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「オール・グリーン」

序章 それは夏のある日から始まった
作:矢治浩平




 

 桜散る季節の頃、少女は姿見の前で立っていた。

真新しい紺のブレザーにチェックのスカート。紺のソックスにひざと太ももの白さがまぶしい。

やや体型に凹凸が足りないような気もするが、まあ可愛いほうだろう。

あまり長くない髪の毛は、後ろでポニーテールにまとめられていた。

くるっと一回転してもう一度鏡で自分の姿を確かめると、背筋をぴんと伸ばし、大きく深呼吸した。

自分の姿を見ているだけなのに、なぜか緊張しているようである。

ドアのノブが回る音がした。後ろを振り返ると、母親・牧瀬月子が顔をのぞかていた。

彼女はよそいきのワンピースを着ている。ドアから部屋に入ることなく、少女に呼びかけた。

「陽介、準備できた?」

陽介と呼ばれた少女は、深くため息をつき、やや前かがみになった。

なかなか少女が返事をしないのをいぶかりながら、月子は再度少女を呼ぶことにした。

「陽介。――あ、ごめん」

もう一度呼んでから、月子は己の過ちに気がついたようだ。

「いいかげん陽菜(はるな)って呼ばなきゃね」

そういってからしばらくして、陽菜は振り返った。

「お母さん、いい加減に名前間違えるのやめてよ」

「そうはいってもねえ。あんたを陽介以外の名前を呼ぶのは抵抗あるわ」

カラカラと笑いながら、両腕を腰に当てながらいけしゃあしゃあと月子は言った。少女は母の方を向くと、ゆっくりと近づいていき、そして顔を母親の顔に近づけて叫んだ。

「オレの方が呼ばれるのには抵抗あるんだ! 親なんだから早く慣れてくれ! もう半年以上立つんだぞ!」

月子の後ろには、呆気に取られている父親、牧瀬亮介が突っ立っていた。

今日は涼風高校の入学式である。

この日から再び、牧瀬陽介の学校生活が始まるのだ。前回までの学校生活とひとつ違うのは、今度の学校では、牧瀬陽菜、と呼ばれるということだ。

陽介はこの半年、ほとんど学校に行っていない。いわゆる、不登校児、という扱いになる。

しかし、それはやむを得ないことだったろうし、学校もそれには無力だった。彼女と彼女を取り巻く人々に大きな変化が現れることになったのは、夏のある事件から始まったのだ。

 

 

中学三年生の夏休みに入る少し前のことだった。

前々から体調は優れなかった。親も当人も軽い夏バテだろう、と思っていたのだが、突然授業中に腹部を押さえて倒れこんだのである。

急ぎ病院にかけつけてきた両親に、医者は妙な切り出し方をした。

「娘さんの容態なんですが」

二人は共に呆気に取られた。そこで、隣に立っていた看護士が若い医者にひじ打ちした。

「あ、いや、息子さんと言った方がいいのかな」

「当たり前でしょ!デリケートな問題なんですから、こういうところでボケないで下さい」

どうも力関係は、この看護士の方が上位のようだ。

「すみません。この人まだ来たばっかりで、こういうところに神経がいかなくて。でも、腕は確かなんです。私が太鼓判を押しますから信頼してください」

そういった後に、

彼女は二人を談話室に連れて行ったのだった。

 

 「仮性半陰陽、ですか?」

月子がまず尋ねた。こういうときは、父親は黙っているものらしい。

「ええ、まれにこういうことがあるんです。第二次性徴を迎えて、本来の性が表に出てきた、と言えば分かりやすいでしょうか?」

初めにこの医者が「娘さんが」と言ったのは、あくまで生物学的には女性だから、というのが頭にあったせいらしい。

医者らしいといえば医者らしいが、人間味に欠ける気がする。

「で、陽介はどうなるんですか?」

「医学上の問題はほとんとゼロなんです。ですが、精神的な問題の方が大きな問題ですよ」

「と、いいますと?」

「女性として生きていかれるおつもりなら、問題はありません。形成手術を行えば外見上は女性と全く変わりませんし、もちろん女性としての機能も持っています。一方で、性同一障害の認定を受けて、今後も男性として生きていくこともできます。その辺は最近は法的バックアップもありますしね。――しかし、男性として生きていかれた場合は、まあ、お子さんは望めない、ってことになりますね?」

両親は頷いた。

「ということは、どこかで本人に、自分は生物学上は女性なんだ、っていうことは告知しなければなりません。その上で、男性として生きていかれるのか、女性として生きていかれるのかは当人の選択の問題です。それを今告知するのがいいのか悪いのか。これは正直な話、医学の問題ではありません」

「わかりました」 寡黙であった亮介がはっきりと言った。

「陽介には、私から話します」

「ちょっと、あなた……」

「うるさい! 私は、こんなことで動じるような息子に育てた覚えはない!」

亮介は月子に一喝した。医療スタッフの二名も、その雰囲気に飲まれてしまった。

「その後の処置は、先生にお任せいたします」 父親が立ち上がった。

「陽介とは、もう話せますか?」

若い医者は、ゆっくりと首を縦に振った。

 

 ベッドの上で、陽介は事の顛末を聞かされた。

陽介の返事は、思った以上にあっけなかった。

「わかった。じゃ、女でいいや」

「え? あ……あんた、それでいいの?」

「それでいいもなにも、それしかないんだろ? 親と性別は、究極の人生の不自由だからな」

陽介はそこで一瞬口ごもった。思っている言葉を単に探しているようだった。

「――先生、オレ医者になりたいんだ」 陽介が、両親と共に来ていた医者に言った。

「あ、え〜と……」

不意に自分に話を向けられて、その若い医者はやや動揺したようだ。

「医者だったら、性別なんか関係ないだろ? 学校を出れば、だれだってなれるわけじゃん」

「そりゃそうだ。この病院にも、女医はたくさんいるよ。留学帰りもいるし、子供を産んでから復帰した人だっている」

「だろ? 今は昔と違う。知事だって大臣だって女でやってる。男か女かなんて、関係ないよ。障害なんて何もない。オール・グリーンってヤツだ。だから、生物学的に女なんだったら、女でいいや」

「――なかなか聡明なお子さんですね」 くす、っとその若い医者は笑った。

 

 

 手術、入退院、カウンセリングとバタバタとしている間に、夏休みはほとんど終わろうとしていた。ここで、両親も、当人もすっかり忘れていたことがあった。

そう、学校のことである。

 

 牧瀬家の自宅の隣の建売に、桐谷沙耶という女の子が住んでいる。

小学生までは何かと陽介と一緒にいたが、中学校からはあまり口を利かなくなった。

陽介もまあまあルックスはいい方で、沙耶も可愛い方だ。

幼馴染で隣同士ということも知られているせいで、一緒にいると何かと冷やかされる。

だから、沙耶と陽介は自然と疎遠になってしまった。

 夏休み終了まで、後一週間、というところになって、沙耶は陽介を見かけた。

かがんで郵便ポストの中身を取ろうとするときに、陽介のTシャツの中の、膨らみかけた胸が見えた。

いつもはそのまま会釈をして別れるところなのだが、沙耶は立ち止まった。

「おはよ」

「あ、おはよ。いまからどこに行くんだ?」

「塾。あんたと違って、こっちには余裕がないの」

「涼風高校志望だっけ。がんばれよ」

「学年1番のあんたに言われても、イヤミにしか聞こえないわよ」

ムッとしたようだが、沙耶はなおも話を続けた。 「あんた、二学期から学校どうすんの」

「え、なんで?」

「あんたが、二学期からそのカッコで学校に来られたら、学校中大騒ぎになるわよ。あんた有名人なんだから」

「え?」

「ムネ、結構目立ってきてるよ。まだブラしなくてもいいと思うけど、男子生徒たちは大騒ぎでしょうね。それに今気づいたんだけど、丸くなってきたせいか、だいぶ可愛くなってきてるわね」

「は?」

「あんたはどう思ってるか知らないけど、周りからみたら、間違いなくあんたは女の子なの。一学期まで男だと思ってた相手に、二学期から女として扱えって言われても、難しいわよ。あたしだって、あんたと一緒に着替えなんかしたくないわ。でもあんたも、男子生徒と一緒に着替えなんかしたくないでしょ?」

確かにそうだ。自分のことばっかりで、周りのことを考えてなかった。制服は男子の制服のままでいいとしても、体育の着替えは確かに重要な問題だ。

その日の夜に、両親に相談することにした。

 「別に、女の子として通ったらいいんじゃないのか?」 亮介は無邪気にそういったが、月子は反対した。

「何言ってるの! 陽介がかわいそうじゃないの。いじめにも遭うかもしれないし、それに女の子なのよ」

月子は、違う心配をしているらしい。

1学期まで男の子として通っていた生徒が、2学期から女の子として登校するとなると、何かと目立つ。そういう女生徒に、よからぬことをする生徒がいないかを月子は心配しているのだ。

「母さんの言うとおりだと思う。正直、元の学校に行くのは、キツいな」

女子生徒から仲間はずれにされて、廊下で着替えることにでもなったら、冗談ではない。

「じゃ、どうするんだ?受験だってあるんだぞ」亮介が尋ねる。

ここで初めて、陽介は両親にあることを打ち明けた。 「オレ、涼風高校を受けたいと思うんだ」

 

 涼風高校は、このあたりではまあまあ有名な進学校である。

ここ笠長県は、特別有力な高校はない。涼風高等学校も、普通の公立中学校で、学年で1番を取っていればたいていの中学校なら入学できる、そういうレベルの学校だ。陽介は中学入学以来トップクラスの成績を維持してきた。もちろん、十分合格圏内だ。

 長年男子校だった涼風高等学校が共学化する、という話が聞こえてきたのは、昨年のことである。

当然、陽介には関係ないと思っていたが、幼馴染の桐谷沙耶にとってはビッグニュースだったようだ。

全国的に見れば、東京の桜胤など、進学実績も男子校に負けない女子校はある。しかし、笠長県には、そこまで有力な女子校はない。

また、陽介たちの校区では公立高校のレベルが低いため、沙耶は進学先にかなり悩んでいたようだ。

 陽介自身は、沙耶とは逆に公立高校に進学するつもりでいた。しかし、この手術で状況が変わってしまった。

沙耶のいうとおり、二学期から学校に通えは、いろいろと難しい問題に直面することだろう。

通わない、という選択肢もないわけじゃない。別に今の時代、中学校に通わなくて、高校から通いだす生徒がいないこともない。

しかし、公立に行くなら、内申点が必要だ。ということは、学校に通わないといけない。

 転校する、という方法もあるだろう。状況が状況だから、教育委員会も認めてくれそうな気がする。だが、転校すると内申点がつきにくくなる。

しかし、私立高校は別だ。一発入試で全てが決まる。涼風なら、楽勝で合格圏内のはずだった。それに、地元の公立校と違い、涼風なら校区よりも広い範囲で生徒が集まってくる。涼風なら、知らない人ばかりだし、陽介の学校からはほとんど進学しないだろう。

「いいわよ」 あっさりと、月子は返事した。

「あんた、お金のことを気にして公立に行くっていってたんだろうけど、こんなこともあるかと思って、あんたの学費ぐらいは貯めてるから」

「お前、そんなお金いつの間に貯めてたんだ?」亮介は驚いて、月子のほうを向いた。

「結婚前、一千万ばかし貯めてあったのよね。この家建てるときに五百万ぐらい出したけど、残りはそのまま。いくら低金利でも15年よ? 結構残ってるわよ」

月子はにこやかに笑いながら言った。

「本当は涼風に中学から行かせたかったんだけど、陽介、どうしても行かないって言ったのよね。……でも中学から行かなくてよかった。涼風に通っている間にこんなことになったら、陽介をその辺の女子校にやらないといけないとこだったわ」

男子校で、途中で女の子になったら、確かにそれは大変だろう。

 月子は陽介の元に近づいて、陽介の腕を握り締めた。

陽介の顔を見上げた時には、表情から笑みが消えていた。そして、真剣な表情で言った。

「だから、安心して受けなさい。でも、落ちたら承知しないわよ。そのときはあんたをお針子にするからね」

陽介の目が潤んでいた。

 

 

 学校に行かない。でも塾には通う。  簡単なように思えたが、意外に難しかった。

「受け入れてもらえない、ってどういうことですか?」

電話口で月子が怒鳴っていた。

近隣の塾へ通えば、陽介の学校の生徒が通っている。だから、ちょっと遠くまで電車で通うことにした。そこで、ある大手の塾に、連絡をしたのである。塾なんて簡単に入れるもんだろう、とタカをくくっていたが、甘かった。春の新中学三年生になるときならともかく、今だったら入るのが難しい、というのだ。

「うちは、能力別クラス編成を敷いてるんです。いまから来られても、編成テストを受けてない以上、最下位ランクのクラスにしか入れないんです。でも、涼風高校志望でしょう?そのランクのクラスに入ろうと思うと、それなりの実績がないと」

これ以上は埒が明かない、と思って、彼女は電話を切った。  横で陽介は話を聞いていた。

「大丈夫だよ。勉強なんかどこでだってできる。高校に通わず塾にも行かず、東大に入った人だっているんだ。たいした問題じゃないよ」

強がってはいるが、先達はあらまほしきことなり。それがお金で買えるならなおさらのことである。この状況は、のっけからコンディション・レッドだ。

「あ、回覧板、持って行かなきゃ」

日は十分暮れている。月子はサンダルを履いて外に出た。

隣の家の玄関のチャイムを鳴らすと、沙耶が出てきた。

「はい、回覧板」 沙耶に手渡すと、沙耶は微笑みつつ答えた。

「陽介君、いろいろ大変みたいですね」

「そうなのよ。今困っているのは塾のことなの」

「陽介君、塾変わるんですか?」 沙耶には相当驚きのようだった。

「沙耶ちゃんが言ってくれたんだってね。学校にいくといろいろ面倒そうだから、学校には二学期から通わないことにしたの」

「そうですか……」 なぜか沙耶は寂しそうな顔をした。

「そのかわり塾通いを増やそうと思ってね。でも近くの塾に行っても顔なじみばっかりでしょ? うち学校のの生徒が通っていないような、ちょっと遠くの塾を当たってみたんだけど、入れてもらえないって言われて」

「そうなんですか!? あたしよりよっぽど成績いいのに……」

「そんなことないわよ」 カラカラと笑いながら月子は言う。

「ま、気長に探してみる。見つかっても見つからなくても、家庭教師は探そうと思っていたし」

「そうなんですか」

「あ、長話してごめんね。じゃ、私はうちに戻るから」

「あ、はい」 沙耶は生返事の後、月子が振り返ったときに月子を呼び止めた。

「あの、陽介君に伝えてほしいことがあるんですけど、いいですか?」

「何?」 月子はもう一度沙耶の方を向いた。

「いっしょに着替えたくないって言ったの、ウソだからって」

「え?」

そんなことを沙耶から言われたなんて、陽介からは聞いてなかった。

「ああでも言わないと、陽介君、事の重大さが分からないでしょ? 女の子同士って、男の子同士と違って割り切れないところ、あるじゃないですか。――あたしじゃなくってもそういう子、きっといると思うんです」

「そうね。そこまで心配してくれたのね。ありがとう。うちのバカにはよく言っとくわ」うんうん、と月子は頷いた。

月子が家に戻る足取りは、軽そうに見えた。

 

 夕食のときに、月子は陽介に言った。

「沙耶ちゃんがね、あんたに謝りたいことがあるって」

「何?」

「沙耶ちゃん、あんたと一緒に着替えなんかしたくないっ、って言ったんだって?」

「うん」 茶碗を左手に持ちながらも、陽介は答えた。

「あれ、ウソだから、謝っといてって言われた」

「え?」

「しばらくあまり話もしてなかったみたいだけど、いい友達に戻れるんじゃない?」

「そうだね」

うつむきながらご飯を書き込む陽介の目は、なんだか涙ぐんでいるように見えた。

 

 

 その日の夜、ベッドの中で陽介は思った。

 確かに、女だって医者はたくさんいるし、女性の大臣だって出た。女だって事はどうってことはないはずだ。

でも、男が女になってしまう、というのは大きな事件なのだな、ということを感じざるを得なかった。

実際、学校には通えないし、塾も見つからない。

「でも、なんとかなるだろうよ」

―― 可能性がそこにある限り、陽介には常に、オール・グリーン、なのである。

 

 


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