戻る



オール・グリーン

第二話 今日からオレは牧瀬陽菜

作:矢治浩平




 沙耶は玄関の扉を開けた。八月の終わりになっても、太陽はまだまぶしい。大きく伸びをすると、新聞受けまで庭を横切った。かがんで新聞受けの中身を取ろうとすると、頭上から声が聞こえてきた。
「よう」
 門扉の向こうに陽介が立っていた。
「おはよう。わざわざどうしたの?」
 沙耶は新聞を置いたまま、門扉の方へ行った。
「礼を言っておこうと思ってさ」
「礼?」
「いろいろ気をつかってくれて、ありがとう」
 陽介は手を出した。
「どういたしまして」
 沙耶も手を出した。そのときに、沙耶は不意に陽介の全身をしげしげと眺めた。
「ちょっと、いい?」
 沙耶は、門扉を開き、陽介に入ってくるように促した。陽介が入ってくると、陽介の大き目のTシャツを指差した。
「それ、男の子用の服よね。まさか下着も?」
「あ、うん。なんか恥ずかしくって」
 沙耶の両手はぷるぷると震えていた。
「そこで背をぴんと伸ばしてっ!」
 急に大声で叫ばれたので、陽介は反射的にぴん、と伸ばした。沙耶は陽介に近づいて、自分の頭に手を当てると、そのまま地面と平行移動させた。すると、だいたい陽介と同じぐらいの高さだった。
「じゃ、ばんざいしてっ」
 陽介は素直に言うことに従った。沙耶は陽介の腰に腕を巻きつけた。
「うわ」
 声を出しても気にしない。そして最後に背中から抱きつくと、胸をつかんだ。
「あっ」
「あれ? 意外に大きくなってるわね」
 数回陽介の膨らみの感触を確かめた後、沙耶は手を離した。しかし、陽介は硬直して手を挙げたままである。
「じゃ、また今度ね」
 呆然としている陽介を放置して、無愛想に沙耶は自宅のドアに向かって歩いていった。


 陽介は短パンとTシャツ姿で、ねっころがりながら参考書を読んでいた。寝返りをうち仰向けになると、そっとTシャツの隙間を広げてみた。膨らみかかった胸が視界に入ると、沙耶の手の感触を思い出してしまった。Tシャツの上から、そっと胸をなでてみる。
 いつものように陽介は自分の部屋で勉強をしていた。月子は昼食の準備に取り掛かろうとしていた。塾探しのことは懸念だったが、夏休みが終わるにはまだ間があるし、その次の土曜日までならもっと間がある。大丈夫、塾なんてすぐに見つかるさ。そんなことを考えながら、冷蔵庫を開けようとしていたところだった。
 自宅の電話のベルが鳴った。
「はい、牧瀬です」
「私、開力ゼミナールの高橋と申します」
 開力ゼミナールは、この前電話をして門前払いを食らった大手塾だ。
「娘さんのことで、お話をさせていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
「なんでしょうか?」
 口調は相当荒かった。一度断られたので、心証がよくない。
「お隣の桐谷沙耶さんをうちでお預かりしているんです。それでですね、今日桐谷さんのお母さんがお見えになって、うちの子よりも成績がいい子が塾を探してる、うちに入れてやってくれ、と頼みに来たんです」
「え?」
「詳しい事情は桐谷さんから聞きました。牧瀬さんと桐谷さんが通っている中学校から来ている生徒は、桐谷さんだけです。ですから、うちだったら安心して通えると思います」
 悪い条件ではないようだ。
「で、急で申し訳ないのですが、一応成績検討のための試験を行います。ですから、今すぐ来ていただけますでしょうか?」
「わかりました。すぐ行かせます」
 電話を切ると、月子は大きく深呼吸した。
「陽介! 今から塾に行くわよ」
 陽介の部屋のドアを開けるなり、月子は叫んだ。
「塾、ってどうして」
 机に向かっているところを、面倒そうに振り返った。どうやら、ちょうど煮詰まっていたようだ。
「沙耶ちゃんが頼んでくれたのよ。あの子が通っている塾、うちの中学の生徒は沙耶ちゃんだけなんだって」
 陽介はゆっくりと頷いた。
「それで?」
「それでじゃないでしょ。そこは沙耶ちゃんしか、陽介の学校の生徒はいないっていうのよ。早く支度して。とにかく急がないと間に合わないわ」
 陽介がゆっくりと立ち上がると、玄関のチャイムが鳴った。陽介も月子もドタドタと階段を駆け下りた。
「はい?」
 玄関先に出ると、桐谷静音、つまり沙耶の母親がそこに立っていた。もう塾から戻ってきたらしい。
「あ、桐谷さん。どうしたの?それにその紙袋は?」
「沙耶がね。陽介くん、服持ってないかもしれないから、間に合うようなら持って行ってくれっていうのよ。今から試験でしょ?」
「塾の高橋さん、って方から今電話があったわ。ありがとう。わざわざ頼んでくれたのね」
 話を聞けば、桐谷家は家族で陽介のことを心配してくれていたようだ。
 三人はリビングに向かった。
「あの子の服の中から適当にえらんだんだけど、どうかな?」
 中には、女の子用のショーツが一枚。ジュニア用のブラがひとつ。キャミソールが一枚。ノースリーブに、上からはおる夏用カーディガン。そして、ハーフパンツが入っていた。沙耶の趣味を反映してか、シンプルなデザインだ。
 デザインはシンプルだといえ、まるっきり「女の子」である。陽介は躊躇した。
「まさか、桐谷さんが持ってきてくれたのに、着ないなんていわないわよね」
 ギロ、っと月子はにらんだ。
「何やってんのよ、さっさと着替えなさい」
「え、ここで」
 キャミソールを抱きしめたまま、陽介は固まった。
「女同士でしょ、気にしないの」
 冷や汗がダラダラながれる。
「あの、このパンツって」
「あ、下着は新品を持ってきたから。気にしないで」
「あ、そうですか」
 陽介が言っているのはそういう問題ではない。陽介は恥ずかしさが抜けず、服を脱ぐのをためらってしまう。そんな陽介を見て、とうとう月子は我慢できなくなった。
「こっちに来なさい」
 脱衣所に無理やり陽介を引っ張っていった。静香は服を持ってついてくる。顔が二人ともなぜかにやけている。
「桐谷さん、そこ抑えてもらえる」
「え、かあさん、何すんだよ」
 二人とも、心なしか面白がっているようだ。あっというまに素っ裸にされ、下着を着せられ、ブラをつけられる。
「胸、もう結構あるのね」
「でも余ってるわね」
「綿でも詰めときゃいいでしょ」
 女の子の着替えがよっぽど楽しいらしい。どの母親も、“男の子っぽい女の子に、女の子らしい服を着せる” ときは、こんな感じなのだろうか?
「不思議ね。沙耶が触ると、いつもサイズぴったりなのよね。あの子のいうとおり、沙耶と同じサイズだわ。これならいつでも服入れ替えられるわ。陽介くん、太らないようにしてね」
「そうね。サイズが同じなら、服代も浮くし」
 そういう発想はさすがに主婦である。
「後は髪を整えて」
 七月から向こう、髪は切っていないので、結構伸びている。ブラッシングをして、髪を整える。
「まあ、こんなもんでしょ。じゃ、行くわよ」
「え、オレ変じゃないかなあ」
「大丈夫、どこかでナンパされそうなぐらいかわいく見えてるから」
 なんとなく複雑な気分で、陽介はそこに立っていた。


 電車のロングシートで、陽介はかちんこちんで固まっていた。それはそうだ。ここは女性専用車両なのである。周りには、同じ年ぐらいの女の子も結構いる。
「何緊張してるの?」
 月子は陽介の顔を覗き込んだ。陽介は軽く肩を叩き、月子の顔を正面に向かせた。耳元でそっとつぶやいた。
「だって、女装がバレてるかも、っていう気がして」
 正確には女装ではない。
「何言ってんのよ」
 月子は目を大きく開いて陽介の方を向いた。
「大丈夫。今までボーイッシュだった女の子が、ちょっと無理して女の子っぽい服着てみました、って感じだから。だいたいあんた、ちょくちょく女の子に間違えられてたでしょうが」
「そんな三年も昔の話をしないでくれ」
「あ、でも間違えてたわけじゃないんだ。そっちが正しかったのね」
「確かにそうかもな」


 そうこうしているうちに塾に着いた。
 開力ゼミナールは駅前のビルの二階にある。エレベータを降りると、受付に女性が控えていた。
「あの、牧瀬といいますが、高橋様お願いしたいんですけど」
「えっ!」
 この一瞬の沈黙はなんだろうか?
「どういうご用件ですか?」
 相当驚いているようだ。いったいなんだというのだろうか?
「いえ、急ぎ入塾テストを受けてほしいので、すぐに来てほしいと今朝電話があったんです」
「しょ、少々お待ちください」
 女性はびっくりした様子で、いったん席を外した。ほどなくして戻ってくると、二人は空き教室に通された。
「では、こちらが5教科分の問題用紙です。三時間ほどしたらとりに来ます。全て解き終わったら受付までいらしていただけますか?」
「試験監督とか、つかないんですか?」
 月子は女性にたずねた。女性は面倒そうに答えた。
「高橋先生はいいって言ってましたよ。あ、そうそう。数学を最初にして、社会を最後にしてください」
 それだけ言うと、去って行った。しかたがないので、月子は空き教室の後ろで、陽介を見ていることにした。
 そんなに難しい問題ではなかったのか、陽介は大体三十分位で一科目の数学をとき終わった。二科目目は国語を選び、また三十分ぐらいでとき終えた。丁度そのころ、三十代半ばぐらいの男の人が入ってきた。陽介を一目見ると、かなり驚いたようだった。月子はその様子を見て、男に話しかけた。
「あの、どうかされましたか?」
「ああ、すみません。先月まで男の子として生活されていた、っていうので、もっと、そのなんていうか、男っぽいイメージを持ってたんですが、かわいらしい女の子じゃないですか」
 男は、陽介のそばまで歩いていった。
「どこまでできたかな?」
「英、数と終わりました。次は国語をやろうと思ってます」
「助かるよ。じゃ、すぐに採点にまわすから、解答用紙をもらっていいかな?」
「はい」
 陽介は解答用紙を二枚渡すと、再び机に向かい始めた。そうすると、男は月子のほうに振り向いた。扉の方を指差している。月子は、教室の扉のところに移った。男も陽介のそばを離れ、出口のところまでやってきた。
「ついていなくていいんですか?監督もいないので、一応私が見てたんですけど」
「力を量る試験で不正を行うような生徒なら、うちには来て頂かなくて結構です」
 男はきっぱりといった。


 男は月子を職員室へ案内した。机には中学生向けの参考書や、塾のオリジナル教材が積みあがっている。月子がきょろきょろと所在無げにしていると、男はパイプ椅子を持って来た。
「どうぞ」
 うながされて、月子はそこに座った。男も自分の椅子に座った。
「こんなところで申し訳ありませんね」
 男は軽く会釈をした。
「私が高橋です。有力校コースで文系科目を担当しています」
 高橋が名刺を差し出した。
「有力校コース?」
 月子は尋ねた。そこへ若い女性が高橋の下に訪れた。白い女性用スーツに身を固めた、長髪の美人だ。髪留めで髪は留めてある。
「高橋先生。着いたら顔を見せるように言われたんですけど、何の用ですか?」
「ああ、雅ちゃん、この答案を採点しておいてもらえる?」
「ええっ、論文書こうと思ってたのに」
「そんなに難しい問題じゃないから大丈夫」
 と、答案用紙と採点書を手渡した。
「さっきの方は?」
「理科の講師が一人やめちゃいましてね。募集してもなかなかいいのがひっかからなくって、本部に応援を要請したら、彼女が来たんです。本職は東京の大学院生ですよ」
「東京からわざわざここまで?」
「ええ、夏休みだけの限定で、旅費と宿泊費を払って移動してもらってます。彼女のバイト料と合わせると、ウチとしてもなかなか厳しいんですけどね。人がいなくって」
「はあ、そうですか」
 月子はつぶやいた。
「あ、それで有力校コースと言うのは?」
「涼風高校ぐらいの高校を目標にしているクラスです」
「その上というと…」
「西の奈多、甲州、東の恒星クラスの学校を視野に入れたクラスですね。ここまでくると全国区です。全国区までは届かないけど、その地方ではまあまあ知られていて、東大京大には確実に合格者を出している。それが有力校コースのターゲットです」
「なるほど」
 月子は頷いた。
「桐谷沙耶さんが、有力校コースにいるんですよ。同じぐらいの成績だ、ということなので、同じクラスに入れたいと私は考えています」
 高橋はそう言った。なにやら月子の知らない世界がこの業界では展開されているらしい。「あの、先生」
 雅が戻ってきた。
「数学と英語の採点終わりましたよ」
「雅ちゃんの感触はどんな感じ?」
「数学はほぼ満点です。一題混じっていたやや難の問題はは完答してますし、英語はだいたい長文が読めてますね」
「なるほど」
 高橋は、数学と英語の解答用紙を眺めていた。
「雅ちゃん、どう思う? この子有力校コースに入れようと思うんだけど」
「えっ、そんなことできるんですか?」
 雅は相当驚いたようだった。
「どういうことですか?」
 月子が尋ねると、答えたのは雅だった。
「有力校コースの下が、公立校コースですね。公立校の上位ランク校を志望するクラスです。模試の結果で、クラスの上げ下げを行って、入れ替えているわけです」
 月子は頷いた。
「ほとんどの人は気にしないんですが、気にする方もいらっしゃるわけですよ。いきなりやってきた生徒を、有力校コースに入れたりなんかしたら、他の親御さんが黙ってないんじゃないですか?」
 ちら、と高橋の方を向いた。
「でも、学力的には問題はないだろ?」
「まあ確かに、あのコースの生徒もいろいろですからね。この子よりひどい答案はいくらでもありましたね。ホント、こっちのやる気がそがれます。そのくせあのクラスの生徒、自分ができるつもりでいるんだから」
 この女性教師にしてみると、有力校コースの生徒は不満らしい。そんな彼女を見て月子は苦笑していた。しかし気になって、ちょっと点数を覗いてみた。数学、91点とある。しかし、この女性の口調だと、これはひどい点数のようだ。よっぽど問題が易しいのだろうか、と月子は思った。
「ま、大丈夫だろ」
 高橋が話し出したので、二人の会話に再び注意を向けた。
「学校では、桐谷沙耶と同じだって言うんだ。このテストの答案に限って言えば、彼女よりもよくできてるよ」
 雅はまだ何か言いたいようだったが、高橋は言葉を挟ませなかった。
「大丈夫。九月に入ったらまた模試がある。そこで彼女の能力は分からせられるだろ」
「ま、どうせ私はその頃にはいませんからね。お好きにどうぞ」
 陽介が全て問題を解き終え、同時並行で全ての採点も終わった。社会を最後にしてもらったのは、採点が早くすむからである。
「合計は?」
「443点ですね。この分校全体で、トップ10に入る得点率です。でも、問題の難易度が」
そこまで話したとこで、高橋は雅の話を打ち切った。
「じゃ、大丈夫だろ」
 高橋は月子の方を向いた。
「娘さんは、有力校コースに入ってもらいます。今日はお二人ともお疲れでしょうから、またお母さんだけお越し願えますか?」
 月子は立ち上がって、高橋に一礼した。月子が職員室から出て行った後、雅は高橋にたずねた。
「ところで、気になったんですけど、さっき高橋先生、娘さん、って言ってましたよね」
「それがどうかした?」
「答案用紙に、牧瀬陽介って書いてあって、てっきり男の子だと思ってたんですけど」
「ああ、それね。なんでも、ちょっと前まで男の子だと思ってたらしいよ」
 高橋は事の次第を説明した。
「え〜っ、そんな話があったんですか」
「そんなこともあるんだねえ」
 高橋はタバコをふかし始めた。
「ちょ、ちょっと失礼します」
 雅はバタバタと職員室を飛び出した。
 エレベータを降りてビルを出ると、丁度信号を渡ろうとする牧瀬親子の姿があった。
「あの、牧瀬さん、ちょっと待ってくださ〜い」
 雅は大声で呼び止めた。ちょっとボーイッシュなハーフパンツ姿の女の子がこちらを向いて、立ち止まってくれた。雅は二人のところまで駆けつけた。
「牧瀬、陽介くん?」
 息を切らしながら雅は言う。こくり、と陽介は頷いた。
「あの、おかあさん」
 雅はくるりと月子の方を向いた。
「ちょっとお時間取れませんか?」
 いたずらっ子のような雅の笑顔に、何かを月子は感じ取った。だから、この誘いに乗ることにした。


 手近な喫茶店に三人は入った。黒い木目調のテーブルと椅子のためか、雅の白いスーツが映える。
「私はアイスティーで」
 月子がまずオーダーした。
「私は、アイスカフェオレ、えっと陽、じゃないあなたは?」
「オレもアイスカフェオレ」
 とだけ、陽介は小声で言った。
「私の名前は桐生雅。本職は大学院生です」
 テーブルの上に手を置いて、自己紹介を行った。
「さあて、どこから話そうかな」
「なんか楽しそうですね?」
 月子の表情はそれほど明るくはなかった。この女性教師になぜか興味があるが、どこか胡散臭さを感じる。
「お話って、なんですか?」
「陽介くん、女の子だって診断されたんですってね」
「それが何か?」
「わたしもね、十年ほど前に似たようなことがあったんです」
 月子はカップを落としそうになった。
「は、はい? 先生も、女性半陰陽、なんですか?」
「私にも良く分からないんですう」
 月子と陽介はいきなりずっこけた。
「主治医の先生は、生命の神秘だって言ってましたよ。いやあ、長生きはするもんだ、ってなんか喜んでました。もっとも、その人、当時三十代でしたけど」
 低レベルな生物なら、よくあることらしいが、人間で起こることはまずない。アンドロメダ病原体にでも冒されていたのかもしれないが、今となってはすべて謎である。
「私もよく覚えてないんですよね。目が覚めたら、髪の毛がすごく伸びてて、胸が膨らんでたわけですよ。目が覚めたら三ヶ月間ぐらい眠りこけてたとか言うじゃないですか。いやあ、びっくりしましたよ」
 冗談ぽく言ってるが、当時はいろいろあったに違いない。
「学校はどうしたんですか?」
「恒星高校、って知ってます?」
 月子が知らないはずがない。中高一貫校で、東大合格者数の上位常連校だ。
「男子校じゃないですかあ?」
 また自分を茶化すように、雅は言った。
「当然、転校ですよ。て・ん・こ・う。せっかくがんばって中学受験したのに、公立高校に転入っすよ。でも、これが幸いしましたね」
「といいますと?」
「中学の同級生は、ほとんどがみんなもとの学校にいるじゃないですか? 転入先の高校には、小学校の同級生が数人いる程度で、私のことを知っている人はほとんどいなかったんです」
 だから雅は、普通に女生徒の転校生として受け入れられて、無事に過ごしたのだという。
「でもやっぱり、転校先でいきなり学年一位になったりとか、私あまり外見のことは気を払わない方だったんで、色んな人に色んなこといわれて、いろいろ悩みましたよ」
「たとえばどんな?」
「かわいくないとか、女らしくないとか、女らしくしろとか、そんなことばっかり」
 ふうっ、と雅はため息をつく。
「そんな感じでやっと女の子としてふんぎりがついたと思ったら、夏期講習で元同級生にナンパされたりとか」
 陽介はびくっと反応した。
「そいつにキス迫られたりとか」
 さらに、陽介の顔からは冷や汗が出てきた。
「あ、あの」
 陽介が尋ねた。
「男の子にキス迫られるのって、嫌じゃなかったですか?」
 この質問には、雅はしばらく頭を左右に振りながら、考えていた。指を頬に当てて悩むしぐさは、十歳近く年上なのにかわいらしい。
「そのときには、もう彼氏いたもの。どっちかっていうと、好きでもない男に迫られるのが嫌だったかな」
 ゴンッ。陽介は、相当派手にずっこけた。
「か、カレシいるんですかあ?」
「えへへ」
 雅は左手の薬指に輝く指輪を見せた。
「早く本物のエンゲージリング、欲しいんですけどね。お互いなかなか都合がつかなくて。高校生以来の付き合いなのに、なかなかふんぎりがつかないんです」
 さっきとは打って変わってでれでれと雅はのろけ始めた。これには、陽介は卒倒しそうになった。
 ショックで撃沈しそうになっている陽介を見ているときに、雅ははたと何かを思い出したようだ。彼女は身を乗り出して月子に話しかけた。
「そうそう、名前、どうするんですか?」
「はい?」
 月子には、何を言っているのか分からなかった。
「陽介、って男の子の名前でしょう?もっと女の子らしい名前に変えたほうがいいんじゃないですか?」
「別に陽介っていう名前の女の子がいてもいいじゃん」
 ようやく立ち直ってきたようだ。陽介は会話に参加をしてきた。
「でも、やっぱりかわいい名前の方がいいですよねえ?」
「で、でも」
 雅はグラスをテーブルの上において、真剣なまなざしで陽介を見た。今までのほんわかしたムードとは異なり、雅に飲まれる。
「涼風の面接試験で、中学校の女生徒用の制服を着て、牧瀬陽介です、って大きな声で言えるの?」
 それは、相当恥ずかしいかもしれない。
「将来女医になったときに、担当の牧瀬陽介です、って言えるの。絶対患者さん、オカマの医者だと思うんだけどな」
 それもそれでまずいかも。陽介はよく考えてみた。
「そんな先の話をしなくても、塾では『女の子』なんでしょ?」
 陽介は冷静になって考えてみた。確かにそのとおりだ。どうして誰も知り合いがいない塾に通おうと思ったのかといえば、塾なら初めから女の子として取り扱ってもらえるからだ。確かに、どこからどうみても女の子の名前にしたほうがいいに決まってる、と陽介は素直に思った。
「先生の言うとおりよ。いい機会だから、今名前決めましょう。あの、先生なんかいい名前ないですか」
「私が決めちゃっていいんですか?」
ちら、と陽介の方を見た。どこか不満そうだ。
「じゃ、一応候補ということで、陽菜(はるな)ってのはどうですか? 太陽の陽に、菜の花の菜。それで、陽菜。ちょっと画数増えちゃうけど、陽まではおんなじ字です」
「あ、いいわね。それにしましょう」
「ちょっと待った!オレの意見はなしかよ!」
「じゃあ、何がいいの? 言って御覧なさい」
 と言われても、ぱっとは思いつかない。
「じゃあ、決まりよ。今日からあんたは、陽菜。答案に、名前書き間違えるんじゃないわよ」
 月子と雅は波長が合ったようで、それからも長々と話し続けた。


 そしてその夜のことである。
 特に残業をすることもなく、牧瀬亮介は八時ごろに自宅に戻ってきた。
「ただいま」
 ダイニングキッチンの扉を開けると、見慣れない女の子が、お盆を持って料理を運んでいた。彼女は亮介の方を見ると、言った。
「あ、お父さん、お帰りなさい」
「よ、陽介か?」
 よくよく見れば、それは陽介だった。別にフリフリのスカートをはいているわけでもないのに、まるっきり女の子にしか見えない。
「お父さん、どうかした?」
「ああ、いやなんでもない。着替えてくるよ」
 亮介は陽介たちを背にして、扉を閉めた。
「お父さん、どうしたんだろ」
「あんたを見て、びっくりしたみたいね」
 くすくすと月子は笑っていた。


 三人で夕食をとりながら、月子は今日の出来事を話していた。無事に塾が決まったことに、亮介は喜ぶというより、ほっとしたようだった。
「それで、いつから通うんだ?」
「9月の第一週目の土曜日から。水曜日と土曜日が塾の日ね」
「そうか」
「で、お父さんにぜひ確認しなきゃならないことがあるの」
 月子は箸を置き、背筋を伸ばして、亮介の方を向いた。
「な、なんだ」
 つられて、亮介も箸を置いてしまう。
「陽介の、名前のことなんだけどね」
「ああ、そのことか」
 亮介は再び、姿勢を楽にして、箸を持った。
「ハルナ、はどうだ?」
 陽介は箸でつかんでいたジャガイモを皿の上に落とし、そのまま静止した。
「もしかして、太陽の陽に、菜っ葉の菜、って書く?」
 フリーズした陽介に代わって、そう聞いたのは月子だった。
「おう、今日一日で考えたんだ、いい名前だろ」
 それを聞くと、クスクスと月子は笑い始めた。
「なんだ、反対か?」
「いいえ。私も、陽菜はどうか、って言おうと思ってたのよ。まさかあなたも同じ名前を言い出すとわねえ」
 月子の笑いは、しばらく止まらなかった。


 田崎中学校の職員室で、中居浩一は成績表のチェックをしていた。彼は三年目の若手教員だったが、三年生の一クラスを担当していた。二学期にもなれば受験が本格化してくる。進学指導にも熱が入る頃で、中居は全員の成績と志望をを再度確認していた。彼が校長に呼び出されたのは、丁度そんなころだった。何事かと思って校長室に入ると、中居のクラスの牧瀬陽介の両親が立っていた。中居は二人に、すぐさま頭を下げた。
「牧瀬さん、お二人そろって、どういったご用件でしょうか?」
「ええ、実は息子の陽介なんですが、二学期からは、登校させないことにしようと思いまして」
「ええっ」
 中居の視界が、一瞬よろめいた。
 田舎の中学校とは言え、田崎中学校の今年の中学三年生は、優秀だった。牧瀬陽介は、開校以来一番とまではいえないが、今年の学年の中ではピカイチの生徒だったのだ。そういう生徒の両親が、学校にわざわざ通わせない、というからには理由はたいてい決まっている。
「オレタチの子供の足を、学校がひっぱるな」
 ということだ。
 牧瀬には中居も期待していただけに、落胆が大きかった。
「そ、それは、私の指導がいたらなかった。ということでしょうか?」
 すでに息も荒く、亮介に飛び掛らんという勢いだった。
「中居先生、そういう話じゃありません。まあ座ってください。牧瀬さんも、まずはお座りください」
校長は静かな声で、中居を落ち着かせた。
こうして、牧瀬夫妻と、学校担当者との秘密会談が始まったのである。
 事実の確認が済むと、事態は中居の想像以上だった。
「そういうわけだから、学校側の負担を考えて、今後の授業は出席を遠慮させていただく、というお話だ」
 中居は、まだ納得したようではなかった。
「でも、牧瀬君は学校に来たがっているんでしょう?」
「牧瀬君じゃなかったら、まだよかったんだよ」
 そう言ったのは校長だった。
「それはどういう意味ですか?」
「牧瀬君は成績優秀者の常連で、みんな顔を知っている。牧瀬さんたちが言うように、牧瀬君を受け入れることに、反対する生徒も、父兄もいるだろう。中一の1学期とかならまだしも、卒業まであと5ヶ月と少し。牧瀬さんの方から、出席を遠慮したい、とおっしゃっているのだから、私としても反対する気はない」
「で、でも」
 校長は、大きく咳払いをした。
「考えてみたまえ。生徒一人一人の家にこのことを説明したとしよう。納得する生徒もいるだろうが、しない生徒もいるだろう。体育の着替えはどうする?トイレはどこを使わせる?牧瀬君だけ、職員用を使わせるという手もあるが、どちらにせよ、不満分子はでるだろう。全員の生徒が納得するまでに何ヶ月かかる?その間傷つくの誰だ?納得できない生徒全員と、当の牧瀬君本人だ」
 中居は黙るしかなかった。それを見て、校長は牧瀬夫妻に尋ねた。
「そうですよね」
 無言でうなづいた二人を見て、中居は大きくうなだれた。が、すぐに反撃に移った。
「でも、それじゃ、私の敗北です」
 校長はまた強い口調で言った。
「まだ、負けてはいないし、負けるわけにもいかない」
 中居は驚いて顔を上げた。
「卒業式までに牧瀬陽介を学校に戻れるようにすること。これは命令だ」
 中居は飛び起きるように、立ち上がった。
「わかりました、がんばります」
 校長は座ったまま、牧瀬夫妻の方を向いた。
「では、そういうことでよろしいですね?」
 牧瀬夫妻は、涙ぐんでいた。
「陽介を、これからもよろしくお願いします」
 立ち上がって、お辞儀をするころには、二人は涙ぐんでいた。


 そうして、新学期が始まった。三年生全員には、陽介は、療養中で、しばらく学校には来れない、と説明があった。学年トップの突然の長期欠席は学校中のうわさになったが、すぐに下火になった。みんな自分のことで精一杯だったからだ。
 そして、新学期に入って最初の土曜日のことだ。
 桐谷沙耶は、一本早い電車で塾へ向かった。一本早く出ると、二十分は早く着く。いつもの電車でも、随分早く着いているから、こんな時間にくれば、だれもいないだろう。そう思って、扉を開けると、見知らぬ女の子が座っていた。
 一瞬呆然と見とれてしまったようだったが、なぜか彼女はそのまま座り込んで笑い出した。
「なんだよ、もう」
 髪はショートだが丁寧にカットされてある。ロングスカート。タンクトップの上に、チェックのシャツを羽織っているその一見はかなげな少女は、頬を膨らませて沙耶のそばまで歩いてきた。
「やっぱり、変かなあ。こっちだって、恥ずかしいんだから、笑うのやめてくんない?」
 沙耶は笑いながら首を振った。
「だってさ、随分きれいな見たことのない女の子がいるな、っておもったのよ」
「だったら、笑うなよ」
しかし、まだゲラゲラと笑っている。
「でも、よくみたらあんたなんだもん。わかるでしょ?でも大丈夫、よく似合ってるよ」
 沙耶の笑い声は、しばらく止まらなかった。
「あ、そうだ。宿題、やってきた?」
「ああ、なんせ塾の宿題しかやることないからな。バッチシだせ!」
「じゃあさ、来週から宿題みせっこしない?」
「え?」
「お互いに教えあったら、きっとはかどると思うんだ」
「悪くないね。じゃ、いつにしようか?」
「毎日、夜の八時からでどう?塾のある土曜日は、九時から昼まで」
 陽介は、ぎょっとした。
「毎日…やるの?」
「どうせ毎日勉強してるんでしょ? いいじゃん。うちで一時間位使ったって」
 陽介は、そんなことでおどろいたわけじゃない。陽介は、毎日やってないのである。しかし、そこはおとなしく話に乗った。
「オッケー。じゃ、お言葉に甘えさえてもらうよ」
 そうこうしているうちに、塾には、人が集まってきた。
「あ、沙耶ちゃん。その子、知り合い? 見かけない顔だけど」
 ミニスカートで全身レースでフリフリな女の子が話しかけてきた。
「ああ、理佳ちゃん。この子は、牧瀬陽菜。私のお隣さんで、今日からうちに通うことになったの。陽菜、こっちは、一条理佳ちゃん。あたしたちの隣の中学校から通ってきてるの」
 陽介は、微笑をたたえながら一礼した。
 女の子三人でわいわいやっているところへ、男の子が一人やってきた。
「うるさい。もう授業始まるんだぞ。緊張感ない連中だなあ」
 陽介は首を傾げつつ、彼の顔を見つめていた。彼は、陽介に見つめられて顔を赤くしたが、何かを思い出したのか、すぐに表情が険しくなった。
「お前が、そうか」
「何?」
「オレ聞いたぜ、高橋先生に特別扱いされて、うちの塾に入ってきたんだってな。前回のクラス分けテストで、ようやく上がってきたやつも、下のクラスに落ちたやつもいたってのに、なんなんだよまったく」
 と、ぶつくさいいながら、彼は陽介からちょっと離れた位置に陣取った。
「あのイヤミなのは、だれ?」
 沙耶は急に違和感を感じた。
「ああ、あいつね。紫藤裕。この春からの入塾者で、この前のクラス分け試験でやっとこのクラスにあがってきたのよ。あんたが、ここにいきなり入ったんで気に入らないみたい」
「ふ〜ん。塾だっていろいろあるわけね。でも、カレあたしみて顔真っ赤にしてたよ。どうしたんだろ」
 違和感の正体はようやく分かった。こいつ、自分のこと、あたし、なんて言ってる。
「あんたみて、想像以上にかわいかったから、一瞬たじろいだんでしょうよ。ホント、男の子ってすぐ鼻の下伸ばすんだから。でも悪口いえるんだから、不思議よね、ところでさ」
 陽介に耳打ちした。
「あんた、言葉遣い変わってない?」
「あ、わかる? うれしいな」
 そういって、にっこり沙耶に微笑む陽介に、沙耶は背筋が凍るのを感じたが、理佳は違う会話だと思ったようだ。どうせ、「ちょっと髪形変えた?」ぐらいを聞いたのだとおもったのだろう。
 授業が始まったら、突然空気が変わった。陽介は一人、浮いていた。まるっきり、授業中の質問に答えられないのである。しかし、裕も沙耶も理佳も、間髪いれずに答えていく。陽介は、生まれて初めて劣等感を覚えていた。
 かくして、陽介の塾生活の初日は、終わった。


 帰りの電車の中で、陽介は沙耶に言った。
「裕君の言うとおりね。レベルがぜんぜん違うわ」
「しょうがないよ。あたしたち、夏期講習で習ったばっかりだもん。普通の子は知らないよ」
 しかし、今日の陽介の話し方はずっと女の子として、まったく違和感を感じさせない。違和感がなさ過ぎてかえって沙耶には気持ちが悪い。意を決して、沙耶は尋ねてみることにした。
「ところで、よ……じゃない」
 今までの癖で、陽介、と呼びそうになった。
「陽菜」
「どうしたの、沙耶ちゃん?」
「あんた、その立派な女の子っぷりはいったいどうしたの?」
 横では、理佳が不思議そうに覗き込んでいた。
「そんなにはるちゃんって、男の子みたいな子だったなの?」
「そんなこと、言わないでよ」
 ぷいっ、と陽介は横を向いた。あわてて理佳は、陽介をなだめだした。そういうわけじゃないんだよなあ、と沙耶は心の中で思った。苦笑するしかない。ここは理佳の勝手な想像に期待しよう。
「あたしだって、年頃の女の子だもん。知らない男の子がいるところぐらい、女の子らしくしてみようって思ったの。どう、変じゃなかった?」
「変じゃない変じゃない。そういうことなら、あたしも協力してあげる」
 よくもまあ、適当な嘘が出てくるものだ。いつか時期が来たら、理佳には本当のことを教えてあげよう、と沙耶は思った。


 こうして、陽介の女の子としての生活は、回り始めたのである。



 

戻る

□ 感想はこちらに □