戻る


 魔法のリップスティック   (作:Taika Yamani.)
 



  「魔法のリップスティック」


 千賀勇太郎の初恋は幼稚園の時だった。相手はご近所に住んでいた年上のお姉さんだが、後年思い返すとその衣装や立ち居振舞いに憧れていたように思う。服装のセンスがよくお化粧が上手で、物腰も優しくて可愛らしい人だった。勇太郎はその女らしさに、自分がそうありたい対象として憧れたのだ。
 「女の子みたいに可愛くなりたい」
 勇太郎が、幼い頃に自覚した強い願望。
 小学校に上がる頃には、父親は息子の性癖を見抜いていたようで、注意の言葉とともに柔道など習わされるが、それでもまだ子供の頃はよかった。勇太郎はすぐに隠すことを覚えたし、体型が女の子とほとんど同じだったこともあって夢を見ることができた。
 わざと大き目のシャツを買って、ブリーフ一枚の上から羽織ってしなをつくってみたり。髪にリンスをたくさんつけてその匂いにうっとりしたり。胸にタオルを詰めて服の下にふくらみを作ってもじもじしてみたり。わざと少し女の子っぽいような赤い服を選んでみたり。
 人には言えない秘密を持つことで、勇太郎は年齢よりも大人びた少年に育った。そのせいかどうか、聞き分けのいい長男に両親は甘く、小学二年生になる頃にピアノを習いたいと言い出した時も喜んで通わせてくれた。もともと才能があったのか上達し、今ではかなりの腕前だ。小学校の高学年に上がる頃には、料理や掃除も自分から進んでやるようになり、こっそりと編物を学び、弟の面倒をしっかりと見て、育児の本も読んで産婦人科の知識も豊富に溜め込む。
 スカートを切望し、女性用下着や化粧品に強い興味を持ち。母親の化粧品を使ってしかられたこともあるし、こっそりと母親のスカートをはいたりブラジャーを身につけて一人で赤くなったこともある。生理用ナプキンの意味を知った時には、自分でもしてみたい誘惑に勝てなかった。
 勇太郎は自分の願望がどういうものが、今でも正確にわかっているわけではない。本物の女の子になりたいのか、振る舞いだけそうありたいのか、趣味として単に楽しみたいのか、女装したいだけなのか。わからないままに彼はただ「女の子みたいに可愛くなりたい」と、ずっとそう思ってきた。
 それも、姿形も、心も、振る舞いも、できるだけ可愛くてきれいな女の子。ずっとそんなふうになってみたいと思っていた。
 なのに、思春期を迎えて十五歳になる頃には、勇太郎は百八十センチ近い長身と逞しい肉体、男っぽい顔立ちの、どこからどう見ても、女の子らしく振る舞うことが似合わないタイプに成長していた。声変わりで高音も出せなくなり、胸板も厚く固い。ウエストも、くびれはあったががっしりとして、お尻のラインも女子と比べればやはり固く貧弱だ。体臭も、強くはないが明らかに男のそれで、すね毛が濃くなり、おまけに髭まで生えてくる。
 勇太郎が憧れるような、女顔で童顔で同級生にからかわれるようなタイプには程遠く、可愛いと女子にちやほやされることもない。むしろ女子は早くから勇太郎を露骨に男として意識し、男臭いとまで言われたことがある。
 勇太郎は悲しかった。ただ外を飾るだけなら、女装するだけですむのなら物理的には簡単で、もちろん色々問題はあるが不可能なことではない。だが勇太郎の身体では、どうあがいても可愛くなんてなれない。自分の男っぽい身体と顔では女の子みたいに可愛くなんて一生なれないと悟った時、勇太郎は男らしくないと思いつつも、一日泣き明かした。
 男であることも嫌ではない。ある意味自惚れ的だが、自分の容姿も充分いいものとみなしていたし、その能力も低く評価してはいなかった。男の欲望もあるし、女の子に興味もある――まさに色々な意味で――。
 勇太郎の場合、理想の女性像が強力で、それに釣り合う理想の男性像目指して日夜努力してきたせいかもしれない。人に言えない願望を隠すために男っぽく振る舞ったせいもあって、生まれついてのルックスは置くとしても、勇太郎は必要以上に男らしい部分があった。習い続けている柔道は一向に上達しなかったが、体力と筋力だけは身につき、学校の成績も優等な方で見かけは文武両道と言える。だれにも言えない秘密を抱えていることもあって心の成熟も早く、性格も無口な落ち着いた大人っぽいタイプになっている。
 だが、それはそれで楽しくないこともなかったが、いくら表面を飾っても、もう一生無理だとわかっていても、勇太郎の願望は消えなかった。
 「女の子みたいに可愛くなりたい……」
 そんな勇太郎の、高校一年、十五歳の冬。
 勇太郎の手には、一見は普通の薬用リップと変わらない、シンプルなリップスティックが握られていた。



 『愛する千賀勇太郎くんへ。クリスマスのプレゼントとして、性別を転換することのできる魔法のリップスティックを贈ります。あなたの望みが少しでも叶いますように。』



 クリスマスの朝、食事前のジョギングから帰ってきて覗いた郵便受けに投函されていた、消印のない小さな小包。小包の中身は、ピンクの容器のリップスティックと、人の秘密を冗談の種にしている悪質なクリスマスカード。勇太郎がこれまで隠し続けていた秘密を、知っている人間がいることを示すメッセージカード。
 勇太郎の最初の反応は驚愕であり警戒だった。
 少ない手がかりを元に、勇太郎はすぐに贈り主を探した。が、結局贈り主は不明だったが、時間がたつにつれて、勇太郎は問題なしとみなすようになった。自分の願望についてはもともと神経質になっているから、幼い頃ならともかく普段の勇太郎にそれを匂わせる要素は少ない。せいぜいピアノや編物や料理が趣味だったり、少女漫画などの女の子雑誌を愛読している程度だ。見た目は逞しい男である勇太郎が少女漫画などを愛読していることは、学校などで知られるとからかいのネタにはなるかもしれないが、その程度のことなら勇太郎は堂々としている自信がある。誰かが勇太郎にそんな願望があると言い出したところで、軽く笑って何の冗談だという話にしてしまえる。勇太郎の心でも読めない限りは、そんな証拠などどこにもないのだから。
 だから勇太郎は、そのカードとリップスティックのことはすぐに忘れた。
 勇太郎がそのリップスティックを思い出したのは一月の日曜日だった。部屋の掃除の途中で、ハンガーにかけていた私服のコートのポケットから床に転がり落ちたそれを、勇太郎は無造作に拾い上げた。
 「どうしてこんなのがコートの中に?」
 声に出さずに呟き、しばらく考え込んだ後に、勇太郎は思い出した。クリスマスに送られてきた怪しげなリップスティック。
 捨てたと思っていたそれがなぜコートの中に入っているのか疑問を覚えたが、些細な問題だったから、勇太郎はこの時は深く考えることはしなかった。すぐに改めてゴミ箱に放り込もうとして――手を止めた。
 『クリスマスのプレゼントとして、性別を転換することのできる魔法のリップスティックを贈ります。』
 例のクリスマスカードに書かれていた文字。ふざけた冗談だと一笑にふした文字。
 『性別を転換することのできる魔法のリップスティック』
 そんなのありえないことはよくわかっている。だからかもしれない。軽い気持ちで、勇太郎はつけてみる気になった。
 まず、キャップを取ってみる。リップスティックのピンク色のキャップには、白色の流麗な筆記体で「Magical Lip cream」という文字。装飾はそれだけで、メーカー名も成分表示も書かれていない。
 キャップ以外の容器は白い。下の稼動部分をくるくると回すと、スティック状のクリームがでてくる。誰かが使った様子はなく、まったく新品同然にキレイな色艶をしていた。
 「色なしの薬用リップだな……」
 勇太郎は心の中で小さく呟く。一見は本当にどこにでもありそうな、薬用リップスティックだ。容器こそピンクだが、クリームには香りも色もついてなさそうで、冬など唇が荒れる季節に男がしても格別変ではない。「魔法の」という非現実的な形容が似合わない、ごく普通のリップスティック。
 勇太郎はそれを持ったまま、壁に無造作に立てかけてあるシンプルな姿見の前に立った。比較的長身な勇太郎の全身をしっかりと写すサイズの鏡で、ラフなトレーナーにメンズのパンツというシンプルな姿の勇太郎がそこに写る。
 どこからどう見ても、男の姿。まだ幼さも残るが、その顔立ちはもう大人に近い。微かに褐色がかった黒い髪は短くカットしていて、男っぽくも清潔な印象だ。身体つきは筋肉質で逞しく、姿勢も凛然として悪くない。
 勇太郎は片手でリップスティックをそっと持って、鏡の前でゆっくりと、唇に近づけて。
 思いとどまった。
 「毒入りだったりするかもな」
 冷静な意見を抱き、自分で思っておきながら苦笑する。だれが何の目的で勇太郎に毒などもるのか。それもこんな回りくどい怪しげな手段で。愉快犯だとしてももっとやりようがあるだろう。そう思いながらも、苦笑したまま、勇太郎はリップスティックを元に戻した。
 そうは見えないが、すでに誰か使っているかもしれない。愉快犯だろうがなんだろうが、やはりやばいものがまじっているかもしれない。単に皮膚につけるだけならまだしも、舌でなめることもある唇につけるなんて論外だ。
 勇太郎は掃除を再開し、終わるとリップスティックを持って一階に降りた。キッチンの片隅においてある燃えないゴミ用のゴミ箱に放り込んで、もうそのことは忘れた。
 だが勇太郎がリップスティックのことなど思い出しもしなくなった三月、春休み、勇太郎はまたそれを手にしていた。
 今度は普段学校に着ていくダッフルコートのポケットの中だった。しかも滅多に触らない内ポケットの中。クリーニングに出そうとポケットを漁ってそれを見つけた勇太郎は、「どうしてこんなのがコートの中に?」と数ヶ月前と同じことを考えて、すぐに眉を寄せた。
 今度ははっきりと捨てたことを覚えていた。わざわざゴミ箱の中から両親か弟が拾ったのではない限り、とっくに夢の島あたりで埋もれているはずの物。
 勇太郎はまじまじと、ピンクの容器のリップスティックを見た。いつどこでついたのか、容器には一箇所目立つ傷がついている。それ以外はクリスマスに送られてきたものと同じに見えるが、この手のリップスティックは大量生産されていておかしくない。現実的に考えると、勇太郎が捨てた物そのものではなく、単に同じ商品の可能性が高い。
 「……学校で、だれかが入れたのかな」
 コートは学校では脱ぐし、椅子にかけっぱなしで席をはずしたことは何度もある。親しいものならチャンスはいくらでもあるし、親しくなくとも学校関係者ならだれだって機会はあっただろう。クリスマスの朝にだれが送ってきたのかもわからないが、これをしたのも同一人物の仕業かもしれない。
 だれが何のつもりでやっているのか知らないが、いい気持ちはしない。勇太郎は不快感を抑えつつ、再び一階のゴミ箱に放り込んだ。
 そして火曜日、次の燃えないゴミの収集日。
 勇太郎がその違和感を感じたのは、愛用のブルーのエプロンを身につけて、昼食を作っている最中だった。平日だから、忙しい父親は遅くまで仕事で、日中はパートで働いている母親も夕方まではいない。午後から野球の練習に出かける五つ年下の弟は、リビングでテレビを見ながら兄が昼食――この日はかに玉チャーハン――を作るのを今か遅しと待っている。
 シャツとジーンズといったシンプルな格好の勇太郎は、ジーンズのポケットに唐突に固体を感じた。
 「…………?」
 動くとふとももにあたって気になり、「ポケットにはなにも入れていなかったはず」と思いながら、勇太郎はポケットに手を突っ込む。人差し指ほどの大きさのそれを、勇太郎は取り出した。
 「…………」
 勇太郎はとっさに思考がまとまらなかった。驚きと疑問。警戒と不安。不審と恐怖。色々な要素が入り混じった感情。
 そこにあったのは、捨てたはずのリップスティック。
 しかも、まじまじとピンクの容器を確認した勇太郎は、先日見つけた小さな傷を見て取った。捨てたはずのリップスティックについていたものと、まったく同じ小さな傷。
 思考が乱れ飛ぶ。勇太郎はぎゅっとリップスティックを握り締めた。
 勇太郎の気のせいではなければ、それはどこからともなく、勇太郎のポケットに不意に現われた。勇太郎の頭はぐちゃぐちゃだった。自分の頭がどうにかしてしまったのではないかと思う。捨てたはずのものが忽然と戻ってくる? まるで魔法だ。
 「…………」
 『クリスマスのプレゼントとして、性別を転換することのできる魔法のリップスティックを贈ります。』
 例のメッセージカードに書かれていた文字。
 『性別を転換することのできる魔法のリップスティック』
 『魔法のリップスティック』
 『魔法の』
 「ありえない」
 勇太郎は声は出さずに、唇を小さく動かす。やはり自分の頭がおかしい。そうとしか考えられない。忽然と現れたというのは気のせいで、最初から入っていたに決まっている。
 「お兄ちゃん、ごはんまだ〜?」
 ダイニングキッチンと一続きになっているリビングで、弟の賢次郎が騒ぐ。勇太郎はまとまりをかく思考を振り払うように強く頭を振ると、弟に優しく言葉を返した。ポケットにリップスティックを戻して、料理を再開させる。
 「もうちょっと待ってくれ、すぐできるよ」
 「おそい〜。おなかすいたー」
 「賢くんが手伝ってくれれば早く食べられるんだけどな?」
 「やだー! おれが手伝うとまずくなるもん」
 春休みが終われば小学六年生になる賢次郎は、長身で落ち着いた兄とは違い、まだまだ小柄でやんちゃな少年だ。勇太郎が甘やかしたせいもあってかわがままも多く、勇太郎としては可愛いくてしかたがない弟なのだが、困ることも少なくない。
 だがこの日は弟の無邪気さは勇太郎にはありがたかった。日常にまじりかけた非日常の現象を、頭から追いやる力になってくれる。
 「皿くらいだしてくれると、お兄ちゃんは嬉いんだけどなー」
 「これからクラブだから、エイキをヤシナわないといけないもん」
 「はは、英気を養うときたか」
 「おれはお兄ちゃんと違ってレギュラーだしなっ」
 「まあ、おれはな」
 幼い頃から柔道道場に通っているが、勇太郎の進歩はカタツムリの歩みに匹敵する。定型の動きには強いが予想外の動きに対する反応が鈍く、それが弱さの原因らしいが、わかっていても自分でどうにかできれば苦労しない。体力と筋力で何とかごまかしている部分もあるが、下手すると中学生にも負ける。なかなかに切ない現実だ。
 高校に進学してからは道場通いは週に二度、火曜と木曜だけになっているが、勇太郎はいい加減に辞めることも再三検討していた。今のところ続けているのは、辞めると言うと同じ道場の友人がいじけるからだ。
 「でも、お兄ちゃんは男っぽくてかっこいいし、体格はいいからいいよなぁ。おれなんかまだチビだし力ないし」
 地元の野球チームに所属している賢次郎は、兄と比べて運動神経は全般的にすぐれているが、残念ながら本人の言うとおりまだまだ小柄でパワーもあまりない。賢次郎は、逞しく男っぽくておまけに頭もいい兄を真剣に羨ましがっていて、そんな兄に子供らしく憧れている節もあった。
 「打順は少しは上がりそうか?」
 「お兄ちゃん、わかってないなぁ。野球は九番でもちゃんとメンバーの一人なんだから、自分のヤクワリさえしっかりできれば何番だって問題ないんだよ!」
 どこで仕入れてきた知識なのか、コーチにでも言い含められたのか。もっともらしいことを言って威張る賢次郎。勇太郎はくすくす笑う。
 「ホームランバッターは諦めたんだな」
 「諦めてないよ! 今はそれよりヒットが打ちたいだけだもん」
 「偉いな。一人はみんなのために、という奴か」
 「へっへ〜。ま、将来はプロの四番で決まりだけどねっ」
 「頑張るのはいいけど、無理はしないようにな」
 「お兄ちゃん、わかってないなぁ」
 賢次郎がまた偉そうに、兄に自分の知識を披露する。
 「無理するのもしないのも、そんなの全部自分で選ぶんだよ!」
 「はは、そうか、すごいな」
 子供っぽい声で、さらに人生についていろいろ解説をしてくれる賢次郎。じきに料理を完成させた勇太郎はダイニングのテーブルに弟を呼び、二人一緒に昼食を取りながら、ニコニコと受身の姿勢で楽しく、弟のよもや話を聞いてあげた。



 昼食後すぐ、勇太郎が後片付けをするうちに、弟の賢次郎はユニフォームに着替えて家を飛び出していく。勇太郎は後片付けを済ませると、二階の自分の部屋に戻った。
 意識はすぐに弟から離れる。勇太郎は自分の部屋の鏡の前で、手の中のそれを見つめた。
 『魔法のリップスティック』
 数時間前なら笑い飛ばしたであろうことを、いま勇太郎は本気で疑っていた。さっきあったことが現実なら。勇太郎の気のせいではなく、本当に捨てたはずなのに忽然と不意に戻ってきたのだとしたら。
 非現実的なことを本気で疑っている自分の頭を、やはり疑いたくなる。勇太郎の理性は、「気のせいならそのまま忘れるべきだし、捨てられないならそれで別に困らない」と激しく警鐘を鳴らしている。捨てられないなら適当な場所に放り込んで忘れてしまえばいい。また戻ってきたらその時はその時だ。気味は悪いが、むしろ気味が悪いからこそ深く関わらない方が賢明だ。
 だが、このリップスティックが本当に魔法のリップスティックなのなら。
 『性別を転換することのできる魔法のリップスティック』
 最初にこのリップスティックを受け取った時に、一緒についていたメッセージカードに書かれていた言葉。捨てても戻ってくるというだけでも現実味がないのに、性別を転換とくればもうナンセンスだ。こんなの忘れるべきだ、と、やはり勇太郎の理性が告げる。関わろうとするのはどうかしている。
 そうとわかっていながら、勇太郎は誘惑に勝てなかった。
 「もし本当に性別を転換できるとしたら?」
 ありえない、と強く思う。だが、その仮定は、いまや空想とは笑い飛ばせないほどの可能性をもって、勇太郎の目の前に存在する。
 「……試すだけなら……」
 強い誘惑。強すぎる誘惑。
 勇太郎はリップスティックのキャップを取り、くるくると回して、スティック状のクリームをだす。
 まさか本当に毒物かもという可能性も脳裏をよぎるが、それもそれで現実感に欠ける。勇太郎はここから先は一瞬も迷わなかった。鏡の前で一気に素早く、だが丁寧に、リップスティックを唇に滑らせる――。
 男っぽい唇は、すぐにつやつやになった。色はついていないと思っていたのに、驚くほどピンク色に染まる。リップスティックを握るその指は、細く白く、小さな爪もキレイで可愛いらしい。大きなシャツが両肩ぎりぎりに引っかかって、真っ白いなだらかな肩が露になる。
 いつそうなったのか、勇太郎には自覚ができなかった。なにもかも小さい。身長も、頭も、肩幅も、腕も手も顔も、なにもかもが。
 十六歳くらいの少女が、鏡の中にはいた。
 同年代の女子の平均よりは、多少身長は高いかもしれない。百六十あるかないか、といったところだろうか。それでも勇太郎よりも二十センチ近く低い。肩より少し長い髪が微かに前に流れて、剥き出しの華奢な肩に細い線を作っていた。
 その可能性を考慮してはいたが、あまりにも現実味のない状況。勇太郎は、ぶかぶかの袖にからまれながらも手を伸ばし、そっと自分の頬に触れた。
 鏡の中の少女も、同じように、白く小さな手で桃色の頬を撫でる。
 「うそ……」
 鏡の中の少女の小さな唇の動きとともに、細く愛らしい声が、勇太郎の唇から零れる。
 全体的に細身に見えるが、要所要所はそれなりに豊かだ。大きく開いた胸元からはしっかりと谷間が覗き、いくつもサイズが大きいはずの男物のシャツなのに、ふくらみがシャツを押し上げている。服がはだけてなめらかな肩が露出し、細い首筋と愛らしい鎖骨も白くまぶしい。ジーンズと下着は、ウエストがゆるくなりすぎて今にもずり落ちそうにながらも、豊かなお尻に引っかかっていた。
 「可愛い女の子……」
 鏡の中の自分自身を見つめて、勇太郎は身体を震わせた。
 現象に対する疑問や不安、驚愕を感じるのが普通の人間の反応なのかもしれない。だが勇太郎に最初に湧き上がってきた感覚はまったく別のものだった。
 「どうしよ、うれしい……!」
 心からの声。だが、はしゃぐが、大きな声を上げることはしない。勇太郎は小さな手を、リップスティックごと握り締めて、顔をくしゃくしゃにして笑い泣きをした。
 長年の願望。それも、夢に思ったことはあっても、現実になるなんて思いもしていなかった状況。女の子みたいに可愛くということを飛びこえて、とても可愛い女の子そのものに。
 これで歓喜に震えないわけがなかった。もう夢だろうがなんだろうが、頭がおかしいのだろうが神の仕業だろうが悪魔のせいだろうが魔法だろうがなんだろうが、そんなのまったく気にならないくらい勇太郎は嬉しかった。
 「……ほんとに、すごく可愛いし」
 自分で言って、勇太郎は頬を熱くした。鏡の中の少女が、頬を桃色に染めて、涙目で、上目遣いに自分を見つめている。顔かたちは勇太郎の理想そのものといってもよかった。多少勇太郎の幼い頃の面影があるが、両親ですら言われてもわからないかもしれない。だぼだぼのシャツがまた似合う。
 「うう、わたし……」
 早速女の子の一人称を使って、さらに興奮する。頬がやたらと熱かった。勇太郎はシャツの胸元を握りしめて天井を見上げた。
 「落ち着かなきゃ……、うん、落ち着かなきゃ」
 呟くが、表情が緩むのを止めることができなかった。天井を見上げていても、違いがわかる。感覚そのものがまったく違う肉体。力強く逞しかった男の身体ではなく、多少反応がにぶそうだが、柔らかく華奢な女の子の身体。部屋の匂いを男くさいと感じたのは、嗅覚も変化しているせいだろうか。気のせいか体温も高いようで、ただ単に興奮のせいかもしれないが、身体がぽかぽかする。
 股間にはあるべきものがなく、胸は先端がシャツにあたって少し痛いくらいにくすぐったい。足元もジーンズを引きずっていて、お尻に引っかかって今にも落ちそうな下着も落ち着かない。
 「と、とりあえず、着替えだよね、うん」
 自分で言っておきながら、勇太郎は頭がくらっとした。
 「着替え……」
 それなりにもてないこともない勇太郎だが、理想が高すぎることもあって今まで付き合った女性はなく、まだ十六歳だしチェリーボーイである。悪友とその手の本を読んだことはあるが、生身の女性の全裸など、幼い頃に見たことがあるだけだ。そんなの記憶の彼方だし、そうでなくともその頃に邪な感情はなかった。
 「こ、子供がお母さんのを見るのと一緒だよ。自分の身体なんだし」
 自分で言ってて嘘がありまくりの少女の表情だった。鏡の中の少女は、目の縁を赤く染めて、瞳を潤ませて勇太郎を見つめている。
 「うう、慣れなきゃ……。自分の身体なんだから慣れなきゃ……」
 無意識に呟いて、少女の夢見る瞳ははっと覚醒した。
 「って、まさかずっとこのまま?」
 もう一生戻れないかも、と考えて、少女の顔から血の気が引く。唇を慌ててぬぐってみるが、クリームの感触は残っていない。
 「う、戻れない?」
 勇太郎は落ち着けとばかり無意識に胸を押さえて――むにゅ、という、男ではありえない感触に心臓が跳ねる。触った手と触られた胸、両方が勇太郎の感情を強く刺激する。慌てて手を離したが、勇太郎の頭はいくつもの意味でドキドキしまくりだった。
 「そ、そうだ。もう一回使えば、元に戻れるかもしれない?」
 不意の閃きに勇太郎はすがった。メッセージカードには、勇太郎の記憶が正しければ『性別を転換することのできる魔法のリップスティック』とだけ書いてあった。その言葉を文字通り解釈していいのだとすれば、もう一度使えばまた性別がかわるはずだ。
 勇太郎は暴れる鼓動を抑えながら、もう一度塗りなおした。
 変化は、人には感知できないくらいのほんの一瞬。
 そこにいるのは、もう十六歳の愛らしい少女ではなく、十六歳の男くさい少年。
 「ふぅ……」
 勇太郎は安堵しつつ、興奮がさめやらない頭で、もったいないとも強く思った。いっそ一生そのままなら選択の余地なく女の子でいられたのに、と、後先考えない思考まで渦巻く。
 「……でも、ほんとに可愛かったなぁ」
 勇太郎はまたごっつくなってしまった自分の声に、少し顔をしかめた。
 「やっぱりえらい違いだな……」
 ほんの数十秒前までの自分と、今の自分。見た目も声も感覚も全然違う。やはり嗅覚や体臭にも変化が生じるのか、微かに女の子の甘い香りが残っている気もして、勇太郎はなんとなく哀しくなる。
 だが、今の体験が夢ではないのなら。
 「…………」
 もしかしてやっぱり夢かと思いつつ、勇太郎は頬をつねってみたが、しっかりと痛かった。手の中には、リップスティックもそのまま存在する。
 どう考えていいのか、自分でもわからないが、それがそこにあるのは現実だった。
 「魔法のリップスティック? 使えば性別がかわるアイテム?」
 笑い飛ばしたいが、否定できない現実。勇太郎はもう魔法を否定できなくなっていた。それを否定するなら、勇太郎の頭のまともさを否定しなければならない。
 この世には魔法使いとやらがいるのだろうか? どこかにいけばこんなアイテムがごろごろ転がっていたりするのだろうか?
 そんな子供っぽい空想が広がりかける。だが勇太郎はすぐに視線を鋭くした。
 「……一番の問題は、だれが何のためにおれにこんなものを送ってきたのか、か……」
 例のメッセージカードに書かれていた内容は、今となっては一言一句は思い出せないため、勇太郎にわかっていることも多くはない。贈り主は勇太郎の姓名を知っていること、郵便受けに直接投函したと思われること、はっきりとは書かれていなかったが勇太郎の願望を知っていたこと。せいぜいその程度だ。
 勇太郎は悪質な冗談と受け取っていたが、改めて考えると、少なくとも文面上は善意を匂わせていたように思えなくもない。実際にこういう効果がある魔法のアイテムをよこしているのだから、本当に純粋な善意である可能性はある。
 「例えば、本物のサンタクロースの仕業だとか」
 自分の想像に勇太郎は吹き出した。郵便受けにプレゼントを放り込むサンタクロースというのも面白すぎる。
 だが可能性だけなら、もうどんなことでも否定できないのもまた事実。勇太郎が女になりたがることを見越して、何らかの害意を加えるつもりな可能性だってある。幸い今は戻れたが、元に戻れなくされるだけで社会的に勇太郎の存在は抹殺されるようなものだ。悪意ならいくらでもどうとでもやりようがある。
 「……相手が魔法使いなら、どうしてこんな回りくどいことをする?」
 自分で言っておきながら、魔法使い、という単語に、勇太郎は思わずまた失笑を漏らす。やはり現実感がなさすぎた。自分の頭を疑う方がまだリアリティがある。
 「……このリップスティックは、幻覚作用があるだけかもしれない」
 あんなに生々しい幻覚というのも実感が湧かないが、魔法より説得力がある気がした。何度か笑ったことで、多少は理性が戻ってきた勇太郎は、改めて手の中のリップスティックを見た。
 「…………」
 使えば、性別を変えることができる魔法のリップスティック。
 理性が戻ってきたはずだが、同時に強い誘惑も蘇ってくる。
 「……幻覚ならちょっと中毒が怖いが……」
 勇太郎の理性は警鐘を鳴らすが、その警鐘に逆らう力は最初よりも何倍も強かった。使えば、そうなれる。すでに一度確かめて実感したこと。
 「幻覚でなくとも元に戻れるのなら……」
 送ってきた相手の意図も、リップスティックの具体的な効力もわからない。もしかしたら副作用だってあるかもしれない。
 だがそれでも。
 勇太郎はリップスティックを持ったまま部屋を出た。
 勇太郎は、肉体的には健全な十六歳の男の子である。精神的にも、多少嗜好が人とは違うが、女性の身体に対する好奇心は人並みにあった。もしかしたら人並み以上だったかもしれない。
 勇太郎は歩きながら、「実際どんな効果があるのかもっとちゃんと知るためだ」と言い訳を用意すると、まっすぐに浴室に向かう。
 脱衣所でいそいそと服を脱ぎ捨て、全裸になってから、勇太郎は唇に魔法のリップスティックを――。



 ――約三時間後、勇太郎は少女の身体のまま、自分の部屋のベッドで目を覚ました。
 メンズのシャツ一枚という、かなり際どい格好だ。太ももの半ばまでちゃんと隠れているが、ボタンはすべて外れていて、寝起きのその姿は妙に色っぽい。袖を何重も曲げているのも可愛らしくアンバランスで、コケティッシュな魅力をかもし出している。
 ベッドで上体を起こした勇太郎は、女の子座りをしながら自分の身体を見て、数秒うっとりとした後、はっと意識をハッキリさせて慌ててシャツのボタンをはめた。
 同時に、いつのまにか眠り込んでしまっていた自分を自覚し、勇太郎は激しく落ち込んだ顔をした。衝動はすでに去っているが、自分がなにをやったか思い出すと顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
 「そういう女の子はわたしの理想とは違うのに……」
 色々と自分を知る行為をしながら、勇太郎は女の子の自分の名前を決めていた。
 自分でも恥ずかしいセンスだと思ったが、名前はカレン。漢字で書かないあたりが、勇太郎の羞恥心の表れかもしれない。だが恥ずかしかったが、自分のイメージする女の子像はその言葉がよく象徴していると思ったし、同時に主観全開だが、それに相応しい容姿だとも勇太郎は思った。自惚れを感じて、やはりそれにも羞恥を感じてしまったが。
 しばらくもじもじしていた勇太郎――カレンは、すぐに感情を入れ替えた。今の自分は勇太郎ではなくカレン。男の子でなく女の子。変なことをしてしまうのは勇太郎が悪いのであって、カレンはなにも悪くない。
 「男って不潔だっ」
 責任を男という性別に押し付けて自己を正当化すると、カレンはベッドから降り立った。
 鏡の前に立ち、自分がまだ女の子、それもとても可愛い女の子であることを改めて確認して、感動に打ち震える。シャワーを浴びてそのまま横になってしまったから、微かに褐色がかった黒い髪はけっこう乱れていた。癖はつきにくいのか寝起きの可愛さの範囲内だが、身だしなみはやはり気になる。
 櫛を取って、整えてみる。幸い、髪はすぐにきれいにまとまった。櫛がすんなりと通る、細い艶めいた髪だった。男だった時はいつも短めの髪でここまで伸ばしたことがないから、同じかどうかわからないが、やわらかく細いわりに、扱いやすい髪質だった。
 髪が落ち着くと、にっこり微笑んで、鏡の中の自分に見惚れる。それから何気なく時計を見て、カレンは慌てた。
 四時をすぎていたからだ。弟が寄り道せずにまっすぐ帰宅すれば、もう帰ってきていてもおかしくない時間だ。カレンはまたもったいないと思いながらも急いでリップスティックを唇に滑らせ――ここで元に戻らなかったらどうしようと不安を感じつつ、丁寧に塗る。
 「ほ……」
 次の瞬間カレンは勇太郎に戻っていた。男物のシャツ一枚で下着もはいてない男の姿は、あまりカッコイイとは言えない。勇太郎は男女の落差の激しさに落ち込みたいような気分になりつつ、とりあえずすぐに衣服を整えた。
 着替え終えると、もっと堪能したいと悶々としながらも、唇を触ってみる。女だった時と同様、クリームの感触はない。
 どうやら性別が変わると唇はなにも塗っていない状態になるらしい。つまりそれは、クリームが落ちると効果がなくなる、というような制限はないと解釈していいのだろうか。性別を変えていられる制限時間は、事実上ないと思っていいのかもしれない。
 「ま、日が変わったら戻るとかいう可能性もあるから、注意がいるか……」
 呟いてその声にまた落ち込みつつ、勇太郎は一階に降りる。
 クラブが長引いているのか寄り道しているのか、まだ弟は帰ってきていないようだった。勇太郎は冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップに注いでから、ダイニングの椅子に腰を下ろした。手でコップを弄びながら、じっと考え込む。
 この状況をどう考えるべきか。これからどうするべきか。
 幻覚なのか、それとも他人から見ても女の子に見えるのかは、ちゃんと確かめる必要がある。もしも現実だとしても、その正体が勇太郎だとだれにも不用意には知られれるわけにはいかない。それを踏まえた上で、やりたいことは山ほどあった。
 なんとなく、勇太郎は椅子にかけっぱなしだった自分のブルーのエプロンを見つめる。
 「……フリルのエプロン、ほしいな」
 他人に聞き取れないくらいの声で小さく呟いて、勇太郎はエプロン姿の自分――カレンの姿を想像して少しぼーっとした。服も下着も欲しいし、化粧品も欲しいし、靴や小物やアクセサリーも欲しい。他にも欲しいものがたくさんあった。
 「……お金が足りない」
 千賀家は比較的普通の経済力の家庭なので、勇太郎のお小遣いはあまり多くもない。定期的な一定額の他は、必要な時に必要なだけもらうという形を取っていて、これまでそれで困ったことはなかったのだが。
 こうなってしまうと、勇太郎が満足できるまで衣類やその他もろもろそろえるとなると、いったいいくらかかるのか。
 「女の子の下着とか高いって言うし、どうなんだろう……」
 今の時代、下には下があるだろうが、自分はおそらくそのレベルでは満足できない。勇太郎は理想が高い自分をよく知っていたから、お金はなんとかしなきゃと少し悩んだ。
 「バイト、探すか……」
 牛乳を飲みながら、さらに色々考える。
 とりあえず、魔法のリップスティックの効果は水を浴びても消えないし、洗顔フォームでも消えたりしない。一度寝ても大丈夫だった。ランダムな時間で元に戻るという怖い可能性を除けば、後は一定時間で戻るのか、日付がかわって戻るのか、太陽が沈んで戻るのか。
 例のメッセージカードの記述どおりなら、女になったまま再びリップスティックを使わなければ、一生男に戻らないという可能性も低くはない。
 「とりあえず、今月一杯くらいは、有効時間とか戻る条件が本当に大丈夫か確認するだけにするべきか……」
 人前にでていきなり戻ったら目も当てられない。それが服装まで女物でそろえた後ならなおのことだ。
 「……でも、今月一杯なんて我慢できない」
 外にでてみたい。女物の服も買いに行きたい。他の人が自分をどう見るのか知りたい。早くたくさん、女の子みたいに可愛く振る舞いたい。勇太郎はどんどん湧き上がってくる欲求を、どうしても抑えきれなかった。
 「いつまで使えるかもわかない……」
 不思議な魔法がこめられたリップスティック。捨てても勝手に戻ってくるアイテムのようだが、だれが何のために勇太郎にそんなものをプレゼントしたのかはわからないだけに、いつ取り上げられるかもわからない。
 「そうだよな、今しかできないかもしれない……」
 慎重になるべきだとも思ったが、勇太郎は衝動に勝てる気が全然しなかった。
 「……とりあえず、ショーツくらいは欲しいな……」
 思考がまた微妙に脱線する。完全に女物の衣装を買いに行く前に、簡単な扮装は必要だ。女の身体なのにメンズの下着なんて落ち着かないだろうし、そうでなくとも勇太郎はそれを着てみたい。
 「あと……生理用品とか」
 自分で考えておきながら、勇太郎は一連の思考に強い羞恥を覚えた。
 「女の子ならいつ女の子の日になるかわからないし」
 だれに言い訳しているのか、一人で言って一人で恥ずかしがる勇太郎。暴走気味になりかけた勇太郎だが、はっと我に返って、テーブルに突っ伏した。
 「……すっかりやる気満々……」
 もう二度とカレンにはならない、という選択肢が自分の考慮対象にないことを、勇太郎は改めて強く自覚した。絶対に手に入らないと思っていたものが手に入った。ずっと求めていたものが。理性がなんと言おうと、それを手放すなんて考えられない。
 だが、だとすればなおさら無視できない問題も多かった。特に大きな問題は二つ。リップスティックの効果の詳細と、贈り主の意図。
 リップスティックの効果は、副作用があるとしても、それが自分の命の問題であればたいしたことはない。贈り主の意図も、善意なら問題は少ない。だが悪意がある場合や肉体に障害を起こすような副作用がある場合、調子に乗ってリップスティックを使うことは、今後の人生や家族へ被害が及ぶ可能性が少なくない。
 「……理性的にいくと、どう考えても、二度と使うべきじゃないのに……」
 ただでさえ非現実的なのだから、やはり関わらないのが一番賢明だ。贈り主の意図はわからないが、わからないからこそこちらから付け入る隙を与えるべきではない。
 「ただいまー!」
 玄関から元気な声が聞こえてきた。弟の賢次郎が帰ってきたらしい。勇太郎は軽く頭を振ると、とりあえず色々な問題を頭の隅に押しやった。
 ばたばたと賢次郎は駆けてきて、そのままリビングに飛び込んできた。ダイニングの椅子に座る勇太郎を見て、怪訝そうな顔をする。
 「あれ? お兄ちゃん、道場は?」
 火曜日と木曜日は柔道道場で、金曜日はピアノ教室がある。昼食の一件のせいで四時からの練習のことをすっかり忘れていた勇太郎は、弟の問いに正直に答えようとして、やんちゃな弟の姿に笑みをこぼした。
 「おかえり。どろんこだな」
 「へっへ〜。おやつ何かある〜?」
 もともとは白色系のはずの賢次郎のユニフォームは、いたるところに土がついてぼろぼろだった。この場に母親がいたら、即座に怒鳴り声が飛んで、お風呂に叩き込まれたかもしれない。
 「まずはお風呂で泥を落として着替えておいで。あんまり汚すと、お母さんに怒られるぞ?」
 笑いながら言っているから、勇太郎は本気では咎めてはいない。それがわかるのか、賢次郎は「いいの!」と言い切ると、どろんこのままテケテケ近づいてきた。立ち上がり棚を調べはじめた兄の横から、強引に彼も棚を覗き込もうとする。
 「おやつはお兄ちゃんがだしてあげるから、せめて手洗いとうがいはして欲しいな」
 勇太郎は笑って言いながら、少し強引に弟の身体を回れ右させる。
 「キッチンで簡単にでいいから」
 「うー、おなかすいてるのにー」
 賢次郎は不満げな顔をしたが、逆らわなかった。キッチンの流しで手を洗い、コップでうがいをし、きょろきょろとまわりを見て、椅子にかけてあった勇太郎のエプロンで手を拭く。その間にクリームパンをテーブルに乗せた勇太郎は、軽く苦笑した。
 「こらこら、人のエプロンで」
 「へへー」
 悪びれもせずに笑って、賢次郎はテーブルに戻ってくる。そのまま座り込むと、クリームパンの解剖に取りかかった。勇太郎はさらに弟のために牛乳の用意だ。
 「今日ね、盗塁の練習と、ヒッティングをジューテン的にやった!」
 「ヒッティングだけならそんなにどろんこにならなかったのにな」
 「ん、本番形式で、順番に打ってから一塁まで走ったから汚れるよ。そのまま盗塁の練習した。おれは失敗は一回だけだったよ!」
 「すごいんだな」
 「まあね! 下手な奴は全然ダメだから!」
 賢次郎はクリームパンを頬張りながら、楽しそうに練習の様子を話して聞かせてくれる。正直勇太郎は野球にはあまり興味はないのだが、弟の楽しそうな様子は見ているだけで嬉しい。簡単なあいづちをうちつつ、頑張った様子が見える場面で誉めてあげると、それだけで賢次郎も嬉しそうだ。
 そんなふうに勇太郎は弟の話に付き合い、やがておやつを食べ終わった弟をお風呂に放り込んだ。リビングとダイニングの汚れは、母親に見つからないように、キチンと落としておいてあげる。
 簡単な掃除が済むと、勇太郎はまた椅子に腰を下ろした。
 いろいろな考えが頭を渦巻く。願望と、非現実的な現象への猜疑心と、現実的対応への悩み。強すぎる欲求と、可能性の考慮から来る警戒心。情報の絶対量が明らかに足りないため、さまざまな願望が頭の中を跳ね回り、保身と気持ちのバランスをどこで取るべきなのか判断ができない。
 ため息をついて、勇太郎はテーブルに顔を伏せた。
 お風呂で汚れを落とした弟は、そのまま自室に戻ったらしい。野球とテレビゲームと携帯ゲームが今の弟の趣味だが、テレビはリビングと両親の寝室にしかないため、自室で携帯ゲームでもやっているのかもしれない。
 両親はいい顔はしないが、一人でゲームをやっている間は賢次郎は大人しい。ブラコン気味な勇太郎としては、それが寂しいような、たまには一人にしてもらえてちょうどいいような、微妙な心境だった。この日も、弟と一緒に遊んで気を紛らわしたいのか、それともより深く考え込みたいのか、どちらがいいのかどうしたいのか、自分でもわからない。
 「……やるなら、賢くんにも内緒ごとになるし、かまってあげる時間も減るな……」
 声には出さずに呟き、勇太郎は一瞬息を止めた。仮定のふりをしながら、すでに現実のものとしてそれを考えている自分に気付いたからだ。またため息をつく。
 「やっぱりやらないなんてできない……」
 欲求を止められない。どんなリスクがあるとしても、いきつくところまでいってみるしかない。それに、屁理屈だと自分でもわかっているが、やってみることで、贈り主を誘い出すこともできるはず。
 勇太郎は立ち上がった。
 とりあえず、弟や両親が家にいない時間しか、時間は自由には使えない。両親は平日昼間は大抵留守だからいいとして、弟はクラブ以外の予定は不確実だ。友達のところに遊びに行ったりすることも多いが、帰宅時間がわからないから油断はできない。確実に予測がつく範囲だけで、まずはできるだけのことはやらなければならない。
 「日没と日付変更と日の出で元に戻らないかどうかは、今日調べておくか……」
 また女の子になる。そう思うだけで、勇太郎の身体は歓喜に震える。高鳴る鼓動を押さえながら、自分の部屋へと戻った。









 捨てても捨てても戻ってくる、不思議なリップスティックで、生まれて初めて女の子になることを体験した日の夜。
 勇太郎は今後の計画を立てたり、友人から電話がかかってきたりしながら夜を過ごすと、零時になる前に女の子であるカレンになり、親や弟が部屋にやってくることをベッドの中で警戒しながら日付変更を待った。夜に暗い室内でベッドの中、という状況がカレンの気持ちと行動にどう作用したかは触れないとして、日付は何事もなく変わり、なんとなく可笑しくなってカレンは少し笑った。
 「十二時になると魔法が切れるなんて、わたし、シンデレラにでもなったつもりだったのかな……?」
 安心しながらカレンは勇太郎に戻って眠り、早起きして再びカレンになって、ここで日の出でも元に戻ったりはしないことを確認した。日没で大丈夫なことも夕方確かめているから、後は気になるのは制限時間の問題だけだ。カレンとしては一度は丸一日大丈夫かということも確認したいが、家にいては家族と顔を合わせないわけにはいかない以上、家ではそれは難しい。勇太郎に戻り、普段通りの午前中を過ごした。
 日課のジョギングにでかけ、家族の分の朝食を作って自分も食べて。午前中は自由時間だが、弟があいにくとどこにも出かけなかったから、カレンにはなりづらい。勇太郎は大人しく自分の部屋にこもって、女の子になってなにをしたいかどうやるか、色々と妄想をめぐらせる。夢が夢ではなくなっているだけに、その想像は現実的だった。
 丸一日女の子でい続ける環境を作るにはどうすればいいか、女の子用品を買うための資金調達はどうするか、まずなにから欲しいか。早く弟が出かけないかなと悶々としながらも、その他もろもろ、真剣に新米女の子を楽しむためのプランを練る。こうやってあれこれ考えている時間は、じれったくも楽しかった。
 そして、弟と一緒に昼食をすませて、弟がクラブにでかけてすぐ。
 勇太郎はリップスティックを唇に滑らせてカレンになった。
 「……女の子って、やっぱり可愛い……」
 朝にカレンになってから半日もたっていないが、まだ慣れていないせいもあってか、その瞬間はやはりどきどきした。女の身体になるだけで自然と心が高鳴ってしまう。
 「肌もキレイだし、柔らかくてすべすべだし、手なんか小さくて可愛いし、爪も指もピンクって感じだし……」
 手だけではなく、カレンの身体はどこもかしこも勇太郎と比べれば小柄で繊細で、白くたおやかできめ細やかで愛らしい。自分で触ってもその感触は心地よすぎる。
 また欲望の炎が湧き上がりかけるが、自由に使える時間は少ない。カレンは用意していたメジャーを手にとった。この日はこれから思い切ってコンビニと薬局に下着その他を買いに行くつもりで、そのためにサイズを計るためだ。
 まずは身長。これは裸足で柱の前に立って、簡単に柱に傷をつけて、メジャーで柱を計ることですむから緊張はしない。問題は体重からだ。
 脱衣所から持ってきた体重計に乗る前に、カレンは衣服を脱ぎ捨てた。さすがに鏡の前に立つとどうにかなってしまうから鏡は見なかったが、全裸になってしまうと色々な意味で興奮する。
 「ま、またその気になってどうするの。今は身体測定だよっ」
 可愛い声で自分に言い聞かせてから、カレンは体重を計る。
 それなりにスタイルはいいカレンだが、思っていたよりも体重はあった。充分可愛い女の子の範囲内だが、カレン本人の見た目からの想像と数字は意外に違っていた。
 「……でも、これより痩せると、骨っぽくなっちゃうよね……」
 これはカレンが勇太郎だから思うのかもしれない。勇太郎としての目から見ても、今のカレンは充分に色々な意味で魅力的だ。数字よりもバランスの取れた健康な身体の方が望ましい。少なくとも、カレンは数字だけを気にしてダイエットをしたいとは思わなかった。
 体重が終わると、いよいよ最難関だ。カレンはどきどきしながら、メジャーを身体に巻きつけた。
 「ひゃっ」
 ほてっていたカレンの身体にメジャーの感触は冷たすぎた。さらに鼓動を早くしながら、カレンはゆっくりと、まずはバストサイズから計っていく。心臓の動きが速すぎて、胸が上下してかなり計りづらかった。しかも自分で計るというのはそれを直視するということで、頭がくらくらする。
 「鼻血、出ちゃうかも……」
 慌てて上を向く。「自分の身体だもん自分の身体だもん自分の身体をちょっと触るだけだもん」、と子供っぽく念仏のように唱えるが、その自分の身体が女の子の身体になっているという事実は、確実に冷静さを奪っていく。
 「そういうのはいつでもできるんだから、今はサイズチェックなの!」
 女の子の口調で強く独り言を言うと、カレンはきっと空中を睨みつけて――赤い顔で瞳も潤んで迫力はまるでなかったが――、まずアンダーバストを計る。テキパキ、というよりは、ギクシャク、という感じだった。
 カレンにはブラジャーのサイズに関する知識がしっかりとある。アンダーバスト(胸のふくらみのすぐ下の部分)とトップバスト(胸のふくらみの一番高い部分)の差が、カップのサイズになる。Aカップだとその差が約十センチで、BCDとサイズが上がるにつれて、基本的に二・五センチずつ基準値が増える。現在はアンダーバストにカップサイズを加えて下着のサイズを表記するようで、例えばCの七十と言った場合は、アンダーが七十なので、トップは約八十五センチということになる。
 「見た目と数字って、やっぱり意外に違う……」
 カレンは何とかトップサイズまで計り終えて――全身桃色で息も絶え絶えになった――、冷静なことを呟いてみて、理性を取り戻そうと努力をする。一人ではちゃんと計れないとはわかっていたが、計り方が悪かったのかやり方が間違っているのか、カレンのサイズはカレンの実感よりも大きめだった。なぜかカレンが持っている、何年か前の全国十六歳女子の胸囲平均データより大きい。
 「形はいいし、見た目もきれいだし、大きすぎるわけでもないから、喜んでもいいのかな……」
 自分で呟いて、また悶々とするカレンだった。
 ウェストとヒップサイズも苦労して計り、何とか衝動を押さえて、カレンはこれ以上変な気にならないうちに衣服を身に着けた。
 男物の下着にシャツにジーンズという格好で、ウエストはベルトで強引に絞める。ジーンズの裾はいくつもまげようと思ったが、二つだけ、脹脛の半ばまで大きめに曲げることですませた。男の子がすると多少変だが、女の子がすると可愛くて似合うから、やっぱり女の子はお得だ。
 その上から、用意しておいた中学時代のコートを羽織る。もうコートは微妙な季節だが、ノーブラのシャツを隠すのに充分役に立つ。ちなみにコートと靴下以外は、万が一元に戻った時に不自然にパンパンになるのを避けるために、この日は中学時代のものは選ばない。
 これに加えて愛用のリュックを背負えば準備は完璧……と思われたが、玄関で少し困ってしまった。
 靴が、当然だが勇太郎のものではぶかぶかすぎて、歩くたびに蹴飛ばしそうだったからだ。カレンは靴は必須だなと考えながら、結局母親のスニーカーを黙って借りたが、それでもサイズが少し大きかった。レディースの二十四センチの靴で大きいということは、カレンの足のサイズは二十三・五か二十三くらいなのかもしれない。女性の場合は身長の十分の一に八センチを足した値が目安というから、身長から考えるとカレンの足は小さいと言える――ちなみに男性の場合はさらにプラス一センチである。
 とにもかくにもこれで準備は完了だ。どきどきしながら、カレンは玄関に手をかけた。
 「……女装した男の子が初めて外にでるのって、こんな気分なのかな」
 カレンの場合、見た目は男装の少女で、単純な男の女装とはある意味状況が正反対とも言えるが、精神的にはそうなのだろう。本当は男なのに世間には女と思わせる。人前で、男の自分が、自分から女として振る舞う。その不安と興奮。
 良くも悪くも、現在の社会は、男の女装に否定的だ。
 ばれなければ問題がない。自分だけの体験として胸におさめておける。逆に最初からばれてもいいつもりでも話は楽だ(初めてのカミングアウトは残念ながら相当の抵抗を覚悟する必要があるだろうが)。または同好の士の集まりであれば、別の意味のプレッシャーはあるかもしれないが、不安は少ないだろう。
 カレンにも、ばれたらどうしよう、という思いは強い。ただ、今のカレンの場合は、その不安はこのリップスティックの効果への不安といってもよかった。不意に元に戻る可能性が頭からぬぐいきれない。
 そんなふうに不安は形を変えて存在しているが、興奮の方はほぼそのまま、やはり初めて女装して外にでる男の子の心理に近かったかもしれない。女の格好でいろいろなことがやりたい、外でも可愛い女の子として振る舞いたい、その欲求があるからこその、外出。やはり、この行為には快感といっていい興奮が伴った。
 カレンは気合いを入れてドアを開けて、外に出た。
 春の冷たい冷気が、カレンの頬をなぶる。
 「ひゃ」
 男よりも敏感なのかどうか、慣れていないだけなのか、皮膚感覚の違いのせいか、普段より余計に寒く感じた。ただ単にこの日が、三月下旬にしては午後から寒くなっただけかもしれないが。
 ポケットから鍵を取り出して、玄関の鍵をかけて、カレンは歩き出した。靴のサイズが合わないから多少歩きづらいが、それ以外は身体に問題はなかった。基本的な肉体感覚は明らかに違うし、体格の差で違和感も強いし、筋力や瞬発力の差で多少身体が重いように感じなくもないが、普通に動くだけなら何の問題もない。慣れればそんな違和感もいつか消えるだろう。女の子はブラジャーがないと先端がこすれるとか胸が安定せずに気になる、という、よく聞く話を強く実感させられたが、これも今は我慢するしかない。ドキドキしながら、カレンは歩く。
 ……特に何の事件もなく、五分ほど歩いて、カレンは駅への通り道にあるコンビニに到着した。今はコンビニにも下着が売っている時代だ。カレンは中に入ると、すぐにはその一角には向かわずに、まずはお菓子コーナーの前に立った。
 店内には数人の人がいる。雑誌コーナーで立ち読みをしている大学生くらいの男。レジでなにやらやっている主婦のアルバイトっぽい店員。買い物している他の二人の客。
 女の子になっている、というのがカレンだけの幻覚なのだとすれば、サイズが明らかに違う靴やコートは怪しまれるはずだ。だが、ここまでくる道の途中やお店に入ってから何度か人の視線を感じたが、怪訝そうな視線、という気配はなかった。なんとなく注目されたような気もするが、それがどういう視線なのか、怖くてこちらから相手の目を見る勇気はないので、カレン本人にはわかりづらい。
 だがやはり露骨に変だという視線はなかったようにカレンは思う。それとも、カレンが中学時代のコートを着ていると思い込んでいるだけで、実際はそれを着てない、などという複雑な幻覚状態なのだろうか。他人に怪しまれてはいない、という幻覚を見ているだけの可能性もある。
 「…………」
 自分で考えておきながら、カレンはいらいらしてきた。幻覚だとしたら、もうなんでもありすぎる。それを怖がっていたら、魔法のリップスティックを二度と使わないか、部屋にこもる以外選択肢がなくなる。
 「ここまできて怖がってどうするの……」
 小さく呟くと、カレンは幻覚という可能性を考慮対象から外し、開き直った。まっすぐに下着コーナーに突撃する。
 メンズの下着も、レディースのそれも売ってある。ストッキングや靴下やらTシャツやらも置いてあった。このコンビニがそうなのか他もないのか、さすがにブラジャーは置いてなかった。カレンはショーツを一個ずつ手にとって、まじまじと観察する。
 男のままなら絶対に取る勇気のない行動で、もう胸はバクバクだ。しかもさらにカレンの鼓動を速めるものが待っていた。一個ずつ横に比べていったが、その途中で別のものにぶつかったのだ。
 カレンは大きく目を見開いた。男だった時はこんなところをじろじろとは見れなかったから、これまで知らなかった。
 「キャミソだ……!」
 上の下着はないと思っていたが、タンクトップとキャミソールが置いてあったのだ。ショーツに比べると数が少なく、ショーツと同じくらいの包装で並べて置いてあるからすぐには気付かなかった。
 「しかもピンク……」
 裏面の記載を見ると、ブラジャーなしでも着心地がいいようになっているらしいこともわかる。形状を示すイメージ図も書かれていて、それを自分に当てはめて、カレンはめまいを覚えた。
 ショーツしかないと思っていただけに、キャミソールがあったことはカレンの興奮を強めた。早く着てみたい。早くそんな自分を見てみたい。そんな思いが高まる。
 そんなカレンの酔いをさますかのように、ピンポーン、という来客音が店内に響く。
 カレンははっと我に返った。慌てて周りを見回す。店内に多少人がいるが、今も露骨な視線はない。少しだけ安堵したが、改めて、人の存在が気になる。
 これがカレンだけの幻覚なら、男が女物の下着を手にとって眺めている図だから、露骨に変な目で見られても不思議はない。それがないということは、やはり幻覚ではないのかもしれない。
 だが幻覚ではないならないで、いったいまわりからはどう見えるのか?
 いかにも女の子女の子した容姿の少女が、メンズの衣装に身を包んで下着を選んでいる図。
 「……彼氏の家に急に泊まりこんで下着に困った女の子?」
 自分の想像に、カレンは自分で頬を熱くした。すぐにまたはっとして、片手で頬を押さえる。
 どうも、女の子のこの身体はすぐ頬が熱くなる体質らしいことを実感する。鏡で見た限りでは、真っ赤というよりはうっすらと血の気を透いてむしろ可愛い感じだったが、ちょっとしたことで反応してしまうのはカレンとしてもいろいろ困る気がした。下着を持って顔を赤くしている女の子の図というのは、いっそうやばい気もする。
 こっそり深呼吸して、ぎこちなく、だがしっかりとカレンは下着を選ぶ。キャミソールとタンクトップを選ぶ時は、上のサイズも測っておいてよかった、と真剣に思った。靴下とストッキングもふくめてそれぞれ数点ずつ買うことにし、堂々としてればばれない、と心の中で自分に言い聞かせながらカレンはレジに向かう。例によって頬を赤くしつつ会計を待ち、じろじろ見られている気がしながらお金を渡し、商品とおつりを受け取って外にでる。
 「はぅ〜」
 どっと力が抜けた。
 「薬局に行く気力はないかも……」
 ちょっぴりぶりっこしながら呟いて、でもすぐに「よしっ」、とカレンは気合いを入れるふりをする。小さくガッツポーズ。人目を意識しまくった態度で、われながら可愛いかも、などと勝手に自惚れる。頬が思い切り緩んだ。
 「…………」
 すぐにその頬を引き締める。人がカレンの方を見ながら通っていったからだ。平日の午後だが、駅からの通り道だから、ひと気は必ずしも少なくない。「こんなところで一人でなにやってる〜」、とカレンは恥ずかしさに泣きそうになりながら自分を責めて、そそくさと駅前の方に逃げ出した。
 すぐにチェーン店の薬局に到着する。
 薬局では化粧品の偵察と、生理用品と基礎体温計の購入が目的だった。乳液や化粧水、洗顔フォームや女の子向けのシャンプー類もできれば欲しい。
 ここは比較的女性が多いお店だった。カレンは最初はまた緊張してしまったが、すぐにのめりこんでしまった。今まで男の身体では堂々と見るには抵抗があった場所。一般的に、避妊具コーナーなどは女の子であっても抵抗があるはずだが、はまりだすと気にならなかった。感性があきらかにずれているのだろう。後になってとても恥ずかしくなったくらい、薬局で色々と見物した。
 最後に購入する時に、店員さんにまじまじと見られて――これは気のせいではなかった――、カレンはさらに恥ずかしかった。
 今度こそ気力が限界で、薬局で一時間近く時間を使ったことにビックリしながらも、カレンは家に戻る。だれも帰ってきていないことを確認しながら家に入ると、すぐにへたり込んだ。
 こういう時も女の子座りを忘れないのが、新米女の子のカレンだった。自室の床に買ってきた商品を広げて、にへら〜っと頬を緩ませる。
 「はじめてのお買い物、大成功〜」
 末尾にハートマークでも飛ばしそうな口調で言って、カレンは疲れた心をリフレッシュする。帰りに買ってきたペットボトルのキャップを開けて、両手で捧げるように持って、小さな口を近づける。
 「……これだと、ぶりっこのしすぎなのかな?」
 さすがに小学生ではないのだから、なにも両手で持たなくとも片手で飲める。だがそのままカワイコぶって、カレンはコクコクと水分を補給した。
 そうやって少しくつろぐと、いよいよまた着替えだ。カレンは浮かれ気分で、鏡の前で、買ってきたばかりの下着を取り出す。
 はいた後で洗濯はどうするのかとか、普段の隠し場所はどうするのかという問題は、この時のカレンの頭にはない。女の子を楽しむなどという以前に、クリアしなくてはいけない現実的問題も多いという事実にカレンが改めて気付くのは、もう少し後のことだ。
 さっきもサイズを測るときに見たし、昨日もさんざん「調査」しておいたのに、カレンは下半身裸になった時はまた頭がくらっとした。ゆっくりと、可愛い仕草になるように意識しながら白いショーツを身につけた後は、さらにくらくらっとした。
 大きめのメンズのシャツに、下着だけ。
 定番過ぎる姿だが、定番になる理由がよくわかる姿でもあった。鏡にうつる自分の姿は、今のカレンには強烈すぎた。
 「また自分に興奮してどうするの〜」
 感情をごまかすように、わざと子供っぽく言って、ぶんぶん首を横に振る。下半身の下着のフィット感が気持ちいい、などとうっとりとしてしまいそうになるのをとりあえず抑えて、次に取りかかる。
 シャツを脱ぎ捨てて、上半身裸にショーツのみ、という姿でまた興奮を覚えつつ、ピンクのキャミソールを着込んで、カレンはさらにくらくらしながら吐息をついた。
 柔らかい下着の感触が優しい。胸の先端が服にぶつかってもさほど気にならない。
 鏡の中に映る姿も、どこからどう見ても女の子だ。
 身に付けているものは、ピンクのキャミソールと白いショーツのみ。肩よりちょっと長い髪に、透き通った肌。細くきれいな手足は、素肌がそのまま剥き出しになっている。
 「…………」
 めまいを覚えるほど、カレンは自分の姿に見惚れた。今のカレンにとって、全裸や半裸は性そのものを主張するが、こんな下着姿は自分の可愛らしさを強く感じさせてくれる。嬉しくて涙まで溢れそうになる。
 鏡に手を伸ばしかけて、カレンは方向を変えて、自分の胸のふくらみを、キャミソールの上から両手でそっと押さえる。
 「はぁ……」
 カレンは大きく吐息をついた。
 ここに他の男がいれば、悩ましすぎて即座に襲いかかりたくなったかもしれない。だが、カレン本人の興奮は、いつのまにか自己陶酔めいた感情に切り替わっていた。ゆっくりと、キャミソールの上からシャツを着なおして、ジーンズをはく。
 可愛い女の子である自分が嬉しい。ちゃんと服をきこんでも、下着が女物であることで、自分が女なんだという実感がわいてくる。身体が女になっているわけだからいまさらな心理かもしれないが、女性用下着という性を客観的に示す存在のせいか、すべてが自分を強く定義させてくれる。
 なんだか立っていられなくなって、カレンはちょこんと座り込んだ。
 空気に酔ったかのように、うっとりと目を閉ざす。鏡を見なくとも、自分の身体が女だということがわかる。自分を優しく包み込んでいる下着の感触がわかる。鏡を見れば、自分が可愛い女の子だということもわかる。スタイルだって、悪くない。
 「…………」
 かなり長い間、カレンは目を開いたり閉じたりして、時折甘い吐息をついたりしながら、そうやってじっとしていた。
 ようやく動く気になった時も、まだ少しぼんやりしたままだった。
 ゆっくりと、カレンは買ってきたばかりの基礎体温計を取り出す。こまごまとした機能がついていて、排卵や月経の予定日まで計れる優れものだ。基本的に朝寝起きの毎日決まった時間に計るようにすべきらしいが、物はためしで今計っても悪いということはない。カレンはシャツを少しはだけてから、電子体温計をわきの下に挟む。
 計測終了の電子音が鳴るまで時間がかかるから、カレンはなんとなくまた鏡を見つめた。
 「……他の人が見たらどう思うんだろう……」
 無意識に呟きが漏れて、カレンは何度か瞬きをした。ぼんやりとしていた意識が、ようやく少しずつ戻ってくる。
 「わたしは……」
 女の子みたいに可愛くなりたい。勇太郎はずっとそう思ってきた。だが、自分の身体が男らしくなるにつれて、もうほとんど諦めていた。
 それが突然、可愛くなれた。本物の女の子になれた。それもとても可愛い女の子に。
 「……可愛い女の子になれた……」
 これからももっともっと、姿形もだが、態度や振る舞い、言葉遣い、すべて可愛くきれいにありたいと思う。服装やアクセサリーにも気を使って、コロンやお化粧だってしてみたい。
 それはすべて、道具と一定の空間さえあれば一人でできること。
 男のままなら、求めることができたのはそこまでだっただろう。可愛くなれないと知りながら、通信販売で道具をそろえて、だれにも言えずに一人で嘆くだけ。このまま大人になっていたら、もしかしたら勇太郎はそんな大人になっていたかもしれない。似合わないと知りながらも、憧れを捨てきれずに、男にしか見えないままに女装をする。
 しかし今は、可愛い女の子。男だった時と違い、嘆くのではなく、自己陶酔にまで浸れる自分の姿。そんな自分の姿を見るだけで歓喜に震えることができる。
 だがカレンは今、無意識の呟きで、それだけでは満足できない自分に気付かされていた。強い興奮と陶酔がひとしきり収まった今、妙に冷めた意識が、今のカレンには存在した。
 一人で可愛い振る舞いするだけでは気がすまない自分。
 「……わたしは……人に、可愛く見られたい……?」
 可愛い女の子でいられることは本当に嬉しい。きれいな服を着たり、可愛く振る舞う自分を想像すれば、それだけでまた興奮が蘇る。だが同時に、そんな可愛く着飾った自分を人に見られることを思うと、もっと興奮する。恥ずかしいが、可愛いと言ってもらいたい。きれいだと驚いて欲しい。
 「……自己顕示欲が強い女の子? そんなの可愛くない」
 少なくともカレンの理想とは違う。なのに自分はそんな女の子。少しだけ、カレンは落ち込んだ。が、すぐにしゃきっと顔を上げた。
 「うんん、きっと今だけだよ。まだ初めてだもん。客観的にどう見られるか、気になって当たり前だし、初めてだからドキドキもするよね。すぐに慣れて、人目はきっと気にならなくなるよ。……好きな人ができれば、その人の視線は気になるだろうけど」
 自分で言っておきながら、カレンの頬は熱くなる。
 「……このまま、男の子を好きになって、女として愛されて、いつか抱かれて、子供を産んで、お母さんになりたい……?」
 可愛い女の子に憧れるのが精一杯で、勇太郎はそこまで考えたことはなかった。可愛くなんてなれずに男として一生生きていくのだと諦めていた。それしか選択肢はないと思っていた。
 だが今は。色々問題はありそうだが、望めばそこまで手に入るのかもしれない。
 「それとも、女であることを男として楽しむだけ……?」
 その選択肢は趣味としての女装に近い感覚かもしれない。男のままなら、勇太郎が現実的に考えていたのはそこまでだった。医学的性転換まで考慮したこともあるが、可愛くなることは不可能だとわかっていたから、その考慮が真剣だったとは言いづらい。ただただ、叶わないと知りながら、女の子みたいに可愛くなってみたかっただけ。
 男として生きながら時折可愛い女の子になるだけで満足なのか? 男を捨てないままにずっと女として生活したいのか? それとも完全に男を捨てて女になりたいのか?
 「…………」
 自問してみたが、答えは出ない。カレンにとっても、すぐに答えがでるような簡単な問題ではない。
 だが、一つだけ、はっきりとわかっていることがあった。
 今は、素直にこの状況が嬉しい。先のことはわからないが、贈り主がらみの謎や問題も山積みだが、長年の願望が叶っている今。まずは素直に、もっともっと楽しみたかった。可愛い女の子であることを。可愛い女の子らしく振る舞ってなにも問題がないこの状況を。
 カレンは胸の前で小さな握りこぶしを作ると、「よしっ」と頷いて元気よく立ち上がった。





 concluded...?

戻る

更新日 2004/01/28

□ 感想はこちらに □