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夢の続き   (作:Taika Yamani)
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  第十話 「機会」


 怜悧が希との約束を破ったのは、希の十七歳の誕生日も間近に迫った、十月の上旬だった。
 十月の第一週の金曜日から日曜日にかけての三日間、葉山月学園高等部では文化祭が繰り広げられる。いよいよ明日から文化祭という木曜日の夜、一度家に帰っていた希は、数人の女子と一緒に再び学校にやってきていた。
 希のクラス、二年一組の文化祭の出し物は「ビックリハウス」だ。当初、ある意味定番のように思えて難しいお題目「お化け屋敷」に挑戦することになりかけたのだが、理性的な理由によってそれは変更されていた。「お化け屋敷」は「恐怖」と「驚愕」の二つの課題をクリアしなければならない。時間も人手も財力も不足していたから、その課題の一つ「驚愕」だけに絞ることになって、「ビックリハウス」に落ち着いたのである。それに加えて、「ビックリハウス」ならそこにお化けがでてきても不思議はなく、その気になれば後でどうとでもなるという理由もあった。
 希としては「非常時脱出用のシュートを使ったアトラクション」なる謎の案にのりたかったのだが、理不尽にもそれには教師のダメだしが入った。ちょっとがっかりである。
 一組の教室は現在、本番は暗幕で仕切られる簡単な通路が作られ、一部に作られたスタッフエリアのみが自由に作業できる状態になっている。唯一間に合わなかった大道具を完成させるべく男子のほとんどが泊り込むと言っていたのだが、午後八時のこの時点で、なにも泊まる必要はもうないような状況だった。男子もそれがわかっているのか、かなり遊びながらやっているようで、作業という名目はすっかり建前になっている気配もあった。
 「あれ?」
 「おまえら、まだ帰ってなかったのか?」
 「こんな時間までいたの!?」
 賑やかに教室に入ると、男子が気付いて声を上げる。女子も明るく声を張り上げた。
 「差し入れ持ってきてあげたよー」
 「サンドイッチだ〜」
 「みんなお疲れさまっ」
 男子は派手にどよめいた。
 「うぉ〜、気がきく〜!」
 「腹へってきたぞ〜!」
 「げ〜、おれ腹いっぱいだ〜。先に食わなきゃよかった……」
 教室の各所からみな集まってきて、男女でわいわい作業の状況を聞いたり、差し入れのお礼を言ったり、だれが作ったとか何を作ったとか、それはもう姦しくなる。
 「作ったのはみんなでだけど、場所提供は此花さんだよ。感謝してねっ」
 きょろきょろ室内を見渡して一人の男子生徒を探していた希は、その一言で矢面に立たされる。男子の礼と同時に、からかう声もふってきた。
 「此花さん、サンキュ〜!」
 「此花さんは朝宮のために作ってきたんだよね」
 「らぶらぶサンドイッチか〜」
 「朝宮のやつ羨ましすぎだー」だの「おれも彼女ほしー」だの、「あんたたちと朝宮くんを比べてもしょうがないでしょ」とか余計な会話が沸き起こったようだが、希は全部聞かなかったことにする。
 「怜悧は、ここにはいないの?」
 「朝宮はテニス部に顔出しに行ったみたいだよ」
 「こっちは人手足りてるしね」
 やはりすでに泊り込む必要もなくなってるが、こういうバカ騒ぎも楽しいということなのだろう。みなさらに希をからかってくるが、希は落ち着いてそれを捌く。「会いに行ってみれば?」という少し含みがあるが好意的な発言を機に、希はみなに先に帰っててもいいと告げて、素直に教室を出た。 
 事件はその後に待っていた。
 怜悧はテニスコートか部室にいるはず、と思ってそちらに向かったのだが、いったい怜悧はどこにいたのか、校舎の外で後ろから声が降ってきたのだ。
 「希!?」
 希は、思わず息を飲んだ。
 「おまえ、こんな時間に一人で、何やってるんだ!?」
 致命的な、怜悧の発言。怜悧は希の方に駆け寄ってきたようだ。希は振り向きたいが、振り向けない。
 怜悧の動きは、希の肩に手がかかる寸前で、とまった。
 「あ」
 自分が何をしたか怜悧も気付いたらしい。
 一年間、次の希の誕生日まで、怜悧から希に話しかけないという約束。話しかけられたら、希は本気で怜悧を切り捨てると。そういう約束。
 「…………」
 「…………」
 怜悧はどう思っているのか、希の後ろでなにも言わない。どういう顔をしているのかも、希からは見えない。
 数秒の沈黙。
 怜悧は一人ではなかったようで、他の生徒たちの声が微かに届く。
 それに気付いた途端、希はばっと駆け出していた。
 「お、おい!」
 怜悧はまた声をかけてくるが、追ってはこない。
 希はしばらく全力で走って、それから振り返った。
 「どうして追ってこない?」
 自分から逃げだしたのに、息を整えながら希は理不尽な不満を抱く。
 「だいたい、後ちょっとなのに、どうしてこんなミスをする? あのバカ」
 我ながら勝手だとも思ったが、素直な本音。希は教室には戻らずに、もうまっすぐに帰途についた。
 その日はメールも電話も、一切怜悧からの連絡はなかった。



 希の選択肢はいくつか存在する。
 「本当に絶交する」「何事もなかったかのように振るまう」「後ほんのちょっとだからということでおまけしてあげる」「約束自体をなかったことにする」
 すぐに最初の選択肢は捨てた。一年前なら本当に絶交することもできただろう。だが、今となってはもう遅すぎる。希の方が耐えられない。
 何事もなかったように振る舞う案は、これは条件付で保留した。相手の態度次第だ。少なくともこちらから譲るつもりはない。約束をおまけするのも、同じ理由で保留だ。
 約束自体をなかったことにするのは、これもむしろ希の方がイヤだった。後もう少しで、こちらからなにも言わずとも正式にお付き合いする関係になれるのだ。「賭けに負けたためにしかたなく」という姿勢を崩したくなかった。これは男としての「望」の意識がそう思わせる。いくら相手が「怜華」とは言え、男を本気で好きになったと認めたくない心理も存在するのだ。
 結局希は第五の選択肢を選んだ。とりあえず「絶交のフリをしてみる」というものだ。
 怜悧が反省の姿勢を見せたり、落ち込んだりするようなら、この一件はなかったことにしてもいい。また本気で謝ってくるなら、これもやはりこの一件のことなど知らないフリをしてあげる。状況によっては、もうほんのちょっとなのだから期限をおまけしてあげてもいい。
 ただし、怜悧が開き直って普通に話しかけてくるようなら、その時だけはキッパリと撥ね付けようと決めた。改めて一年間期限延長するくらいのことはするつもりだった。
 そして金曜日、葉山月学園文化祭初日。
 初日は一般公開はなく、生徒たちだけのお祭りだ。
 希が学校に行くと、二年一組の生徒は廊下に溢れていた。教室内のスタッフエリアも本番前で小道具が置いてあったりするし、そうでなくともすっかり暗幕で仕切られまくっていて人数がいると狭苦しい。自分たちで作ったできたての「ビックリハウス」を初体験している子たちもいるようだ。中も外もキャーキャー賑やかだ。
 希は愛用のリュックを背負ったまま、そんなみなに挨拶をした。荷物は教室後ろのロッカーにもしまえるが、はじまってしまうとロッカーは使いづらくなる。いざとなれば、多少無用心になるが荷物は空き教室に置くこともできるから、希はそのまま教室には入らなかった。
 怜悧の姿はなく、中にいるのかななどと、希はちょっと緊張。
 やがて怜悧と会うことなく、チャイムが鳴り、教師がやってきた。そのまま廊下で一人ずつ名簿を確認しつて、出席をとったものからグランドへの移動を促す。
 ここでの怜悧の反応は、完全に希の予測外だった。
 怜悧は希に気付いているのかいないのか、希の方を見もせずに外に行ってしまったのだ。希は怜悧の背が遠ざかった時、思わず「えっ」と声をあげたくらいビックリした。わけがわからない怜悧の態度だった。いつもなら希を探して真っ先に近づいてくるのに、まるで希がこの場にいないかのような態度。
 もしかして怒られるのが怖くて逃げたのか? そうも思ったが、それにしては希の様子をうかがうでもなく、迷いのない動き。
 希はどう考えていいのか頭がまとまらないままに、とりあえずグラウンドへ移動する。整列後、高等部のお偉いさんの挨拶があって、いよいよ文化祭の始まりだ。
 一組は、二人の受付と四人のスタッフで、最低六人体制だ。準備の力作業で働いたと主張する男子生徒は当日の係を嫌っているものも多く、受付は常に女子で、スタッフは男女半々という配分になっている。女子はぶーぶー言ったが、メンテナンス作業は男子がするということで、何とか落ち着いていた。
 男女ともに十五人ずつしかいないから、男女別に二人から三人のチームを作り、そのチーム単位で担当時間が決まっている。営業時間は十時から十五時の五時間を三日で、合計十五時間。それに加えて前後の準備や片付けがある。担当時間については色々もめたが、希は初日と二日目の最初の一時間半が受付で、二日目のラスト一時間半と最終日のラスト一時間が内部スタッフになった。スタッフタイムについては怜悧は強引に希と時間を合わせていたが、スタッフはスタッフでやることがあるから時間内は特別たくさん一緒にいられるわけではない。これは自由時間を合わせることが目的である。
 九時前にはグラウンドでの開催宣言も終わり、みな散り散りになる。希は怜悧を気にしたが、怜悧は男子となにやら話していてこちらに注意を向けてこない。
 「…………」
 「じゃあ、此花さん、十時にね」
 ペアである女子もすぐにそう言っていなくなり、他の女子もみな希が怜悧と回ると思っているから、なにも言わずに笑うだけで、彼女たちも彼女たちの文化祭を楽しみに出かける。そうこうするうちに怜悧の脇腹を男子の一人が肘でつついた。
 「此花さんが見てるぞ」
 「いいなぁ彼女がいるやつは」
 そんな言葉が飛び交っているようだが、怜悧は軽く笑っただけで、希の方に近づいてはこない。それどころか、一瞬だけ視線が合うが、すぐに目をそらせて、「おれはテニス部に行ってくるよ」とみなに挨拶をして立ち去ってしまった。
 他の男子たちも思い思いの方向へ。希は無表情にそれを見送ったが、内心は混乱気味だった。信じられないという思いを強く抱く。今度は確実に希に気付いたはずなのに、希を無視しているかのような怜悧の態度。
 昨日の件が原因なのだろうが、なぜ無視なのか。希に致命的なことを言われたくなくて、逃げまわるつもりなのだろうか? そんなことをしても何の解決にもならないどころか、希の印象が悪くだけなのに。
 驚きが覚めると、急激に不満がこみ上げてくる。希は「今日はもう近づいてきても絶対許してあげない」と、ぷんぷんしながら文化祭を一人で見てまわった。



 結局、十一時半になっても、怜悧は一度もクラスに顔を見せなかった。
 昨日までは、「ずっと一緒に回るぞ」とか「受付も一緒にいてやるよ」などと言っていた怜悧なのに。時間になって受付を交代した希は、通りすがりの教室をちょっとずつ覗きながら、気付くとテニスコートにやってきていた。
 テニス部の文化祭の出し物は、テニスコートでの野外喫茶である。心配された天気も上々で、ちょうどお昼時に差しかかることもあってそれなりに混みだしていた。男子生徒が多いのは、ウェイトレスの女子の格好が、テニスウェアにエプロンという男の下心を刺激する扮装だからかもしれない。
 ここでは、見た目だけは充分にお嬢様な三馬鹿トリオが忙しく動き回っていて、彼女たちは一人きりの希を見て、少し驚いた顔をした。
 「なによ、なにしにきたの?」
 「しかも一人なんてどういうわけ?」
 彼女たちはかつて怜悧に恋慕の感情を持っていて、それを横取りした形の希にきつくあたることしょっちゅうだ。希がいつも軽く流すし、怜悧の態度も露骨なだけに、さすがにもう諦めている部分もあるようだが、いまだに希に対する態度はケンカごしだ。
 「なんとなくね」
 怜悧がいるかどうかを聞きたいとも思ったが、なんだかそれを言いたくなくて、希は曖昧なことを言う。
 「何か食べにきたの? ここにいるつもりなら食券を買ってきなさいよ」
 「客じゃないならじゃまよ、じゃま」
 しっし、という態度まで見せる三人。希は軽く笑った。
 「うん、じゃましてごめん、三人ともがんばってね」
 ふんだ、という返事が返ってきたが、それもそれで彼女たちらしい。希は少しだけ気分が浮上したが、やはり胸のモヤモヤを抱えたままその場を離れた。


 三時になると、たいていのクラスは店じまいをはじめる。長くとも四時までで、まだまだ騒ぐ生徒も多いが、徐々に帰宅をはじめる生徒も増えてくる。ずっと一人で見てまわった希も、もう帰ろうと校舎を外に向かって歩いていた。
 「どうして、こんなに見つからないかな……」
 希は一人呟いて、少しだけ唇を尖らせた。
 これまでは会いたくないと思っていても会えていたのに、こちらから探すとなると全然見つからない。希は誰かに聞いてまわっていたわけでもないし、適当に動いていただけだからでもあるのだろうが、だとしても偶然ばったり会うことがあってもいいだろうに。もちろん、この日の希は怜悧を見つけても、話しかけてあげる気なんか全然なかったが。
 そんなふうに素直でない希だが、同時に気付いていることもあった。これまで怜悧が先に自分を見つけてくれていたから、自分から探す必要なんてなかったのだということに。
 怜悧は自分から話しかけてはダメと言われていても、常に希が話しかけてくれるのを待つかのように、いつも話しやすい場所に、話しやすい態度でいてくれた。自分がいかに怜悧に甘えていて、いかに意地悪だったかを悟るが、希だってなんだかんだでちゃんと話しかけてあげていたのだから、それで充分釣り合いが取れていたと思う。希のことを本気で好きなのなら、怜悧はそのくらいして当然という感じだ。
 にしても、今日の怜悧の態度は本当に解せない。怜悧の方から一度も近づいてこなかったし、朝顔を合わせたときも、まるで希を無視しているかのような態度。
 本当に希を無視しているのなら、いったいどういうつもりなのか? 希が本気で絶交なんてできっこないと見抜いて、絶交を希の方から反故にさせたい? それとも……怜悧が約束を破ったから、希にも約束を破らせようとしている?
 そう思った後、希ははっとして足を止めた。
 あの約束の裏の条件。
 一年間、次の希の誕生日まで、怜悧から希に話しかけずに我慢できたら、怜悧のものになってもいいと言い切った希。同時に、一日一回、希から話しかける、とも話した。それを破ったら当然その時点で希の負けだ。
 「怜悧は、それを狙ってるのかな……?」
 口に出さずに自問自答を続けたが、すぐに希の頬は緩んだ。仮に怜悧がそう思っていても、先に約束を破ったのは怜悧の方だ。この先希の方から話しかけなくても、とやかく言われる筋合いはない。
 「ふふん」
 現金なことに、希は怜悧の思惑を推測すると、即座に機嫌を戻した。希から話しかけるまで無視するつもりかもとも思わなくもないが、これまでの経験上、その我慢比べで怜悧が勝てるわけもないのだ。どうせ明日になれば、いつものようにベタベタしてくるに決まってる。
 「そんな甘い考えがわたしに通用するわけないのに」
 そっちがその気ならこっちも相当の態度をとってやる。希は明るくそう思いながら、元気よく、家への道を歩いた。



 土曜日、文化祭二日目。希は内心いらいらしながら、また一人で時間を過ごしていた。
 怜悧の態度があまりにもそっけなかったからだ。「怜悧も約束を破ったけど希も約束を破ったからオアイコ」という作戦できていると思ったのに、顔を合わせた怜悧はなにもいってこない。昨日まったく話しかけなかった希なのに。それだけならまだしも、今日も全然希を気にしていないというような、また無視するような態度だ。
 「まったく、あいつ、なに考えてる」
 ある意味理不尽な怒りだが、怜悧の考えを見抜いていたつもりだっただけにいっそう不快感は募った。勝手に約束を破った上に、それについては一切触れることなく、それどころか希を無視している。希の方から約束を反故にさせたいのだとしても、あまりにもそっけない態度。
 さすがに希のポーカーフェイスも崩れているようで、午前中のクラスの出し物「ビックリハウス」の受け付け時間、「朝宮くんと何かあったの?」などと余計な心配をされてしまった。「なにもないよ」とさらりと笑ってかわしたつもりだが、その表情も少し引きつっていたかもしれない。
 そんないらいらした気持ちのまま、希は昨日食べ損ねた知り合いの下級生のお汁粉を自棄食いしに行き、それから一時半前に、「ビックリハウス」のスタッフをするために自分のクラスにむかった。
 同じ時間帯にスタッフをする予定の怜悧はすでにきていた。目が合うが、怜悧はすぐにそっけなく視線をそらせてしまう。希はますます不機嫌になり、残りの面々はそんな二人の様子にはらはらしたようだが、ともあれ役割分担を改めて話して配置につく。
 各自ばらばらの位置だし、けっこう好評なようで暇が少ない。通りかかる客の左右にある鏡に向かってフラッシュをたいて驚かせたり、せっせせっせと生暖かい風を送りこんだり。
 三時になって終わったときには、ちょっとぐったりしてしまった。
 「つかれた〜」
 「中も意外に辛いね」
 パートナーの女子と言い合い、受付の女子ともお疲れの言葉を交わす。男子の二人もでてきて二言三言。怜悧は他の子とは話すが、希にだけは話しかけてこない。
 「…………」
 そんな怜悧を眺めながら、唐突に、希は自分がもう負けていることを強く自覚した。
 以前の怜悧なら、希を無視するなんて一日だってもたなかっただろう。無視するとしても、勝手に希の様子をうかがって勝手に自滅していたはずだ。だが、今回は怜悧は完全に落ち着いているし、希の意識も違う。無視されることがきつい。
 希はがんばった後でちょっと気分がよく、もう色々なことを深く考えるのをやめた。
 「かなり癪だけど」とも思ったが、このまま怜悧の考えがわからないのも、怜悧に無視され続けるのも充分嫌だった。それに、せっかくの年に一度の文化祭なのに、嫌な気持ちのまま過ごすのももったいない。
 希の一番素直な部分が表にでていたのかもしれない。負けてもいい、と思えた。怜悧になら負けてもいい。
 希は明るく、怜悧に話しかけた。
 「怜悧、疲れたね。一緒に何か飲みに行かない?」
 「…………」
 普段の怜悧なら、すぐに満面の笑みを浮かべたことだろう。だが、この日の怜悧の態度はそっけなかった。
 希は硬直した。怜悧は一瞥をくれると、他の面々が驚くのもかまわずに、その場をいきなり去ったのだ。
 希の高揚していた気分が、パンとはじける。
 「な、何かジュースでも買ってこようか?」
 他のメンバーが気を使ってくれたのはわかったが、希は相手をする余裕が持てなかった。ただ首を横に振ると、トイレに逃げ込んだ。本当は怜悧の後を追いたかったが、追えなかった。
 「どうして?」
 鏡の中の自分に言う。心臓がバクバクいっている。ありえない状況だった。希にとっては絶対にありえない状況。こういう状況があるなんて今まで思いもしなかった状況。
 話しかけたのに無視された。それも、露骨に。希から誘ったのに。名指しで呼んだのに。
 どうして自分が怜悧にここまで無視されるのか、さっぱりわけがわからない。本来無視するべき立場は希のはずで、怜悧はおろおろするか、もしくは強引にお構いなしにかまってくるはずだったのに。絶交を希の方から反故にさせたいのだとしても、ちゃんと希から話しかけたのに。
 「せっかくわたしが誘ってあげたのに」
 そう呟いたとたん、希はガツンと心に衝撃を覚えた。
 不意に、自惚れを自覚したのだ。絶対に怜悧は自分が好きだという自惚れ。絶対に怜悧が自分から離れていくということはないという自惚れ。怜悧の一番は永遠に自分だという自惚れ。
 これまではそれを自惚れだとは思ったことはなかった。単に事実だと思っていたから。
 「……きらわれた……?」
 ありえないことだ、と思う自信が、いまや完全に欠落していた。
 嫌われても不思議ではないとむしろ思う。
 肉体的接触を避けてきたし、相手の嫌な所は嫌と言い切っていたし、話しかけるのだって禁じていたし、そのくせこっちから話しかけるときも「話しかけてあげている」などと思っていた。
 遊びに付き合ってあげている。会ってあげている。電話してあげている。誘ってあげている。構ってあげている。
 無意識の認識。して「あげている」のだ、と。
 好きとまじめに言ったこともない。「望」の時には、絶対付き合わないなんていう台詞も言い放っている。最低だとも言った事もある。そもそも条件を満たしたら付きあってあげてもいいなんて、何様だという感じだ。
 「…………」
 鏡の中の自分の目に涙が浮かびかけているのに気付いて、希は慌ててそれをぬぐった。
 二日目からは一般公開されているから、トイレを使う客も多い。希は自分が見られていることに気付くと、すぐに顔を洗って外に出た。一度教室に戻り、受付けの足元に預けていたリュックを回収して、そこにいた何人かに挨拶をして学校をでる。
 「もともと、望んでたことだろ」
 久しぶりに、頭の中でも意図的に「望」の口調を使う。
 「それとも、嫌われずに恋愛感情だけ無くさせたかった? そんな都合のいい状況あるわけないのに」
 一度恋愛感情が絡んだ男女が友達に。ありえないことではないが、簡単なことでもない。少なくとも、あそこまで想われておきながら友情で片付けようとするのは相手に失礼だし、相手だってそこまで想った相手と友達づきあいなんて容易ではないだろう。
 「……しかたない、よね……」
 自宅でベッドに倒れこみながら、希は小さく呟いた。
 たった一度約束を破っただけで、希は怜悧の前から走って逃げた。特別な用もないのに話しかけてきてくれた怜悧。
 あの状況では、怜悧が驚いて声をかけてくれるのは無理もないと思うし、自分の身を案じてくれたのだろうとも、今ではわかる。でも、希はそれを拒絶してしまった。
 その時はそこまで考えていなかったが、怜悧はそう解釈したのかもしれない。相手の話すら聞かずに逃げるような女。
 もともとこれまで熱心につきまとっていたのだって、面白がっていただけで、あくまでもフリなのかもしれない。ただ身体目当てだったとかもありうるし、好きにさせるだけさせて捨てるつもりだったのかもしれない。
 「……そんなやつじゃない……」
 そう思いたいが、それももう自信がなかった。そこまで思ってしまうともう止まらなかった。
 「話しかけてきたのも、わざとかもしれない……」
 一度疑いだすと、すべてが疑問に思えてくる。今まで怜悧の愛情を本気で疑ったことなんてなかったのに。むしろ、これまで疑ったことがなかっただけに、何を信じていいのかわからなくなる。
 「もう縁を切りたくて、話しかけてきたのかも……」
 あの条件は、今となっては諸刃の剣だったということがよくわかる。怜悧は、希と付き合う気がなくなったら、いつでも話しかけるだけでよかったのだ。そう、逆に言えば、希も怜悧と付き合う気になったのなら、いつでも一日だけ無視をすればよかった。
 「……もっと早く自分から言えばよかった」
 枕に顔をうずめる。涙がでてきたが、止まらなかった。
 「どうしてわたしが泣かなきゃいけない!」
 泣きながら、叫ぶ。
 一方的に迫ってきたくせに、こっちの気持ちはお構いなしに捨てる? ふざけるなという感じだ。ふつふつと怒りが込み上げてくる。泣いて失恋を嘆くのなんて自分には似合わないことを、「望」はよく知っていた。
 希は顔を上げて、ぐいっと涙を腕でぬぐった。
 「好きなのか嫌いなのか、どういうつもりで無視なんてしてるのか、はっきり聞かせてもらうからね」
 まだ怜悧の気持ちが希に残っている可能性もないではない、はずだ。甘い期待と思ったが、本人の口から聞かない限りは納得ができるものではなかった。
 「一方的に無視なんて絶対にさせない」


to be continued...

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更新日 2003/12/26

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