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 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第九話 「友達」


 久我山翼が再び学校に通うようになってすぐに、部活動は試験休みに突入し、二学期の期末試験が間近に迫る。
 いよいよ明日から試験というその日、翼は二人の友人と自宅で試験勉強をする約束を交わしていたが、放課後すぐに帰宅とはならなかった。帰りのホームルームが終わってC組にやってきた蓮見陽奈が、「ちょっと用があるから先に行ってて」と切り出したからだ。
 陽奈のこの日の用事というのがなんなのか、翼も、もう一人の友人の松本文月もちゃんと知っていた。文月はニヤニヤと「自転車置き場で待ってるよ〜ん」と言葉を返し、翼も「陽奈ちゃん大丈夫かな」などと、なんとなく不愉快な気分で内心余計な心配をしたが、陽奈を止めたりしなければ文月に反対したりもしない。陽奈は少し迷った後、笑顔で「じゃあ、できるだけすぐすませるね」と立ち去った。
 文月は頃合を見計らって、翼をニタニタとある場所に連れ込む。
 「……悪趣味だね」
 翼がそう言ったのはほとんど演技だったが、それでも、その声は冬の風に似て冷たかった。その気になればいくらでも可愛い声が出せる分、余計に温度が低く感じられる声音だった。
 だが、この日の文月は強気だった。
 「とか言いつつ、今日はちゃんとくっついてくるんだね〜」
 高校二年生女子にしては長身の文月は、標準的な身長の翼をちょっと見おろすようにして、鋭い視線で笑う。
 「つばさって、やっぱり陽奈を気にしてるよね。前は絶対止めたくせに」
 「…………」
 翼は図星を突かれて何も言い返せず、楽しげな文月に連れられるままに、左右を建物に囲まれた中庭に辿り付いた。
 樹木が多く植えられた中庭は、そう広いわけではないが、狭くもない場所だった。ベンチが点々としていて小さな芝生コーナーなどもあり、いいお天気の昼休みはお弁当を食べる生徒で賑わう。秋の放課後などは、料理部がすぐ傍の家庭科室から食材を持ち出して、焼きいもを作る光景なども見られる。この日は試験休みだからかその家庭科室は無人のようだが、少し離れた位置に渡り廊下もあって、この時間ならまだたまに人通りもある。
 翼は男だった時は気にもしていなかったが、大声をあげれば、誰かに聞こえそうな場所だった。女子生徒が男子生徒に呼び出されて二人きりになっても、人並みの警戒さえしていれば、さほど無理なく逃げることもできそうな場所。
 そんな中庭の隅で、二人の生徒が向かい合っていた。
 一人は、黒いセーラー服の上からクリーム色のジャケットを着た女子生徒で、翼の友人だった。もう一人は詰襟の学生服の男子生徒で、どうやら上級生らしく、翼の知らない相手だ。女子生徒は少し困ったようにやんわりと微笑んで、男子生徒の方はガチガチに緊張して、何やら言葉を交わしている。そんな二人から少し距離を置いて、翼のもう一人の友人が、木陰から二人を覗き込む。
 翼は胸に痛みを覚えつつ、なんだかデジャヴュを感じるな、と思ったが、とった行動は以前とは違っていた。周囲に怪しげな人影がないことをしっかりと確かめた後、文月と一緒に、これから告白という雰囲気の二人を覗き込んだのだ。
 「女子が男子にひと気のない場所に呼び出されて、簡単に二人きりになるのはどうなんだ?」と思ってしまうのは、翼が用心深すぎるだけなのか、ある意味男を知り尽くしているからなのか。陽奈なら事前に相手の情報も得ているはずだし、場所の配慮もしていると思うが、陽奈を見知らぬ男と二人きりにしておくことに、翼は警戒感を刺激される。この場所の危険度は低そうだが、文月を引っ張ってこの場を去るどころか、気になって積極的に覗きたくなる。
 「単に覗きを正当化しようとしているだけかもな」と頭の隅で思ってしまうのが翼だが、決めたら迷わないのも翼だった。陽奈に見つからないようにしつつ、なぜか苛々した気分を抱きながら、文月と一緒にしっかりと様子を観察する。
 「あれは三年生の人だねー」
 「知り合い?」
 「たしか、委員会やってる人だよ〜。陽奈とはそれ繋がりかな〜?」
 「三年なら恋愛どころじゃないだろうに」
 「クリスマス前だし、三年生は来年になると授業減るしね。勝てば天国負ければ地獄、どっちでもバネにしてがんばるんじゃない? 陽奈いいなー」
 「文月はああいう男がいいんだ?」
 「そりは、いまいちかな? 十月に陽奈に告白してた子なら、ちょっと考えるけど、陽奈にも釣合わないよね」
 「手厳しいね」
 自分も文月と同じ考えなのを棚に上げて、翼はその男子生徒に同情的な意見を述べる。文月は陽奈たちから視線をはずさず、明るく笑っていた。
 「……陽奈ちゃん、どうする気かな?」
 「やっぱ振ると思うよー。好きでもないのに付き合うとか、陽奈がするわけないしー」
 「……陽奈ちゃん、好きな男、いないんだ?」
 「うん、陽奈はもてるくせに、まだまだ恋愛にキョーミないとか言ってるガキンチョだからねー」
 「……ブラコンの文月にだけは言われたくないんじゃないかな」と、翼は口の中で呟く。文月はじろりと翼を睨んだ。
 「ナンカイッタ?」
 「いや何も」
 文月には男友達も少なくないが、友達を超える関係の相手はいない。翼が見たところ、明るく陽気な文月に好意を寄せている男子もいるように思えるのだが、翼の記憶の中の文也同様、文月の方が友達感覚より先には進めないらしい。文月もなかなか前途多難な少女だった。
 そんなことを言い合いながら覗き見する翼たちをよそに、陽奈と男子生徒の会話はぎこちなく進む。翼たちが来る前に、「来てくれてありがとう」というような言葉から始まっていたらしい。本題は誰の目にも明白なのに、会話が途切れるたびに、委員会がどうこう、試験がどうこう、冬休みがどうこう、余計な話をその男子生徒は口にする。思い切って切り出す勇気が持てず、かといって沈黙も耐えられないという、小心な態度。
 陽奈は一見は自然な笑顔で言葉を返しているが、翼から見るとその横顔は困ったような笑顔だということが、今ならよくわかる。翼たちの前で見せる笑顔とは明らかに違う、一見自然に見えて相手に真意を悟らせない、本音を隠した対外的な笑顔。なまじ相手が普通にいい人タイプだから厄介なのかもしれない。武蔵と同じで、他人の好意には冷たくしない陽奈。自分から本題を促すことをせず、相手が言い出すのを受身的に待っている。本人にそのつもりがないのに男の保護欲を誘う表情なのだから、少し罪作りでもあった。
 三年生はもうすぐ卒業、という話が出た後、二人の会話が途切れた。
 ついに言い出すか、と、翼と文月も声を止めて、男の言葉を待つ。
 「えっと、蓮見さんは、受験、するの?」
 「…………」
 どっと脱力する文月。翼も「ハッキリしない男だな」ときつい感想を抱いたが、コメントは口にしない。
 「短大か大学、行こうと思ってます」
 やんわりと相手に答える陽奈。文月はすぐに復活したが、すっかり痺れも切らせていた。
 「も〜、ジレッタイ〜。男ならズバッと言えってんだぱーろぉっ。どうせだめもとのくせに〜」
 傍観者だからこそなのか、言いたい放題の文月である。翼は思わずちょっと笑ってしまった。
 「じゃましちゃおっかなっ」
 「じゃまはやめときなよ。どうせ振られるんなら、相手に悪いだろ」
 「む、つばさ、学校なのに口悪くなってるよっ」
 「はいはい。じゃますると陽奈ちゃんも気にするよ」
 「む〜、だってつまんないっ!」
 「もっと声を抑えて」
 翼のその忠告は遅すぎた。陽奈の視線が、ちらりと横を向く。一瞬だけ、陽奈が本当の笑みを見せる。
 「うぎゅっ」と変な声をだして顔を隠す文月をよそに、将来の進路を訊かれていた陽奈は、「家を継ぐか、保育士を考えてます」と応じてから、態度を変えた。明るいが少し鋭い、まっすぐな微笑。
 「先輩、すみません。友達が待ってるから、もういいでしょうか?」
 用件を催促せずに別れを切り出すあたり、温和なだけではない、陽奈の性格が表れているのかもしれない。
 「え、あ、う、うん。ごめん!」
 陽奈の言葉に、なぜかその男子生徒が謝る。翼は心の中で「おいおい、まさかここまできて告白しないで帰すのか?」とつっこんだが、結果を見届けることはできなかった。「つばさ、逃げるよっ」と、笑顔の文月に手首を引っ張られたからだ。
 「待った、陽奈ちゃんなら怒らないだろ?」
 「あは、こんな時はちゃんと逃げるのっ!」
 翼はらしくなく未練がましい発言をしたが、いつもと立場が逆なことが楽しいのか、文月はすっかり子供っぽい表情になっていた。翼は文月に引きずられて少し駆け足になった。
 「ばれたなら最後までいても同じなのに」
 「前は面白半分で覗くの、怒ってたくせに〜」
 「純粋に気になるだけだよ」
 「それを面白半分って言うのっ!」
 そんなことを言い合いながら中庭を出て、自転車置き場や校門へと続く道に合流し、徒歩に切り替える。
 放課後直後ほど人はいないが、下校の流れはまだ途絶えていなかった。腕を取って取られて中庭から駆けてきた二人の少女に、通りすがりの生徒が視線を向けてくる。文月は頓着しなかったようだが、翼はすぐに文月の手をそっと払った。
 文月は気にしたふうでもなく手を離し、翼のすぐ横を歩きながら「つばさのせいでどうなったか見れなかったじゃないっ」と笑って怒ったふりをする。「自分で引っ張ったくせに」と、翼は少し呆れ顔だ。
 自転車置き場に着く前に、陽奈も追いついてきた。
 走ってきた陽奈は、笑いながら文月と翼の間に体当たりをして、二人の腕にいきなり抱きついてきた。
 「文月、翼! 覗きはしちゃダメだよ!」
 珍しく子供っぽい、陽奈の笑顔。
 「今日の犯人はつばさだよ〜」
 文月はあっけらかんと笑う。翼は陽奈に抱きつかれて鼓動を跳ねさせながら、思わず素の言葉で言い返した。
 「誘ったのは文月だろ」
 とたんに、陽奈の笑みが引っ込んだ。文月はそれに気付いているのかいないのか、笑みを絶やさない。
 「あは。つばさ、さっきから口悪いよ〜」
 「はいはい。わたしが全部悪いよ。で、陽奈ちゃん、ちゃんと告白された?」
 「あはは〜。そーだよっ。ぜーんぶ、つばさが悪いのだ〜」
 能天気に笑う文月をよそに、二人から腕を離す陽奈。表情が硬い。
 「……翼、学校なのに、ちゃん付けになってる」
 「今日のつばさは油断しまくりだねっ。帰ったら飛鳥チンに怒ってもらわないとねっ」
 陽奈の変化に頓着せずに、文月は楽しげなままだ。翼は陽奈の様子が気になったが、表面上の明るさを維持した。落ち着いて言葉を返す。
 「ま、身内だけの時はね」
 「学校でぼろがでると困るんだから、気をつけないとダメだぞ〜っ」
 「わかってるよ」
 文月にはそう答えたが、翼としてはばれたらばれたでその時はその時だと思っている。そちらが地だし、身内にだけ受け入れられていれば今はそれ以上は望まない。卒業するまでは猫をかぶるつもりだから、できれば変に目立ちたくはないが、それに拘るつもりもなく、他人にどう思われようとさほど知ったことじゃない。
 「つばさってば、さっき陽奈をすごく気にしてたんだよ。やっぱり振っちゃったの?」
 「ん、何も言われなかったよ。少し話をしただけ」
 「あうち。意気地なしな先輩だね〜」
 「文月がじゃましたからだね。気の毒に」
 どうせ振られるにしても、文月が陽奈に見つからなければ最後まで話せただろうから、翼は本気でそう思う。もっとも、同情はしても、応援をする気は全然まったく少しもないが。
 陽奈は曖昧な顔で笑い、文月は「つばさがいらんこと言ったからでしょ!」と膨れた。
 「何を言ったっけ?」
 「え、えっと、じれったいとか男らしくないとか?」
 「それは文月だったと思うけど」
 「えー、ソウダッタかな〜?」
 わかっていて言っているのだろう、とぼけるように笑って、明後日の方向に視線を向ける文月。翼はそんな文月を半ば無視して、真ん中を歩く陽奈に視線を向けた。
 「…………」
 「ねー、ケーキとか買ってく?」
 翼が言葉に迷ううちに、陽奈の様子に気付いているのかいないのか、文月が明るく話題を変える。それに答える陽奈の態度は、もう普段の様子だった。
 「まだ食べるの? 土曜もたくさん食べてたのに」
 「美味しい物は別バラだもーん」
 栄養が胸に行くせいではないだろうが、文月は発育状態がいい胸を張って威張る。陽奈はくすくす笑う。
 「それ、使い方間違ってる気がするよ?」
 「いいの! ねー、買ってこうよ〜。飛鳥チンのお祝い〜」
 「ん、じゃあ、文月の分だけ買ってく?」
 「陽奈ちゃんはいらないんだ?」
 「えー! わたしだけ食べるのやだよっ。つばさのとーさんは買ってくるの夜でしょっ?」
 「クリスマスも近いし、わたしは食べ過ぎたら太っちゃうから」
 「いーじゃんよー、でぶちんになっても陽奈なら可愛いよ〜」
 「文月はいいよね、太らなくて」
 そう言う陽奈も、太っているようには翼には見えない。すでに何度か体験した体育の更衣中の二人の姿が、勝手に翼の脳裏に浮かぶ。比較的平均的でバランスよく整っていた陽奈。長身な身体に見合って、かなり要所要所が豊だった文月。
 直に目にしているだけに、想像もリアルだ。翼は自分の生々しいイメージに、ちょっと空を仰いだ。
 「陽奈だって太らないじゃん」
 「わたしは、油断するとすぐ増えちゃうから、部活やめたら危ないかも。文月が羨ましいな」
 「でも、陽奈のおかーさんも、スリムできれいでしょ?」
 「お母さんは、わたしよりもっと気を遣ってるよ。――翼は逆にもうちょっと食べないとね?」
 「そだよね。毎日ちゃんと食べないとダメだからねっ」
 「これでも普通に食べてるつもりなんだけどな」
 以前より小食になって痩せてしまっているらしいが、それでも戻してばかりいた最初よりはましになっている翼だ。女の子の体重という極めて微妙な話題にも、翼は露骨に口数を減らすだけで表面上は冷静さを崩さず、穏やかな言葉で応じた。
 三人そんな話をしながら自転車置き場に移動すると、文月は迷わずに翼の自転車に荷物を放った。陽奈と翼はそれぞれ自分の自転車に荷物を入れて鍵をはずし、置き場から自転車を引っ張り出す。文月はすぐに、以前からの習慣どおり翼の自転車を横取りした。
 今の翼は、一月以上学校を休んでいたから、文月に勉強を教える余裕はあまりない。翼が「ありがと」と素直に礼を言うと、文月はどこか照れたように、わざとらしくそっぽをむいた。
 「ふんだ。今度お好み焼きとラーメンとイタメシおごってもらうもん」
 「自転車返せ」
 「やだよーだ」
 「翼、わたしの後ろ、乗ってく?」
 「いや、いいよ。おごる分、文月をこき使うから」
 「むむむ」
 笑って言い合いながら校門をでて、翼は文月の運転する自転車の荷台に、スカートを気にして横座りに乗る。振り落とされないように荷台をしっかりつかむ翼を乗せて、文月が気合いを入れて自転車をかっ飛ばす。その後ろで陽奈は笑っていたが、どこか複雑な笑顔だった。






 途中文月の家に立ち寄り、文月を置いて翼と陽奈、二人での帰途につく。すぐに文月が自分の自転車で合流して、三人で翼の家へ。「ただいま」「おじゃまします」などと言いながら家に入ると、玄関に見知らぬ靴が多数存在していた。
 「飛鳥チンのオトモダチが来てるのかな?」
 先に中に入ってきた文月が状況を端的に分析し、翼は靴をきちんと脱ぎつつ、「みたいだな」と軽く応じる。二人があがるのを待ちながら、陽奈は首を斜めにした。
 「何かパーティでもするの?」
 「人を呼ぶとか聞いてないな。部屋で騒ぐだけなんじゃないかな」
 「つばさ、また口悪くなってるっ」
 「気にするな」
 もう家だから、翼は文月のつっこみをぞんざいに流して、中にあがりこむ。陽奈は笑いながら玄関を閉めた。
 「今日は、飛鳥のじゃまをしないようにしないとね」
 「だれかさんが大人しく勉強すれば大丈夫だよ」
 「ソンナコトゆーと、わたし飛鳥チンのじゃましにいくよ?」
 「どういう脅しだよ」
 「あは、今日はじゃましちゃダメだよ」
 「ちぇっ。帰る時会えるかな〜?」
 「飛鳥ちゃんの友達が帰るまでいればいいさ」
 「うん。それまでみっちり勉強すればちゃんと会えるよね」
 「む〜、二人していぢめる〜」
 二階にあがると、翼の妹の部屋からは、賑やかな声が少し漏れてきていた。
 「飛鳥たち、楽しそうだね」
 「わたしも乱入しちゃおっかなー」
 「だからやめとけって。まずは勉強だろ」
 「ほんとにじゃましちゃダメだよ」
 「ちぇっちぇっ」
 今日は翼の妹の飛鳥の、十三歳の誕生日。文月と陽奈の訪問は試験勉強が目的だが、朝に飛鳥と会っていない文月は、飛鳥に「おめでと〜」を言いたがっている。飛鳥がそれに屈折した反応を示すとわかっている翼としては、その場を見るのを密かに楽しみにしているが、友達同士で騒いでいるところに、兄――正確には姉――やその友人が乱入していい結果を招くとは考えない。最近飛鳥は姉の心配をしてばかりで、学校以外では友達と疎遠になっていたようだから、翼としてはそういう時間も大切にしてあげたい。楽しみは後にとっておくことにして、陽奈と二人で文月を促して、自室に入った。
 「じゃあ今度またカラオケいかない? 飛鳥チンも誘ってさ、誕生日の二次会!」
 「次は三次会じゃないかな?」
 「おれはもうカラオケにない曲は歌わないからな」
 「でも翼くん、誕生日なら歌ってくれるんだよね? わたし、来年はプレゼントで歌ってもらおうかな?」
 「……微妙だな」
 今の翼はアルバイトをしていないから、安上がりですむのは助かるが、歌わされるのは嬉しくない。
 「だいじょぶだよ、陽奈。飛鳥チンに泣き落としさせれば、つばさすぐ甘くなってくれるよ」
 「…………」
 「あは、そうだね。行くなら、試験の後とかかな?」
 「どうせなら明日とか行こうよっ。なんなら今日でもオーケーっ」
 「試験前はダメだよ。文月は赤点とっても知らないけど、翼くんは勉強があるんだから」
 「つばさなら一日くらい全然余裕じゃん。って、ナンデわたしなら赤点とってもいいの!」
 「じゃあちゃんと勉強しないとね」
 わたしだって一日くらい余裕だもんっ、とは、文月は主張しない。ベッドに寝転がって、むーむー唸る。陽奈は笑ってテーブルを出して勉強道具を広げ、暖房をつけてコートを脱いだ翼は、そのまま着替えに取り掛かった。
 先週の土曜日、飛鳥の誕生日の前祝いと称して四人で街にケーキを食べに行き、その後カラオケBOXに立ち寄って一暴れしている。それが誕生日の一次会と二次会で、楽しい時間ではあったが、翼には無駄に疲れる時間でもあった。
 ただでさえ体調がよくない日だったのに、私服でスカートをはく羽目になったし、ウィンドウショッピングにも引っ張りまわされたし、一次会のケーキメインの喫茶店も、主賓の飛鳥が行きたいと主張したそのお店は男だけならかなり入りづらい類のお店だった。十二月の休日ということもあってかカップルも少なくなかったが、彼女に連れ込まれたと思われる男性たちの一部は微妙に居心地悪そうにしていた。
 翼はもう開き直っていたから、そこまではまだいい。問題は二次会のカラオケBOXだった。
 翼は歌を聴くのが好きだし、歌うのも好きな方で、男だった時はよく友人たちとカラオケBOXも訪れていた。しかし、今の翼の声は男の声ではなく、身体と同様に十七歳の女のそれ。幸いと言っていいのかどうか、平均よりもはるかに高い歌声も低い歌声もだせて、たいていの女性アーティストの歌は無理なく歌えるようになっているが、それと引き換えに、男性アーティストの歌を男の声で歌うことはできなくなっている。
 翼にとって、これはプラスとマイナスが同時に存在している点だった。高域に抜ける澄んだ歌声がでるのは充分楽しく、女の歌声がだせるという一点に限れば悪くはない。だが、日常での声はいまだに違和感を感じるし、男の声がだせないのは強い嘆きと不満の種でもある。
 ここで差し引きゼロになればいいのだろうが、プラスとマイナスの二つの感情が、別ベクトルで矛盾せずに存在するのだからたちが悪かった。飛鳥や陽奈たちに対する気持ちも同じだ。妹みたいな女の子ができたことは今ではちょっと嬉しくて、信頼できる女友達ができたことも、複雑な思いもあるが悪くはない。だが弟や友人たちがいなくなっていることは、とてもつらい。
 ともあれ、そんな問題はあるが、翼はカラオケBOXに行くことと、今の声で歌うことそれ自体は嫌いはしなかった。飛鳥たちの歌声を聴くのも充分楽しみだった。
 なのにカラオケBOXでなぜ疲れたかというと、何曲もの歌を、無理矢理、無伴奏で歌わされたからだ。
 翼は、誰のものとも知れない歌を、三人に歌って聴かせたのだ。



 翼がこの立場に追いやられてもうすぐ二ヶ月。これまでの生活で、いくつかわかってきたことがある。
 翼の記憶と、この世界の現実。全体の流れとして、大きな差は見られない。だが細部の違いで、目立つ物がいくつか存在する。その中で、どうしても翼が無視できなかったのは歌だった。
 この世界の芸能界には、翼の男だった時の記憶にあるアーティストが存在しないこともあれば、逆にまったく知らなかったアーティストが存在していることもあった。知っていても、性別がかわっていたり、芸風が違って頭角をあらわしていない人物もいれば、逆の人物もいる。存在していなかったはずの歌が存在していて、逆に存在していたはずの歌が存在していない。
 その最たる物は、翼が大好きなアーティストだった「立川ナツヒ」の歌。これが妄想なら、「別人の歌を、立川ナツヒという架空の歌手の歌だと思い込んでいただけ」と、翼は最初は考えた。でなければ、レベルが高すぎる歌の数々を、翼が自分で作ったということになってしまう。だから、元の人格のツバサがどこかでその歌を耳にしたはずで、この世界のどこかにその歌が存在するはずだった。
 だが、結局あれから何枚ものCDを聴いて、陽奈たちにも情報を求めたが、いっさい手がかりはなかった。となると、相当マイナーな人物から個人的に聴かせてもらったのか、それとも本当に翼が自分で作ったのか。まさか「自分の記憶の中だけのはずの世界」が、どこかに実在していた、または実在している、などという可能性も翼の頭をよぎるが、それはやはり非常識すぎる。
 答えはいまだに出ていない。
 今も翼は、どこかに存在するはずのその歌を探している。
 しかし、本当に現実に存在しないなら、翼が作ったことになってしまう。常識的にいけば、それ以外考えられない。そしてそう決め付けている飛鳥たちは、先週の土曜日、カラオケBOXで翼に歌をせがんだのだ。
 「情報を得るためとはいえ、この子たちに歌って聴かせたのは失敗だったかな」と翼は思ったが、最初は悪い気はしなかった。
 妹の飛鳥の誕生日祝いに、一曲だけ、気持ちをこめたバースデーソングを。
 男が普通に歌えば違和感が生じる、大好きな少女アーティストの歌。
 男だった時はそんな高い声は出なかったし、女の歌だから歌ったことはなかった。だが、何度も聴いていた歌だから、曲も詩も頭に入っている。そのCDを聴いていた過去を思い出して切なくなりつつも、翼は半分は楽しんで声を出した。
 それが失敗だった。その歌を翼が作ったとしか思わない三人は、二曲目三曲目をリクエストしてきたのだ。翼は恥ずかしくもなるし、「せっかくカラオケBOXにいるのに、なんでカラオケにない歌ばっかり歌わなきゃいけない?」という心理にもなる。なのに三人は、飛鳥の誕生日のお祝いだと脅しをかけてくる。
 ここで冷たくするのは容易かったが、妹がせがむのなら、お祝いとして歌ってあげるくらい些細なことだと思うのも翼だった。歌声を出し慣れていないせいか一時間とたたずに喉が痛くなったが、それを訴えるまで、せがまれるままに歌い続けた。
 が、喉が痛くならなければまだまだ歌ってほしそうな三人の様子で、ここまで来ると嫌がらせと紙一重である。後の時間は完全に聴き手に回ったが、家に帰ってからも飛鳥に、曲名と歌詞の一覧を作ってとわがままを言われたりもして、くたくたな一日になったものだ。一曲二曲ならまだしも、カラオケにない歌はもう歌いたくないと半分本気で翼は思う。
 今の翼は、そんなふうに陽奈たち三人との友好を深めつつ、日々を過ごしている。
 女の身体に耐えて苦しみ、その対応に追われ、記憶の穴埋め作業を続け、二重人格になってしまった原因をさぐり、立川ナツヒの歌を探し。購読していた音楽雑誌やバスケ雑誌のバックナンバーをあさったり、テレビでバスケ観戦をしたり聴きなれないCDを聴いて楽しみ、学校生活にも適応しようと配慮し、期末試験に向けてごく普通の勉強もする毎日。
 やるべきことは多く、下手に悩むより先に、動こうと思っている翼。一人でいる夜は堪えきれずに泣くに任せる時もあるが、人前では無理をしてでも日常を振る舞う。日常に染まり忙しくすることで、ごまかそうとしている部分がある、という自覚はあるが、それが強さなのか弱さなのか、翼は自分でもわからない。状況をなんとかよりよくする方法を模索しつつも、まずは適応することから選んでいるのが、今の翼だった。
 「ねー、つばさ〜?」
 三人すぐに試験勉強を始めたが、三十分もたたないうちに文月が落ち着きをなくした。翼の正面に座る文月は、消しゴムを転がしながら、翼を上目遣いで見ていた。
 「んー?」
 シャープペン片手に教科書とノートを真剣に眺める翼は、手を止めず、視線すら向けずにぞんざいに応じる。二人の間に座る陽奈は手を止めて、「わからないとこなの?」と、文月に顔を向けた。
 「作曲家とか作詞家とか、歌手とかさー、なれば学校のベンキョーしなくていいよねー」
 「…………」
 何をいきなり言うのやら、という目をちらりと正面の少女に向けて、翼はすぐにノートに視線を戻す。陽奈は甘い言葉は出さなかった。
 「文月、翼くんのじゃましちゃダメだよ」
 「だってさ、あんな歌何曲も作れるんだよ? 勉強なんかするより、そっちにリキ入れた方がいいじゃん」
 「文月。自分でさぼるのはいいけど、翼くんのじゃましちゃダメ」
 「むー。休んでてもわたしより余裕のくせに〜」
 「いいかげんにして。翼くんはふまじめな文月とは違うよ」
 陽奈の声が妙にきつかった。文月の態度はいつものことだが、あまり余裕のない陽奈の態度は少し珍しい。文月は本気で膨れっ面をし、翼も気になって手を止めた。
 「ふんだ。つまんないのっ」
 ぶすっとした顔で、文月はそのまま身体を後ろに倒して寝転がる。陽奈はさらに何かきつく言いかけたが、翼はそれを遮った。
 「いいよ、陽奈ちゃん。休憩にしようか。ジュースでも持ってくるよ」
 相手が文也なら放置するのだが、文月が相手だと多少甘くなっているという自覚を、翼は持っている。陽奈や飛鳥は、翼は文月にだけは率直だと感じてるようだが、あくまでも「異性の友人」としての遠慮のなさでしかない。
 「わーい、さっすが、つばさ。お菓子も持ってきて〜」
 「…………」
 陽奈はまた珍しく露骨に不満そうな表情を見せたが、翼本人がいいと言うからそれ以上注意したりはしない。立ち上がる翼に、文月は「今日は何があるの?」とすっかり我が家のように振る舞い、翼は「さあな」と笑って部屋を出て行く。
 ダイニングでは母親の亜美が、今日の仕事はもう終りなのか、リビングのテレビをつけっぱなしで料理の本を眺めていた。下の娘の誕生日祝いに、何やら普段作らない物を作ろうとしているらしい。翼が姿を見せると、亜美は本から目を離して顔を上げた。
 「勉強は休憩?」
 「うん、何かお菓子ある?」
 最近しょっちゅう遊びにきている陽奈と文月のために、母親が買い置きをしてくれていることは知っている。亜美はすぐに立ち上がった。
 「今日はお父さんがケーキも買ってくるんだから、ほどほどにしときなさいよ」
 「そんなに食べないよ。文月の分だから」
 棚を漁る母親の横で、翼も冷蔵庫からパックのジュースを取り出す。
 「ああ、あの子はね。前なら飛鳥と一緒に追い出したんだけど」
 「文月はあの性格だから」
 「うるさいだけだと思ってたわよ。ずうずうしいし」
 文也はいいやつだったよ、とは口に出さず、翼は例の微笑を浮かべる。
 「文月は悪い子じゃないよ」
 「ま、今はね。心配かけてる分は、ちゃんと気にしてあげなさいよ」
 「うん、できる範囲でね」
 「飛鳥にも陽奈ちゃんにもよ」
 「わかってる。母さんと父さんにもね」
 翼は自分が図太くなったと感じながら、さらりとそう言って、コップを取りに動く。亜美はしかめ面をして黙ってしまった。
 「あたしたちにまで余計な気を遣わなくていいのよ!」などという発言を、素面では滅多に言わない亜美だ。翼がコップを三つ持って母親に向き直ると、亜美はぶっきらぼうに、チョコレートビスケットの箱と、オーソドックスなポテトチップスの袋を差し出してきた。
 「先にビスケットの方から食べなさい。あんたは食べ過ぎるんじゃないわよ」
 「そうする。ありがとう」
 ビスケットの方は先日の残りで、封が切ってある。翼は二つとも受け取ると、素直に返事をして部屋に戻った。
 翼が部屋に入ると、同時に陽奈が立ち上がった。
 「ちょっとトイレ行ってくる」
 「ああ」
 翼は場所をあけて、無表情に出て行く陽奈を通し、なんとなくその背を見送った。ドアが静かに閉まると、文月の正面に座り、テーブルにお菓子とジュースとコップを乗せる。文月はどこかいじけたような顔をしていた。
 「陽奈がなんかムチャ機嫌悪い〜」
 翼がいない間に、お説教でもされたのだろうか。翼は微苦笑を浮かべた。
 「文月がまじめにやらないからじゃないか?」
 「む〜、そうなんだけど、なんかいつもと違う! つばさが学校で口悪かったから、きっとそのせいだよ! さっき変だったしっ」
 「……しっかり気付いてたんだな」
 「つばさも気付いてたの?」
 「結構露骨だったしな」
 「じゃあやっぱりつばさのせいだっ!」
 「怒ってる感じじゃなかったと思うけど? 文月じゃあるまいし、言葉遣いくらいじゃ陽奈ちゃんは怒らないだろ」
 「ソウだけど、あの時変だったでしょ?」
 「まあな。でもやっぱり怒ってるなら文月のせいだと思うけど」
 「違うよ。いつもなら陽奈はちゃんとわたしのこと考えてくれながら怒るもん。どっか変だよ」
 「確かに、珍しかったな。なんか苛ついてた感じか?」
 「なんでなの? 陽奈、生理は来週くらいだよね」
 「……らしいな」
 「急に来ちゃったのかな? でも、陽奈いつもあんまり重くないよね」
 「……さあ、どうだろうな」
 あまり好んでしたい内容ではないが、翼自身が生理では大きな問題を抱え込んでいるから、すでにそういう話題を過去に何度かかわしている。「わたしは次は年末年始だーちょー悲しー」などと騒いだ文月の発言も耳に新しい。だが、飛鳥だけはまだで、陽奈や文月は当然のごとくそれがあるようだが、彼女たちがいつそうなっているのか翼にはさっぱりだった。だいたい「よくあれを平気で耐えられるな」と強く思う。大多数の女性は生活に大きな支障をきたすことなく、毎月のそれを乗り切っているようだが、翼としては信じられない状況だ。一歩間違うと本気で死んでしまいたくなる今の翼の方がやはり問題だとわかってはいるが、顔にも態度にも出さない人がいるのはすごすぎる。
 「陽奈が戻ってきたら、一回謝ってみてよ」
 「なんでおれが。文月が大人しく勉強すればいいんじゃないのか?」
 「わたしはできないことはヤラナイ主義なのっ」
 文月は無駄に威張る。翼の知る文也と同じような台詞に、翼は軽く笑ってしまった。
 「ちょっとはしろよ」
 「む〜、ほんとにわたしが怒られてるの?」
 「怒られる要素はたくさんあるからな」
 「ドーシテよっ!」
 軽い冗談に、文月は笑いながらもすぐに乗ってくる。翼はコップにジュースを注いだ。文月はビスケットの箱に手を伸ばす。
 「ね、つばさ。ちょっとまじめな話するとさ」
 「うん?」
 文月の表情は声とともに真剣みを帯びるが、手がピスケットの箱をがさごそしているから、いまいち緊張感に欠ける。翼はコップを弄びながら、軽い視線で文月を見やった。
 「陽奈に遠慮してる?」
 「そのつもりはないけど?」
 「さっき変になったのだけなら、そのせいかなって思ったんだよね。陽奈、まだどっかつばさに構えてる」
 「…………」
 見ていないようでいて、文月は翼たちのことをちゃんと見ているらしい。やっぱり文月はどこか鋭いな、と思いつつ、翼は表面上は軽く言い返した。
 「文月なんて容赦ないのにな」
 「つばさだってわたしにヨーシャしないじゃん」
 「まーな」
 「って、ほら、やっぱり陽奈にヨーシャしてるんでしょ」
 「容赦というようなもんでもないけどな」
 「飛鳥チンにも甘いしさ。わたしだけ冷たいし」
 これでも文也に対するよりは甘いはずだけどな、とは言わず、翼はからかうように笑って見せた。
 「もっと甘くしてほしいのか?」
 「ヤダよ、気持ち悪い」
 気持ち悪い、と言いながら、文月も楽しげに笑っている。
 「翼は甘い時は甘くしてくれたけどね、それは落ち込んでる時だけでいーよ」
 「落ち込んでる時も追い討ちをかけたくなるけどな」
 「つばさって、こういう時嘘つきだよねー」
 文月は少し意地悪をするかのように、ニタニタと翼を見つめる。翼はからかうつもりが反撃をもらって、その視線に思わず狼狽に近い感情を覚えたが、ポーカーフェイスを崩さなかった。
 「で、何を言いたいんだ?」
 「そ。陽奈の話。陽奈に遠慮しない方がいいよ」
 文月の態度が、少し改まる。真剣な瞳がまっすぐに翼を見る。
 「だから、してるつもりはないけど?」
 「嘘。陽奈にはきついこと言わないじゃん。変に優しくしちゃってさ。陽奈気にしてるよ」
 「文月も陽奈ちゃんも飛鳥ちゃんも違うだろ。全員同じようになんて無理」
 「誰も同じようにしろなんて言わないよっ。変に気を遣うなって言ってるの。それともまさか、やっぱり本当にレズなの? それで陽奈を意識してるの?」
 「……そのつもりはないよ」
 「気付いてないと思ってんの? いっつもいつも、更衣室でこっそり見てるじゃん。たまにわたしのことも見てるしっ」
 「文月はスタイルだけはいいな」
 「だけッテナニヨ! つばさだってスタイルだけはいいよねっ。今は痩せ気味だけどさっ」
 「…………」
 話題の方向が微妙だった。今のスタイルを誉められてもマイナスの刺激があるだけで全然嬉しくない翼は、例の微笑を浮かべてジュースに口をつける。文月はじろじろ翼を見たが、少しまじめに語調を強めた。
 「本気で訊くけどさ、ほんとに男に興味ないの?」
 「ないよ。その方が都合がいいんだろ? 男作るなって言ってたし」
 「それとこれとは話が別。女に興味があるってことでしょ?」
 「……興味を持ってても、そういうことは気持ち悪くなるだけだよ。恋愛がらみは、もうどうしようもない。関わりたくない」
 この身体では、男とも女とも恋愛をしたいとは思わないし、身体だけの関係も持てない。が、自分の身体すら不快感の対象だが、陽奈や文月の半裸を見たりすると強い欲望が生じることもある。理屈としては色々理由も思いつくが、だからといって翼にもどうしようもない感情だった。男の身体に戻れたら、どうこうしたい気持ちは一杯ある。男のままならどうこうできたのにともよく思う。そういう意味での強い興味と欲望。だがこの身体では、仮に相手が翼を受け入れてくれたとしても、一方的に快感を与えることはできるかもしれないが、男の欲望は発散のしようがない。
 「もしかしてフカンショウなの?」
 なんでこういう話になってるかな、と思いつつ、翼は嘘はつかなかった。
 「かもな。今は自分の身体に触るのも嫌々だからな」
 少なくともプラス方向の快感はない。いつか感じられるようになれるのかどうか、翼は知らないし、知りたくもない。理屈の上ではプラス方向のものならなんでも受け入れた方が絶対楽だと考えるが、自分が女の感覚を感じることすら無意識のうちに嫌悪感を抱くし、試そうとも思わない。まだまだ根こそぎ状況を否定したい気持ちもあるし、物理的な吐き気まで生じてしまうのだから、真剣に気にすればするほどきつくなる現状で、必然的に思考が逃避的になる。
 「それじゃレズもダメじゃん」
 「だからそう言ってるだろ」
 「でも、つばささ、わたしとか陽奈、たまにやらしい目で見てるでしょ」
 「…………」
 「興味があるって、そういう意味なんでしょ?」
 「……なんのつもりで、それを訊いてる?」
 「何よ、別に、わたしはつばさに見られるくらいどってことないよ。だいたい、つばさは覚えてないみたいだけど、よくさわりっこしたじゃん。翼の身体、隅から隅まで、わたしさわったことあるもん」
 「ちょっと待て」
 色々な意味で、聞き捨てにできない文月の台詞だった。文月は待たずに一気に言い募った。
 「隅から隅っていうのは嘘だけどねっ。別につばさがレズだって言われたって、どってことないもん。無理矢理襲ったりしないでしょ? 無理矢理でも負けないし、だから正直に言ってよ! でないと治すこともできないでしょっ!」
 「…………」
 治すというのは、いったい何を治すのか?
 結局、今の翼の現状は、客観的には二重人格を疑われている精神の問題から、すべてが派生している。文月が指しているのはそれ。
 翼は感情をかき乱されていたが、無意識のうちに、例の微笑を浮かべていた。
 「悪いけど、おれは無理に治ろうなんて思ってないよ」
 「う、そ、それはそれでしかたないけど、デモちゃんと話しなさい! わたしが落ち着かないのよっ! 陽奈だって変だし、よくわかんないとよくわかんないでしょ! 正直にハクジョーしなさい!」
 文月の口調は必要以上に感情的だ。
 翼はまた無意識のうちに、今度は自然に笑みを浮かべていた。
 相変わらず、たまに自分の感情が先走る文月。翼にとって、今は、そんな文月の存在が悪くはなかった。
 「文月が何言ってるかの方が、よくわかんないけどな」
 「む〜、ナンデ笑うの! ごまかさないで! アライザライ話しなさいよぉ!」
 文月は真顔を作ろうとしたようだが、上手くいっていなかった。翼の微笑につられたように表情が崩れて、声に出して笑いだす。
 「もうっ、わたしはまじめな話をしてるの!」
 「ふっちゃんにはまじめはあんまり似合わないよ」
 「ふっちゃんゆーな! それに似合わないってナニヨ! って……」
 反射的に言葉を返してから、文月は笑顔の質を換えた。嬉しそうな、それでいて切なげな笑顔。
 「……つばさがわたしをふっちゃん呼んだの、初めてだね」
 「そうかもな」
 「ね、今度一緒にお風呂入って、さわりっこでもしてみる?」
 「…………」
 冷静さを装っていた翼だが、唐突なその言葉にテーブルに突っ伏したくなった。「さわられるのは嫌だけどさわるのはしてみたい」とか、つい思ってしまうから始末に終えない。
 「文月こそレズなのか?」
 「なんでそうなるのっ」
 取り乱したりしたら、翼は本気で文月を疑ったかもしれないが、文月は笑顔でつっこんできた。翼は半ば安堵しつつ、ため息混じりに文月を見つめる。
 「文月、おれもまじめな話をするとさ」
 「ナニヨ?」
 「そういう目で見られたら気持ち悪いかもしれないけど、もうしばらく気にしないでくれないかな」
 「ムリ! わたしに手伝えること、なんかあるでしょ?」
 この件で手伝うと言われても、いったい何をどう手伝ってもらえばいいのか。翼は少し笑って、さらりとした態度で、素直な気持ちを言葉に乗せた。
 「一人で手におえなくなったらヘルプをだすよ。文月はほっといても手を出してきそうだからな、少しだけ気にしてくれ」
 最初はまじめに、後半は少し冗談めかして。そして最後にもう一度真剣に。
 「いざとなればちゃんと頼らせてもらうから。できれば見守っててほしい。それが今は一番嬉しいよ」
 「…………」
 穏やかに文月を見つめる翼を、文月はどう受け取ったのか、数秒の沈黙。
 「……つばさ、何か悪い物でも食べた?」
 文月は真顔だった。翼は思わず笑ってしまう。
 「そうかもな。ま、おれもガキンチョってことにしといてくれ」
 「ガキンチョは陽奈と飛鳥チンだけで充分だよっ」
 反射的に言い返した文月の言葉に、翼は笑いながら「陽奈ちゃんたちに聞かれるとまた怒られそうだな」とドアを見る。文月もつられたように顔を動かすが、タイミングよくドアが開いたりはしない。顔を戻した文月は、ぶすっと膨れっ面をしていた。
 「ふんだっ。わたしはそれでいいけど、でも、陽奈にはもっと遠慮なく接しなきゃだめだからねっ」
 「だから、陽奈ちゃんにも遠慮はしてないつもりなんだけどな」
 「じゃあ、陽奈の問題なのかな? 陽奈、まだどっかやっぱり拘ってるみたいだし」
 「……文月はどうなんだ?」
 「わたしは、……わたしも、まじめに言うとね」
 軽く見せかけていて重い翼の問いかけに、文月は一拍間を置いて、少し頬を赤くした。どこか切なげに、まっすぐに言う。
 「どっちの翼でも、ちゃんと幸せにする。どっちの翼も、もう大事な友達だから」
 「…………」
 今度は翼が言葉に詰まる番だった。
 文月は最初は照れたようだが、翼から視線をはずさない。言ってしまったことで度胸がすわったのか、まじめな視線で、ニコニコ笑う。
 「ありがとーは?」
 いつもの文月と同じようで、どこか違うその瞳。柔らかいキレイな微笑みと、明るい瞳。
 不意に、本当に唐突に、恐ろしい想像が翼の脳裏をよぎった。「まさかとは思うけど、文月のいつもの態度は、全部遠慮させないための計算ずくなのか?」。文月の表情に浮かぶ、まっすぐな気持ちと、すべてを包み込むようなあたたかさ。
 「……ありがとう」
 ほとんど無意識にそう言った途端、なぜか急激に、翼に羞恥がこみ上げてきた。顔がカッと熱くなった。
 他人に対する甘えを自覚した時に感じるような、自分の気持ちを他人に見透かされている時に感じるような、無防備な自分をさらけ出してしまった時に感じるような、そんな羞恥心なのだろうか。翼は自分でも、自分の感情がよくわからない。
 微かに目のふちを赤く染めた翼に、文月はにへら〜っと満面の笑顔になった。
 「うんっ! つばさもわたしのシンユーだかんねっ!」
 これはもういつもの子供っぽい文月の顔だ。はっと我に返った翼は、すぐに自分の想像を気のせいだと決め付けると、羞恥をごまかすためにわざとぞんざいに言葉を返した。
 「よくそんな台詞真顔で言えるな。恥ずかしくないのか?」
 「つばさだって恥ずかしいこと言ったじゃんよー」
 翼が素直ではないだけとわかっているのだろう、文月は嬉しそうに言い返す。なんとなく文月に言い負かされたような気分になって、翼はさらにひねくれた発言をした。
 「だいたい文月に幸せにしてもらってもな」
 「え、なぁに、やだ、つばさってば、一緒に幸せになりたいのね〜?」
 文月は怒るどころか、ますます楽しげな笑みだ。
 「やーん、そうならそうと言ってくれないと! そだよね、それがいいよねっ。陽奈も飛鳥チンもさ、みんなで一緒に幸せになろーねっ!」
 からかいの中に、素直な気持ちをにじませる文月。いつもふざけているようでいて、翼の記憶の中の友人の文也のように、大事な部分はまっすぐにぶつけてくる文月。
 翼は今度は、露骨に顔をそむけた。
 「あは、つばさ、照れてるでしょ〜? 顔赤くなって、なんか飛鳥チンみたいだね〜?」
 「……聞いてるこっちが恥ずかしいこと言うからだろ」
 翼の頬からは、朱色が抜けない。文月はさっきからずっと嬉しそうな笑顔だったが、翼の羞恥が伝染したのかどうか、さすがに彼女も照れたようにパンパンとテーブルを叩いた。
 「むーだ! そんなこと言うとつばさだけフコーにしてやるぞ〜?」
 いきなり正反対のことを言う文月である。翼はまだ顔に熱を持ったまま、つい吹き出してしまった。
 「おれも文月を不幸にすればいいのか?」
 ほんのりと頬を赤く染めた、十代の少女の明るい笑顔。
 その表情や声と裏腹に、翼の口調はお世辞にもいいとは言えないが、そんな翼の反撃にも、文月も笑みを絶やさない。
 「そんなわけないでしょっ。つばさはわたしを幸せにしないとだめだもんっ」
 「ずいぶん勝手だなぁ。ま、文月にはお節介を焼いてもらってるからな。できることはやらせてもらうよ」
 「お節介てナニヨ! ぜーんぶ、つばさをフコーにするためなんだからねっ!」
 「うん、サンキュー、文月」
 文月の瞳を見つめて、翼の心からの素直な言葉。
 文月はむーむー唸りながらも、本当に嬉しそうに笑っていた。



 二人、冗談混じりに気持ちを伝え合ううちに、陽奈が戻ってくる。陽奈は明るい二人を見て、一瞬複雑に表情を動かしたが、すぐに彼女も笑みを作った。
 「すっかり、遊んでるみたいだね」
 「まーねっ。つばさをフコーにするのだ」
 「はいはい。陽奈ちゃん、機嫌悪い?」
 「ん? あ、うんん、ちょっと文月のわがままに呆れただけかも」
 やんわりと微笑んで、陽奈も腰をおろす。
 「ぶーぶー。このくらい普通じゃんよー」
 「なかなか嫌な普通だな」
 「文月も、もっと落ち着いてくれないとね」
 「む〜、つばさ〜、あんたはどっちの味方なの〜?」
 「もちろん陽奈ちゃん」
 「む!」
 文月が笑って膨れっ面をする。陽奈は静かな笑顔だった。
 「……前は、翼は、こういう時どっちの味方もしなかったよね」
 「そうだよ。ふこーへーだ!」
 「じゃあ、文月の敵ってことで」
 「なんでそーなるの!」
 文月の明るい笑い声。陽奈も笑ったが、その笑みはどこか影がある。翼はそれに気付いていたが、どう動くのがいいのか決めかねて、結局成り行き任せにしか動けなかった。
 陽奈もすぐに普段の様子に戻ったが、その態度は自然すぎて、それが演技なのかどうかを見極めることも難しい。翼は陽気な文月とのやりとりを楽しみつつ、いつもより余計に陽奈を気にしながら、その時間を過ごした。






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初稿 2004/10/28

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