめも、そんな面々を見守りながら、店を切り盛りしていた。




アンテナショップ

−中編−

作:城弾




【前編のあらすじ】

 会社で雑用をする金太郎はある日、大学の先輩でもある千藤の口車にのせられて、性転換システムの被験者にされてしまった。
 美少女「愛美子」になった彼――彼女を含めた六人の被験者は、秋葉原のメイド喫茶『Twinkle ☆ Star』で働きながら、「一年間女性として生活する」という実験を開始する。そしてオープン初日、愛美子はひょんなことから客たちに、「天然ツンデレメイド」として認知されてしまい……

【六人の被験者たち】

 瀬能金太郎 大学時代は柔道の猛者。体育会系で頭を使うのはちょっと苦手。サブカル方面にうとい。
変身後の名前は「愛美子」。設定年齢17歳。長い金髪とツリ目、巨乳というハーフっぽい容姿。
 三ツ木裕也 性転換システムの開発者、国近博士の助手。自ら被験者として実験に参加。六人のリーダー役。
変身後の名前は「かなめ」。設定年齢21歳。黒髪ロングヘアで眼鏡をかけた、知的な印象の背の高い女性。
 上末陽一 自分自身に本当に女性化願望があるのかを確かめようと、今回の被験者に紛れ込んだ。
変身後の名前は「ラビ」。設定年齢13歳。ショートカットヘアの小柄な姿。外見相応の天真爛漫な振る舞い。
 火浦一星 俳優。本名は「一正」。所属する劇団の赤字補填と、自らの演技力を高めるために参加。
変身後の名前は「沙羅」。設定年齢22歳。「優しく、包容力のあるお姉さん」というのはあくまで演技?
 牧野真平 下着メーカーの開発部に勤務。「お客の立場」を経験するために参加。
変身後の名前は「麻耶」。設定年齢19歳。ピンクのウェーブロングヘアと均整の取れたプロポーションの持ち主。
 工藤幸雄 料理人。女性向けの料理作りに悩み、「修行の一環」として参加。寡黙な性格。
変身後の名前は「ナツメ」。設定年齢25歳。短髪でスレンダーな容姿。

 

〇●〇


 初めての定休日がやってきた。
 一日目は研究所での身体検査。本来の「臨床実験」の一環である。
 CTスキャン、血液検査、問診――と、さまざまな診断、検査が目白押し。本格的なものは月に一度だが、心電図なども測定する。

「みんな、だいぶ大人の女性の身体になってきたわね……」

 昼食時、研究所の食堂で、国近たまき所長がカルテを見ながら六人にそう伝えた。細面の顔にめがねをかけ、モデルのようなスリムな体型に白衣を羽織っている美女だ。
「……あんまり嬉しくないっス」
 長い金髪をうっとうしげに払いのけ、愛美子がぼやいた。
「所長さん、検査のあとはもう帰っていいんでしたっけ?」
 麻耶が日替わり定食の魚フライをほおばりながら、そう尋ねた。
「お行儀悪いわよ、麻耶ちゃん」
 いかにも「お姉さん」という印象の沙羅が、柔らかな笑みを浮かべながら窘める。
「今日はもう少し残ってもらえるかしら? これから起こるあなたたちの身体の変化について説明するから」
「変化?」
 国近所長の言葉に、お茶を飲んでいたナツメが顔を上げた。短かった髪が、少し伸びてきたようだ。
「博士、それはやはり……」
 メガネのフレームに手をやって、かなめが察した。彼女は本来、国近の助手――いや、今も「被験者」という立場で立派に助手の仕事を遂行中である。
 国近所長に心酔している彼女ではあるが、最近では別の感情もおぼえていた。同じ立場ゆえの奇妙な連帯感、そして友情……六人は単なる被験者同士という関係でなくなりつつあった。
「あ……もしかして、女の子の日の説明ですか?」
 目を輝かせているのは、(見た目)最年少のラビ。
 ここにいる六人と国近所長は、本来は男性――国近所長が開発した「男性を女性に変化させるシステム」は、所長自らが被験者となることで、変化できること、元に戻れること、そして再変化が可能なことが証明されている。
 そこで新しいサンプルを採取すべく、多人数による実験を試みることになり、被験者として集められたのが彼女(彼)らなのだ。


 昼食のあと、六人はおよそ二時間にわたって生理の仕組み、そして対処法をレクチャーされた。
 本来なら、男性が一生知るはずのない女性特有の現象。だが、変化した身体が「女性」としてのリズムを刻みだしている。さらに午前中の検査の段階で、既に排卵が始まっている者も判明している。
 しかし、さすがにそれをここで明かすわけにはない。元々の女性でも秘中の秘――ましてや本来男性であるこの面々にとって、それを知った時の衝撃は計り知れないだろう。
 そういった理由で、急遽「特別講習」となったのである。他の面々が「女の子の日」について戦々恐々としているのに対し、ラビだけは次のステップに進めたような嬉しさを感じていた。


 明けて二日目。今日は一日フリーなのだが、いざ外出しようとしても、女性として何を楽しんでいいのかわからない。
 というわけで、愛美子とナツメ、そしてデスクワークが残っているかなめは、一日中マンションに引き籠もっていた。
 一方、沙羅、麻耶、ラビの三人は、気分転換も兼ねてショッピングに出かけた。
 女性化したことに戸惑いが残る者と、積極的に「女性」を体験しようとする者。真っ二つに分かれた形である。


〇●〇


 二日間の休みが終わって木曜日。しかしさすがに開店フィーバーは去り、平日だけに客もまばらである。暇ではないが、てんてこ舞いというほどでもない。
 そんな店の中、愛美子は文字通りの「壁の華」と化していた。
 ミニスカメイド服に身を包み、長い金髪を左右に分けて、その根本を派手なリボンでくくった姿は、「華」としては充分である。
 彼女の売りは「ツンデレ接客」なのだが、今のところそういうことをしてもOKな客がいない。なので接客は他の面々に任せて、もっぱら食器の片付けや、空いたテーブルの拭き掃除などをしていたのだが、いつしか壁にもたれてぼおっとしていたのだ。
「休み明けなのに、なんでこんなにだるいんスかね…………風邪引いたっスか……?」
 意識すると、鈍い痛みもある気がしてくる。
 そして――
「あ〜み〜ちゃん?」
「…………」
 ラビが呼びかけるが、目の焦点が合ってない。
「愛美子ちゃん?」
「…………」
 沙羅の呼びかけもスルー。
「愛美子っ」
「…………」
 麻耶の言葉にも無反応。
「瀬能っ」
「…………」
 厨房から顔を覗かせたナツメも呼びかけるが、ダメ。
「金太郎っ」
「は……ハイッ!? ななななんスかっかなめさんっ!?」
 客に聞こえないように小声で本名を呼ばれて、やっと我に返る。
 “ぼろ” が出た時の対策として、「メイド喫茶『Twinkle ☆ Star』のスタッフ(メイド)は、実は全員男性なのだが、理由があって美女美少女の姿をしているTSっ娘なのだ」とホームページに公開している。紛れもない「事実」なのだが、そういう “設定” の店だと解釈され、今のも「演出」だと受け取られるのだ。
「どうしたのぼおっとして? 寝不足?」
「いやぁ……なんか夕べから、調子悪くて……あの、かなめさん、ちょっと――」
「はいはい、行ってらっしゃい」
 実験の場とはいえ、飲食店には違いない。お客の前で「トイレ」の一言はまずいだろう。
 愛美子はみなまで言わず、裏に回ってトイレに入り、ドアを閉めてロックを掛けた。
 最初は戸惑ったが、意外に早く馴染んだ女性としてのトイレ。へたり込むように、便座に腰を下ろそうとした。
「…………?」
 ふと、違和感をおぼえた。下着を引き下ろした時、何かぬるつく。
 反射的に見下ろすと、赤く染まったショーツの内側が目に飛び込んできた――

「え……? あ…………うっ――うひゃああああああっ!?!?」

 突然、トイレの中から甲高い声が聞こえてきた。何事だと客たちがざわめき出す。
「……お騒がせして申し訳ございません」
 咄嗟に沙羅が頭を下げた。
 落ち着きはらったその態度に、店内は落ち着きを取り戻す。その間にかなめが裏に回った。
「愛美子、愛美子……開けなさいっ、なにがあったの?」
 奥にあるトイレのドアを叩く。
 しばらくしてドアが開くと、引きつった泣き顔の愛美子がのろのろと出てきた。
「か、かなめさぁん……あ、あそこから……血が――」
「……!」
 かなめはそれで全てを察した。
 愛美子の正体は24歳の男性……もちろん生理の経験などあるはずもない。うろたえても無理はない。
「貴女が一番乗りとはね……」
「ううう……」
 つとめて明るい口調で言うかなめ。自分も未経験……実際、どんな風に慰めていいのか皆目見当がつかない。
 おまけに生理痛がどのくらい辛いのか、まるで想像できない。「経験」したのは愛美子が初めてなのだ。
 この場に一人でも「本物の女性」がいれば適切に対処もできるだろうが、残念ながらスタッフに生粋の女性は一人もいない。
 とりあえず事務室で休ませ、タクシーに迎えに来てもらう。
 歩けるとは思うが、男だと一生経験することのない、生理の感覚……そのショックは計り知れないだろう。
(ええと……とりあえず何がいるのかしら? まず薬よね……)
 最初に薬に考えがいくあたり、さすが科学畑というか。
(ナプキンとタンポン、どっちがいいのかしら? 新しい下着も用意しないと……)
 コンビニで替えの下着とナプキンを買ってきて、取り替えさせる。ついでにメイド服から普段着に着替えさせる。
「愛美子をマンションに連れて帰るから、ちょっとの間、お店をお願いできる? 沙羅」
「わかりましたわ、店長」


 タクシーから降りて、かなめは愛美子を肩で支えてなんとか部屋に連れ帰った。
 部屋は意外にも綺麗に片付いていた。やはり「女性」に対してのイメージが作用しているらしい。そんな愛美子をベッドに運び、服が皺になるのも構わずそのまま寝かしつける。
 愛美子は横になったことで落ち着いたのか、すぐに眠りに落ちた。
(病気じゃないんだけどね……でも無理ないか)
 自分が最初に生理なったら、とても冷静でいられる自信がなかった。
 マナーモードにしていた携帯電話が振動する。相手は沙羅だ。
「はい、もしもし……」
『店長? 愛美子ちゃんの具合はどうです?』
 反射的に横を見るかなめ。
 愛美子は静かに寝息を立てている。とても元が武骨な男と思えないほど、愛らしい寝顔だった。
「寝たわ。自分の部屋で落ち着いたのかもね」
『よかったですわ……』
 演技とは思えない安堵の様子が、電話越しに伝わってきた。
「店はどう?」
『今日は割と暇ですね。用があったら呼びますので、そのまま愛美子ちゃんについていてあげてください』
「わかった。そうさせてもらうわね」
 小声でそう返事して、かなめは通話終了のボタンを押した。
 起こさないように気をつかったのだが、しかし女性の声は響くようだ。愛美子はうっすら目を開けた。
「あ……かなめさん……?」
「起こしちゃった? ごめんね」
 自分でも驚くほど女らしい口調になる。
(優しくすると、女らしくなるのかな……?)
 そう分析してしまうのは、研究者の性(さが)かもしれない。
「すんません……自分のために……」
「いいから寝てなさい……今日はもうそのままでいいから」
 そう言われて、無言のまま目を閉じる愛美子。
 かなめは彼女が寝付くまで、そばにいようと決めた。


「かなめさん――」
「あ、あら……ごめんなさい」
 いつの間にかうとうとしていたようだ。かなめの頬がかすかに赤く染まる。
「いえ……疲れてるんスね……女の身体になっての毎日に――」
「愛美子……」
「自分、本当に女なんスね……これって子どもができる証拠なんスよね……」
「ええ……そうね」
 いつか自分にも訪れる「女の証」。そのときは同じようなことを思うのだろうな……と、かなめは考えた。
「女って凄いスね。こんなのが毎月あるなんて……」
「今はそれを考えなくていいわ……寝ていなさい」
 まるで病気の子どもを寝かしつける母親ね……そう思うかなめであった。


 愛美子の生理が呼び水になったわけではあるまいが、六人はそれから2〜3日おきに、順に「初潮」を迎えた。
 個人差も激しく、どちらかと言えば愛美子は「重い方」だったようだ。面白いというと不謹慎だが、生理を待ち望んでいたラビが一番軽かった。
 サニタリーショーツを経験した麻耶は、「この身体だから、履き心地を理解できた」と言っていたが、強がりだったかもしれない。
 逆に沙羅はまわりが気付かなかった。あとで思うとちょっと化粧が濃い時期があったが、どうやらその時だったらしい。見事な「演技力」だった。
「気のせいかしら? 女性になってから痛みに強くなった気がしますわ」
 出産の時は死にそうな痛みに耐えるのである。多少の痛みはガマンできるようになるのだ。
 ナツメは生理中でも厨房に立った。
 自分が休んだら料理を作る者がいなくなる。それは料理人のプライドであり、「女性」としての行動をとりたくなかったのもある。


〇●〇


 そんな騒動も落ち着いて、五月になった。
 ゴールデンウィークは再びお客がどっと増えたが、仕事に慣れてきた六人は、手際よく店を切り盛りすることができるようになっていた。その所作は必然的に女性の身体にあったものへと変わり、服装の影響もあってちょっとした仕草もますます女性的になっていく。
 そして「女性」として社会的に認められていく過程で、愛美子とナツメ以外は女言葉が特別でなくなってきていた。
 この店のメイドたちは、本来は男性だが現在は女性になっている――そういう “設定” が売りであるメイド喫茶『Twinkle ☆ Star』。しかし、店を訪れるのはそういう嗜好の客ばかりではない。たまたま可愛らしい看板からメイド喫茶だと判断して来店したお客もいる。
 そんなお客がリピーターになることも、少なくなかった。
 六人は女性が考える「男性から見た理想の女性」ではなく、本来は男性である彼女たちの考える理想の女性を演じている。理想の「優しいお姉さん」の沙羅、理想の「可愛い妹」のラビ、理想の「エッチで元気な女の子」の麻耶、理想の「知性派お姉様」のかなめがそこにいた。
 求めるものがそこにある。男性客を中心に、メイド喫茶『Twinkle ☆ Star』は大いに繁昌していた。

「あんたら仕事サボって何してんのよっ!? ……そっちのあんたらもっ、学校はどーしたのよ学校はっ!?」

 もっとも愛美子だけは演技ではなく、「外回りの途中でウェイトレスにうつつを抜かすサラリーマン」やら「自分より年下のくせに、講義をサボって通いつめる大学生」に対して本気できつい態度に出てしまい、そのたびに「しまった、あれはなかった」と思い直し、つい可愛い態度――重ねて言うが、本人に自覚はない――を見せてしまう。
 天然のツンデレ、しかも本来は男性なのである。それが美少女と化して、男にでれっとした態度を見せる。これはもう「究極のツンデレ」といえるのではないだろうか?
 余所ではダメでも、秋葉原という土地柄で、「こういうコンセプト」と理解した客がリピーターとなっていったのである。
 ちなみにメイド喫茶で働いた分の給料だが、モニター代とは別に支払われている。相場よりは安いらしいが、別会計で支払われるとは思ってなかった一同は、特に不満を見せていない。
 飲食店で働く女性は思いのほか安く働いているんだな。元の姿に戻って飲みに行くようなことがあれば、優しくしてあげよう……と思う者もいたりする。


〇●〇


 六月になって、気温が高くなってきた。
「あの、ラビちゃんさんか沙羅さん、洋服を買いに行きたいんスけど、付き合ってくれます?」
 開店前のロッカールームで、愛美子はメイド服に着替えながら二人に声をかけた。
 春物の衣服は最初から用意されていたが、ここからは「実験」――女性として馴染んで、環境変化に適応できるか――との兼ね合いで、自分で購入しないとならない。もちろん愛美子に、「自分のために女物の衣服を買う」という経験があるわけがない。
「あら、いいわね」
「もう夏も近いしね。ラビも夏のお洋服や水着を買いに行きたいと思ってたの」


 そして次の定休日。結局、愛美子たちは六人で揃ってデパートの婦人服売り場にやってきた。
 ナツメは頑として同行を拒んでいたのだが、「料理人が着たきりすずめでいいの?」というかなめの言葉に渋々折れた。なにもいちいち団体行動をとらなくてもよさそうなものだが、そこは女性化した被験者同士、互いにそばにいると心強い。
 そして、彼らはまだまだ女性として「自立」できていないのである。それはかなめや沙羅も例外ではない。
「愛美子のスタイルだったら、こういうミニがいいよ。脚綺麗なんだし」
「あら、でもこういうワンピースも可愛くないかしら?」
「えーっ、それならこのフリフリの方があみちゃんの金髪によく似合うよぉ」
 きっかけとなった愛美子の洋服選びだか、「男性として女性を見る」感覚と「女性として女性を見る」感覚が入り混じり、とんでもないことになった。
 麻耶も沙羅もラビも好き勝手なことを言って、選んだ服を押しつけてくる。
 結局、愛美子はまわりの意見でキャミソールを、そして自分の意見でショートパンツを購入した。
「もう脚を出すのも慣れたっス。それにこれだと涼しいし、下着を見られる心配もないっス」
 六人はそれぞれに服を何着か買い込み、下着売り場へと移動した。「実験」当初に用意されていた下着は地味なものが多く、皆、それに不満を抱くようになってきたのだ。
 スカートが制服の職場である。愛美子も羞恥心がいつしか女性のそれになり、ショーツが見えないよう振る舞えるようになってきている。そして、万が一見られた場合のために、下着のデザインにもそれなりに気を使うようになってきた――もっともこれは、麻耶の入れ知恵も大きいのだが。
「でも、このサイズのブラジャーはデザインがいまいちなんスね……」
「そうね、フリルがくどく見えるからじゃないかしら?」
 Eカップのブラを見た愛美子が不満そうにつぶやき、Dカップのブラを手に取った沙羅がそれに相槌を打つ。
 男時代は間違っても寄り付かなかった場所だが、女になってからは毎日着けたり脱いだりしているのである。とうに「恥ずかしい」なんて感覚はなくなっていた。
 一方貧乳組は、逆に可愛い下着しかなかったりする。もちろんラビは喜び、ナツメはしかめっ面を浮かべている。
 どうやらここでは、このサイズは可愛い路線が売れるようである。
(こんなことになるなんてなぁ……「胸を薄くしてくれ」なんて言わなきゃ良かった……)
 胸中でつぶやくナツメ。ぞんざいに扱っていたら、支給されたブラはすっかり痛んでしまい、買いに来るしかなかったのだ。
「…………」
 仕方なく、比較的おとなしいデザインで無地のものを購入する。その後、彼女が自分の下着を丁寧に手洗いするようになったのは言うまでもない。
「やっぱBカップで正解だったなあ……可愛いのもクールなのも、より取りみどり♪」
「私はクールな方がいいかなぁ」
 下着メーカーの開発員が本職の麻耶は、色とりどりのブラを前にあれこれ迷っていた。かなめの場合は、機能重視というより好みのようだ。


〇●〇


 七月に入った。夏真っ盛りである。
 六人は定休日の検査を終えて、そのまま一泊二日の海水浴へと出かけた。
 移動は電車を使う。愛美子(金太郎)以外の五人は、全員運転免許を持っていたが、今の姿で提示を求められたらややこしい。もちろん偽造するわけにはいかないので、全員女性化してからは車の運転をしていない。
「みんな〜、早く早くっスっ!」
 駅の改札で、キャミソールとショートパンツという格好の愛美子が皆を急かした。夏になってからは、ツインテールという髪型でよかったと感じている。
「まったく……体育会系なんだからっ」
 ピンクの髪をポニーテールにしている麻耶。夏場は短くしたかったのだが、メイド喫茶のメイドである以上、ビジュアル最優先でカットするわけにはいかなかったのだ。
「ち、ちょっと待ってぇ」
 サマードレス姿のラビが、慌てて駆け込んでくる。
「まだ余裕あるわよ、ラビ」
 かなめは半袖のブラウスとタイトスカートを着て、黒のロングヘアを後頭部に編みこんでいる。
「あ……暑いですわ……」
「あんたも脚を晒せばよかったんだ」
 沙羅はロングスカート。髪はアップにしている。
 ナツメは七分丈のパンツに、上はTシャツ。女性の服にはまだ抵抗はあったが、さすがにこの暑さに負けて、露出の高いものを着用するようになっていた。
「楽しみっスよ。海なんて久しぶりっス」


 旅館にチェックインして荷物を置くと、六人は早速海へと出向き、「海の家」に腰を落ち着けた。
「貴重品は見ててやるから、みんな泳ぎに行ってこい」
 ナツメは泳ぐ気がないらしい。その証拠に、持参したクーラーボックスから缶ビールとおつまみを取り出し、飲み始めている。
「うっ……自分も飲みたいッス」
 真夏で冷えたビール。愛美子は喉を鳴らした。
「言っときますけど、愛美子、ラビ、麻耶はアルコール厳禁ですからねっ」
「えーっ!?」
「ちょっとぉ、確かに設定年齢は19歳だけど、本当は――」
「肉体的には未成年女子です、三人とも」
 皆まで言わせず、かなめがぴしっと釘を刺した。「……ましてや女性は男性よりアルコールに弱いはずです。どんな影響があるかわかったもんじゃないわ」
「そういうこった。代りに呑んどくから、安心して泳いでこい」
 アルコールのせいか、普段より口数が多いナツメ。愛美子と麻耶はげんなりとした表情を浮かべた。
「それじゃ元の男に戻るまで、禁酒っスか?」
「うーん、ラビは別にいいかな? 元々お酒苦手だし、大人になるまでの話だしね」
「……いや、大人になるまでその身体でいる気っスか?」
 ナツメに荷物番を頼み、残りの五人は更衣室に入った。
(う〜ん、考えて見ればみんなの裸見るの、初めてっスね……)
 既に自分の身体で見慣れてしまっている。今となっては女の裸を見ても、「キレイだな」とは感じても欲情したりはしない(そもそも欲情する箇所がなくなっている)。
 胸が極端に大きい愛美子は、上下で違うサイズを要求される。必然的にビキニの水着しか選べず、真っ赤なそれに、さすがに頬を赤くする。
 同じく胸が大きな沙羅は、ヒップとのバランスがよいので、大人っぽいワンピースの水着を自然に着こなせていた。
 対照的に、子どもっぽい紺色のスカートつき水着のラビ。かなめは機能性重視の黒の競泳用。麻耶は白いビキニ――彼女だけに、まるで下着のようなイメージがある。
 そんな彼女たちの水着の選択は、男としての好みなのか、それとも女としてのそれなのだろうか?


 あとはもう楽しむしかない。
「さぁ泳ぐっスよっ。3000メートルにチャレンジっスっ!!」
 頭は壊滅的に悪いが、スポーツは万能の愛美子。女になって筋力こそなくなったが、技能はそのままである。
 とにかく身体を思いっきり動かしたかった。何しろストレスのたまる毎日。さらに月に一度、男時代になかったものがきっちり訪れる。
 さすがに二度目からは徐々に慣れてきたが、それでも憂鬱なのは違いなかった。
(……あれ? まさかナツメさん、もしかして――)


 一方、海の家ではナツメがしかめっ面を浮かべていた。
(まさかここにきて「当たる」なんてなぁ……)
 実は泳ぎは得意なナツメ。だか、よりにもよって生理中なのである。これではさすがに水には入れない。
 他の面々に気をつかわせまいと、ものぐさなふりをしていたのだ。
(めんどくさい身体だよな、女って。……もう少し優しくしないとなあ)
 自分のぶっきらぼうな態度を、変なところで反省するナツメだった。


「よかった……厨房担当で本当によかった……」
(illust by MONDO)



「「おおおおおおおおおお〜っ!!」」
 ビーチを優雅に歩くナイスバディな美女――沙羅に、浜辺の男たちの視線が釘付けになる。
「ふふっ……」
 自分は魅力的な女性……優越感をおぼえた沙羅は悪戯心を起こして、空いていた場所に寝そべった。
 そして色っぽい目つきで、周囲を見わたす。「あ、あの……どなたか背中にサンオイル塗ってくださいます?」
 次の瞬間、ビッグウェーブ(笑)が起こった。

「おっ、俺がやりますっ!!」「いいや僕にやらせてくださいっ!!」「この俺さまのフィンガーテクで天国に行かせてやるぜえええっ!!」

 どうやら自分の色気を過小評価していたらしい。男たちは、みんな目がぎらぎらと血走っていた。
「……えっ? あ、あのっ!? きっ――きゃあああああっ!!」
 ル〇ンダイブで一斉にとび込んできた男たちを、はね起きて寸前でかわす。
 沙羅は慌てて逃げ出す羽目になった。
(や……やりすぎだった、かしら――?)


 一方、麻耶とラビは余所の女の子グループに混ざって、ビーチボールに興じていた。
「いくわよっ、そーれっ!」
「はいっ!」
「おおお……きゃっ!?」
「あはは、ラビちゃんへたっぴ〜っ」
「んっ、もうっ!」
 「同性」ということもあってすんなりと溶け込み、甲高い声を上げてボールを追いかける。
 このとき二人は、自分の本来の性別を完全に失念していた。


「ねえ君〜ぃ、可愛いね〜。……ひとりぃ?」
「……!!」
 夏の浜辺の定番、ナンパである。後ろから声をかけられた愛美子は、くるっと振り向いて相手の顔をにらみ付けた。
(ったく、そんなだから男は馬鹿にされるんっスよ……って、か、かっこいい――)
 真っ黒に焼けた肌、白い歯、程よくついた筋肉。見ていると胸の奥から甘酸っぱいときめきがこみ上げてきた。
 フェロモンに当てられた、とでもいうべきか。
(……って、何? なんで!? ちょっと前まで、自分だってこんな身体だったのに!?)
 でも、女としてみると引き締まった胸板がステキ……その思いが「本能的」なものと気がついて、愛美子は恐怖した。
 心まで女性に、恋愛対象すら変わりつつあるのか? 彼女はぶるぶると首を横に振り、ことさら強い調子でタンカを切った。

「バッカじゃない? ちょっといい身体しているからって、女の子はときめいたりしないんだからっ! 勘違いしないでよねっ!」

 「ツンデレ」モードでは自然と女言葉が出るようになっている。これも毎日の接客仕事で積み重ねた賜物。
 しかし、店でもないのに女の子らしく振る舞ってしまい、愛美子は猛烈に恥ずかしくなった。
 白い頬に朱を散らし、長い金色のツインテールを揺らめかせ、女の子走りで駆け出してしまう。
(か、可愛いじゃん……)
 そのあまりにも可憐な姿に、モノにするつもりが逆に陥落してしまったナンパ男であった。


 沙羅は海に潜って、男たちをやり過ごした。
(どうやら振り切れたみたいね……)
 ほっとしたとたん、準備運動もなしに泳いだためか、突然足がつってしまった。
 いきなりのことに、パニックに陥って水中でもがく沙羅。
(あ、やだっ、いけない……っ)
 このままでは溺れてしまう。その時、沙羅の背後から腕が伸びてきて、彼女を力強く引き上げた。


 照りつける太陽が肌を焦がす。沙羅はそれで目を覚ました。
「……私?」
「溺れてたんだよ。大丈夫?」
 傍らにいた青年が、覗き込むように声をかけてきた。沙羅は自分が寝かされていたことに気づく。
「あ、あなたが助けてくれたの……?」
 演技というより、自然と女らしい口調になる。沙羅はゆっくりと身を起こした。
「たまたまだけどね。沖を泳いでいたら、君があっぷあっぷしてたから」
「あ……ありがとう。私は火浦――火浦沙羅」
「俺は千葉拓也。よろしく」
「は、はい……」
 礼を言ってそれで終わりのはずだったのに、何故か離れがたいものをおぼえ、沙羅はそのままその青年と話を続けた。
「千葉さんは東京に住んでいるの?」
「ああ、これでも歯医者なんだ。今は帰省していて――」
「私も東京に住んでるの」
「へえ……大学生?」
「ううん、働いてるわ」
「モデルさん、とか?」
「そう見える?」
「あ、いや、その……」
「うふふ、実はメ・イ・ド」
「えっ? メイド? ……ああ、そういうこと」
 日本で「メイド」といえば、お屋敷づとめでなくメイド喫茶である。「……じゃあ、火浦さんのところに行ったら俺がご主人様なわけだ」
「そうね」
 言うと沙羅は立ち上がり、青年――拓也に向かって優雅な身のこなしで一礼した。
「秋葉原の『Twinkle ☆ Star』でお帰りをお待ちしていますわ、ご主人様」
「…………」
 拓也はその美しさに見とれた。
 そして沙羅も本来は男性なのに、一目惚れに近い気持ちを押さえられないでいた。「また逢いたい」という思いが。


 その日の夜。日焼けにしみるからと入浴を拒否した愛美子と麻耶だったが、「潮と紫外線で髪が傷む」と沙羅やラビに言われ、生理中のナツメとそれに付き添ったかなめを残して、大浴場に連れて来られた。
 脱衣所で、ラビはバスタオルを身体に巻いたままため息をつく。
「やっぱ痛いっスよね、背中」
「違うの……もうちょっと胸大きくすればよかったなぁって」
「あ……」
「でもラビちゃん、そういうことを気にするのは、やっぱり女の子なのね」
 誰が聞いているかわからないから、当たり障りのない表現で諭す沙羅。そのたわわな胸は、タオルで隠しきれない。
「うーん、あたしはこれで充分だけどね」
 大きくはないが綺麗な形の胸元の麻耶が口を挟んできた。
「さあ、きちんと洗いましょ。ここは温泉使っていて、お肌にいいみたいよ」
 スキンケアまで気を使っている沙羅であった。


 女湯ではあるが、愛美子と沙羅、麻耶の三人は注目を浴び続けた。
 人為的に作り出した身体は、信じられないほど美しいプロポーションをしていたのである。
 愛美子と沙羅の日本人離れした巨乳――もっとも愛美子は金髪と顔立ちでハーフだと思われ、むしろ純日本人的な顔立ちの沙羅の方が女性たちにとっては脅威だった。
 また麻耶は、大きくはないが美しい形の胸で、女性たちのため息を誘っていた。
(女の目から見ても、これはいい身体つきなんだな)
 そんな実感を得た麻耶であった。


 その頃、部屋にいたナツメはテレビをつけていたのだが、さすがに退屈していた。
 しかし寝るにはまだ早い。なんとなく暇つぶしで、そばにあった雑誌をぱらぱらと見る。
 それはかなめが持ってきたファッション雑誌。秋物の特集号で、夏以降のファッションを本気で研究していたらしい。
 ナツメは、いつしかそれに載っている記事を興味深く見ていた。料理人には盛り付けなどで、美的感覚も要求される。ナツメは服よりもモデルたちのメイクの方を注視していた。
(やっぱ化粧した方が映えるな……客商売、ましてや女だから見た目も気を使わないとダメか……)
「…………」
 そっと唇を撫でてみる。男の時とは比べ物にならないくらい柔らかい。
 次の休みにでも、ちょっと化粧してみるかと考えを変えたナツメであった。


 大部屋に雑魚寝。疲れもあり、皆安心しきって眠っていた。
 まわりはみんな美女ばかり……しかしまるで意識しない。自分も同じなのだ。
 もはや意識の上でも、六人にとって女性は「異性」ではなくなっていた。


 翌日の午前中にもうひと泳ぎ、そして帰りの電車でも爆睡する一同であった。


〇●〇


 八月になった。この頃になると、プライベートでの単独行動も増えてくる。
 定期検査を終えて一人で買い物に行っていた愛美子は、すっかり帰りが遅くなった。
 暗い夜道を一人で歩く。涼しいこともあってショートパンツではなく、Tシャツにマイクロミニのスカートを履いている。
 髪型は相変わらずのツインテール。背中に髪が掛からず涼しいのがありがたい。
(ああ……暑いなぁ……)
 思考の大半はそれで占められていた。そんな彼女の目の前に、突然人影が立ちはだかった。
(あ? この真夏にコートっスか……?)
 暑さで頭が回っていない。加えて女性としての危機意識がない。かつて柔道の選手だったことも、自信過剰に拍車をかけていた。
 男はいきなり愛美子の眼前で、コートを思い切り広げた。
 下には何も着ていない。全裸だった。
「ひ……っ」
 女性の裸には何も感じなくなった。その反対に、自分を含めた男性の裸体を見る機会がなくなった。
 特に下半身のモノを目にすることなく、半年以上経っている。
 とにかく、久しぶりにアレを見た……しかも他人のもの。
 そして、「女性として」見た男性自身は、とてつもなくグロテスクだった。

「きっ――きゃあああああ〜っ!!」

 愛美子は本能的な恐怖をおぼえて悲鳴を上げた。女性として感じた恐怖。
 コートをはだけた変態男はそれに満足せず、さらにその貧相な肉体を突きつけてくる。
 次の瞬間、愛美子はぶち切れた。
「しつこいっスっ!!」
 甲高い声でそう叫ぶやいなや変態男のコートの襟を取り、重心を崩すと、遠慮なくアスファルトの地面に投げ飛ばして叩きつけた。
 尻から落としたのはせめてもの手加減……身についていた柔道の技が、土壇場で愛美子の危機を救った。


 携帯電話で警察を呼び、変態男は現行犯逮捕。愛美子も事情聴取で警察官に同行した。
 取り調べが終わった頃に、かなめと沙羅が迎えに来てくれた。二人の顔を見た愛美子は、ここで始めて恐怖を思い返した。
「か、かなめさぁん……沙羅さぁん……」
 愛美子は沙羅に駆け寄ると、その豊満な胸元に顔をうずめて泣き出した。
「大丈夫よ愛美子ちゃん。さあ、お家に帰りましょう」
 沙羅はその背中をさすりながら、優しい声でそううながした。
「ほらっ、みんな待ってるから」
 赤い目をして涙を溜めた愛美子は、かなめの言葉にこくりと頷き、帰途に着いた。


「……ちっきしょおっ、脳天から道路に叩きつけてやればよかったっスよ」
 マンションに帰ってくると、やっといつもの元気が戻ってきたらしい。
「あみちゃんは柔道やってたから無事だったんだね。ラビだったら――」
「愛美子……いやみんな、これに懲りたら夜の単独行動は避けること。必ず複数で行動するように。私たちは女なんですからね」
「…………」
 かなめは一同の顔を見渡して、そう言った。
 恐怖は身に染みてわかった。そして改めて思い知る……自分たちが男性の性欲の対象となっていることを。
「久しぶりに見た『アレ』なんスけど、女として見ると気持ち悪いっスね……」
 恐怖を振り払うつもりなのか、愛美子は話題を変えた。
「あー、ラビ、それすっごくわかる」
「まあ、男でもあまり他人のなんて見たくないよね。今は自分にもないけど」
 あろうことか、アレの形状を忘れかけているラビと麻耶。トイレや風呂で日常的に目にしていたはずなのに。
「あら、そんなに嫌っちゃかわいそうよ。ないと赤ちゃんできないんだから」

「「産むの!?」」

「たっ、例えばよ……例えばの話っ」
 失言に頬を染めて恥じ入る沙羅。なんともいえない色気がそこにあった。
「…………」
 しかし、かなめが夜の単独行動に釘を刺したのは、実は沙羅への忠告だったりする――


「お帰りをお待ちしていますわ、ご主人様」
(illust by MONDO)



 夜のスナック。ドアを開けて入ってきた沙羅に、カウンターに座っていた拓也は片手を上げた。
「ごめんなさい。……待った?」
「いや、大丈夫だよ」
 シックなスーツ姿の沙羅は隣のスツールに腰をかけ、拓也の顔を見つめてはにかむような笑みを浮かべた。
 帰京した拓也が店に来てくれた時、沙羅は見た目こそいつもと変わらず「お姉さんメイド」を演じていたが、内心では嬉しさとときめきを感じていた。
 わざわざ自分に会いに来てくれた男性に対して。そして店をあとにする際に、拓也は連絡先のメモを渡してくれた。


「沙羅……さん」
「ん――」
 最初は「芝居」のはずだった……自分は春が来ればいなくなる、幻の女性。それまで女性としての恋心を知っておくのも、演技の糧になると考えていた。
 ところが、沙羅は「恋する女」を演じているうちに、何度となく拓也と逢瀬を重ねるうちに、本気になってしまっていた。
 この夜、マンションに送ってもらう途中、沙羅は拓也にキスを求められた。
 本来なら「同性」同士のキス――だが、沙羅はそっと目を閉じ、顎を小さく上げた。
「…………」
 その唇に、拓也の唇がそっと重なった。頭の片隅で、ちょっと緊張してるかな……と思う。
 男とキスなんて気持ち悪い、なんて気持ちはこれっぽっちもなかった。逆に、自分の恋が次の段階に入ったという喜びがあった。

 沙羅は「役」に入り込み過ぎ、どんどん「女」になっていく――

(後編に続く)

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