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夢の続き   (作:Taika Yamani)
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  第一話 「もしも女の子だったら」


 その日、望は夢を見た。
 「もしも女の子だったら」
 両親とそんな話をしたからかもしれない。夢の中で、望は女の子だった。
 生まれたばかりの赤ん坊の内側で、望はそれを見ていた。一枚の用紙に、毛筆で書かれた名前。満面の笑顔の父親が、妻と娘に向かって高々とそれを広げる。
 此花希。
 名前はコノハナノゾムではなくコノハナノゾミ。漢字も、望ではなく希と書くらしい。
 実に変な夢だった。望の意志では希の身体は動かない。望の意志とは別にちゃんと希の意志があるらしい。希の見たもの聞いたもの考えていること感じていることすべてを、望も強制的に体感させられるが、それだけだ。行動の自由がなく、まるで背後霊にでもなったような夢だった。夢とはいえかなり理不尽だと思う。
 望は夢に文句をつけながらも、ただ夢の中で流れていた。
 希も幼い頃は幸せだった。いつも母親がそばにいて、優しく微笑みかけてくれる。他の子供とケンカしても、常に母親は味方で、希が多少おいたをしても、優しく叱るだけで護ってくれる。
 絶対の安全の中の幸福。もちろん、色々と気に食わないこともあったが、優しく護られていたあの頃。
 男の子であっても、女の子であっても、この頃の想いは色褪せない。望は懐かしく思いながら、希の中で時を過ごす。
 が、それも名門私立校の葉山月学園幼稚舎に放り込まれるまでの話だ。
 望の記憶の中では、一人の女の子と、三人の男の子。この夢の中では、一人の男の子と、三人の女の子。
 どうやら登場人物の性別はかなり違うらしく、自分も含めて大幅に入れ替わっている部分がある。望は少し笑ったが、出来事自体は大差がなかった。現実であったことが、登場人物だけを多少かえて、再現される。
 初日から、幼稚舎で一番人気の男の子、朝宮怜悧が希にちょっかいを出してくる。この年齢の子供の遠慮のないわがままな接触を、希は嫌がる。この時の希は天真爛漫といっていい性格だったが、だからこそ好き嫌いも激しく、初対面の人間にいきなり馴れ馴れしくすることはまずなく、嫌がったのも彼女にしてみれば当然だった。
 が、名家の末っ子でわがままいっぱいに育った怜悧としてみても、この態度は許せないものだったらしく、かえって意固地になる。いきなり派手なけんか。望としては今となってはいい思い出だが、当時は笑い事ではなかった。
 翌日も、その翌日も、怜悧は希にちょっかいを出してくる。希はいつもしっかりと反撃していたが、そんな二人のやりとりが、他の子供の嫉妬心に火をつける。希がとても可愛らしく、保母たちの好意を即座に総取りしてしまったも原因だろう。そんなの希のせいではないのに、朝宮家と繋がりの強い家柄の三人の女の子を中心に、陰湿ないじめが始まる。
 ここからの数年間は、今思い出しても苦い記憶だ。
 最初は抵抗していた希。物理的圧力には反撃しようとしたし、無視されても友達を作ろうとがんばった。なのに、物理的には数に勝てず、みんなの無視や陰湿ないたずらもなくならない。怜悧だけは相変わらずちょっかいを出していたし、保母たちもすぐに気付いて何とか対処しようとはしてくれたが、悪循環とはこのことだろうか。いじめはエスカレートし、一年とたたずに、希は幼稚舎に行くのを嫌がるようになる。
 共働きの両親は、幼い希が一人で家に残るのを心配したが、希は首を縦には振らない。お昼ご飯とおやつだけ用意してもらって一人でお留守番をするようになった。
 それからは繰り返しだった。一人が寂しくなった希は幼稚舎に顔を出しては、またいじめられて家に篭る。いまだに望も思い出すと胸が痛くなる。幸せに過ごせたはずの数年間。本人にとって実に理不尽な理由で、傷つけられて過ごした時間。
 だが、希は四月から初等部に進学という頃になってがんばった。強くなればいい、と考えたのだ。無視されても平気でいられるくらい精神的に強く。何人とケンカになっても負けないくらい強く。
 ここから夢は、望の記憶とは違う展開をたどった。それも望が目を背けたくなるような展開だ。
 望は強くなるために、ある道場に通いたいと両親に話した。自分自身で情報機器を駆使して、ここなら強くなれるし規律も厳しいはず、という場所をしっかりと選んだ。両親は多少渋ったが、望の熱意に負けた。そして望は強くなった。二年生になる頃にはいじめられたらいじめ返すだけの力をつけて、今までの恨みも込めて徹底的にやり返した。
 しかし、この夢の中では、希が道場に通いたいと両親に話した時、両親は首を縦に振らなかった。いじめられているみたいな希を気にしつつも何もしてやれなかった彼らは、ここでも希の邪魔をした。女の子なのに格闘技なんて、という理由だ。どんなに希が説得しようとしてもむだで、「暴力で解決しようとするのはよくない」、などとこの時の希にとっては実に理不尽なことを言う。
 希は泣いた。
 その頃すでに細くなっていた食はもっと細くなり、食べてもすぐに戻してしまうようになる。一度栄養失調で入院までするはめになって、初等部の入学式すらいけなかったくらいだ。両親はさすがにこれはやばいと感じたらしく、希の願望を一部受け入れることにする。が、それすらも悪い結果を招いた。家の近くの、素人向けの空手道場にならと両親は妥協し、希も諦めつつも希望をもってその妥協を受け入れたのだが、そこでもまたいじめが行われたのだ。栄養失調で成長が遅くやせ細っていたとはいえ、まだまだ希は可愛らしい女の子だった。上級生がそんな希を可愛がったのも悪かったし、名門私立の初等部に通っていることもここでは悪い方向に働いた。一ヶ月とたたずに、希は道場を止めた。
 もうこの後は泥沼。
 栄養失調での入退院。拒食症。対人恐怖症。
 二年生に上がる頃には、やせててもまだ可愛かった容貌もがりがりの骨だけになり、大きめなまなこもかえって醜悪に見えた。なんとか食事だけはまともに取れるようになったのも二年生の夏ごろで、ここで両親は地元の公立学校への転校を検討する。希はそれに乗った。
 「もう自分は可愛くないし、でしゃばらない。みんな仲良くしてくれるはず」
 望としては泣きそうになるくらい、健気で可愛い希望を抱く希だった。
 だが、その希望もすぐに砕かれる。
 地元の名門私立校からの転校生だというのも問題だったようだし、対人恐怖症が残っていたこともあるし、ぱっと見本当に可愛くない容姿になってしまっていたこともあるのだろう。だが一番の問題は、生来の明るさを失っていたことだった。希はすっかり人間不信になっていたのだ。
 この数年の経験は、明るく天真爛漫に愛らしかった希を、どこかおどおどした哀しげな、臆病で暗い性格へと変えていた。全然笑わず、表情の変化もとぼしい子供で、愛想も極端に悪い。周りの子供たちは最初はほんのからかいのつもりだったのだろうが、びくびくする希の反応が面白いのか、すぐにそれはエスカレートする。
 また希の病状は悪化した。登校拒否と、拒食と、栄養失調と入退院。そして自殺未遂。
 多少よくなっても、学校に行くと悪化するのだから始末に終えない。一部の看護婦など、希に優しい手を差し伸べてくれる人もいたが、本人がだれにも心を開くことをしない。
 小学校の六年間を、希はほとんど学校に行かずに過ごすことになる。日がな一日部屋に篭ってひたすら本を読むような生活だ。三年生の中ごろからは両親のために家事もするようになったが、外にでることは滅多にない。そんな風に希は中学一年生の四月を迎えた。
 望としてはじれったすぎる展開である。状況はわかるし気持ちもわからなくもないが、いじめられっぱなしで甘んじるというのは彼としては許せない。何も行動せずにただ泣き寝入りしているのも最悪だ。
 それでいながら、望も時々希と一緒に泣きたくなった。幸せに生きようとしただけなのに、理不尽にも他人が自分を傷つける。どうにかしたいけど、どうにもできない。どうしていいのかわからない。
 希の思いは切実で、それだけに望も切なかった。
 ただ、そんな希も夢を持っていないわけではなかった。部屋にこもって読書ばかりしていたせいだろう。絵本作家や童話作家になりたい、と甘い夢を抱くようになっていたのだ。現実はそうそう甘くはないのだが、彼女は実現するためにがんばろうという意志を、こんな状況でも抱いていた。
 たまに学校に顔を出しては無視される日々。無視だけならまだしも、いじめられそうになる日々。それでも、希は前を向いていた。もっとも、すぐにもろく崩れそうな前向きさではあったが……。
 そんな希だったから、中学入学にも希望を抱いていた。ただし、今度は未来を見据えての希望であって、横のつながり、人間関係に関しては何の希望も抱いていなかった。同じ小学校の生徒も多いのだ。自分は勉強をするために行くのだ、という自負心があった。
 しかし。
 ここでも、うまくいかなかった。どうしても、他人が希を邪魔する。そして希にそれを排除するだけの力がない。
 希の方ががんばって相手を気にしないように無視しようとしたのに、それがまた気に入らないのか、同じ小学校の子たちがちょっかいを出してくる。その上、小学校の時からさぼってばかりだったはずの希が一学期最初の実力テストでトップの座に座ると、他の学校出身の子たちも巻き込んで再び陰湿ないじめが始まった。この年代になると教師の目を盗むスベをすっかりマスターしているからたちが悪い。ただ、幸い、というのも変な話だが、希の成長が遅すぎるために性的な嫌がらせはなかった。この時の希はまだ小学三年生といわれても通用しただろう。もっとも、その点も、いじめを加速させる方向に作用したようだから、希にとっては何一ついいことはなかった。
 結局希の登校拒否は一年の四月からまた再発した。
 これ以後三年間、試験の時だけ学校に通い、成績もわざと低目を維持するという生活を希は続けた。
 そして高校入試。
 希はさんざん悩んだ挙句に、葉山月学園の高等部の受験を決めた。設備は文句のつけようがない学校だからということもあるが、最大の理由は歩いて通えることである。やっと中学一年生くらいには見えるようになっていた希だが、満員電車にのって学校に通うのなんて考えるだけで嫌だったのだ。痴漢などを恐れて、という理由ではなく、他人と必要以上に近づくという行為に恐怖を覚えていたのだ。
 幸か不幸か、希は見事試験はパスし、四月から高等部に通うことになる。
 ここで、会いたくなかった四人と再会した。
 希に好意を抱いていたがやりかたがまずかった朝宮怜悧。その怜悧の家と代々付き合いのある三人の女子生徒たち。
 四人とも、最初は希があの希と気付かなかったようだが、名前を聞くことで希を思い出した。女子三人の最初の反応は無視だった。希はむしろこれにはほっとした。
 だが怜悧の方は懐かしそうに、優しく話しかけてきた。希のことをずっと気にしていた、とまで言い出し、それからも顔をあわせると優しく話しかけてくれる。
 そんな怜悧に、希はすぐに恋心に似た感情を抱くようになった。ある意味元凶なのだが、過去の自分を知っているにもかかわらず優しくしてくれる怜悧。希本人意識していなかったが、怜悧がすっかりハンサムに育っていたことも、望の見たところ希の気持ちを傾けた原因のように思う。
 しかし、これもまた悪い方向に事態を動かした。不細工な女が怜悧様にちょっかいをかけている、と、すごい噂になったらしい。怜悧はその物腰と容姿と能力と家柄のせいで、初等部中等部とずっと人気が高かったのだ。
 この時の希は相変わらずやせこけて、髪はきつく三つ編みにし、わざと地味になるように、本当の自分を隠して偽りの自分を作り出すかのように、黒ブチの伊達眼鏡までかけていた。希自身、こんな可愛くない女なのに怜悧くんは優しくしてくれる、と、舞い上がっていた部分もあった。だからこそまわりの女子には余計に気に食わなかったのだろう。
 希はまた登校拒否になった。
 望としては、笑えばいいのか泣けばいいのか、同情すればいいのか貶せばいいのか、励ませばいいのか見捨てればいいのか、自分がいったいどうしたいのかもわからなくなりそうな状況だ。
 ここでも、不幸中の幸いというべきか、幸運にも、というべきか、それともこれがあるのを可能性として考慮していたからの選択だったというべきか。葉山月学園は二学期の単位制の学校で、期末試験さえパスすれば出席日数はさほどうるさいことは言われない。希は九月の前期末試験の時だけ学校に通い、相変わらず家に篭っていた。
 そんな状況で、十月になった。
 十月の半ばには、望の、希の十六歳の誕生日がある。
 十六歳の誕生日のその日、希は両親にささやかにお祝いをしてもらった。普段は、こんな自分を両親に見られたくないという思いも強く、希はできるだけ両親と顔すらあわせないようにしているのだが、この日ばかりは泣きそうになりながらも両親の前に姿をあらわす。
 試験で登校したために落ちた体重は多少は戻って、かなりやせているなりにも、眼鏡をとって髪を解くと、それなりに可愛くも見える。親にとってはなおさらのようで、二人は優しくおめでとうを言ってくれる。
 「……自分で、がんばるから……」
 それが、希を心配する両親への、希のいつもの言葉。希は経済的支援以外のことを両親に求めない。だからこそ余計に助けてやりたいと両親は思うようなのだが、具体的に手助けをするとなると、できることが少ないのも実状だ。
 「まあ、なんだ、学校も無理に行かなくともいいから。やりたいことをやりなさい」
 「無理だけは、しないでね……」
 希はそんな両親の笑顔に、「自分で、がんばるから……」と、同じ言葉を繰り返して、泣きそうに顔をそむけた。希も両親には充分感謝をしているが、それを態度に表すことはしない。両親すらも、希にとっては心を開けない相手……。



 ちゅんちゅん、という小鳥のさえずりが聞こえてくる。
 カーテン越しには、秋の朝の光。
 望はゆっくりと目を開いた。薄闇の中に、天井が見える。
 見慣れた天井だ。此花家の、自分の部屋。
 「長い夢……」
 体感的には、十六年間まるまる過ごしたかのような夢。望は呟いて、何気なく天井に手を伸ばして、自分の手の甲を見つめた。
 「…………」
 焦点が徐々に合う。寝ぼけていた頭がゆっくりと覚める。
 まだ部屋の中は暗いせいかな、と考える。
 白い手。
 異様に白い、といいたくなる。
 小さくてキレイだが、肉付きが薄く、骨ばっていて、可愛くはない。
 「まだ夢の中……?」
 もう一度呟いてみて、自分の耳を疑う。
 「いっそ頭を疑った方がいいのかな」
 自分の声ではなかった。少し子供っぽい、少女の愛らしい声。その声が、自分のはずの喉から零れる。
 「どうしてしゃべれる……?」
 望はゆっくりと身体を起こした。自然と目の中に飛び込んできたその部屋は、自分の部屋でありながら、自分の部屋ではない。シンプルな白い壁紙に、いくつもの木製の本棚。参考書や辞書や本がたくさんある机に、大きなベッド。
 夢の中で見たはずの光景が、そこには広がっていた。
 夢の中の少女、此花希が暮らしていたはずの部屋。この十六年間、もっともたくさんいた場所。
 望は夢のはずだと思いながら、ベッドから降り立った。備え付けのクローゼットを開き、扉の裏の姿身に自分の姿を映す。
 「…………」
 そこにいたのは、此花望ではなく、此花希だった。男の望ではなく、女の希。
 いまだに小柄だが、身長はかろうじて百四十にのっている。がそれと比しても体重は異様に少なく、おそらく三十キロもないだろう。髪をストレートに流したその姿は、女の子らしく可愛いとも言うこともできそうだが、やはり肉付きが悪すぎた。女性らしい丸みも少ない。顔色も白いという言葉ではすまないくらい青白く、病的に見える。はっきり言って、目鼻立もくっきりしているだけに、もったいないという印象があった。
 いや、これは、希の幼い頃の姿を知っている望だから思うのだろうか。あの頃のように、ちゃんと食べてちゃんと運動してちゃんと健康的な希というのを見てみたい。
 「……夢のはず、だよね」
 言いながら自分の頬を触ってみると、鏡の中の希も同じ動作をした。やせた頬に触れる感触もしっかりとある。望は「どういうんだろう?」と思いつつ、とりあえずカーテンを開けた。
 いいお天気みたいだった。秋の朝日が、微かに室内を照らす。
 ふと、机の上の一枚のハガキが望の視野に入る。
 『希ちゃん、誕生日おめでとう。早くよくなってまた学校にこれるといいね。朝宮怜悧』
 昨日、希の元に届いたバースデーカード。なんとなくそれを持ち上げて、望はカードをヒラヒラと動かしながら歩き回る。
 「これが夢なら、客観モードから主観モードになったのか」
 今まで背後霊みたいなものだったのが、自分で身体を動かせるようになった。夢なのなら、ただそれだけの話だ。
 「……でも、やたらとリアルだ」
 さっきまで見ていた夢もリアルだったが、自分では身体も動かせなかったから、夢だと疑うつもりはなかった。だが、この状況は、本当に自分が希にでもなってしまったかのようだ。
 「……はは」
 望は乾いた笑い声を立てた。
 「…………」
 すぐに真顔に戻る望。希の長い髪を引っ張ってみる。
 「……痛いし」
 痛みを感じれば現実で、感じなければ夢だなんてだれが言いだしたのだろう。背後霊の時も痛みや苦痛、快感や喜びもわがことのように感じさせられていた。となると、あれが夢なのだからこれも夢のはずだ。
 「……あれも現実だとしたら……?」
 考えれば考えるほど、望としては泣くか笑うかしたくなるような状況である。
 これが夢なら一番楽だ。夢はいつか覚める。覚めるまでどうとでも好きに振る舞えばいい。
 では、夢でないなら? もしこれが現実なら?
 「……実はぼくは死んでて、今まで本当に背後霊で、そして希の身体を乗っ取ったとか」
 ホラーな内容だ。
 「……ここはパラレルワールドで、ぼくと希の心と身体が入れ替わったとか、やっぱり希の身体を乗っ取ったとか」
 SF的展開かもしれない。
 「ばかばかしい」
 望は自分の想像を一言で否定して見せた。
 「となると……本当に夢なのか、もしくは、二重人格?」
 今まで希の裏面に潜んでいた「望」という人格が、どういうしくみなのかはしらないが、表層に出て身体の支配権を得た。これなら背後霊状態だったことも説明がつく。
 「でも、それなら望の記憶はどう説明する?」
 男として過ごした十六年分の記憶がしっかりとあるのだ。
 「希の経験が、男としての記憶を勝手に作った?」
 二重人格説が正しければ、そうとでもなるのだろう。
 「……なんだかなぁ」
 望はここまで考えて、思考停止した。正直ここまでが望の限界でもあった。もしこれが現実なら精神に問題を抱えているか、またはファンタジー的な状況という結論は、控えめに言っても全然嬉しくはない。
 これが現実のはずはない。夢だ、夢に決まってる。
 望はそう思い込むことにすると、パジャマの上からカーディガンを羽織った後、尿意と空腹を解消するために一階に下りた。
 一階の洗面所では父親が髭剃りをしていた。
 父、此花蔵人、四十二歳。実直なエリートサラリーマンで、大企業の部長さんである。その分忙しく、夜はいつも午前様だ。母親とは職場結婚で、その母親も数年の育児休業の後、同じ職場に復帰している。母親も忙しいから、希は夜はたいていずっと一人だ。その状況は望にはのびのびとした自由な環境を与えていたが、希には寂しさと孤独を与えていた……。
 ともあれ、望の記憶とは性別が入れ替わっている人も多いこの夢の中の世界で、この両親の性別は同じだった。が、性別が同じでも性格がずいぶん違う人も少なくなく、希の両親もその例に漏れていなかった。望の記憶では陽気な男であるはずの蔵人も、この夢の世界では我が子に対しては控えめなぎこちない態度だった。希の背後霊として十六年をすでに夢の中で過ごしていなければ、この時の対面もかなり混乱を強いられただろう。
 「や、やあ、おはよう、希」
 父親が娘に対する態度にしては緊張感に溢れているが、彼も希とどう接していいのか計りかねているとわかるから、望はあえてつっこむことはしない。記憶の中の父親と比べると違いすぎて笑いたくなる心理もあるのだが、同時に寂しさも感じながら挨拶を返す。
 「おはよう、父さん」
 「と、とうさん?」
 一瞬、しまった、と心の中で呟く望。希はいつも「お父さん」「お母さん」と言っていた。いきなり、いつもの希と違う行動をとってしまった。しかも、これまでの希なら、返事をせずに顔を背けて逃げ出すはずの状況。
 しかし、これが夢なら、どう振る舞おうと問題ないはずだ。望はゆっくりと息をつくと、少しだけ微笑んで見せた。
 「なんとなく、ね」
 「…………」
 なにやら絶句する蔵人。そんなあまりにも現実と違う父親を可笑しく思いながら、望はトイレに入る。
 夢の中で十六年間、トイレもお風呂もアレの最中もまるまる背後霊状態で見て聞いて知って感じていた望だが、いざそれをするとなるとなんとなく抵抗を感じる。「ほんとにリアルな夢だな。現実には直接は見たことないはずなのに」と思いながら用を足したが、よく考えると、夢の中でも希の「女の子の部分」を自分で直に見たことはない。となると、「女の子の部分」をまじまじと見ようとするとモザイクでもかかるのだろうか? そんな余計なことを考えながら、だが外に父がいるから実行には移さずに、望は後始末をしてトイレをでた。
 蔵人はまだ髭をそっていた。鏡の前に立つ父を、望はまっすぐに見上げる。望だったときより身長が三十センチ以上低いから、この身長差もかなり違和感があるが、いちいち気にしてもしかたがない。
 「ちょっと、手、いいかな?」
 「ん? あ、ああ、す、すまん」
 またなにやら慌てる此花父。それまでの希がいかに父親にも消極的だったかということの現れだろう。望はくすくすと笑いながら、ゆっくりと丁寧に手を洗った。
 父は後ろでそわそわしている。
 「……きょ、今日は、どうしたんだい?」
 「……なにが?」
 「い、いや、なにか、いいことでもあったのかい?」
 「お父さんが慌ててるから」
 「そ、そりゃ、まあ、なんだ」
 もごもごと、髭剃りもまだ途中なのにあたふたする蔵人。顔も洗いたかったがそれは後にすることにして、望は笑いながら水気をタオルで拭いて、それ以上じゃましないうちに洗面所を出た。
 そのままダイニングキッチンに行くと、母親が朝食を並べていた。
 母、此花茜。望の記憶の中の彼女は、「永遠の十八歳」を自称するかなり明るい女性なのだが、この世界では希に対して彼女もやはりおずおずとした態度だった。娘を護ってあげたい、なんとかしてあげたい、と思っている様子はありありと伺えるのだが、気持ちだけが空回りしていた。
 結局これまで何もしてあげることができなかったという両親の負い目が、希を孤独へと追い込んでいる。お互い気持ちはわかりあえているのに、心を開くこともできない。両親の前では決して泣かない娘。娘をその胸で泣かせてあげることもできなかった母親。夢の中とはいえ、望には、その関係は見ているだけで辛い。
 「お、おはよう、希ちゃん」
 「おはよう、お母さん」
 「希ちゃん、えっと、今日は?」
 学校という言葉は希の前ではNGワードだ。「学校に行くの?」という言葉を、この母親は口にしない。望は敏感に察したが、考えていなかったことなので、無意識に時計を見た。午前七時半前。その気になれば楽に間に合う時間。
 希がこんなに早くに一階に下りてくることは滅多にない。起きていたとしても、両親がでかけるまでは部屋に篭っているのが常だからだ。この時間に下りてくるのは学校に行く気がある時がほとんどで、だからこその茜の問いである。
 これが夢なら、どう振る舞うべきだろう? 望は一瞬で態度を決めた。
 「とりあえず、ごはん、わたしの分もある?」
 わたし、という言葉も最初は抵抗があるかと思ったが、一度口にしてしまうとすんなりと言えた。それまで見た夢の影響なのかもしれない。「ぼくは案外女装願望でもあったのかな」などとも思いつつ、望はテーブル前の椅子に腰掛ける。
 「え、朝ご飯を食べてくれるの?」
 「ないならいいよ。後で自分で作るから」
 「…………」
 「ない?」
 「え、あ、ああ! あるわ。待ってね、すぐ用意するから」
 茜はひどく慌てた様子で、それでもどこか嬉しそうに希の分もお味噌汁を用意しに行く。一日を栄養剤だけで過ごすこともある希は、ただでさえ小食だし朝食を食べることは滅多になかった。たったこれだけのことで母親を喜ばせることができるのだから、望としては笑うしかない。泣けないから、切な過ぎる時は、笑うしかない……。



 何も考えずに十六歳の男のまま男っぽく振る舞うのもありだし、これまでの希のようにできるだけ希らしく振る舞うのもありだが、望は別の一つの道を選択していた。
 とりあえず普通の女の子を目指してみよう。
 いじめられっ子で、登校拒否児で、身体も栄養失調気味で痩せ細った女の子の希。臆病で引っ込み思案で、夢を持ちながらも世間というものをよく知らずにいる希。
 夢なら好きに振る舞っていいはずだし、二重人格だとしても本人の都合が悪くならないように環境作りをするのもありなはず。さらに言えば、もしそうなら今希が背後霊状態になっている可能性もあり、一心同体状態ともいえるその立場の希に、違った生き方というのも見せてあげることができるかもしれない。パラレルワールドやらなにやらで心が入れ替わっているのだとしても、もとに戻った時に不都合がないような状況であればかまうまい。
 「たかが夢になにを真剣になってるのかな、ぼくは」
 朝ご飯を食べながら、小さく望は呟き、微かに苦笑した。
 だけど、どうせ生きるのなら、夢の中だろうとなんだろうと、真剣な方が面白いということもまた、望はよく知っていた。
 「え? なあに、希ちゃん、何か言った?」
 「うんん、なんでもないよ。お母さんのご飯、美味しいね」
 にっこり笑って見せる。両親はまた露骨に取り乱した。
 この日の二人の態度はあからさまに変だった。それを言うならそもそも希の態度が変だからなのだろうが、望がちょっと話すだけでやたらとあわてふためく。
 「今日の希ちゃん、よく笑うのね」
 「う、うむ、よくしゃべるし」
 「今日のわたし、へん?」
 わかっていながら、笑顔で望は言う。両親は数秒硬直して、お互いの顔を見合わせた。
 なにやらアイコンタクトが飛び交う。望は二人の内心がなんとなくわかって、頬が緩むのを止められない。
 「う、うんん、全然変じゃないわ。お母さんちょっと嬉しい」
 「笑うと希は可愛すぎだぞ。お父さんも感激だ」
 「でも、無理はしないでいいからね?」
 「うむ、ムチャは禁物だぞ」
 たった一日たっただけで、暗かったはずの娘が明るい様子を見せる。嬉しいというのも本当なのだろうが、強がっているのではと疑う心理もあるのだろう。素直に前向きになっているのだとしても、本人の気持ちと無関係に外野が横槍を入れることもある。これまでの希では、希望を持つことは諸刃の剣だ。前向きなのは悪いことではないが、その分希がまた裏切られたりしたりどうなるのか、その時の反動は、此花家の両親にとっては考えるだけでも恐ろしい。
 望にはそんな両親の気持ちも手にとるようにわかるから、できるだけ心配はさせたくない。「心配してくれてありがとう」と望は言葉を返して、食事に注意を戻した。
 しばらく三人黙々と食べたが、やがて望は箸を止めた。
 まだ四分の三以上残っている。が、なんだか気持ち悪くなってきつつあった。満腹には程遠いのだが、どうも胃が受け付けないらしい。これ以上食べると吐きそうな気さえする。
 望は残ったご飯を恨めしそうに一睨みしてから、箸を置いた。
 「ごちそうさまでした」
 「え、ええ、今日はよく食べたのね」
 「うむ、少しは食欲がでてきたのかな?」
 半分以上残しているのにこういう台詞が飛んで来る希。望は切なさを感じながら立ち上がった。
 「ご飯、残してごめんね」
 「いいのよ、そんなことは。……この後はどうするの?」
 問題は家ではなく外にある。望はまっすぐに二人を見つめて、しっかりと言い切った。
 「学校に行ってくる」


to be continued...

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更新日 2003/11/22

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