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 ある朝のこと、落ちつけぬ微睡みの夢から覚めたとき、志藤楓(しどう かえで)は寝床の中で、自分が一匹の馬鹿でかい芋虫に変わっているのを発見した。

…………?
…………………!?
カ、カフカーーーーーーッ!?

仰向けのまま、もぞもぞ、もぞもぞと蠢く俺、何だ、何がどうなっている!?
ごろり、と転がって仰向けから俯せになる、と、額からニョロリとオレンジ色の角が出た。

「……よし、脳波レベル覚醒に移行。」

人の声がした、そちらに頭を向ける。そこに小柄な白衣の女性が居た。
モニターを見つめていた顔をこちらに向けて、彼女が口を開く。

「おはよう楓、まぁそう興奮するな、落ち着いて肉角をしまえ、まぁその匂いは嫌いじゃぁ無いが。」

冷静な声、よく知ってる声だ、それこそ産まれた時から聞き馴染んでた声。
薄暗い部屋の中、モニターの照り返しを受けて、彼女の眼鏡のレンズがキラリと光る。

オフクロっ、てめっ、何しやがったっ!! 何だコレはっ!!

と叫ぼうとするも、顎からギチギチと音が鳴るだけ。

「なんだね、実の母に向かってその威嚇音は。まぁ落ち着け、言いたいことはあるだろうが、まずは私の話を聞きたまえ、今現状を説明する。」

……OK、OK、とりあえず落ち着け俺、まずはコイツの話を聞こうじゃぁないか。オレンジ色の角がしゅるしゅると額に収まる。

「ふむ、落ち着いたようだね。さて現状だが……君は眠りにつく前に何があったか、覚えているかい?」

俺の体表のあちこちに着けられた電極を外しながら、オフクロが言う。
眠る前? えーと、確か俺は……。

待ち合わせ。待つ俺。走ってくる妹。暴走するトラック。驚いて立ち止まってしまう妹。走る俺。飛び出す。衝撃。悲鳴。痛い、熱い、何かが抜け出ていく、赤い、紅い、昏い、寒い、そして黒……いや、これは闇か。

「キミは、死んだのだよ。」
…………へ?
「腎臓、肝臓、脾臓、その他もろもろ内臓破裂、全身骨折、出血多量、即死。君の死体はそりゃぁ酷い状態だった。頭がほぼ無傷だったのは奇跡だろうね。」

……死? 俺が、死んだ? ……そうだ、妹は? (あおい)は無事なのか!?

「葵の方は、かすり傷と捻挫程度で済んだのだがね……君の体にすがりついてわんわん泣いていたらしい。……私が病院に着いたときは、ただ呆然していたが。」

少しホッとした、無事だったんだ、良かった、いや良くは無いが、葵が無事なのは救いだ。

「私もショックだったよ、そりゃそうさ、可愛い息子が死んだんだ、ショックを受けない母親は居ない。知っているか?最大最強の親不孝ってのは、親より先に死ぬことなんだ。私はもう、ショックでね、そりゃもうショックでショックでショックで……。」
オフクロ……。
「ショックの余り、君の死体を研究中の虫の苗床にした。」
おい。
「本来なら、人間を喰い、喰った人間に擬態する虫なのだが、いろいろ手を尽くして、なんとか君の脳を守ることに成功したよ。素晴らしいね、人間の脳が虫の体内で生きているんだ、あぁ、やはり私は天才だ。」

このマッドサイエンティストめ、顎をギチギチ鳴らす。

「つまりは君は生まれ変わったのだよ、虫にね。機械化? サイボーグ? くだらない、やはり生体が一番だ。そうだろう? 無機物に頼って生きるなんてゾッとするよ。あぁ、あぁ、心配することは無いよ、その姿は一時的なものだ、幼虫は蛹になり、そして蛹の殻を破って成虫になる、そうすれば見た目は元通りの君さ。もっとも、中身は虫だがね、けど心配ないよ、虫の擬態ってのは、そりゃ巧妙で芸術的だ、バレる心配なんてまず無い体に戻れると保証しよう、この天才科学者、志藤(あかね)がね!」

ため息をつきたい所だが、息は吐けない、呼吸の方法が人間とは違うからだ。
まぁ、狂ってはいるがこの母親は確かに天才だ、本来なら死んでいたと思えば、虫の体でも生きて戻れるなら御の字だろうか。

というか、そう思わないとやってらんねぇわな、こんな状況。

「何より、葵と約束してしまったからね、必ず君を生き返らせるとね。とはいえ、まだ会わせる訳にはいかないか、その体じゃね。あの子は私の娘の癖に、虫に理解が無い。」
当たり前だ、葵が見たら泣くぞ、こんな馬鹿でかい芋虫。いや、泣くより先に気絶するか?
「とりあえず、あの事故から半年が経っている。」
───そんなに?
「順調に育てば、あと3ヶ月程で蛹に成るだろう、蛹から孵るのは───2、3ヶ月という所か。退屈な時間だろうが、我慢してくれ。死ぬよりはマシだろう? テレビやラジオくらいはこの部屋に持ってこよう。取り敢えず今、君がするべき事は。」
「たくさん食べて早く成長することだ。」

オフクロの後ろには、キャベツが山と積まれていた。



めいぷる! ─ザ・インセクト─

第一章・いもうと

作:K.伊藤





  ─── 第一幕 ───

「なんじゃこりゃあぁぁ!!」

芋虫のままの退屈な日々、やがて蛹になり、眠って目が覚め、生まれ変わって Hello,world 、俺の産声はソレだった。

「Gパンかい? あまり似てないね、優作はもっと渋いよ、Gパンと言えば知ってるかい? 本当はGパンの臨終の言葉は『……かぁちゃん。』だったんだよ、在り来たり過ぎる台詞だからって、カットされたのさ。わかって無いねセンスが無いね、在り来たりだからこそ伝わるモノもあるのにね。男は、生まれたら死ぬまで、母親に感謝しなくちゃ駄目なんだよ、母親ってのはそれくらい偉大な存在さ、君は私にちゃんと感謝しているかい?」
「とことん心底金輪際徹頭徹尾どうでもいいわいそんな逸話! 生き返らせてくれたのは、そりゃ、感謝してるけどな! どういう事だよコレは!? この体はなんなんだよ!?」
「いやぁ、まさか使った虫がメスだったとはね、私にしては実に初歩的なミスだよ、弘芒と猿と河童が揃って木から落ちて河に流れるくらいのミスだ、でもまぁ、勘弁してくれ、科学とは何十回もの失敗を積み重ねて、成功に手が届くものなんだ。生きているだけマシだろう? タランチュラにでも噛まれたと思ってだな。」
「筆の誤りは何処に行ったっ!! 噛まれたら死ぬわっ!! 俺を男に戻せぇぇぇぇ!!!」

そう、生まれ変わって手に入れた体は、女のものだった。

「弘芒って言ったろう、正しくは弘法だね、それが筆の誤りさ。それは難しいね、タランチュラの毒性はそんなに強くない、的確な処置を施せば死にまでは至らない、もっとも体力のない者は別だが。男に作り替えるのはソレより難しいね、今の君は姿こそヒトだけど、身体のほとんどは虫なんだ。もう一度同じ事は出来ないし、外科的手術をするにも、簡単に切ったり削ったり作ったり、という訳にはいかない。あぁ、そんな目で見るのは止めてくれ、萌えるじゃぁないか。わかってるよ、わかってるとも、まずは君の体を徹底的に調べよう、今の君を男の体にする方法も、見つかるかもしれないよ? なにしろ、私は天才だからね。」
「天才ならこんな単純で簡単で安易なミスをするなぁぁぁぁ!!」
「まぁ、落ち着け、そうだ、取り敢えずシャワーでも浴びたどうだ、ローションまみれじゃないか、今の君の姿、エロいぞ。」
「粘液と言えっ! ……も、いい、風呂入ってくる……。」

体中ベトベトで気持ち悪いのも確かなことだし、混乱した頭では難局は打破出来ない。
頭は冷静に、心は穏やかに、魂は熱く、手足は平静で。オヤジが残した言葉だ、よし、シャワーを浴びよう。

「ごゆっくり、とはいえ、珍しいからといって体を弄り回すなよ、火がついたら大変だ。」

ツッコミたくなるのをグッと堪えて、研究室の隣にあるシャワー室に向かった。





ぬるめのお湯をゆっくり浴びながら、体にまとわりついた粘液を洗い流す。

……なんか、えらい触り心地の良い身体になったなぁ……俺。

いや考えるな、考えるな、考えるな、感じろ。いや感じちゃマズいだろ、色々と。無心になるように努める。
素数を数えながらボディーソープで体を洗い、ついでシャンプーで伸び放題の髪を洗う、長髪になんてしたことが無かったので、やたら時間がかかった。
さっぱりした所でシャワールームから出て脱衣所へ、バスタオルで体を拭き、鏡に自分の姿を写してみる。
見慣れない姿、顔、これが俺か?確かに面影は残っているが……。

「…………。」

ウィンクしてみた、なかなか可愛い顔立ちをしている。
ポーズを決めてみる、なかなかセクシーな体型をしている。
胸を揉む、うわ、柔らけぇ……つうか、本気で触り心地良いぞ、これ……。

「…………あん♪」
「って、何をやっているんだ、俺は!?」

軽い自己嫌悪に陥りそうになったので、自分で自分にツッコミを入れておく。
裸のまままで居ると変になりそうだ、用意されていたガウンを取る。白地で背中に「味噌ラメーン」と書かれていた、何処で売っているんだこんなの、これは誤字なのかワザとなのか、とにかく袖を通した。

「うぐ、小さい……。」

オフクロの物なのだろう。俺の身長は四捨五入すれば170cm、オフクロは150前後、そりゃ、キツいに決まってる。
まぁ、他に着る物も無いし仕方ない。そのまま脱衣所から出て研究室に戻ると、野菜のスープが用意されていた。

「ん? あぁ、戻ったか楓。腹が減っているだろうと思ってね、簡単な物だが用意しておいた、まぁ食べたまえ。そうそう、ゆっくり食べるのだぞ、何しろ君の体は目覚めたてだ、生まれて初めての食事ってわけだね。しかし料理なんて久し振りにしたよ、久し振りだから味の保証は出来ないぞ、不味くても文句は言わないでくれ。美味い物は後で葵が作ってくれるだろう、あの子は料理が上手いからな、あぁ、葵か?まだ学校だよ。ん、なんだ、何を見ている、冷めない内に食べたまえ、食べたら検査だ、念のためな、まぁ私は天才だからな、異常は無いとは思うが。」

そう言ったオフクロの指には絆創膏が貼られていた。
とてつもないメス捌きをする癖に包丁は苦手だったっけな、オフクロ。
どんなに忙しくても、遠足や運動会では必ず弁当を作ってくれたっけなぁ。

……性質はわかりにくいけど、性格はわかりやすい人、それが俺のオフクロな訳で。

野菜のスープは、美味くは無かったが心に染みた。



  ─── 第二幕 ───

オフクロの地下研究室から、母屋のリビングへ、あぁ、帰ってきたんだなぁと実感する。
……少なくとも、エキセントリックに過ぎる、あの研究室よりマシというものだ。

「では検査結果だ、……完璧だね、完全だね十全だねパーフェクトだね、素晴らしいね。」
「女の体だっつー事を除けばな……。」
「それを言ってくれるな、悪かったと思っているよ。じゃぁ君の体についてだ。幾つか注意点がある。まず外見だが、これは問題ない、風呂場で触ったと思うが、見られた触られた程度でバレる心配はないな。問題は中だ、心臓が無い、体液は心臓を使わずに体内を循環している、だから心音が無い、脈もな。それと目の複眼化、擬態の膜が上にかかっているから、見られたりする程度は平気だが、瞳孔が動かない。」
「つまり、動かないでジッとしていると、死んでると思われるって事か。」
「そうだね、まぁ、体温は人間と同じ程度にあるようだが。次に耳、鼻、口、機能的には人間のモノと変わらない、だが、人間より嗅覚も聴覚も鋭いはずだ、その秘密は髪の毛にある、それは触角だ、切らない方が良いよ。」

髪の毛を触る、手で梳く、確かに触られている感じがする。

「食事はね…………その、まぁ特殊だ。」
「特殊?」
「言いにくいのだが・・・まぁ、その、君の栄養分はね、オスの体液……いわゆる、アレだ。しかも新鮮な状態じゃないと駄目だ。」
「アレ?………アレって、アレか!? しかも新鮮だと!? ば、馬鹿な! 冗談じゃない! 冗談だろ!?」
「冗談だ、野菜のスープを喰わせただろう。」
「………………。」
「待て、まぁ待て、その振りかぶったオルメカの巨石人頭像を下ろしたまえ。悪かった、謝る、謝るからせめてこのハリセンにしてくれ。」

いい音が響いた。

「で、特殊というのはだな、必要な栄養素が違うって程度の話さ、糖分を多く取れ、とかね。まぁ基本的に人間のモノで問題ない、足りない分はサプリメントで補充できる、後で必要なサプリを教えるから定期的に飲みたまえ。それと、消化器官が人間よりは弱いから、良く噛んで食べた方が良いな。あぁ、それと君は太らないよ、太れないんだ、体内に蓄えておけるエネルギー量に限界がある、一週間も絶食したら死ぬね。注意したまえ。」

それは普通の人間でも死ぬんじゃなかろうか。

「と、ここまでが通常……擬態モードの話だ。君はね、もう人間じゃない、人間を超えた力を持っている。」

オフクロの瞳がレンズの光の奥に隠れる、来た、マッドサイエンティストモードだ。

「虫はね、それは凄い能力を持っている、自分の体長の数倍を跳躍し、自分の数倍の重さの物持ち上げ、空を飛び、水中に地中に適応し、僅かな匂いや音、熱量の違いを瞬時に理解し、様々な環境に適応して生きていく。君もね、同じだ、肉体的には人間なんか目じゃ無い、五感だって半端じゃない、目だけに限っても、メジャーリーグピッチャーの球どころか、プロテテニスプレイヤーのサーブだって止まって見えるだろう。ボクサー? プロレスラー? カラテマスター? 指先一つでダウンさ。かてて加えて第六感、コレはまさに虫の知らせだね、君の勘はかなりの確率で当たるはずだよ、もう一種の超能力だね。」

時計を見る、もう3時か、葵は今日はまっすぐ帰って来るかな。驚くだろうなぁ、お兄ちゃんがお姉ちゃんになっていたら。

「さらに! 変身能力! そうさ変身さ、変身だよ、虫だから変態が正しいが、響きが悪いからね、やはり此処は変身と呼ぼう。とにもかくにも変身さ、少年の夢だね男の浪漫だね、君も大好きだったろう、変身ヒーローが。某ライダー! アメコミヒーローの蜘蛛男! もう変身と言えば昆虫との合体だね。」
「変身かよ!? 変態は嫌だよ!! 男のロマンて、アンタ女だろう!? そりゃ変身ヒーローは好きだったが、自分がなりたいとは思った事……あったかもなぁ……いや、それより、今の某ライダーは改造人間じゃないぞ!? 蜘蛛男のは変身じゃなくて単なる着替えだろ!? 異星人との融合の赤と銀の巨人とか無視かよ!? つうか変身ヒーローはサイボーグや強化スーツの方が普通に多いぞ!?」
「君はね、変身出来るのさ、変身だよ、強殖装甲だよ、武装化現象だよ、覚悟完了だよ。」

聞いちゃいねぇ。

「変身すれば外骨格の甲冑に身を固め、背中の羽根で空を飛ぶ事が出来る。あぁ、今は羽根は出てないよ、擬態状態だからね。とにかく、そうなればさまざまな能力を発揮できるのさ、まぁ一部の能力は変身しなくても出せるけどね、変身したならば能力は通常の比じゃないのさ。鉄砲玉なぞ当たらないし、当たっても痛くも無い、自動車なぞ片手で持ち上げられる、地に海に空に、君より速く強く動ける生命体なぞ存在しないだろう、その他もろもろの特殊能力! 最強だね最高だね素晴らしいね。まさしく天才の所業! あぁ、自分の才能が怖い!」

才能っつか、アンタ自身が怖いわ。

「で?」

ひとしきりマッドサイエンティスったのを見計らって、訪ねる。

「ん?」
「俺は、男に戻れるのか?」
「それはコレから研究するよ、なに大丈夫、私は天才だからね、スタン・ハンセンにでも乗ったつもりで待っていたまえ。」
「そりゃ人名だ! 確かに不沈艦と呼ばれてたけど!!」

と、玄関の扉を開ける音がしたと同時に、懐かしい声が聞こえた。



  ───第三幕───

「ただいま〜。」
「君は某国軍事機密の生体実験ラボで、肉体修復を受けていたことになっている、後は私に話を合わせろ。虫の体なったなんて、葵には知られたく有るまい。あの子は大の虫嫌いだ。」
「あぁ……うん。」

オフクロが小声で囁いているが、聞き流した。
声を聞いた瞬間に、色々な想いが体を渦巻く。葵の声だ、葵、俺の妹。

「おかえり、葵、待ちわびた人が帰ってきてるよ。」
「え?……え、ええっ!? ひょっとしてお兄ちゃん!? 帰ってきてるの!?」

ばたばたと廊下を走る音、開け放たれるリビングのドア、制服に身を包んだ小柄な少女、が。

「おにぃちゃぁぁぁぁぁぁん!!」

俺の胸に、飛び込んで、来た。

「おにいちゃんおにいちゃんおにちゃんっ! おかえりなさいおかえりなさいおかえりなさいっ!!」
「うん……うん、ただいま、ただいま、葵。」

妹が、葵が、俺の胸に顔を埋めて泣く。抱きしめたまま、柔らかな髪の毛を撫でてやる。

「お、おにいちゃんっ、おにいちゃんだっ、逢いたかったっ、逢いたかったよっ、お、おにいちゃ、ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ、わた、私の、せいでっ、し、死んじゃってっ、おにいちゃん、死んじゃってっ、ううんっ、し、死んでなかったんだけどっ、死んでたはずでっ、私のせいでっ、お、おにいちゃんがっ、ず、ずっと、びょ、病院でっ、面会も電話も手紙もダメだってっ、し、心配だった、のにっ、私、さ、寂しくてっ、おにいちゃんが、おにいちゃんがっ、私のせいでっ、ふぇ、ふぇぇぇぇぇん。」
「うん、うん、いいから、もういいから、もう大丈夫だから。」

葵が泣いている、俺のせいで、俺の為に、泣いている。
あぁ、くそ、目頭が熱い……葵の泣き虫め、畜生、俺まで涙が。

「ふぇぇぇぇん、おにいちゃん、おにいちゃぁん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おにいちゃん?」

ふと、葵が顔を上げて俺の顔をまじまじと見る、視線を下げて胸を見る、また顔、そしてまた胸。
……着ていたガウンは、はだけて丸見えの状態だった。

「…………? ………………??」ふにふに、と胸を揉まれた。
「え、あ、ちょっ、葵、これはだな?」
「…………??? …………????」くにくに、と乳首を摘まれた。
「あ、あああああおいっ!? ちょ、や、やめ、ひゃう!! あぅっ!!」
「えぇと……おにいちゃん?」と言って見上げてくる。
「な、何だ?」
「……おねえちゃん?」と言って目の前の胸を見る。
「あ、いや、これは、その、ひぁっ!? ち、乳首ひっぱるなぁ!!」
「…………お兄ちゃんが、お姉ちゃん?」
「いやいやいや、感動の再会だね、麗しい兄妹愛だね、いや、今は姉妹愛かな? さ、状況を説明するよ、葵、とりあえず席に着きたまえ、珈琲をいれたよ。」
「あ、お母さん、ただいま、うん、ありがとう。」

頭に?マークをつけたまま葵が席に着く、俺も着崩れたガウンを直しながら席に着く。
……うぅ、まだジンジンする……女の子の乳首って、本当に敏感なんだな。

「まぁ楓はだな、先に言ったとおり、私のツテで秘密の研究施設に預けられたわけだが、そこで、遺伝子に先天的な異常が見つかってな、このままでは高い確率で、脳腫瘍が出来るだろうと診断された。そこで、折角だから同時に治療しようという事になって、最新のシルエット効果とミラージュ理論に基づくサイレン反応医療でデュープリズムを構築しスナッチャーシステムを加え結果導き出されるガンバードをヴァルケンでセプテントリオンする事でゲイングランドな(中略)スペースをチャンネル5にしたわけだ、で、結果こうなった。要約すると、遺伝子治療の副作用だな。遺伝子異常は先天性のモノだから、女になったのは事故とは関係ないし、女性化は楓本人も同意済みだ。なぁ、楓?」

なんというか、色々と恐ろしい人だと思う、この母親は。
此処で、この状況で、「否。」とは言えないじゃぁないか……。

「うん、まぁそういう事だから、葵。」
「そうだったんだ? ……大変だったんだね、お兄ちゃん……お姉ちゃん?」
「いやそれは」
「お姉ちゃん、かねぇ、社会的には楓は死んだことになっているんだ。元の姿のまま戻れたのならともかく、今の楓では、ね、性転換は今だに世間に理解されていない部分もある。そうだな、両親が事故で死んだ、親戚の子を引き取った事にしようか。ふむ、名前も変えるか……? いや、楓のままの方が良いな、後々の違和感より、最初だけ違和感の方が良い、人間は慣れる生き物だ。いや、しかし、こんな事も有ろうかと、男でも女でも通用する名前を命名しておいて良かったよ、この先見性、やはり私は天才だね。」
「…………葵、お前は何があっても俺が守ってやるからな。」
「う、うん、ありがとう、おに、お姉ちゃん。」
「よし、楓の帰宅祝いだ、今日の夕食は寿司でも取るか、葵、特上3人前だ。」
「うんっ、回らないところの、だよねっ?」
「勿論だよ当然だね当たり前さ、楓の怪奇祝いだぞ? 今日は豪勢に行くとしよう。そうだケーキの出前も取れ、新生楓の誕生祝いだ。あぁ、開けてないワインがあったな、今日はパーッと飲もうか二人とも。」
「わざと字間違ったろっ! ケーキの出前なんかあるかっ!! 俺と葵は未成年だっ!!!」
「わぁ、おに、お姉ちゃんのツッコミだよ、やっぱりウチにはこれがなくっちゃ!」
「お前ら病み上がりはもうちょっと丁重に扱えぇぇぇっ!!」

まったく騒がしい家だ。
………………帰って、来たんだな。

「なぁ、葵。」
「ん? なぁに、おに、お姉ちゃん。」
「ただいま。」
「……うんっ、おかえりなさい。」
「ん、それでだ、葵。」
「うん。」
「いいかげん、靴を脱いでこい。」

葵の足には、靴が片方履かれたままだった。



  ─── 幕間・志藤葵 ───

お寿司とケーキでワインを飲んだ。
今日、お兄ちゃんが帰ってきた、私の自慢のお兄ちゃん、お姉ちゃんになっちゃってたけど。
でも、中身はなんにも変わってなかった。
知力体力時の運、どれも人並みで、ちょっと意地悪でちょっとH。
そのくせ変な所でシャイで。意外と頑固者で。
ツッコミ属性な、何処にでも居そうな、平凡な男の子。
でも、実は誰より優しくて暖かくて、負けず嫌いの頑張り屋さん。
大抵の事なら努力でなんとかしちゃう、尊敬できる兄。
何時だって私を守ってくれた人。
それこそ、命がけで守ってくれた人。
お兄ちゃん……今はお姉ちゃんか、外で言わないように慣れておかないと。
お姉ちゃんが何時戻ってきても良いように、お姉ちゃんの部屋は毎日のように掃除しておいた。
部屋を見て、お姉ちゃんは「ありがとう、葵。」と言って頭を撫でてくれた。
優しい手、優しい笑顔、思い出すと胸が暖かくなる。
こん、こん。
ベットの横の壁を叩く。この壁の向こうがお姉ちゃんのベット。
こん、こん。
ノックが帰ってくる。
私は子供の頃よく怖い夢を見て、泣きながらお兄ちゃんのベットに潜り込んだ。
「大丈夫だからな、怖い夢なんて、お兄ちゃんが吹き飛ばしてやる。」
そう言って、私の頭を撫でて一緒に寝てくれたお兄ちゃん。
子供の頃、ヒーローに憧れていたお兄ちゃん、私にとっては本物のヒーローだった。
私を守って、私を助けてくれる、私だけのヒーロー。
公園でも学校でも夢の中でさえ、お兄ちゃんは私を守って戦ってくれた。
一緒に寝るのが憚られるような年になると、お兄ちゃんは大々的に部屋の模様替えをする。
ベットの位置を、壁を挟んで向かい合わせにして、こう言った。
「怖い夢見たらノックだ、お兄ちゃんは何時でも傍に居るぞ。」
こん、こん。ノックをする
こん、こん。ノックが帰ってくる。
一年間、お兄ちゃんは居なかった、それは私のせい。
私のせいでお兄ちゃんは……嫌だ、思い出したくない、あの光景は。
家にも学校にもお兄ちゃんは居なくて。寝ていても一人で。
お兄ちゃんが居なくなって、夜中に怖い夢を見て飛び起きる事が増えた。
暗い穴の中に閉じ込められる夢、幽霊に追われる夢、体中を這い回る虫の夢。
電気を消して寝るなんて、とてもじゃないけど出来ない毎日。
ノックしても返事はなくて、部屋に行ってもベットはもぬけの殻で。
お兄ちゃんの服を引っ張り出して、お兄ちゃんのベットに潜り込んで。
悪夢を見た日は、そうしないと眠れなかった。
でも、帰ってきた、帰ってきてくれた。
ベットを抜け出す、お酒のせいで大胆になってるのかな、私。
でもいいよね? 一年間我慢したんだもん、いいよね?
私は、今はお姉ちゃんになったお兄ちゃんの部屋に向かった。



  ─── 第四幕 ───

「お姉ちゃん。」
「葵? どうした?」

パタパタとスリッパの音、コンコンと控えめに部屋のドアをノックする音、小さな声。

「入ってもいい?」
「あぁ……どうぞ。」
「おじゃましまーす……。」

薄暗い部屋の中、小さな小さなパジャマ姿のシルエット、葵。

「どうした? 眠れないのか?」
「うん、ね、ちょっとお話しよ?」

12時ちょっと前、俺には眠気は無い、そりゃ当然か、昼前まで寝てたもんな、3ヶ月も。
ともかく、何しろ一年近く家に居なかった俺だ、葵はまだまだ話足りないのかもしれない。
いや、一応俺も家に居たんだけどな、地下に……。
俺の方は話すことは無いのだが、何しろ芋虫だったんだ、比喩でなく。

「ま、少しなら、けど少しだぞ、お前は明日も学校だろ。」

学校か、アイツら元気かな、と友人達の顔を思い浮かべる。離れてみてようやく、学校や友人の有り難みってのがわかった気がする。あの退屈だったが面白かった毎日が懐かしい。

「うん、少しね、すぐ寝るよ。」

ててて、と寄ってきて俺のベットへ「おじゃましまーす♪」「いらっしゃい。」掛け布団を上げて、迎え入れてやる。って待て。

「ちょっ、まっ、おまっ、何考えてっ!」

何フツーに迎え入れようとしてるんだよ俺はっ!!

「えー? だって寒いよ、入れてよ、久し振りに一緒に寝よ?」
「ばっ、おまっ、この年になって兄妹で寝る奴が何処にっ!」
「今は姉妹だよ?」
「そ、そうだけど、いやそういう問題じゃっ!」
「襲う?」
「襲うかっ!」
「なら問題無しだねっ。」

ぐいぐいと潜り込んできてスペースを奪われた。

「えへへ、あったかーい♪」
「お前なぁ……はぁ……いいよ、もう……。」
「迷惑?」
「んなわきゃ無ぇだろ。」

髪の毛をわしゃわしゃと撫でてやると、「きゃー♪」と布団の中に顔半分まで潜り込んだ。全くコイツは、もうすぐ17になるというのに身体も心も成長が遅い。いやまぁ、別に甘えられる事自体は嫌な訳じゃない、何時になるかわからないが、兄に戻れるまで、たまになら良いだろう。

…………俺、戻れるよな、兄に…………。

「そだそだ、お姉ちゃん、実はね、お姉ちゃんが生きてたの、一人にだけ話しちゃってるの。」
「え? ……マジか? 誰に? どうして?」
「かなみちゃん……あのね、実はあの時、私かなみちゃんと一緒に居たの。」
「……あの子も現場に居たのか、気が付かなかった。」

宮ノ森かなみ、葵の親友、大人しくて内気、臆病で健気な、守ってあげたくなるタイプ、元気いっぱいの葵とは対極の魅力を持つ子だ。よく家に遊びに来ていたから、俺ともそれなりに親しい、と思う、少なくとも嫌われてはいまい。

「うん、で、まぁ、あの事故見ちゃってね、かなみちゃんも。それで、ショックで入院しちゃって……元々、体弱かったから……。」

あぁ、生まれつき心臓に欠陥があるんだっけか、動脈の一部が心臓にどうのこうの。

「そんで、気に病んじゃってね、お兄ちゃんが死んだのは自分のせいだって。私が轢かれれば良かっただの、私が一緒だったから、待ち合わせに遅れそうになっただのって。私はお母さんに、お姉ちゃん生きてるの教えて貰ったから立ち直れたけど……。病院のベットの上で、どんどん痩せ細ってくんだよ、もう見てられなくて……。」
「それで、俺が生きてると教えた訳だ。」
「うん、ごめんね。」
「いや、良いさ、そういう理由なら仕方ない。だいたい、あの事故で俺が死に損なったのは、あの子のせいなんかじゃ決して無い。」
「うん、私のせいだし。」
「いや、俺がもっと上手くやってりゃ良かったんだ、自分のせいさ。」
「そんな事ないよ、わらひが……ふにゃ?」

葵の鼻をつまんだ。水掛け論をする気は全く無い。

「この話はこれで終わり、さ、もう寝ろ、寝ないなら出てけ。」
「ん、もう……わかった、もう寝るよぅ。」
「と、そうだ葵、かなみちゃんはそれで元気になったのか?」
「んー?うん、心臓も手術受けたみたいでね、普通にガッコ来てるよー……出席日数危なかったけど、進級もれきたし……ふぁぁ……。」
「寝付き良いなおい……まぁ、元気になったなら一安心だ、おやすみ、葵。」
「んー……おやふみぃ……あ、おねいちゃん・・・」
「んー?」
「『俺』は変だからなおしなよぅ……。ぐぅ……。」

……………………俺に、女言葉を、使えというのか、妹よ……。

生まれ変わった俺の、第一日目の夜は、こうして更けていった。




はじめまして、K.伊藤です。
長編と呼べる長さの物は初めてですが、よろしければ、最後までお付き合い下さい。

此処が面白い、此処が駄目、気が付いた点があれば、指摘して下されば幸いです。


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