「こんなことするのいつ以来だ?」
「確か八年前ぐらいが最後だったっけか…」
「こういうのってやっぱり楽しいわね!」
俺たちは病院の屋上でくだらない事を話していた。千波はずっとハイテンションだ。本当にこういう事が好きなんだろう。
あのミニサミットの後、俺たちはすぐに行動に出た。もう夕方で、人はあまりおらず、簡単に屋上に行けた。鍵はボロくて、ちょっと揺らすと簡単にはずれた。この病院って結構適当だよなぁ…。
俺たちは屋上で持ってきたお菓子とかを食べながらいろいろ話していた。
日の暮れかけた屋上は涼しい。見つからないために決行は夜になってからだ。
「真面目にその作戦で行くのか?」
「それしかないでしょ!正面なんて論外だし、窓から入ろうにも五階だしね。さてと。そろそろ準備に入るわよ軍曹」
「へいよ、参謀長」
そう言う千波は楽しそうだ。俺は同意したものの不安だ。はっきり言うと恐い。
なんたって千波の作戦は……
「屋上からロープ使って降りるだと!?」
俺は大声を出した。この場合は許されると思う。そんな馬鹿げたこと、子供でもやらない。
「そうよ。この病院は六階建て。稜くんの病室は五階だから、屋上からロープ垂らして窓から侵入するの」
名案だとでも言うように自慢気に説明する千波。俺は正直、反対したかった。でも今の千波は止められないような気がした。
確かにそれなら出来るかもしれないが、危険すぎる。落ちれば死ぬか大怪我は必至。だいたいロープなんて一体何処に…。
「それの問題はまるでないわよ。私の父さん、登山家だからかなり丈夫なロープがあるわ」
嬉々として話す千波の顔に一切の迷いはない。そういやそうだった…。
きっとコイツは友達と会うという大義名分の元にスリルを味わいたいだけだろう。
「わかったよ。じゃ千波はロープ取って来る。で、俺たちは家で屋上に行く最短ルート探しとく」
千波はダッシュで階段を駆け下り、外へと出ていった。
この時に家のドアが少し壊れたのは無視しておこう。今回限りだが。
「夏だから窓も開けてるでしょ。何の支障もないわ」
ロープを垂らしながら千波が言う。
俺は恐る恐る下を見た。高い。目眩がするくらいだ。
「で、一番に行くのは誰だ?隊長行くか?」
「い、いや、俺は遠慮しとく。軍曹、お前が行け」
明らかにビビってるな…。っていうか隊長がビビってどうする。
「私もあとでいいわ。あんたは実験体ね」
くそぉ、モルモット扱いかよ…。まあ、いいや。どうせ行くつもりだった。
「おし、じゃあそろそろ行くか」
夏の夜空はとても綺麗だ。星が見えて、見上げてると吸い込まれそうだ。
俺は屋上のフェンスを乗り越え、端に立つ。
「おお…恐えぇ…」
足が竦んだ。意味もなく笑ってしまう。これを見ると飛び降り自殺する人はもの凄い勇気があると思う。俺だったら確実に断念するね。
「ロープはちゃんと繋がってるわ。ほら、これ腰に巻いて…」
俺は命綱を括り付け、ついでに腹も括った。
「いい?ゆっくり降りるのよ。いきなり降りたらロープに負担が掛かるわ。一応頑丈そうなフェンスに繋げてるけど、絶対折れないなんて事はないんだからね」
俺は無言で頷いた。そして、フェンスとは反対側、つまり何もない空間へと向かった。
「ふぅ〜…じゃあな。降りたら携帯で知らせる」
そう言うと俺は地上約二十五メートルにぶら下がった。
そして俺はゆっくりと降りていった。ホントにゆっくりだ。カタツムリの方がまだ早いんじゃないかってくらい。けど、俺はゆっくりと降りた。
途中にある六階の窓が見えた。これが第一関門だ。ここに人がいれば誰か呼ばれて終わりだろう。
が、誰もいなかった。どうやら空き部屋らしく、真っ暗な部屋が見えるだけ。俺はほっとした。そして、またゆっくりと降りようとした。
その瞬間、突然の突風が吹いた。
「うおおおっ!?」
俺は激しく左右に揺られた。小便が漏れそうなくらい恐かった。俺は目をつぶって必死にロープにしがみついた。
「うわぁあああああ!!」
そして訳も分からず叫んでいた。本当に恐かった。このまま地面に直行するかと思った。
ようやく風が収まった頃、俺の携帯が鳴った。俺は震える片腕をゆっくり離し、ポケットに手を突っ込む。
どうやら千波からだ。
「なんだ!?」
『光一ヤバい!!フェンスが外れそう!!』
俺は顔面蒼白になった。血の気が引くとはこのことだろう。
さっき大きく揺られたせいでフェンスに負担が掛かったんだ。やっば〜…。
「なんとかならないのか!!」
俺は携帯に叫んだ。千波も叫び返してくる。
『今実田くんと支えてるんだけど、だんだん滑ってるのよ!!』
確かにだんだん下がってきた。このままでは落ちるのも時間の問題だ。
『早く降りて!もう…保たない…』
俺は慌てた。でも、恐くて手が動かない。くそっ!!動けよ!!
下がるスピードが速くなった。下がったり、止まったりする。もう駄目なのか…。
御免な、稜。俺が先に死んじまうかも…。
俺が死の覚悟をしたとき、横から、思わずずり落ちてしまいそうな声が聞こえた。
「なにしてんの?光一」
真横に、稜がいた。前見たときよりずっと髪が伸びて、背中に掛かっている。もう完璧な女の子だ。胸も…いや、決していやらしい思いはない。ないけど、かなり膨らんでる。その姿はとても可愛かった。俺は死の境界に立たされているのに、その姿をぼーっと見つめた。
「ねぇ?もしかして新種の遊び?」
心底不思議そうな顔で訊いてくる稜。俺はとりあえず思い浮かんだ事を言ってみた。
「え、え〜と……山登りごっこ」
意味不明な応答をする俺を見て稜は笑った。
「面白そうだねぇ。もしかして、上に徳くんとかもいる?」
「お、おう―――じゃなくてっ!!」
俺はようやく今の状況を思い出した。死にかけなのを忘れるとは…。
「ちょ、ちょっと退いてくれ!落ちそうなんだよ!!」
そう言うと稜は慌てて横に退いた。
足を窓へと伸ばした。どうにか届き、俺は転がるように病室に入った。
「はぁー…はぁー…し、死ぬかと思った!!死ぬかと思ったっっ!!」
俺はがくがくする足を押さえ込みながら、安堵のため息をついた。
「やたらスリル満点の遊びしてるねぇ。もう止めときなよ?」
笑顔のまま、近づいてくる稜は車椅子に乗っていた。俺の胸の辺りが、ズキンとした。
「……稜、お前…」
「光一はもう知ってるんだよね?そうだよ。僕の足、もう動かないんだ…」
それでも稜は笑った。悲しそうに。
「そうか……」
俺はそれだけ言うのが精一杯だった。
突然、俺の携帯が鳴った。
「なんだよ?」
『光一!!死んでない!?』
キーンときた。電話でこんな事になるとは思いもしなかった。
「うるせぇな…。大丈夫だよ。今稜の病室だ」
『ふぅ〜…脅かさないでよ。急に軽くなったから落ちたかと思ったわ…』
あっちはあっちで死にそうだったらしい。隣で徳がはぁはぁ言ってるのが電話越しでも分かる。
「ありがとよ。お陰で死なずに済んだ」
『死んだら私が殺したみたいで嫌だっただけよ!』
この期に及んでまだそんな事抜かすか、このアマは…。
『とりあえず、私たちはいけないわね…。残念だけどロープとか片づけて、外で待ってるわ。あ、稜くんに私たちも応援してるって伝えといて』
「おう、分かった。後でまた連絡するよ」
俺はそう言って電話を切った。
「今の…早瀬さん?」
「そうだよ。俺たち、お前に会うために忍び込んで決死の覚悟で来たんだぜ?」
そこまで大変ではなかったが、死にそうだったのは確かだ。
「そうなんだ…。ありがとね!」
稜は本当に嬉しそうに微笑む。あの頃の笑顔とそっくりだった。
「礼は徳と千波に言っとけ。俺は巻き込まれたみたいなもんだ」
稜はうん、と頷くと何故か外を見た。
「どうした?」
「ううん…別に」
俺も外を見てみる。外は真っ暗だ。何も見えない。時々、生暖かい風が入ってくる。
「……光一」
急に稜が声を出した。
「なんだ?」
「好きな子…いる?」
は?と俺は固まった。あまりにいきなりだったので、なんと答えればいいやら分からなかった。
「す、好きな子?それはあれか?こ、告白したいとかそういう話なのか?」
「そうだよ」
俺は考えた。だが告白したいと思う奴は一人もいない。
「いねぇな…」
「ははは…光一らしいねぇ」
稜は呆れたような感じで笑った。仕方ないだろ。マジでいないんだし。寂しいとかそういうのはない。決して。
「僕はね…いるんだよ、好きな人」
「………へぇ」
俺はそんなリアクションしか出来なかった。だってそうだろ?こんな事言われてどう反応しろってんだよ。
そんな俺にはお構いなしで稜は話を続ける。
「その人はね、弱いくせに見ず知らずの他人を助けたりする熱血馬鹿でねぇ…。ホントに馬鹿みたいだったよ。必死に立ち向かったんだけど、ボコボコにされてさ。もう泣いちゃってるのにそれでも泣くの我慢してたよ…」
え?それって…
「稜?」
稜は口を閉じようとしない。
「でも、嬉しかったなぁ。顔どころか名前も知らないのに必死に守ってくれて…。それから一緒によく遊んでさ、喧嘩したり、隣の家の人の窓ガラス割ったり…」
窓から外を見ている稜の表情は見えない。でも笑ってはいないと思う。そんな気がした。
さっきから、外が騒がしいような気がするが、俺はそれどころじゃなかった。
「それから僕が入院しても来てくれて…。一回だけ来なかった時期もあったけど、結局最後は来てくれて…」
稜、泣いてるのか?
「寂しかったけどね、来てくれただけで、そういうのどうでもよくなちゃったんだ…。その時思った。ああ、この人が好きなんだな、って」
風が、入ってきた。その生温い風の中には何故か水滴が混じっていた。今日は雨は降らないはずだ。
「稜…」
稜がゆっくり振り向いた。その笑顔は前も見た、柔らかくて、触れれば壊れてしまいそうな、そんな笑み。
「もう、会えないかと思ってた…。でも、会えた。だから言うね?」
一息置いて、肺に声を発するための空気を入れる。そして、それを吐いた。綺麗な、透き通るような声を乗せて。
「大好き、光一」
その言葉は魔力を持っていた。恐ろしいくらいの力。俺はその力によって動けなくなった。
稜は何も言わず、そんな俺を見る。
俺は動けない。自分でもよく分からないくらい動けなかった。
「―――――あ」
数分経ってようやくそんな声を出せた。酷く、間抜けだったと思う。なにせ、口開けてぼ〜っとしてたんだから。
「返事はいいよ?僕、もうすぐ死んじゃうから」
それを聞いた瞬間、俺は呪縛から抜け出した。
「お前っ!!お前までそんな事言うのか!!まだ助かるんだろ!?お前が死ぬ訳ないんだ!!絶対に死ぬか!!」
俺は力の限り叫んだ。これで隣の病室の人は確実に起きただろう。
「………そうなのかな」
これだけ怒鳴っても稜は惚けたように言う。それが腹立たしかった。
「そうだ!!!死ぬ訳ない!!死なせて堪るか!!俺だってお前のこと―――」
稜は俺を見たまま石像の如く固まった。白色にしたら完璧な石像だ。
「僕の…こと?」
そんな固まった状態で口だけを動かして言う。ああもう!恥ずかしいなチクショウ!!
「す、すす、好きなんだよっ!!俺も好きだ!!だから死なせない!!絶対に!!」
俺もその場の雰囲気に流される事は多々ある。人間だからな。これもその一端だ。それ以上でも、以下でもない。
何故か聞こえてくる口笛や拍手は無視する。そうでもしなきゃ俺は精神に甚大な被害を負う事になる。
「――――ホント?」
稜はまだ呆けている。何度も言わせないでくれよ、マジで。
「ホント!マジ!!ファクト!!!」
俺の羞恥心はどこかに消えてしまった。でもそれはとてもいけないことのような気がした。
「だ、だって…僕、元おと―――」
「ちっがーーーう!!!!断じてNO!!元々女だろうがっ!!!俺はホモじゃない!!!」
俺は必死に主張した。じゃないと俺は…俺は…。
「そっか…。でも男として育ったんだから同じじゃ―――」
「だからなんで頑なにそれを言うんだ!!お前だってホモにはなりたくないだろ!?」
「そりゃそうだけど…」
「なら問題なし!!ということでこの話題終了!!」
俺は稜の反論をシャットアウトした。これ以上はまずい…。ヒジョーにまずい…。
一気に言われたためか、稜はまた固まっていた。
「お、おい…」
何となく気まずくなった俺はとりあえず話しかけた。
「あ…ご、ごめんごめん…。ちょっとびっくりして…」
そりゃそうだ。俺だってそうだし。
「え、と…。光一は…僕のこと好きなんだよね…。今から僕たちカップル?」
何故、そこまで訳の分からない思考が出来るんだ…。
「ま、まあ、そうなる…のか?」
「どうなのかな…」
二人で訳の分からない事を言い合う。馬鹿だなぁ、俺たち。
「稜がいいならそれでいいよ」
そう言うと、稜はめちゃくちゃ嬉しそうに笑った。ああ、可愛いな…。前まで男同士だったのかどうでもよくなるな。あ、今一瞬だけあっちの世界の人たちの気持ち分かったような気がした。これ以上は分かりたくないが。
「じゃあ僕たちカップルね!まずは交換日記とかしない?」
「ベタすぎるんじゃないのか…。っていうか今日日交換日記って…」
このまま行けばバカップル一直線だな…。
「…………稜」
稜が考え事を一時中断して、こっちに向く。
「手術は…いつなんだ?」
稜は急に無表情になって、俯いた。
「今日から三日後…。へへ…デートとか…出来そうにないね…」
俺は拳を握りしめた。あのヤブ医者の言ったことを思い出す。
『あの子の心臓は思った以上に弱い。手術中に破損する可能性が高いんだ』
確率は五分五分だとも言っていた。
『仮に手術が成功したとしても、普通に生きる事は出来ない。呼吸も機械無しでは出来なくなる』
まるで、ロボットみたいに身体中に機械がつくんだろうか…。それで、そのまま、まともに動けもせず生きるのか…。
俺はこの世の不条理を憎んだ。もしそれが人間なら身体中粉々にして殺してやる。でもそいつはやたら強くて、手出しも出来ない。
死にそうになりながら病室に乗り込んでも、好きだと言っても、死なせたくないといくら願っても、何も起こらない。稜を助けられない。死なせないとか言ったくせに、何も…。
「もし、成功したら…いろんなとこ連れてってね。それで、いっぱい話そうね?」
稜は笑っていたけど、泣きそうだった。この時、一つ気付いたことがある。笑顔と泣き顔はそっくりだってこと。
「ああ、絶対だ。いくらでも連れてってやる。だから、頑張れ…」
「出来る限り頑張るよ…。それで駄目だったら、御免ね」
俺は、頷くことしか出来なかった。
「はぁ…」
私はため息をついた。別に疲れたとかそういうんじゃない。ただ、何となくそんな気分だった。
「何ため息ついてんだよ…」
実田くんが気怠そうに言う。腹が立ったけど、今のは私も悪いか。
「いいじゃない、別に」
それでも謝ったりはしない。そんなのはプライドが許さない。
「しかし、いいなぁコウは。自分だけ稜と会いやがって…」
「ビビって先に行けって言ったのはどこのどいつよ。自業自得でしょ?」
「う、うるさい!!俺は決してビビったんじゃ―――」
「はいはい。負け犬の遠吠えはいいわよ。あんまり叫ばないでよね」
ああ、なんで私はこうも口がキツいんだろ…。もっとお淑やかになりたかったのに…。
実田くんには『自業自得だ』なんて言ったけど、自分も光一が羨ましい。いや、羨ましいのは稜くんか…。
「………」
ホントは、光一を行かせたくなかった。わざと挑発して作戦に参加させたけど、ホントは嫌だった。
だってそうでしょ?
誰が好きな男の子を他の女の子のところに行かすのよ。
そう、私は光一が好きだった。理屈は分かんないけど、気付いたら好きだった。大好きってほどではないけど、好きだった。
でも、私は見ての通り、意地っ張りで、強情で、馬鹿で、怒りやすい。自分でも嫌気が差してるけど、直す事が出来ない。
「はぁ…」
二度目のため息。友達が死にそうなときになに考えてんだろ、私。
やっぱり自分を好きになれない。そんな事に対して、ため息が出る。
でも、やっぱり光一は好きだ。時々、凄く腹立つけど、好きだ。
「おい、そろそろ行かないとヤバいぞ」
実田くんはもう帰る準備をしている。確かに、そろそろ見回りが来るかもしれない。
「あ、うん、わかった」
私も慌てて続く。こっそりと扉を開け、廊下を忍び足で歩く。
「なんか、探検してるみたい」
夜の病院は恐かったが、面白くもあった。
いつもと違った雰囲気で、幽霊でも出そうで、でもそんなものいなくて…。
「あんま喋んなって。見つかるぞ?」
実田くんに注意された。ちょっとムッとなったが、我慢する。
「御免、っていうかそんなに近寄らないでよ。転けそうよ」
なんだかやたら寄ってくる実田くんに文句を言う。
実田くんはそれでも離れない。察するに、恐いのだろう。
屋上でビビっていたし、相当な恐がりだ。
男のくせに、とか思うけど、やっぱり恐いものは恐いのかと考え直す。
「ねぇ、離れてって…」
でもそれで引っ付かれるのは嫌だ。それはそれ、これはこれだ。
「ちょ、何押して―――きゃっ!?」
私は見事に転んだ。それで、持っていた荷物がドン、と音を立てて落ちた。
「な、何だ!?」
どこからか声が聞こえる。足音も。
「もう馬鹿!!何やってんのよ!!」
私は精一杯罵倒した。こんな事してる場合じゃないんだけど…。
「わ、悪い!!とりあえず逃げるぞ!!」
実田くんは足音とは逆方向の階段にダッシュした。慌てて自分も続く。
足音がだんだん大きくなる。
まずい。このままだと追いつかれちゃう。
「ど、どうしたら―――」
いろんな事を考えてみようとするけど、私の空っぽな頭には何も浮かばなかった。
「ちっ…」
実田くんは何故か舌打ちして、止まった。
「さ、実田くん何して―――」
「先行け!!こうなったのも俺のせいだ!!囮になる!!」
囮って…
「で、でも…」
「早く行けよ!!俺は将来何の夢もないけど、お前はあるだろ!?こんなとこで捕まったら進路に関わるぞ!!」
もっともな意見だったけど、私は動けなかった。
「行けって言ってんだろ!!」
怒鳴られて仕方なく走った。
しばらく走ると足音は聞こえなくなった。どうやらまいたみたい。
「実田くん…」
私はひたすら心配だった。前まで、臆病で、馬鹿で、間抜けな奴だと思ってたけど、今回は見直した。少し、めちゃくちゃ少しだけど、格好いいとも思った。
やっぱり戻ろうかと思って迷っていると、急に肩を掴まれた。
「きゃぁ!!」
「おい、騒ぐなって!!俺だ!!」
真後ろに実田くんがいた。やたら息が切れてる。
「だ、大丈夫!?」
小声で叫んでみる。実田くんは得意そうに頷いた。
「とりあえず、まいたぜ。俺の足の速さはもう世界レベルだぜ!」
自慢しながら言う。正直、格好良かった。これで汗だくじゃなかったらもっと格好良かったと思う。
「おっし、とりあえず出るぞ」
そう言って外へと向かった。私も黙って続く。
そして、実田くんのズボンを見ると、何故か前と違うズボンを履いていた。よく見ればサイズもあってないようで、裾を巻き上げていた。っていうかあれ入院患者のじゃ…。
どういうことだろうと思って、実田くんの手を見ると何故か袋を持っていた。そして、その中には…
「あ……」
私は思わず声を出していた。
それには気付かず、意気揚々と歩いていく実田くんは面白かった。
袋の中身は……言わないでおいてあげよう。
八月三十日。またもや押し掛けてきた千波と徳は俺の部屋でう〜う〜唸りながらプリントを睨んでいる。今日は何故かこいつらの仲がいい。前の事があってからだ。これが吊り橋効果というやつ…いや、違うか。
唐突に千波が言った。
「今日だよね…稜くんの手術」
もちろんその事は知っていた。忘れる訳がない。そして、俺はこれから病院に行くつもりだった。
「………」
俺は無言で立ち上がり、部屋を出ようとした。
「………」
千波と徳も無言でついてくる。黙っている理由は全員同じだろう。
口を開けば、何かが流れ出しまいそうだったから。
気がつくと俺たちは手術室の前にいた。隣には稜の両親もいる。息子、もとい娘の一大事なのだから当たり前だ。そして、さっき眠った稜が運び込まれた。その姿は頼りなくて、寂しくて、とても悲しかった。
「あ…」
扉の上を見ると『手術中』のランプが光った。
始まった。
手術は七時間以上掛かると言われたが、それでも俺たちは動かなかった。そんな事で動く理由なんてない。
「………」
無言で椅子に座る千波。それに続く徳。俺も座った。おじさん達も座って、扉を見る。
「………」
会話はない。ある訳がない。誰がこんなところで楽しそうに話す?そんな奴がいるならすぐにでも殺してやる。
二時間は経ったろうか…。俺はひたすら無言で手術室の扉を見ていた。
この中で、稜は頑張っている。必死に耐えている。生きるために。
「――――ッ」
俺は歯を噛みしめた。ムカついた。どうしようもなく。こんなところでぼさっとしている自分に。あまりの間抜けさに泣きそうだ。
その時、俺は唐突に思いついた。
そうだ…祈ろう。
こんなのは気休めなのかもしれない。自分を守る為の手段かもしれない。
でも、もしかしたら本当に神様や悪魔はいるかもしれない。そんな事、誰にも分からない。
だから祈る。いるかもしれないのに無視することはない。いないなら意味なんかないけど、もしいるなら…。
俺は手を組む訳でもなく、目をつぶるでもなく、祈った。ただ、何かに向かって。
稜を助けてください。誰でも、何でもいいです。稜以外だったらなんでもあげます。助けてください。死なせないでください。機械まみれになんてさせないでください。お願いです。また笑えて、話せて、遊べるように…。
そうか。助けて欲しいのか。
はい、そうです。
なんでも渡すのか。
はい、そうです。
一番大事なものでも渡すのか。
はい、そうです。
よかろう。その願い、了承した。
ありがとう…。
「光一?大丈夫?」
俺は目を開いた。そこは手術室の前。目の前には心配そうな千波がいる。
「あれ?俺は寝てたのか?」
「…疲れてるならもう戻りなよ。稜くんだってこんなこと願ってないよ」
「そうよ。あの子はそんな事望んでないわ。あなたがそこまで頑張る事なんてないのよ?」
千波と稜のおばさんが優しく言ってくれる。おじさんは相変わらず扉を睨みつけている。
確かにあいつなら止めろって言うだろうな。けど、そんなこと百も承知だ。あいつに止めろって言われても止める訳にはいかない。理屈とか、そんなんじゃない。
「大丈夫です。俺は、ここにいなきゃいけないんです」
そう言って俺は座り直した。徳はうとうとしている。そろそろコイツらも限界来てるな…。
「お前らこそ戻れって。俺一人で十分だ」
「何カッコつけてんのよ。言っとくけど、全然格好良くないわよ」
ああ、そうかい。どうせ俺はダサいですよ。
俺はこんなこと言ったけど、こいつらが帰らないのは何となく分かっていた。徳はいつのまにか起きてるけど、まるで聞く耳を持っていない。
「親友として、ここで引き下がる訳にはいかない。絶対に」
こいつは俺以上のカッコつけだな。
「あなた達は、本当にいい友達ね…。稜は、恵まれてるわね」
おばさんは嬉しそうに言う。
「わかったよ。あと三時間。気合い入れて待つぞ」
その時、不意にランプが消えた。
「え……?」
おかしい。終わるのは七時間後だと言っていた。多少の誤差はあってもこれはおかしすぎる。
まさか…。
最悪が頭に浮かぶ。俺はそれを振り払おうとしたが、まるで取れない。それはしつこくまとわりつく。
固まる俺たちの前にある扉が開いた。
「………」
何故か呆然としている堂が出てきた。
「せ、先生!!あの子は!!」
おばさんが叫んだが、反応がない。
ますますおかしくなってきた。もし失敗したなら残念そうな顔なりなんなりするはずだ。なのにコイツは信じられないものを見たかのように固まってる。
「………手術は」
堂は唐突に声を出した。俺たちは次の言葉を無言で待つ。
「成功なんだろうか…。いや、そうなんだろうな。手術は成功です。しかも予想を軽く凌駕した出来で」
俺たちは素直に喜べなかった。堂の言い方のせいもあるし、変な雰囲気のせいでもある。
「詳しく…言って貰えませんか」
「稜くんは生きています。しかも、もう機械を付ける必要はありません」
俺は耳を疑った。十六年間の人生を共にしてきた耳だが、今回はさすがに信じられなかった。
「どういう――」
「手術中、急に酸素給与装置が止まったんです。僕たちは焦りました。このままでは死んでしまうと」
俺たちは睨むように堂を見る。
「ですが、なんとか直しました。僕たちは心の底から安堵して、それで手術を再開しようとしたら…弱々しかった心臓の鼓動が…信じられないくらい強くなっていたんです」
堂はまるで夢でも見てるみたいに話している。俺たちもそうなっていると思う。
「更には自分で息もし始めました。弱り果てていた足の筋肉もまったくの元通り。何がなんだか…僕には…」
そう言ってよろよろと歩いていった。
「………稜くんは助かった…んだよね?」
数十分は経ったあと、呆然と、千波が言った。
「俺にはそういう風に聞こえた」
同じく呆然とした徳も言う。
「や、やったぁ!!!稜くん、生きてるんだ!!」
千波は涙を流しながら徳を揺さぶった。もの凄い速さだ…。
「お、おおいいいい…やめ…やめやめ…やめん…か」
そう言いながら、徳も笑顔全開で笑っていた。
「あなた…あの子は、生きて…」
おばさんは泣きながら、おじさんに寄り添う。いつも無表情なおじさんは、どうしようもないくらい笑っていた。
「光一っ!!良かった!!ホントに良かったよ!!!」
千波はの手をやたら強く握った。でも、俺はまだ呆然としていた。
なんだよ…。稜が生きてたんだからもっと喜べよ…。
「光一?」
千波はようやく俺の異変に気付いたのか、怪訝な顔つきで俺を見る。
「い、いや…良かった。そう、良かった!!ホントに良かった!!」
俺は叫んだ。千波も笑って泣きながら「良かった」と叫んでいた。徳も訳の分からない事を叫びながら飛び跳ねる。それが、手術の成功を確かに感じさせる。
でも、何か…嫌なものが心の中に残る。なんなんだろう…。助かったのに…。稜は、生きてるのに…。
俺たちはとりあえず帰ることにした。いきなり手術後に話なんて出来る訳がない。ここは帰るしかない。おじさん達も、疲れているようで一旦帰るらしい。
まあ、いいさ。どうせまた会えるんだ。そのときいくらでも話すさ。あ、そういやあいつをどっかに連れてかなきゃいけないんだった。やべぇな…。金、足りるかなぁ…。
この際、バイトでもしようかと思っていた俺は誰かに声を掛けられた。
「藤村くん…」
何かと思って振り返ると堂が立っていた。やたら真剣な顔をしている。これ以上、何かあるんだろうか…。
「あの…何ですか?」
「ちょっと話がある。来てくれ」
そう言うと歩き出した。千波と徳はついてきそうだったが、俺は帰るように言った。何でって、すげぇ眠そうだったから。どうせ大した事じゃないだろう。
「一体何ですか。俺、結構疲れてるんですけど」
文句を言いながらもついていく。堂は何も言わない。
今日は無断で来たから親に殺されるかな、とそんな事を他人事のように思っていると、急に堂が立ち止まった。
「ここだ」
そう言って横を見る。
505号室。
稜がいる部屋だ。その瞬間、俺の嫌な予感が数百倍に膨れあがった。
「え…なんで…」
「君には口で言っても駄目だろう。だから、連れてきた」
いまいち言っていることが分からない。何なんだ?もう手術は終わって、稜も最高の状態で生きてるのに。大体、手術後に起きてる訳が…。
「稜くんは起きている。信じられないが、麻酔が切れたようだ」
俺はこの時、喜びではなく、恐怖を感じた。何故かは分からない。ただ、この扉を開くのがとても恐かった。
「…………中に入ろうか」
堂は躊躇うように言ってきた。俺はぎこちなく頷く。恐くても開けなきゃいけないのは心の底で分かっていた。
「邪魔するよ」
堂はそう言って、ゆっくりと扉を開いた。
病室内を見るとベッドがあった。当たり前だが、その上に稜がいた。上半身だけを起こして、外を見ている。
「………」
俺は何故か声を出せなかった。
「稜くん?大丈夫かい?」
「はい、先生」
稜は振り向かずに言った。いつもの声。前に聞いた声と同じだ。でも、何かが違う。
それを感じて、俺は固まる。その『何か』が、決定的に違う『何か』が、俺を縛った。
「じゃあ、僕は出ていく。これは僕の関与するところではないからね」
そう言うと、堂は出ていった。あいつも医者だからいろいろと大変なんだろう、と推測を立てる。
二人きりになった病室で、俺はまだ固まっていた。何故か声を出せずにいた。それでも、無理矢理に声を出す。出さなきゃいけないと思ったから。
「あ……稜」
その声に反応して、稜は振り向いた。いつもと変わらない顔。手術後なのに、前よりずっと元気そうな顔をしている。それを見て俺は嬉しくなった。
でも、その嬉しさはすぐに消えた。
何故か、稜の笑顔がおかしかった。
いや、引きつっているという訳じゃない。自然な、綺麗な笑みだ。でも、前と違うような気がした。いや、違う。
「稜?おい、大丈夫か?」
稜は頷いて、俺をまじまじ見たあと、不思議そうに、無邪気に、言った。
「キミは……誰?」
その言葉は本当に綺麗で、透明で、何にもなくて、悲しくて、とっても寂しかった。
「りょ…う?」
俺はもう目の前の女の子が何か分からなくなった。
親友で、病気で、女っぽくて、実は女で、天然で、ちっちゃくて、可愛くて、寂しがりやで、俺の事が好きで、俺も好きで、付き合うことになって、一緒に遊ぶ約束もして…。
「御免ね、知り合いなんだろうけど、分からないんだ。僕、記憶ないらしくて」
記憶喪失。
ここを出たとき堂はそう言った。数学の公式などの知識はあるが、思い出などに関しての記憶はまるでない。
原因は酸素給与装置の故障。
人間の呼吸を止めるには、長すぎた。
「あ、僕女の子だけど、何故か『僕』って言っちゃうんだ。その方が楽でさ。おかしいよねぇ」
あはは、と稜は笑った。
俺も訳も分からず笑う。
あははは。
はははは。
そんな笑いが続いた。俺も稜も、意味も分からず笑い続けた。
「全然おかしくねぇよ」
俺は笑いながら言った。
稜はそうなんだ、と言ってまた笑った。
あははは。
はははは。
「ねぇ、さっきからなんでそんな悲しい笑い方なの?なんだか、泣きそうだよ?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。誰が泣くか」
あははは。
はははは。
何でも渡すのか。
はい、そうです。
一番大事なものでも渡すのか。
はい、そうです。
その長くて辛すぎる笑いは病室内に響き渡った。
そっか。稜は死んだんだな。
笑いながら、思った。
俺は、あいつに似てるけど違うこの子と一緒に生きていくんだ。
こんなに素晴らしくて、悲しい事が他にあるだろうか?
俺はふと外を見る。
腹が立つくらい五月蠅かった蝉の鳴き声が無くなっていた。
きっとこの時、俺の淡い夏は、終わったんだ。
〜あとがき〜
どうも、ゆぐどらしるです。今回は初の短編に挑戦してみました。前編と後編に分かれたのは、単にまとめる能力がなかったからです。読むの大変だった方、済みませんでした。
この話は時間が掛かりました。なにせ真面目なもの書いたことあんまりありませんからねぇ。それでも気合いで無理矢理書きました。
病気のモデルは筋ジストロフィーという病気で、筋肉が弱るのではなく、破壊されるらしいです。うぅ…恐い…。
本当に病気は恐いです。ちょっと気を抜けばいつの間にか罹ってしまいます。「病は気から」とか言いますが、なるときはなります。
とかいう自分も風邪引いてたりします。馬鹿ですねぇ、本当に。みなさんも気を付けてくださいね。
少し長くなりましたがこれで終わらせていただきます。読んでくださってありがとうございました。
「Experience」は現在必死に書いている途中ですので、しばしお待ちを。
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