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ホーリーメイデンズ
第九夜「黄泉比良坂の戦い」

作:流離太



 ――目を閉じると、決まって蘇るのは、あの光景。

 ところどころひびの入った、コンクリートの階段。ザラメのような砂利の散らばった、アスファルト。そして、それらを紅く染め上げる、夕陽。
 その真下で、幼稚園ぐらいの少年が、赤黒い液体に身を沈めている。それは、冬雪。どうやら、階段から転げ落ち、頭を打ったらしい。
 オレンジの光線が、冬雪の小さな体を包み込んでいる。まるで、そのまま溶かしこもうとするように。
 「冬くん!! ねえ、しっかりしてよ!! 冬くん!!」
 夏月が、その小さな手で冬雪を揺さぶる。声は震え、視界はいくら目をこすっても歪む。
 そんな夏月に、冬雪は優しい微笑を向ける。その目は、焦点が定まっていない。しかし、それは、普段の冬雪から想像もつかないほど、優しく、澄んだ笑みだった。
 「ふふ、夏っちゃんって……なきむしなんだね」
 今にも消え入るような声。それから冬雪は、そっと夏月の髪を撫でつける。
 「ほぅら……なんにも、こわいことなんて、ないからね。ボクはだいじょうぶ。だからさあ……なかないで、夏っちゃん。いい子だから……」

 ――あれは、あたしのせいだった。
 ――お母さんや冬雪のおばさんから「遊ぶなって」言われていた階段の上で遊んだから。
 そう、全部自分のせい。
 階段から落ちそうになったのも、自業自得。
 なのに、そんな夏月を抱きしめて、冬雪が身代わりに。
 その時、頭を強く打ちつけ、冬雪は失明寸前になった。
 今でも眼鏡をかけているのは、その名残。

 ――なんで、あんな顔ができるのだろう。
 ――いつも泣いてばかりいるのに、こんな時に限って、冬雪は泣かない。
 ――あの時は、本当にいなくなってしまうんじゃないかと思った。

 夏月は、このことを忘れないよう、絵に描いた。
 線の一つひとつ、絵の具の一筆一筆を加える度、針で刺されるような衝撃が襲う。
 こうして完成した絵に、夏月は誓う。
 これから、冬雪に降りかかる火の粉を、全て払い落とすと。
 ホーリーメイデンズを続けるのも、アヤカシから冬雪を守るため。

 だけど、冬雪が自分と同じ、巫女だったなんて。
 しかも、元から女である夏月と違って、技を使えないとは。
 マッドガッサー、口裂け女、仮死魔――何度もピンチにあった。
 仮死魔の時、コツはつかんだらしい。
 なのに、いくら自分が技を教えても、うまく形にすることができない。

 ――このままじゃあ、またあんな目に。
 ――今度こそ、消えちゃうかもしれない。
 ――冬雪が。
 ――あたしの冬雪が。
 ――どうすれば。
 ――どうすれば……。


 机に伏し、頭を抱え込む夏月。その様子が、終里の持つ手鏡の中に映し出されている。
 「くすくす、何度見ても滑稽だね。笑っちゃう」
 終里は、裂けんばかりに、口の端を歪める。

 そこは、漆黒の世界。始まりも終わりもない。上下も左右もない。ただ、音もなく、夜より深い闇が、無限に続くのみ。

 そんな中、傍らにいる夏月は、ゴツゴツとした石の十字架に、磔となっている。体が鉛のように重く、動く気力さえ起きない。暑くもないのに、汗が次々と体を滴る。
 夏月の耳元に、終里はそっとささやく。
 「碓氷先輩を必死に守ろうとしたのは、そういうわけだったんだね。でもねえ、お前がやったことは、結果的に終里達に力を与えた。大蛇復活に必要な闇の力も、お前のを吸い取ったら、終わり。残念だったね、キャハハハハハハハ!!」
 嘲笑を含んだ終里の声。明らかに、夏月を見下している。
 こんなやつになめられてたまるもんか。なめられて。
 「ハァ……ハァ……、うるさい……この、カマ!!」
 喉から声を絞り出す。肺が潰れてしまいそうなほど、苦しい。思わず、咳き込みそうになる。
 ギンと目を見開く終里。同年代の人間とは思えないほど鋭い視線が、夏月の体を鎖のように縛り上げる。心臓が、胸を突き破らんばかりに、激しく高鳴る。
 「言うじゃない……このアマ。今まで生かされていたとも知らずにさ」
 終里は、血のように紅い舌を出し、夏月の首筋をなめる。
 「うぐっ!!?」
 冷たく、ぬめりとした感触。瞬間、夏月の全身に悪寒が走る。
 「柔らかく、なめらか……こんな肌に、昔は憧れてたかなあ」
 小さく呟き、終里は夏月から身を離す。
 「アヤカシを認知させるだけなら、メイデンズはいらない。本当の目的は、お前らの闇をもらうこと。強力な霊力を持つお前達は、それだけ強力な闇を抱えるほどの器を持っている。だから……後押しさせてもらったよ。くすくす」
 目を見開く終里。その瞳は、完全に瞳孔が開ききっている。
 「安心して。いつも一緒がいいんでしょ? 全員から、闇を搾り取ってあげるから」

 全員――……冬雪も?

 途端に顔を上げ、夏月は声を限りに叫ぶ。
 「お願い!! 冬雪には、冬雪には手を出さないで!! 闇はあたしだけで十分なんでしょ!?」
 「多いに越したことはないよ」
 「駄目え!! 冬雪は見逃してよ!! お願いだからあ!!! 冬雪は!!  冬雪だけは!!!」
 喉が張り裂けんばかりに夏月はわめき散らす。その表情には、太陽のような明るさは微塵もなく、悲痛な涙で溢れている。それはまるで、切れ目の無い暗黒の空。


 そんな夏月の顔を満足そうに眺めながら、終里は血色の唇を、ペロリと舐める。
 「そうそう。そうやって、闇に堕ちていきなよ。お前たちホーリーメイデンズも、終里やアヤカシと同じ――化け物なんだからさ」
 今の夏月には、そんな終里の呟きは、聞こえる由もなかった。



 白い太陽の光が降り注ぐ、昼時。そんな時間に、三人の少女と一人の少年が、道を連れ立って歩いている。
 「冬雪ちゃん。目の下にクマができてますけど、大丈夫ですか?」
 「夏月さんのことが心配で、眠れなかったんですね。僕の胸でよければ、貸しますよ」
 「あはは……遠慮しとくよ」
 鶯色のワンピースを着た三つ網の少女「渡辺春花」と大きなリュックを背負った長身の少年「桃ノ木三四郎」は心配そうな顔をする。
 それに対して、背中まである長い髪に桃色のリボンで留めた少女「碓氷冬雪」は、ただ渇いた笑い声を上げる。普段は、しっとりと濡れたスミレ色の瞳も、赤く、腫れぼったい。

 ――なにやってるんだよ、決戦前なのに。

 思わず心の中で呟き、小さく溜息を吐く、ショートカットの少女「卜部秋綺」。その服装は、檸檬色の短パンTシャツといった簡素なもの。
 だけど、不思議だ。臆病で、優柔不断で、おどおどとしているはずなのに、冬雪なら大丈夫という確信に似たものが持てる。うまく口では言えないが、そう思えてしまう。
 その一方で、秋綺の心には、不安がある。

 顔を上げ、秋綺は、チラッと冬雪の姿を見る。
 昼時の太陽を受け、まるで雪面のような肌は、きらきらと光を反射している。春花から借りた淡い水色ブラウスと蒼いロングスカートを纏った様子は、白い肌と相まって、まるで雪の妖精。

 出会った時から女みたいだと思ってはいたが、最近、仕草や言葉遣いの一つひとつが、どんどん女らしくなっている。恐らく、本人や周りは気づいていないだろう。だが、同じ立場である自分だからこそわかる。どんどん遠くなっていくのが。もしかして、冬雪はこのまま、完全に女に。

 「どうしたの、秋綺?」
 ふと我に返ると、キョトンとした表情の冬雪が、秋綺の顔を覗き込んでいる。純粋で、この世の穢れというものを知らないかのような表情。
 「な、なんでもねえ……」
 秋綺はプイと顔を背け、その豊かな胸を押さえる。手には、柔らかな感触と、トクントクンという心臓の高鳴りが。
 ――本当に何なんだよ、この気持ち。
 秋綺には、それが、男としてのものなのか、女としてのものなのか、わからない。
 その時、秋綺の耳に、三四郎の声が飛び込む。
 「つきました……旭小学校です」

 夏場のためか、暑い太陽の光によって、旭小学校の鉄筋校舎はゆらいでいる。丁度、給食時だろう。校門の前からも、児童達の賑やかな声が聞こえてくる。

 「もうすぐ、正午です。28、27、26、25……」
 時計を見て、秒読みを始める三四郎。その横で、三人はオーヌサステッキを構える。
 「14、13、12……」
 三人は声を合わせ、言霊を唱える。
 「古(いにしえ)は天地未だ剖れず、陰陽(めを)分れざりし時、渾沌(まろが)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、ほのかにして牙(きざし)を含めり。……時に、天地の中に一物生(ひとつのものな)れり。伏葦牙(かたちあしかひ)の如し。すなわち神となる。国常立尊と号(もう)す」
 瞬間、周囲は三色の光に包まれる。
 「3、2、1、今です!!」
 叫ぶ三四郎。
 と同時に、四人は校門へ、一気に飛び込む。


 三四郎がうっすらと目を開けると、そこは夜の世界だった。空には月明かりだけが灯り、涼風が、秋綺の髪をサラサラと揺らす。辺りには墨をこぼしたような闇だけが、辺りに深い静寂を落としている。

 「な、なんで夜に!?」
 三四郎は狼狽し、辺りをキョロキョロと見回す。さっきまで、日の光という白が支配していた場所を。
 「ここはアヤカシの世界、なにがあってもおかしくねえ」
 秋綺は、きつい目つきを一層鋭くし、辺りに注意深く気を配らせている。冬雪や春花も、落ち着き払った様子。
 これが……ホーリーメイデンズ。
 話だけなら昨日説明してもらったが、とても信じられなかった。しかし、この異常事態に物怖じしない様子は、同年代の女子に見えない。ここで初めて、現実に直面した気がする。
 そのような考えを三四郎が巡らせていた時、冬雪が奥を指差す。
 「ねえ、あれ」
 その方向には、黒々とした魔王の影が。巨大な「それ」は、秋綺達を飲み込まんばかりに、立ちはだかっている。思わず、三四郎は息を飲む。
 「木造校舎……ですね」
 「うん、僕が通ってた校舎」
 「あそこが、恐らくアヤカシの本拠地だな」
 「な、なんか……帰りたくなってきたんですけど」
 引きつった笑いを浮かべ、三四郎は先ほどから泣き喚く心臓を押さえる。額からは、際限なく冷や汗が。
 正直、覚悟はしていたつもりだった。しかし、いざ目の前にすると、体の芯から震えが伝わってくる。

 刹那。

 「ふぇっふぇっふぇっ、逃がしゃせんよ」
 前方から聞こえる、しわがれた声。同時に、微かな月明かりの下、小さな影が浮かび上がる。
 それは、小豆色の着物を着て、首に赤いマフラーを巻きつけた、老婆顔や腕には、細やかなしわが刻まれ、煙のように真っ白な髪はザンバラ。口には薄笑いが浮かび、所々抜け落ちた黄色い歯が見える。
 「当然、八岐大蛇様の所にもいかせん。このアヤカシ十二神将が一人『四次元婆』がな」
 白濁した目で三四郎達を見つめ、四次元婆は、足下まであるマフラーをはずす。
 「おいおい、四次元婆。抜け駆けはやめろよ」
 「俺達にも」「私達にも」
 「やらせてくれるのが筋でしょう?」
 「あー、みんなやる気満々だね。兄チャン」
 木陰から、砂場から、校舎から、わらわらとアヤカシが。
 「我々はアヤカシ十二神将、八岐大蛇親衛隊です。先に逝った六人の敵を、今ここで取らせていただきます」
 自信満々な態度で、シルクハットの怪人「赤マント」は言い放つ。
 それを尻目に、秋綺と春花は冬雪に目配せする。こっくりとうなずく冬雪。次の瞬間、三四郎の手を引き、一気に駆け抜ける。手袋越しに伝わる細い指の感触に、三四郎は一瞬ドキリとする。
 「ぬっ! 行かせるかあ!!」
 四次元婆は、マフラーを冬雪に向かって投げつける。まるで、鎌首をもたげた毒蛇のごとく、迫るマフラー。

 ――危ない!!

 そう思った時には、三四郎は冬雪を地面に押し付け、鞄の中の物を投げつけていた。それは、肌色に塗られた石。そのまま放物線を描き、マフラーと接触する。
 次の瞬間、蒼白い火花が。
 四次元婆は、慌ててマフラーを手繰り寄せる。
 額に浮かんだ汗をぬぐい、三四郎は大きく溜息を吐く。
 「ふー、四次元婆は肌色の物が苦手なんですよ。効いてよかった」
 そう。好きな女の子のために、動くことができた。三四郎にとって、それが何よりも、誇らしい。
 「ちょっと……」
 真下から、迷惑そうな冬雪の声が聞こえる。ヒョイと目を移した瞬間、三四郎は、顔をゆでダコのように赤くする。
 地面に押し付けられた冬雪は、目に涙をにじませながら、三四郎を睨みつけている。蒼い袴はめくれ、サラサラとしたストッキングに包まれた、無駄な肉付きのない太ももが露わに。微かなふくらみのある胸の上には、三四郎の手が。
 「え、いや、違うんです!! これは男の甲斐性、じゃなくて!!」
 手に残る柔らかな感触に、酔いしれそうになりながら、三四郎は必死に言い訳をする。
 次の瞬間、浅葱の袖が舞う。気づいた時には頬に冬雪の張り手が。
 「ぶっ!!」
 熱い痛みが走り、三四郎は思わず頬を押さえる。
 「うわぁぁぁぁぁぁん!! 汚された!! 汚されたよお!!」
 「え、ちょ、汚されたって、助けたのにそれはないですよ!! 冬雪君!! 冬雪くぅん!!」
 両手で顔を押さえ、校舎へと走っていく冬雪。それを慌てて追う、三四郎。秋綺やアヤカシは、それをポカーンと眺めているのみ。


 骸骨ライダーは、ハッと意識を取り戻し、昇降口へと目を向ける。
 「な!? に、逃がすかあ!!」
 すぐさま獣のような唸り声を上げる、バイク。煙を鋭く突き上げ、校舎に突っ込もうとする。
 が、それをいくつもの矢が襲う。
 骸骨ライダーは、大きくバイクを旋回させ、電ノコのような車輪で、それを叩き落す。
 校舎の入り口に目を移すと、そこには春花が。
 「ここから先は、一歩も通しません。私と戦う、覚悟はおありですか?」
 春花は、にっこりと笑う。まるで、百合のようにしなやかな笑み。だが、そこには力強さが。
 つられて、秋綺も口の端を歪める。
 「そうだな。俺たちの役目は、こいつらの足止め。いや、」
 ヒュンッと空を切る純白のステッキ。瞬時にそれは、細身の槍へ。
 「あいつらが戻ってくる前に、全員ブッ潰してやるよ」
 轟音と共に、紫電がほとばしる。闇を切り裂く白き閃光に彩られ、秋綺は言い放つ。その瞳は、どんな敵をも寄せ付けない、自信に満ちている。



 校舎に入って、冬雪は気づく。歩けばギシギシと鳴る床、埃のたまった窓ガラス、ひんやりとしたかび臭い空気。なにもかもが、あの時のもの。
 だが、今は懐かしさに浸っている場合ではない。早く、夏月が捕まっている場所を探さないと。
 それだけを考え、冬雪は、歩みを進める。
 「あのお……さっきのこと、まだ怒っていますか?」
 背後から、おどおどとした三四郎の声が響く。
 「ううん、怒ってないよ。ごめんね、ちょっと動揺しちゃった。桃ノ木君は、僕を助けてくれたのに。でも、無茶しちゃ駄目だよ? 戦いは、僕に任せて」
 「は、はい! ああ、ホッとしました……」
 三四郎は、額を拭い、安堵の色を浮かべる。
 あの時、体全体が熱くなって、わけもわからず走り出していた。恐らく、さっきのような感情だったのだろう。夏月が三四郎に抱いているのは。
 「さっきの桃ノ木君、かっこよかったよ。うん、夏月が好きだっていうのも無理はないよ」
 思わず呟き、冬雪は三四郎を称える。
 その言葉を受けると同時に、三四郎は立ち止まる。

 「夏月さんは……本当に僕のことが、好きだったのでしょうか」
 「え?」
 足を止め、冬雪は三四郎に顔を向ける。
 なにを言っているのだろう? だって、あの時夏月は。
 「僕……知ってるんだ。夏月が、桃ノ木君に告白したこと」
 そう、確かに聞いた。あの言葉を、この数日間、一度も忘れたことはない。
 三四郎は頭をポリポリとかき、うつむき加減に答える。
 「いや、断った時の夏月さん、笑ってたんですよ。『ごめんね』っていいながら。その……辛いのを誤魔化している笑いじゃなくて『振られてよかった』みたいな、ホッとした表情」
 思わず、冬雪は耳を疑う。
 夏月は、春花にだって、三四郎のことを好きだと言っていたはず。第一、嘘の告白をする理由が見当たらない。
 嘘……そういえば、あの時は混乱していたからわからなかったけど、あんな夏月を昔見たような気がする。それも、この校舎に関係があったような。
 その時。
 「おや? なんでしょう、あれ」
 一つの部屋を、三四郎は指差す。そこは、冬雪の記憶が正しければ、確か音楽準備室だったはず。通称「開かずの準備室」。その扉に、なにか紙が貼ってある。
 「絵……ですね」
 三四郎は絵を手に取り、眺める。それは、クレヨンによって描かれた、少年と少女の絵。赤でびっしりと塗られた背景を見ると、まるで血の海に沈んでいるよう。
 「夏月の……絵だ」
 このタッチは何度も見たもの。でも、なんだろう。この絵から伝わってくる、痛々しさのようなものは。いつもの眩しすぎるほどの明るさは、そこから感じられない。とにかく、わざとらしくこんなものがあるということは、夏月はここに。
 「桃ノ木君、どいて!!」
 冬雪は、蒼いオーヌサステッキを構える。ヒラリと紙が舞う。
 「え、冬雪君、なにを?」
 「唸れ『ムラクモ』!」
 冬雪が呟いたと同時に、ステッキはサッと霧散する。瞬間、扉は細切れに。
 扉は雪崩のように崩れ落ち、細かな木片が、床を転々と跳ねる。
 三四郎は、ポカーンと口を開け放つ。
 「か……過激ですね」 
 「大丈夫、怒られやしないよ。ここは、アヤカシが作り上げた擬似空間なんだから」
 あくまでも落ち着き払い、冬雪は扉の向こうへと足を踏み出す。

 扉の向こうには、深い闇だけがある。まるで、入り込んだものを飲み込んでしまうよう。そんな漆黒の世界が、延々と続く。
 一体、どれくらい歩いたのだろう? もう、入り口は見えない。いや、そもそも前に進んでいるのかすらもわからない。とにかく、後戻りはできないのだ。
 冬雪の心の中で、不安が霧のように広がっていく。二度とここからでられないのではないかという考えが。
 「だ、大丈夫ですよ、冬雪君! 僕が、僕が付いていますから!」
 三四郎は、上ずった声で言う。手は心なしか、震えている。
 そんな様子に、冬雪は思わずくすりとする。
 そうだ、普通の人間である三四郎ががんばっている。なのに、自分ががんばらないでどうするのだろう。
 辺りは闇だらけ。だけど、心の中には、光が見えたような気がする。
 その時。

 「くすくすくすくす……」

 突如、押し殺したような声が響く。冬雪と三四郎は、思わず辺りを見回す。
 「どこを見てるの? 前だよ、前」
   ふっと、声の方向に目を移す。ぼうっと、行灯のように浮かび上がる影。そこには、薄闇色の巫女服に身を包んだ終里が。
 「終里ちゃん……」
 三四郎は、ジッと終里を見つめる。
 「ようこそ、黄泉比良坂へ。三四郎先輩まで来てるなんて、こっくりの予想通りだね」
 「ケッケッケ! だろ? こいつら、お前を闇から引きずり出すつもりだぜ」
 終里の横から、人間大の狐が姿を現す。狐は、金色の体毛を優雅に纏い、九本の尻尾を焔のように揺らめかせる。その紅い瞳には、怪しい光が。
 「このアヤカシは『こっくり』。人の心を覗く能力を持つ、十二神将の筆頭。だから、お前たちがなにを考えているのかも、予想済み」
 そっとこっくりの背中を撫で、終里は口の端を歪める。
 「もう知ってるでしょ? 終里が男だったってこと。だけど、勘違いしないでよ? 性同一性障害の終里を救ってくれたアヤカシには、感謝してる。好きでここにいるの」
 「駄目だよそんなの!!」
 冬雪は叫ぶ。
 「アヤカシは、君を利用してるだけだよ!! そうやって、八岐大蛇を復活させたいだけなんだよ!!」
 「うるさい」
 終里は、ギンと鬼灯のような緋色の瞳で冬雪を睨みつける。まるで射るような視線に、冬雪は一瞬たじろぐ。
 「なに知ったような顔してるの? 倒せばいいじゃない、今までアヤカシを倒してきたように、終里を。あの女は、迷わず終里を殺そうとしてきたよ」
 そう言って、その視線を横に移す。その先には、十字架に磔られた紅い巫女――……夏月の姿が。顔色は青ざめ、気を失っている。
 「夏月!!」
 脱兎のように走り、夏月の元へと駆け寄ろうとする冬雪。
 終里は素早く駆け寄り、鎌で斬りかかる。冬雪の華奢な体を喰らおうとする鎌。
 それを、ステッキで受け止める。鉄の塊で殴られたような衝撃がビリビリと全身に走る。
 「くすくす、囚われのお姫様を救いに来たのは、やっぱりお姫様。でもねえ、あんな女、助ける価値ないかもよ?」
 終里は鎌でギリギリと押し切ろうとしてくる。
 正直、一歳年下の少女の力とは思えない。
 「夏月を助ける価値がないって、どういうことだよ!!」
 「あの女……終里の存在に気づいてた。だけど、誰かわからなかった。それを知るために……三四郎先輩を利用した!!」
 ブンッと、勢いよく振られる大鎌。
 そのまま掬い上げられる形で、冬雪は宙に投げ出される。
 だが、何とか体勢を立て直し、袴を片手で押さえながら、無事着地する。
 それを尻目に、三四郎は口を開く。
 「どういうことですか、終里ちゃん!? 僕を利用していたって!!」
 「へっへっへ、それは俺様が説明してやるよ!」
 舌なめずりをしながら、こっくりは口を開く。
 「ホーリーアクアは元男。いつも性転換させられてるホーリーライトと違い、術の習得に時間が掛かった。それで、焦れちまったんだろうな? 黒幕を一気にあぶりだして、ケリをつけることを考えた。その時に目をつけたのが、桃ノ木三四郎、お前だよ」
 「桃ノ木君に?」
 冬雪は、夏月と三四郎を交互に見る。
 「ああそうさ。噂をばら撒いているのは多々いるが、主にこいつ。それだけ、黒幕との接触回数が多い。だから、」
 凶悪な笑みを、こっくりは浮かべる。
 「こいつの恋人となって、噂の流出をごく自然に止めることを考えたのさ。そうすれば、黒幕がホーリーフレアを殺そうとする。そこを、叩こうとしたわけさ。ケケッ、結局は振られやがったけど」

 思わず、オーヌサステッキを落としそうになる。冬雪を襲った衝撃は、それほどのもの。
 不規則に乱れる息を整え、冬雪は前を見据える。
 とても信じられない。それじゃあ夏月は、三四郎のことを。

 「ケケッ、好きでもなんでもなかったんだろうな。ホーリーブロウに嘘吐いたのも、敵を欺くにはまず味方からって考えたからだろ? まあ、勘違いしてくれたおかげで、利用しやすくなったけどな。ヒャハハ!!」
 こっくりの高笑いが、闇の中に響く。
 そんな……。全部、自分のためだったなんて。だけど、それではあまりにも、三四郎や春花に申し訳ない。第一、そこまでして、なぜ自分を。
 そこで、冬雪はハッと思い出す。扉に貼られていた、あの絵を。
 「ケケッ、その顔はようやくわかったようだな。そうさ。昔フレアを助けるために怪我したよな? お前は気にしていなかったようだけど、あいつにとっちゃ重要な問題だったようだ。その罪滅ぼしのためだよ。いやあ、面白かったぜ。お前と三四郎が両思いだと思って悩んでる姿は。まあ、俺様たちがそう仕向けたんだけどな」
 嬉々として語るこっくり。その横で、終里はうつむき加減に呟く。
 「許せない……あの女。何も関係ない先輩を……利用したんだもん」
 終里は二の腕を、肉が千切れんばかりに握り締める。
 「ごめんね、三四郎先輩。終里、どうしてもあの女が許せない。あの女の大事なものを引き裂かないと、気がすまないよ。だから」
 ふっと終里は顔を上げ、冬雪に目を向ける。その瞳には、溢れんばかりの憎悪が。
 「碓氷先輩、闇を吸い取った後、死んでよ。大丈夫、三四郎先輩もすぐに送ってあげるね。二人は、あの世で結ばれるの」
 闇の中で、ギラリと光る大鎌。口元に三日月のような笑みを湛えながら、ゆっくりゆっくりと、二人に近づく。
 やっと、終里が夏月を憎む理由がわかった。確かに、夏月のやったことは許されることじゃない。たとえどんなに正しいことでも、それは同じ。

 だけど、それは。

 「……僕のせいだ。僕、夏月に甘えてた。そんな気持ちだったから、いつまでも術を使うことができなかったんだ。だから、夏月に無理させちゃった」
 オーヌサステッキを構え、冬雪は終里に視線を向ける。
 「ごめん、終里さん、桃ノ木君、春花ちゃん、それに夏月。それでも僕……夏月に帰ってきてほしい。手段は間違っていたけど、夏月は僕のためにがんばってくれた。だから、今度は僕が夏月を助けたい!! 本当にわがままだと思う。許してくれなんて言わない。だけど、全部終わったら、謝らせて」
 再び、手の中で崩れるオーヌサステッキ。それは、不可視の刃「ムラクモ」。
 浅葱の袖を、こっくり目掛けてなびかせる。
 しかし、それは瞬時に、終里の鎌で弾かれる。
 「くすくす、それって大気中の水分を刃にしたやつでしょ? そんなんじゃ、終里を倒せない」
 終里とこっくりは、冬雪の左右に回り込む。
 「桃ノ木君、危ないから離れてて」
 「え!? でも!!」
 戸惑う三四郎の手を、冬雪はギュッと握り締める。
 「安心して。絶対、終里さんは取り戻すから」
 そう言って、笑顔を向ける冬雪。三四郎は一瞬ためらうが、無言でうなずき、その場を離れる。
 終里とこっくりは、同時に飛び掛ってきた。
 「アイシクルライン!!」
 突如、放射線状に氷柱が突き出す。水流が押し寄せるかのごとく、瞬く間に広がる。その鋭さは、亡者を断罪する剣山のよう。
 「くすくす、無駄だよ」
 瞬時に、終里とこっくりは闇に溶ける。
 虹彩を放つ氷の刃は、そのまますり抜ける。

 どこだ?
 「くすくす、柔らかくて、綺麗な髪だね。碓氷先輩、本当に男だったの?」
 背後から、背中まである長い髪を玩ぶ感触と、声がする。
 振り向こうとするや否や、細い首筋に、鎌が振り下ろされる。
 「く!!」
 冬雪は歯を食いしばり、辛くもそれを避ける。
 だが、それを突き破り、槍のようなこっくりの尾が。
 尾はそのまま、冬雪のなだらかな肩を貫く。
 「うっ!!?」
 思わず顔をしかめ、冬雪は肩を押さえる。血が広い袖を滴り、ポタポタと足下に垂れる。


 「冬雪君!!」
 三四郎の叫び声が、辺りに響く。
 「ヒャハハハハハハハ! おいおい、なんだ今の攻撃は? テケテケを切り刻んだ時は、もっとすごかったんじゃねえ?」
 嘲るこっくり。その口には、鋭い牙が立ち並んでいる。
 「くすくす。碓氷先輩、終里を殺さないように手加減したでしょ? そんなんじゃあ……絶対に勝てない」
 終里は余裕の態度をあくまでも崩さない。
 警戒しながら、冬雪はじりじりと間合いをとっている。

 終里は、確信に満ちた笑みを浮かべる。
 終里を攻撃しないように、こっくりだけ倒すのは困難。自分達のコンビネーションは、完璧に近い。片方を攻撃すれば、もう片方が攻撃をする。また、両方を攻撃されても、今のように隙を突ける。
 特に、こっくりは、尻尾によるリーチのある攻撃と、心を読む能力を併せ持つ。相手がどのような攻撃をしても、先手を打つことができる。
 だとしたら、敵の策は決まっている。自分とこっくりを分断すること。

 終里は、全体に目を移す。
 終里とこっくりは、自分をはさんで対峙している状態。そして、少し離れた位置に、三四郎や夏月が。

 ――読めた。

 冬雪の策は、こっくりが考えを読んでいたとしても、そうせざるを得ない行動をとらせること。だとすれば、次に冬雪は夏月を救出しようとするはず。力を大分奪われているとはいえ、自分たちにとって、戦力が増えるのはまずい。
 しかし、単純に攻撃速度を見るなら、終里は、冬雪やこっくりより下。終里が夏月救出を妨げようとしても、それでは追いつけないだろう。だから、こっくりは、嫌でもそれを防がなければならない。たとえ、冬雪の目的が分断だとしても。
 そして、冬雪の心を読むことのできない終里は、ワンテンポ遅れた行動を。その隙を突き、冬雪は自分を凍らせるかして、動けなくさせるだろう。
 だが、そんな策が成功するのは、自分が馬鹿だったらの話。それぐらい、心が読めなくても、お見通し。

 「ムラクモ!!」
   冬雪は、視線をある方向に向け、袖をはためかせる。
 その先には、夏月が張り付けられている十字架が。
 こっくりは、九本の尾を一斉に伸ばしながら、必死に叫ぶ。  「終里!! やつはフレアを助ける気だ!!」
 やった、予想通り。
 終里はほくそ笑みながら、呪符を構える。
 「木火土金水。行け、式神!!」
 ばら撒かれる、無数の紙。
 途端にそれは、凶器を持ったウサギやクマのぬいぐるみとなる。
 冬雪は、髪をフワリと流し、素早く終里に目を向ける。
 「雪鎖!!」
 途端に、白銀の鎖が現れる。
 それは流水のように蛇行し、終里に迫る。
 だが、式神がその前に。
 雪の結晶型の鎖は、そのまま式神を束ねる。
 「くす、お見通しだよ。行け!!」
 蜂の集団を思わせる式神は、そのまま冬雪の方向へ。
 「くっ!!」
 冬雪は急いでムラクモを戻し、式神たちに応戦する。
 だが、数が多い。
 式神は蟻のように群がり、冬雪の蒼い巫女服を、緋色に染めていく。
 「キャハハハハハハ!! 似合ってるよ、その色。あの女とお揃いでよかったね」
 こうも、思い通りになるとは。正直、笑いが止まらない。  「さあこっくり、碓氷先輩を磔に!!」
 闇に響き渡る、終里の勝ち誇った声。もう、勝利は揺ぎ無いもの。

   だが、返ってくるのは、シン……という静寂のみだった。

 「こっくり?」
 こっくりは、微動だにしない。目を血走らせ、歯を食いしばっている。
 「な、なんだこりゃあ……ち、力が……くそっ」
 苦しそうに呻くこっくり。必死に手足を動かそうとしているが、全くその場から離れる様子が見られない。
 一体、なぜ? 冬雪の仕業か? それとも、夏月?
 ハッと、終里は目を移す。
 その先には、画用紙を頭上に広げた、三四郎が。紙には「出口」という文字と、簡素な鳥居が描かれている。
 「冬雪君、こっくりさんの弱点、やっと見つかりました!!」
 高々と画用紙を上げながら、三四郎は大声を張り上げる。
 「ありがとう、桃ノ木君。あとは任せて!!」
 ブンッとなぎ払われる式神たち。まるで、爆発でもしたかのように、辺りに飛び散る。
 「アイシクルライン!!」
 冬雪が言霊を唱えると同時に、透明な結晶が地面から突き上がる。氷柱は、そのまま、こっくりのしなやかな体を貫く。
 「ぐげえ!!!」
 こっくりは、蛙が潰されたような声を上げ。その姿は、まるで百舌鳥の贄。
 「く……そが」
 蝋燭のように氷が溶けた途端、こっくりは目を剥く。その体は、地面にドシャリと倒れ伏す。
 「ハァ……ハァ……やった」
 肩で息をしながら、冬雪は呟く。所々赤い染みが張り付いた巫女服は、まるでボロ布のよう。
 「よかった。こっくりが、桃ノ木君の考えまで読まなくて。そうしたら、多分負けてたかも。本当にありがとう、桃ノ木君」
 「いえ、冬雪君のくれたメモがなければ、弱点を探そうなんて考えなかったと思います」
 メモ?
 終里は、ハッと気づく。
 そうか、冬雪が三四郎に弱点を探すよう、促す。メモは、多分三四郎の手を握った時に、渡したんだろう。三四郎が弱点を探す。都市伝説に詳しい三四郎だ、それぐらい造作もないこと。その間、冬雪は終里たちの注意をそらす。確かに、冬雪の考えを読んでいても、これでは対処できない。
 冷静さを欠いていた、自分たちの負け。
 「なるほど……最初から手のひらの上で踊ってたんだ。完敗だよ、碓氷先輩。でもねえ」
 終里は、三日月のような笑みを、顔一面に浮かべる。
 「そんな傷ついた体で、これ以上戦えるの?」
 遠目からでもわかる。顔色は青白く、足下はふらついている。細く、たおやかな体は、今にも折れてしまいそう。だが、ゴーグルの奥にある大きな瞳だけは、力強さを失っていない。
 「関係……ないよ。僕のやることは決まっている。君を、絶対連れ戻す。そして……みんなで帰るんだ!!」
 いちいち癪に障るやつだ。「みんなで」だって? そんな甘いこと言ってるから、こういう目にあう。そう、戦うなら、自分のように一人で。
 「くすくす、待っててね、今楽にしてあげるから」
 口元をゆがめ、終里は冬雪の頭上に鎌を振りかざす。
 もう、回りくどいことはやめよう。あの女の見ている前で、こいつの息の根を。
 「危ないです、冬雪君!!」
 三四郎が、こちらへ走ってくる。だけど、もう遅い。
 その時だった。
 ふわりと、柔らかな感触が、終里を抱きしめる。艶やかな黒髪が、顔をくすぐる。気づけば、終里は冬雪の腕の中に。

 ――……な?

 終里の頭の中が、一瞬真っ白になる。
 「くっ! は、放せ!! なによ、いきなり!!」
  終里は、その小さな手足を必死でバタつかせ、抵抗する。顔を赤らめながらわめく様子は、まるで駄々っ子のよう。
 そんな終里に、冬雪は小波のように静かな声で、語りかける。
 「もうわかったよ、十分。終里さんが、桃ノ木君のこと、本当に好きなんだって。だから、夏月のことを憎んだんでしょ? 戦いだって、桃ノ木君を人質にとるなんてこともできた。だけど、君はそうしなかった。僕も、大切な人のために戦ったことがあるから、よくわかるよ」
 こいつは、またわかったような口を。
 「言っておくけど、そんなんじゃないから! 正義面してるあの女が、平気で汚いことしてるのに、腹が立ったから。先輩人質にとらなかったのも、ただ思いつかなかっただけ。好きだとかそういう感情はとっくの間に捨てた! お前らのように、負け犬同士傷口を舐めあうのなんて、ヘドが出る!!」
 そうだ、こいつらだって、元は周りと馴染めなかったはず。  冬雪は気が弱かったために。
 夏月はそんな冬雪を傷つけないために。
 春花は周りに気を使いすぎたために。
 秋綺は口が悪かったために。
 それぞれの理由で、他人と軋轢を。そんな連中同士が集まって、慰めあってるだけじゃないか。
 「僕も、最初はそうだった。いつも、夏月に頼りっぱなし。いつの間にか、それが当たり前になってたんだ。でも、今はただ一緒にいたい。夏月だけじゃなくて、春花ちゃんや秋綺と。だから、僕は戦える。みんなの力に頼ってるからじゃない。守りたいからなんだ、大切な人を。ずっと、一緒にいたいから」
 仲間のために戦う? あの女と同じじゃないか。冬雪のために、終里や三四郎、春花を犠牲に。
 なるほど、幼馴染だけあってよく似ている。それだけに、冬雪の行動が、すぐに読める。そう、自分を排除しようとするんだ。仲間っていうのは、それ以外には本当に冷たい。こいつも、きっと同じ。

 「だから、僕……終里さんや桃ノ木君とも友達になりたいな」

 思わず、オーヌサステッキを落としてしまう。
 ――今……なんて?
 「くすくす、嘘でしょ? こんな、元男だった気持ち悪い女と、友達になりたいなんて。そんな言葉に騙されるほど、終里は馬鹿じゃない。そうだ、そうやって終里が油断したところを、倒す気なんでしょ?」
 終里は自嘲気味に笑う。
 「そんなの、僕や秋綺だって同じだよ。だけど、人を好きになるのに、男や女って関係ないと思う。僕、今は女の子だけど、夏月のことが好きだよ。多分、このまま戻れなくなったとしても、夏月のことを好きでいられると思う。なにより、桃ノ木君が危険を冒してまでこんなところに来たのは、誰でもない、君のためだよ?」
 「さっきから……嘘ばっかり。三四郎先輩、終里が男だって知らないから来たんでしょ? 本当のことがわかったら……わかったら……終里、嫌われちゃうよお」
 ジンと、暖かいなにかが這い上がってくる。
 なにを言っているんだろう、自分は? そして、この感覚は? こいつは、敵のはずなのに。
 そうだ、自分は八岐大蛇を呼び出すアヤカシの巫女。冬雪の体を、ズタズタに引き裂く力を持っている。こいつの可愛らしい顔を、しなやかな手足を、自分の顔に当たっている僅かな胸の膨らみを、血塗れに。

 でも、でも、体は痺れたように動かない。いや、動かす気持ちすら起きない。
 「嘘じゃないよ」
 冬雪は、ジッと終里の顔を覗き込んでくる。海のように、深く、澄んだ瞳。まるで、吸い込まれそう。本当に男なのかと、疑いたくなる。
 「終里ちゃん、十分可愛いよ。今の僕なんかより、ずっと。本当、桃ノ木君とお似合いだよ」
 「そ、そんな……」
 思わず、全身がカァッと熱くなる。
 「終里ちゃん」
 背後から声が響くと同時に、優しく、大きな手が終里の頭に置かれる。
 これは。
 「三四郎……先輩」
 「ごめんなさい、終里ちゃん。僕、近すぎたせいで、終里ちゃんが見えなかったのかもしれません。一番大切なのが、誰なのか。恋愛とか、そういうのとは違うかもしれません。でも、終里ちゃんが僕にとって大事なのは、間違いありませんよ」
 終里瞳から、熱いモノが次々と溢れ出す。
 やっと、わかった。それは、長い間忘れかけていたもの。そう、暖かさと涙。まるで、心の中の闇が、洗い流されていくよう。
 終里は、顔を覆いながら、呟く。
 「碓氷先輩、三四郎先輩。本当に、本当にありがとう」
 ここは、光も届かない闇の場所。なのに、心の中は光で溢れている気がする。
 これが……仲間。だとしたら、悪い気がしない。本当に、ずっと、この場所にいたくなる。それだけ、ここは心地いい。
 「僕なんか、なにもしてませんよ。全部冬雪君のおかげです。秋綺さんが言った『冬雪君なら大丈夫』って意味がわかりました。冬雪君、変わりましたよ、いい意味で」
 それは、メイデンズの宿敵として戦ってきた、終里もわかる。逆境の時ほど、強くなる。それが、冬雪の強み。
 「ううん、僕は何もしてないよ。桃ノ木君と終里さんの間に絆があったから、でしょ?」
 冬雪は終里からそっと体を離し、三四郎の手と繋ぎ合わせる。思わず、終里は顔を紅潮させ、うつむく。
 「絶対に放しちゃ駄目だよ? 一度放したら、永遠に繋がらないかもしれないか――……ら」
 突如、冬雪は、その場に倒れる。


 「冬雪君!?」
 「碓氷先輩!!」
 二人は、心配そうに冬雪の顔を覗き込む。
 「えへへ、ちょっと無理しちゃったかも。びっくりさせちゃったかな?」
 照れくさそうに笑い、冬雪は小さく舌を出す。そして、ふらふらと立ち上がる。
 「さあ、夏月をあそこから、降ろしてあげないと。そうしたら、やっと帰れるね。帰ったらさあ、まずはご飯食べない? うん、最低でも丼に十杯くらいは食べたいな」
 「くすくす、それは食べすぎだよ」
 「冬雪君、いい加減にしないと太りますよ」
 「あはは、やっぱり?」
 冬雪は笑いながら、後ろからの声に応える。十字架に張り付けられている夏月も、どうやら無事なよう。
 そう、やっと終わるんだ。長い長い戦いが。早く、強くなった自分の姿を見せたい。そして、思いを伝えるんだ。夏月のことが、好きだって。

――ズンッ

 突如、辺りに鈍い音が響き渡る。と同時に、大きな衝撃が。
 すでに倒れたはずのこっくり。そこから、一本の尾が、自分に向かって伸びている。尾は紅い雫を滴らせている。
 「……え?」
 冬雪は、呆けた表情で、自分の胸を見る。生暖かい感触が冬雪を包んでいく。まるで、曼珠沙華のように、大きな染みが。
 「ケケッ!! 油断大敵とはこのことだ、ざまあみやがれ!! 闇も十分溜まったあ!! 俺様が死んでも、大蛇は蘇る!! 覚悟しやがれ人間ども!! ギャハハハハハハハハハハハ……」
 こっくりは狂ったような笑い声を残し、そのまま、煙のように消える。それと同時に、冬雪の意識は、闇へと沈んでいった。


 今、夏月の耳に、冬雪の声が聞こえたような気がする。
 夏月は、うっすらと目を開ける。そこには、血だまりの中に沈む、冬雪が。長い髪は、まるで海草のように散乱している。
 「冬雪!!?」
 完全に目が覚める。今の夏月には、十字架の拘束を引き千切ることなど、造作もない。
 血の気を失い、ぐったりとした冬雪を抱き上げ、夏月は呼びかける。
 「冬雪!! どうしたの冬雪!! 誰がこんなことしたの? そいつ、あたしが殺してあげるから!!」
 視界が歪んでくる。まるで、あの時と同じ。嫌だ。消えないでよ、冬雪。
 「なつ……き」
 冬雪の唇が、微かに動く。
 「冬雪!! ねえ、大丈夫なの!?」
 力なく笑い、冬雪は再び口を開く。
 「ふふ……やっと話せた。あのね、夏月。僕、夏月のこと、ずっと好きだったんだ。幼馴染って……だけじゃなくて、一人の、女の子としてさ。僕も、今は……女の子だけどさ。ケホッケホッ! コホコホッ!!」
 冬雪は大きく咳き込む。口の端からは、紅い線が引かれている。
 「冬雪!!? ごめん、喋らないで聞いて。あたしも、冬雪に言いたいことが」
 そんな夏月の声を遮り、冬雪は上体を起こす。

 唇と唇が重なり合う。不意の出来事に、夏月は、思わず目を見開く。
 それは、柔らかく、暖かい……女の子の感触。

 その時間は、一瞬で終わる。冬雪は唇を離し、優しく微笑む。
 「ふふ、夏月って……やっぱり泣き虫だね。強がってるけど、いつもそう。終里ちゃんもそうだから……案外、仲良くなれるんじゃないかな」
 やめて。そんな、あの時みたいな顔しないで。
 「ほぅら……なんにも、怖いことなんて、ないからね。僕は大丈夫。だからさあ……泣かないで、夏月。いい子……だから」

 ふっと、まるで糸の切れた操り人形のように、冬雪の手から力が抜ける。

 夏月は、冬雪を激しく揺さぶる。
 「ね、ねえ、ちょっと。冗談でしょ? 冬雪、置いてったりなんかしたら、怒るよ!! ねえ、冬雪……お願いだから、目を開けてよ!! 冬雪!!」
 夏月は、必至に呼びかける。だが、冬雪は、もう二度と、スミレ色の瞳を見せようとはしない。

 「待ってよ、夏っちゃーん!」
 「うわ〜ん、夏月の意地悪〜!」
 「ご、ごめん夏月!」
 「今度はあそこ行こうよ、夏月!」
 「大丈夫、夏月?」
 「い、いいよ夏月。僕は大丈夫だから。ね?」

 目を閉じれば冬雪の顔が浮かんでくる。途端、まるで堰を切ったかのように、涙が際限なく溢れてくる。それは、かつて冬雪が降らせた雨のように。
 「ひっく……そ、そんなのってないよ……そんなのって。そんなのって、そんなのって……」



 光が届くことのない、深い、深い闇の空間。そこでは、夏月の小さな嗚咽だけが、ただ響くのみだった。

[次回予告]














次回「最終夜」

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