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「エヌ氏」(1)死神そのほか

作:サージェント雪舟

「あのね、昨日、夢の中に天使が出てきて、願いをひとつ叶えてくれるって言ったの」

「それで、どんな願いをしたんだい」

妻は何も言わずに微笑んだ。その数日後、容態が急変した。



エヌ氏は、妻の臨終の時を静かに待っていた。
病院のベッドの上、末期の病状ですでにほとんど意識がない妻の
手を握ってやることしかできない。

この病で入院し、医師から妻の状態を知らされてからというもの、
はじめは当然、回復への希望を持っていたのであるが、徐々に彼女の死期が間近に
迫っていることを感じ、そういった想いは消え失せてしまった。
今、彼が考えていることは、妻と歩んできた人生の回想、ただそれのみである。

毎日暗くなるまで外で野球をしていた少年時代、学生時代は陸上部でそこそこの記録を出した
学校では1,2の選手だった。
そして、普通に大学に進学し、何人かの女性と付き合い、就職。
そして、まるで映画のような偶然によって妻と出会い、激しい恋愛の後、結婚した。
二人の子供をもうけ、幾多の苦楽を共にし、
30年間連れ添った最愛の妻が、こんなにも簡単に死んでしまうものなのだろうか。
明日の幸福を信じ、毎日必死に働いてきた30数年間。
子供は独立し、ようやくやってきた妻との二人だけの時間、
さあこれからが再び自分の人生だ、と気持ちを新たにしていた矢先なのだ。

そんなことを考えていると、自然と涙がこぼれ落ちた。
とめどなく、心の奥底から湧いてくるように。
エヌ氏は妻の手を一層固く握りしめる。

「ああ、神様。妻の命をお助け下さい。
 他の何を犠牲にしてもいい。
 財産も、地位も、全てを失っても構わない。
 妻の命だけは...
 できることなら、私が身代わりになってあげたい...」

握りしめた手と手に額を押しつけ、泣き崩れるエヌ氏。



いつの間にか、眠り込んでしまったのだろうか。
気が付くと、真っ暗な洞窟のような所に立っていた。
遙か向こうに明かりが見える。その方向へ歩いていくと、そこにはスーツ姿の中年男性が
オフィス用の机に座ってこちらを見ていた。

「あのう、ここはどこなんでしょうか」

「難しい質問だな。まあ、君たちの言葉で言うとあの世とでもいうのかな」

「はあ。しかし、亡くなりそうなのは妻であって、私はまだ死にそうな気配はなかったのですが」

「その通りだ。君はまだ死にはしないが、妻があとわずかの命となっている」

「やはりそうなんですか..ところであなたは?死神か何かですか?」

「死神とは言葉が悪いな。僕はこうした現世とあの世の橋渡し役のような仕事をしている者だ。
 当たらずとも遠からじだがね」

「なるほど。こんな世界が現実に存在するのですね。ところで、私がここにいる理由は何でしょう?」

「うん。実はね、君は先ほど、妻の命が助かるなら何を失っても構わない、と言ったね。
 そして、できることなら自分が身代わりになってやりたい、と」

「ええ、たしかにそう言いました」

「そこでだ、君のその願いを叶えてあげようと思ってね。押しつけがましいかも知れないが、
 これは特別な配慮だよ。感謝してもらいたいね」

「えっ、本当ですか?あ、あ、ありがとうございます!」

「では、この方向で進めていいのだね。」

「もちろんです。ありがとうございます」

「うん。了解した。それでは、また合おう」

再び目の前が真っ暗になった。



かなりの長い時間眠っていたようだ。
目を開けると、天井が見える。周りを見渡すと、病室のようだ。
妻の病室ではない。それに、医療器具や調度品が、古くはないのだが、なにやら懐かしい型のものだ。
どこかで見たことのある光景だ。でもどこで..
すると、病室のドアが静かに開き、若い男性が入ってきた。
その顔をみて、驚いた。
男性は、若い頃の自分そっくりである。

「あっ。気が付きましたか。よかった。気分はどうですか」

若い自分が嬉しそうに話しかけてくる。
いったいどういうことなのだ。あの死神が、間違えて私をわけのわからない世界に飛ばしてしまった
のではないのか。

「あ、あの...」

「ちょっと待って下さい。今、看護婦さんを呼んできますね」

と言って若い自分は出て行った。
さっぱりわけがわからない。
確かにあれは昔の自分だ。話し方も声も、私に違いない。
だが、それでは、現にここにいる私は...
自分の体を見下ろす。
病院の入院着らしいものを着ている。
それはいいのだが、腕や体つきがやけに細く、小さく見える。
それよりも、胸の辺りが膨らんでいるようだが..
タオルかガーゼのようなものが入っているのか。
手を入れて確認してみるが、まるで自分の体がそこだけ盛り上がっているようにしか思えない。

思い切って胸をはだけけみると、そこには、女性の乳房がついていた。
私はさっと血の気が引くのを感じた。
冗談じゃない。男の私の胸がなぜこんなことになっているのだ。
もしかして、こちらも...
おそるおそる股間を前から触ってみるが、予想通り、
あるはずのものがなく、指先は虚しく通り過ぎていった。

私は誰だ?

恐怖にふるえながらも、病室の隅の鏡を覗く。

そこには、出会った頃の、若い妻がいた。

そうだ、これは私と妻が出会った日だ。
会社からの帰り道、前を歩いていた女性が突然倒れたので
救急車を呼び、病院まで付き添った。
それが妻だった。


いろいろな検査をされ、数日間入院した後、私は退院した。
母と一緒に、妻のアパートへ帰る。途中の町並み、車、すべてあのころのものだ。
懐かしいアパートへ着いた。私たちが出会ったころの思い出の部屋だ。
母が帰り、私はベッドに寝ころんで天井を見上げた。
出会った頃の記憶が鮮明によみがえってくる。
何十年ぶりかに、青年時代の淡く、みずみずしい感情が沸き上がるのを感じる。
なにしろ、今、その日に戻っているのだ。
しかも、自分が妻になっている。
枕から、かすかにいい香りがした。これは若い頃、妻が使っていたリンスか何かだ。
懐かしい、妻への愛情が胸にこみ上げてきた。


その夜、あの死神が現れた。

「どうだい。希望を叶えてあげたよ」

「あの、確かに代われるものなら代わってやりたいとは思いましたが、まさかこんな事になるとは...」

「予想外だったかね」

「もちろんです。それに、時間まで戻ってしまったということは、タイム・パラドックス
とかなんとかで、私の行動によって未来が変わってしまうのではないですか」

「その点はご心配なく。未来というのはもう決まっているのだ。君がどう行動しようと、結局
”元の”未来へ行き着くだけなのだよ」

「そうですか。ところでこの状態はいつまで続くのですか」

「それは僕からは言えないな。なにしろ、僕が叶えたのは君の願いだけではないからね」

「それはどういう事ですか?」

死神は答えずに消えてしまった。
気がつくと、朝になっていた。

確か退院した翌日、妻から私に電話が来たはずだ。お礼に食事でも、という誘いだった。
ということは、今は妻である私から電話しなければならないということか。
バックからメモを取り出す。私の当時のアパートの電話番号だ。
私は彼に電話をして、食事に誘った。電話の向こうでは、彼の声が嬉しそうに弾んでいる。

それから、週に一度は私とデートをするようになった。
私は当時妻が勤めていた会社での、仕事にも復帰した。
不思議なことに、同僚、上司の名前や仕事の内容は自然と思い出すことができる。
こんなことまでは、妻から聞いたことはないのだが。
とにかく、私はまったくあのころの妻として生活するようになり、数ヶ月が過ぎた。


ある夜、私は彼のアパートに泊まることになった。
お酒を飲んだり、いろいろなことを話しているうちに、いつのまにか真夜中になっていた。
自分で言うのも何だが、彼はとても誠実で、朗らかな青年で、話もおもしろい。
女性の立場で見ると、なかなか魅力的な男かもしれない。
レコードが終わり、二人の会話も途切れた。
彼は私にキスをして、強く抱きしめ、そのままゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
ああ、今日は、妻との「初めての夜」だったのか。
若い二人は、激しく愛し合った。
私は妻として、初めて女性の快感を経験した。
彼が心から愛おしく思えた。



夏の夜、いつものようにデートしていた私たちは、夜景の綺麗な公園のベンチに座っていた。
満天の星々が、いまにも降ってきそうな夜空だった。
彼は、黙り込んで遠くを見つめている。
この光景は、見覚えがある。そうだ、このあと...

「君に、言いたいことがあるんだ。」

「何?」

彼はまた黙ってしまった。もじもじしながら俯いている。
私はこのとき、プロポーズの申し込みをしたのだ。しかし、その一言が恥ずかしくてなかなか
言えず、逆に妻の方から言われてしまった。
あのとき妻はこう言ったはずだ。

「もしかして、結婚しよう、とか?」

彼は私の顔を見た。
その目は喜びに輝いている。
そして、その腕で私を抱きしめた。彼の大きな胸に包まれ、私は安堵感を感じていた。


その夜、夢にまたあの死神が現れた。

「ご婚約、おめでとう」

「はあ、婚約と言っても、自分との婚約ですが」

「その奥さんの体にも、もう大分慣れただろう。うまくいくように調整はしてあるんだ」

「調整、ですか」

確かに、いくら30年近く連れ添った妻とはいえ、急にその体になって、ここまで
自然に行動できるのはおかしいとは感じていた。
動作や言葉遣い、家事や仕事、女性の服の着方や化粧など、知り得なかったことまで
まるで体が覚えているように難なくできるようになっていたからだ。
おそらく、性格や感情も、この体の影響を受けているのだろう。
いくら自分とはいえ、男性に愛情を感じたり、抱かれることに全く不快感を
感じなくなっているのだから。

「そういえば、この前、叶えたのは私の願いだけではない、とおっしゃっていましたが、
 あれはいったいどういうことなのですか」

「これから、君にもわかってくると思うよ。だんだんね。これからだよ」

そして目が覚めた。


幸せな新婚生活はしばらく続き、私たちは二人の子供を授かった。
出産を経験したことで、何か本当に心まで女性になってしまったような気がした。
私の今までの男としての人生の記憶はある。そして、死神によってこの妻の体にされて
しまったことも覚えている。しかし、今思い起こすと、男性だった頃のほうが、
むしろ違和感を感じる。
自分は女性なのだ。
夫と、二人の子供を持つ、普通の主婦である。


子供もだんだん大きくなり、結婚生活も10年を迎える頃になると、
女性として、妻として見てみると、彼(かつての自分だが)にも嫌なところ
があることがわかってきた。

子供達を寝かしつけ、晩ご飯の支度をして彼の帰りを待っている。
しかしいつもの時間を過ぎても帰ってくる気配がない。
残業が長引いているのだろうか。
彼に気を遣って、私もお腹が空いているがご飯を食べずに待っている。
待つ身には、時間はとてつもなく長い。
今日は遅くなるとも何とも言っていなかったはずなのだが。
時計の針が12時を指した頃、彼が帰ってきた。酔っているようだ。

「飲んできたの?それなら連絡ぐらいしてよ」

「急に接待が入ったんだ。しょうがないだろう」

と言って私と目を合わさずにさっさと寝室へ入っていく。
私は、悲しくなって、玄関で一人涙した。
かつての自分は、こんな男だったのか。
そして、妻にこんな想いをさせていたのか。

もちろんこんなことは毎日ではない。基本的には平和な日々を送っているのだが
時々、こういう彼の嫌なところが顔を出す。
子供達が独立し、また二人の生活だけの生活が始まろうとするとき
私は少し憂鬱な気分になった。
この人と二人だけで暮らしていくのか、と。

そんなとき、私は体の不調を感じて病院で健康診断を受けた。
すると、専門医の精密検査を受けろと言う。
不安を感じながら検査を受け、その結果、乳ガンが発見された。
医師の説明では、すぐ乳房を切除すれば、生命には影響がないという。
しかし、乳房を切除するということは、自分は女性ではなくなってしまうような気がして、
確かに死ぬのは嫌だが、切除には躊躇していた。

すると、彼は

「切除してしまえよ。命が大事だろう」

と言った。私のことを思っての言葉と思うと、そうしようという気になる。が、

「大体、その歳で乳房なんてもうあってもなくても一緒だろう。」


なんということを言うのだ。
私はこの一言で、一気に彼に幻滅すると同時に、とてつもなく悲しい気持ちになった。
こんなことを言う男だったのか。


私は乳房の切除手術を受けたが、その後、すでに別の部位に転移しているのが発見された。
それから再入院したが、病状は思わしくなく、自分でも
終わりが近いことが感じ取れた。

ある夜、死神が現れた。

「君の体はまもなく死を迎えようとしている」

「やはり、そうですか。私はもう死ぬのですね」

「ああ。そこでだ、君は妻としての半生を生きたわけだから、そのご褒美と言ってはなんだが、
 最期に一つだけ、君の願いを聞いてあげよう。」

「私の願い、ですか」

「何でもいいよ。一つ言ってみたまえ」

私はしばらく考えた結果、こうお願いした。



「...彼に、私の気持ちをわかってもらいたいです。」



「そうか、その願い、叶えてあげよう」

次の日、私はベッドで彼にこう言った。

「あのね、昨日、夢の中に天使が出てきて、願いをひとつ叶えてくれるって言ったの」

「それで、どんな願いをしたんだい」

私は微笑む。

数日後、私の容態は急変し、意識は朦朧としていた。
ベッドの傍らでは、彼が私の手を握って、こう言っている。

「ああ、神様。妻の命をお助け下さい。
 他の何を犠牲にしてもいい。
 財産も、地位も、全てを失っても構わない。
 妻の命だけは...
 できることなら、私が身代わりになってあげたい...」













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