戻る


 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第十二話 「夜」


 飛鳥が中から翼の部屋のドアを開けると、「飛鳥チン、どう?」と文月の小声。飛鳥は廊下に立っていた二人に、一人には冷たい目を向けて、もう一人には明るく笑いかけた。
 「陽奈さんの言ったとおりでした。姉さん、もう怒ってません」
 「ほっ! やっぱつばさ、飛鳥チンには甘いよね〜」
 文月は笑いながら部屋に入ってきた。陽奈も笑顔で後に続く。
 「だから言ったでしょう? 飛鳥が先に謝ればすぐ許してくれるって」
 「はい。今の姉さん、わたしに甘いです」
 文月も陽奈も私服姿だが、陽奈は艶やかに黒い髪をアップにまとめたままだ。文月の髪はまだ湿っていて、首にタオルをかけている。
 「今は飛鳥がいい子だからだよ」と笑って陽奈はドアを閉め、飛鳥が「……前はいい子じゃなかったみたいに聞こえます」と拗ねたように不満を口にする。そんな二人をよそに、文月は翼の視線を見て少し慌てていた。翼が冷たい目を作っていたからだ。
 「な、なぁに、つばさ、そんな可愛い顔しちゃってさ」
 「…………」
 微妙に心が傷ついたが、翼は冷淡な表情を崩さない。浴室での二人の姿を思い出してしまったり、お風呂上りの二人の姿に鼓動が跳ねていたとしても、それも態度には出さない。
 文月は首のタオルを両手でつかんで、翼の視線から逃げるようにデスクチェアに向かって歩いた。陽奈も飛鳥も翼の表情に気付いて、陽奈は少しだけ笑い、飛鳥は目をぱちぱちさせる。
 「姉さん?」
 「飛鳥はこっちおいで」
 「え、う、うん」
 「文月は椅子に座るな!」
 座りかけた文月に向かって、鋭く大きな、翼の声。文月はびくんと反応して動きを止めた。陽奈はやはり笑っている。
 「陽奈も笑うなよ。二人ともちょっと床に座れ」
 「な、なんでよ〜。どこ座ろうと勝手でしょっ」
 「……姉さん、怒ってるの?」
 「飛鳥はこっちに座ってな」
 おずおずと近づいてきた飛鳥の腕を優しく取って、ベッドに座らせておいて、翼は立ち上がる。翼はこれからしっかりと怒ろうと思っているが、本気で怒っているわけではなく、半分以上は演技である。いくらこの三人の望みとは言え、譲れない線もある。迷惑なことは迷惑だと告げて、刺せる時に釘は刺しておかないと、友達でいることも難しくなる。
 陽奈は翼に言われた通り、というよりはいつも通りの仕草で床のクッションに腰をおろしたが、文月は立ったままだった。どこか怯んだような顔で、「どーゆーことよ飛鳥チン!」と言いたげに飛鳥を睨んでいた。飛鳥は「わたしに訊かないでください」というふうに、手の平を胸の前に広げて、首をぶるぶる横に振る。
 「飛鳥を睨むなよ。飛鳥は手伝っただけだろ」
 「えー! 飛鳥チンも面白がってたよ! お風呂だって一番嬉しそうだったんだからっ!」
 「飛鳥は飛鳥だから」
 「え、じゃあ、今度一緒にお風呂入っていい?」
 「……飛鳥はとりあえず静かにしてな。ほら、文月もさっさと座れよ」
 「な、なに可愛い声出してるのよ〜。もう怒ってないんでしょ〜?」
 「……いいから座れ」
 「む、む〜! なんで飛鳥チンには甘いくせに!」
 「文月」
 澄んでいながら、低く重い、翼の声。地声が男だった時とは違うから思うように渋くはならないが、充分、翼の意図した感情が込められた声だった。文月はびくっと身体を揺らして、「一人だけずるいよ〜」という目を飛鳥に向けつつ、しぶしぶ陽奈の隣に腰をおろす。陽奈は正座を崩したように座っているが、文月はなぜか体育座りだ。パンツルックの陽奈と違い、文月は健康的過ぎるミニ丈のスカートで、衣服と足と手の位置のバランスが非常にきわどかった。
 「怒る翼って、久しぶりだね」
 陽奈はさっきから、一人でニコニコしている。翼は気がくじけそうになりつつ、なんとか厳しい表情を維持した。
 「泊まりはだめだって言ったはずだけど?」
 「ん、わたしたち、飛鳥の部屋に泊まりにきたんだよ。ね、飛鳥?」
 「そーだそーだ。今日はつばさはカンケーないもん」
 「えっと、そんなこと言うと、姉さん、部屋に泊めてくれませんよ……?」
 「飛鳥チン! どうせ済し崩すんだから、うんって言っておけばいいの!」
 「そうだよ、飛鳥。後になればどうにでもなるんだから」
 「でも、嘘はつきたくないし……」
 「……全然、反省してないな……」
 本人の目の前でなんという会話を交わしているのか。この子たちはわざとやってるのかな、と翼はため息をつきたくなった。翼の気力を削ぐ役目をしっかりと果たしていて、それを狙っているのなら翼は勝てそうもない。
 「だいたい、なんでお風呂まで入ってくる?」
 「女同士だからいーじゃん。別に襲われたって、返り討ちだしー」
 「うん。何か問題ある? わたし、翼からそんな話、聞いたことないよ?」
 「姉さん、前は陽奈さんたちとは、一緒に入ってたわよね。わたしとは、入ってくれなくなってたけど……」
 翼が反論するより早く、後ろから、少し拗ねたような声で余計なことを言う飛鳥。翼の気がまた抜ける。
 「そうだよ、お風呂くらいでぐだぐだ言うなー」
 「どっちがだよ。何度も言いたくないけど、前と今は違うだろ」
 「どう違うの? わたしたちが嫌いになったんだ?」
 「今のつばさって冷たいよねー。わたし、泣いちゃうよ。ねー、飛鳥チン」
 飛鳥はまた何か言おうとしたようだが、今度は翼が口を開く方が早かった。翼は自分を偽らずに、冷たい口調で言う。
 「陽奈も文月もわかってるだろ。もう二度とやるなよ。次やったら本気で怒るからな」
 「まだ本気じゃないんだ?」
 「つばさが怖いー」
 「……わたしは、やっても怒らないの……?」
 鋭い笑顔の陽奈、冗談めかそうとする文月、何を考えているのか真剣な声の飛鳥。翼はどっと脱力して、振り向いた。
 「飛鳥……、だからさっきから……」
 「だって、わたしだけ怒らないんでしょう? だったら、いいのよね?」
 「…………」
 翼は飛鳥を見つめ、何か言いかけたが言葉が見つからず、顔を片手で押さえて小さくうなだれた。
 翼が元の人格のツバサなら、たぶん何も問題がない三人の行動。男だった時の翼も、友人の武蔵や文也や弟の飛鳥が相手なら、突然泊まりにこられたりお風呂に乱入されたとしても、最初は冷たい顔をして見せるかもしれないが、結局笑って一緒に楽しんでしまうだろう。怒るとしても、ちゃんとした理由を言えるはずだし、しっかりと理由を言えば武蔵や文也ならぶつぶつ言いつつも引いてくれた。
 今は理由を説明することに抵抗があるが、おそらく翼が本気で怒れば、陽奈も文月も飛鳥も引いてくれる。図々しくて馴れ馴れしくて、大胆で悪気もなくて、相手が翼だからの、友人たちや妹の態度。
 「え、翼?」
 「な、つばさ、泣いてるの!?」
 「お姉ちゃん!?」
 三人、何を勘違いしたのか、突然焦ったような驚いたような声を出す。
 うつむいて顔を押さえたまま、翼は自分でも気付かないうちにいつのまにか笑っていた。いつもの例の微笑に近いが、もっとさばさばした、無防備な笑顔。
 「……ほんとに、救われてるんだか、救われてないんだか……」
 三人は時々、色々な意味で辛い立場に翼を追い込む。だが、笑ってくれる三人が傍にいてくれるのは、翼も嫌じゃない。
 翼は明るく顔を上げると、無造作に飛鳥の頭に手を伸ばした。
 「泣いてなんかないよ。飛鳥もお風呂はダメだって言っただろ」
 「え、きゃ、やっ!」
 髪を少し乱暴にかき回されて、飛鳥が慌てる。翼は残りの二人に、やれやれという顔で振り返った。
 「そんなに泊まりたいのか?」
 「だ、ダメって言っても泊まるもんっ」
 「う、うん、最初から決定なんだよ」
 どこかほっとしたように、ドキッとしたように笑う、文月と陽奈。
 「キミたちは……」
 翼はため息をついて、だが笑いながら、飛鳥から手を離した。頬を膨らませて手櫛で髪を整える妹の横に、少し乱暴に腰をおろす。
 「もう二度とお風呂に乱入しないなら泊めてやるよ。聞けないなら今日は追い出す。後、そうだな、破ったら一週間口きかないから。できないと思うなよ」
 「えー、そんなの横暴だっ! お風呂くらいいじゃん!」
 「…………」
 「……わたしも?」
 文句を言う文月、翼を見てじっと考え込む陽奈、相変わらずの飛鳥。翼は軽く笑った。
 「飛鳥もだよ」
 「ずるい! さっきから飛鳥チンにだけ、なんでそんなに甘いのよぉ!」
 「……じゃあ、わたし、今日は一緒に寝ていいのよね?」
 「まあそのくらいはな」
 飛鳥とは田舎で家族四人で一部屋だったりもしたから、いまさら同じ部屋で眠るくらいは気にはならない。今日はもう薬でさっさと眠る予定だが、陽奈と文月が一緒なら、むしろ幼い飛鳥がいてくれた方が助かるかもしれない。
 「絶対よ? もう取り消しはなしよ?」
 「取り消さないよ。まったく、何がそんなに嬉しいんだか」
 「む〜、無視スルナー! 泊まりにくるのは、この先何度もいーの!?」
 文月がぶーたれながらわめく。翼はこれは少し考えてから答えた。
 「今日次第かな。でもアポなしで泊まりにくるのはもうやめろよ。飛鳥を巻き込むならおれの部屋には来るな」
 「飛鳥チンの部屋に、つばさも一緒ってことならいーい?」
 「一人で寝ろ」
 「むー!」
 「……一週間口きかない覚悟があれば、お風呂も一緒していいんだ?」
 「……陽奈……」
 キミはどこまで本気なんだ、と、翼はまた脱力だ。文月は一瞬きょとんとしてから、楽しげに笑い出した。
 「せめて三日にしなよ〜」
 「わたしは、一日にしてほしい……」
 飛鳥まで口を挟んできて、文月はさらに調子に乗る。
 「いっそ三十分!」
 陽奈もすぐに、冗談めかした様子で笑っていた。
 「どうせなら五分くらいがいいよね」
 「……今すぐ追い出そうか?」
 翼は冷淡な表情を作って、冷たい声を出す。また半分は演技だが、半分は本音だ。この三人にはどうしても甘くなってしまう自分を改めて自覚させられていたが、そうそう甘やかしてばかりいては、どんどんつけこまれてしまう。
 「や、やだなぁ、そこまで言うならがまんするよっ」
 「う、うん、がまんする……」
 「……まだ今は、ね」
 少し怯んだような文月と飛鳥、まっすぐに翼を見て言葉を紡ぐ陽奈。
 「……ふぅ」
 この日もう何度目なのか、翼はため息をついた。と同時に、無意識に表情が柔らかくなる。
 「ったく、お節介だよな、ほんとに……」
 「ん? 翼と一緒に遊びたいだけだよ」
 「そーだそーだ。お風呂も一緒ダメなんて、ユージョーの危機だっ!」
 「勝手に言ってろ」
 「姉さん、冷たい……」
 冷たいどころか甘すぎて泣けてくるよ、と心の中で笑って、翼は勢いよく立ち上がった。
 「ごはんとってくる」
 「あ、翼の部屋で一緒に食べていいよね?」
 「イイに決まってるじゃんねっ」
 「どうせダメって言ったって聞く気ないんだろ」
 「うんうん、ないわ」
 飛鳥たち三人も笑顔で立ち上がる。
 翼と飛鳥は一階に食事をもらいに行き、陽奈と文月は飛鳥の部屋から荷物を回収して翼の部屋に戻ってくる。みなでおかずの交換をしたり横取りされたりと、騒がしい夕食になった。






 時計の短針が何度も長針に追い越され、午後十時を過ぎる。
 翼は自分の自分のベッドに乗って、わざとらしくあぐらをかいて座っていた。翼の格好は厚めのスウェットパジャマの上下で、その上から赤いチャンチャンコを装着している。この青いスウェットはあの後購入した物だが、チャンチャンコは十二月になってから押入れで見つけた物だ。先ほどパジャマに着替えたばかりだが、飛鳥たち三人が比較的薄着のせいで暖房が強めだから、この格好はちょっと暑くなってきつつある。
 その三人も今はパジャマ姿で、翼の目の前で、すっかりくつろいだ姿勢だった。
 「飛鳥もこっちで寝るなら、布団一組じゃ足りないよね。二つ敷いた方がいいかな?」
 デスクチェアに座っている陽奈は、艶やかに長い黒髪をゆるめに一房に編んで、肩から前に流していた。服装は白地に黄色で模様が入っている上下一揃いのさわやかそうなパジャマで、上は胸元までしっかり隠すタイプのVネックシャツ。素材がやわらかいようで、ゆったりと上体を腰まで覆っている。下は足首よりちょっと短い長さのズボンで、こちらは素肌にぴったりとくっついて、足の形を浮かびあがらせていた。細い足首から小さなつま先、かかとのラインもなめらかに白い。
 「あ、大丈夫です。わたし、姉さんとベッドで寝ますから」
 床に敷かれた客用の布団に腰をおろしている飛鳥は、いつもどおりワンサイズ大きいパジャマを着ている。この日は姉の友人がいるせいか、ワイシャツタイプの少し大人びた黒いパジャマだ。メンズでも通用しそうな、シャープな襟と大きなボタンがついたシャツと、おそろいのズボン。相変わらずシャツの袖とズボンの裾を曲げていて、そんな様子は背伸びをしているようにしか見えず、翼の目には子供っぽく可愛く映る。本人は大人っぽくかっこよく決めているつもりかもしれないが、中身と服装はアンバランスだ。愛用の枕を膝に乗せて弄んでいる様子も、どことなく幼かった。
 「え、そうなの?」
 「わ、飛鳥チン、甘えん坊だね〜」
 「ちょっと待て」
 「姉さんさっき一緒に寝ていいって言ったわ」
 「誰もそんな意味では言ってない」
 「もうだめよ。取り消さないって言ったもの」
 飛鳥は枕を抱きしめて、きっぱりと言い切る。「普通この年になったら兄妹なら同じ布団では寝ないだろう」と思う翼をよそに、陽奈と文月が笑顔で余計な口を出した。
 「わたし、飛鳥の証人その一になろうかな?」
 「じゃあわたしはその二だ〜」
 「…………」
 翼は壁を見つめて、どこか遠い目をした。文月はそれが可笑しそうに、楽しげに笑う。
 飛鳥の横に座る文月は、この時期なのに寒くないのか、下は濃い紫色のスパッツという格好だ。太ももの半分と膝とふくらはぎが全開に見えている。上は淡いピンク色の、袖口がやたらと大きな長袖の服だが、太ももの半ばくらいまで裾があり、ミニ丈のワンピースという風にも見える。その裾にはスリットが入っていて、中がスパッツでなければかなりきわどい姿をさらすことになるだろう。首周りも丸く大きめにとってあって、鎖骨のラインが露出していた。服を少し横に引っ張れば、肩まで簡単にはだけてしまいそうだ。が、色っぽいとも言える格好のはずだが、やはりどこか子供っぽさが漂っている。本人の振る舞いのせいか、まだまだ色気よりも健康的な印象が強い文月だった。
 「でも、それならわたしも一緒しちゃおっかな〜?」
 「翼のベッドで三人は狭いと思うよ? 中学の時でも狭かったし」
 「姉さんたち、いつもうるさかったですよね」
 「飛鳥チン、泣きそーな顔で怒鳴りこんできてたもんね〜」
 「飛鳥は仲間に入れてほしかったんだよね」
 違います、とは言い張らずに、飛鳥は頬を少し赤らめた。
 「あは、じゃ、飛鳥チン、今日はほんとに三人で寝よっか? 陽奈だけ一人ね」
 「……ちょっと悲しいね、それ」
 「あ、陽奈さんと三人がいいです。文月さん身体おっきいし、一人で寝ればちょうどいいです」
 「む、飛鳥チン、今日は教育しなおす必要があるみたいだね?」
 「文月さんはもう帰ってください」
 「ほー、そーゆーことゆーかー」
 「やっぱり床に二組敷くのがいいのかな? そうしたら四人で寝れるよね。翼、どう?」
 「……勝手にしなよ。おれは上で一人で寝るから」
 「だめよ姉さん、今日はわたしと一緒なんだから」
 「そうだよ、飛鳥チンなんてほっといて、わたしと一緒だもんね?」
 「文月はもう帰れ」
 「む! つばさまでそんなこと言うわけ!?」
 「言われたくなかったら素直に床で寝ろ」
 「ぶーぶー。つばさってば飛鳥チンに甘すぎ!」
 「……飛鳥は子供だから」
 「だからわたしそんなに子供じゃない」
 「じゃあ大人なら飛鳥も床」
 「……わたし、姉さんの前では子供でいい」
 「む、じゃあわたしもつばさの前では子供!」
 「わたしも、翼の前では子供になろうかな?」
 「陽奈まで……」
 翼はしかめっ面を作ろうとしたが、失敗して、つい笑い出してしまった。
 色気がないなぁ、と翼はしみじみ思う。「修学旅行で男子の部屋に遊びにきた女子」という状況にも似ていると翼は思っていたが、陽奈たちに言わせれば、修学旅行に例えるなら女子の部屋そのもののつもりなのだろう。陽奈たちは同性同士としか思っていないから、彼女たちの方が翼を男として意識することはない。その分、男がいたらしないと思われる言動も交じるが、笑ってふざけている三人の様子は、翼の目には純粋に楽しげだと思える。
 もともと女同士というのはこんなふうなのか、それともメンバーの問題なのか。一緒の部屋で寝るなんてどうなることかと、翼はここにいたるまで色々悶々とさせられていたのだが、案ずるより生むが易しなのかどうか、翼の感情が嫌な方向に大きく動くことはなかった。最初から小学生みたいな飛鳥はともかく、陽奈や文月は黙って座っていれば男として意識してしまうのだが、二人きりなわけでもないし、今のこの三人となら遊び感覚で笑っていられた。
 「お〜し、じゃあ四人で一緒だ〜!」
 「だからそれはだめだって」
 「ぶーぶー!」
 「ちょっと残念」
 単なるスキンシップの延長線上なのだと翼は思うことにしているが、本当に二人はどこまで本気なのか。文月がわざとらしくブーイングを飛ばし、陽奈がまじめに残念がり、飛鳥だけが「わたしだけ特別なのよね」と嬉しそうにニコニコする。
 文月はそんな飛鳥を見て、「くそー」と上品とは言えない言葉を口に出しながら、いきなり、飛鳥の身体を押し倒しにかかった。飛鳥は「はやう!?」とわけのわからない声をあげて、床の布団に倒れこむ。
 「飛鳥チンなんていじめちゃる〜!」
 「ひゃ!?」
 くすぐり攻撃が始まったようで、飛鳥が悲鳴のような笑い声をあげる。飛鳥は反撃しようとしているようだが、小柄な彼女は後ろから抱きつかれる形で身動きができず、じたばたもがくだけだ。陽奈は仲裁に入ったりはせず、二人を眺めて楽しげに笑っていた。
 文月の服がはだけて肩が露出したり、飛鳥のシャツも乱れて裾から可愛いおへそが覗いたりしているのだが、雰囲気が雰囲気なだけに、翼の目には健康的に楽しげだと見える。そうでなくとも、パジャマに着替えた時点ですでに覚悟はできていたし、このくらいで動じていたらこの先翼の神経は持たない。
 「ほら、文月、ほどほどにしときなよ」
 翼は笑って自分の枕を持ち上げると、文月に向かって軽く投げつけた。



 夜の十二時を回り、一日が終わる。
 賑やかに他愛もない話を楽しみ、日付がかわる前に電気を消して四人とも床についたが、翼はそこからずっと寡黙を通していた。ベッドの上でしっかりと三人に背を向けて、たまに声をかけられても返事すらしない。電気を消した時に「もう寝るよ」と宣言した通りの行動だが、後ろでおしゃべりをする三人の姦しさに、眠気が訪れる気配はちっともなかった。久しぶりの翼の部屋でのお泊まり会だと言うし、飛鳥が参加するのも初めてだと言うから、話題が尽きないのはわかるが、翼としてはさっさと寝てほしいと本気で思う。
 もっとも、そう思いつつ三人の話にしっかり聞き耳を立てているのだから、翼もあまり趣味がよいとは言えないかもしれない。久しぶりに部活をして疲れているし、電気を消す時に睡眠導入薬を飲んでいるから三十分ほどで眠れるはずだが、翼の神経は冴え渡っていた。
 「そろそろ文月も、お兄さん離れしないといけないんじゃない?」
 話題はどんどん移ろっていったが、この時間、将来の夢などの話を経て、文月の兄の話題になっていた。今大学一年生の文月の兄は、家を出て一人暮らしをしようと計画を立てているらしい。文月はそれが不満なようで、一人でわめいていた。
 「そういうんじゃないもん。にーさんがいなくなったら、わたし夜一人になっちゃうよ」
 「でも、純さん、最近はバイトで遅いんでしょう?」
 「そうだけど、とーさんたちの方がもっと遅いしっ。にーさんはちゃんと帰ってくるもん」
 文月のお兄さんに恋人はいないのかな、と、翼は会話に参加せずに、つらつらと考える。妹に外泊を禁じられているとしたら、大学一年生の男としてはかなり嫌な気がする。「もしかして妹に兄離れを促そうとしてるのかも」とまで翼は思い、少しだけ文月の兄に同情した。ちなみに、今の翼は文月の兄とは挨拶をした程度だから、その想像に根拠はほとんどない。
 「純さん、そんな遠くに引っ越そうとしてるの?」
 「距離は関係ないよっ。一人暮らしがだめなの!」
 「文月さんって、やっぱりわがまま……」
 背を向けている翼の腕をいじるように弄びながら、飛鳥が小さく呟く。静かな室内だから、声はしっかりと響いた。文月がむっとして反応する。
 「飛鳥チン、ナンカイッタ?」
 「何も言ってません」
 飛鳥はきっぱりと嘘をつく。陽奈はくすくす笑っていた。
 「わたしは、一人暮らし、一度はしてみたいな」
 「えー、陽奈おかしい。陽奈んちなんておばあちゃんまで仲いいくせに」
 「わたしのところは、ずっと一緒だから。だからかえって離れてみたいとも思うのかな? 翼はどう?」
 「…………」
 「つばさ、いいかげん無視するなー。怒るぞ〜?」
 「姉さん、まだ起きてるわよね?」
 飛鳥がくいくいと、翼の服を引っ張る。翼は「人のことなんて気にせずさっさと寝ろ」と思いつつ、やはり寝たふりをやめない。もちろん翼本人は、薬が効くまでは眠れるわけがない。
 「ぶーぶー。わたしも上に乗っちゃうぞ〜?」
 「文月さんはだめです。こないでください」
 「む、飛鳥チン、ベッドから引きずりおろしてほしい?」
 「そんなことしたら、お母さんに言って追い出してもらいます」
 「文月、おとなしくしなさい。もう遅いんだから、騒いじゃだめだよ」
 「む〜……。時々、飛鳥チンはわたしを嫌いなんじゃないかなって思うよ」
 「もちろん嫌いに決まってます」
 飛鳥は即座に言い切った。暗闇で表情が見えないせいか、その声は鋭く冷たく響いた。暖かかった空気が、音を立てそうな勢いで凍りつく。
 「…………」
 「…………」
 「……ちょっとしょっく」
 文月が本気で傷ついた声を出し、陽奈もとっさに言葉が無い。翼もそうなのかと深刻になりかけた。が、空気がこわばったのはほんの数秒だった。
 「ちゃんと名前で呼んでくれたら、好きになってもいいですけどねっ」
 明るく笑みをにじませた、飛鳥の口調。
 数瞬の静寂が場を支配したが、空気はとたんに柔らかくなっていた。みなの表情は見えないが、翼は内心少し笑ったし、陽奈も頬も緩ませたのが、なんとなくわかる。文月はどこか照れたような声を出した。
 「飛鳥チンって、やっぱりつばさの妹だよねー。なんでわたしのアイジョーヒョーゲンがわかんないかなぁ」
 「わかりたくないです」
 「こうだもんね〜。まったく、つばさー、なんか言ってやってよー」
 三人ともさっさと寝ろ、と、笑みを堪えながら翼は思うが、やはり口には出さない。陽奈はくすくすと笑いながら、非難の言葉を口にする。
 「今日の翼、冷たいよね」
 「そうですよね。姉さん、狸寝入りしてる」
 「みんなでくすぐり攻撃でもしてみよっか?」
 「わたしは抱きつき攻撃がいいです」
 有言実行とばかり、飛鳥は翼の背中に身体を密着させてくる。
 これが陽奈や文月なら耐えられないだろうなと考えつつ、翼は不快感を感じない範囲で、妹にはかなり好きにさせていた。相手が飛鳥なら可愛いもんだですませられる。背中から伝わってくる、ぬくもりと柔らかさが心地よかった。
 「いいなー、やっぱり四人で寝ようよー」
 「おとなしくしなさいってば」
 立ち上がりかけた文月を、陽奈が引っ張る。
 「む〜、つばさやっぱし、飛鳥チンに甘いよね」
 「そうだね。今の二人って、ちょっとシスコン入ってるよね」
 その言われようはかなり嫌だぞ、と思ったが、翼は反応を返さない。飛鳥が調子にのって手をおなかの方に伸ばしてきて少しぞくっとしたが、それでも動かない。
 「わたしは、姉さんが優しいなら、それでもいいです」
 「今日はいつにもまして、飛鳥チンも甘えん坊だねー」
 「文月も、家では純さんに甘えたりしてるんじゃない?」
 「もういっしょに寝るなんて、にーさんしてくれないもん」
 「そっか、やっぱり兄と姉じゃ違うんだね」
 「うん、飛鳥チンが羨ましいよ」
 飛鳥は「えへへ〜」と、学校の友人が聞けば間違いなく驚くような、甘えた幼い声を出した。
 「姉さんはわたしの姉さんですからっ」
 「あーあ、わたし姉と妹もほしかったな〜」
 「文月は欲張りだね」
 「陽奈はどー? 一人っ子だとキョウダイほしいでしょー?」
 「ん、そうだね。前は、ちょっと上にほしかったかな」
 「あ、わたしも、弟ならほしいです」
 飛鳥は過去形じゃなく現在進行形か、と、相変わらず黙ったまま勝手に思う翼。三人の楽しげな声が、暗い室内に響く。
 「飛鳥チンはさ、弟は無理だけど、オニーチャンならそのうちできるんじゃない?」
 「え、そうなんですか?」
 「……翼が結婚すればできるね」
 「え? えー! わたしそれなら、お兄ちゃんなんていらないです!」
 「文月も、純さんが結婚すれば、お姉さんができるね」
 「え? えー! それなら姉なんかいらないよ!」
 自分でネタをふっておきながら、文月は飛鳥と同じようなことを言う。陽奈は明るく笑っていた。
 「二人ともわがままだね、ほんとに」
 「む〜、陽奈だって兄弟いたら絶対そうなんだからっ」
 「ん、どうだろうね。でもわたしは、今はもう兄弟いらないな。ここに手のかかるのが三人もいるから」
 「……つばさと飛鳥チンと、もう一人はダーレ?」
 「文月だけ他人扱いがいい?」
 「む、それもそれでやだ」
 「もしわたしたちが姉妹なら、一番下は文月さんですよね」
 「コラ待て飛鳥チン、どこをどう見ても飛鳥チンが一番下っしょ?」
 「だって一番落ち着きないの、文月さんです」
 「な、なんてナマイキな。一番甘えん坊でお子ちゃまなのは飛鳥チンじゃんっ」
 「わたしは素直なだけなんです。ねー、姉さん?」
 まだ沈黙を続ける翼は、だからおれにふるな、と心の中で呟く。
 「二人とも子供だね。でもうん、たまに、文月の方が年下に見える時があるかも?」
 「陽奈まで〜!」
 「え、きゃっ。こら、え、あはは、だ、だめ、文月、やめて、あっ、そこはっ」
 「誰が誰の年下だって!? まいった!?」
 「う、うん、あはは! ま、まいったから、お願い、やっ、も、もう止めてっ」
 何やら床の方では、また文月の物理的攻撃が行われているらしい。陽奈が妙に艶っぽい声を出して笑いまくる。暗闇の中でのそんな声に、翼は変な妄想をかきたてられそうになったが、すぐに飛鳥がじゃまをした。楽しげに笑って、翼の耳元に唇を近づけてきたのだ。
 「ね、わたしも、やっぱりくすぐっていい……?」
 不意に吹きかけられた吐息にびくんと反応して、翼はつい身体を逃がして声をあげていた。
 「するな!」
 「あ、ほら、ふ、文月! くっ、あはは、翼が、起きたよ!」
 「お、作戦成功?」
 「嘘をつくな嘘を」
 ため息交じりに、翼は身体を起こす。
 「う〜、わたしも、くすぐりたい……」
 「飛鳥もそんなにくっつかないで」
 逃げた姉を追って身体を寄せてくる飛鳥を、翼は片手でとめる。飛鳥はおでこを押されて、「あう」と変な声を出した。
 「ほらつばさ、やっぱりわたしより飛鳥チンの方がガキンチョだよね?」
 「三人ともガキだ」
 陽奈はしばらく息も絶え絶えだったようだが、そんなやり取りに笑みを絶やさなかった。
 「それなら翼も子供だよ?」
 「それでいいから、いいかげん寝ろ」
 「まだ十二時まわったばっかじゃんよー。いつからお年よりになったのー?」
 「そうよ、まだ冬休みだし、全然問題ないわ」
 「おれは寝たい」
 「ね、翼は他に兄弟、ほしいと思ったことある?」
 陽奈は翼の話を聞いてくれない。翼はため息をついて、またベッドに横になった。
 「前はあるけどな、今は妹だけで間に合ってるよ」
 「うんうん、間に合ってるわよね」
 嬉しそうにまた身体を寄せてくる飛鳥。翼はまったくもうと思いつつも、やはりその温かいぬくもりが嫌ではなかった。薬が効いてきたのかだんだんと眠気が襲ってくる中、翼は妹には好きに甘えさせて、残りの時間は素直に三人との会話を楽しんだ。






戻る
index

初稿 2004/10/28

□ 感想はこちらに □