戻る


新世紀アラビアンナイト5

作:雅良生




帰宅後、カピタンは、2階の居間で、最近はいはいを始めたムハンマドを見ながら、 ジェルピ著「抑圧と開放の弁証法」を読んでいた。カピタンは一読して、アンリ・デュナンの思想に似ているなと思った。赤十字の創設やジュネーブ条約の実現をはじめ、さまざまなことに夢中になって取り組んだデュナンの生涯は、いささか分かりにくい印象を与えるが、その底には、「どんな場合でも人間が人間らしく扱われることを求めて」という一貫したものが流れていた。彼は常にアラブ人、ユダヤ人、黒人といった抑圧された人々の解放ということに関心があった。

と、下から声が聞こえて、ピエロが一人の男性を連れて階段をあがってきた。年齢は80歳くらいにみえるが正確なところは分からない。白の背広に水色のタイをしていた。全身は萎んだように細く、袖口から伸びる指の長い手が印象的だった。しかし目の輝きには、抑圧された人々の解放にのめりこみ、挫折し、又のめりこむことを繰り返した人間の強い意思が顕われていた。

「ジェルピ先生です。」 ピエロが紹介して言った。

「はじめまして」 先生がそう言いながら手を差し出した。

「私はイスラム教徒なので、握手が出来ません。」 カピタンは、黒い深い瞳でじっと先生を見ながらにっこりとほほ笑んだ。

「あなたが学園についてもっと詳しいことを知りたいとおっしゃったので、先生に来てもらいました。」 そう言い残すと、ピエロは一人で一階におりていった。

ジェルピは、1950年代に北イタリアの工業地帯の周辺に形成された南部からやってきた未熟練労働者の居住地域において私塾を開き、放っておけばマフィアの構成員にならざるをえないスラムの子供達を教育して、社会人として送り出すという実績を積んだ後に、国際教育機関ユネスコに入り、1980年代には実質的なリーダーとして英米との対決の矢面に立ってきた。

「昔から世界には、2種類の人種がいた。アングロサクソン(イギリス人とアメリカ人のことをさす)とそれ以外の人種だ。侵略する者と侵略される者のことだよ。1997年にダイアナ妃がパリで不慮の死を遂げたときに捜査にあたったパリ警視庁の刑事ジーン・クラウド・ミュールは、こう言っている。It would almost be an act of aggression by the Anglo-Saxon world against Latin world. ロンドンから乗り込んできた男達は、事件を事故にすり替えるために恐怖とカネをばらまき、彼らの支配下にあるマスコミはそれを追認していった。」 

あれはアングロサクソン人種によるラテン人種への侵略だったと、悔しさを隠し切れないジーン・クラウド・ミュールは、執念の捜査を続行した結果、3年後の2000年の5月に犯行に使われたBMWを発見した。ミラの街の近郊にある深い森の中で、車両は焼かれて地中深く埋められていた。しかしこの事実はなぜかマスコミに取り上げられることなく終わった。

「この世界の情報は彼らによってすりかえられ、操作される運命から逃れることが出来ない。今から20年前に、私は、ユネスコは、この忌むべき状況を変えようとこころみた。こうした状況を放置しておけば、やがて世界は歪められ、悪しき方向に向かうことが分かっていたからだ。最悪の場合それが戦争を引き起こすということを知っていたからだ。」

国際教育機関ユネスコは、第一次世界大戦の直後に 「われわれは、正確な情報を知らされず、また知る努力を怠ったがために戦争を始めてしまった。このようなことは2度とあってはならない。正確な情報を多くの人たちに知らせるシステムを創造しなくてはならない」というマリー・キュリー、アインシュタイン、ベルグソンらの意思の元に設立されたDDICがその前身である。ジェルピのこころみはそうしたユネスコ設立の原点の趣旨と合致するものだった。

「当時われわれは、不正な情報のすりかえや操作に対して監視する機関の設立をもくろんでいた。当時の国連加盟国のうち英米2国を除く全ての国家を代表する大使の賛同を得ていた。英米は最初は、検閲だ、言論弾圧だ、知る権利の侵害だ。と難癖をつけてきたが、それが通らないと知ると、彼らはユネスコを脱退し、国連への拠出金を納めなくなった。」

国連とは不思議なところで、カネによって無理が通って道理が引っ込むことがままある。ユネスコの幹部は入れ替えられ、その後は日本人たちによって運営されることになる。不動産や、ツーリズムの業者たち、ホテル、土産物製造業者とタイアップした見かけは大げさだが中身のないプロジェクトが立ち上げられ、志のあるユネスコ職員の多くがやめていった。

「日本人は、国連の小委員会で票数が足りないと、われわれのところに頭を下げにくるんだ。何がしかの交換条件を携えてね。最近では日本が国連の常任理事国入りに必要な票数をとりまとめるのに迫られてきたせいか、交換条件もかなり大盤振る舞いになってきている。エジプトにIT教育の実験校を設立する事業が陽の目を見たのはそのせいもあるんだ。」

窓の外に見える透き通った空がだんだん暗くなってきて、隣のモスクからミュエジンがイスラム教徒に祈りの時間を知らせる呼び声が聞こえてきた。

「あ、すみません。私はお祈りにいかなくては。」

カピタンがすっと消えてしまった。とたんに部屋の中がガランとなってしまった。カピタンの息子のムハンマドはソファに座っておとなしく先生のことを観察していた。

「や、こんにちは。君には、挨拶がまだだったね。君のお母さんと話すのに夢中になって君のことを放置していたわけではないんだよ。ただ、君とは世代が違いすぎるから、話かけるのに気後れしただけなんだ。そう、私は君のような若い人に話しかけるとき、いつも気後れしてしまう。まだ間に合うとは信じてはいるのだけれども、心のどこかではもうダメになるのじゃないかという怖れが付きまとってはなれないんだよ。いや、それではいけないね。この世界はきっと良くなる。そして君達は過去の歴史を振り返ってこう言うんだ。なんて馬鹿な人たちだったのだと。」

ジェルピ先生は、幼いムハンマドに向かってブツブツと祈りに似た話しかけをしている。いつの間にか戻ってきていたカピタンが、そんな二人の様子をじっとながめていた。

「モスクにお祈りに行ったのではなかったのかね?」 先生が尋ねて言った。

「下の階で、簡単に済ませてきました。それで、学園の寮母にならないかというお話ですが、お断りしたいと思います。私は人殺しです。教育者になる資格などありません。」

「それは、あなたが同時多発テロの実行犯ムハンマド・アタのパートナーであったことを言っているのか?それともかつて男であったときに犯した殺人のことを気にしているのか?そんなこと、何の問題もない。私の教え子たちもかつてはマフィアの下請けとして残酷な犯行を重ねてきた。しかし、彼らは見事に変身を遂げた。」

「先生は、誤解していらっしゃる。私は過去の自分の所業について何ら罪の意識など抱いておりません。」

「当然のことだ。あなたたちは正当なことをした。私の教え子たちもそうだ。」

「馬鹿な。話にならない。私達とマフィアが同じだとおっしゃるのですか?それは全くちがう。マフィアは子供達を奴隷にする。私達は子供達を解放する。」

「同じことだ。遠隔地同士における金融資本の取引きをコントロールするシティの中枢を叩き潰すために、生身の身体で暴力を振るうことにおいて、彼らとあなたたちの間に何ら違いはない。それにあなたたちの聖戦の有力スポンサーの1つは南米の麻薬マフィアではないか?彼らもまたあなたたちとともに聖戦を戦うものたちだと言えるのではないのかね?」

「彼らは自分達が生き延びるために、われわれを利用したに過ぎません。彼らはアメリカとイギリスの特殊部隊に追い詰められていた。その両者を南米から引き離し、中央アジアや中東に追いやるために、われわれを利用したのです。」

「しかし、彼らが自分達の奴隷にした子供達に親切にしている光景をあなたたちがグァテマラで目撃しなかったなら、よもや彼らと手を結ぼうとは考えなかった。」

「彼らは確かに子供たちに対して親切でした。アメリカ国内での虐待によって廃人同様になった子供たちに衣服と食料を与え、医師の診察を受けさせ、さらに人間としての誇りを取り戻すための教育を行い、それから世界各国の公務員に就職させる努力をしていました。彼ら自身の権力基盤を強化するために。」

カピタンは堰を切った様に語り始めた。「アメリカが世界中から毎年数万人にのぼる子供奴隷を輸入して、軽工業、一部はハイテク産業の工場にデリバリーしている事実は秘密でもなんでもありません。1996年には合衆国の裁判所が年間5万人以上の子供奴隷が米国内に輸入され、成長すると移民局に引き渡して国外退去処分のかたちで南米の麻薬マフィアに払い下げている事実を認定しているほどです。だのにマスコミは、このことをとりあげない。そして、マスコミが取り上げないということは、この世界では存在しないことと同じことなのです。」

プリンストン大学のサッスン教授は、ニューヨークのような対外投資と海外経営に関する意思決定を行う企業が集中する都市を「グローバルシティ」と呼び、これらの世界経済の中枢におけるサービス部門の変化から、違法に輸入される子供奴隷に対する需要が生み出される様子を説明している。すなわち、都市の産業構造の再編の中で新たに生み出された労働力需要と供給という観点からみると、「グローバルシティ」のサービス部門は、金融ならびに企業が必要とする高度に専門化された生産者グループと都市機能や都市型ライフスタイルの維持に必要なローコストの未熟練労働者のサービス部門に分極化する。したがって、アメリカは失業率が増加しているにもかかわらず、子供奴隷の需要は減る傾向にないのだ。

「事の始まりは、ハンブルグでした。アラブ人居住者支援センターの依頼で私とアタとは10年前にボンで行方不明になった3人のエジプト人姉妹の捜索をすることになりました。彼女たちはカイロの中古機械輸入業者の娘たちで、夏休みに父親の商売相手の家庭にホームステイするためにドイツにやってきて拉致されたのです。私とアタとは誘拐された子供達の足取りをたどり、ニューヨークからロス、そしてフロリダに行き着きました。ニューヨーク近郊には2000以上、ロスには1000、そしてフロリダには400以上の子供奴隷工場が存在しました。世界中の大規模なショッピングモールに置かれた商品を生産する欧米企業の巨大な製造能力は、都市の郊外にある奴隷工場に監禁した子供達を虐待するのに利用されているだけではありません。消費主義を煽り立てる宣伝とそのための情報操作は、人々の心を狂わせ、この世界を確実に破滅の方向へと導く役割をも果たしているのです。」

先生がカピタンに語りかけた。「学園の創設は、情報操作されゆがめられた世界を正しく直すための運動を立ち上げるのが目的だ。ゆがめられた情報がどれほどの害毒をこの世界に及ぼしているのかを、まのあたりにし、それを正すために立ち上がった21人の壮士の一人であるあなただからこそお願いしたい。どうか学園の寮母を引き受けてほしい。このとおりだ。」

カピタンは、立ち上がった。むずがりだしたムハンマドのほうに向かって部屋の中を歩き出したとき、使徒たちがそこにいることに気づいた。ずらりと列をなし、ぎっしりと部屋を埋め尽くす数千、数百万の幻影たち。目には見えないが、そこにいることは感じられる。実体のない膨大な群衆。じっと待って、見つめて、カピタンを見守っている。愕然としてカピタンは足を止めた。はじめて、使徒たちの存在を、自分の脳が生み出す空想ではなく、実際の現象として信じられるようになってきた。使徒たちが見に来たのはこれだったのだ。この瞬間を。カピタンの決断を。

しかしなぜ?彼らは、真相のはっきりしないスキャンダルを調査する「最後の審判」の仕事に携わる使徒たちで、カピタンが昔からの信条を捨てる瞬間を目撃するために来たのだろうか?ちょうど、預言者の最愛の妻アイーシャが、後継者問題で預言者の甥のアリーを支持した瞬間や、最後の正統カリフの二人の子供たちが失踪する瞬間を目撃して記録するために。あるいは最後の勝利をおさめた使徒たちが、カピタンがキリスト教徒のイタリア人からの提案を傲然とはねのける、正統派イスラム教徒らしい英雄的な瞬間を目撃するために来たのだろうか?

それとも、カピタンがまだはじまっていないなにか、今後数世紀あるいは数千年の間続いていく何かのために、提案を受け入れて、新たな人生を歩み始める瞬間を見に来たのか?それに彼らはいったい何者なのだろう?何百万年もの齢を保ってきた、神のような力をもつ知的生命体なのか?それとも幽霊のように実体をもたないだけの、機械的なロボットなのか?

そのまま、1歩前に進むと、見守っている幻影たちが分かれて道を開け、背後でまた元に戻るのを感じた。自分でどうするつもりなのか、いまだに分からなかった。男であったころなら決断は容易だったろう。女の身体であることからくる負担を知らず、子を産む痛みも知らず、力もあり、ひとりよがりで、誇りと決意と高潔さに満ち溢れていたときなら、憤然として、嫌悪をあらわにし、あっさりとキリスト教徒の提案をはねつけただろう。何が正しいかをちゃんと知っていて、一瞬たりともためらうことなく、実際、過去にいちど、そのとおりのことをやって、3000人以上のアメリカ人を焼き殺して、世界を震撼させたのだ。だのに、今のカピタンには確信がなかった。

目と鼻の先にいるムハンマドのほうに向かいながら、1歩ごとに下腹に差し込む鈍痛や、身体のだるさを感じていた。ふと、男であることを取り戻すのはどんな気分だろうという思いがこみあげてきた。あっというまに、いきなり力を取り戻すのだ。いらなくなった皮をぬぐように、女であることがもたらす弱さや屈辱を残らず捨て去って、熱いホルモンの影響を受けた感情の大渦巻の中、ふたたび人生を満喫し、嗅覚、聴覚、視覚、味覚、聴覚、すべての感覚を、黒いベール越しではなく、全身でまっこうから受け止める。下品に賑やかにがなりたてる男の性。

カピタンは、ようやくわが子を抱き上げて、振り返った。先生は期待をこめた沈黙を守ってじっとカピタンを見守っていた。物音はほとんど聞こえなくなった。世界が深く息を吸って止めたかのように、そのかすかな物音まで消えると、カピタンは自分を見返す期待に満ちた老人の顔の皺を見つけた。強烈な感情がこみ上げてきた。頭をのけぞらせて、彼女は先生に語りかけた。

戻る


□ 感想はこちらに □