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He is mother!

第二章『お父さん誕生』
作:神姫・緋威羅


 ええっと……。
 目の前には、史子と優未、そして、見知らぬ誰かがいる。いや、知っているような気がするが、敢えて知らないことにする。
 夕はこのまま状況を受け入れれば混乱すると本能的に悟っていたので、まず、昨日の出来事を整理することから始めた。
 確か、逃げ出した優未を見つけて、それで家に帰って……。
 夕は半分眠るようにして昨夜のことを脳裏でリプレイした。




「いや、本当に助かった」
 優未は風呂場でそう声を発した。その声は風呂場で何度か反響する。そんな中、彼女は至福の表情で湯に浸かっている。優未の身長では座って浸かると確実に溺れるので、下に夕が座っている。夕も彼女と同じく、気持ちよさそうに目を細めている。
「冬に全裸で飛び出したら危ないに決まってるでしょ? それくらいのこと分からない?」
「済まぬ。こちらの世界の知識はほとんどないのだ。この“風呂”というのも初めて知ったが……気持ちの良いものだな」
 優未はお湯の中でぶくぶくと息を吐いたり、水を手で掬ってみたりと何やら楽しそうだった。
「そうなんだ〜。てっきり何でも知ってるのかと思ったけど。それより、もう出て行っちゃ駄目だよ?」
「いや……それでは私の“使命”が……」
 と、夕の顔を見てはっとする。そこには眉尻の下がった悲しそうな顔が浮かんでいた。
「あ、いや、こ、ここで出来ないこともないぞ!?」
「そうなの? 良かったぁ」
 笑ったのを見て、優未は胸を撫で下ろした。
 ……くっ、あの顔は反則というものではないか?
 見るだけで胸が軋んだ。情が移りすぎている、と自分でも思うが、今更切り離せるものでもない。諦めたように吐息し、
「……ここから出たら私の“使命”の話をしよう。助けて貰った礼にしては安いがな」
 夕はにっこり笑って、
「本当? 有り難うね。でも、また身体冷えちゃったら堪んないからもう少し入ってよっか。あ、それと……」
「何だ?」
 声が切れた。そこに戸惑いを感じて、優未はとりあえず先を促した。表情を観察してみると、そこには何か照れたような色があった。そのまま待っていると、夕は決心したように口を開いた。
「……えっとね……ぼ、僕のこと、『お母さん』って呼んでくれない……? あ、でも、『お』は付けなくてもいいよっ?」
 優未はポカンとして夕を見る。彼女の目は少し怯えたようにこちらの様子を窺っていた。
 少し、考えてみる。その呼称で呼ぶことに、何か意義はあるのだろうか、と。外での違和感をなくすためだろうか。だが、優未は夕の表情にそれ以外のものを感じていた。
「……ふむ、了解した。これからは『母さん』と呼ぼう。それでいいのだな?」
 結局分からなかったが、理由がこちらにない以上、拒む意味はなかった。
「有り難うね。それじゃ、もうちょっと浸かってよっか」
「うむ」
 優未はその間に色々と質問をした。“店”の使用方や、“警察”の実体など、この世では常識なのだろうが、優未にとってそれは未知の文明である。
「警察はね、僕達を守ってくれる人だよ。悪い人には厳しいけどね。それに、その変な武器って多分拳銃だろうけど、この国では使っちゃいけないっていう決まりがあるから、こっちも銃とか持ってなければ絶対使わないよ」
「そうだったのか……。むぅ、あやつめ、偏った情報を教えよって……」
「あやつ? それって、悪魔の仲間?」
「仲間かどうかは知らんが、同じ悪魔だ。むむぅ……そうなれば他の情報もかなり間違っている可能性が……」
 そんなことを呟きつつ、優未にとって決して悪くない時間が過ぎていった。質問をする片隅で、これからどうするかも考えようとしたのだが、情報が大分食い違っていたことのショックから、そんな余裕はほぼなくなっていた。

 そして、話し続けること約三十分。

「お、お祖母ちゃん! 何か扇ぐ物ない!?」
 優未は逆上せた。
「あうぅ……せ、世界が回っている……」
「ご、御免ね!? 全然平気そうだったから気付かなくて……」
 質問の途中、ふわふわと身体が浮かぶような感覚に襲われ、そのままそれに身を任せていると世界が暗転した。
 に、人間とは、不思議だ……。
 経験したことのないことに、優未はそんな感想を持った。




 おっほん、とわざとらしい咳をしたのは優未だった。現在、彼女は夕のパジャマを着用している。当然サイズはぶかぶかだが、室内なので凍えることはないだろう。念のため、さらに毛布まで被せておいた。その毛布からひょこっと出ている幼い顔はほんのり赤い。原因は逆上せたせいだけではないだろう。
「ま、まあ……色々あった訳だが、これから私の“使命”に関して話そうと思う。そして、他のこともより詳しく話そう」
「よっ、待ってました〜」
 そう答えるのは安比奈。彼女は史子の誘いにより、晩ご飯を夕達と共に食べることとなった。そして、今は丁度晩ご飯が終わったあとのこと。
「まず、何故私が使命を帯びることとなったかを説明しよう。原因は、天使が仕事を怠け始めたことにある」
「や、やっぱり天使もいるんだ……。っていうか怠けてるの?」
「天使は悪魔と違って――いや、悪魔にもおるか…。とりあえず、やたらと自尊心が強い者達ばかりでな……。一度会ったことがあるのだが、全員が好き勝手なことをしていて流石の私も呆れたぞ。今は何を考えているのか、世界中に散らばっているらしい。あれが“天の使い”なのだから世も末だな」
「へ、へぇ〜」
「色々神聖なイメージは壊れたけどこれはめっちゃおもろそうやで! それで、天使の仕事って?」
 夕は複雑そうな顔で驚いているが、安比奈の興奮度合いは一気に上昇していた。
「うむ。天使の仕事とは、端的に言って、人に幸運を与える、という仕事だ。そして、私達悪魔は不幸を与えるという仕事を任されている」
「なんや、人の魂取ったりするんとちゃうん?」
「それは不幸の形の一つだ。幸や不幸は与える天使や悪魔によって種類が変わる。理不尽な与え方をする者もいれば、契約、などという茶番をしてから与えることもある。と、ここまで理解出来たか?」
 安比奈は頭をぶんぶん縦に振る。が、夕は違って何か納得のいかないような顔をしていた。
「どうした?」
「えっとね、ちょっと質問したいんだけど……。前言ったよね? こっちに来る手段がないから僕に無理矢理宿ったって。それならどうやって不幸なんて起こしてるの?」
「ああ、それはこの世界にある一般的にこの世界で神がいるとされるようなところから出来るようだ。天使もそうらしい」
「それって……神社とか?」
「その神社とかいうものは知らんが、人間が拝む場所ならどこでも繋がるそうだ」
 夕は首を傾げ、
「……何で文章が伝聞系?」
「私も詳しくは知らないのだ。何しろ、興味がなかったのでな」
 ふぅん、と夕は納得したようなしていないような顔で言う。ともかく、と前置きして優未は話を進める。
「その幸と不幸は、この世界で丁度半分ずつ起こるように我々が調節している。何故か? そうしなければ心のバランスが崩れるからだ」
「心の、バランス?」
「そうだ。この世界では『人生山あり谷あり』ということわざがあるようだが、その通りで、谷ばかりになってしまっては世界がおかしくなるのだ」
 何か微妙なことわざを知っている悪魔は、得意げに説明する。
「じゃあ、天使が怠けたらバランス崩れるやん」
「まさにそうなのだ。よって、与えられた私に“使命”は、天使の代わりに幸運を起こすことなのだ」
 ほへ〜、と安比奈は驚いたようなリアクションをする。実際は驚いていると言うより、面白がっているのだろう。一方、夕は未だ少し複雑そうな顔をしている。
「悪魔なのに幸運起こすんだ……。あれ? でもそれなら別にこの世界来なくても出来たんじゃないの……? 幸とか不幸を起こす場所があるんでしょ?」
「いや、悪魔が不幸を起こす場所は限られていて、しかも幸運はどうも起こせないようなのだ。仕方なく比較的真面目な私に白羽の矢が立った」
「苦労してるんだね……」
「ああ……」
 空気がしんみしりしてきたのが嫌だったのか、優未は素早く話を進める。
「今、天使達を神が強制召喚しているらしい。少なくとも私はそれが終わるまでひたすら幸運を起こさなければならない。……まあ、情けない話ではあるな。災いをもたらしているのが天使だとは……」
 ……何か、夢が壊れたなぁ。
 あまりにシビアな真実に夕は妙に冷めた気分になっていた。そんなことに空しさを感じる。
「でも、優未一人で幸運起こしまくるって、無理じゃない? 人間って凄く多いのに」
「天使と悪魔が起こす幸と不幸は多くない。人間は勝手に幸と不幸に出会う。だが、その勝手に任せていては世界が崩壊するから、我々が調節しているのだ。それに、天使全員が怠け始めたわけではないからな」
「成程〜。よう分かったで。ありがと、優未ちゃん」
 にこっと笑って礼を言った安比奈は急に優未にずいっと近づいた。その動きに、優未は怯み、後退る。
「そんでな、その分かりやすい説明終わったところで〜……魔術、とか何とか言うの、見せて欲しいねんけど、どや?」
 それが狙いか、と夕は声に出さず突っ込む。というのも、彼女自身、それには少なからず興味があったからだった。
 ところが、優未は少し慌てた様子で更に後退った。
「だ、駄目だ! 私は幸運を起こすこと以外の魔術使用は禁じられている!」
「でも自分やって成長に使ったやん!」
 安比奈の膨れっ面の要求に、それでも優未は首を縦に振らない。
「あ、あれは幸運を起こす為の延長線上のことだから許容範囲内だ!! とにかく、そんな見たいだけで使うことは出来ん!」
「え〜! そんな拡大解釈正当化せんと頼むわ〜!」
「駄目なものは駄目だ!」
 見かねた夕は、優未を少し庇う気持ちで夕は質問する。
「でも、成長に使っちゃったなら、もう魔力ないんじゃない? 『これが限界だ』って言ってたし……」
 だが、その庇い立ても、
「それは、身体的に限界だ、という意味だ。“魔力”という要素だけではこれ以上成長は出来なかった。よって、魔力自体はまだあるぞ」
 悪魔の中では真面目だと言われる性格のせいで無と化した。
「ほなら尚更やで! 頼みたいことあんねん!」
「だ、だから無理だと何度言ったら――……? どうした……?」
 何故か、安比奈の動きが止まっていた。顔を覗き込んで、夕は背筋に何かが走るの感じた。過去、幾度も見てきたその表情。
 ……な、何か変なこと思いついちゃってるっ。
「なあ優未ちゃん? 君、幸運を届けなあかんねんな? な?」
「あ、ああ。一応はそうだ……」
「ほなら手始めにうち幸運にして? それなら大丈夫やろ?」
「た、確かに、それなら問題はないが……」
 優未はまだ納得いかないのか、歯切れが悪い。その間もどんどん安比奈は優未に接近し、比例するように優未は後ずさる。
「うち、君のお母さん助けてんで? それくらいの報酬あっても構わへんのちゃう? な? な? なあなあなあなあなあなあなあなあなあなあな――」
「ああもう分かった!! そこまで言うならしてやろう! だからもう寄るな!!」
「流石夕ちゃんの子供! よっ、悪魔の鏡!!」
 優未は降参したかのように手を上げていた。夕は止めさせようかと思ったのだが、それ以上に安比奈が恐ろしかったのだった。
 ……それに、やっぱり見たいしね……。
 不謹慎かと思いながらも、やはりわくわくする。そういうゲームや作り話でしか出てこないものの存在は少年少女の心を高ぶらせるには十分過ぎた。
「って……あの、赤壁さん? 夕ちゃんって……」
「? 何かおかしかった? 女の子なんやから当然やろ?」
 言われてみればそうなのだが、実際呼ばれると妙な気分になった。そんな夕の内心も知らず、安比奈は嬉しさを顔全体に出して言う。
「さてさて……。うちの願い事、早速言わしてもらうな。あ、夕ちゃんはあっち行ってて」
「え? な、何で? 僕も見たいよ」
「大丈夫やって。使うとこは見せたげるから」
 そう言われては拒む理由もないので、夕は大人しく反対側を向き、少し離れた。
「とりあえずな、――――して、――――て。これくらい簡単やろ?」
「う、うむ。了承した。それならギリギリ魔力も足りるだろう」
 そんな、とても気になる声が聞こえるが、楽しみに取っておこうと思って窓を見る。
 ……あ、星が綺麗だなぁ。
 呑気にそんなことを思っていると、どうやら終わったようで、
「こっち来てええで〜」
 安比奈の呼び声が聞こえた。振り返ると満面の笑みで、本当に嬉しさに満ちあふれていた。まるでサンタのプレゼントを発見した子供のようだ。
 ……そんなに叶えて欲しかったのかな?
 少し期待を膨らましながら、夕は元の位置に戻った。
「それでは、実行に移ろうと思う。準備はいいか、安比奈」
「いつでもええで〜」
 声がいつも以上に弾んでいる。そして、夕もわくわくしていた。
 どんな風に使うのかな?
 と、優未は安比奈に手をかざした。そして目を閉じ、早口で何かを呟き始めた。聞き取ろうとしてみるが、どうもまるで知らない言葉のようで、諦める。数秒後、安比奈が青白く光り始めた。
「す、凄い……」
 続いて、安比奈の足が少し浮かぶ。その後、更に強い光が放たれた。
「!」
 夕は驚いて目を塞ぐ。数秒して、光が止んだのを目蓋越しに感じた。ゆっくり目を開けてみる。そこには安比奈の姿があった。間違いなく、目の前に立っている。立っているのだが……
「…………………………」
 絶句というのはこういうものなのだと、夕は身を挺してしっかりと理解した。
「ふむ、上手くいったようだな」
 満足そうに頷く優未。
「おお〜、ほんまや!」
 そこにいたのは確かに安比奈だったが、同時に安比奈ではなかった。
 まず、目立つ金色の髪の毛が耳にかかる程度しかなかった。そして、背は前より高くなっており、身体は何やら頑丈そうに見える。
「…………………………赤壁、さん? 一体、何を頼んで……」
「男にしてくれって頼んでん。ついでに戸籍も変えてもらったはずやで。な?」
 優未に同意を求める声は、綺麗な青年の声だ。
「うむ、その戸籍とかどうとかはよく分からんが、安比奈の考えと同調させて行ったからそうなっているはずだ」
「ほんま有り難うな〜。そや、今度何かご馳走してあげるわ。美味しい店いっぱい知ってんで〜」
「ご馳走……?」
 そんな言葉も知らないのか、優未は首を傾げて問い返す。
「食べ物食べさてあげることや! ラーメンとか、美味しいで〜?」
「きょ、今日のような物を食べられるのか? 私はあの味噌汁という液体が気に入ったのだが……」
「う〜ん、じゃあそれとセットで出てくるもの食べに行こっか? 定食って言うねんで」
「ほう定食…。約束したぞ、安比奈」
 嬉しそうに約束を交わす二人を見て、夕ははっと現実に戻ってきた。
「な、なな何で男になっちゃったの!? 赤壁さん、美人だったのに!!」
「そうなん? まあそれはええとして、何でなったか言うと……」
 え? と夕が気付いた時には、彼女は安比奈に押し倒されていた。
「え? え? ええ!?」
 安比奈の顔が文字通り目と鼻の先にあった。確かに、安比奈の顔なのだが、顔の丸みなどがなくなり、中性的な、所謂、美少年と言った顔つきになっていた。その顔はにこっと笑って、
「君とこういうことするためや。ほら、脱いだ脱いだ」
「脱いだ脱いだ、じゃないよ!!! まさか……赤壁さんってレズなの……?」
「何でやねん。あ〜、言い方悪かった? うち、君の旦那さんなりたいねん」
「は?」
 全く、完璧に意味が分からなかった。今まで幾度も意味不明な要求などはされてきたが、これほどのものは初めてだった。勿論、夕に対処する術はない。
「それやったら最高に面白そうやからね! 奥様も旦那様も高校生で子持ちっていうのは人類史上前例がないで!?」
「法律で駄目なんだから当たり前でしょ!!!」
「でも、男は十八歳以上ならオッケーやで?」
「赤壁さん僕と同じで十六でしょ!? っていうか面白いからってだけで男になったの!!?」
「そやけど?」
 何の躊躇いもなく答えられて夕は固まるが、すぐ持ち直し、
「へ、変だよっ!! 控えめに言うけど赤壁さん頭おかしいよ!!」
「なんや、うちの知らん間に“控えめ”っていう言葉の意味変わったみたいやな……」
「そんなことより早く退いてってば!!」
 もぞもぞと動いてみるが、完全に体格で負けているので、逃げることが出来ない。そして、試すまでもなく力も安比奈の方が上だろう。
「あれ? うちと結婚するの嫌?」
「い、嫌って言うか、その……面白がってるだけで結婚なんて……それに僕元々男だよ!?」
「うちやって元々女やで。それとも何? 女の子の身体の方が良かった?」
 一瞬、想像してしまった。それはとても子供には見せられないようなもので、自分も子供だということに気付きすぐにかき消した。
「そ、そっちはそっちで何か間違ってるよ!!」
「じゃあこれでええやん」
「あのね! Aが駄目だったらBみたいなのとは違うの!! 選択肢は他にいくらでもあるの!! だから考え直してよ!! それに……どうせ面白がってるだけでしょ? 僕のこと、どうとも思ってない癖に――」
「うち、君のこと好きやけど? あかん?」
「ほらやっぱり――――って…………え……?」
 安比奈の言葉が意識もしていないのに頭の中を回り、思考が止まった。何か、世界がぐるぐる回っているような気さえした。だが、無理に深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
 …い、いや! 赤壁さんのことだから何か、もっと違う意味で言ってるんじゃ…。
 だが、どういう意味であれ、悪い気はしない。まさか、人気者が自分を好きになってくれるとは思わなかった。だが、とりあえず、問うてみる。
「え、えっとね……どういう意味で好き? そ、その……愛してる、とか?」
「そうなるやろね」
 今度はもう深呼吸さえ出来なかった。そして、数秒後、まるで火傷でもしたかのように顔が赤くなった。多分、優未が逆上せた時よりずっと赤くなっているだろうと夕は思う。
 ともかく何かを喋ろうと口を開いて出てきた言葉は、
「で、でも僕情けないし……」
「昨日立派に優未ちゃん捕まえたやん。うちは構わへんからはよ脱いで」
「それは完全に踏むべき順序が間違ってるよ!! 何でいきなり脱ぐの!? あ!! ちょ、止めて! ゆ、優未! 見てないで助けて!!」
「わ、分かった!」
 突然のことに夕以上に硬直していた優未は慌てて駆け寄ろうとする。が、
「ちょい待ち!」
 安比奈の制止の声によってその動きは停止した。
「別にうち危害加えようとしてるんちゃうんよ? むしろ、気持ちよくなることすんねん。それに、このまま見てくれてたらめっちゃ美味しい味噌汁あげるで?」
 その提案に、優未は生唾を呑む。
「ほ、本当か?」
「ほんまやって。嘘吐くような人間に見える?」
 数秒悩んだ後、優未は頷き、離れた。
「……分かった、このまま見ていよう」
「味噌汁で買収するなんて卑怯だよっ!! 優未!? 味噌汁ってそんなに高価なものじゃないよ!! 日本にいるんだったらいつでも飲めるよ!!」
「いや、だが……」
 優未は何やらかなり迷っているようで、目がきょろきょろと動く。
 ……味噌汁と母親を天秤に掛けて迷うなんて……!!
 かなりのショックを受けたが、今はそれを感じている余裕さえなかった。何しろ、貞操の危機である。
 そんな夕の心情を知ってか知らずか、安比奈は更に押す。
「うちがあげるつもりの味噌汁は超豪華で一般庶民は手付けられへんで〜。金箔やら大トロも入ってるし」
「どんな味噌汁!? そ、それより今赤壁さんがしようとしていることセクハラとか軽く飛び越してるよ!? 分かってる!?」
 安比奈は手を止め、目を閉じて何やら考え出した。そして、首を縦に振り、
「そやね。それじゃ、早速脱いでもらうで?」
「ちゃんと考えて結論それ!? ま、待って! こういうのってもっと心の準備とか、色々甘酸っぱいことしてからだと思うんだけど!!」
「そんなことより既成事実やで。夕ちゃん可愛いから他に男作ってまうかもしれへんし……」 
「そ、そんなもの作るわけ――あ!! や、止めてっ! ボタンわざとゆっくり一個ずつ外さないで〜!!」
 夕がほとんど諦めかけていた時、突然安比奈の手が止まった。
「…………?」
 気になって、安比奈の顔を見てみる。それは何かを堪えているような表情に変わっており、次の瞬間、それが爆発した。
「あはは、あははははははははははは!! そこまで可愛い反応してくれるとは思ってなかったで!! あはははははは、ひひひひひひ!」
 夕は悟った。遊ばれていただけだと。まさかこれをやる為だけに男になったとは思いがたいが、安比奈だったらあり得た。
「…………う」
 爆笑が轟く中、夕は一つの感情を覚えた。それは悲しみ半分怒り半分のようなものだった。
「うぅ……」
 それに気付いたのか、安比奈は爆笑を止めた。
 夕は、泣いていた。優未も驚いたのか、固まっている。
「……からかってただけ? さっき、好きって言われて……ちょっと嬉しかったのに……」
 夕は言葉を零す。
「確かに僕、いじめられてるよ? 情けないし、からかい易いかも知れないけど、そんなのって……」
 安比奈がゆっくり近寄ってきた。夕はビクッとして、後退ろうとするが腕を掴まれた。
「嘘ちゃうで?」
 夕は涙がまだ残る顔を上げる。
「まあ、脱げっていうのは冗談やけど、旦那さんにはなろうって思ってんねんで? そんなからかうだけで男なったりせえへんって」
「本当?」
「……そこ疑われたらなんか人間性全てが疑われているような気がするんやけど……」
 半目になる安比奈に、夕は慌てて、
「あ、い、いやほら! 何て言うか……あんなことあった後だから一応の確認みたいな?」
 しばらく半目のままだったが、数秒経ってから笑顔に変わった。その笑顔に、夕は問う。
「じゃあ、本当に僕のこと……?」
 だが、それに安比奈は笑顔を意地悪なものにすり替えて答えた。
「それはどうやろうね?」
「ええ!? な、何それ!? 今の流れ的には肯定してよ!」
「いや〜、そこは何て言うか、ほら。な?」
「な? じゃないよ!! 本当にもう……」
 やっぱりからかわれただけなのかと思っていると、何か足を突くような感覚があった。見れば、ほぼ蚊帳の外だった優未が躊躇いがちにこちらを見上げていた。
「は、話は着いたのか?」
 声には少しおどおどした感じがある。悪魔と言えど、いや、悪魔だからこそ戸惑ったのだろう。だが、普通の人間でも十分戸惑うかな、と夕は思い直す。
「う、うん……いや、着いたっていうか……全然釈然としないけど……」
「まあええやん! それより、優未ちゃん眠そうやな」
 確かに、何やら目が虚ろである。
「ん……少しな。もう寝てもいいだろうか?」
「あ、御免ね。そう言えばもう十時過ぎだし、眠いよね。じゃあ布団敷くから」
 そう言って襖を開けたところで、夕ははっとする。
 う、上手く誤魔化されたぁ!
 慌てて振り向くが、すでにタイミングは流れてしまっていて、場の空気的な問題で追求が出来なくなった。安比奈は眠そうな優未を撫でてやっている。夕はため息を吐きながら、布団を素早く敷いた。そして、優未を連れてくる。
「ほら、ここに入って」
「うむ、有り難う」
 半分寝ぼけたような状態で、優未は布団に入った。すると、余程眠かったのか、数秒で眠ってしまった。
「はは、こういうとこは立派な子供だね」
「そやなぁ。悪魔やけど寝顔は天使やで。さて、それじゃうちらも寝よか」
「うん――ってええ!? あ、赤壁さん、帰らないの!?」
 夕は目を見開いて離れた。また何かされては堪らなかった。安比奈は呆れ顔になって、
「さっき君の旦那さんなる言うたやん。大丈夫、親にはちゃんと連絡しといたから」
「え? な、何て連絡したの……?」
「今まで有り難う御座いました、って」
「そんな結婚式に言うような台詞は早いよ!! ほ、ほら! きっとお父さんとか発狂しかけてると思うから早く訂正入れて!!」
「いややわぁ、もう“お義父さん”やなんて……」
 完全に安比奈のペースに嵌っていると悟った夕は、脱力してへたれ込んだ。
 ……もう話しても無駄かな……。
「おやおや、優未ちゃんは眠ったみたいだね」
 そんな中、史子がゆっくりと入ってきた。手を拭きながら入ってくるところを見ると、食器洗いをしていてくれたのだろう。
「あ、御免ね、全部させちゃって」
「疲れてるだろうから、構わないよ。それより、赤壁さんは泊まっていくんだね?」
「すんません、お世話なります」
 と、史子は安比奈の顔を覗き込むように見る。
「……赤壁さん、少し雰囲気変わったかい?」
「あ、ちょっと男になったんで」
 史子は一瞬黙ってから、
「それは凄いことだねぇ」
 と笑いながら言った。
「ちょ、ちょっと!! さらっと言ってるけどそこはもっと掘り下げるべきだよ!! 流しちゃ駄目!!」
 夕の必死の突っ込みに、史子は笑って、
「優未ちゃんの話はほとんど聞こえてたからね、驚かないよ。悪魔だなんて、凄いわねぇ」
 なら納得もするが、どこかまだ腑に落ちないままの夕であった。
 ……何でみんなこんなに状況飲み込むの早いの……?
 安比奈は今に始まったことではないのだが、史子は人生経験が長いからなのだろうか。何となく史子の顔を観察してみる。表情は自然で、無理をしているようなところは微塵もない。と、史子が口を開いた。
「まあ、赤壁さんはしっかりしてそうだから大丈夫だと思うけど…お布団は一枚にするかい?」
「なっ……!!」
 やはりこの人も変なのだろうかと頭の片隅で思いつつ驚嘆の声を上げる。
「おお! 分かってますね!!」
「お布団が三枚しかないからねぇ。誰か一緒に寝てもらわないと……」
「あ!! じゃあ僕優未と一緒に寝る!! そ、それなら問題ないでしょ!? いや、ないよ!! そ、それじゃおやすみ!!!」
 論争になっては勝てる気がしなかったので、夕は自分で自分の問いに答えて、優未の隣に潜り込み、目を閉じた。
 ……僕の周囲に普通な人はいないの?
 夕は同情してくれる人間もいないので、自分で自分に同情した。
 ……あ、でもやっぱり……眠、い……。
 数分後、やはり優未探しで疲れが溜まっていたのか、夕はすぐに眠りに落ちた。




 ……うわぁ、思い出しただけで頭痛くなるなんて初体験だぁ。
 ふらふらと史子が作った朝食が並ぶテーブルに座る。一人なら妙に広かった部屋も、四人もいると流石に窮屈を感じる。
「うむ、史子が作る味噌汁はやはり美味いな」
「そうかい? 気に入ってもらえたなら嬉しいよ」
「本当に優未は味噌汁好きなんだね……」
 夕はそんなことを言いながら自分の箸を取り、食べ始める。と、優未が思い出したように話し出した。
「む、先程教えてもらったのだが、こちらでは睡眠を取ったあとはお早う、と言うのが決まりらしいな。母さんにも言っておこう、お早う」
「そんなことも知らないんだね……。ほとんど赤ちゃんと変わらない?」
「失敬な。こうして喋れるだけでもかなり違うだろうに」
 そう言って優未は味噌汁を嬉しそうに飲む。
 ……まあ、こんな口調の赤ちゃんいたら恐いけどね……。
 五歳児でも一緒かな、などと思いながら、優未がいる席とは違う方に目を向ける。やはり、そこには安比奈が、男の姿のまま座っていた。服は何故か自分のパーカーと、ジーパンを着ている。当然サイズは合っておらず、若干動きづらそうだった。
「やっぱ丈短いなぁ……。近い内に服買わな……」
「悪かったねちっちゃくて! ……それで、今更突っ込まないけどさ、名前とかはどうするの? やっぱり変える?」
「『安比奈』じゃまんま女の子やしな。せやから、実は昨日戸籍変えてもらった時に、一緒に名前も弄ってもらってん。君、『祐斗』の『斗』取ったやろ? だからそれ貰って『藍斗(あいと)』って変えたんやけど、どや、格好ええやろ?」
 にっこり笑いながら言われた。正直、そこまで手際が良いとは思っていなかったが、それよりも、夕は何か自分と彼女の名前でやりとりしたことに恥ずかしさを感じた。
「な、何で僕の名前から取るのさ……」
「ええやん、夫婦なんやし。あ、名字も変わるね。今日からうち、樋口藍斗やで〜。優未ちゃん今日から『お父さん』って呼んでな〜。あ、でも、『パパ』もええかも……」
「結局どう呼べばいいのだ?」
「普通に名前で問題ないよ」
「うわぁ、連れへんなぁ……。あ、そうや! なあなあ、これから呼び合う時な、『あなた』って呼んで! うち『おまえ』って呼ぶから!」
「絶っっ対嫌!!!」
 女になっただけでも気が滅入る思いだったというのに、そんな自分を追い詰めるようなことを出来るわけがなかった。
「まあまあ、そんな拗ねんでええやん。それより、今日から学校行くんやろ?」
「うん……。あんまり気乗りしないけどね……」
 女になっているのだから、乗り気なわけがなかった。まず、書類等でそうなったことを分からせることが出来るのはいいとして、クラスメイトの反応が何より恐ろしかった。ただでさえ孤立している方なのに、これ以上近寄りがたい印象を与えてしまうともう一生友達など皆無になってしまうかもしれない。
 ……友達のいない高校生活なんてやだよぅ!
 そう思っても、現実がそれに応えてくれるとは限らない。どちらにせよ、心配し続けることに意味はないのだが、そう簡単に割り切れるものではない。
「今、君の頭の中で不安が渦巻いてるのがよう分かるで〜。まあ、それより目先に問題あるねんけど……」
「え? 何?」
「いや、制服、普通に詰め襟で行く気? 見たところ、セーラー服も何もなさそうやけど……」
「あ――」
 その通りだった。どうやら、流石の親も、そこまで頭が回っていなかったらしく、用意などはしていない。
「…………」
 だが、それで良かったかもしれない、とも思った。いくら自分が少女になったからと言って、いきなりセーラー服を着るのはかなりの抵抗があった。何と言ってもスカートである。ただでさえ寒いのにあんな下着を直に空気に触れさせるような構造をした服など着る気がしなかった。
「さ、最初だから詰め襟着ていっても大丈夫だよね? まあ、後からセーラ服着るのもやだけど……」
「それは分からんけど、ほんまに着る気? うちの見解では絶対に胸苦しいで」
「ははは、そこまで大きくないよ、僕の胸」

 そんなこんなで実験結果。

「む、胸……がっ! 苦し……っっ!」
 藍斗の予想を上回った苦しさを体験することとなった。夕は入学当初、成長するだろうと言われ大きめの詰め襟を買ってもらっていたのだが、それでも十分無理があった。
「こらあかんな。ちょっと寒いやろうけど、詰め襟のボタンは開けとき」
 藍斗にボタンを外してもらい、何とか普通に息をすることが出来た。姿が少し卑猥だが、仕方がないだろう。少し荒くなった息を整えながら、
「僕の胸、そんなに大きいの……?」
「おばさんに下着とか買ってもらったんやろ? それなら測ったことあると思うけど、何カップ?」
「えっと、確かCって……」
「ん〜、普通よりちょっと大きいかなぁ……? 惜しいわ〜、Dカップやったら巨乳女子校生の称号が取れたのに……」
「……良かった、Cカップで……」
 夕は真剣に胸を撫で下ろした。ただでさえおかしなことになっているのに、そんな見せ物のようなレッテルを貼られては、まともな高校生活どころではなくなる。
 と、その様子を眺めていた優未が不可解な顔で訊いてきた。
「何の話をしているのだ? カップがどうたらと聞こえたが……」
「ああ、もうちょっとおっぱいが大きかったら良かったのにな〜って話や」
「まるで違う」
「それならまだ望みはあるぞ」
 え? と夕は固まる。
「母さんはまだ若い。よって、成長する可能性はまだある」
「ほんまに!? やったで夕ちゃん!! 巨乳女子校生奥様や〜!!」
「色んな要素ごちゃ混ぜにしないでよっ!!! ああもう! せめて、普通の女子校生がいいよぅ!」
「そんなん、優未ちゃんおる時点でもう入手不可能やで。それはそうと、世間では揉んだら大きくなるっていう説が有力らしいで?」
「い、言いながら胸揉もうとしないでっ!! って……優未? 何してるの?」
 優未は何故か、寝間着の上にマフラーを巻こうと悪戦苦闘していた。知識がないと言ったのは本当のようで、腰に巻いたり、頭に巻いたりと滅茶苦茶である。と、端の方を踏んづけて、尻餅を付いた。一時中断して、眉根を寄せたまま夕の問いに答える。
「どこかに出掛けるのだろう? ならば私も付いていく。ついでに幸運を起こすことも出来そうだ」
「学校に!? だ、ダメ!! それだけは絶対ダメ!!」
 夕は慌ててマフラーを取り上げる。優未はさらに訝しそうな表情になった。
「何故だ? 親子というのは一緒にいるものだろう?」
「そ、そうなんだろうけど、僕の場合は違うの! あのね、普通の高校生に子供はいないの! 分かった!?」
「むぅ……」
 優未は何か言いたそうな顔をしていたが、結局納得してくれたようで、文句は言わなかった。
「お祖母ちゃんが居てくれるから、大人しくしてなよ?」
「む、分かった」
 優未はそう言って畳の上に座った。
「ん〜、優未の服も買っといてあげないとダメだね……」
 ほとんど服に埋もれているような状態の優未を見ながら呟く。
「それだったら私が買ってきてあげるよ。デパートに行けばあるだろうし」
「そう? じゃあお願いするね」
 史子はにっこり笑って頷いた。
 そして、振り向き、視界に入ったものに対して夕は眉を顰めた。
「赤壁さん……? 何してるの?」
 藍斗が優未の横に座って何やら小さな声で話していた。雰囲気的に、かなりよからぬことだと直感する。
「いや、何でもないで〜。ちょっと話してただけ〜」
 いつもの何か抜けたような声で言われる。怪しいので数秒顔を見つめてみるが、特に怪しい挙動はしなかった。ふと、時計を見る。
「あ、そろそろ出ないと――――あ」
「? どうしたん?」
「……赤壁さん、これからどうする気?」
「どうする気って、学校行く気やけど?」
 あのね、と前置きして、
「制服、家なんでしょ? っていうか、僕はいいけど、それでセーラー服着ていくわけにもいかないんじゃ……」
 途端、藍斗のニコニコ顔が青白いものへと変わった。
 おお。珍しく慌てた顔……。
「ま、まずいで! こんなおいしい状況で学校行かれへんなんて!! ……いや……でも、セーラー服着て行くのもこの顔やったら大丈夫かも――」
「無理がありすぎるよ!! ほら! とにかく早く帰らないと!!」
「折角夫婦で初登校の予定やったのに……。むぅ、人生上手いこといかんもんやなぁ。んじゃ、学校で!」
 そんなことをぶつぶつ言いながら、藍斗はアパートを飛び出していった。




「え〜っと……」
 高校のホームルームというものはどこでも多少は五月蠅いもので、この学校も例外ではなかった。今更注意する教師もほとんどいない。だが、今回はその教師の様子がおかしかった。何というか、変な表情のまま落ち着かないような空気を持っている。その変な空気にあてられて、クラスは静まりかえる。
「あのね……何て言ったらいいのかしら……。と、とりあえず、色々あって入院していた樋口君が今日から無事登校出来るようになりました」
 何だそんなことか、とクラスがまた騒がしくなり始めたが、その四十代くらいの女性教師は、まだ変な空気を放ったままだった。
「ちょ、ちょっと黙って! ここからが重要なの! ……その、樋口君なんだけど…………えっと……その、ほら……ああもう! とりあえず入ってきて樋口君!!」
 何か投げやりな言い方で呼ばれた。一度深呼吸して、それから扉を静かに、しかし素早く開けて、中にすっと入る。
 瞬間、教室の空気は完全に不動のものとなった。
 夕はあるはずのない視線による痛みを感じながら、出来るだけ平静を保って教壇まで行く。
「ほら、えっと、ね? ちょっと変わっちゃったみたいだけど、あんまり大差、ないわよね? 名前も『祐斗』とから『夕』に変わっただけだし!」
 もう誰も話そうとする者はいなかった。視線という視線が夕に注がれる。特に、胸付近にそれが集中してると感じるのは錯覚ではないだろう。
 ……か、覚悟してたけど、やっぱりきっついなぁ……。
 今まで日の当たるところへ極力出ないようにして生きてきた夕にとって、注目されるのはあまりいい気分ではなかった。
「あ、それともう一人紹介し直さなきゃならない子がいるの!」
 今がチャンスとでも言わんばかりに早口で話し、「入ってきて!」と声を出す。今度の生徒は何やら意気揚々と入ってきた。
「いやぁ、ほんまに色々あって男なってもうた赤壁安比奈、もとい、藍斗です〜。これからも変わらずよろしゅうたのんますわ〜」
 にこにこ笑いながら言う藍斗は、体操服のジャージを着用していた。
 ……そ、その手があったか……!!
 何か、騙された気分になった夕は少しげんなりする。
「そ、そういうことだから! じゃ、今日も授業頑張ってね!」
 女性教師は逃げるように教室を飛び出していった。
「………………………………」
「……………………えっと」
 夕は教室の前で突っ立ったまま、どうしたものかと考えていた。が、その間に藍斗は笑顔のまま自分の席に座ってしまった。そして、固まっている生徒に構わず朝の挨拶を始める。
「…………」
 とりあえず、夕も自分の席に行って、日課である机に書かれている悪口などを消す作業を行った。
「………………」
 ごしごしという消しゴムを擦る音だけが響き渡る教室というのは、なかなか不気味なものだった。と、流石に硬直が解け始めたのか、ひそひそ話が聞こえ始めた。
「ねぇ、ほ、本当にあれが……?」
「……女になったって、変態じゃん……」
「おい……あれ、赤壁なんだよな……?」
「知らねぇけど……確かに赤壁っぽい雰囲気あるなぁ……」
 何か言われると思っていたものの、実際にされると堪ったものではなかった。まだ堂々と罵られる方がずっとましだった。やはり、早退してしまおうかと思い始めたとき、
「おい……」
 いじめっ子の主犯、遙星が隣まで来てこちらを見ていた。
「あ……」
 そこで思い出す。昨日、彼と出会ってしまっていたことを。
 し、失敗したぁ! 学校来たら会うに決まってるよ!!
 内心は汗だくになりながら、何ともない風を装って見上げる。正直、それを保てていたかは自信がない。だが、遙星は何故か無表情。逆にそれが夕の不安を増大させた。そして、
「……こっち来い」
 唐突に腕を掴まれ、引っ張られた。
「ええ!? ちょ、待って……」
 唖然とするクラスメイトの視線を尻目に、ほとんど引きずられるようにして、夕は連行された。




「お前、昨日、商店街近くで会ったよな?」
 校舎裏。今は授業中ともあって、生徒や教師は一人もいない。
「ええっと……何のこと?」
 一応白を切ってみる。が、遙星は更に目つきを鋭くして睨んできた。
「ふざけんな。昨日、俺に女の子見たかって訊いてきただろうが」
 流石にとぼけるのは無理なようだった。逃げようかと思うが、後ろは壁で、目の前には遙星がいるのでとてもじゃないが逃げ切れるような状態ではなかった。それに、どちらにしろ教室は同じなので、どうしようもなかった。
「それで、言ったよな? 『自分の子供だから』って」
「え? ま、まさか、そんなこと言ってないよ」
「じゃあ質問変えるぞ? 赤壁と一緒にいたときに背負ってたあの子供は何だ? やたらお前と似てたが」
 見られていたことに飛び跳ねそうになるが、何とか堪える。
「い、妹だよ」
 これなら大丈夫だろう、と夕は少し落ち着きを取り戻す。常識的に考えれば、どう考えても妹としか考えられないだろう。子供と連想する方がおかしい。
「本当か? 嘘だったらマジ殺すぞ?」
「ほ、本当だって!」
 顔が近づいてくる。夕はあやふやな笑みを浮かべる。
 ……ば、ばれませんように! 
 ほとんど祈るような気持ちになって、目を瞑る。と、遙星は顔を離した。
「けっ……まあいい。それより、お前、どうやって女なんかになりやがった? 殴られ過ぎてイカレたか? それとも変態か?」
「ええっと……ま、まあそんなとこ……」
 あはは、と笑って誤魔化そうとする。だが、そんなことで場が収まる訳がなかった。
「ちゃんと答えろ!! 殴られてぇのか!?」
 ひ、と夕は身を竦めた。
 ……こ、こうなっちゃったら言うしか……!
「え、えっと……信じてくれる?」
「それは聞いてから決めてやるよ。さっさと言えコラ」
「じゃ、じゃあ言うけど……悪魔がやったんだ」
 予想通りというか何というか、遙星は見事なまでに固まった。それを見つつ、夕は説明を続ける。
「魔術とかいうの使われて、僕、女の子にされちゃったんだけど……信じてくれる?」
 一体何十秒経っただろうか、ようやく返答が返ってきた。
「……信じると思ってんのか?」
 その反応に夕は慌てる。
「ほ、本当だよ! 赤壁さんが男になってたの見たでしょ!? あれだってそのせいなんだから!」
 遙星は黙った。そして回れ右をして夕から離れ、ぶつぶつと呟き始めた。何となく恐ろしい。
 ……そ、そうだ! 今の内に……!
 夕は、音を立てないことだけに全神経を集中させ、蟹のように横移動を開始する。その間、彼女の瞳は絶えず遙星の背中を観察していた。だが、当分振り向くような気配はない。夕にとって無限の時間と冷や汗が大量に流れて、ようやく角のところまで来た。ここからは全力で走るだけだ。勿論教室には帰らない。
 ……このまま家まで……!!
 だが、人生そう上手くはいかないようで、
「あ―――」
 気の緩みのためか、思いっきり足下の小石を蹴ってしまった。その石の転がる音は静かな校舎裏に変に大きく響き渡る。冷や汗の量が二倍まで増えた。
「あっ!! 樋口てめぇ!!!」
「ひぃい!!」
 見つかった夕は全力で走り出した。距離はかなり空いていたので、何とか逃げ切れそうだと夕は思った。だが、
 ……は、走りにくい……!
 胸が揺れて仕方なかった。重心が崩れ、速度があまり出ない。よって彼我の距離はものの数秒でなくなった。
「あっ……!!」
 腕を掴まれた。振り返り、見えるはいつも恐怖を与えてこられた顔。どうしても、足が竦む。
 もう、だめだ……!
 抵抗も諦め、へたり込んだ。振り返ると、遙星がまさに掴み掛かろうとしているところだった。もう手の先が触れる。
 そんな時だった。

「そこまでだ」

 声が響いた。それは強い口調だがやけに高く、幼い声。
「ぐ――――っ!?」
「へ…?」
 その声と同時に遙星は、手や足は何故か立っていた時の状態のまま石像になったかのように倒れた。と、また声がした。
「私の母親に手を出すとは良い度胸だ。その度胸を見込んで、このまま首をねじ曲げてへし折ってやろうか?」
「優未!?」
 自分の娘で悪魔である彼女が、隣に立っていた。掌は遙星に向けられている。そのことに、身体がぞくっとした。
「この世界に来る前に、知り合いから『悪人には容赦するな』と言われている。だが、私は悪魔であって鬼ではない。耐えれば解放してやるが――」
 開いていた五指を、閉じた。
「――耐え損ねれば、それまでだ」
「――っああああああああああああ!!!」
 遙星がもの凄い悲鳴を上げ始めた。その凄惨さたるや、阿鼻叫喚と言っても差し支えないものだった。夕は二、三歩後ずさる。とても、近くで見れる光景ではなかった。こちらの気が狂ってしまいそうだ。
「情けない…。醜くてかなわんぞ。少しは耐えてみせろ愚か者め」
「うがあああああああ――――!!」
 声が聞こえなくなった。どうやら叫び過ぎて声が枯れてしまったらしい。代わりに聞こえるのは、空気の抜けるような呼吸音だけ。その様子を見て、優未が舌打ちした。
「…ふん、どうせ耐え抜いてもまともには動けぬだろうな。それならば―――」
 五指が、更に強く握られた。夕は震えた。彼女のしようとしていることに。
 ……そ、そんなことっ……!!
 そう思ったとき、今までにないくらい大きく口が開いた。
「止めなさい優未っ!!!!」
 優未は表情を一変させ、慌てて五指を開き、手を下げた。と、同時に遙星の悶えが止まった。そして、優未の顔に浮かんだのはこの世の終わりでも見たかのような怯えの表情。
 興奮したときでさえ出さないような大声を発した夕は、ゆっくりと自分の娘に近づく。
「何、しようとしたの?」
「あ――」
 優未は震えながら一歩引き下がる。誰が見ても完全に怯えていた。夕はそんな様子の小さな少女を見下ろしたまま、
「優未、もし、殺そうとしたならもう二度としないって約束して。僕のこと助けてくれようとしたんだろうけど、僕に何があっても、それだけはしないって約束して。お願い」
 噛んで含ませるように言い聞かせる。優未は、ただただ何度も頷いた。
「有り難う。怒鳴って御免ね。それじゃ、江ノ島君に謝らないと」
「っ……!! 何故だ! この男はお前を……!!」
「優未…謝らなきゃ、ダメ」
 その言葉に、優未は黙り込み、小さく頷いた。
 優未はゆっくりと遙星に近づき、何とか身を起こそうとしている彼に掌を向けた。
「ぐ……!」
「安心しろ……。危害は加えない」
 優未の手が幽かに青白く光った。外見に変化はない。が、
「これで数分後には痛みが消えているはずだ……。……済まなかった」
 優未の下げた頭を見たまま、遙星は呆然とした。夕は当たり前か、と思う。こんな目に遭えば誰でもそうなるだろう、と。
 と、冷静になってみると、今更な疑問が次々と浮かんできた。
「そ、そういえば優未、何でここにいるの!? 家に居てって言ったでしょ!?」
「安比奈……いや、藍斗が鞄に入ってついていけばいいと提案してくれたのだ」
 ……だから鞄が妙に重かったんだ……!
 自分の鈍感さに些かショックを受けながら、しゃがんで、優未の肩に手を置く。
「いい? 優未。今後あの人が言うこととか簡単に聞いちゃ駄目だから! ろくな事にならないよ!!」
「わ、分かった……」
 優未は少し不可解そうな表情をするが、頷いた。と、その時、
「母さん?」
 夕は飛び上がった。振り返ると、壁にもたれ掛かっている遙星が、訝しそうにこちらを見ていた。どうやら混乱から解放されたらしい。
「確か、さっきも言ったな? 『母親』って……。どういうことだ、おい」
 ……ど、どうやって乗り切れば……!
 とりあえず、浮かんだことを適当に言ってみる。
「ええっと……子犬みたいに捨てられてたから拾って育てた……とか?」
 浮かんだ文章は何故か疑問文だった。それに優未が答える。
「問うてる時点で信憑性がまるでないな……」
「じゃ、じゃあ知り合いから預かってるとか!」
「もう母さんと呼んでしまっただろう」
「クローンだったりとか!!」
「何でだよ!!! 馬鹿なこと言ってねぇでさっさと本当のこと言えコラ」
 堪えきれずに突っ込んだ遙星は、言外に、諦めろ、という言葉を含ませていた。夕はガクッと頭を垂れる。
「分かったよ……。さっき悪魔って言ったよね? それがこの子なんだ。使命を遂行しなきゃいけないから僕のお腹に宿ったんだって。ってこれも十分胡散臭いね……」
 溜息を吐く。遙星はしばらく間を置いてから口を開いた。
「……ふざけるな、って言いたいけどよ……さっき実際にやられたしな……。今度こそ嘘はねぇな?」
 夕ははっきりと頷いてみせた。遙星は、はっ、と吐息して、
「なんだそりゃ……。滅茶苦茶だぜ」
 彼は夕にではなく空を見上げながら悪態づいた。だが、声には何か諦めたようなものがある。そして、
「どうする? 思いっきり殴ってみるか? ああ?」
 空に視線を向けたまま言った。
「さぞかし恨み溜まってるだろうなぁ? 何の理由もねぇのにボコボコにされてたんだからよ。けど、悪魔が味方なら逆に俺をボコボコに出来んだろ? 気分良いだろうな、オイ」
 干涸らびたような嘲笑が上がった。それに優未は眉を顰める。
「…………」
 だが、何も言わない。ただ遙星を見る。
「何だ、何もしねぇのか? そこまで腑抜けかよ、お前」
 夕は無言で回れ右をし、歩き出した。
「……行こ、優未。家に連絡すればお祖母ちゃんが来てくれるから」
「けっ、やっぱ筋入りのカスだな。そんなんだからいじめられんだよ」
 嘲りが聞こえても、夕は止まらない。ただ無言でゆっくりと歩く。ある程度歩いたとろこで、ふと立ち止まる。
「何してんだ、カス」
 小さく息を吸って、言う。
「……カスでも、それが原因でいじめられてるとしても、やり返しなんてことしたら君、僕を恨むでしょ?」
 一息置いて、
「そういうのが、殴られるとかより一番嫌だから、僕は何もしないよ。まあ、代わりって言うのはおかしいけど……」
 振り返らず、しかしはっきりと、
「今度から、あんまりいじめないでほしいな」
 そう告げて、夕は歩き出した。




「……なんだ? お前は行かねぇのか?」
 遙星の前にはまだ優未がいた。こちらをずっと睨んでいる。
「ふん。感謝しろ、痴れ者が。母さんは知っていたのだろう、復讐など無意味だ、と。だがな――」
 優未の眉尻が更に上がった。それは一見、可愛らしくもあったが、遙星にはそうは見えなかった。ただ、怖気だけが身体を走る。
「――今後、母さんに指一本でも触れてみろ。止められても、何処に隠れようと、必ず探し当て、捻り殺す。お前を殺すことなど、私からすれば何の興味もないことだがな」
「はっ。こんな餓鬼に脅されてもな」
 優未は再度、ふん、と鼻を鳴らし、夕の歩いていった方向へと走っていった。
「…………」
 何となく、立ち上がろうともせず、その場でぼーっとしてみる。小さな悪魔の言った通り、少し前から身体中の軋みを感じなくなった。
「マジで悪魔かよ……」
 舌打ちをしながら不備がないか少し身体を動かしてみる。そんなことをしながら、思う。
 ……バチが当たったな……。
 当然だろう。あの高校生のくせに子持ちのいじめられっ子には、その娘に与えられた痛みと同等か、それ以上のことをしてきたのだから。
 ……ったく、情けねぇ。
 確かに理不尽な暴力を振るった。誰が見ても非があるのは自分で、夕が復讐しなかったのはある意味異常な行動とさえ言えた。勿論、正当化する気など毛頭ない。それを前提として、思う。
 ……後悔は、しねぇぞ……。
 何の趣味もなく、頼れるというほどの知り合いもいない中、思いが向かう先は暴力しかなかった。
 また思う。情けない、と。
 これからは夕に暴力は振るえないだろう。そんなことをすればあの悪魔は本当にこちらを文字通り捻り潰す。だが、脅されなくとも、もうそんなことをする気には到底なれなかった。
 ……曲がりなりにも、半日くらいは惚れてたからな……。
 流石に、一目惚れの相手が夕だとは思ってもみなかった。そして、これほど後悔したこともない。
 ホモのつもりはねぇんだが……。
 身体は女だから大丈夫だ、などと思う。だが、今更相手になどされないだろう。こちらも夕だと分かってからそんな気分にはなれなかった。
 ……そういや、赤壁は男になったんだっけか……。まあ、おかしな奴だとは思ってたが……。
 夕は、あの悪魔がやったのだと言っていた。信用するには十分で、それ以外に可能性も思いつかなかった。
「どういう関係なんだか。……付き合ってたりしてな」
 あながち外れでもなさそうだなどと思いながら歩き出す。
 ……くそっ、マジでくだらねぇ。
 学校からは電子音のチャイムが鳴り響いていた。




「どうした? 最初にいた部屋に戻るのではないのか?」
「優未連れたまま戻れないよ……」
 夕と優未は場所を変え、体育館の裏に来ていた。あんなことをした後だったので、遙星と同じ場所にいるのは気が引けた。
「いい? とりあえずお祖母ちゃんに連絡はしといたから、出来るだけ目立たないようにお祖母ちゃんと会ってすぐに帰って!」
「何やら難しそうだが……善処しよう」
「まあ、来るまでまだ時間があるだろうから、とりあえず一緒にいるね」
「…………」
 と、優未は突然黙った。視線も自分の足下を向いている。何なのかと首を傾げていると、
「さっきの、あの愚か者は母さんに危害を加えていたのだろう? 話し方によると、以前からそうだったようだが……。復讐をしないにせよ、もう少し厳しく当たってもいいのではないか?」
 尤もな意見だった。今までされてきたことを考慮すれば、優しく接する義理などどこにもない。だが、夕はそれを踏まえて言う。
「そうだね。でも、今日の江ノ島君はちょっと違う感じがしたんだ。何か、前みたいに見下したような感じがなかったっていうか……」
 その感想に、優未は吐息する。
「とんだお人好しだな」
 何か口調に呆れのようなものを感じて、少しムッとなる。
「どうせお人好しだよ。あ、それより訊きたいことあったんだった」
 優未が何だ、と言ってから、夕は質問をした。
「えっと……さっき思いっきり魔術っぽいことしてたけど、使っちゃいけないんじゃなかったの? っていうか昨日ギリギリ足りるとか言ってたような……」
「む……。ついカッとなってしまってな。あのことは出来るだけ内密にしてくれ。まあ、この世界で黙秘しても意味はないか。そして、魔力のことだが、あれは一晩寝ればある程度回復する。あれくらいなら大したことはない」
「けど、もうしちゃ駄目だからね」
 念を押すように言うと、優未は少しぎこちない様子で頷いた。
「ふぅん。まあ、確かにゲームでも一回寝れば回復するもんね。だから昨日惜しげなく使って――はっ!!!」
「な、何だ?」
 流石の優未もビクッとする。夕は口を半開きにして固まっていた。数秒すると、その硬直は解け、
「ね、ねぇ! 今人間の性別変えるくらいの魔力ある!?」
「あ、ああ。一応あるにはあるが……」
「僕のこと元に戻して! 男に!」
 何故気付かなかったのだろうか。まあ、大半が藍斗のせいなのだが。女にしたのが彼女ならば、男に戻るすことも当然可能だろう。そんな希望を抱きながら懇願する。
「お願い! 多分、それで幸せになれると思うし!」
 だが、優未は顔を伏せたまま小さく呟いた。
「無理な願いだ」




「ど、どうして……!?」
 夕の顔が悲痛なものに変わっていた。自分も出来れば叶えてやりたい。
 だが……。
「すまない、言っておくべきだった。身体の変換というのはそう簡単な話ではないのだ。男と女とでは細胞の染色体から違う。それを組み替えてまた作り上げるというのは異常なことだ。私が何故五歳までしか成長出来なかったか分かるか? 魔力云々ではなく、肉体がもう危険だと言っているのだ。そして、もう母さんは一度変換してしまっている。これ以上は危険だ。成功はもとより、終わったあと生きている保証さえないのだぞ」
 優未はあくまで冷静に、事実を述べる。隠しても何の意味もないことは本人が一番知っていた。
「それに……男に戻って、本当に幸せになれると思うか? 元の生活に戻って、本当に幸せか?」
「…………」
 夕は顔を伏せた。前髪が影になり表情が見えなくなる。一気に顔から色が抜け落ちていく様は、とても見れたものではなかった。
「……今から言うことは今更な上に、何の意味もない。だが、言おう。……女にしてしまって、すまなかった……」
 優未は心からそう思い、少し頭を下げた。そして、上目遣いで夕を見る。が、
「…………はぁ」
 そんな溜息が聞こえたと思ったら、もう夕は顔を上げていた。
「出来ないなら、しょうがないか……。優未も別に謝らなくていいよ? 世界崩壊するんだったら仕方ないし。それに、勝手に男に戻っちゃったらちょっと赤壁さんが可哀相だもんね」
 笑いながらの軽い声に、優未はポカンとする。
「……無理を、しているのか?」
「……うん、ちょっとはね。でも……いっつも自分後ろ向きだったから、女の子になったからには前向きに変えてみようかなぁって。何か僕、優未のお陰で変わったような気がするよ。気のせいかもしれないけど」
 力の抜けたような笑みを見せ、夕はゆっくりと歩き出した。
 ……これだけ肝が据わっていればいじめなどされない筈だが……。
 性分なのだろう、と思い、同時に、勿体ないとも思う。
「ほら、ここちょっと寒いから日の当たるとこいこ」
「……ああ」
 確かに寒かった。服は夕の寝間着のままなので、隙間から風が入って堪らない。少しでも日の当たるところへ行こうと移動する。と、
「――――」
 声が聞こえた。夕は実際に分かるほど身体をビクッとさせ、慌てて優未を自分の背に隠した。そして、体育館の角からそーっと顔を出す。
「あ……」
「何だ?」
 自分も夕に倣って覗くように顔を出す。
「……?」
 そこには向かい合う男女がいた。男の方は夕と同じ衣服を着ている。何やら、男が女に向かって真剣に話をしているようだ。
「こ、これは……告白ってやつだね……!」
「告白? 何を告白するのだ?」
「す、好きってことをだよっ」
 言われ、優未は二人の方をもう一度見る。話はかなり重要なところに来ているようで、真剣さが一段と増していた。何故か、夕が息を呑んでいた。
「……何故こんな狭いところでするのだ? そのような大事な告白をするならしっかりと知り合いも周りに置いてすれば……」
「そんなことしたらあの人絶対に卒倒するよ!」
 やはり人間の心情は理解が出来ないが、大まかなことは分かった。
「う〜ん……。何かここにいると悪いような気がするね。…………あ、でも……」
 優が何か思いついたように、手を叩いた。
「ねぇねぇ。あの二人くっつけたらさ、幸福与えたことになるんじゃない?」
 名案だと言わんばかりの夕の提案に、優未は首を横に振る。
「人の心を変えるというのは魔術でも不可能だ。それに、もし他の方法で成功したとしても、あの女の方が嫌なら不幸も発生し、相殺して結局はゼロだ。そして、相思相愛なら手出しする必要はない」
「ふ〜ん……」
 夕は意外と難しいんだね、と呟きまた観察に戻った。と、男が一歩踏みだし、女に近づいた。が、何故か女は身動ぎもしない。気になる表情は丁度影になっていて伺えない。
「……ん? 何か様子が……」
「――!! ――――!?」
 何やら、男の方が大声を上げ始めた。ほとんど叫びのような声を出している。いよいよ、夕は耐えられなくなったのか、ゆっくりと声が聞こえるところまで忍び寄った。優未も同じ行動を取る。
「何で何も言ってくれないんだ!! 俺は真剣なんだぞ!!!」
 どうやら、女の方が無言のままなのが原因らしい。表情は見えないが、どういうつもりなのだろうか。
「一目見たときからもうずっと君のことばかりなんだ!! せめて何か言ってくれないと諦めるとしても諦めきれないよ!!!」
「おお、熱烈……」
 その嬉しそうな声に、彼女はこういうのが好きなのだろうか、と思う。
 ……やはり、全く分からん。
 と、女がここに来て初めて動作をした。それは前進の動き。影で隠れていた表情が浮かび上がる。
 ……ほう。
 彼女の目は妙に大きく、しかし眉は地面に平行で、口は眉と同じく真っ直ぐと結ばれている。それは完全な無表情。何を思っているかなどとても読みとれない。顔が見えていないときと大差なかった。そして、その顔にある漆黒の瞳は真っ直ぐに男を見据えている。
「う……」
 男は一歩引いた。いきなり動いたのもあっただろうが、やはりそんな何の感情もないような目で見られ続ければ怯んで当然だろう。
 優未が見た限りでは、特に目立った容姿ではなかった。色白の肌、真っ黒な瞳。髪は肩より少し下まであり、首の辺りで簡単に括られている。だが、その無表情と微動だにしない態度のせいか、とても異様な雰囲気を放っていた。
「…………」
 と、その女は、無言、無表情のまま、手を少し前に動かした。次の瞬間、
「へ?」
 その手は男の股間を掴んでいた。
「はぅあっ!!!」
 突然の衝撃に、男は奇怪な声を上げる。そして、女の指にはは更に力を入り、飾りかとさえ思われた口がゆっくりと割れた。
「男に用はない。……特に、フニャチンには」
 男はそのまま膝を付き、そのままの状態で上半身を前に倒して気を絶した。
「ひ、ヒィィィ!!!」
 余程恐ろしかったのだろう、夕が悲鳴を上げた。
「!!!」
 無表情がこちらを向いた。優未はその動作に身構える。
 ……来るか……?
「…………」
 が、数秒の硬直、それが終わると、その女は逆方向へと走って行った。一安心した優未は構えを解き、哀れにも気絶して白目を剥いている男を一瞥し、
「ふむ……。こちらの世界では他者の性器を握りつぶすのが流行っているのか?」
「そんなハードな流行やだよっ!! っていうかあの子何!? い、いきなり男の子のアレ掴むなんて……」
 夕はどうやら相当気が動転しているようだった。
「落ち着け。ともかく立ち上がって深呼吸すべきだ」
「う、うん……」
 夕は言われた通りに行動した。何とか落ち着きを取り戻した夕は、
「あの人の、大丈夫かな……」
「そんな心配より、今後のことを考えたほうが良いと思うがな」
「そ、そだね……。顔、見られたかなぁ」
「見られていたら、色々と不利だな……」
 そこで夕は気付いたように優未の方を向く。
「えっと……“不利”って、何?」
「無論、口封じに消される可能性があるということだ」
「ま、まさかぁ! ただの高校生だよ?」
「ということは、これがただの高校生がすることなのか?」
 優未としては、真剣にそう思ったから質問したのだが、夕は何故か黙った。
「ともかく、そこの男が意識を取り戻したら面倒だ。移動しよう」
「う、うん……」
 夕はまだ戸惑いが残っているのか、ぎこちなく返事をした。
 ……しかし、人間というのは、全く以て分からん。
 目の前にいる母のことや、倒れている男を見ながら、優未はそんなことを思っていた。




 夕と優未が体育館から大分離れた頃、その二人を影から音もなく見守る者があった。本当に無音。足音や、布擦れの音どころか、呼吸音さえない。
「…………」
 そして、嘗めるように向ける視線には何の感情も乗せず、しかし思いは確かに高揚していた。
「ふふふ……」
 いつもはぴくりともしない口の線の端が吊り上がった。それを隠そうともせず、彼女達を見続ける。
「やっと、見つけた……。うふふふふふふふ」
 そして、見えなくなるまで、彼女たちを見続けた。まるで、網膜に焼き付けるかの如く。




 〜あとがき〜

 変な人出てきた〜!
 はい、そんなわけで二章終了です。もう容量やばいっすね。暇潰し気分では読めなくなってきたという大惨事です。途中から別の章に回そうかと思ったのですが、キリが悪いので突っ込んでしまいました……。
 さて、物語的にはこれから面白くなったらいいなぁ、みたいなところなのですが、どうなることやら……。自信ないですけど頑張りたいです。
 あと、初めて知ったのですが、「…」や「―」などは二文字ずつ使わなければいけないのですね。出版されている本で見てみましたが確かにそうでした。
 また修正に負われることとなりそうです。過去に出してしまった分はもう諦めるという方向で。
 それにしても、最近誤字脱字が多くなってしまった……。wordからメモ帳に切り替えたせいでしょうか? 推敲はしているのですがこれがなかなか……。前以上に目を光らせたいと思います。
 
 それでは、次回の後書きで会えますように。


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