戻る


グッド・ライフ3

作:雅良生


「このあいだまで、アイツどうやって黙らせようか?飲みかけのコーラに睡眠薬を入れれば?眠ったらボール箱につめてアメリカに送り返そう。と話し合っていた当のジャニスに、あんたたちがこの映画の主役なんだとほめられたとたんに、気を良くした女の子たちは居残り練習の相談をはじめた。」
当時、Bパートの女の子たちの一人で、後年、強力なライバルとなって、1990年代のオスカー獲得競争においてジャニスに何度も苦杯を飲ませることになるエマは、自叙伝「終わりよければ」の中で、ジャニスが女の子たちに話をして、逃げる様にスタジオを立去った後のことをこう回想している。

エマ・ハックニーは、1960年の4月15日にロンドンで生まれた。母親は大衆演劇一座の女座長で、父親は俳優兼演出家兼興行師。由緒正しい演劇一家の生まれにもかかわらず、幼い頃のエマは演劇にも映画にも全く興味を示さなかったという。

「私は齢10歳にして、いっぱしの読書家きどりで、学校はおろか近所の図書館の本はすべて読み終えていた。中でもお気に入りは19世紀の文豪ジェーン・オースティンの小説でこれだけは全集本を手に入れて書簡集まで何度も読み返したものだった。」

小学校の教師はエマに飛び級をするか、IQの異常に高い天才児の教育をする特殊な学校に移るようにすすめたが、家庭の事情が彼女にそれを許さなかった。父親が心臓疾患で倒れて寝たきりとなり、以前から寝たきりであった祖母に加えて家計を圧迫することになった。さらにそれに加えて母方の叔父が交通事故で半身不随になった。幼い二人の妹と病人たちの世話に追われる母親に代わって、エマは一座の面倒をみることになった。

「しかし、世間にうとく未熟な私を教育し、難路を突破する知恵と勇気を授けてくれたのは彼ら寝たきりの病人となった家族たちだった。彼らは、バッド・デスと常に向かいあっていたのにもかかわらずとびきりのジョークと機知で私を笑わし、時に落ち込むことのある五体満足な私を励ましてくれた。」

Bパートの女の子たちの中では、ずばぬけて優れていたエマであったが、彼女たちの動きを的確にとらえては、良い部分については率直にほめて賞賛することを惜しまなかった。女の子たちもしだいに彼女の言に耳を傾けるようになり、組合の関係で居残り練習に演出家の先生が指導にあたれなかった事情もあって、エマは事実上Bパートの振り付けをすることになった。完成したBパートのフィルムを見ると、そこには子どもが振付けたとは思えない完成度の高さが見て取れる。紛れもなくそこには、後に多くの名演技者を育てることになるエマ・マジックの萌芽があった。

ジャニスは、ダウンタウン・ブルース撮影時のエマについて、こう述べている。
「エマの振り付けは、古臭い田舎芝居の臭いがした。大げさで下品でちっとも現代的でなかった。現代的すなわち生命や活動が歴史的に制約される前提を大きく踏み外していた。言い換えれば、彼女の振り付けは人間的な価値グッド・ライフを最大限の強度をもって追求し実現していた。若さと流行は大きな誘惑だ。彼女は十二歳にして、とっくにその手の誘惑の危険性に気づいていた。エマは堅実なギャンブラーさ。オイラのような向こう見ずなことをしない。女は神に近いとつくづく思うね。それはともかくとして、当時の彼女は自分のことは何一つ話そうとはしなかった。地方巡業する劇団のマネジメントから、座員の健康と生活の管理、そして自分自身の舞台での演目の練習をしながら、片手間に映画の最重要部分の振り付けをやっていたんだ。家族とは離れ離れ学校にも行けず、さぞかし辛かったろう。だのに誰にも、泣き言一つ言わずにいた。それを思うとオイラに対するエゲツナイ仕打ちも、悪口雑言も割り引いて考えなきゃと思うよ。」

エマは、すでに学校のことはあきらめて、座員の生活と劇団の経営のために献身していた。そんな彼女にとって映画の仕事は同世代の女の子たちと一緒にすごせる唯一の機会だった。皆と一緒にジャニスを懲らしめるために更衣室棟を襲撃し放水したのとは別に悪口雑言を浴びせかけたのも、この同世代の女の子たちとの連帯感が当時の彼女にとっての慰めであったからに他ならない。それを証明するのは、彼女の自叙伝「終わりよければ」の中の次の一節であろう。

「家族の不幸については一切口にすまいと心に決めていた。が、何かのはずみに家族の誰かが寝たきりだとばれてしまったことがあった。女の子たちの一人が、彼が良くなるように神様にお願いするといってくれた。彼女は何も知っちゃいなかったが、それでもそれはスイートな瞬間だった。」

女の子たちがやる気を出して、Bパートの撮影が軌道に乗り出したのとは対照的に、Bパートの音作りは製作をまかされた杉田響一とカート・ガーファンクルの必死の努力にかかわらず、作業は遅遅として進まず、全く先の見えない状態が続いていた。

杉田響一は、1946年の11月2日に大阪で生まれた。京都の立命館大学に入学後、手あたりしだいフォーク・コンテストに顔を出した。卒業後にアマチュアバンドのタローズからリリースした「戦争に殺された子どもたち」がヒットして、海外からも注目された。映画「ダウンタウン・ブルース」が撮影された1973年は、日本の新左翼系の過激派たちが路線対立から殺し合いをはじめて、大学のキャンパスが血に染まった時代で、杉田は映画の中で描かれた子どもたちの殺し合いを架空のものとは受け止めなかった。

「浅間山荘事件によって、日本人の多くがやっとその恐ろしい事実に気づくより前に、大学でのコンサート活動の多かった私は、子どもたちの殺しあう様子をつぶさに見てきました。映画の仕事も内容を聞いて即座に引き受ける決心をしたのも、何とかして戦争を止めさせたい。止めるためのメッセージを発信したいという思いがあったからです。」1993年7月放送のNHKラジオ深夜便「心の時代」の中で杉田はこう語っている。

しかし、Bパートの音づくりを依頼される時に、バートン監督から欧米人の善悪観すなわちグッド・ライフとバッド・デスについてのレクチャーを受ける段になって、杉田はすっかり怖気づいてしまった。日本人の善悪観と欧米人のそれとの余りの隔たりに愕然としたからである。

「欧米人の善悪観はキッチリと整理されたものです。いわば鉄壁の守りの城砦といったものであるのに対して、日本人の善悪観は隙間だらけの垣根で良しとする普通の民家のようなものです。グッドという意味にしても丁度良いあるいは、いい塩梅といった意味でしかありません。欧米人の思考の中にあるグッドとは重なる部分よりも重ならない部分の方がはるかに大きいのです。」

しかし尻込みする杉田に向かって、約20歳年長のバートン監督は、杉田が生まれた年の8月に当時に学んでいたフラナガン法科大学院の司法研修コースでの体験について語り始めた。「この年、学校で日本の著名な宗教者を招いての特別講演会があった。宗教者の名前は鈴木大拙といった」

「彼が招かれたのは、当時開廷されたばかりの極東軍事法廷において日本の戦争犯罪者を裁くにあたって、善悪観にかくも大きな隔たりのある種族にこのことが真剣に教訓として受け止められるであろうかどうか?ということについて合衆国の法律家たちの間でも議論がやかましかったことから、将来この国の法曹界を担う学生たちの参考になるだろうということで他に意味はなかった。講演は案に相違して分かりやすく、面白いものだった。」

「鈴木は、バイブルに明るかっただけでなく、キリスト教以前のキリスト教思想であるグノーシスについても詳しくさらにその根源的なテキストと仏教経典とのかかわりについて、きわめて明晰にそして論理的に自論を展開していった。講演の最期に質疑応答が行われた。それはこんな質問だった。」

「質問は、バイブルの創世記に関するものだった。先生、われわれ人類は蛇に誘惑されて食べてしまったリンゴのせいで楽園を追放されてしまったわけですが、もうそこに戻る方法はないのでしょうか?戦争の技術が極限にまで高められ、核の脅威のある今、われわれは生き延びるという切実な目的のために楽園を目指すべきであるというのに、まだその手がかりすらつかんでいないのです。どんなヒントでもかまいません。われわれが楽園に戻るにはどうしたらいいのか?教えてください。と質問者は尋ねた。」

鈴木大拙は、質問者をじっと見つめこう答えたという。「かじるのです。そして飲みこむのです。蛇の差し出すリンゴを今度ははっきりとした意志をもって受け取るのです。」一瞬、講堂の中はシーンと静まりかえり、それからさざめくような祈りの言葉が聴衆の口から漏れ聞こえたという。

バートン監督は、にっこりと微笑むと杉田の背中をたたいてこう言った。「スギタは日本人だ。スズキ先生がわれわれに何を言おうとしたのか検討がつくだろう。それを音にしてほしい。」

浄土真宗の仏教寺院の住職の次男坊として生まれた杉田は、この時代の日本人の若者としては珍しく家庭での宗教教育を受けていた。おかげで彼には鈴木の言わんとしたことがおぼろげながら分かる気がした。それは悪人正機説。ある種の悪人は、善人よりも優先して神の恩寵にあずかり救済される権利があるとする日本独自の宗教思想である。しかしこれを分かりやすく歌にするのは至難の業といってよかった。

杉田は、音作りのために苦闘した体験について次のように述べている。「私は、こうしてこの理屈っぽい(そう当時は思っていた)けれど自分の可能性、限界に挑戦するという姿勢には感動を覚えていた人たちに認められるような音をつくりたかった。しかし時間がたつにつれて、そこに入りきれない自分の破片が、切り捨てようとして失敗して残ってしまったエネルギーが、私の中でリバウンドし始めたのです。そしてそのうち、わけがわからなくなり逃げてしまう。その繰り返しでした。」

カート・ガーファンクルは、こんな杉田にとにかくつくった断片をつかってセッションしてみようと、スタジオと機材とスタッフを準備して半ば強制的に歌わせた。杉田は、ギターを弾きながら準備していた曲を歌おうとしたが、身体がかたくなり、声が伸びない。このとき杉田は不安と悲しさと緊張で、歌の真っ最中、自分の中の苦しみを押さえ切れず、いきなりうなり声をあげてしまった。その時、伴奏していたカートは杉田の声にとっさにこたえ、ピアノで音をかえしてきた。

「カートさんとの即興がはじまりました。そしてさらに、さらに私の中からあのうなり声が出てきました。きれいな絨毯をひっくり返したような、その絨毯の裏の、埃だらけの、汚れや醜さなどがさらけだされるような、怒り、痛み、悲しみーそして何かを失う。大切な人が、死んだ。」

次の瞬間に何かが起こったのだという。そのきっかけは、カートの「Don't Let it worry you」の一言であった。それから先は、杉田の身体の中から軽やかなそしてかわいい旋律が即興でどんどん飛び出してきた。そしてそれらがすべて終わったときには、Bパートのテーマである「子どもたちの祈り」が完成していた。

(子どもたちの祈り)天使のようにせっかく生まれてきたというのに、悪魔のようになってこの世界をかけぬけていってしまうんだね。心配しないで、怖がらなくていいんだよ。みんな、そうなんだよ。王様も乞食も、神父様も背教者も、強い女も弱い男も、あの部屋の隅で寝小便をしてベソをかいているあの子もこの子もみんなみんな同じなんだよ。ただ、みんなみんなそれぞれの道を自分自身の流儀で歩いて行くだけなんだ。それだけなんだよ。

映画「ダウンタウン・ブルース」はこうして完成した。完成まで要した期間はなんと6ヶ月。劇場用映画の平均的製作日数が24日長くて30日というハリウッドの常識からすればとんでもないことと言ってよかった。

ジャニスは、この大幅な遅延について次のようにコメントしている。「ハリウッドの常識からすればこんなルーズなことは許されない。あの掛け値なしの天才だったグリンの親父さんでさえ、生涯でつくった映画のうちで二番目によい作品(許されざるもの)の撮影に2ヶ月と10日かかったというだけで、2年間も干されたんだ。ハリウッドでならバートン監督はとっくの昔に降ろされていただろう。ちょうど黒澤がトラ トラ トラの撮影中に降板させられたようにね。でもイギリスではそうならなかった。結果として良い映画が完成したというわけだ。」

ジャニスは、ここでプレーボーイ誌のインタビュアーに同誌の数年前の特集で{1年365日世界中のどこかの映画館で上映されている映画}という内容の記事が掲載されたことについてふれている。「あの記事にのっていた映画館とは別に、毎月一度は、ダウンタウン・ブルースを上映している映画館をオイラは知っている。そこの支配人と話していて聞いた話なんだが、テレビで放映されたときに限って映画館は大入り満員になるというんだね。」

「それというのも、テレビでは時間の制約からBパートがちょん切られることが普通なもんだから、昔ノーカット版を見たことのある人間は必ず子や孫を引き連れて映画館まで足を運んでくれるというわけなんだな。良い映画というのはこんなもんなんだよ。そしてオイラは良い映画に出させてもらった。しかし、バートン監督の偉さに気がつくまでにはその後20年かかった。30歳を過ぎて初めてオイラは映画のことが少し分かりかけてきた。それまでは本当の小僧っ子さ。」

話を締めくくるにあたって、エマの悪口雑言と最期の捨て台詞についてふれておかなくてはなるまい。撮影が終わって巡業中の一座の元へ帰る当日に、彼女はジャニスの着替えを観察しにわざわざ、ただいま掃除中と入り口に立て看板をたてたトイレの中まで入ってきた。

薄い金色の巻き毛を肩までたらして、細いあご小さな口と微妙に均整のとれた大きくて円らな瞳の少女がマジマジと自分の裸を覗き込んでいるのを見つけると、ジャニスはそっけなく「出て行って」とだけ言った。

「ねえ、どうして他の女の子たちと一緒に更衣室を使わないの?みんなジャニスが本当は男の子で性転換手術をして女の子のふりをしているだけだってこと信じてないんだから、やりたいこと、したいことのし放題だよ。」

「やりたいこと,したいことのし放題って、どういう意味よ?」

「真面目よねえ。そしてかわいそうなジャニス。真実を述べても皆には受け入れてもらえずですか。やっぱり、君は役者には向いていないと思うよ。」

「なんで、私が役者に向いていないの?」

「You do certainly give off a rather sensible aura. 汝いと高貴にして輝かしき知恵の光もて身を飾りしも

But you are the most unprudish person I know. 我は知る。汝の内面のこの上なく卑しくて下品なさまを

そは、汝が役者なればなり。かわいそうなジャニス、あんた、こんなのに耐えられないでしょ。役者ってウソついてなんぼの商売よ。真実を打ち明けてなんになるというのよ。本当にばかげているわ。悪いこといわないから、早いとここんなヤクザ商売から足を洗いなさいな。」

ジャニスはようやく着替え終わると、急いでトイレの外に出た。ただいま掃除中のたて看板を取り除くのをエマが手伝ってくれるのを見てジャニスが、

「ありがとう。エマは本当は良い子なんだね。私のことかまってくれてるんだ。」

「エー、そんなことないわ。私は悪い子よ。」

「いや、良い子だよ。」

「じゃあ、証拠を見せてあげようか。」

「えっ?なに?証拠って?」

次の瞬間、恐ろしいものを見せられたジャニスは、ひっくり返って尻餅をついてしまった。目の前には薄い金色の巻き毛のヘアピースを片手に提げた、つるつる頭のスキンヘッドの少女が艶然と微笑みながら立っていた。

「ああ、今思い出しても猛烈に腹がたつ。一人で何役もこなさなきゃいけない旅役者なら、頭はみんなカツラだってことは常識なんだろうが、当時のオイラはそんなことは知らなかった。本当にビックリさせられた。エマはといえば、カツラをかぶり直すと、スキップしながら行ってしまったよ。」(つづく)


戻る

□ 感想はこちらに □