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「社長、大変です」
 相原の声はあわてていた。
「会場に来ていたお客さんたちの画像をチェックしていたんですよ。そしたら出口のそばに、いつかの芸能プロダクションの人が」
「ちょっと、それって黄髪さんのことだよね」
 俺は会場をきょろきょろと見回した。ステージでは次のバンドの演奏が始まっている。 しっとりしたジャズの旋律が流れるなか、観客はステージに注目しているか互いに話をしているかだった。髪が黄色いやつはいない。

 静かに会場を出て、狭い廊下を見回した。いない。先にハウスを出た東条にも電話をかけてみた。東条は表通りでタクシーを捜していたが、付近にも黄髪らしき人影は見えないとのことだった。
 ライブハウスのガラス扉を押して外に出た。飲食店が並ぶ通りを、ぽつぽつと人が歩いている。黄髪は、やはりいない。
 湿った風が吹いてきた。ひと雨来そうだと思って夜空を見上げたら、ひと粒の雨が頬に当たった。
 俺たちの歌だけ聴いて帰るなんて。黄髪はわざわざ、こるりの歌を聴くために来たのだろうか。





こるり 改訂版 4

作:猫野 丸太丸


 翌日相原に、ライブ中の会場の映像を見せてもらった。間違いない、後ろのほうの席でふんぞり返っているのは芸能プロダクションの黄髪だ。
 東条があごひげを掻きながら言った。
「近々、接触してくるかもしれないな」
「だといいよね」
 あの店が偶然、やつの行きつけの店だったのかもしれない。だがそれよりも、こるりに対して黄髪になにか目論見があったという考えのほうが、信じやすかった。

 とりあえず「女子高生に抱きつかれたときのこるりの反応」におやじ臭いところがなかったかでもチェックするか。そう思ったところで、電話がかかってきた。
「至急社長に用件があるとのことです」
 受付のおびえたような声のあとに、がりがりと耳障りな声が聞こえてきた。
「一時間後に新さいたまドーム。近場だから来られるよな」
「ふぇ」
「午前十一時に新さいたまドームだよ、来られるのか来られねぇのかはっきりしろ」
 黄髪の声だった。俺は受話器を握りしめた。
「もちろん行きますっ。出し物に使う資料を、台本でも楽譜でもパンフレットでもファックスしてください、そのほうがぜったい早いからっ」
 俺は電話を東条にトスした。それから相原の首根っこに抱きついて叫ぶ。
「編集ストップ、すぐこるりを使えるようにして。お仕事だよっ」
 相原は「えっと、いま性格チェックを」とつぶやいていたが、俺が二、三回揺さぶると
「はいっ、ただいまっ」
と返事をした。

 パソコンとマイク、ビデオカメラ、契約書と念のために衣装数パターンを積んで、この日のために用意したこるり専用ワゴンが走る。春の雨に濡れた路面を踏みながら、池袋から首都高に入って北へ、目指すは埼玉新都心だ。
 運転手の東条は雨粒でぼやけるフロントガラスを見つめながら
「四月十八日、新さいたまドーム、四月十八日、それにあの歌は、」
とつぶやいている。
「どうしたの」
「いや、もし僕の記憶が確かならば、僕たち、いまからとんでもないところへ行こうとしている」
 インターチェンジを出るころには、だだっ広い更地の彼方に巨大な貝殻を伏せた形が見えてくる。
 車輪ががくんと溝を踏んでドームの敷地内へと入ったとき、俺にもようやく仕事の全貌が分かった。
 入り口に電光表示板がそびえ立っている。午後から新さいたまドームで行われるのは、
 美少女アイドル、紫藤愛のコンサートだ。

「黄髪さん、ただいま参りました」
「よし来たな、こるりシステム」
 資材を運ぶスタッフでばたばたしている裏方の通路。ベニヤ板の大道具をかいくぐりながら、派手ジャケット姿の黄髪は俺を迎え入れた。がしっと握手をして言う。
「言われたとおり楽譜を送っといたが、ほんとに頭に入ったのかい」
「はいっ。アイドルさんの前座に、お歌を二曲歌います」
「もし紫藤ちゃんがもっと遅れたら、歌はさらに増えるかもしれん」
 俺は黄髪にささやいた。
「ほんとに紫藤さんだったんですか。資料に書いてなかったから、びっくり」
「天下のアイドルの前座と聞いてびびったか。なんなら帰ってもいいぞ」
「ううん、ぜひ歌わせてください」

 服はコンサートのスタッフが用意してくれていた。来るまでに湿ってしまった黒のドレスから一転して、白とチェック柄のすっきりしたワンピースだ。
「髪の色と合うかな」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 東条はさっきからうきうきした声を出している。おかしくて俺は尋ねた。
「もしかして、紫藤愛とお話できるチャンスを狙ってるの」
「もちろん」
「あまいよぉ、あたしらはただの前座」
 とはいえ、お仕事ででかいコンサート会場に出られるというのは、俺も気分がよかった。

 主役が来るまでの時間つなぎは、リハーサルなしのぶっつけ本番だ。舞台の袖からなかを見ると、中年の手品師がボールを使って簡単な手品をしている。そうとう長いあいだ時間を稼いでいたようで、観客はしびれを切らしはじめていた。
 客の我慢が限界に達する前に、手品師は一礼してこちらへ引っ込んでくる。
「タッチ、交代っ」
 あたしは打ち合わせどおり、舞台へと出た。舞台後壁のスクリーンに、横からでは見えにくい映像が投射された。
「超大作RPG。主演・アレス、幸田四郎。ヒロイン・フィーナ、紫藤 愛。豪華声優で送る、夢と感動の冒険を君に。ドラマティック・ハートRPG、愛のブリリアント」
 なんだよ、重田さんとこのゲームじゃないか。そう思う間もなく、伴奏が始まった。こるりは、いま紹介されたゲームの主題歌を歌うのだ。
 俺は静かに舞台の中央へ向かった。観客席のほうを見て頭が真っ白になる。冗談じゃない、あのれんげの花畑みたいに見える花びらの一枚一枚が、全部人間なのか。
 あがりそうになったが、こるりの体はすぐに状況を思い出させてくれた。遅滞することなく俺は歌いはじめる。

 どうして だれもが あいを のぞむの
 なみだの むこうに きぼうが あるの
 たびだつひ あなたと やくそく したよね
 となりには いつも あたしが いるもの

 はてしなく ながれる ときのかわ
 あいしあう ふたりを ひきさくのは えいえん
 かわって しまった きみを おいかける
 いつか つないだてを ひとり おもいだして

 さよならは けっして しるされていない
 ふたつの つるぎは いつか めぐりあう

 観客の視線の分析結果が出た。ほとんどはスクリーンのゲーム画面や手もとのパンフレットを見ていて、こるりを見ているものはわずかだ。
 俺は心を落ち着け、再びゲームの映像が流れるのを待った。時間稼ぎ的に細切れ映像が流れた後に、俺はエンディングテーマを歌う。
 自分の歌声のほかは、スピーカーのノイズ、ドームの天井を膨らませる空調の低音。聞こえるものはそれだけだった。

 演奏の余韻が消えたとき、袖の下に隠した時計にちくっときた。合図だ、主役がおいでになったのだ。

 さあ来い。エンディングテーマが終わり、俺が一礼したとたんに大音量で声が流れた。
「みぃんなぁっ、おっまたせぇっ」
 オーケストラが激しくドラムを打つ。俺は驚いた様子を強制的に押し殺して舞台の上手を見る。かけてくるのは、
 出たあっ、
 本物の紫藤愛だ。

 ここからの三十秒間はまるでコマ落としだった。紫藤愛は俺の右手を持ってぶんっぶんっと振り回す。
「こるりちゃん、露払い、ごくろう」
 手が焼けそうになった。五千人の観客の目が、ふたりがつないだ手の一点に集中したのだ。それからすぐに、視線は紫藤愛ただ一人に移った。
「いくぜ、ベイビィ。フウッ」
 ドーム全体をとどろかすような歓声が、激しく耳を襲う。俺は全速力で、しかし目立たずに舞台の裏へ消えた。

 紫藤愛の歌う、ああ、テレビでなじみの曲が、脳天を貫いてぐるぐる回した。
 間近で見て分かった。彼女は視線操作なんて当然のように使っていた。それだけじゃない。「ことば」を使っているのだ。
「すてき」、「だよね」、「してね」、「かわいい」、「いこう」。紫藤愛は聴いている者の心をことばの指先でつっつき、つまみ出し、ドライブしていった。
 夏を先取りする歌、彼女が「プール」と言ったとき、俺の腕にはスクール水着を着た紫藤愛がもたれかかっていた。いや、俺も着ていた。日差しは首の後ろを焼き、プールサイドのコンクリートが手のひらとお尻に当たってざらざらしている。塩素のつんとした匂いがした。
 ジージーと声のしない蝉が鳴いた。紫藤ちゃんがふざけて俺を水面に突き飛ばす。上下逆さになった俺は、水中で彼女の両足を見た。
――ところでわれに返った。

 俺は呆然としていたが、足は動いていたと思う。気がつくと服を着替えて楽屋の前に立っていて、黄髪や東条といっしょだった。
「こらぁ、あんた、紫藤ちゃんがステージに上がる前に消える段取りだったでしょうが」
 黄髪が腰に手を当てて怒鳴る。俺は答えた。
「紫藤さん、まじですごかったです」
「んぁ、なんだと」
「サイキョー、さすがプロでした」
 ぼけぼけなことを言っていた気がする。黄髪は苦笑して、俺の肩を叩く。
「そうさ、恐れ入ったかロボット。あれが本物のアイドルだ」
 しゃべっているあいだにも、俺たちを押しのけてバックダンサーらしき美女たちが通り過ぎていく。出番の終わった無名のこるりなど、すでに障害物でしかないのだ。

 俺は二、三度頭を振ってから、東条に目配せした。
「ご用命、ありがとうございました。また呼んでね、黄髪さん」
 黄髪は返事をしなかった。しかたがないか。俺は丁寧にお辞儀をして、こるり用ワゴン車へと帰ろうとした。
「おいあんた」
 黄髪がジャケットの裏からピースを取り出した。ゆっくりと火を点けてから言う。
「紫藤ちゃんのステージを見ても。それでもなお、中年おやじが美少女アイドルになれると思っているのかね」
 俺はきちんと振り返って言った。
「こるりはアイドルになります。そのために生まれたんです」
「あ、そう」
 黄髪はさらになにかつぶやいて、煙とともに手を振った。俺にはそのつぶやきが
「ったく、このラッキーガールおやじが」
と聞こえた。


 帰りの首都高は混んでいて、俺と東条は前列座席にのんびりともたれかかっていた。前の車のナンバープレートが雨の中、近づいたり遠ざかったりを繰り返している。俺は言った。
「お給金、安かったんだよね」
「ああ。こるりちゃんの前に出ていた手品師さんと割り勘って言われたからな。金一封、二万円」
「赤字だよぉ」
 俺は力なく笑った。
「しかたないね、お客さんの時間つぶしをやっただけだったし」
「それがさ、そうでもないんだ」
 東条が意味深なことを言った。
「よく思い出してみよう。あの舞台で、非常に重要なことがふたつあったんだ」
「重要な、ことって」
 俺は思い出そうとした。まずい、あの瞬間のできごとが、ほんとうに記憶の空白になりかけている。
「んっと、んっと。東条さんが重要だって思うのは、紫藤さんと握手したことと、歌ったのがゲームの主題歌だったことと」
「どんぴしゃ。さすが社長」
 東条は怪しい笑いを浮かべた。
「ひとつ。紫藤愛ちゃんは、握手をしたときにみんなのまえで『こるりちゃん』って呼んでくれたんだ。一人前の歌手扱いだね。もうひとつ。本来なら主演の愛ちゃんが歌うはずだったゲームの主題歌を、大人の都合でこるりちゃんが歌うことになった」
 俺はしばらく考えてから、息をのんだ。
「も、もしかして、今日の出番ってだれかがわざと作ってくれたの」
「偶然か、各人の思惑が重なった結果かはともかく。デビューのきっかけにしてみせるんだよ」

 東条の言ったことはただのほのめかしではなかった。会社に帰ると、すでに来客があったのだ。
 応接室のソファーには、ゲーム会社の重田さんがコーヒーを飲みながら待ち構えていた。
「まあまあ、雨で寒かったでしょう、まずはコーヒーを飲んで一息ついて」
 重田さんは、じつはさっきのコンサート会場内にいたのにわざわざ俺たちを追いかけてきたらしい。東条と重田さんは、目を合わせてお互いにうなずいた。俺はしかたなく、ふたりの対面に座って頬をふくらませる。
「いったい、なにがどうなってるの」
「魚が逃げないうちに網を打っておこうと思いましてね」
 重田さんは落ち着いた声で言った。
「こるりちゃんに、正式にこんどのゲームの主題歌を歌っていただきたい」
 なんだと。
「正式にって。今日みたいに代理じゃなくって」
 初耳の提案に俺の頭は混乱した。もともと重田さんとは、ゲームの簡単なキャラクターグッズを作ろうという計画書を取り交わしただけだったはずだ。
 俺たちは大作ゲームに関わる立場になんて、いなかった。

 重田さんは事情を説明しはじめた。
「紫藤愛の側がですね、ゲームキャラクターの声当てはするけど主題歌は別料金だなんて言い出しまして、歌の使用料まで余分に取ろうとしたんです。トップスターの歌に払える金なんてうちにはない。だったら歌は新人に任せよう、と皆が思ったところに今日のコンサートがあったんですよ」
 東条が目を輝かせる。
「ゲーム製作の皆さんが、こるりちゃんを気に入っていただけたんですか」
「はい。紫藤愛の生意気なコンサートを、スポンサーだからってしかたなく聴きに行っていたんですけどね。こるりちゃんの歌で、からっと心は晴れました。ここぞとばかり、重役たちを説き伏せてやりましたよ。こるりちゃん、サイキョーってね」
 重田さんがおどけて両手を上げる。俺は窓を見た。春特有の突風に乗ってビルの側面に雨がばしゃばしゃと吹き付けている。帰りの通勤が大変そうだ。
「しかし主題歌を歌う権利をこるりが横取りしたら、芸能プロダクションの方が気を悪くしませんか」
「そこでですよ。こるりちゃんと契約するに当たって、あえてプロダクションに間に入ってもらうのです」
「なるほど。紫藤愛にやらせるにはちょっと安い仕事、それをこるりに下請けさせて、黄髪は中間マージンをまるもうけですか。そりゃうまい話だ」
「申し訳ない。そのかわりこるりちゃんは、プロダクション側に貸しを作ることができますよ。彼らも今後は、金の卵をあだやおろそかにはしないでしょう」

 俺はやにわにぱん、と手を叩いて見せた。ふたりが、蚊でもいたのかという顔で俺を見る。社長の貫禄を見せるように、俺はおっほんと咳払いをした。
「細かいことはよく分かんないけど。ようはゲームが百万本売れちゃうくらい上手に主題歌を歌えばいいんだよね、重田さん。お仕事、やらせてください」
「え、ええ」
 重田さんは、しばらくあっけに取られていた。
「どうしたの」
「あの、『細かいことはよく分からないけど』って。いまくらいのビジネスの話が分からなかったのですか」
 これはしまった。俺と東条はあわてて首を振る。
「ほんとうは分かってます。いまの発言はこるりの性格システムのせいです」

 重田さんが帰ったあと、俺たちはコーヒーのおかわりで祝杯を挙げた。ゲームの主題歌か。重田さんのところなら音楽CDも同時に売り出すはずだ。ゲームがたくさん売れて、さらにCDが売れればなどと、狸の皮算用もしてみたくなるというものだった。
「それだけじゃないぜ」
 東条が応接室に持ってきていたノートパソコンを開いた。インターネットの、アイドル関係の掲示板が画面に表示されている。
「うわぁ、助平。東条さんったらあいかわらずこういうの見てるの」
「情報収集だよ。ほら」
 東条が示したパステルカラーのウィンドウ。掲示板の題名に「紫藤愛 おっかけ情報」というのがあった。書き込みを見ていくと、熱烈なファンたちが今日のコンサートについて感想を交わしている。観客席でれんげの花に見えたのは、おそろいのピンクのはっぴを着たこの連中だったのだ。花びらだなんて嫌なたとえをしてしまった、そう思いながら、俺は文字列を目で追う。
 見つけた。「こるりってだれだ」という書き込みだ。
 紫藤愛が名前を口走ったあのハプニングのせいで、こるりはネット上で噂になっていた。顔から調べたのか、俺が出演した広告画像が「こいつがこるり」という題名でアップロードされている。
 こるりちゃんは紫藤ちゃんのご学友であるなどの勝手な想像に混じって、俺が埼京線で歌ったことまで、掲示板にはすでに書き込まれていた。
「こわい、あたしのことが、いっぱいばれてる」
「こるりちゃんに気づいたのは一部のコミュニティだけだけどね。ただ、こるりが有名になるときには、彼らが噂の伝播の核となる」
 東条は指先でディスプレーを叩いた。
「仕事を増やせば、知名度はばんばん上がるさ」
 俺は頭を下げた。
「ごめんね」
「なにがだい」
「東条さん、あたしが遊んでいたあいだに、こるりのデビューをいろいろ考えてくれていたんだね」
 東条はぷっと吹き出した。
「なんだよ、いまさら僕が重役として有能だってことに気づいてくれたのか、社っ長さん」
「だってー、あたしがこるりになる前は、商談や交渉はあたしの役目だったじゃん。東条さんはどっちかっていうと説明が下手で、いつもやきもきさせてた」
「ほんとうにそんなふうに見てたのかよ」
「ごめんね」
 俺は東条の筋肉質の肩にじゃれついた。男の体に触るなんて、そういえばひさしぶりだった。しばらく三角筋をぷにぷにしていると、東条が言った。
「おまえ、男に抱きついて嬉しいか」
 俺はあわてて身を離した。
「ただの親愛の情だよぉ」


 大きい仕事が成功したあとには、駅前のスーパーでステーキ肉を買って帰るのが俺の習慣だった。今日もそんな気分だったのだが、食肉売り場で赤い肉塊を見ると、胃のあたりがぎゅっと痛む。しかたなくスーパーの棚の間をぐるぐる三周したあげく、シュークリームの特大詰め合わせを買って帰った。
「あら、どうしたの、これ」
「うふふ、嬉しいことがあったから」
 匂いをかぎつけたか、亜梨須が欲しそうに眺めているのを
「これは夕ご飯のあとで」
といなして、俺は食卓の椅子に座った。倫子はエプロン姿で鍋を揺すっていた。下ゆでした蕗の青い匂いがキッチンにたちこめている。
「お仕事が入ったのかしら」
「うん。テレビゲームの主題歌」
「主題歌をあなたが歌うって意味よね。まるでアイドルみたい」
 俺は驚いて倫子を見た。
「アイドルだよ、こるりは」
 不思議な沈黙が広がった。なにか会話が食い違っている感じだ。
「ごめんなさい、あなた自身はコンピューターのお仕事を続けるんだと思っていたから」
「ちょっと、あとで話そう」
 倫子は、不安がっている。

 食事のあと、俺は倫子といっしょに皿を洗った。大皿がかたづいたころを見計らって、俺は言った。
「こるりが、歌と踊りが得意なアイドルだってことは言ったよね」
「そうね、仕様書も見せてもらったと思うわ」
「だからあたし、コンサートで歌ったり劇場で踊ったりするの。今度はゲームのなかだけど、もしかして来年は、テレビや映画に出られるかも。変じゃないよね」
「でもそれはキャラクターのこるりのことでしょう」
「うん、そうだけど」
 倫子はなにを言っているのだろう。俺が棒スポンジでグラスの底をこすっていると、しばらくしてから話しだした。
「壁の時計に描いてあるキャラクター、なんて名前でしたっけ。真琴と千祐」
「そうそう。ありがと、憶えててくれたんだね」
 俺は倫子と反対側を見た。調理の油煙で黒ずんだ壁に、同じ色に汚れた壁時計がかかっている。針の軸を囲むように、セーラー服を着た少女の漫画絵がふたり、楽しそうに手をつないでいた。いわゆる百合ものブームに当てこんで売り出したものの、人気がさっぱりだったキャラクターだ。
「あのときは、商品がぜんぜん売れなかったじゃない。そしたらあなた、次の作品をがんばればいいやって言って、失敗した企画を没にしたでしょう」
「う、うん」
「こるりちゃんはどうなの。売れなかったらすぐに捨てられるの」
「それは、」
 倫子は給湯を止めて言った。
「最近のあなたって、あなた自身がこるりちゃんになろうとしているじゃない。コンピューターのお仕事は止めちゃうし、ビジネスニュースは見ないし、毎週音楽の練習ばっかりしているし。ストリートミュージシャンなんかに影響されて、すっかり芸能人気取りだし。あなた自身がアイドルになっちゃったら、捨てられるときはあなたが捨てられるのよ」
 指先から水が垂れた。小さくて、おもちゃみたいな俺の手。その手が、倉庫でマネキンの部品のように転がされている情景が一瞬脳裏に浮かんだ。
 俺はエプロンをぎゅっと握った。
「なんでいまそんな心配するの。あたし、すっごく人気が出そうなんだよ。だいじょうぶ、売れるよ。過去サイキョーの女の子だって、社長のあたしが保証できるもん」
「人気が出たときのほうが、もっと怖いかもしれない。アイドルの生活がどんなものかは分からないけれど、気軽にできるものじゃないでしょう」
「勝手に不安がらないでよ。倫子おばさんこそ性格が変わったんじゃない、前はそんなに悲観的じゃなかったじゃない」
 嫌な言いかたをしてしまった。ヒステリックな声に驚いたのか、亜梨須が流し台に走ってきた。俺のズボンに両手でつかまり、不安そうに見上げる。
「こるりちゃん、どうしたの」
「なんでもないのよ、なんでもない」
 俺はしゃがんで亜梨須に微笑んでみせた。
「亜梨須ちゃん、遊ぶのはもうちょっと待っててね」
「シュークリームは」
「もう、いいかげんにしてっ」
 いらついている女の子の不愉快な調子が、口をついて出た。


 俺が過去に独自製作したキャラクターは三十体ある。鳴かず飛ばずで終わったものが十、キャラ単体で黒字を挙げたのが十五。非常によい成績のはずだ。
 うちふたつはわが社の記念碑的キャラクターで、ヤマトやエヴァンゲリオンまでとはいかないものの、基幹商品の発売終了後もコンスタントに再使用され続けている。

 こるりを製作した際の感触は、そんなわが社のキャラクターのどれよりも良いものだった。こるりはいける。俺の勘は、そう告げている。

 布団の中で胎児のように体を丸め、俺はこるりの感触を飽きるまで味わった。枕に広がった髪を指先でいじる。わきの下からウエストまで、うっすらと脂肪をまとった皮膚をなでる。頬を指で押し、かすかな弾力が指を押し返すのを感じる。夜の闇に向かって、そっとソプラノのラの音を出してみる。この娘は、ナルシスティックな倒錯を感じさせるだけのものを持っていた。
 こるりはサイキョーだ。そしてこるりは俺だ。どこまでもかわいらしくなって、紫藤愛にだっていつか勝ってみせる。
 このままでいいはずだ。このままで。


 それから二、三日、俺は様子が変だったらしい。バンドの練習場では雄大が心配して、練習を休みにするかと言ってくれた。ミホはミホでこっそり耳打ちで、生理のことをちゃんと習っているかと尋ねてくる。偽者の女の子であることがばれるといけないので、俺は分かっているふりをして適当に話をごまかした。

 そして次の日の午後二時。コンピューター室にこもっている相原のもとをふらふらと訪れてみる。
「ねぇ、相原さん」
「はいはいっ、社長」
 待ち構えていたように相原が言った。とびきり優しそうな顔をして、俺を見つめている。
「もしかして、あたしが相談するのを待ってたの」
「はい、どんとこいですわ」
 相原のもとには、俺のストレスを表すデータがたっぷり蓄積されていたのだろう。机の上は、いかにもそれらしい紙の山で占領されている。
 俺は努めて事務的な声で言った。
「えーと、まず、あたしって意外とヒステリックな声が出せるのに気づいた」
 つぎに大きく息を吸って「もう、いいかげんにしてっ」と叫んでみる。コンピューターの騒音を打ち消すくらいの声だ。相原は耳を押さえた。
「ね。いやーな声でしょ」
「いったい、どちらで叫ばれたのですか」
「自宅。倫子おばさんを怒らせたかもしれない」
 俺がうつむくと、相原はいきなり俺を引き寄せて、ひざの上に座らせた。モニターの灯りの前で、相原の細い腕が俺の胸の前に回される。子供をあやすように、体を揺らしてきた。
「叫びたくなる理由があったんでしょう、社長。正直に言うのです」
「理由はたいしたことじゃないよ。性格設定のせいでヒステリーになっただけ」
「おお間違いですわ。理由があるからこそ感情的になるんです」
 俺は長いため息をついた。
「たぶんね、先のことが不安になったんだと思う。いまのあたしって、こるりプロジェクトと心中してる状態だもん」
「そうだったんですね」
「こるりの未来はずっと考えてたけど、あたし自身がどうなるかって、考えたことなかったの」
 体をねじって振り向いた。間近に見える相原の顔は、眼鏡では隠しきれない美しさを見せていた。日に当たってないせいか、肌のきめが細かい。同じシャンプーを使っているのか、こるりと同じ匂いがした。
「こんなにお仕事がラッキーなときに、へんだよね」
「不安は当然だと思います。社長って平然としすぎてるから、かえってあたしが不安でした」
「どういう意味よ、それって」
「だって社長が女に目覚めたら、もっと悩みが出てくるはずですもの」
 おいおい。
「待ってよ、べつにこころの性別を変えたつもりないよ、あたし」
「でもでも、社長は女として可愛げを身に着けて、ましてやアイドルになろうとしているのですよ。すごくたいへんなはずです」
「性格はシステムが勝手に表現してくれるもん」
 相原は首を振った。
「だからだいじょうぶ、とは言えない気がするのです。だって女になるということは、生まれつきの女の子にとってすら、すごく難しいことなのですから」
 女になるということ、か。この何ヶ月かの不安、形のはっきりしないそれは、女になっていくことで生まれた軋轢だったのだろうか。たしかに俺は性格をいじった。昔の俺とは、どこか変わってしまったのかもしれない。
 だからといって、俺自身は変わらない俺のはずだ。
 しばらくもたれかかって相原にされるがままにしていると、相原が言った。
「だから社長。性格を女の子にするのはしばらくお休みにしませんか」
「それはダメだよ。いまがデビューのいちばん大事なときなんだから」
 俺は相原のひざの上から立ち上がった。
「紫藤ちゃんを見たでしょ。あたし、まだまだかわいらしさが足りないよ」
「でも、それじゃ社長が」
 なにを言うか。俺はきりりと親指を立てて見せた。
「ストレスのデータなんて気にしないで。あたしはだいじょうぶだから。ありがと」
 相原の手に力強く握手して、俺はコンピューター室を出た。


 社長室に戻ると、黄髪から新たな仕事の連絡が入っていた。
 でかい企画だ。俺はコンピューター室にとって返し、相原にファックス送信文を持っていった。
「つぎは踊りだよ。劇場でエンターテインメント・ショー」
 相原はぼうっとしていたが、仕事の内容を見るやいなや俺の手から感熱紙をひったくった。
「これ、千草雅晴ですよ」
「だれ」
「千草雅晴ですよ、大河ドラマとか時代劇とかに出てくる歌手の」
 そうなのか。俺は相原から端末を横取りすると、インターネットでその共演者の名前を検索してみた。
「ね、歌手でしょう」
「ていうか、このひと。紫藤愛ちゃんの、パパさんだ」


 東京は赤坂のホテルの五階。装飾がおとなしめの黒いドレスを着て、俺は東条とともにパーティーに乗り込んだ。会場にはすでにショーの関係者と思しきスーツ姿が、三々五々集まって話をしている。子供は俺ひとりのようだ。
 さっそくテーブルに並んだ料理に目が行っている東条に
「あんまりがっつかないでね」
とささやいてから、俺は人ごみの中へ入っていく。
 役者や劇場関係者たちをかきわけながら、俺は知っている顔を捜す。窓辺で語らっているのは重田さんとその部下だ。黄髪は別のテーブルで、若い男たちに向かってご高説を垂れている。見つからないように忍び足で通り過ぎ、演壇のそばまで来た。
 いた。インターネットの写真で見たのとおなじハンサムな壮年の男だ。その男、千草雅晴は、俺を見るとにっこり笑って近づいてきた。周囲の連中よりもひときわ背が高い。
「こんばんは、千草さん」
 最重要な共演相手に、俺は丁寧に一礼した。
「やぁ、君がこるりちゃんだね。先日は娘がお世話になりました」
「こちらこそです」
「うちの愛が迷惑をおかけしませんでしたか」
「とんでもないです、すっごく素敵なお歌を聞かせていただきました」
 なんだ、幼稚園の父母会と同じノリで話せそうだ。千草さんはさりげなくオレンジジュースを渡してくれた。俺はビールを注ぎ返す。
「こんど、ごいっしょにショーに出させていただけるって聞いて、びっくりしました」
「いい華のある女の子だって、愛が言っていたからね。ぜひ今度はおじさんと共演してほしい」
 おいおい、紫藤愛とは一瞬顔を合わせただけだぞ。うそ臭い理由だなと思いつつ、俺は感謝した。大人の事情はあとで東条に尋ねることにしよう。
 千草は周囲を見回した。
「ふむ。役者が揃ったのにだれも注目しないとは不届きだな。ちょっと来たまえ」
 俺は言われるままに演壇について行った。と、いきなり千草は俺の腰に手を回すとひじの高さにまで抱き上げたのだ。
 背の高い千草に抱き上げられて、俺の視界が一気に広まった。出席者の大人たちを最後尾まで見渡せる、いや、正直高すぎて怖い。
 手が滑った。しまったと思ったときには遅く、オレンジジュースのグラスが落ちた。ジュースが千草の背広の左肩から背中へとしみを作る。

 しかし千草はすこし体を回転させただけだった。汚れた服をうまく俺の体で隠したのだ。そしてそのまま、マイクの前に立って言った。
「はい、注目。西東京劇場で、五月二十一日より某氏プロデュースのショーをやります。出演は私と、こちらのこるりちゃん」
 いきなり視線が来た。俺はとりあえず手を振った。
「ふたりのショーです。よろしく」
 拍手が起こった。皆楽しそうに笑っている。実になごやかな雰囲気だった。
「お騒がせ失礼。皆さん、引き続きご歓談のほどを」
 俺を抱えたまま、千草は会場を出た。だれもいない廊下で、はじめて俺を下ろす。
「ごめんなさいっ、お服が汚れちゃった」
「君こそドレスはだいじょうぶかね」
 俺があわてるのを千草は意に介さない。それどころかひざまづいて、俺のスカートの裾についたジュースのしずくをハンカチで拭きはじめる。
「あ、そんな、ごめんなさい」
「舞台の本番では粗相しないように気をつけたまえよ」
 千草は湿った背広を脱ぐと、最後に片頬をあげて笑った。
 うーん、気障だ。生まれつき女だったらああいうのに惚れてしまうのだろうか。服を着替えに控え室へ去っていく後姿をぼうっと眺めながら、俺はため息をついた。

 さて、俺は俺でパーティー会場に戻るか。そう思ったところで背後に気配を感じた。
「だまされるんじゃないよ」
「きゃ」
 後ろから声をかけられて驚き、振り向いてさらに驚いた。
「愛ちゃんっ」
「はろー、こるりちゃん」
 そこにいたのは紫藤愛だった。野球帽に伊達眼鏡、男みたいなショートパンツという、わざとらしいまでにお忍びな格好をしている。
 紫藤は帽子のひさしを上げて、父親に負けないくらい気障に微笑む。
「パパはね、極悪人。暴力の権化だから、外面で判断すると大ケガするよ」
「そ、そうなの」
「まー、あたしの体にも生傷が絶えないね」
 俺はおそるおそるうなずいた。紫藤愛とは一度話をしてみたかった。俺の頭には、まだあのコンサートでの衝撃が残っている。紫藤愛こそが、こるりの目指す美少女アイドルのトップの座にいる者だ。まさか、彼女のほうから話しかけてくれるとは。
 だが、いまはそれ以上に尋ねたいことがあった。
「愛ちゃん、ありがと。あたしを助けてくれてるんだよね。仕事を譲ってくれたり、コンサートで名前を宣伝してくれたり」
「めんどくさい仕事を押しつけてるだけよ」
 わざと悪ぶっているのか、紫藤は下唇を突き出して見せた。
「ゲームの声当てなんてさ、『アイドルじゃあベテランの声優より下手だね』って言われるだけだもん。そのうえ歌まで音質の悪い録りかたされたら泣いちゃうよ。んだから、あんたに途中で代わってもらったわけ」
 なるほど。紫藤愛はそうとう仕事をえり好みするようだ。わがままなことだが、おかげでこっちは仕事にありつくことができたわけか。
「うん、分かった。じゃ、遠慮なくお仕事がんばるね」
 俺の返事を聞いた紫藤は、なぜかにやにや笑っていた。不思議に思った俺は彼女の顔を見つめる。いきなりその顔がアップになると、
「いただきっ」
という言葉とともに唇を奪ってきた。柔らかな感覚が押し付けられ、すぐに離れた。

「え。ええええっ」

 廊下に人の気配がする。紫藤は帽子をかぶりなおすと
「つらいだろうけどがんばってね」
と言い残して走り去ったのだった。
 まるいお尻が廊下の角を曲がって消えるまで、俺は呆然としていた。


 あとがき
 停滞した人を駆り立てるものって、突然の来訪者だと思うのです。人はなかなか自分ひとりでは変われないのです。

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