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Princess
作:ミスター長崎




 あらすじ

 城下町に住む靴屋の息子ヨハンと近郊の領主の娘アンナは幼馴染だった。しかし収穫祭の差し迫ったある日、アンナの祖母マリラが何者かに殺害される。死の間際、マリラはアンナにヨハンを連れて森の湖に行くように伝える。マリラの葬式当日、アンナは教会を抜け出し、ヨハンをつれて森へ入っていく。そして湖の畔の小さな小屋で出会った不思議な力を持った一人の老人。彼はアンナの祖母マリラを殺したのが摂政であること、そして、ヨハンは本当は無実の罪で死刑になった女王の娘カタリーナであることを告げる。それを聞いたヨハンは、恐ろしくなってその森を逃げ出した。

 

「ここでいいわ」アンナは森を抜けた旧街道のところで言った。少し先の丘の上には、柔らかい光を窓から放つ屋敷があった。

「そうかね……」隣にいた老人は星たちの輝く空を見上げた。その中で月は、青白く辺りの稲穂を躍らせていた。風が吹くたびに種子がカラカラ音をたてる。「アンナ、ヨハンのことを頼むよ。彼には君が必要だ」

 アンナはくすくす、と笑った。

「大丈夫……、彼は強いから」

「そうかね。気をつけて帰りなさい」

 アンナは屋敷に向かって飛ぶ様に駆けていった。老人はその背中が闇に消えるまで見送った。そしてポツリとつぶやいた。

「その強さが怖いんだよ」

 

 ヨハンは自分の部屋にいた。硬いベッドに座り、窓の外を見ていた。街中は明るく、城の上まで見渡せた。天国より遠くにあると思っていた城が、今は彼の心の中にあった。あの城の中に、父と母がいた。この工場にいる父と母ではなくて……。そして父と母を殺した摂政が実質的な王として、この国に君臨している。星の美しさがかえって宇宙の闇を強調する。

「どうしたらいいんだよ……」彼は窓枠を握り締めた。

 ノックがした。そして、ヨハンの姉が入ってきた。彼女は寝巻きを着ていた。そしてヨハンの隣から首を出して街中を見渡した。

「今日の午後、どこ行ってたの?」彼女は城のほうを見ながら言った。

「それは……」ヨハンは口に溜まった唾を飲み込んだ。甘い味がした。

「まぁいいわ。それより父さん、遅いわね」今度はヨハンの青い瞳を睥睨して言った。「父さん、ヘルマンさんに会ってるのよ。あの人、嫌い。いつも厭らしい目で、二言目には金、かねって。なんの話をしているのかしら」

 なんでヘルマンなんかと会っているのだ? ヨハンは顔を顰めた。まだ成熟していない彼の心にも、分かるものがあった。この工場には資金がないのだ。城による多額の徴税で、今までのようにやっていけないのだ。ヘルマンといえば有名な高利貸だ。

「ねぇ、ヨハンはこの工場(こうば)を継ぐ、靴職人になってくれるんでしょ」彼女の目は、ヨハンの澄んだ瞳孔から外れることは無かった。「靴職人に……」

 ヨハンは言葉に詰まった。手が震えていた。彼女の方を見られなかった。水仕事で痛んだ手が、若い職人の手を包んだ。

「お願いよ」そう言って、彼女は出ていった。ヨハンは怖くなって目を閉じて眠りの世界に逃避した。

 

「アンナ、教会を抜け出して、いったいどこでなにをしていたの?」アンナの母は、厳しい口調で言った。アンナはぎっと歯を噛み締めて座っていた。「アンナ、きいているの?」

 アンナは立ち上がった。

「母さんは分かっているんでしょ? 本当は誰がお祖母さまを殺したか。どうして言わないの? 真っ黒な喪服を着て黙り込んで!!」

 アンナは息を荒げた。母は彫刻のように動かない。アンナの頭の血液が沸騰しそうだった。「お祖母さまを殺したのはあの城の摂政よ!! あいつが」

「アンナ! やめなさい」そう言って、母は真っ赤に紅潮したアンナの頬を叩いた。「落ち着くまで、部屋にいなさい」

 アンナは母を鋭い瞳で睨み返した後、自分の部屋に駆け込んだ。そして枕に顔を埋めた。今日あったすべての悲しみが、涙として零れ落ちた。夜が深まるころには、疲れて眠りに落ちた。

 

 朝が来た。東雲が山の陰から光を放っていた。城も、城下町も、小麦畑も照らしていく。こんなにも世界は美しいのに、ヨハンの心は闇でいっぱいだった。何をするにもその闇が付きまとってきた。そして工場にも、浮かない表情の男が一人いた。親方だった。なにをするでもなく、ごてっと椅子に座っていた。

 二日酔いだろうか……、いや、それだけではない。きっとヘルマンから金を借りられなかったのだ。ヨハンの心はそう推察した。そして自分の席に着いた。しかしどうしても工具を持つ手に力が入らない。昨日の初めて作るアンナの靴の喜びが嘘のようだった。意味無く木を削ったり、彫ったりしていた。

 そのまま一日が終わった。ヨハンは当番として夕食の食器を洗いに井戸まで行った。もう太陽が月に変わっていた。冷たい水が、手に凍みた。

「ヨハン」

 彼は振り返った。月の光の照らす、彼の姉の姿があった。

「いいのに、私がやるから」そう言って、彼の脇に座り皿を手に取った。慣れた手つきで洗っていく。全部の皿を洗い終わって、彼女は前掛けで手を拭いた。「私、結婚することになったの」

 詰まらない事を言うようにいった。ヨハンははじめ何を言っているのかよく分からなかった。月の光が眩しすぎたのかもしれない。

「結婚って、誰と……」

「ヘルマンさんと」感情なきまま、言った。ヨハンは皿を落としそうになった。「必ず、工場をついでね」

 このとき初めて笑った。月明かりのせいか、ひどく綺麗な笑顔に見えた。彼女はそのまま台所の方へ帰っていった。ヨハンは一人、月明かりの下に残された。

 自分が情けなかった。強く拳を握り締めた。心臓が激しく鼓動を打つ。体中が締め付けられているように、とても息苦しかった。自分が苦しいのは、きっと、自分が本当にやるべきことを分かっているのにしていないからだ。運命から逃げた人間に社会は冷たいが、自分の心はもっと冷酷だ。

 ヨハンは夜の冷たい空気を肺いっぱいに吸った。酸素をふんだんに含んだ鮮やかな動脈血が、体中に駆け巡る。彼は工場に走った。そして、自分の工具を引っ張り出した。ランプに火も入れず、月明かりで作業を開始した。

 なにも考えないことにした。あるのは目前の靴だけだ。今はそれだけを考えればいい。けったいな理論など必要ない。すべて手が覚えている。もう彼は自分の人生を決断していた。

 

 アンナは部屋に引きこもっていた。母さんに謝ってこの部屋を出るくらいなら、この部屋で一生を過ごそうと思った。自分は正しいと信じていた。みんなおかしい。城だの摂政だの言うと、変に黙り込んでしまう。みんな分かっているのだ。分かっているのに、どうして黙っているのか。幼い彼女の心にはまだ理解できなかった。

 夜になって、大きな黒雲がゆっくりと流れてきた。豊潤な大地に雨が降っていく。あんなに明るかった月が消えていく。

 部屋のドアが鳴った。アンナは無視して外を見ていた。

「父さんだ、入るよ」そう言って、彼女の父が入ってきた。「ほぉ、降ってきたか」

 光の無い部屋は、雨の音でいっぱいになった。

「アンナ、いい加減にしたらどうだ?」父はランプに光を入れながら言った。「食事ぐらい出てきたらいいだろう」

「お父さん、真実があって、人間はそれにどうやって向かっていけばいいの?」

 父は深い笑い声を上げた。

「随分と難しいことを考えているんだなぁ。それはなぁ、自分にとって有益な真実なら受け入れる、それ以外の真実は……」

「間違っていると分かっていても目を逸らすの?」アンナは父のほうを向いた。

「そうじゃない。諦念って言葉を知っているかい?」

 アンナは首を振った。父は窓の外を見た。

「雨があと千回降ったら、お前にも分かる日が来る。それまでは、雨が千回降るのを待つんだ。私たちはそうやって生きてきたんだ」

 雨の音がひどく冷たく聞こえた。心の中の苦しみを、雨はいっそう深くした。この雨をあと千回聞けば、一体何が分かるというのだろうか。アンナは父親の頑丈な手を握った。

「怖いの……、大切な事が消えていくようで」アンナは本当に震えていた。その震えは感情で抑止できるものではなく、もっと奥から湧き出てくるものだった。父の手が、その手を握り返した。

「子供のときは、みんなそう感じるんだ。でも、蓋を開けてみればなんて事は無い。恐れることは無い」

 アンナは父に手を取られ、部屋から出て行った。最後に窓の外を振り返って、黒雲よりも黒い城下町の方を見た。

「ヨハン」彼女は小さな声でつぶやいた。

 

 ヨハンは、雨の音に気がつき、その後に工場の闇に気がついた。工具を置き、手探りでランプを探した。そのとき、後ろから光が近づいてきた。

「誰だ?何をしている」明かりの照らす顔は、深い皺の入った親方の顔だった。「ヨハンか……」

 親方は、自分の火をヨハンのランプに移した。その光は、未完成の靴の様子を照らし出した。

「ひどいな……、こんな縫い方じゃ」親方は靴の皮から紐を抜いていった。「靴は何年も持ち主とともに歩けなければならない。こんな縫い方じゃ、三日も持たない」

 革を全部ばらすと、ヨハンの前に置いた。「やり直せ。やる気があるなら今すぐにでも」

 そう言うと、その大きな背中は再びどこかへ消えていってしまった。ヨハンはバラバラになった靴を見た。大きく息を吐き、そして再び作業を始めた。心の片隅では、親方のことを考えていた。こんな夜中に、いったいなにをしに来たのだろうか……。

 親方は、雨の中教会の方へ歩いていった。空の闇から無数の水滴が頑丈な肩を濡らしていく。教会の尖塔が、闇に向かって槍を突き刺すように建っていた。彼は教会の脇の道を入り、墓地へ出た。多くの十字架が並んでいる。その一つに、まだ真新しく、土も赤茶けたところがあった。彼はその前に立った。

 親方は妻にさえ買った事の無い花束を、雨に濡れる十字架の前に置いた。「安心しな、あいつは俺が育てているから」

 

 ヨハンは靴をつくり続けた。ほとんど席を離れることは無く、尻は痛くなり手は真っ赤になった。しかし苦痛だとは思わなかった。むしろ快楽だった。自分にはやることがあるのだ。この靴を完成させること、そしてアンナに渡すこと。そして……

 親方は容赦なくヨハンの靴を指導した。うまくいくまで、何十回も繰りかえさせた。そんな日々が数日ばかり続いたある夕暮れ時、ヨハンの手が止まった。黒ずんだ手の中には、二つの靴があった。この手が作り出した、初めての靴だった。ヨハンは大きく息を吐いた。感慨無量だった。

「ついにできたか」親方の遥かに大きな手が、その靴を掴んだ。斜陽に照らしながら、その靴を職人の目で見た。ヨハンは息をのんだ。「ちっちゃな靴だな……」親方は笑った。「これと同じものをあと何個か作れれば、お前にここを引き渡せる。完成だ」

 ヨハンはその靴を受け取った。一瞬の喜びと、新たなる決断が彼の心に湧き出てきた。彼は大きく頭を下げた。

「ありがとうございました!!」その声は、夕暮れの色合いによく合っていた。

 その晩、ヨハンはアンナに渡す靴を麻袋に入れ、ベッドの横に置いておいた。そして窓の外を見た。彼の目は迷いなく城の方を見ていた。彼は自分の歩むべき道を見ていたのだ。真実から逃げないこと、彼はこの靴を造るとき心に誓ったことだ。彼は木窓を閉め、すべてを清算するように眠り込んだ。まだ靴をつくった余韻の残る指を、ぎゅっと握り締めながら……。

 朝が来た。清々しい早朝、彼は靴の入った袋を持ち、下の工場へ降りていった。まだ誰もいなかった。窓から入る光が、粉塵を浮かび上がらせ、光の道をつくっていた。彼の青い瞳は、工場の中を見回した。静けさと、新たな一日を感じながら、彼は工場を後にした。

 ヨハンは城下町を出て、麦畑の中を走っていった。黄金の稲穂が海のようになびいていく。遠くでは、刈り入れの準備をしている農民たちの姿が見えた。彼は気持ちよかった。全身に風を受け、風が服を掻き乱だし、服の中を撫でながら逃げていく。風に奪われないように麻袋を強く握った。丘の上に屋敷が見えてきた。

 彼が屋敷の前に立ったときには、すっかり息が切れていた。塀の所に腰を下ろし、真っ青な空に向けて大きく息をはいた。爽やかな汗が額に流れた。ここからは麦畑が一望できた。もう半分ほど刈り入れが終わっている。そういえば、もうすぐ収穫祭なのだ。ヨハンは息が整うまで、米粒のような人間が、稲穂の茫洋とした海に挑んでいく様子を見ていた。

 ヨハンは立ち上がった。そして、屋敷の門の中に入っていった。広い庭を歩いていき、大きな扉の前に立った。最後に袋の中を覗いた。綺麗な靴が二つ入っていた。手を握り締め、ドアを叩いた。妙に軽快な音が響いた。しばらくして、聊か横に広い中年女中が現れた。彼女の目はヨハンを探るように見た。

「どなたです?」

「僕、ヨハンといいます」彼は帽子をとり挨拶をした。「アンナに頼まれていた靴を持ってきました」

「お嬢様に? ちょっと待っていてください」彼女は大きな体を揺すりながら屋敷の奥のほうへ消えていった。そして裏から黒いドレスを着た背の高い女性が現れた。アンナの母親だった。

「あなたがアンナの靴を?」

「はい、僕、マックス親方の工場で修行しているヨハンといいます」ヨハンはさっきより丁寧にもう一度挨拶をした。

「あぁ、お祖母さんがよくお世話になったマックスさんのところの……」アンナの母はこれが娘のよく話すヨハンか……というかのように、ヨハンのことを観察した。「アンナなら、もうすぐ来ると……」

 そのとき、あの大柄の女中がこっちに向かって走ってきた。表情が今にも叫びだしそうだった。

「奥様、お嬢様が部屋から消えてしまって……」

 アンナの母は頭を抱え、ふぅーとため息をついた。女中に畑の方を探すように指示すると、ヨハンのほうに向きかえった。

「喪に服さなければならないのに、あの子は……。ヨハンさんでしたっけ、あいにくアンナはどこかへ消えてしまって」

「そうですか」ヨハンは瞳を袋のほうに移した。彼はその袋をぎゅっと握り、アンナの母に差し出した。「じゃあこれ。アンナに渡してくれませんか」

「えぇ、じゃあ預かっておきましょう」彼女の長い指が荒い袋を掴んだ。「ところで御幾らかしら」

「いいんです。お金はいいんです。ただ……、だだ、アンナに『ありがとう』と伝えておいてもらえませんか」

 アンナの母の口が開く寸分前に、ヨハンはすばやく頭を下げて駆けていってしまった。彼はすばやく、瞬く間に門のところまで走り去っていった。アンナの母は怪訝そうな顔をして、袋の中に手を入れた。そして、二つの小さな靴を引っ張り出した。不思議な魅力のある靴だった。彼女は静かに元通り袋に入れた。

 

「ちょっとあんたたち、お嬢様を見なかったかい」

 太った女中が麦を刈る農民たちの背中に向かって叫んだ。農民たちは、背を伸ばし顔を上げる。そして、困惑したような顔で互いに見た。しばらくの沈黙の後、スカーフを深くかぶった小さな女が叫んだ。

「みなかったよ」

「そうかい、見かけたら、屋敷のほうへ知らせておくれ」そういうと、女中はスカートを掴み、大きな体を揺らしながら走っていってしまった。スカーフをかぶった女は、笑いながらスカーフをとった。アンナだった。

「お嬢様、ここは私たちで大丈夫ですから、屋敷のほうへ戻られたほうが……」

「迷惑はかけないから、もう少し手伝わせて。真っ暗な部屋で真っ黒い服を着ているの、もういやになっちゃった」アンナはそういい、鎌を再び動かし始めた。農民たちもため息をつき、再び作業を開始する。そんなとき、畑道を駆けていく、小さな影があった。意を決したように、まっすぐと森のほうへ走っていく。そんなこと、アンナは少しも気がつかなかった。ただ不安から逃れるように、汗を垂らしながら茎を刈っていた。

 

「おじさん、これを受け取ってほしいの。きっと高価なものだから、いままでのお礼に」イザベレは指から指輪をはずし、老人の手の中に渡した。そして手でぎゅっと握らせた。

「さようなら」彼女は溢れ出てくる涙をこらえて、森のほうへ歩いていった。

「まってくれ」老人がしゃがれた声で呼び止めた。

 彼女がゆっくりと戻ってくる。そして、老人の目の前に立ち止まった。彼は目をこすった。そこには、髪を風に乱し、青空よりも澄んだ瞳の、一人の少年が立っていた。ヨハンだった。老人は大きく息をつき、髭を撫でた。

「夢を見ていたようだ……」

「お願いがあってきました」

 ヨハンの心は、誰も知らない森の湖のように静かに、そして穏やかに輝いていた。

 

 白い城壁に囲まれた城の中庭に、摂政と各閣僚が集まっていた。彼らの輪の中にはターバンを巻いた一人の商人がおり、細長い棒状のものを持っていた。

「こんな棒で、なにができるというのだ」甲高い声の摂政が、その棒で商人の頭を軽く叩いた。「お前が異民族を駆逐した武器を見せるというから、わざわざ大臣にも集まってもらったんだ」

「いえいえ、そのように使うのではございません」商人は摂政から棒を取り上げた。「まぁ、見ていてください。おい、準備しろ」彼は小使に棒状のものを手渡した。

「この武器には如何なる鎧も、盾も通用しないでしょう。まずこのように縦に置いていただき、先頭の部分を掃除いたします。そのあと、遥か東方より伝わったこの粉を入れまして…」商人は細々と説明を加える。そして、準備の終わった棒状のものを受け取った。そしてきょろきょろとあたりを見回す。

「どうした、はやくやってみろ」

「いや、その、狙うものが必要なのです」

 摂政の指が、庭の中央にある石膏像を指差した。今は亡き王の像だった。

「よろしいのですか?」

「早くやれ」摂政は腕を組んだまま、じっと像のほうを見る。商人は棒を肩にかけ、その先を石膏像のほうへ向けた。丁寧に標準をあわせた後、凄まじい爆音が場内に響いた。池で水面に上がっていた魚は逃げ、鳥が木々から飛び立った。

 摂政は耳を押さえ、脳に響く爆音に耐えた。辺りには硝煙の臭いが立ち込める。辺りの音が、鼓膜を突き抜ける奇妙な音によって無音化され、目の前にある光景を、より幻想的なものにしていた。さっきまであったはずの像の首が、跡形もなく吹き飛んでいた。手品師に化かされたような、理解に及ばない現実がそこにはあった。

 聴覚が回復するにつれ、摂政は満面の笑みを浮かべた。商人から棒状のものを奪い取り、子供がおもちゃを手にしたときのように弄繰り回した。彼の手の血管は煮えたぎり、その瞳は獲物を前にした獣のようだった。

「いったい、いくらだ」

 商人は微笑みながら小さくつぶやいた。その額に、閣僚たちはざわめいた。摂政だけが、静かに商人のほうを見ていた。

「いいだろう。その額の七割で、百個買おう」

「ちょっとお待ちください」深い皺が頬に刻まれた大臣が進み出た。「いくらなんでも不可能です。ただでさえ再軍備で困窮しているのに……この城の財政が破綻します」

「ある所にはある。そこから巻き上げろ。こんな矮小な額……、勝利がすべてを消し去る」摂政はその棒状のものを、自分を救う一本の糸のように強く握り締めた。

 そのとき、嫌な南風が、死人が肌を嘗め回すように吹き抜けた。

「大変です!! 大変なんです」

 城のほうから伝令使が飛んできた。摂政は石造を破壊した棒から目を離し、伝令使のほうを見た。伝令使は、摂政の耳元で囁いた。摂政の血色の良い額から血の気が引いていった。そして、手が震えていた。

「この件は、延期する」

 彼はそう言うと、長いローブを翻し、城のほうへ走りこんでいった。

「いったい、なにがあったんだ」

 大臣の一人が伝令使の服を引っ張った。伝令は、枯れた喉の奥からでる、なんとも奇怪な声で言った。

「イザベレ王女の娘を名乗る人物が、現れたんです」

 

 摂政は、警備隊を引き連れ応接室に押し入った。弓や鎧で武装した警備隊は、部屋をぐるりと取り囲み、髭の伸びた老人と、フードを深くかぶった小さな人物を包囲した。弓を構えはしないものの、すぐにでも発射できる状態にあった。摂政は、わずかな距離を走っただけにもかかわらず、毛穴から汗が滲み出ていた。

「貴様らか、イザベレの娘を名乗る残賊は」摂政の灰色の瞳が、薄汚い老人を睨みつけた。「そんな陳腐な嘘が通用すると思っているのか」

 老人は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして隣に座る人物の肩に手を置いた。

「陳腐な嘘に、たいしたお出迎えを……」老人は、四方に広がる兵士を見た。「確かにあなたは不安なはずだ。王やイザベレを殺せても、あなたは王女の娘カタリーナだけは殺せなかったのだから」

 摂政は、手を振り上げた。そして、神経を震わせながら叫んだ。「この残賊どもを捕らえろ」

 兵士たちが襲い掛かる前に、老人は小さな指輪を巧緻な装飾の施されたテーブルの上に置いた。「これが、皇女カタリーナだと証明するものです」

 兵士たちは行動を止めた。紋章の彫ってある指輪が、辺りの空気を奪い去ってしまったようだ。

「馬鹿な、そんなもの、城下町の露天に幾らだって並んでいる」

「いや、待ちなさい」

 摂政に遅れて、大臣たちが部屋に入ってきた。年配の大臣は、摂政を押しのけその指輪を手に取った。

「これはイザベレ王女の婚約指輪だ。間違いない」なにか言おうとした摂政を押さえつけて言った。「王の指輪を取ってきてくれ。宝物庫にあるはずだ」

 

 城の中で、ちょっとした騒ぎが起きているとき、城下町でもちょっとした騒ぎが起きていた。バケツを使って掃除をしていた女たちが叫びをあげた。水溜りを飛び跳ねていた子供も驚きで足を止めた。ガラス職人のアドルフは、驚きでカラス細工を落としてしまった。

 街中の、ありとあらゆる反射面に、奇妙な映像が写っていたのだ。その映像は、兵士たちに包囲された老人とフードを被った小柄な人物が街の住人がよくっている摂政とが対峙しているものだった。どこから聞こえるのか分からない声が、頭に響いてくる。まるで、水面に映る人々が話をしているようだった。

 

 下士官が小さな箱を持って戻ってきた。大臣はそれを受け取り、中に入っている、如何なる金属にも例えようのない輝きを持った指輪を取り出した。大臣はそっと二つの指輪に接吻させるように近づけた。二つの指輪は、互いに補い合いながらぴったりと一致した。ほとんど見えなくなった指輪のつなぎ目に、巧妙な技術で文字が彫ってあった。

「カール王とイザベレ姫の婚約をここに証明する」

 摂政の顔が激しく引き攣っていた。その姿は非常に貧弱なものに見えた。兵士たちの中にもざわめきが広がっていく。

「カタリーナ姫は、王妃処刑の晩、忽然と姿を消したのです。王妃が自ら殺めたとも、何者かが城外に連れ去ったとも言われました。いま生きていたとしても、何の不思議もない」大臣の深い顔立ちの中に、僅かな微笑を浮かべながら、フードを被った小柄な人物の前に立った。「顔を見せていただけませんか」

 そのときだった。石造の場内に、爆音が幾重にもなって広がった。髭を伸ばした老人から直線に広がった人間の空白の先に、一人の男が棒のようなものの先に煙を燻らせて立っている男がいた。彼の顔は浅黒く、頭にはターバンを巻いていた。

 彼から発射された小さな鉄球は、まっすぐ老人の頭蓋骨に向けて進み、老人の額の目前で、まるで時が停止したように止まった。その鉄球は、やがて役目を終えたように地面にころがった。

 老人と商人がこの舞台の主役となり、他の者はただ呆然と、奇々怪々な現実にただ目を奪われる観客と化した。ターバンを巻いた商人は、その憎悪に満ちた兵器を置き、大きく手を開き、大衆に呼びかけるように言った。

「私は旅商人でして、数多くの国を廻ってきました。その国々で数多くの噂を耳にしますが、ここから山を太陽の登る方向へ二つほど越えた街に、実に興味深い噂がありましてね」商人は老人のほうへ歩み出て、足元に落ちた弾丸を拾い上げた。「少し昔、その街には、悪魔の子供が生まれたそうで、その子供は生きているものの命を奪い、その力で家を動かしたり、モノを消したりしたそうです。親でさえ、その存在を恐れ、その子を納屋へ閉じ込めた。自分の命を奪われてはかなわない、と誰一人としてその納屋に近づく者はいなかったそうです。しかし、街中で疫病が流行り始め、多くの人が死んでいった。街の人々は、その元凶を排除するため納屋に閉じ込めた悪魔の子を殺すことにした。しかし、この街で、彼を殺すことができるほど勇気を持つ者はいなかった。そこで、遥か遠方から来た旅の剣士に悪魔退治を頼むことにしたそうです。その剣士は心優しく、無報酬でその役目を請け負った。彼は刀を抜き、納屋へ向かっていった。そして、小さな呻きの後、黒く薄汚れた影が納屋から森のほうへ逃げて行ったそうです。町民が納屋の中にはいっていくと、無残な剣士の死体があった…」

 商人は、聊か高い位置にある老人の顔を見た。老人の髭の奥では、恐怖におびえきった表情があった。

「みなさん、見たでしょう。私の放った鉄球が彼の額の前で止まり、ポトリと落ちたのを。彼こそが、悪魔の申し子です。まさか、こんなところで会えるとは」商人は、客人を紹介するかのように言った。

 老人の脳裏には、幾度も自分の命を奪おうとした刃が振り下ろされる様子が繰り返されていた。老人の萎れた手が、強く憎悪とともに握られた。人々の嫌悪に満ちた眼孔が、彼の心の闇をより深くした。そんな時、温かさが彼の手を包んだ。老人の怯えきった瞳が、隣にシャンとして立つ、小柄な人物を見た。その人物はフードの下で、温かい微笑みを浮かべた。怒りや憎悪や恐怖が、鉄が熱を失っていくように消えていった。

「みなさんは、こんな悪魔の言うことを信じるのですか」商人の声が場内に響く。

「もし彼を悪魔と形容するのなら、私は貴方をなんと形容したらよいのでしょう」フードを被った人物が始めて口を開いた。静かで、それでいて光を含む声だった。その人物は老人から手を離し、前へと進んでいく。「あなたの持つその武器は、いったい何のためにあるのです? 貴方の売ってきた兵器は、人間に対してなにをしてきたのです?」

不思議な波動をもつその人物に、ある人は惹かれ、そしてある人は恐怖をおぼえた。兵士たちが、一斉に弓を構える。

「その見苦しい武器をしまってください。悪魔より恐ろしいのは、憎悪をもつ人間です」

 商人はこの人物を前にして、背筋が凍りつくのを感じた。手に持っていた棒状のものを、フードの奥にある顔面に向けた。

「貴様……、貴様はだれだ」

 フードの人物は、闇の奥に隠れていた顔を、光の中に曝け出した。流れるような金髪がフードから流れ落ち、澄んだ薄く青い瞳が、陽光を受けて輝いた。兵士たちはただ目を奪われ、摂政は顔が引き攣り、大臣たちは息をのんだ。そして商人は、そのりんとした顔立ちに、逃げるように一歩下がった。

「私は、カール王とイザベレ姫の娘カタリーナです」彼女の声は不思議な満足感と大きな自身を持っていた。兵士たちは、構えていた弓を下ろした。

「馬鹿な!! こんな悪魔の幻想を信じるな! 打て!!! 撃ち殺せ」摂政は押しつぶされそうな恐怖から叫びを上げた。しかし、広野で泣く子供のように、もうむなしく響くだけであった。商人は、手に持った兵器を捨て、その場から逃げだした。摂政は身を守る盾のようにその武器を取り、震えながらカタリーナの方へ向けた。

 彼女は動ぜず、イザベレに良く似た青い瞳で摂政を見返した。

「私は、私の両親の命を奪ったあなたを、多くの国民を苦しめているあなたを、そして、これからも数知れぬ命を奪おうとしているあなたを、許すことはできない。その武器を捨て、すぐにこの国から去ってください」

 摂政は気がふれたかのように、奇声を上げながら笑い出した。

「確かにそうだ。お前の両親の命を奪ったのは私だ。しかし、そんな真実、何の意味がある!! ここにいる大臣たちを見ろ、こいつらは自分の利益の向くほうにしか動かない。武器を持った兵士たちを見ろ、こいつらは力で秩序を維持する人形だ。何の力もない民衆には、真実を隠し、耐え忍ばせればいい。それが政治だ。ここでお前を殺せばなにも変わらない。なにもなかったように、すべてが進行するのだ」

 しかし、現実は違った。街中のガラス面に映し出された映像を見た人々は、怒涛のように城へ押し寄せた。彼らの流れは城門を押し開け、押さえつけられていた水が溢れ出すように、一気に城内へなだれ込んだ。その音は城内に響き渡った。大臣や兵士たちは窓から身を乗り出し、その光景を目にして唖然とした。

「見てください。もう、城と民衆の間の城壁が決壊した。もう、時代が動き出したのです」

 摂政は、その民衆の蠢く鼓動を耳にして、すべてが奪われたように赤いじゅうたんの上に倒れこんだ。虚しい武器は捨てられ、完全な敗者としての摂政が残った。カタリーナはゆっくりと地に蹲る摂政に近づき、怒号が響く中、冷たい感情を持たない声で言った。

「あなたの娘を連れて、この国を去ってください。そして、二度と姿を現さないで下さい」

 摂政は、脂ぎった髪からハイエナのような目を覗かせていった。

「俺を殺さないのか? いつか必ず後悔することになるぞ」

「死ぬことの苦しみより、生きることの苦しみを味わってほしい。断罪に処しても憎しみしか残らない相手を、殺す理由が見つかりません」

 摂政は二回ほど引き攣った声で笑った後、誰もが民衆の暴動に目を奪われる中、誰の目に付くでもなくその部屋を後にした。カタリーナは不思議な空気の漂う部屋の中を見回した。耳に響くすべての声が、風の音よりも無意味に聞こえた。そして、ゆっくりと髭のはやした老人のほうへ戻っていった。

「上手くいったようだな」老人は摂政の去った部屋と、民衆のざわめきを満足げに聞きながら言った。「私の魔法も、少しは役にたったようだ」

 カタリーナはその老人の手を握った。その手は、気味の悪いぐらい冷たく、氷を握っているのではないかと誤解するほどだった。彼女は老人の顔を見た。その顔は蒼白で、まるで命を吸い取られたようだった。

 老人は、カタリーナに手を握られたまま、紅い絨毯の上に倒れこんだ。

 

 太陽が一番高い空にいるころ、丘の上の屋敷に一人の青年が駆け込んだ。アンナの母はアンナに編み物を教え、アンナの父はソファーでパイプを燻らしていた。刈り入れの終わった、静かな正午だった。

 血相を変えて飛び込んでくる青年に、その瞬間が凍りついた。

「随分、早いな」アンナの父パイプを置き、今夜の収穫祭のために収穫報告をしに城へ向かった青年の方を注視した。「どうだったかね」

「それが、大変なんです」その青年は興奮と息切れで、激しく動揺していた。アンナは暖炉の上の水差しから水をコップに注ぎ、汗に濡れた青年の手に渡した。

「ありがとうございます、お嬢様」彼は水を一気に飲み干した。

「それで、なにが大変なの」アンナは漏れ出てくる恐怖を心に抱いて尋ねた。

「それが……、なんと言うか、まるで魔法みたいで…、城下町の窓やら水溜りやらに摂政たちが映し出されて…、声も聞こえるんです。それで、そこにはカタリーナ姫を名乗る人物も映し出されていて…」

「カタリーナって、それ、イザベレ女王の娘の!?」アンナは青年の汗に濡れた服を掴んだ。

「多分……、街の人々は姫が帰ってきたんだ、神の啓示だ、と叫びだしてみんなで城に押し寄せたんです。ですから、収穫報告どころじゃなくて…」

 アンナは自分の血の気が引いていくのが分かった。気を緩めたら倒れてしまいそうだった。母からヨハンが持ってきたという靴を受け取ったときから感じていた恐怖が、化学反応を引き起こし爆発した。

「ヨハン……」アンナは父の方を向いた。「お願い、今からどうしても城に行きたいの。許して」

 アンナの父は、アンナの瞳に浮かぶ真剣さに、決して揺るぎないものを感じた。アンナの母が否定語を喚く中、彼は暖かい手をアンナの背に置いた。

「どうしても行く必要があるんだね」

 アンナの尖ったあごが、小さく頷いた。父は諦めたように笑った。

「行きなさい。急ぐなら私の馬を使いなさい」

 アンナは微笑み返し、外出着を取りに部屋に走った。薄手のコートを手にしたとき、机の上に置いてある麻袋を見た。恐ろしさがこの靴をそのまま放置させておいたのだ。彼女はそれを掴み、玄関のほうへ走り出た。

「あなた、馬ってどういうこと!?」母の怒声を聞きながら、アンナは風の冷たい外へ出た。黒い毛並みの美しい一頭の馬が、白い鼻息をはき出しながら、蹄を鳴らしていた。清々しい空気が、城に向かって真っ直ぐ吹いていた。麻袋を強く握り締めた。中に入っている靴の感触を確かめた。アンナの首に、温かいマフラーが巻かれた。厳しい顔の母が立っていた。

「夕方は冷えるから、ちゃんと巻いていきなさい」

 アンナは母をそして父を見た。父はアンナを抱き上げ、馬に乗せた。そして、馬は一気に走り出した。父と母と屋敷の姿が小さくなっていく。まるで人生を決断する結果が待っていくかのように、冷たい風に吹かれるアンナの心は様々な感情が燃え滾り、理性というものは存在しなかった。ただ、純粋に、目前の世界が広がっているのだ。

 父から密かに教えを受けた乗馬の腕前はたいそうなものだった。馬に流されることなく、自分の身体を馬の隆々と流れる筋肉の一部にして走った。刈り入れの終わった畑を抜け、街はもうすぐそこだった。

 城下町に入ると、その異常さに心を打たれた。人影は見当たらず、収穫祭の準備は投げ捨てられ、まるで猛獣が襲ってきて皆が逃げ出した後のようだった。風が吹くたびに、路面を粉塵が横切る。アンナはゆっくりと馬を進めていった。そして、大きな水溜りの前で止まった。

 その水溜りの中には、あまりにも不思議な映像が映っていた。城の中のような場所に、摂政と兵士、フードを被った小柄な人物そして老人の姿が映っていた。その老人は、アンナが忘れもしない、あの湖の老人だった。

 アンナは転がるように馬から落ち、水溜りを注視した。すると、どこからともなく、まるで直接鼓膜を揺らすように声がしてくる。

「貴様……、貴様はだれだ」

 ターバンを巻いた人物が、震えながらフードの人物に棒を構えている。フードの人間は、その手でフードを下ろした。アンナは息をのんだ。その顔、光の中に顕わになったその容貌は、間違いなくヨハンのものだった。しかし、長い髪をもち、顔には薄っすら化粧をしているようにも見えた。そしてなによりも、その表情が、アンナのいつも見ている工場のヨハンとは違った。

「私は、カール王とイザベレ姫の娘カタリーナです」

 そのヨハンはそう、迷いなく言い放った。その言葉はアンナの胸に突き刺さった。彼女は、自分の中のパンドラの箱が開かれたような気がした。彼女は馬を見捨て、ヨハンの工場の方へ走っていった。決して信じたくない現実が、今ここで起こっているのだ。街中を駆け抜ける彼女の足は、小さくなった靴で擦り切れた。しかしそんな痛み、感じることさえ難しかった。

 彼女は工場に飛び込んだ。中は、洞窟のように静まり返っていた。机の上には工具が散らばり、人は誰もいなかった。木窓からの光が、時が止まっていないのを示していた。アンナはそっと工場に入っていく。胸が締め付けられる思いがした。

「ヨハン……」彼女は梯子に向かって叫んだ。その声は震えていた。「いるんでしょ、出てきてよ、ヨハン!!」

 答えはなかった。世界にたった一人、自分と言う存在が取り残されたような気がした。彼女は光の照らすヨハンがいつも座っていた椅子へ歩いていった。そこだけは、なんの工具も出されていなかった。アンナはそこで、崩れこむように座り泣いた。自分の人生から光が消失していくようなきがした。麻袋が紅潮した頬に擦れ痛かった。

 

 城に押し寄せた民衆たちは、皆中庭まで押し返された。兵隊たちは各門を固め、民衆の侵入を防いだ。行き場を失った民衆から熱気が消えることはなく、みな口々にカタリーナの名を叫んだ。いつの間にか、それが大きな叫びとなり、城中を揺るがすまでに拡大した。

 そんな叫びの中、カタリーナはベッドの上に寝ている老人の横にいた。彼女は、温かい瞳で老人の方を見ていた。

「私を軽蔑しているかね」老人は、小さく口を動かしていった。「あの商人の言ったことは真実なんだ。私はあの騎士の命を奪い、その力で小屋を建て花を咲かせ、湖をつくった。私はその中に住み続けたんだ。そして、もしあの時おまえが私を止めていなかったら、きっと商人の命を奪っていただろう」老人は苦笑した。カタリーナは老人の手を強く握った。

「私が、自分の命を使って魔法を使ったのは二度だけなんだ。始めは、おまえを男に変えたとき……そして二度目は今日だ」老人は激しく咳き込んだ。カタリーナはやさしく彼をさすった。老人は微かな声で言った。

「ここまで上手くいったんだ。最後まで、ちゃんとやり遂げるんだ。おまえの声は、人々に届く。そして……、工場にいるあの子のところへ行ってやりなさい」

 老人の目が静かに閉じ、そのまま急速に命を失っていった。カタリーナは、自分の中に彼の命を感じた。人とは違う力を持った魂が、何事もなかったように天へ消えていった。彼女は彼の手を置き、そして、最後に立ち向かうべく民衆の叫びに向かって立ち上がった。城内を揺るがす人々の歓声、彼女は真っ直ぐとバルコニーへ歩みだした。

 メイドの一人が彼女の前に歩み寄った。

「姫、そのような姿では……、まずお召し変えを」

 しかしカタリーナの歩みは止まらなかった。ただそのメイドに小さく呟いた。「王冠を私に」

 バルコニーの光の下に現れた彼女の姿を見た民衆は、歓喜の叫びを上げた。天上から現れた天使であるかのように、人々の瞳は輝いていた。カタリーナは今まで感じたことのない、溢れる顔の洪水と熱気に、ただの一個人として恐れを感じた。しかし、彼女は歩み続け、バルコニーの最先端まで来た。

 彼女は大きく深呼吸をした。そして、人々の歓声が静まるのを待った。人々の中には、彼女の知る顔もあった。同じ工場で働いていた連中、隣のおばさん、そして姉であるハレーナの姿も見えた。

 嵐のようなざわめきは、急速に静まり、新しい女王の声を待った。

 カタリーナは、なにも恐れることはないと思った。ここにいるのは、みんな、いままで生活を共にしてきた人々だ。靴を造り、売ってきた人々だ。

「こんにちは……、私は皆さんのことをよく知っています。皆さんが、城による無意味な搾取によって苦しんできたことも、自分を犠牲にしてまで大切なものを守ろうとしてきたことも……」

 彼女の声は、魔法のように人々の耳に響いた。そして誰もがバルコニーの上に立っている人物が、とても自分に近い存在に感じた。まるで街角であったことがあるかのように……

「それなのに、来るのがこんなに遅くなってごめんなさい。私は、もう少し早く来るべきでした。でも、信じてください、もう不当な権力によって私たちが抑圧されることはありません。権力はこんな城の中に特定の人物に譲渡すべきものでないのです。あの摂政は、己の利益にしか感心のない人々に、力でものを言わせる人々に、現状の変化を恐れる人々に生じる闇を利用し、私たちを苦しめてきました。私たちは、同じことを再び繰り返してはなりません」

 カタリーナの後ろに立つ大臣たちは、呆気に取られた。彼らが期待していたのは、ただ民衆を魅了する象徴だったからだ。そして、メイドが彼らの間をすり抜け、カタリーナに王冠を渡しに来た。

 カタリーナは「ありがとう」と小さく言い、その王冠を手に持った。貴重な宝石が散りばめられた、今までに見た事のない美しさだった。

 彼女はその王冠を、思いっきり人々のほうへ投げた。群衆の波の中へ落ちて行き、人の波に飲まれて王冠の存在は闇に消えた。

「この王冠は、いまや皆さんのものです。この国の進むべき道は、皆さんの力によって決定されなければなりません。そうでなければ、再び同じ道を歩むことになります。確かに私は、そんなことをするほど皆さんが暇でないことも分かっていますし、何をしたらいいか分からないと思います。ですから、小さなところから始めませんか? 私は、ここにいる政治の専門家である大臣に加えて、武器を持つ者、物をつくる者、物を売る者によるこの国の意思を決定する議会の開設を求めます。もはやこの国に君臨する王は必要ありません。ですから私は、女王という権利を破棄します」

 民衆のざわめきが大きくなった。王のいない国、国民が自分で意思を決定する国、まったく彼らの理解を超えるものだったからだ。

「そんな難しいことではないはずです。皆が自分の望むことを主張すれば、それは自ら形を成していくはずです。一つの意見ではなく、さまざまな意見が引き合うことで、今までのような偏った国が誕生しなくなります。みなさんは今まで通り生活してください。それぞれの職業に一生懸命に生きていく。ただ、自分がこの国の被害者なのではなく、この国に生きているということを実感してほしいのです。あなたたちの力が、この国を圧制から解放しました。その力を、忘れないで下さい」

 カタリーナは大きな義務を終えたように、肩の力を落とした。そして、やさしく微笑みかけた。

「この国にはいろいろな人がいるんです。私も、その一人として生きていきます。皆さんが、いい収穫祭を迎えられることを願っています」

 群集は沈黙していた。皆の顔が、バルコニーの一点を見て呆然としていた。そして何か良く分からない興奮に心を奪われた。拍手が起こった。津波のように押し寄せ、城内を一気に飲み込んだ。

 カタリーナは、人々に背を向け、震える足で城内に戻っていった。城内の闇の中では、大臣たちと将軍が拍手で出迎えた。鼓膜が割れんばかりの歓声を背中に受けて、彼女は彼らに頭を下げた。

「どうか、後のことはお願いします」

 大臣の一人が手を止め、彼女に向かって言った。

「女王陛下、あなたの御本意、深く感銘を受けました。しかし現実的に、陛下の理想をすぐに実現するのは困難に思えます」

「それでいいんです」カタリーナは微笑んだ。「ゆっくり変えていってください。この人々の力を忘れることなしに、あなたたちの出来るように」彼女は多くの勲章を胸につけた将軍の方を向いた。「あなたたちの力は、特定の権力を守るためではなく、国民を守るために行使してください。目先の利益に目を奪われていると、結局被害を受けるのはあなたたちです。現に宰相は再び戦争を起こそうとしていた。どうか不幸のためではなく、幸せのために力を使ってください」

 将軍は彼女に向かってゆっくりと敬礼をした。彼女は真っ直ぐ歩き始めた。本当に向かうべきところへ……。階段まで来たとき、あのメイドが追いついてきた。

「女王様、行かれてしまうのですか? 色々準備しておいたのに」彼女はカタリーナの方をじっと見ていた。

 カタリーナは目の前にいる同年代の少女に対して緊張が解け、初めて女王と呼ばれることに恥じらいを感じた。そして、友達に語りかけるような気軽な声で、微笑みながら言った。

「ごめんなさい、大切な人が待っているから」

 

 夕日が、人々の消えた城下町へそそいでいる。一日の最後を告げる眩しすぎる斜陽、そしてそれによって生じる闇がどんどんと大きくなっている。アンナはそんな闇の中にいた。光の届かない工場の隅で、もう目は赤く腫れ、一滴たりとも流れる涙は残っていなかった。世界の終焉のような虚脱感が彼女を襲った。もし彼女の前に断崖絶壁があったのなら飛び降りていたかもしれない。いや、その存在さえも彼女の目を奪うことはないだろう。眼前にあるのは夜を迎える闇だけなのだ。

 彼女の細い指が涙で濡れた麻袋を撫でた。ギィ……という音がした。温かい光が工場の中へ流れ込んできた。冷たい夕方の北風が、彼女の乱れた髪を揺らした。

「アンナ」

 彼女の耳に、風がそう呼びかけた。アンナは嘲笑した。ついに耳がおかしくなったのか……そう思った。なぜなら、その風の声は、彼女が今一番慕っている人物の声で語りかけてきたからだ。

「アンナ……、新しい靴はどうだい?」

 風は誘惑をやめなかった。アンナは目を拭き、風の流れてくるほうを向いた。眩しい光が、彼女の目をくらませた。ドアから溢れる光の道が、彼女の小さくなった靴の先まで届いていた。そしてその光の洪水の中に、一人の人物が立っていた。長いローブを着て。美しい金色の髪が、光の川を流れていた。

「ヨハン……なの?」

 その人物は、ゆっくりと歩き出した。そして自分の髪に手をやり、引っ張った。美しかった金髪は、丸ごと地面に落下した。そしてその人物はローブにも手をやり止め具を外した。流れるように体から離れ、いつもの作業着が現れた。ぼろくて汚いけれども、職人の匂いのするアンナのお気に入りの服だった。

「ただいま」その人物は……、ヨハンは光の中で笑っていた。そして、その光は工場の中へ一斉に広がっていった。

 アンナは水の中に落ちた宝石を捉えるように、光の中へ飛び込んだ。そして、彼女の何よりも大切な宝石をしっかりと掴み取った。ヨハンもそれを受け止め、背中には陽光の温かさ、胸にはアンナの胸から伝わる心臓の温かさを感じた。アンナの瞳から枯渇していたはずの涙がこぼれた。あたりまえである。これは、流しつくした悲しみの涙ではなく、喜びの涙であるのだから……

 

 火がすっかり沈み、辺りは暗くなった。街には人々が戻り始め、家々に光が燈っていった。すべてが静かに、日常へと戻っていく。ただ、もういつもと同じ日常には戻れない。人々の奥底では、なにかが変わってしまったのだ。

 そして、人々は松明をもって中央広場へ集まり始めた。収穫祭の前夜祭、松明行列のためだ。その様子を屋根の上で見守る二つの人影があった。アンナとヨハンだった。

「お婆さまは、寝る前によく昔話をしてくれたの。その話には、いつも必ず森の奥に住む、寂しがりやの魔法使いが出てきたわ」アンナは、星の下に佇む城を見た。あの騒擾が嘘のように、静かな威厳を持って建っていた。「でも、みんなハッピーエンドで終わった……。これってハッピーエンドかしら」

 アンナはヨハンの方を見た。ヨハンはじっと、広場で聖火をもらう人々の様子を見ていた。

「まだ終わっていないさ。今、始まったんだ」

 松明を手にした人々が、街の中を歩き始める。一つ一つのか細い光が一本の列になっていく。アンナは屋根の上に立ち上がり、その細い手をヨハンのほうに差し出した。

「踊りましょう」

 ヨハンは月明かりで輝くアンナの手を見た。そして俯いた。

「踊り方が分からないんだ」

「あら、一国の女王がダンスも受けられないの?」アンナは皮肉っぽく笑った。ヨハンはアンナの手を掴み立ち上がった。

「靴を造れる女王のいる国は、世界のどこを探してもここだけだろ」

 ヨハンは、アンナの足元にあった麻袋を手に取り、中から靴を取り出した。僅かな明かりが、静かな光沢となって靴の上で光った。アンナはそれを受け取り、今まで履いていた靴を脱いだ。彼女の足の踵は擦り切れ赤くなっていた。アンナはそれを隠すように、慌てて新しい靴を履いた。

 少し大きいけれども、きちんと足にあっていた。アンナは少し歩いたり飛んだりしてみた。

「どう?」

「うん、まぁまぁね。この靴何年もつかしら」

「何年だってもつさ。小さくなったらまた新しいのをつくってやる」

 アンナはヨハンの手を取り、もう片方の手を肩に回した。そして、小さく頬にキスをした。

「私がエスコートするから、あわせて踊って」

 ヨハンはアンナの温かい手を握り返し、腕を少々躊躇い気味に彼女の腰に回した。彼女が足を踏み出す。それに引かれるようにヨハンは足を下げた。

 松明行列が歌を歌いながらこっちへやってくる。明るい歌声が、今年の豊作を感謝し来年の豊作を願う。アンナとヨハンはそれにあわせて陽気に踊った。ヨハンはアンナに振り回されているだけであったが、それでも二人は屋根の上で踊り続けた。星だけの知る屋根の上で、二人の人生は、今始まった。

DAS ENDE

 

 

 

 

あとがき

 半年ぶりのこんにちは。受験のせいで本当に半年のブランクが空いてしまいました。一度発表したものを読むなんて恥ずかしくて出来なかったのですが、以下仕方ないと覚悟を決め、半年前に自分で書いた作品を読み返して見ました。一番困ったのは名前です。アンナとヨハンは覚えていたのですが、マリラとカタリーナとイザベレの名前をすっかり忘れていました。それに、時間がない中、書いたからか、結構文章に荒さが目立ちました。そこで、もしチャンスがあるのなら、princessの上を再編集して、上下一つにして再び発表しようかと考えてもいます。まぁ、どうなるかは分かりませんが…。とにかく、ヨハンとアンナの冒険は、ひとまずここで終わりです。最後まで読んでくれた皆様、そして何よりもこの拙稿を掲載してくださる少年少女文庫様に深くお礼を申し上げ、幕を下ろしたいと思います。それでは、おげんきで…

2005年3月26日

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