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 コンコン、と木のドアにノックが響く。

 中で暖炉のそばに座っていた老人は、ゆっくりと腰を上げる。繰り返し叩かれる扉を前に、しゃがれた声で尋ねる。

「こんな時間にどなたかね?」

「わたしです。おじさん・・・わたしです」

 その老人の眼孔が大きく開き、すぐさまその扉を開けた。外の冷たい風に押され、若い女性が流れ込んでくる。簡素なコートは雪で湿っている。そしてもう一人、毛布に包まれた赤ん坊を持った侍女が入ってくる。

「い・・・いったい」老人は何も言えない。

「おじさん」その女は冷たいからだでその老人に抱きついた。まるで、氷のようだった。

「こんな寒い中・・・」老人はそっとその女の方に手をやる。「なにがあったんだね」

 女は金色の髪をはらい、その老人の瞳をじっと見る。

「この子を・・・この子を守ってほしいんです」

 侍女の手の中には、美しい顔の赤ん坊がいる。

「お願いします。どうか・・・どうか」

 女は侍女からその子を受け取り、老人に渡す。そして細い手で、紅潮した赤ん坊の頬をそっとなでる。

「さようなら・・・」

 その女はそういうと、侍女をつれて、凍える夜の中へ出て行ってしまった。それを追うように、赤ん坊が泣きはじめる。

 老人は小さな命を手に、唖然としてたたずんでいた。




Princess
作:ミスター長崎




 ここはある城下町。収穫祭への活気と、宮中のうわさで街は溢れ返っていた。と言うのも、王が死に、その妻が王女となり、摂政として彼女の父が政権を握ったからなのだ。丘の上の建つ城に、街全体を囲む城壁、その周りには放牧地や小麦畑が茫洋と広がっていた。

 その田舎道をゆっくりと馬車がいく。後ろにはわらが積まれ、上には少女が一人、仰向けに眠っていた。空はどこまでも青い。

 馬車が城壁をくぐり、焦げ臭い城下町に入った。すると少女は「ありがとう」と言って馬車から飛び降りた。服に付いたわらを払いながら裏路地に入っていく。悪臭の立ち込める道を抜けて、小さな工場(こうば)に入った。

「ヨハン! ヨハーン!!」彼女は叫んだ。

 この工場の香りが好きだった。モノを造るにおい。使い古された工具の語る歴史。彼女はゆっくり中に入っていく。切妻屋根から光が差し込み、粉塵を浮かびあがらせている。

「ヨハン?」彼女は上を仰ぎ見る。

「アンナか・・・また来たの」比較的小さな少年がトンカチ片手に梯子の上に立っていた。「悪いけど、いま仕事中なんだ」

 軽やかに飛び降りると、椅子を引いて腰を下ろす。

「あら、遊びに来たんじゃないのよ。今日は靴をつくってもらおうと思って」つんとして言う。

「僕が、君の?」

「そうよ、靴職人なんでしょ」アンナが詰め寄る。「最近すぐ小さくなっちゃうのよ」

「まだ見習いだよ。親方に任せるから型だけ取っとくよ」

 ヨハンは裏にまわって型取り用の板を持ってきた。それをそっと床に置く。

「さあ、この上に足をおいて」

 彼女はスカートを捲り上げ足を置いた。暗い部屋の中で見るその足に、彼は少々どきりとした。気を使いながら丁寧に型を取っていく。

「最近おかしいと思わない? 王が死んでから」

 ヨハンは息を呑みながら黙々と続ける。「ちょっと、聞いてる?」

「あ・・・うん」

「ハパも言ってたわ。このままじゃ農民たちが耐え切れないって」

「そういえば親方も、昨日来た役人ともめてたなぁ」

「どう考えてもあの摂政が問題よ。自分の娘を王女にして、やりたい放題やっていると思わない?」

「あ、逆の足だして」特に耳に入れず黙々と作業をすすめる。アンナはしぶしぶ左足を前に出す。

「あんたはどう思うのよ」

「・・・さぁ、わからないなぁ」ぼんやりという。アンナはため息をついた。ぼんやりとヨハンの顔を見る。厳しい瞳、眉を寄せてじっと集中している姿、アンナはちょっと顔がゆるんだ。そして机の上に腰掛ける。

「あーあ、ヨハンは職人になるのかぁ」高い天井を見ていった。

「まだ、分からないよ・・・」

「いいわね、やりたいことができて。私なんか毎日毎日つまらない勉強ばっかり。フランス語に歴史に作法・・・。今だって逃げ出してきたのよ」

「領主の娘は領主の娘で大変なんだな」ヨハンは手に持っていた石炭を置いた。「終わったよ。たぶん、収穫祭までにはできるさ」

「そう」アンナは靴を履く。「ちょっと大きめにつくっておいてね」

 

 彼女はそれから街に出た。さっきより賑わいが増している。彼女は高揚した気分で目抜き通りを歩いた。そして、ふっと角にいる老婆に目がとまった。「こんにちは、おばあさん」アンナは腰をかがめて言った。

「その声は、アンナかね・・・。久しぶりだね」

「あら、ついこの間あったばっかりよ」彼女は老婆の手をやさしく包む。「なにか面白いお話ない?」

 老婆はしばらく考えた後、深い皺の刻まれた口をゆっくりと動かした。

「これは本当にあった話だがね・・・」

 

 洛陽が始まり、少し風がでてきた。アンナの髪が風に流れる。なにもなくなった馬車の荷台に腰掛けていた。しばらくぼんやりしたあと、言った。

「どうだった? お城のほうは」

 手綱を持った男は言う。

「さっぱりですよ。日に日に厳しくなっていく」

 馬車は陰を長くして、轍の上をいく。

「ねぇ、こんな話しってる?」アンナは荷台から顔を乗り出した。「十二、三年前、私が生まれたころの話。王様は隣国の公爵の娘と結婚したんですって。それはそれは仲むつまじく、幸せな生活だったそうよ。でも、あの摂政・・・当時は家庭教師だったらしいけど・・・が現れてから変わったの。友好を保っていた隣国の公爵との間に軋轢が生じ、ついには戦争まではじめてしまったの。で・・・不思議なぐらい大敗が続いた。間諜がいるんじゃないか・・・と王が思い始めたとき、摂政が王に吹き込んだのよ。『王妃が密告しております』て。王は信じたくなかったけど、その摂政の言ったとおり、王妃に嘘の陣形を教えたの。そうしたら、敵陣がその対陣をとっていたって言うのよ。それが王の逆鱗にふれて、王妃を処刑してしまったんですって。でも、おかしいと思わない? 嘘の陣形を知っているのは、王や王妃の他にもう一人、摂政がいるのよ」

「それは、そうかもしれませんが・・・」俯きながら言う。

「話はこれだけじゃないのよ。王と王妃の間には、一人、女の子がいたんですって。でも処刑の日以来行方不明。もしよ、もしその人がいきていたら今の私ぐらい。摂政の娘じゃなくて、その人が王妃になるべきじゃない?」

 アンナの目は輝いていた。少し世界がステキになったような気がしたのだ。

「よくある話ですよ」男は背を丸めたまま言った。「状況が不安になると、そういう類のうわさが街中に広がるものなんです。それに、その子供も王妃と一緒に処刑されたと聞きましたよ」

「そうかしら」アンナは顔を上げ、丘の上に見えてきた自分の家を見る。うっすら夜の闇がかかってきている。「でも、その王妃っていうのはホントにいたんでしょ」

「ええ、イザベレ王妃・・・。すらりとした、それはそれは美しい女性でしたよ」男はわざとらしく咳払いをした。「いやいや、やめましょう、そういう話は。お嬢様もそういう話は街中でしないほうがよろしいですよ」

「ここなら大丈夫よ。誰もいないもの」

 そういったとき、遠くから蹄の音が聞こえた。彼女は目を凝らす。黒い馬が二頭、巨大な馬車を引いてやってくる。気味の悪いほど黒い。いったい誰の馬車だろう。すれちがった瞬間、激しい風がふく。中はカーテンが閉められ覗けない。そしてこの臭い。どこかで嗅いだような、いやな、大嫌いな臭い。

 彼女はなにか嫌な予感がした。

 アンナは屋敷の前で飛び降りた。なにかが変だ。いま家にいるのは祖母と女中が一人。綺麗に整えられた庭を走りぬけ、入口のドアを開けた。

 あの臭いだ。

 彼女は人の家に入るかのように見回した。そう・・・屠殺のにおい。子牛の頚動脈を切ったときの臭い。・・・そう、死の臭い。

「お婆さま!」

 彼女は薄暗い屋敷の中を走る。角を曲がった瞬間、廊下に女中のヘレナが倒れていた。一歩身を引いて叫びだしそうになったが、勇気を持って駆け寄った。

「ヘレナ、しっかりしてヘレナ」

 彼女は倒れている女中を揺り起こすがびくともしない。アンナは光の漏れているドアの方を見た。お婆さまの部屋だ。震えながら近づく。

 そして・・・

「お婆さま!!」彼女は悲鳴とも取れる声を上げた。ソファーの上に血を流して倒れている一人の女性。

「お婆さま! しっかりして、お婆さま!!!」

 まだ、あたたかい。まず彼女はそれを感じた。彼女は目を大きくした。

「お婆さま! 私よ、すぐ助けを呼ぶから」

 そのときだった。その老婆の口がゆっくり動く。彼女はそれに気がついた。髪をはらい、口元へ耳をむける。

「ナン・・・ナ、森・・・もりの湖へ・・・、あの職人の子と、、、」

 非常に聞き取りにくい。息絶え絶えに言う。

「それって、ヨハン・・・ヨハンのこと!?」

 彼女はゆっくり首を縦に振り、そのまま目を閉じた。

「お婆さまー!!!」

 斜陽が室内を真っ赤に染めていた。

 

 翌日の白昼、今日は早くから教会の鐘が鳴っていた。人の死を知らせる音だ。ヨハンは特に気にも留めず、昨日取った型を親方に見せていた。

「ヨハン、それは自分でやってみるといい」

「え?」

 また鐘が鳴る。

「そろそろよかろう。自分の作品を作ってみるころだ」

「ありがとうございます」

 ヨハンは気持ちを抑えきれずに裏路地にでた。自分の親に弟子入りし、師弟関係を結んでから一年と半月・・・ついに認められたのだ。一度だって褒めてもらえなかった。親子でありながら親子ではない、そんな葛藤の中修行を続けた。それにアンナの靴をつくれるのだ。

 かるくステップを踏んでいた。空に飛んでいってしまいそうだった。

「ヨハン!!」

 アンナの声だった。振り返る。ヨハンの顔が次第にひきつっていく。そこには真っ黒いドレス・・・そう、喪服を着たアンナが立っていた。

「ど・・・どうしたの、その格好」

「ヨハン!!」彼女は駆け寄る。「お願い、すぐ私ときて」

 腕を掴み引っ張り出そうとする。

「は?いったい・・・いったいどこに!?」

「森よ、森の湖によ!」

「ど・・・どうして・・・それに、どこにあるんだよ」

 ヨハンを引く手が弱まる。そして倒れそうになってヨハンに抱きついた。ヨハンは困惑する。アンナの爪が服に食い込む。

「お願い!! お婆さまの遺言なの。最期に、私に・・・」

「お婆さんが亡くなったのか?」

「殺されたのよ!!」彼女の爪がヨハンの体を震えながら引っ掻く。「みんな農民のせいだっていうけど、絶対に違うわ。私、見たのよ。黒い馬車を!! あいつらに違いないわ」

 彼女はヒステリー気味に言う。ヨハンは息をのんだ。

「アンナは大丈夫だったのか?」

「私は平気だったけど・・・でも私が抜け出してさえいなければ、お婆さまを救えたのに・・・私のせいよ。自分勝手なことをして・・・」唇を噛み切るほど強く歯を噛み締める。

「よかった・・・」ヨハンはそっとドレスに手をやる。「アンナが無事で」

 アンナは目を真っ赤にしてヨハンを見る。

「よく分からないけど、行ってみよう。その湖とやらに」

 

 アンナは涙を拭いて街中を走り出した。水路に出る。

「この街の水路はみんな城の後ろの川から分かれてきているの。その川は森の奥から流れてきているわ」

「そうか、その上流をたどれば」

 アンナは頷いた。二人は水路の横をたどっていく。そして彼女の言ったとおり一本の川から分岐していた。その川は広大な森の奥へと消えている。木のざわめき、光の届かない闇、冷たい風、そして大自然の人を寄せ付けない威厳。

 ヨハンの心は急にすくみ、足が止まった。二人の軽装備、それにアンナなんか喪服だ。

「一度帰って準備したほうがいいよ」

 しかしアンナはとりつかれたように、森の中に入っていく。死んだ祖母の魂を探しに行くかのようだ。

 ヨハンはしぶしぶあとを追う。

 森の中は外より遥かに気味が悪かった。奇声のように何かが鳴き、空気はひんやりとして息をさせない。アンナは服が汚れようが破けようが構わず一途に進んでいく。

 ヨハンはこういうことが苦手だった。小さいころから冒険や危険を冒すことが大嫌いだった。英雄や戦争も嫌いだった。できる限り何もせず、静かに生きることが好きだった。

「なのになんで・・・」ヨハンは、ぼそっと言った。

 するとアンナが駆け出した。仕方なく後を追う。今度は突然止まった。ヨハンは背中にぶつかってしまう。

「なんだよ・・・」

「見て」

 アンナが指差す。ヨハンは息をのんだ。

 湖だった。

 鏡のような水面。光が木々の間から射し込み、透き通った水中を泳ぐ魚影が見える。そして、一面に咲き誇る花々。心地よい香りが覆い尽くす。

「天国みたい・・・」

 アンナはゆっくり歩き出す。そして水面にそっと手を沈めた。

「つめたい・・・」森の木々で傷つけた手のひらを癒していく。「こんな場所があったなんて・・・」

 ヨハンは注意深く進んでいく。奇怪だった。あまりに整然としすぎている。絵画のようだ。向こう岸に小さな小屋があるのを見つけた。

「誰か、住んでいるのかなぁ」

「確かめて見ましょう」

 止める間もなくアンナが猛然と歩いていく。小さな小屋だがかなりの年月を経ているようだ。アンナがなんの躊躇もなく扉を叩き、ヨハンが小さく開けられた窓から中を覗こうとしたときだった。

「そこにいるのは誰だ!!」

 しゃがれた声が飛んでくる。恐る恐る振り返る。長い白い髭の男が立っていた。厳しい瞳で睨みつけている。

 しかし、ヨハンと目が合った瞬間、その表情が崩れた。バケツが手から滑り落ち、水かばらまかれた。呆然と立ち竦んだ後、震えながら近づいてくる。ヨハンのすぐそばまで来ると、あまりに巨大なものを前にしたように、ただ動けなくなっている。

「まさか・・・君は・・・」

 ヨハンは顔をしかめる。アンナは両者を交互に見る。

「大きく、大きくなったな・・・」老人の中で湧き上がる感情が声を振るわせる。

「知り合い?」

 ヨハンは首を横に振った。

「ここではなんだ。小屋の中で話そう」

 

 二人は小さな小屋の中に招かれた。ごちゃごちゃといろいろな物が散らかっている。窓辺には、老けた猫が一匹寝ていた。

「おじいさん、なにか勘違いしていませんか?僕、ヨハンですけど・・・」彼は遠慮がちに言う。

「いいや、間違っておらんよ。よく似ている、よく似ているよ」

「すいません」アンナは声を震わせながら言った。「私の祖母がヨハンをここに連れてくるように言ったんです。私の祖母を知っているんですか?」

 老人の灰色の目が、アンナを凝視する。

「きみのお婆さんというのは?」

「マリラ・・・マリラ−ベッカーといいます」

「マリラ−ベッカー・・・」老人は白い髭をなでる。そしてもう一度アンナを見た。「そうか・・・君はあの女性の孫か。彼女はどうしているかね?」

「殺されたんです」アンナはスカートの裾をぎゅっと握った。「誰がやったか、どうして殺されたのか分からないけど・・・」ギッと老人のほうを睨み返す。「このことについて何か知っているなら、教えてください」

 老人は心肺停止したかのように凍りつき、ぎこちなく椅子の上に腰掛けた。

「そうか・・・、事態はそこまできたか・・・」老人はしわがれた両手を睥睨した。「すべてを話そう。君たちが、知らなければならないことだ」

 ヨハンとアンナは息をのんだ。風がやみ、木々のざわめきが聞こえなくなる。猫が小さくあくびをした。

「三十年・・・いや、もっと昔だったか、私はここに住み始めた。人々から阻害され、私も人間を信じられなくなっていた。そして、この湖で動物たちと生活することに決めたんだ。さまざまな苦労があったが、自然は人を憎んだりしない。大きな命の流れがあるだけだった。

 厳しい冬を越え、やっと春がきた。のんびりと小屋の中で寝ていると、外から子供の声がする。覗いて見ると、八歳ぐらいの女の子、それに侍女らしい女が一人。ここから追い出してやろう、と思った私は、冬の間に倒した熊の毛皮を被って出て行った。そして、木の影からガオォーとやったんだ。泣いて逃げていくかと思ったら、その女の子は大喜びではしゃぎはじめたんだ。私は恥ずかしくて恥ずかしくて、小屋に逃げ帰った。でもその女の子は追いかけてきた。小屋の端でうずくまる私をつついたり蹴ったりしていじめる、それは元気のいい女の子だった。やっと侍女がその子を静止して言ったんだ。『街に下りる道を教えてくれませんか』と。私は二人に悪意がないのが分かると安心して、ちゃんと街道まで送っていってあげたよ。そう・・・その侍女がマリラ・・・君のお婆さんだったんだ」

「お婆さまが!!?」アンナは顔を上げた。

「そうじゃ。それからというもの、二人はよく私のところを訪ねるようになった。二人は私のことを恐れなかったし、私も、二人が誰であろうとよかった。やっぱり人間は人間にしか癒されないんだ。私も次第に人間性を取り戻していったよ」

 彼は遠くを見るように、窓の外に目をやった。ふぅ・・・とため息をつく。

「だが、彼女も年を重ねるにつれ訪れる回数が少なくなってきた。そして彼女が十五歳になったとき・・・お別れを言いにきたんだ。婚約をして、来年には結婚する・・・そう言った。泣きながら、私に小さな指輪をくれた。それが・・・」老人は棚の上の木箱に手を伸ばす。「これじゃ」

 銀色の重みのある光を瞬かせる。そして鷲の紋章があしらってあった。老人はその紋章を、目を細めて見る。

「私はこれを見てはじめて気がついたんだ。彼女は隣国の公爵の娘、イザベレ姫だと」

「イザベレ姫って、この国の王と結婚した!!」アンナが飛び出る。

「そうじゃ。私は勇気をだして街に出て、彼女の結婚式を見に行った。私といる時とは別人のような、己を殺した彼女がそこにはいたよ。私はなにも気がつかなかったんだ・・・、真実を・・・、彼女の瞳に沈む感情を・・・、この力がありながら・・・」

 彼はじっと自分の掌を見ていた。アンナはしばらく考え込んだ後、ヨハンの方を見た。彼はさっきと同じように、俯いたままじっとしている。

「じゃあ、どうしてそれがヨハンと関係あるのよ」

「そうじゃの・・・」老人は大きく息を吸った。「真実を知ることが必ずしも良い事ではないかもしれん・・・。だが、真実を知らずに生きるのは、永遠の闇だ。その先に進めることもない」

 机の上の指輪がキラリと輝く。ヨハンは震えていた。心の奥底で拒絶反応をおこしていた。できることなら、ここからすぐに飛び出したい。あの工場に座って、靴をつくっていたい。掌に汗がにじむ。

「そう・・・、それから数年たった冬の日のことだ。俗世では戦争をはじめ、人々の心が荒廃していた。冷たい雪が降っていた・・・」

 『この子をお願いします。どうか・・・どうか・・・』

 

「その翌日、彼女は・・・イザベレはスパイの容疑で処刑されてしまった。彼女は無罪だった。だが、自分が罪を負うことで、この悲しい戦争を終わらせようとしたんだ・・・」

「それって街のうわさと同じじゃない」アンナはあんぐりと口をあけていった。やっぱり本当だったんだ。でも、どうしてお婆さまは一度もその話をしてくれなかったのだろう。そしてなぜ・・・

「なぜ、今になってお婆さまが殺されなければならなかったの? そして、その子供はどうなったの?」

 老人はもう一度あの指輪に目を落とす。そしてヨハンの方を見た。彼はじっと、自分の足の先を見ている。

「あの摂政だ・・・、奴は戦争が終わると、意気消沈した王と自分の娘を結婚させ、王位の女子相続権を認めさせた。すると、王は亡くなり自分が政権を掌握した。そしてまた何か始めるつもりなんだ。自分の立場を脅かすかも知れぬ、イザベレ王妃を知るものを始末しておきたかったのだろう。街のうわさが真実にならないために・・・」

「やっぱりその子供は生きているのね!」

「そうじゃ」

 彼は髭をすっとなでた。変わった声の鳥が外で鳴き始める。

「ヨハンといったな。君が、国王とイザベレ王妃の長女、カタリーナだ」

 鳥が木の枝から飛び立ち、水面ぎりぎりを飛び、ジャパンッと鋭い爪を沈め魚を捕らえた。波紋がただ広がっていく。鳥の太い嘴は魚を丸ごと飲み込む。

「な・・・、なに言ってるのよ。ヨハンは男の子よ。その子は女の子だったんでしょ」

 老人の目はヨハンにむけられたままだ。

「そう、だな・・・。これを見たまえ」老人は鉢植えの観葉植物を二人の前に置く。そして両手をかざした。眉間に皺を寄せ、ぎゅっと目を閉じる。すると、掌に包まれた艶やかな緑色の葉が、葉脈だけ残して色を奪われていく。命が吸い取られていくように朽ち果てた。

 アンナとヨハンはただ目を奪われる。

 老人は、包み込むように両手を閉じた。そして、ぼそぼそと口を動かした後、蝶を放すように手を広げる。ぼんやりとした光が窓から外へ逃げていく。

「植物の命でできることはこの程度だ。外をのぞいてみなさい」

 ヨハンとアンナは木の窓から外を覗く。二人は呆気に取られ、首を振った。そして目をこする。そこには確かに中年の男と女、そして少女が一人いた。

「うそ・・・あの姿は、お婆さま!?」若さを残した美しい顔立ち、長いドレスを着ていた。そしてその横にいるのは・・・

「私だ」老人も顔を出した。「そして、あの少女が君の母親、イザベレだ」

 彼は萎びた手をヨハンの肩にやった。ヨハンは水辺で遊ぶその少女の様子をじっと見ていた。明るさに満ちた顔、軽やかな笑い声、なんの屈折も無い。

「今思うと、ここが彼女の唯一の自由だったんだ。だから、マリラもここへ無理をしてまで連れてきたのだろう」

 アンナは思った。確かによく似ている。もし彼が女だったら、こんな感じだろう。しかし・・・歯を食いしばった。こんなことってあるのだろうか。怖くてヨハンのほうを見られなかった。

「おじさんはどうしてこんな所に住んでいるの?」魚を逃がした少女は男の方を向き尋ねる。

「そうだな・・・」男は鼻をいじる。「私がいると、みんなが嫌がるからだよ」

「どうして?とってもステキなことができるのに。花を咲かしたり、鳥を飛ばしたり」

 その男は一面の花園を見た後、自分の手を睨みつけた。「普通じゃないってことは、恐ろしいことなんだよ」

 老人は顔をそらし、指をならした。すぅーとその様子が消えていき、静かな湖に戻った。

「分かっただろう、私は魔法を使えるんだ」老人は机の上に残された枯葉を悲しそうな瞳で見た。「それも、魔法というのは命を引き換えに行われるんだ」

「じゃあ、なに? あなたが魔法でイザベレの子供を男の子にしたというの!?」

「そうだ・・・、あの摂政のことだ。必ずこの子の命を奪おうとする。それしか方法がなかった。私はイザベレの処刑で解雇された君のお婆さんに、男にかえた赤ん坊を預けた。それからのことは、私には分からん」

 老人は長い義務を果たしたように、ふぅーと腰を下ろす。アンナはなにもいえない。ヨハンはまだ窓の外を見ていた。

「君は、たぶん記憶に無いだろう。だが、真実だ」老人は指輪の入った木箱に手を伸ばす。「そして、この指輪に君の魔法を解く力が封じ込められている」

 アンナはそんなもの、奪って投げ捨てたかった。しかし、体が動かない。

「決めるのは、君自身だ」

「ちょっと、ちょっと考えさせてください」

 ヨハンはそう言うと、小屋から飛び出て行った。アンナは少しためらった後、彼の後を追った。

 ヨハンは湖の湖畔にしゃがみこんでいた。たった一日なのに、互いに多くのことを知りすぎてしまった。アンナは無言のまま、ヨハンの横に腰をおろした。

 目の前の水面は太陽の色をうけて、赤く変わってきている。虫たちが鳴いている。

「昔からわかっていたんだ」ヨハンが遠くを見ながら言った。「なんとなく分かっていた。自分の中に、もう一人の自分がいるような気がしていたんだ。それが怖くて、いつも・・・いつもじっとしていた」

 アンナはヨハンの方を見られない。自分が嫌になって、手元にあった石を掴んで水面に向かって放り投げた。水を切り、2回跳ねて水中に消えた。

「あら、そんなの私もよ!」わざと声を張り上げて言った。「私のほうがもっとたちが悪いわね。心の中に、お嬢様の自分、わがままな自分、お転婆な自分、いろんな自分がいるもの。お父様の前ではこの自分、お母様の前ではこの自分、ヨハンの前ではこの自分・・・」アンナは仰向けに寝転がった。「でも、私はわたしでしょ」

 アンナとヨハンの目が合う。

「それはあなたも同じでしょ。あなたがヨハンだって、カタリーナだって、あなたはあなた」

 風が吹く。水面に波を立たせる。ちゃぽんっと魚が跳ねた。

「自分の生きたいように生きてよ。自分の一番したいことができれば、きっと他人のためにもなるんだから」

 

 

 湖は真っ赤に染まっていた。老人は猫にエサをやると外に出た。冷たい風が肌に当たった。辺りを見回す。アンナが深い青に染まった空を見ていた。

 彼はゆっくりと近づく。

「ヨハンはどうしたのかね」

「帰ったわ」アンナは空の先を見ながら言った。「真実、真実って言うけどね、真実なんて今だけよ。今が幸せだったり、不幸だったり、うれしかったり、悲しかったり・・・真実なんてそれだけ」

「彼は行ってしまったのか」彼は苦笑した。「あの子は本当にイザベレによく似ているよ。彼女は最期まで、自分の気持ちを私に明かさなかった」

「そうね・・・」アンナは上半身を起こす。「私がヨハンだったら、今ごろあんたのことをぶん殴っていただろうから」

 長い一日の太陽が、地平線の中へ吸い込まれていった。

 

To be continued…

 

 

 

あとがき 

 はじめまして。これを読んで、『モンスター』を思い出した人、いるはずです。自分でも、書き終わった後気がつきました。名前がかぶってる!! と。意識はしてなかったんです。ヨハンはバッハから取ったつもりだったし、アンナは友達の友達にアンナさんがいたのでそこから取りました。いや、本当です。まぁ、よくいる名前ということで許してください。後編は、来年の四月上旬になると思います。では・・・ありがとうございました。

ミスター長崎

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