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 天正11年4月21日、余呉湖の水を赤く染めた死闘も決着がつこうとしていた。狐塚に陣を布いていた柴田勝家も自軍の敗勢が確実であることを認めるしかなかった。

「まさか、又左が逃げ出すとは……」
 勝家はなおも信じられないといった様子で茂山の方に目を向けた。そこにはついさっきまで前田利家・利長父子の軍勢2000が布陣していたがいまは誰もいない。敵の追撃を受けながらの後退を強いられている佐久間盛政を支援すべきの前田勢は佐久間勢がいる権現坂とは正反対の塩津方面に進路を取ったのだ。つまりは敵前逃亡である。前田勢に続いて金森・不破の両勢も相次いで離脱したため、その方面に拘束されていた敵も佐久間勢への攻撃に参加した。味方の裏切りと敵の猛攻にそれまで何とか統率を保っていた佐久間勢もついに崩壊して、盛政も敗走を余儀なくされた。佐久間勢の崩壊で、合戦の帰趨は決した。合戦が始まるまでに7000はいた勝家の軍勢も兵の逃亡が相次いで3000に数を減らした。

「もはや、これまでか……」
 自軍の有力な武将はほとんど戦死するか羽柴秀吉に寝返っている。もう、勝家には勝ち目はなかった。しかし、勝家も鬼柴田と恐れられた猛将である。このまま敗北を認めるのを潔しとはしない。

「かくなる上は打って出るのみじゃ!」
 そう叫ぶや勝家は馬に乗って敵勢に駆け出そうとした。あわてて重臣たちが制止する。

「ええい、通せ!」
「なにませぬ。ここはお退きくださいませ!」
「逃げたところで何になるか。筑前ごときに背を向けたとあらば、冥土で上様に合わせる顔がないわ!」
 勝家がここまで退却を拒否するのは、越前へと向かう退却路が狭い山道で3000の軍勢を無事に撤退させることは困難と思われたからだ。それならば、羽柴勢に決戦を挑んで華々しく討死した方が武名は保たれる。勝家の決心の固さに重臣たちも折れるしかないが、ただ一人毛受勝照は執拗に主君を諌めた。

「殿の戦場での軍功は天下に比類なきもの。されど、いまここで死すことは後々までの悪名となりましょう。ここは大将が討死なさる場所ではござらん。北ノ庄までお退きになり城中で心静かにお腹を召されませ。敵の追撃は某が殿の身替りとなって食い止めます。恐れ多いことと存じますが、御馬印を某にお預けください。たとえ、敵が10万の大軍で攻めてこようとも一人として通しませぬ」
 自分の身替りとなって犠牲になるという勝照の諫言に勝家もついに納得して馬印を渡した。

「心あるものは勝介にあやかれよ」
 そう言い残して勝家はその場を立ち去った。残ったのはわずか300人。勝照は林谷山の空砦に移動して、そこで羽柴勢を迎え撃つことにした。すでに討死は覚悟の上である。勝照らは今生の別れにと杯を交わした。やがて、羽柴勢の攻撃が開始された。金の御幣がキラキラと輝く砦を羽柴勢は勝家の本陣と信じた。勝家が最後の戦と覚悟を決めているなら迂闊には手が出せない。そこで、数発の銃弾を放って様子を見てみた。反応はない。羽柴勢は勝家はすでに戦意を喪失していると見て、大将の首を取ろうと砦に殺到した。だが、それは罠だった。十分に引きつけられた羽柴勢は砦からの一斉射撃に立ちすくんで混乱状態に陥った。そこを勝照が陣頭に立って打って出る。

「我は柴田修理なり。腕に覚えのある者は我の首を取って手柄にしてみせい!」
 この勢いに羽柴勢は216mあまり後退を強いられた。態勢を立て直した羽柴勢が反撃に出ると、さっと砦に引き返してまた打って出る。その戦いぶりはまさに獅子奮迅といったところだが、所詮は多勢に無勢ついには10余人にまで数が減っていた。

「どうやら次ので最後になりそうじゃな。もう、時間も十分に稼いだ。我らの役目は終わりじゃ。あとは華々しく散るのみ」
 勝照の言葉に一同は頷いた。砦の外では羽柴勢が勝照らの突撃を待ち構えている。そして、最後の突撃が敢行された。


 一方、無事に戦場を離脱した柴田勝家は北ノ庄に向かう途中で越前府中城に立ち寄っていた。府中城は前田利長の居城で先に戦場を離脱していた前田利家が入っていた。いきなりの訪問に利家はかなり動揺したことだろう。なにしろ大将の勝家に無断で戦場を離脱したのだ。当然、勝家は立腹していることだろう。だが、これは好機でもあった。ここで勝家を討ちとってその首を秀吉に差し出せば前田家は助かる。実は、前田勢も撤退の途中で羽柴勢の追撃を受け少なくない犠牲を出していたのだ。つまり、現時点では前田家は依然として柴田方と見做されているということになる。このままでは府中城は羽柴勢の攻撃を受けることになる。だが、利家には勝家を討つことができない。若いころに織田信長の怒りに触れて浪人していた頃、一番助けてくれたのが勝家である。その恩は決して忘れたことはない。先の戦場で離脱せずに勝家の本陣に突進していたら、勝家を討ちとることもできたはずだ。しかし、恩人の勝家に刃を向けることを利家は躊躇した。
 だが、直接攻撃しなくても許可なく戦場を離脱したことは許されることではない。利家はてっきり勝家が詰問しに来たのだと思っていたが、勝家の口から出た言葉は意外なものだった。

「すまぬが、湯漬けを所望したい」
 そして、出された湯漬けを平らげると勝家は利家に、

「又左よ、そなたは筑前とは昔から昵懇の間柄じゃ。これからは筑前に仕えるがよい。いままで儂についてきてくれたことを感謝する」
 と深々と頭を下げた。意外な勝家の行動に利家は慌てふためいた。

「お、親父殿、どうか頭をお上げください」
 20年以上前に父を亡くしていた利家は勝家を親父殿と敬愛していた。その人物を裏切ったのだから、頭を下げるべきなのは利家なのだ。利家が佐久間盛政を支援せずに逃げたために、それまで何とか統制を保っていた佐久間勢はついに力尽きて崩壊してしまった。そこから一挙に柴田勢全体が崩れたのだから敗戦の責任は利家にあるといえる。だが、勝家は首を横に振ってそれを否定した。

「いや、すべては玄蕃を抑えられなんだ儂に責めがある」
 それは一昨日のことだった。岐阜の織田信孝が再挙したとの報せを受けた秀吉は、これを討伐するため戦場を留守にしていたのだが、それは柴田勢を決戦に誘引するための罠だった。さすが歴戦で織田家の筆頭重臣の勝家はその罠を見抜いていたが、血気に逸る佐久間盛政は強硬に出撃を主張して勝家と対立したのだ。結局、勝家が折れて大岩山に攻撃を限定するという条件で出撃を容認した。ところが、

「背兵衛(せびょうえ)を討ったことで玄蕃は調子に乗ってしまったようじゃな」
 秀吉方の有力武将・中川清秀を討った盛政はさらに岩崎山を攻略して賤ヶ岳をほぼ制圧したことですっかり有頂天になってしまい、攻撃成功後は速やかに撤収するという約束を無視して大岩山に居座ったのだ。勝家は再三に渡って盛政に撤収するよう命令したが、盛政はそれを無視し続けた。盛政はさらなる攻撃を望んでいたのだ。もし、信長が大将だったらこうした家臣の勝手な振る舞いは許さなかっただろうし、盛政も信長の命に背くような真似は決してしなかっただろう。勝家はかつて他ならぬ秀吉に勝手に帰られてしまうという前科があり、配下に対する統制が少し甘いようだ。こうして、時間が無駄に経過していき昨日になって秀吉の本隊が戦場に復帰したのだ。その早すぎる行動に盛政は動揺しながらもただちに撤収を決断して、気付かれないように準備に取りかかった。それを察知した秀吉は攻撃命令を下して一気に決着をつけようと図った。これに対し、戦巧者の盛政は秀吉勢の追撃をあしらいながら後退して勝家との合流を目指した。すると、秀吉は攻撃目標を盛政の弟で勝家の養子になっていた柴田勝政に切り替えた。勝政も懸命に奮戦して兄と合流しようとするが、秀吉勢の猛攻に耐えきれずに崩壊して勝政も敗走を余儀なくされた。結局、勝政は脇坂安治に討ちとられて戦死、山路正国は加藤清正に拝郷家嘉(子連れ狼の曾祖父)も福島正則にそれぞれ討ちとられてしまった。これが利家が戦場を離脱する前の状況である。この時、逃げずに佐久間勢の支援に動いていたら戦局はどうなっていただろうか。

「もう終わったことじゃ。今更、あの時こうすれば良かったと後悔しても何にもなるまい。してしまったことをいつまでも引きずっていては人は前には進まぬものよ」
 勝家の言葉に利家は項垂れて聞くしかなかった。勝家は以後は秀吉に仕えるよう利家に念押しすると、湯漬けの礼を述べて府中城を後にした。その後、秀吉方の堀秀政が来訪して利家に秀吉への臣従を決意させている。


 なんとか秀吉勢の追撃を振り切って北ノ庄に帰りついた勝家だったが、彼の手元に残った兵はわずか3000でこれでは城全体を守備できないから外郭防衛は放棄するしかなかった。生還した夫を妻で信長の妹であるお市の方と子供たちが出迎えるが、すでに賤ヶ岳の敗報は北ノ庄にも伝わっており市は不安を隠せないでいた。彼女と3人の娘は前に落城の悲劇を味わっている。その時に夫と息子を失っているのだ。そして、いままた落城の憂き目を見ようとしているのだ。そんな妻を勝家は、

「案ずるな、この北ノ庄が落ちるものか」
 と励ますが、市の顔は晴れない。

「心配いたすな。大丈夫と言うておろう。ようやくにも手に入れた権太のためにも負けるかよ」
 そう言って勝家は市が抱いている赤子の顔を覗き込んだ。権太という幼名をつけられたこの赤子はすやすやと気持ちよさそうに寝ていたが、勝家の声にビクッとなったのか愚図りだした。

「お声が大きいから……」
 市がたしなめると勝家は大声で笑い始めた。とても戦に負けて尻尾を巻いて逃げ帰ってきた男とは思えないぐらいだが現実は厳しい。23日には北ノ庄城はすっかり羽柴勢に包囲されてしまった。包囲陣の中には前田利家の姿もあった。降伏した武将の常として先陣にさせられていたのだ。最後を悟った勝家は市と3人の娘に城を出るよう促した。信長の血縁である彼女たちなら秀吉も丁重に扱うだろう。だが、権太だけはたとえ赤子であっても助命はされないだろう。秀吉のことを人道主義とか博愛主義とかと評価されることもあるが、あの男にとって人命など己の利益になるかならないかでその価値が決まるのだ。必要であれば反抗した者でも寛大な処置をするし、逆に撫で斬りという残酷な手段をとることも躊躇わない。それは、この時代の武将であれば珍しくもないが、秀吉はそれを冷徹な計算のもとに実行するのだ。そんな秀吉が自分と市の子供である権太を助けるわけがない。権太だけはこっそりと逃がすしかない。勝家は尾張時代からの家臣である柴田吉衛門にわが子を託した。これで思い残すことはない。後は最後まで戦って死ぬのみだ。だが、娘たちを連れて城を出るように言われた市が自分も城に残ると言いだした。

「何を申す。そなたは亡き上様の妹御じゃ。そなたを道連れにしたとあれば儂が上様に叱られてしまうぞい。それに娘たちはどうするのじゃ。そなたがついててやらねばなるまい」
 勝家はそう諭すも市の決心は固い。彼女は夫以上に秀吉を嫌っており、その庇護の下に入るなど耐えられなかった。そこまで秀吉を嫌うのは、秀吉が前の夫である浅井長政との間に生まれた長男を惨殺しているからだが、それは信長の命令であり怨むなら兄をというのが筋なれど、兄を怨むわけにはいかず代わりに秀吉が怨まれたのである。勝家はなおも城を出るよう説得するが、市は頑固にそれを拒絶した。根負けした勝家は3人の娘のみを城から出した。
 総攻撃は24日の未明から開始された。城方は懸命に防ぐが、圧倒的な数の差に次々と倒れていった。最後の時が来たと悟った勝家は市を刺殺すると、天守閣から眼下の羽柴勢を見下ろして叫んだ。

「腹の斬り様をじっくり見分して後々の手本とせよ!」
 勝家の壮絶な死で本能寺の変からの織田家の混乱は収束した。家臣たちも勝家に殉じたが、柴田吉衛門は権太を守って城から脱出していた。









WILD GOOSE  PAULOWNIA

(前編)

作:大原野山城守武里







 ここは山奥の小さな集落。戦国乱世の時代によって故郷を追われた人々が集いし里である。古来からの権威が失墜していたこの時代、天皇や将軍といえども貧窮の苦難にさらされることもあった。だが、実力者にとって利用価値のある人たちはまだいい。養ってもらえるからだ。哀れなのは利用価値のないと見做された人たちだ。助けてもらえるあてもない、諸国を流浪して仕官できるだけの能力もない人たちがこの里に集まるのだ。彼らは里を「落ち人の里」と呼んだ。この名づけからして彼らが自分たちをどのように評価しているかおわかりいただけるだろう。
 だが、そんな里にも他にはないいいところがあった。年貢が発生しないのだ。この里では誰であっても自分で食糧を調達しなければならない。それか、何か仕事をして食べ物を分けてもらうかだ。戦国時代と呼ばれたこの時代になぜ全国で合戦が頻発したかおわかりになるだろうか。それは、この時代が慢性的な食糧難だったからだ。
 14世紀中頃からの地球寒冷化で、世界的に飢饉が頻発していた。アイスランドでは海氷が港湾を長期間封鎖したことで、漁業や交易が大打撃を受けて人口が半減してしまっているし、グリーンランドではバイキング(正しくはヴィーキングというそうですよ)植民地が全滅してしまっている。また、氷河が河川をせき止めたことで洪水となった地域も多い。当然、日本も例外ではなく食糧難は深刻な問題となっていた。食べ物が無ければ余所様に分けてもらうしかないが、食べ物が有り余っている場所などどこにもない。となれば力ずくということになる。上杉謙信が頻繁に他国に出兵するのも領民に掠奪の機会を与えるためともされている。これが幕府という中央政府がきちんと機能していたらまだ良かったのだが、明応の政変で幕府は全国を統治する機能を永遠に失ってしまった。食糧難と幕府による統制の崩壊がこの国を戦国時代という乱世に突入させたのだ。
 小難しい話はさておき、この里には権力者がいないので年貢を納めないですむ分、他よりも食べ物に余裕があるのだ。といっても、毎日腹いっぱい食べれるほどでもないが、それでも餓死の心配をしなくていいだけマシである。それに何と言っても平和であることが何よりの利点だ。北ノ庄を脱出した柴田吉衛門が身を寄せたのもこの里である。ここなら秀吉の追及も心配しなくていいからだ。里の者も吉衛門と権太の素性を詮索しようとはしなかった。それがこの里の掟なのだ。ここで、吉衛門は権太を養育することにした。それから8年が経過した。

 すくすくと成長した権太は吉衛門から武芸の手解きを受けるようになっていた。落ちぶれたとはいえ、武士の子にはやはり剣術ぐらいは習得すべしという考えからだが、実際は吉衛門が指導できるのはこれぐらいしかないというのが理由だ。

「若、へばるのはまだ早すぎますぞ」
 吉衛門は地面にへたり込んでいる権太を見下ろした。ゼェーッ、ゼェーッと息を切らしながらも権太はすぐに立ち上がると竹刀を構えた。そして、吉衛門に打ちかかる。

「ヤーッ」
 だが、吉衛門はヒョイとかわして権太の頭を竹刀で叩いた。

「い、痛ってーっ」
 権太は竹刀を捨てて頭を抱えて蹲った。主君の子に対しても吉衛門は容赦がなかった。

「ちょっとは手加減しろよ」
 と抗議しても、

「若、戦場で左様に申して敵がそのようにしてくれるとお思いか」
と返されてしまう。一度は武士を捨てる覚悟だった吉衛門であったが、時が経つにつれ柴田家を再興したいという思いが生じるようになった。だが、秀吉の天下では柴田家の再興は不可能に近い。吉衛門は秀吉の天下を覆せるのは徳川家康しかいないと見ていた。前田利家はそんな度胸は無いし、毛利輝元はそんな器量を持ち合わせていない。黒田如水は器量は申し分ないが、如何せん身代が小さすぎる。これは、秀吉が如水の才能を警戒したためである。だが、秀吉が武力を発動しながら軍事的に屈服させることができなかった唯一の例である徳川家康はそれらの武将とは格が違っていた。さらに、昨年の小田原征伐の功績で東海甲信5ヶ国から後北条氏の旧領へと大幅に加増された徳川家は豊臣家の潜在的な仮想敵国となるぐらいの勢力を誇っていた。吉衛門は権太を徳川に仕官させて、家康が秀吉の天下を簒奪した暁には柴田家を再興してもらおうと考えたのだ。そのためには、戦場で手柄をあげる必要があり手柄を挙げるには武芸を磨く必要があるのだ。しかし、吉衛門が見落としていたことがある。秀吉はそんなに甘くないということである。ちゃんと、徳川に対する備えは万全にしてある。まずは、徳川領を上杉景勝・真田昌幸・佐竹義宣・加藤三泰・中村一氏・蒲生氏郷らに包囲させさらに東海道に一族や子飼いの武将を配置した。そして、家康の重臣・大久保忠世を小田原城主とした。小田原城は豊臣勢20万の大軍の包囲に耐えた名城で、武将にとっては垂涎の的であった。それが秀吉の口利きで自分の城となったのだから、忠世とその嫡男の忠隣は親豊臣派となった(これが、後年の大久保家改易に繋がったとされ、大久保一族の赦免は豊臣家滅亡直後であった)。さらに、秀吉は北条氏邦を前田家預かりとしている。氏邦はかつて武田信玄や上杉謙信と競い合った名将・北条氏康の三男で、北条一族最大の兵力を擁した実力者だった男である。前田利家は彼に1000石を与えて厚遇している。言うまでもなく、これは徳川対策のためで、家康に異心あらば氏邦が関東の北条家旧臣に号令して決起させる計画だったという。これら秀吉の徳川封じ込め策によって、さしもの家康も“律儀者の徳川殿”を演じるしかなかった。

「さ、若もう一度」
 吉衛門に促され、権太は竹刀を拾うと再度打ちかかるが、やはり返り討ちになってしまう。そういうことを何度も繰り返して、権太が疲れて動けなくなるとその日の稽古は終了となる。といっても、剣術の稽古が終わっただけであって、権太はこれから近所に学問を習いに行かねばならないのだ。他に月に2回ほど和歌や俳句のお稽古もある。それらが終わって、ようやく自由時間となる。日が暮れるまでの間、権太は里の子供たちと遊びに行くのだ。これが権太の1日である。一国の主にまでなった武将の子としては決して恵まれた環境ではないが、権太はこの里が嫌いではなかった。吉衛門は稽古の時は鬼のように厳しいが、それ以外はとても優しくて里の者からも好かれていた。母親が医者の娘だからか、吉衛門も医学特に薬の調合の知識があり薬草を採ってきてはそれで薬を作って里の者たちに分け与えていた。その返礼に里の者は食べ物を分けてくれたり、吉衛門が天下の情勢を探りに里を留守にしている時は権太の面倒を見てくれたりしている。この相互の助け合いによって里は成り立っているのだ。だが、この里の平和も永遠のものではなかった。

 天正19年すなわち北条氏や伊達政宗の屈服で秀吉の全国統一がほぼ達成された次の年は一転、豊臣政権の行く末が危ぶまれる事態が相次いで発生した。まず、1月に秀吉の弟で豊臣政権ナンバー2の秀長が病死した。温厚な秀長は人々から人望もあり、その死は政権にとって大打撃となった。そして、8月には秀吉の嫡男・鶴松がわずか3歳で病没している。権力の継承は世襲制が当たり前だった当時、どんなに強大な権力を誇っていても後継者がいなければその政権は求心力を失う。子宝に恵まれなかった秀吉にようやく授けられた息子の死は、彼を大いに落胆させた。すべてが空しくなって塞ぎ込む日々の秀吉にその報せは届けられた。

「権六とお市様の子じゃと?」
 それは8年前に秀吉に攻められて自害した柴田勝家に男の赤子がいて、密かに脱出して身を隠していたとの報せだった。しかも、その母は秀吉が憧れていたお市の方だというのだ。報せを受けた秀吉は怒りに震えた。

「おのれ、権六……よくも、儂を謀ってくれたな……!」
 鶴松の母・淀殿は市の長女であるが、鶴松は先述したように夭折してしまっている。自分と市の娘との間にできた子は早死にしてしまっているのに、権六と市との子はのうのうと生きている。それは、秀吉にとって決して許される事ではなかった。秀吉は家臣に命じた。

「ただちに軍勢を差し向けて、その里ごと攻め滅ぼしてしまえ!」
「里ごと、でございますか?」
 里といっても小さな集落である。子供一人抹殺するのに軍を動員するのは大げさすぎるのではと家臣は思った。

「そうじゃ、すべてを焼き尽くすのじゃ。権六とお市様の息子がいたことなどあってはならぬことじゃ。だから、その痕跡を消してしまうのじゃ。よいな!」
「ははーっ」
 疑問に感じていても命令には従うしかない家臣であった。翌日、木村重茲が指揮する軍勢が里に向かって進軍した。
 一方、そんな動きがあることを知る由もない権太と吉衛門はその日も剣術の稽古に励んでいた。剣の腕はまだまだだが、吉衛門は権太が立派な武将になれると信じていた。鬼柴田と織田家の血を受け継いでいるのだ。もしかしたら、織田信長公みたいな名将にもなれるかもしれないと親ばかみたいなことを想像したりもした。ただ残念なのは、自分がその時には生きていないだろうということだ。もう、60近い高齢だ。いくら若いころから戦で鍛えたといっても年には勝てない。

(儂が死んだ時を考えて、若君をお守りする家臣を育てればな)
 将来、権太が成長してこの里を出る時に家来の一人ぐらいは欲しいところだ。そろそろ、里の子供たちから候補者を選別する頃合いか。吉衛門は稽古を見学している子供たちに目を向けた。実は自由に見学させていたのだ。同世代の子供に見られていたら権太も奮い立つだろうと思ったからだ。実際、見学者がいる時といない時とでは権太の頑張りに差が出ている。本当は人が見ていない時にも奮起してくれたら喜ばしいのだがと吉衛門は思った。何にせよ、権太が他人に自分の頑張っているのを見せようとするのは悪くない。なので、今日はいつも以上にシゴくことにした。かかってくる権太をビシビシッと容赦なく打ち据える。木刀しかなかった時代では考えられないことだ。竹刀とは便利な物ができたと吉衛門は感心した。しかし、打たれたら痛いのは竹刀でも同じで、稽古が終わった時はいつも権太の身体はアザだらけとなっていた。

「よし、今日はここまで」
 権太が立ち上がれないぐらいになったので、吉衛門はこの日の稽古を終了することにした。実を言うと、吉衛門は剣を誰かに習ったという経験がなかった。実戦で鍛え上げた我流の剣だ。だから、こうした実戦形式の稽古しかできないのだ。本来なら学問とかみたいに習いに行かせたいところだが、生憎と武芸の先生はこの里にはいなかった。剣のほかに槍や弓矢に馬術の鍛錬もこなさなくてはならない。その何れもが吉衛門の我流である。今頃になってちゃんとした武芸を学ぶべきであったと後悔する吉衛門であった。
 その頃、木村重茲の軍勢は里の入り口にまで進んでいた。

「よいか者ども、これより我ら関白殿下の命によりこの里を焼き打ちする。家も人間も家畜もすべて焼き尽くせ。この里が存在した痕跡をすべて抹消するのが関白殿下のご命令じゃ。それ、かかれい!」
 重茲の号令で、300人の兵が一斉に里に攻め入った。今回の作戦は全くの極秘で、現場以外にこれを知っているのは秀吉と側近の石田三成だけである。越前府中12万石の大名である木村重茲が300人しか動員しなかったのも、小さな集落にすぎない里を攻めるにはそれぐらいで十分だったのと、機密に関わる人間をできるだけ少なくするためだ。無論、末端の足軽には今回の目的は伝えていない。それどころか重臣たちにも、里を焼き討ちにするとしか言っていないのだ。そのため、重臣たちの中にはこの命令に疑問を感じる者もいた。その一人、辛坊内膳は出陣前に重茲
に今回の軍事活動に何の意義があるかを問い質している。

「焼き討ちにいたせとのご命令でござるが、何故武器も持たぬ者どもを攻める必要があるのか、某には合点がいきもうさぬ。我らはこれまでにも幾度となく人を殺めてまいったが、ただの一度として丸腰の者を殺めたことはござらぬ。たとえ関白様の命といえども、何の意味もなしに人を殺めるのは御免蒙りたい」
 辛坊の言葉に重臣たちの何人かが頷いた。だが、重茲には重臣たちの意見を聞くわけにはいかなかった。

「その方どもの言い分はわかった。だが、今回だけはそれを聞いてやるわけにはいかん。これは羽柴太政大臣様のご命令である。逆らえば木村家は取りつぶされてしまうぞ。よいな、二度と命令への疑念を口にするでないぞ」
 主君の厳命に辛坊らは沈黙するしかなかった。しかし、意味もなしに焼き討ちなどという命令が出されるわけもないので、何か理由があるのだろうとは勘ぐるがそれが何かまではわからなかった。
 事前の警告もなしに決行された焼き討ちは一方的な虐殺だった。家屋は焼かれ、逃げまどう人々は老若男女の区別なく殺害された。たとえ乳飲み子であっても助命は許さずという命令が出ていたからである。中には逃げる幼い兄妹を馬で追いかけまわして体力が尽きて倒れたところを槍で突き刺す者もいた。

「まさか、またこの光景を目にする羽目になるとはな」
 馬上から部下を督戦していた辛坊は死屍累々の惨状を目にして顔を曇らせた。かつて、織田信長と石山本願寺が戦っていた頃、辛坊も織田方の武将として越前の一向一揆殲滅に参加していた。織田勢の虐殺によって、一揆勢の死体が足の踏み場もないぐらい散乱していたのである。これに嫌気がさした辛坊は織田家を出奔して浪人し、諸国を流浪していたが、重茲の父・定重に仕えていた伯父の養子となって今に至る。もう二度と、目にすることもないと思っていた惨状に内心うんざりした気持ちになっていた。

「無抵抗の人間を殺して何になるか」
 いくさ人である辛坊にとって、非力な女子供までをも手に掛けることは外道以外の何物でもなかった。気が滅入っていると、一人の男が地べたを這っているのが見えた。身体の数ヶ所を斬られているが、死にきれていないようだ。辛坊は馬から降りると、その男の元に近寄った。男は辛坊に手を伸ばして助けを乞うたが、辛坊は刀を抜くと一刀のもとに男の首を刎ねた。

「許せ……」
 辛坊は男の死体に黙祷した。
 木村重茲が秘密裏に殺害するよう命じられた権太の家は奥の方にあったので、吉衛門には少しの時間の余裕があった。こういう事もあろうかと、奥の方に家を建てたのだ。なぜ、この里が襲撃されたのかをよく知っている吉衛門は槍を持ち出してきて、怯えている権太に別れを告げた。

「若、とうとう我らのことが関白に知れたようです。ここは某に任せて若は何としてでもここからお逃げください」
 吉衛門はそれだけを言い残して外に飛び出していった。権太を守るためなら自身も一緒に逃げるべきなのだが、自分たちのために里の者たちが犠牲になっているのに自分も逃げるわけにはいかなかった。吉衛門は数人の足軽を見つけると、そこに向かって突進した。

「な、なんだ?」
 槍を持って突進してくる吉衛門に足軽たちは一瞬怯んだが、相手が老体とわかると嘲るような顔になった。

「なんでぇ、爺じゃねえか」
 だが、吉衛門が槍を一振りしただけで、足軽たちの首は宙に飛んだ。かつて、一振りで10人を討ちとると謳われた吉衛門の豪槍は日々の鍛錬を欠かさなかったことで、いささかも衰えを感じさせなかった。

「こ、この老いぼれがーっ!」
 残った足軽が吉衛門に斬りかかるが、吉衛門に槍で肩を叩かれてガクッとなったところに首を貫かれた。

「この柴田吉衛門、一人では死なぬ。道連れに一人でも多く地獄に引きずり込んでやるわ!」
 漢というものは死に場所を得ると、悪鬼羅刹のごとく戦うものである。死を覚悟した者にとって、敵が何百何千いようとも関係無かった。どうせ死ぬのだ。敵の数など恐怖には値しない。木村勢にとって不幸なのは鉄砲隊を連れてこなかったことだ。よって、彼らは直接修羅と化した吉衛門と戦うしかなかった。だが、吉衛門が槍を一振りするたびに幾人もの首が胴と離れ離れとなっては、彼らの戦意は跡形もなく消し飛んだ。

「こ、こいつぁ、化け物だーっ!」
 とうとう木村勢の足軽たちは恐れをなして逃げ出す始末だ。誰もがこんなところで死ぬとは思っていない。普通の戦なら敵を討ちとれば手柄となり、負傷したら名誉の戦傷となる。ところが、武器もほとんどないというこの時代では非常に珍しい里で、負傷なんかしたらいい笑い物だ。死んだりしたら末代までの恥さらしとなってしまう。

「ふはははははは、どうした、関白の兵というものは腰ぬけばかりかっ!」
 逃げる足軽たちを追いかけながら吉衛門は哄笑したが、それによって周りが見えなくなってしまった。そのため、敵に付け入る隙を与えてしまった。

「それ、いまだ!」
 吉衛門がその声に気づいて反応した時には、彼の両腕には鎖分銅が絡みついていた。物陰に隠れていた敵兵がタイミングを見計らって投擲したものだ。吉衛門は両腕を水平に引っ張られて身動きができなくなってしまった。そこへ幾本もの槍が吉衛門の身体を貫いた。

「ぐはっ」
 吉衛門は口から血を吐き、いままで戦場では一度も離したことのない槍を落した。武士たる者、合戦で武器を手放す時は死ぬ時であると父から言われていた吉衛門はこれが自分の死だと感じた。だが、

「なに?」
 吉衛門の腕を拘束している足軽は鎖分銅を引っ張ろうとする力を感じた。

「おのれ、死に損ないが」
 負けじと足軽も鎖分銅を引っ張るが、向こうの方が力が上でジリジリと向こうに引き寄せられていった。足軽は鎖を自分の腕に巻きつけて抗うも、それが命取りとなった。とうとう堪え切れなくなって、足軽は一気に吉衛門のところにまで引っ張られて首を腕で締め付けられた。もう片方の鎖分銅を持っていた足軽は鎖分銅を手から離すことで難を逃れた。

「この柴田吉衛門、己の肉が骨から削ぎ取れるまで戦う」
 それは吉衛門の断固たる覚悟だった。足軽の首を絞める腕は重傷を負っている者とは思えないぐらい力が強かった。吉衛門はこの足軽を冥土の道連れにすることにした。足軽の首をさらに締め付ける。窒息じゃなくて首をへし折るつもりなのだ。やがて、ゴキッという音がして足軽が崩れるように倒れた。吉衛門は刀を抜いて、怯んでいる敵の方に足を進めるが、その足取りはかなり危なっかしかった。だが、先ほどのまるで悪鬼みたいな吉衛門を目の当たりにしている敵兵はすっかり怖気づいていた。人間が相手なら戦うのは怖くない。しかし、鬼が相手なら話は別だ。吉衛門の眼光に敵兵は蛇に見込まれた蛙のように身が竦んで動けずにいた。だが、吉衛門の身体も限界に近かった。そして、最後の力で刀を真上に振り上げた。が、

「!!」
 吉衛門は急に左の脇腹に激痛を感じた。脇腹に目をやると、刀が刺さっていた。さきほど、鎖分銅を手放した方の足軽が突き刺していたのだ。

「お、おのれい!」
 吉衛門は左手で足軽の手を掴んで、足軽を睨みつけた。危険を察した足軽は逃げようとするが、手をしっかり掴まれていてその場から離れることができなかった。次の瞬間、足軽の首が宙に飛んだ。だが、それで吉衛門に隙が生じてしまった。吉衛門の眼光から解放された足軽たちは、我に返ると吉衛門の意識が別の方に行っている隙に槍で吉衛門を一斉に刺したのだ。二度目の一斉刺突にさしもの吉衛門もグラッとなりかけたが辛うじて堪えた。だが、もう限界だった。最後を悟った吉衛門は、刀を首の後ろ側にあてた。

「とくと見るが良い。これが武士の死に様だ!」
 叫んだ直後、吉衛門は自分の手で自分の首を刎ねた。首を失った胴体から血が噴水のように噴き出し、地面に転がった吉衛門の首は鬼のような形相で睨みつけていた。吉衛門の首は祟りを恐れた敵兵らによって手厚く葬られた。
 一方、家に置き去りにされた権太は身体を縮こませて震えていた。一応、吉衛門からサバイバルの技術は教えられていたが、それを実践する機会は一度もなかったし、権太はこの里から一歩も出たことがなかった。そんな状態で、一人で逃げろと言われても無理である。しかし、敵兵の足音や話し声が聞こえてくると、さすがにこのままでは危険と感じておろおろし始めた。いま、逃げても見つかってしまう。権太は畳を一畳はがした。いつかこんな日が来るだろうと、吉衛門がその部分の床を取っ払っていたのだ。とりあえずそこに隠れることにした。床の下は言うまでもなく暗い。まだ昼なのに夜中みたいだ。その暗い中を権太は息を潜めてじっとしていた。やがて、戸が乱暴に開けられる音がして兵士たちが入ってくるのが聞こえてきた。

「神様、どうかお守りください……」
 権太は外に聞かれないように小声で祈った。すると、

「呼んだ?」
 いきなり背後から声をかけられた権太は思わず大声を出そうになるのを必死にこらえた。どうにか持ちこたえて後ろに目を向けると、小さい子供が座っていた。見たことのない顔だ。てか、ついさっきまでこの中には権太しかいなかったはずだ。

「お、お前は何だ?」
 権太が震える指で指すと、子供はムッとした表情で、

「お前が呼んでおいて何だとは何じゃ」
「は?」
 子供の言っている意味が権太にはわからなかった。

「は? じゃない。儂は神様じゃ。なんじゃ、そのいかにも信じてない顔は」
 信じられないのも無理はない。神様ってのはもっと年輩で威厳に満ちていて何よりも光背が発せられているものというイメージが権太にはあったからだ。それに比べ目の前の自称神様は神様ってよりも座敷童と言った方が的確に表現できた。

「神様といってもいろいろじゃからな。なに? 神様ならその証拠見せてみろ? よかろう」
 自称神様はなにやら怪し気に両手を動かし始めた。

「さっきお前は儂に助けてとお願いしておったな。案ずるな。事情はすべて知っておる。万事、儂に任せるがよい」
 神様は自信たっぷりに自分の胸を叩いたが、権太はまったく期待も信用もしていなかった。だが、上で敵が畳を一枚ずつ剥がしていくのが聞こえてくると、信用できなくても自称神様に縋るしかなかった。

「フッフッフッフッフ、それではいくぞい。ウガラヌシメヤマ(ソバヤ ソバーヤ)ウガシカラモケ(ソバヤ ソバーヤ)ウーマカカラハレ(ソバヤ ソバーヤ)ウーガラハーヤケ(ソバヤ ソバーヤ)ウガクモハーナ(ソバヤ ソバーヤ)ユッスガマヨケ(ソバヤ ソバーヤ)フロヤノニカイデ(ソバヤ ソバーヤ)ウーガーゴガナ(ソバヤ ソバーヤ)ウタフクサーバ(ソバヤ ソバーヤ)ウッウッウッンガモケ(ソバヤ ソバーヤ)バーカノカナシリャ(ソバヤ ソバーヤ)ウエシサマコネボ(ソバヤ ソバーヤ)ウーガマガヤワスス(ソバヤ ソバーヤ)ウガムマカゴケ(ソバヤ ソバーヤ)バァーッババーヤモマカゴケ(ソバヤ ソバーヤ)バッババコマコマコマゴ(ソバヤ ソバーヤ)バブベベーマズマズガソ(ソバヤ ソバーヤ)アラビカナマスス(ソバヤ ソバーヤ)マガグセゲーマヨ(ソバヤ ソバーヤ)ワーッワーカニカガメケ(ソバヤ ソバーヤ)ウーケバカソネカナモケ(ソバヤ ソバーヤ)」
 それは権太が聞いたことのない呪文だった。仏教のお経でもないし、神道の祝詞でもない。一体、それで何がどうなるのか訝る権太だったが、その時上の畳が剥がされた。
 権太の家を捜索していたのは辛坊内膳の部隊だった。家探ししても誰もいなかったことから彼らは出て行こうとしたのだが、誰かが履物が置いてあるのに気付いた。履物も履かずにあわてて逃げたのか。いや、それともまだこの家の中に隠れているのか。しかし、家の中は隅々まで捜索している。もう隠れる場所なんて……。

「ちょっと畳を捲ってみろ」
 辛坊は畳を剥がすよう部下に命じた。もし、まだこの家の中にいるのなら畳の下に秘密の部屋でも作ってそこに隠れているのではないかと思ったからだ。部下たちによって一枚ずつ畳が剥がされていく。そして、

「いました! 子供が一人隠れていました。娘です」
 部下たちによって引き上げられたのはまだ幼い少女だった。少女の怯えた表情に辛坊は心が痛んだが、例外は許されない。辛坊は刀を抜くと、刃を少女の首にあてた。少女は俯いてガタガタ震えている。

「可哀そうだが、死んでもらわねばならぬ」
 辛坊は刀を振り上げた。そして、少女の首に振り降ろそうとしたとき、少女が不意に顔を上げたと思ったらその左目が怪しく光った。
 実はこの少女はさっきまでは権太だったのだ。発見された時、権太はもう駄目だと観念した。だが、敵兵の言葉に権太は耳を疑った。自分のことを娘と言ったのだ。意味がわからないままに権太は引っ立てられ、首を斬られそうになった。その時、あの自称神様が敵に捕まらずに自分の目の前に立っているのに気づいた。

「なんであんたは捕まっていないんだ?」
 いや、だれもその存在に気づいていない感じだった。

「儂の姿はお前以外には見えんのじゃよ。それより助け欲しいんじゃないか? 任せておけ、お前に力をやる」
 神様はボソボソと権太に耳打ちした。

「本当にそんなことできるの?」
「なんじゃ信じんのか。儂は神様じゃぞ。それでも信じんというなら勝手にせい」
 プイッと横を向く神様。

「わ、わかった。信じるよ」
「やっと素直になったようじゃな。よいか、これは1回しか使えんからな」
 そういうと神様は権太の左目に右手をかざした。ぼんやりと光を放っている。

「よし、もうよいぞ」
「えっ、もう?」
 5秒しか経っていないはずだ。権太も自分の身体に変化を感じていない。

「さあ、それで相手の目をじっと見つめるだけでその相手はお前を心から大事な存在であると認識するぞ」
 そうは言うものの、権太には信じられなかった。だが、自分の首に刀をあてられると一か八かやってみることにした。首から刀が離されると権太は顔を上げて刀を振り上げている武将の顔を凝視した。3秒後、左の眼が熱く感じられた。これは神様から授かった力が発動しているのだと権太は悟った。

(もしかして本物?)
 だとしたら、目の前の武将は自分を心から大事な存在であると認識するはずだ。権太はジーッと武将を見つめた。武将は明らかに何かを迷っていた。多分、権太を斬るか否かで心の中で葛藤しているのだろう。やがて、武将は刀を下ろした。とりあえずは助かったと権太は安堵のため息を吐いた。
 権太を斬ることができなかった辛坊は主君に権太の助命を嘆願した。当然、重茲はそれを許すつもりはなかった。

「馬鹿を申すな。命令はちゃんと聞いておったであろう。誰であろうとも助命は許さずと関白殿下の仰せじゃ」
 だが、辛坊は引き下がらない。

「ならば某をお斬りください。此度の関白様のご命令には承知しかねる点が多ございます。何故、武器も持たぬ者どもを根斬りにしなければならないのです。よもや、鶴松君がお亡くなりになられたことへの憂さ晴らしではござりますまいな?」
「ぶ、無礼がすぎるぞ。口を慎め!」
「ならば、理由をお聞かせください。殿は関白様がかような命を下されたわけをお知りのはず。それをお教えくださるまであの娘は引き渡すわけにはまいりません。それを気に食わぬというならどうか某めをお斬りくださいませ」
 辛坊の堂々とした態度に重茲は何も言い返せなかった。

「わかった。男子でなければよい。その娘の命は助けよう。そちの命には代えられんからな」
「はっ、ありがたきしあわせ」
「そちの強情にはほとほと参るわい。して、その娘はどのような娘じゃ? 儂の前に連れてまいれ。心配いたすな。
危害は加えん」
「はっ、しばしお待ちを」
 辛坊は主君の前を離れると数分後に権太を連れて戻ってきた。それまでの間、権太は神様から自分が女の子になったことを告げられていた。秀吉の狙いは柴田勝家の息子を殺害することなので、女の子にしてしまえば助かる可能性があると見たからだ。だが、事前に知らされていなかった権太は不服であった。女になっては柴田家を再興できないじゃないか。

「でも、死ぬよりはマシじゃろ?」
 確かにそうだ。正直なところ権太にとって両親は記憶にも残っていない存在であるし、はっきり言って吉衛門一人がはりきっていた感じだった。
 辛坊に連れられて権太は重茲と面会した。

「その方、名は何と申す?」
 重茲の質問に権太は返事に窮した。女の子なのに権太と名乗るわけにはいかない。権太はとっさに考えた名を言った。

「ゆ、結衣です」
「ほう、結衣か。良い名じゃな。よいか、結衣とやら。そちはこれからはそこにおる辛坊内膳の養女となるのじゃ。この里のことは忘れよ。よいな?」
 権太改め結衣は辛坊の方を向いた。辛坊が無言でうなづいたのでコクッと頷いた。重茲もうむっと頷き、

「それでよい。皆の者もこの娘は内膳の遠縁の者であると心得よ。我らは関白殿下のご命令通りこの里を焼き討ちして老若男女ことごとく打ち果たした。さよう承知いたせ」
 こうして結衣は辛坊内膳の養女となることで命を助けられた。


 辛坊家に養女として入った結衣は木村家重臣の娘として大事に育てられた。特に養父の内膳の溺愛ぶりといったら周囲があきれるほどだった。内膳は娘に好きなことを習うことを許した。乗馬も許した。しかし、剣術だけは許さなかった。可愛い娘が怪我するのを恐れたからだ。それを言うなら乗馬も危険なのだが、剣術を断念させるかわりに許したのだ。仕方ないので、結衣はこっそりと剣の修業をすることにした。だが、やはり師範がいないと上達が覚束ない。困っていると、神様が自分が鍛えてやると言いだした。

「なんじゃ、その顔は。言っておくが儂は未来まで行って剣術を習得したことがあるんじゃぞ」
 その言葉に結衣は本当かな? という顔をした。

「まったく、お前は疑り深いのう。儂は神様じゃからそんなこともできるんじゃぞい」
 まあ、それが本当なら凄いことだ。

「で、どんな剣術なの?」
「いろいろと覚えてきたぞ。えっと、まず北辰一刀流、そんで天然理心流、あとは太平真鏡流、大石神影流、天真一刀流、京都神鳴流、理方一流、鞍馬楊心流、飛天御剣流、鏡新明智流、それから……」
 と神様は十数の剣術の流派の名を挙げていった。あまりの多さに権太がなんで神様がそんなに剣術を習得する必要があるのかと訊くと神様は少し切なげな目をして、

「ちょっと事情があってな。少し話が長くなるが良いか?」
「いや、それなら別に話してくれなくていい」
 結衣は即答した。

「そう言うな。大丈夫、文章的には短くすませる」
 神様が言うにはあの里にも昔はちゃんと村があったそうで、そこには神社があり神様が祀られていた。ところが、村を疫病が襲い村が全滅してしまった。村を救えなかった神様は自分を鍛えなおすため修業の旅に出ることにし、人間に化けて剣術道場に入門したのだ。そんで戻ってきたら村があった場所に人が住むようになっていて、自分が祀られていた神社があった場所に結衣の家が建っていたのだ。仕方ないので結衣の家を勝手に間借りして座敷わらしのように住んでいたら、あの襲撃事件があったのだ。以上のような内容を盛り沢山の武勇伝や冒険譚(それもかなり誇張された)がプラスされて2時間も延々と聞かされた結衣は睡魔と戦う羽目になっていた。だから、神様がどの流派の剣術を習いたいかと訊いても、すっかりどんな名前が挙げられていたか忘れていた結衣は適当に一番最後のと答えた。

「ほう、なかなかお目が高い」
 神様は感心しているが、結衣はその流派がどんなのかは知らない。聞いたこともない流派だからだ。未来のらしいから知らなくて当然なのだが。

「ところで、お前はなんで剣術を習おうとするんじゃ?」
 唐突な質問に結衣はきょとんとなった。何を今更って感じだ。

「なぜって、ずっと修業もしてきたから」
「でも、それは御家再興と両親の復讐のためじゃろ? お前にその気はあるのか?」
「それは……」
「別に剣を習うのは構わんが、何か目的があってするのとただ前からやっていたから何となくとでは上達に差が出るぞ。お前にはなにか目的があるのか?」
 神様の問いに結衣はしばし考えた。顔も覚えていない両親の敵を討つつもりはもうない。討つなら育ての親である吉衛門の仇だが、それは現在の結衣の養父である辛坊内膳が仕える木村家である。吉衛門を殺されたという恨みはもちろんあるが、それは秀吉に命令されたからであって木村重茲はそれに従うしかなかった。それに、いまは柴田勝家の息子の権太ではなく、辛坊内膳の遠縁の娘で辛坊家の養女となった結衣である。だが、結衣はまだ女になりきるつもりはなかった。

「俺が剣を習うのは、まだ男でいたいからだ。たとえ身体は女になったとしても、心までは女になるつもりはない。だから、そのための精神の鍛錬として剣を習うんだ」
 結衣の出した答えに神様はうむっと頷いた。

「ふむ、まあよかろう。それじゃあ、一つ鍛えてやるか」
 しかし、日が暮れたのでこの日は家に帰ることにした。

 それから数年後、結衣は権太の時とは比較にならないぐらいの暮らしを送った。何よりも大きいのは、それまで里しか知らなかったのが、外の世界を知ったということだ。それが、少年いや少女に与えた影響は小さくはなかった。もう、両親や吉衛門の仇を討とうなどという考えはまったく消え去っていた。かといって、このまま女として生きるつもりもなく、ただ剣術の鍛錬に励む日々だった。まあ、幸せか否かと問われれば間違いなく前者であるのだが、それは長くは続かなかった。
 文禄4年7月15日、日本中を震撼させた大事件が発生した。天下人秀吉の養嗣子で関白の羽柴秀次が青巌寺・柳の間にて切腹したのだ。謀反の疑いをかけられ高野山に追放されてから数日後のことである。三位以上の貴人には死刑が適用されないという刑法上の特典が古来からこの国にはあったのだが、正二位・左大臣の位にあったにも関わらず秀次にはそれが適用されなかった。
 秀次失脚を画策したのは石田三成ら秀吉側近衆である。現時点では政権の中枢にいる彼らだが、秀吉が死んで秀次が天下人になると政権の中枢にいるのは木村重茲・服部一忠ら秀次の側近たちとなる。豊臣政権を作ったのは自分たちであるという自負がある石田三成らにとったらそれは許容できるものではなかった。だが、三成が画策したのはあくまで秀次の失脚であり、その命を奪うことではなかった。三成は秀吉に秀次の助命を嘆願さえしているのだ。
 三成が秀次の助命に奔走したのは彼が現時点での唯一の成人した豊臣家の一族だからである。その彼がいなくなれば秀吉死後の豊臣家は息子の拾丸と養女の豪姫、その夫で猶子の宇喜多秀家しかいなくなるのである。秀吉の弟・秀長の家系が数ヶ月前に断絶して、さらに秀次までもが粛清されたら豊臣家を守る藩屏たる一族がいなくなってしまう。そのことを三成は危惧したのだ。
 しかし、秀吉は秀次を許さなかった。実は秀次は秀吉の神経に触れるような行為をしているのだ。大名家に貸金をしており、秀次は朝鮮出兵で財政難にある大名を救済するためで秀吉に遠慮して秘密にしていたのだと弁明しているが、秀吉が問題にしているのは関白である秀次が大名に金を貸しているということである。平安時代より武家の主従関係は『御恩と奉公』であり、家臣が奉公して主君から御恩として与えられるのが土地で、その土地を与える権限があるのは主君だけである。しかし、秀次が大名に貸金しているということは、土地のみを恩賞の対象としてきたそれまでの概念がひっくり返ってしまうという危険がはらんでいた。秀吉は秀次が金によって諸大名と個別に繋がるのを警戒した。このまま放置すれば秀吉とは別の主従関係が発生して拾丸への禅譲の妨げともなりうる。秀次の処罰は避けられないものだったのである。
 秀次が自裁してその妻子がことごとく処刑されたことで、宗家以外の豊臣家は事実上消滅した。ただでさえ脆弱だった豊臣政権は秀吉の死後は確実に崩壊するだろうというまでに弱体化してしまった。聡明である三成にはそれがわかっていた。以後の三成は豊臣家を守るためにがんばりすぎて自滅するのだが、それはまた別のお話(←森本レオ風に)。

 実質的にはともかく法制上は天下のまつりごとを差配する立場にある関白である秀次の切腹は結衣も無関係ではいられなかった。養父の主君である木村重茲が切腹を命じられたのである。理由は重茲が年貢米を町人に貸しつけて2.5倍に返済させて儲けた財産で主君の秀次に謀反を唆したというものだが、実際は重茲が秀次を弁護したためである。彼だけでなく、同じく秀次の側近だった服部や前野らも死を命じられ、秀次から借金をしていた大名も他家預かりや流罪といった処分を受けた。細川忠興は黄金200枚の借金を徳川家康に泣きついて返済して辛うじて連座を免れている。他に最上義光や伊達政宗も家康によって助けられている。
 重茲の切腹は当然その家中を大きく動揺させた。彼だけでなく長男の重武も切腹したことで、山城淀18万石の大名で関白の重臣であることからその将来は安泰と思われた木村家は一転して断絶の危機に晒されたのである。病で身体に不調を来していた辛坊内膳は、この報せをうけてそのショックで寝たきりの状態となってしまった。
 命の恩人で育ての親でもある内膳を結衣は献身的に看病した。だが、その甲斐もなく内膳の病状は悪化する一方だった。

「なあ、養父(おやじ)殿の病を治せないのか。神様なんだろ?」
 結衣は神様に養父の病気を治すよう頼んでみた。養父が死ねば結衣は路頭に迷うことになる。養父には実子はいない。長男がいたが、小田原の役で戦死している。奥方も去年亡くなった。旦那がいきなり連れてきた養女にも優しく接してくれた女性である。辛坊結衣として生きていくことを決めている結衣にとって養父はただ一人の身内なのだ。まだしばらくは生きててもらわれば困る。だが、神様は静かに首を横に振った。

「な、なんでだよ」
「風邪とかなら儂にも治せるのじゃが、死を目前とした病となると儂には無理じゃ」
「そ、そんな……」
「それがお前らの運命(さだめ)じゃ」
 人類の始祖が最初の罪を犯して楽園を追放されて以来、人は知恵を持つ代償に死という避けられない宿命をも背負うこととなった。

「じゃ、俺はこれからどうすればいいんだ」
 あの里にいた時は吉衛門がいてくれた。吉衛門は死んだが、すぐにいまの家に引き取られた。もう、結衣には他に頼れる身内はいないのである。そのことを危惧した養父は自分に万が一のことがあった時は主君の木村重茲に後事を託しており、重茲は内膳が死んだら結衣を養女として引き取るとまで言ってくれた。しかし、重茲はもうこの世にはいない。

(こうなったのはすべて……)
 生後間もない自分から両親を奪い、育ててくれた吉衛門と命を助けてくれた木村重茲を殺し、家族に迎えてくれた辛坊内膳を死の床に就かせた張本人の名を結衣は思い浮かべた。

“太閤・羽柴太政大臣秀吉”

 秀吉さえいなければ結衣は織田家重臣・柴田勝家の嫡男として将来の安泰を保証された生涯をおくれたかもしれないし、あの里で決して裕福ではないが一庶民として静かで平和な日々を過ごせたかもしれないし、何よりもこうして女として生きていかなければならないような事態には絶対にならなかったはずだ。そう、すべてはあの男のせいだ。

「俺は決めた」
 結衣は拳を強く握り締めて決意を語った。

「豊臣の天下を叩き潰す。奴によって無念に死んでいった両親のためにも、この手で必ず潰してやる」
 しかし、それには一つ問題があった。秀吉の息子・拾丸の腹が結衣の実姉の淀君だということだ。一度も対面したことがない姉だが、結衣にとっては数少ない身内でありその子である拾丸は可愛い甥御であることには違いない。豊臣家の天下を覆すということは姉と甥を巻き込むということだ。結衣は必死に考えた。二人を巻き込まずに復讐を果たす方法を。
 二日後、内膳がこの世を去ると結衣は家財を処分して伏見に向かうことにした。

「本当に行くのか?」
 すべての家財道具を売却して寂しくなった屋敷の中で神様が結衣に尋ねた。

「ああ」
 結衣は答えた。

「行ってどうする? 秀吉を暗殺でもするのか?」
「いや、仮にも天下人だ。警戒は厳重だろう。幸い、俺はいまは女だ。それを利用する」
「なるほど、英雄、色を好むとも言うからな」
 夏の帝桀、殷の帝辛、周の姫宮涅、呉の夫差と君主が美女に溺れて国を傾けたという逸話は枚挙に暇がない。秀吉も無類の女好きで有名なため、実母の美貌を受け継いだ結衣にメロメロになるのは目に見えていた。だが、それは秀吉に抱かれるということだ。

「お前にその覚悟があるのか?」
 結衣の意思を確認する神様。

「よく、考えろ。復讐とは生半可な覚悟ではできないものじゃ。まだ考える時間はある」
 神様は諭すように言ったが、結衣は小さく首を振って、

「考えても答えは一緒さ。俺には居場所はもうない。でも、やる事は作れる。これからもな。それに思い立ったが吉日ともいうだろ?」
 どうやら結衣は本気のようだ。神様は結衣の決心がかたいと知ると、結衣の額をつかんだ。

「な、なにすんだ」
 いきなりのことに結衣は狼狽した。

「静かにしておれ。お前に新しい力を授けてやるんじゃ」
「新しい力?」
「ほれ、前にお前を心から大事にする術を授けたじゃろ。そのおかげでお前は命が助かったんじゃ」
 そう、その術を内膳に使ったことで、内膳は主命に逆らおうてまで結衣を守ろうとしたのだ。神様は結衣の額をつかんでいる手に力を加えていった。

「い、痛いっ、痛いって!」
 結衣は痛みに耐えかねて、神様の腕を掴んだ。

「もうちょっとじゃ、辛抱せい」
 神様は暴れる結衣を床に抑えつけると、さらに力を込めた。今度は痛みだけでなく熱さが結衣を襲った。

「アチアチアチアチアチッ、熱い、あちいよ!」
 結衣の額から蒸気があがってきた。それを合図だったかのように神様が額から手を離すと、結衣は半泣きになっていた。

「終わったぞ」
「今度は一体なにをしたんだ……」
「お前に他者の夢を操る術と甘い息を吐いて相手を眠らせる術を与えた。餞別代りじゃ」
「餞別?」
「うむ、もうお前とは別れなければならぬ」
「そ、そんな……」
 突然の別れ話に結衣は絶句した。

「なんでだよ。いままで一緒にいたじゃないか」
「それは、お前がちゃんと生きていけるか心配じゃったからじゃ。一応、命を助けた手前もあるからな。本来、神がひとりの人間とここまで付き合うことはないのじゃ。じゃが、もうお前は一人でも大丈夫じゃろう」
 神様はそう諭すが、結衣は納得しない。

「やだよ。そんなのやだ。あんたがいなくなったら俺は一人になってしまう。俺を知っている奴が誰もいなくなるんだ。あんただけが本当の俺を知っているんだぞ。俺をこんな身体にしたのはあんただ。最後まで責任もてよ」
「我儘を申すな!」
 神様の一喝に喚いていた結衣はビクッとなった。

「豊臣の天下を覆そうとする者がそんな事でどうするか。大望を成さんとする者はたとえ一人になろうとも挫けてはならぬ!」
「うぐっ、う……うっ……」
「泣くな!」
 神様は泣き出しそうになった結衣の前髪を乱暴に掴んだ。

「よいか、二度と涙は流してはならぬ! 剣に生きる者に涙は無用、涙を己の望みと剣に変えるのだ!」
 厳しい口調で叱責する神様を結衣は茫然と眺めていた。いままでに神様がこれほどまでに感情を高ぶらせたことはなかった。それだけに神様が本気であるのがわかる。結衣は力なくコクンと頷いた。神様も満足げに頷き、

「それで良い。さあ、行け。儂も天に帰るとしよう」
 神様の身体が光り輝いた。

「さらばじゃ」
 それが下界での最後の言葉だった。神様が消えた後、しばらく結衣は茫然としていたが、やがて気を取り直して立ち上がった。もう、頼れる者は存在しない。結衣は一人ぼっちとなったのだ。


 宇治川が巨椋池にそそぎ込む伏見の地は、古来より京都の港として重要な役割を担っていた。しかし、伏見湊は唯一の存在ではなく、淀に淀津が槙島の東の対岸に岡屋津があった。秀吉は伏見に城を築くと同時に、淀堤・槙島堤・小倉堤を建設し、淀城を廃して宇治大橋を破却した。大橋の破却で大和大路は宇治川で分断され、小倉堤の上に大和街道が新設されたことで、岡屋津は消滅したも同然となり淀津もその価値を減少させた。これにより、伏見は京都の港として唯一の存在となり、大和街道によって大和からの幹線は小倉からほぼ一直線に伏見を経由することになった。ちなみに倖田姉妹や初代あかちゃんまんの出身地である。
 なぜ、秀吉が伏見に城を築いたのか。それは交通の要衝であるこの地が、大坂の本拠と朝廷に影響力を行使する聚楽第を結ぶ地として最適だったからだ。そして、秀次事件で聚楽第が破却されると伏見城は京都における豊臣家の最重要拠点としてさらにその価値を増していた。少し後になるが、地震で伏見城が倒壊するとその次の日には早くにも縄張りを開始している。それだけ伏見が重要ということだ。
 その豊臣政権の牙城に単身乗り込んだ結衣は、小腹がすいたので団子を食べることにした。運ばれてきた団子を頬張っていると、通りの向こうからでっかい体格の男が偉そうに歩いているのが見えた。その男は図体がでかいだけでなく、奇抜な衣装をしていた。

「あれは?」
 と団子を運んでくれた店員に訊くと、店員の娘は顔を結衣の耳元に近付けて、

「最近、ここらに出没している傾奇者ですよ」
「あれが、傾奇者か」
 聞いていたのと違うので結衣は少しがっかりした。結衣が聞いていた傾奇者とは、奇抜で派手な衣装を着込みキセルを優雅に吹かし武勇に優れ権力に媚びない自由な生き方をする者というイメージがあった。だが、結衣が目にしている傾奇者はキセルを銜えていないこと以外の格好は一緒だが、横暴なところだけは違っていた。結衣が聞いていた傾奇者は庶民や女子供には一切手を出さないとされていたが、目の前の傾奇者は通行人が怯えて道をあけていることからかなり横暴な人物であることが窺えた。

(まっ、傾奇者にもいろいろあるさ)
 結衣は気にせずに最後の団子を口に運ぶと、代金を置いて店を後にした。結衣が行こうとしている先には例の傾奇者が彼女の方に歩いてくるが、結衣は別に気にすることなく傾奇者とすれ違おうとした。

「おい」
 顔のイメージそのまんまの野太い声で呼びとめられた結衣は立ち止まって後ろを振り返った。

「若造、儂に挨拶せんと通りすがろうとはいい度胸しとるじゃねえか」
 傾奇者は結衣を見下しながら因縁をつけてきた。結衣は激しい殺陣もこなせるように若武者の格好をしていたから、周辺も彼女が女であることに気付かなかった。いや、結衣だって若造と呼ばれたことに別段反発した様子もないから仕方ないことだろう。そもそも、結衣は一度だって女らしい振舞いをしたことはなかった。それが亡き養父の娘に対する唯一の悩みであり、真剣に行儀見習いに出そうかと考えたぐらいだ。結局、天真爛漫に育ってくれたらそれでいいという結論になったのだが。
 それはさておいて、見ず知らずの他人に挨拶を強要される謂れのない結衣は無視して先を行こうとした。すると、傾奇者の子分たちが結衣の行く手を阻んだ。

「てめえ、俺らを無視してただで通してもらえると思うなよ」
 その物言いに結衣はムッとなるも、騒ぎにしたくないので堪えた。斬ってしまえば済む話なのだが、後々面倒なことにならないようにしないといけない。かと言って、こんな奴らに頭下げて詫びをいれるつもりもない。前が駄目ならばと結衣は後ろに方向を変えた。すると、今度は傾奇者が通せんぼした。

「おっと、どこ行こうってんだい? 通してほしかったら土下座して許しを請うんだな。がはははっ」
「顔も馬鹿そうなら笑い方も馬鹿丸出しだな」
 結衣はボソッと言ったつもりだったが、相手に聞かれてしまったようだ。傾奇者はこめかみをピクピクさせて結衣を睨みつけた。

「ば、馬鹿だとぉ、許さん。ぶった切ってやる」
 激昂した傾奇者が刀を抜くと結衣は内心「しめた」と思った。現時点では結衣は刀を抜いていない。武器を持たない相手に抜刀したとなれば、相手に喧嘩を売ったことになり斬られたとしても相手に咎めはないのだ。かりに自分が京都所司代で相手が著名な傾奇者であったとしてもだ。だから結衣は安心して刀を抜けるのだ。相手を斬っても正当防衛として処理されるからだ。

「ふん、馬鹿な小僧だ。土下座して詫びれば命だけは助けてやるものを」
 傾奇者は吐き捨てると、刀を青眼に構えた。結衣も同じく青眼に構えて言い返した。

「へっ、それは俺の台詞だ」
「減らず口だけは一人前のようだな。言っておくが俺はいままで何人もの凄腕の剣士と戦ってきたが、一度も負けたことがないんだ。てめぇみたいな駆け出しのクソガキが逆立ちしても敵う相手ではねえんだよ」
「……ああ、よくわかったよ。だが、そういう思い出話はアルバムにでもしまっときな。過去にどれほどの剣士と戦ってきたのかは知らねェが、俺とおまえは今まで会った事がねェんだからよ」
「……本当にてめえは口が減らない……ガキだなっ!」「!」
 相手が攻めてくるのを察した結衣は、一歩下がると刀を大きく振りかぶって相手の刀に一気に振り下ろしてその構えを崩すや間髪いれずに相手の水月を突いた。

「がふっ?」
 傾奇者は自分の身に起きていることが信じられなかった。一瞬だった。一瞬のうちに傾奇者は急所を水平に突かれたのだ。刀を水平にすることで、目標をそれても刃部で相手に傷を負わせることができるのと、肋骨の間を通って内臓に刃先が届きやすくなるのだ。

「て、てめぇは…一体…な、何者……だ…」
「悪いが、死ぬ奴に教えてやるほど俺の名は安くないんでな。くたばれ!」
 結衣は刀をさらに突きいれた。傾奇者は「ごはっ」と血を吐いてガクッと項垂れた。動かなくなった傾奇者から刀を抜いた結衣は、茫然としている子分たちに目をむけて彼らを「ひっ」と怯えさせた。

「さあ、次はどいつだ? 次に死にたい奴は前に出ろ」
 血がべっとりと付着した刀を向けられると、子分達は我先にと逃げ出した。それと入れ替わりに騒ぎを聞きつけたお役人がやってきた。同行を求められると結衣は素直にそれに応じた。
 取り調べの結果、正当防衛が認められ結衣はお咎めなしとなった。それどころか、あの傾奇者を討ったことで武勇が認められたのだ。結衣を取り調べた役人は秀吉の側近・石田三成の家臣・宮根喜三郎という武士で、しきりに結衣に石田家への仕官を勧めた。

「我が主は太閤殿下の覚えがめでたきお方じゃ。仕えて損はござらんよ」
「でも、俺女だよ」
 取り調べの時、結衣は名前を言って自分が女の子であることを役人たちに伝えたが、最初誰もが信じようとしなかった。確かに見た目は男装の少女だが、都でも評判の乱暴な傾奇者を瞬殺したのが女の子だというのがどうも信じられなかったのだ。そこで、結衣は自分が女であることを証明するため何と役人たちの前で服を脱ぎだしたのだ。慌てたのは役人たちである。

「ここ、これっ 年頃の娘がはしたない真似をするでない」「ね、本当だろ」
「わかった、わかったから早く服を着ろ。こんなところを見られたらあらぬ疑いをかけられるわ」
 その時のことが脳裏に浮かんだ喜三郎は顔が真っ赤になりかけたのを頭を振って振り払った。本当にどういう躾をされてきたのか親の顔が見たくなる。だが、結衣が指摘したように女を家臣にしたとあれば「石田治部少は女の力も借りなければ戦も満足にできない」などという評判がたってしまうかもしれない。ただでさえ、三成は算盤勘定だけが得意で秀吉に取りいって側近におさまっていると武功派の諸将から妬まれている人である。これ以上、評判を落とすのは避るべきだろう。しかし、結衣の実力は本物で戦がさほど得意でない三成に必要な人材であることも確かだ。

「男であれば問題なしに仕官させられたものを……」
 喜三郎はため息交じりに呟いた。せっかくの剣の才能を埋もれさせておくのはいかにも勿体ない。でも、女を家中に加えるのもちょっと。迷った喜三郎はとりあえず三成に相談することにした。結衣を家臣にするか否かを決めるのはやはり三成だからだ。それまで結衣は喜三郎の屋敷に厄介になることになった。
 翌朝、結衣は目が覚めると、庭に出て稽古を始めた。朝稽古なんてしたことがなかったが、昨夜に喜三郎から西ノ丸殿の警護役の話を聞かされて俄然張りきっちゃったのだ。当初、喜三郎は三成に結衣を召し抱えさせるつもりだったが、やはり女はまずいらしい。だが、せっかくの剣の腕を放置する手はないという考えは三成も同様で、それならと三成は西ノ丸殿の警護を結衣にさせたらどうかと思いついたのだ。それなら女である方が都合がいい。三成も結衣を紹介したということで西ノ丸殿の覚えもますますめでたくなる。そして、喜三郎からその話を聞かされた結衣も二つ返事で快諾
したのだ。伏見にいることは知っていたが、まさかこんなにも早く会えるとは思ってもいなかった。

「姉上に恥ずかしくないよう鍛えなきゃな」
 木刀を素振りする腕にも力が自然と入る。ちなみに結衣はただ適当に素振りをしているわけではない。まず、青眼に構えてから尻に届くまで大きく振りかぶり、床すれすれまで振り下ろす。これが上下の素振り。そんで、同じく青眼から大きく振りかぶりながら、斜め左右に身体を転換しながら袈裟に振り下ろす。これが、左右の素振りとなる。神様の稽古はものすごく厳しくて、「冥土への旅」と恐れられた警視庁の荒稽古をもしのぐほどだった。そのおかげで結衣は短期間で強くなった。

「でも、俺はもっと強くなる」
 秀吉の寵愛を受ける西ノ丸殿の警護役になれば秀吉に接近する機会もあるということだ。まさか、こんなにも早く近づくことができるとは思わなかった。天佑神助とはこのことか。いや、ちと大袈裟か。

「ふう、今日はこのぐらいにしておくか」
 結衣は汗びっしょりになった上着を脱ぐと、手拭いで身体を拭いていった。そこへ、顔を洗ってきた喜三郎が通りかかった。奉公人から結衣が朝稽古していると聞いたので様子を見に来たのだ。朝早くから精が出るなと感心していた喜三郎だったが、上半身裸で身体を拭いている結衣を見てずっこけてしまった。床にぶつけた尻をさすっている喜三郎に結衣は呆れた顔で言った。

「なにやってんだ?」
「それはこっちの言うことだ。少しは自分が女であることを自覚したらどうなんだ?」
 その台詞で結衣は状況を理解した。

「女? ああ、そうか」
 納得した結衣は上着に手を伸ばした。

「なあ、剣の腕を磨く前に女らしさをちょっとは身につけようとは思わなかったのか?」
「悪かったな。いいだろ、別に見られて減るもんじゃなし」
「……それは女が言う言葉じゃないぞ」
 親の顔が見たい。喜三郎は本気でそう思った。
 結衣が三成に連れられて伏見城に向かったのは昼になってからだった。待たされている間に喜三郎から朝の事を聞かされた三成はしつこいぐらいに結衣に注意していた。

「よいな。くれぐれも粗相のないようにいたせ」
 さっきから同じ事しか言わない三成に結衣はうんざりした顔で答えた。

「承知いたしました」
 これまたさっきから何回も口にしている。さらに結衣が不満なのは女物の着物を着せられていることだ。結衣の物ではない。三成が急いで用意させた物だ。次の天下人の御生母と面会するのだ。それなりの格好をする必要はある。それはわかるが、結衣にとってこの服装は慣れないものだし慣れたいとも思わないものだった。だが、これで西ノ丸殿に仕えることになれば秀吉に接する機会もあるということだ。豊臣政権の内部崩壊を目論む結衣にとっても悪い話ではない。

(それも俺が姉上に雇われたらの話だが……)
 しかし、心配はしていない。結衣を推薦した三成は西ノ丸殿と同じ近江出身だからか西ノ丸殿から信頼されていた。後ろ盾となる実家が無い西ノ丸殿にとって信頼できる人間というのは貴重な存在なのだ。ちょっとした面接が終われば即採用となるはずだ。結衣はそう楽観していた。だから、この後の予想外の出来事に結衣は動揺してしまうのである。結衣が対面するのは西ノ丸殿だけのはずだった。ところが、姿を見せたのは西ノ丸殿だけではなかった。先頭の人物が部屋に入ってきたとき、結衣は身体は震えてしまった。

(な、なんで、こいつが……)
 動揺を隠しながら結衣は平伏した。

「苦しゅうない。面を上げよ」
 言われた通りに頭を上げた結衣の目前にいたのは彼女にとって絶対に許せない男だった。羽柴秀吉。結衣の実の両親や育ての親を死に追いやった憎むべき相手である。

「た、太閤殿下、なぜここに?」
 そう訊いたのは三成だった。どうやら彼も知らなかったらしい。

「実は茶々に聞いてな。ちと、興味が湧いてきたんじゃよ」
 にこやかに答える秀吉。だが、顔を三成から結衣の方に向けたとき、秀吉の表情は一変する。結衣がどんな顔をしているかじっくり観賞しようとしたのだろう。だが、結衣の顔が若いころのお市の方に似ていると気付いた秀吉は驚愕を隠せなかった。

「だ、大納言を呼べ。すぐにじゃ!」
 しばらくして、小姓に連れられた前田利家が姿を見せると、秀吉は扇子で結衣の方を指した。何事か思いつつ指された方に顔を向けた利家は絶句した。10代前半のお市の方の顔を知っているのはもうこの二人だけとなってしまっていた。お市の方の3人の娘で西ノ丸殿が一番母親に似ているとされていたが、それはあくまで似ている程度でしかなかった。ところが、結衣はまさしくお市の方と瓜二つであり、秀吉が憧れ続けていた女性そのものだった。秀吉はしばらく唖然としていたが、急に身体を震わせて笑いはじめた。

「ハハハハハッ、これは愉快じゃ。娘よ、名は何と申す?」
 このころには結衣の動揺も収まっていた。

「結衣と申します」
「ふむ、結衣か良い名じゃ。茶々を頼むぞ」
 そう言うと秀吉は上機嫌で立ち去った。結衣の採用が決定したことに三成はホッと胸を撫で下ろした。別に縁もゆかりもないのにここまで親身になれるのはこの男のいいところではある。だからこの男は家臣からも領民からも慕われているのだ。反面、真面目すぎて融通が利かない性格のために敵の多い男でもある。そして、その敵の中に三成と同じ秀吉子飼いの武将が多く含まれていることは結衣にとって好都合だった。最高権力者であるにも関わらず一族が致命的なまでに少ない秀吉にとって頼りにできるのが自らが育てた子飼いの武将たちである。ところが、その武将たちが石田三成ら文治派と加藤清正・福島正則ら武功派に分かれて対立してしまっているのだ。数多くの戦場で命をかけて戦ってきた加藤らには豊臣家の天下は自分たちが築き上げたという自負があった。なのに政権の中枢には戦功もろくにない連中ばかりがいて自分たちは疎外されている感がある。一方、三成や大谷吉継らにも豊臣政権は自分たちがいなくては機能しないという自負があった。こうした対立が感情的なレベルにまで深刻化したのは朝鮮出兵での双方のやりとりが原因だった。この戦役で三成らは前線の諸将を監督して命令違反を犯した者を報告するといった仕事をしていたが、前線で命がけで戦っている諸将からしたら「安全な後方にいる奴らに何がわかる」である。ここから双方の対立は修復不可能なまでに悪化したのだった。これは豊臣政権にとって由々しき問題であり、秀吉も何らかの処置が必要であると認識してはいたが、処置を間違えると豊臣家臣団が内部崩壊してしまう危険もあるため頭を悩ませていた。誰かに相談しようにも相談できる人間はすでに死んでいるか秀吉自身が遠ざけてしまっている。関白である秀次を粛清したことで、秀吉の天下は個々の大名との主従関係によってのみ支えられているという戦国大名と何ら変わらない形態となってしまっていた。その天下を維持するのに不可欠な軍事力が内部対立を起こしていることは由々しき事態であるが、それに秀吉は有効な手を打てずにいた。
 その日の夜、結衣は秀吉に呼び出された。秀吉がいずれ自分に手を伸ばしてくることは予想できていたが、まさか採用した当日に手を出してくるとは思ってもいなかった。それか、結衣の素性に疑問を抱いたか。結衣は一瞬逃げようかとも思ったが、ここは意を決して行くことにした。

「おお来たか。ささっこっちへ来るが良い」
 結衣が姿を見せると秀吉は上機嫌で手招きした。すでに酒が用意されていて、秀吉は盃を手に持つと結衣に酌を要求した。結衣が盃に酒を注ぐと、秀吉はそれをグイっと飲み干し2杯目を要求した。そして、それも飲み干すと今度は結衣に盃を持たせて自分が盃に酒を注いだ。

「さっ、そちも飲め。遠慮はいらん」
「えっ、でも俺いや私は……」
「遠慮するでない。ささ、飲め飲め」
 しきりに酒を勧める秀吉。実は結衣は酒を嗜んだことがないのだ。だが、押し切られる形で結衣は盃に口をつけた。

「ほれ、ぐぐっと」
 言われるがままに結衣は酒を一気に飲み干した。

「おお、いい飲みっぷりじゃ。さあ、どんどん飲め」
 空になった盃に酒を注いだ秀吉はそれも結衣に飲ませた。飲んでいるうちに結衣の警戒心も解けていった。

「どうじゃ、緊張が解れたじゃろうが」
 そう笑いかける秀吉に結衣は黙って頷いた。

「酒はいいぞ。嫌なことがあった時にはこの世に酒があることを天に感謝したこともあった。そう、あれはじゃな……」
 酒がまわってきたのか秀吉は昔のことを語りだした。年寄りの昔話(特に自慢話)は長くなるものだが、案の定結衣は延々と秀吉の武勇伝を聞かされた。

「こうして、儂は天下人となったのじゃ。どうじゃ、すごいじゃろ?」
「ええ、さすがは太閤殿下」
 そう答える結衣だが実は話を半分以上聞いてなかったりする。適当に相槌を打っていただけだ。ただ、一介の足軽から天下人に成り上がったことは凄いことだとは感じていた。実力や努力だけでなく、相応の運や野心もあっての快挙だ。結衣の実父である柴田勝家は実力は申し分なかったし、それなりに努力はしてきただろう。しかし、天下を狙えるほどの運もなかったし、何よりも野心がなかった。それに対し秀吉は、主君の織田信長が惟任日向守に討たれた、同時に信長嫡男の信忠も自刃したことで織田家に家督争いが生じた、当時対峙していた毛利軍が信長の死を知っても秀吉軍を追撃しなかった、信長が通行するためにあらかじめ秀吉が整備していた道が畿内に急行する秀吉軍の行軍に役立った、他の織田家重臣がそれぞれの敵と対峙していて信長の弔い合戦に参加できなかったなどの運があって、秀吉は弔い合戦の手柄をほぼ独占することができ天下への第一歩を踏み出すことに成功し、野心を露わにしてからはかつての主家に対しても容赦しなかった。信長二男の信雄を改易したうえに流罪に処し(後に許す)、織田宗家の秀信には133,000石の領土しか与えなかった(ただし、従三位権中納言に任官しており官位的には優遇されている)。

「だが、大変なのはこれからじゃ」
 秀吉は今度は真剣な顔になって将来への不安を口にした。

「本能寺の変では信長公だけでなく、信忠様も光秀めに討たれてしまわれた。そのために織田家は幼子が後を継ぐことになって儂に天下を奪われた。豊臣家も似たようなもんじゃ。秀頼はまだ幼い。儂が死ねば家臣どもが秀頼を支えねばならぬというのにいがみあっておる。儂も年じゃ。もう数年も生きてはいられぬかもしれん。家臣どもには一致団結してもらわれば困るのじゃが、やはり儂は三成を贔屓にしすぎておるのかのう」
 戦での手柄がほとんど無い三成が武功派筆頭の加藤や福島とほぼ同じ石高の領土を与えられていることに武功派の家臣が不満を抱いていることは秀吉も知っていた。いまは三成に反発が集中しているが、いつその矛先が秀吉に向けられるかわからない。

「三成はようやってくれておる。だから儂はあやつに佐和山19万石を与えたんじゃ。じゃが、いまの世は武功による手柄が一番とされておる。やはり、虎之助らとは差をつけるべきであったか」
 それか武功派を粛清するかである。だが、ただでさえ層が薄い豊臣家臣団を自ら潰すことはできない。頭を抱えて悩んでいる様子の秀吉に結衣がそっと手を差し伸べる。

「殿下はなにも間違ってはおられません。加藤様や福島様を抑えるためにも石田さまは大事な方です」
「抑える……じゃと?」
 秀吉は怪訝そうな目を結衣に向けた。まるで、加藤や福島が謀反を企てるみたいな言い草だからだ。

「はい。いまは殿下への忠勤に励んでおられますが、いつ良からぬ事を思いつくかわかりません」
「結衣よ、言ってはならぬことがあるぐらいそちにもわかるであろう」
 それまでの陽気な声とは一転して低い声で警告された結衣だが、気にすることなく続けた。

「男というものは夢を見るものでございましょ?」
「夢じゃと?」
「はい。男たるもの常に上をめざす。足軽はいつか侍大将になりたいと思います。侍大将は一国一城の主になりたいと思います。そして、一国一城の主になれたら次は……」
 結衣は口を秀吉の耳に近寄せた。

「天下を夢みます。それが男というものでしょ?」
「……」
 秀吉は何も反論できんかった。結衣が指摘したことは秀吉にずばり該当することだったからだ。信長が存命のころは秀吉も天下なんて考えもしなかった。加藤や福島だって秀吉が生きているうちは豊臣家に忠勤を励むだろうが、秀吉が死んで後を継いだ秀頼が凡庸だった場合に野心を持たないという保証はない。加藤・福島の背反行為を抑制するには石田三成を重用して加藤らを牽制させるのが上策か。秀吉は結衣を詰問した。

「三成から何か吹き込まれたか?」
 結衣は三成の紹介で西ノ丸殿の警護役となった。三成が対立する加藤らを失脚させて自分の地位を確固たるものにしようとして結衣を推薦したのではないかと秀吉は疑った。

「いいえ、石田さまは何も仰っておられません。私が勝手に申したことです。さしでがましいことをいたしました。どうかお許しください」
 深く低頭する結衣。その結衣を秀吉は観察するように見下ろした。剣の腕だけでなく知恵もまわるようだ。もし、男であれば武将にもなれたであろう。少し結衣が不憫に思えた秀吉はせめて存分に可愛がってやろうと彼女に抱きついた。

「で、殿下?」
 いきなりの不意打ちに結衣もさすがに驚いた。張り倒してやろうかという気持ちを何とか抑え込んで穏やかに秀吉から逃れようと目論む。

「酒がまわるには少し量が少なくございません?」
「うんにゃ、儂はそちの色香にもう酔いしれておる」
「もう、お戯れを」
「よいではないか、よいではないか」
「本当にしょうがない殿下……」
 結衣は手を秀吉の頬にそっと手をあてると口を近づけた。口吸いでもするのかと思われたが、結衣はふぅっと息を吹きかけただけだった。

「な、なんじゃ。甘い香りじゃのう……」
 結衣の吐く息はやけに甘い香りがするのだ。催眠効果があり、秀吉はうっとりとした顔をした後に眠りこけてしまった。

「おやすみなさいませ、殿下」
 結衣は人を呼ぶと、秀吉を寝室まで運んでもらった。

 それから数年が経た慶長3年7月朔日、結衣は西ノ丸殿のお供で秀吉を見舞った。5月の入梅のころから秀吉は病臥していた。3年前にも半年たらず寝込んだことがあり、周囲を不安にさせている。結衣の顔を見た秀吉は喜んでいたが、結衣は内心冷ややかだった。もう長くないだろうと判断した結衣は最後に秀吉に懺悔させてやろうと、秀吉と目をあわせた。左目が熱がこもったように熱く感じられた。これで、結衣は誰にも気づかれずに秀吉に術をかけることに成功した。

(とっておきの夢をくれてやる)
 豊臣家臣団は結束がすでにボロボロになっている。何人かは徳川家康に取り込まれてしまっている。前田利家が豊臣家の防壁に成り得るが、その身も病に冒されており長くはない。利家も死ねば豊臣家の天下も崩れるが、姉の西ノ丸殿と秀頼の命は助かる。西ノ丸殿は頭の良い女性だから時代の趨勢を読み誤ることはあるまい。
 その夜、秀吉は誰かから呼ばれていた。

「サルよ、これサルよ」
「だ、だれじゃ。儂をサル呼ばわりするとは無礼な」
 秀吉は憤激して辺りを見回すが霧が深くてよく見えない。それでも、秀吉は声の主を捜した。どこかで聞き覚えのある声だ。やがて、霧が晴れて一人の男が姿を現した。男の姿を見て秀吉は震えあがった。

「う、上様!?」
 なんと、16年も前に死んだはずの信長が立っているのだ。

「サルよ。もうよい時分であろう。迎えにきてやったぞ」
 そう手を差し伸べる信長に秀吉は平身低頭しながらも猶予を願った。

「わ、わたくしめは貴方様の御仇を討ちとりましたぞ。若齢のころより御奉公専一にすごしてまいったではございませぬか。いましばらくの御猶予をいただきとう存じます」
 すると、信長は怒りの形相で、

「お前は儂の子らに平気で不憫な仕打ちをしてきた。もうこの世においてはおけぬわ!」
 信長は許しを乞う秀吉の手をとり強く引き寄せた。必死に猶予を願いながら信長の力に逆らっているうちに秀吉は目をさました。不吉な夢に秀吉は自分の死期がちかいことを悟り、石田三成や前田玄以ら奉行たちに形見分けの支度にかからせた。
 7月15日、伏見城内の前田屋敷に在府の諸侯が招集された。そこで彼らは前田利家から秀頼への忠誠を誓う誓詞への署名を求められ、100以上の大名が署名を済ませると秀吉の形見分けをすると告げられた。

「なんと、太閤殿下はもうお逝きなされたのか」
 騒然となる諸将を制し、利家は太閤殿下の御厚恩と告げて場をおさめた。おもな形見分けは以下のとおり。

徳川家康  牧渓筆「遠浦帰帆絵」と金子300枚
前田利家  「政宗脇差」と金子300枚
小早川秀秋  「捨子茶壷」と金子100枚
宇喜多秀家  「初花の茶入」

 25日には朝廷・公卿・門跡衆への遺金分配が行われている。秀吉が薨去したのは8月18日であった。秀吉の死は三成の主張で伏せられることになった。明・朝鮮との戦争中で味方の士気に関わるというのが理由だった。

「馬鹿な。形見分けまでしておいて何を今更ふせるというのじゃ」
 秀吉の義弟で奉行筆頭の浅野長政が異論を唱えるのを北政所が諌めた。だが、内心はため息が出る思いだった。死を知られないようにすることは通夜もなくひっそりと遺体を葬るということである。

「神道では息を引き取られたときから神にお成りになるそうでございます……」
 とは前田玄以の弁だが、派手好きでさびしがり屋の秀吉がこのようなことを決して喜ぶわけがあるまい。北政所はただ目をつむるばかりであった。やがて、吉田神社の神官・吉田兼見が姿を見せ、阿弥陀ヶ峰に密かに墓穴を穿ってあると告げたときも黙って頷いた。だが、石田三成の言葉を聞くとさすがに黙っていられなかった。

「城内を棺桶で運んでは伏せたことにはなりませぬ」
「殿下をどうすると申すのじゃ」
 問い質す北政所に玄以が口をはさんだ。

「みどもが背負いましょう」
 そう言って玄以は背を向けて木喰上人が秀吉の遺体を背負わせた。

「太閤殿下ぞ、天下人ぞ、町屋の者でもこのような惨めがあるものか……」
 北政所の言葉に誰もが顔を伏せていた。北政所は肩で息を吐いて口をつぐんだ。

〈前編終了〉

【次回予告】

「娘、そちの名は何と申す?」
「狙うは徳川家康の首ただひとつ」
「頼む、儂の影武者になってくれ」
「私も武将の妻です。身の処し方は十分に存じております」
「殿、敵が背を見せております。何卒、追撃のご下知を!」
「大垣城の敵を青野原に引きずり出す!」
「あの小倅めに催促の鉄砲をお見舞いしてやれ!」
「おのれ金吾、人面獣心なり。3年のうちに祟りをなさん!」
「よくも、儂の企てを邪魔してくれたな。女とみて甘く見すぎておったわ」

※内容は変更になる場合があります。

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