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 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第七話 「新しい生活」


 久我山翼が在籍している高校には、着用を義務付けられた制服というものは存在しないが、そのかわりに標準服が定められている。冬服は、男子は昔馴染みの詰襟の学ランで、女子もシンプルなセーラー服だ。
 学校の標準服と言えば、「望ましいが他のどんな服装でもかまわない」というイメージもあるようだが、理論的には標準服はあくまでも服装の標準であって、「準じたものを着用する」という基準を表しているに過ぎない。少なくとも、翼の高校の建前上はそうだった。毎年四月にはその建前が前面に顔を出し、一年生が私服で通ったりすれば、すぐ教師に目をつけられる。
 それでも、毎年十パーセント前後の人間は、そのまま私服での生活を続ける。一クラス約三十五人で一学年六クラスの学校だから、一学年に二十人前後は私服の生徒がいる計算になる。さすがに入学式や卒業式などで私服を通そうとするとうるさいが、教師も毎年のことなので、最初だけ注意した後は、よほど派手でなければ黙認しているのが現状だ。それと知って、私服で通うつもりで入学してくる生徒も少なくはない。
 だから翼も、その気になればいくらでもやりようがあるし、私服で学校に通うことなど造作もないことだ。翼の性格なら、必要を感じれば、いくらでも我を通す。
 そしてそんな性格だからこそ、必要を感じれば、いくらでも我を殺す。
 十二月の朝、女子の標準服に身を包んだ翼は、赤い三角ネクタイを大きな衿の下に回した。翼はそれはスカーフだと思っていたが、先月初めて試着した時に、嘘か本当か友人の蓮見陽奈が「厳密には、スカーフじゃなくてネクタイだよ」と主張していたから、とりあえずネクタイだと思うことにしていた。
 もう一人の友人の松本文月は、翼がこの赤い三角ネクタイをするのが不満なようで、「スカーフじゃなくてリボンにしようよー」と騒いでいたが、翼は一度試してみてから却下した。リボンは形を整えるのがけっこう面倒くさかったからだ。他人に対して多少演技をすることの有効性を知っている翼は、人前では「文月たちの言う元のツバサ」にあまりギャップがないように振る舞うつもりだが、度をすぎると面倒くさい上にうっとうしい。文月はぶすっと不満顔をしたが、陽奈が「翼はネクタイは、遊んだりしてたけどあんまり拘ってなかったよ」と味方についてくれたこともあって、標準服に指定されている赤い三角ネクタイに落ち着いていた。
 その三角ネクタイをネクタイ止めに通した翼は、軽く形を整えて、うなじを少し隠す長さで切りそろえられた髪をちょっと気にしてから、本棚に置いている卓上鏡を見やった。
 翼の顔が、雑誌サイズの鏡の中に映っている。
 十七歳の少女の顔。
 その顔立ちは妹の飛鳥とよく似ているが、まだ中学一年生の飛鳥より、かなり大人っぽい。一月半ほど前なら、単に年齢の差とだけ言えたかもしれない。今でも、二人を表面でしか見ない人間なら、おそらくそれだけですませてしまうだろう。「後四年もすれば、妹さんもお姉さんみたいにきれいになるよね」などと、二人の本質を見ない発言で終わるかもしれない。
 だが身近な人たちは、今はもうそれではすまないことをよく知っていた。飛鳥より「はるかに大人びている」と言えるほどの差。翼が女性として成熟したわけではない。まだまだ、鏡に映る翼の顔には、年齢相当の少女っぽさも漂う。
 妹の飛鳥と、そして以前のツバサと決定的に違うのは、その瞳。十七歳という年齢に似合わない、大人びた輝きを放つ瞳。
 翼は鏡に写る自分の顔を見て、すっかり癖になってしまった微笑を浮かべた。翼をよく知らない男なら、見惚れたりもするかもしれない。その視線さえ向けられなければ。
 状況や身体に対する、嫌悪感や不快感、諦め、笑うしかないといったような可笑しさ。そんな気持ちを感じた時に、自然に浮かんでしまう表情。見方によっては、自嘲的とも、正反対に明るい微笑とも言えるが、どちらでもない。投げやりとも皮肉っぽいとも、自虐的とも泣きそうとも言えるが、やはりそのどれでもない。ある種達観しているような、すべてを突き放しているような、また逆にすべてを受け入れているような、複雑に屈折した感情表現。様々な感情を宿した、どこか遠い澄んだ微笑。
 翼は冬のセーラー服に包まれた腕を伸ばし、鏡の角度を少し下向きにかえた。十七歳の女子として平均的に膨らんでいる胸と、服に通したばかりの三角ネクタイと、白い首筋が鏡に映る。
 白い三本のラインが入っている衿や、取りはずしができる小さな胸当て、赤いネクタイも充分きれいな形に整っていた。翼はそれだけ確認すると、鏡を本棚に伏せて、学校指定のダブルのコートと鞄を手にとって、ゆっくりと部屋を後にした。



 「お待たせ」
 身支度を整えてから翼が玄関に行くと、同い年の友人の蓮見陽奈と、中学一年生の妹の飛鳥が靴を履いて待っていた。陽奈は「うんん、全然だよ」とにっこり笑顔を浮かべ、飛鳥は翼が手に持つコートを見て、少し不満そうな顔をした。
 「姉さん、コートなのね。ジャケットの方がかっこいいのに」
 年齢の割に大人びた口調の飛鳥は、地元の中学の制服姿だ。紺色のプリーツスカートに、丸襟のブラウスとベスト、その上からボレロを羽織っている。顔立ちには気の強さを感じさせるが、小柄な彼女はまだまだ小学生のようで、翼から見ると子供という印象で可愛らしい。荷物がいっぱい入った鞄を背負っているのも、幼さの方を強調する。
 隣に立つ陽奈は、翼と同じ黒いセーラー服の上から、飛鳥の言うクリーム色のノーカラージャケットを着ている。これも学校指定の一品だが、明るい少し目立つ服だ。きちっとボタンをとめたその姿は黒い襟を持つクリーム色のセーラー服といった感じで、大人しそうな見た目の陽奈にはよく似合い、清純な雰囲気をかもしだしている。微かに癖のある長い黒髪とのコントラストも、翼の目にはきれいに映る。
 「おまけにタイツなんだね。翼くん、もうすっかり重装備だね」
 「寒いから」
 しっかりと足を黒いスクールタイツで覆っている翼は、二人に簡単に言葉を返すと、セーラー服の上からコートを羽織った。翼としてはタイツなどはきたくないが、女子の制服も嬉しくないのだが、目立ちたくもないから木を隠すなら森の中だ。自分で選んだ手段でもあるし、いまさら愚痴を言うほど大きな問題ではない。
 「まだ十二月になったばっかりだし、そうでもないよ?」
 「姉さん、寒がりになったみたい」
 寒がりとかいうレベルとは違うだろう、と心の中で翼は思う。陽奈も飛鳥も、足元は靴と三つ折りソックスだけで、二人とも白い素肌がまぶしくて可愛い。が、男だった時なら鑑賞してドキドキしていればよかったが、今となってはその寒さが容易に想像できるだけに、見ている翼の方が寒くなりそうな格好だった。翼の学校は強制ではないからまだましだが、冬場にスカートの着用を義務付けるのは、どう考えても間違っていると思う翼である。
 ちなみに翼の高校では、ジャケットと同色のセーターも、男女兼用の標準服として用意されている。翼に言わせれば、セーラー服にコートだけなのだから、この格好はまだ控えた方だった。
 「なんなら、中にズボンをはいてってもいいけど」
 「だめよ、そんなの、姉さんには似合わないわ」
 「うん、でも、私服ならそういうのも可愛いよね」
 「あ、ですね。姉さん、ミニスカートにジーンズとか、よくやってましたよね」
 「飛鳥はこっそり真似してたんだよね」
 陽奈の言葉に、飛鳥が少し顔を赤くする。翼はコートのボタンをはめながら、二人の言葉を軽く聞き流した。
 「飛鳥ちゃんも、もうでるんだ?」
 「うん、バス停までついてくわ」
 「飛鳥は、お姉さんが心配なんだよね?」
 陽奈が微笑ましそうに友人の妹を見て、その頭を撫でる。飛鳥はますます顔を赤くした。
 「陽奈さんも、わざわざこんなに早く来て、姉さんを心配してます」
 「うん、わたしは翼くんが本当に心配だから」
 臆面もなく言い切る陽奈。本人の前でされても困る会話なのだが、翼は口を挟まず、一度鞄を置いて座り込んで、バスケットシューズのようなスニーカーを履く。
 「やっぱり、陽奈さんは文月さんとは違いますよね」
 「あは、そんなこと言うと、また文月に怒られちゃうよ?」
 「こんな日に寝坊する文月さんなんて、それで充分です」
 「電話したんだろ? どうだって?」
 「姉さん、言葉遣い、学校ではちゃんとするんじゃないの?」
 翼の少女の声とはアンバランスな男っぽい物言いに、飛鳥はまるで自分の方がお姉さんであるかのように、即座にしかめつらして注意する。翼は例の微笑を浮かべた。
 「まだ家だよ。身内といる時くらい、気を抜かせてほしいな」
 身内、という言葉に、飛鳥がちょっと嬉しそうな表情をし、陽奈も顔をほころばせた。
 「慣れるとその話し方も、なんだか可愛いよね」
 翼と飛鳥は声も似てるし、とまでは陽奈は口にしないが、飛鳥は「あ、それはあるかもです」と明るく頷いた。
 「今の姉さん、少し子供っぽいかもです」
 「…………」
 「でも、姉さん、学校では気をつけるんでしょう?」
 「大丈夫だよ、飛鳥。わたしと文月がしっかり見張るから」
 「……見張る……」
 「でもでも姉さん、結局全然練習しなかったし」
 翼の呟きと、飛鳥の不満げな言葉が重なる。陽奈はくすくす笑っていた。
 「そうだね。翼くん、学校では気をつけないとね? 文月、また怒っちゃうよ?」
 「……で、その文月は?」
 「珍しく寝坊だって。校門で待ってるって言ってたけど、どっちが早いか競争だね」
 「今頃きっとドタバタしてますよね」
 日頃の行いのせいか、飛鳥は姉の友人の一人をしっかりとこきおろす。翼も苦笑気味に、頬を緩ませた。
 そんな会話の途中で、普段は見送りになどしない母親の亜美がやってきた。
 長女の翼が記憶障害と二重人格を疑われるようになって、一ヶ月と少しの時間が流れている。それ以来初めて学校に行く長女を、不機嫌そうな顔でじっと見るあたりは、以前の亜美のままだ。玄関を開けて一歩外に出ていた飛鳥と陽奈が気付いて口を閉ざし、靴を履き終えた翼は振り返って母を見た。
 「まだ何かある?」
 娘のさらりとした口調に、亜美は少し不満げな顔をしたが、すぐにぶっきらぼうに言い放った。
 「しっかりやりなさいよ。なんかあったら早退してきたっていいんだからね」
 乱暴な口調だが、気持ちは隠し切れてはいない。翼は少しだけ笑みを作った。
 「うん、いってきます」
 「ええ、いってらっしゃい」
 亜美もやっと、少し不器用に笑って、頷く。翼は母親が外まで見送りに来るらしいのに気付いて、ドアを閉めずにそのまま外に出た。陽奈と飛鳥も、家の外でお出かけの挨拶をする。
 「亜美さん、いってきます」
 「お母さん、いってきます」
 「あんたたちも、事故とか気をつけるのよ」
 飛鳥が小さく頷き、陽奈が「はい」と笑顔で丁寧に返事をする。三人、亜美に見守られながら、家を離れた。
 すぐに飛鳥が翼の隣に並び、陽奈は一歩後ろを歩く。
 飛鳥の肩までの長さの髪が、翼の肩の横で明るく元気よく揺れていた。
 「飛鳥と三人で登校なんて、久しぶりだね」
 「そうですね。姉さんたちが小学校の時以来かもです」
 「小学校は中学と反対側だし、高校に入ってからは、わたしたちはバスか自転車だからね」
 「それもあるけど、それだけじゃないです。姉さん、冷たくなったから」
 飛鳥はそう言いながら、少しためらいがちに、黙って歩く翼に手を伸ばしてきた。おずおずとそっと、翼の手をつかむ。
 翼は一瞬、微かに手を揺らしたが、その手を振りほどいたりはしなかった。
 冬なのに暖かい、妹の小さな手。
 飛鳥がもっと強引に手を取ってくるなら、翼は反射的に振り払ったかもしれない。だが飛鳥の手は、拒絶されることを恐れているかのように震えている。普段は大人っぽく振る舞っているくせに、甘えようとする寸前はいつも、拒絶されるのを、姉に嫌われるのを怖がるような妹の態度。
 「……飛鳥ちゃん、歩きにくい」
 口ではどう言っても、翼は逃げない。飛鳥は拒否されないと知ると、すぐに嬉しそうに、ぎゅっと翼の手を握り締めてきた。口調が少し、甘えるようなわがままなものになる。
 「バス停までくらい、いいでしょう? 小学校の時は、ずっとこうやって連れて行ってくれてたもの」
 「懐かしいね。前はいつもだったよね」
 「あ、陽奈さんも」
 飛鳥は明るく振り返って、とても幼いしぐさで、もう一方の手を陽奈の方に伸ばす。陽奈は笑って首を横に振った。
 「さすがに三人は広がりすぎだから、残念だけど、わたしはいいよ」
 「前は気にしなかったのに」
 「ん、少しは大人になったってことかな?」
 陽奈の言葉に飛鳥はちょっとつまらなそうな顔をしたが、無理強いはしなかった。そのかわりではないだろうが、すぐに表情を明るく戻して、さらに翼の方に、腕と腕をくっつけんばかりに身体を寄せる。翼は振り払う気も起きずに、結局、微笑むだけで妹を受け入れた。
 翼はそんな妹の飛鳥の、反抗期というものを知らない。話を聞く限りだと、あの日より前の飛鳥は、翼の記憶の中の弟の飛鳥と同じような反抗期状態だったようで、陽奈たちに言わせればこの差はかなり激しいらしい。「姉が突然病気になってしまった反動であり、翼が甘えさせるから昔のように素直な面が前に出てきている」というようなことを陽奈は冷静に分析して教えてくれたが、翼は「妹の飛鳥はこういうものだ」という感覚を最初から刷り込まれたから、反抗期の妹の飛鳥というのがいまいち想像できない。
 その結果どうしても甘くなってしまい、それが飛鳥をますます甘えさせる方向に働いているとわかっていても、どうしようもない。しかも飛鳥は甘え方がかなり巧みで、翼が本気で嫌がればしゅんとして素直に落ち込むなど、翼の罪悪感を見事に刺激してくれる。たまに演技なんじゃないかと思わなくもないが、今の翼にとって飛鳥は勝てない相手だった。
 「飛鳥って、スキンシップ好きだよね。あ、でも、相手が翼だからかな?」
 「このくらい、普通です。してくれなかった姉さんが冷たいんです」
 「翼は、女同士でベタベタって、あんまり好きじゃなかったからね」
 「でも姉妹なのに」
 飛鳥は少し拗ねたように、姉を見上げる。翼は本気で嫌なわけではないから逆らわないが、少し冷たい意見を口に出した。
 「女って多いよね、こういうの。男同士でやったら変な目で見られるのに」
 「そう? かっこいい人なら、わたし、いいと思うわ」
 「そうだよね、素敵な人同士なら似合うよね」
 「ちょっと危ない香りとかすると、どきどきしちゃいますよね」
 「あんまり、実際は見ないけどね。男子も気にしないでやればいいのにね」
 「でも、うちの学校の男子がやると、そういうの似合いそうな子いないし、気持ち悪いかもです。高校だとどうです?」
 「ん、うちも、ちょっと厳しいかな? もてる人は、もう彼女いたりするし。男同士って、男子校なら多いのかな?」
 「いやな感じで、多そうですよね」
 「あは、飛鳥、さっきからひどいこと言ってるね?」
 翼が口を挟めないうちに、話題が何やらよからぬ方向に流れていく。翼も文也たちと「女子高なら多いのかな?」というような話をしたことがあるから非難はしないが、飛鳥と陽奈との間でのその会話は、少しため息をつきたくなる。
 「だって、変な男子だと、きれいじゃないです」
 翼を握る手にも力をいれて、しっかりと飛鳥は力説する。陽奈は楽しげに笑い、翼に話題をふってきた。
 「男子って、損なんだね、手もつなげないなんて」
 「男と手をつないでも嬉しくないよ」
 男が、という主語を抜いたその翼の発言に、陽奈はちょっと複雑な笑顔になり、飛鳥はなぜか嬉しそうに翼を見やった。
 「うんうん、姉さんにはまだ早いわ。姉さんには、ぜったい、すごく素敵な人以外だめよ」
 だめよと言われても、もともと男なんて作るつもりはない。翼は言われっぱなしは嬉しくないから、話をそらす意味もあって反撃にでた。
 「飛鳥ちゃんはどうなの?」
 「わたしも、まだ早いもん」
 急に子供っぽい口調になって、小さい胸を無駄に張る飛鳥。どことなく文月の悪影響が感じられるのは翼の気のせいか。陽奈はやんわりと微笑む。
 「飛鳥はまだ子供だからね」
 「陽奈さんだって、いつもまだ興味ないって言ってます」
 「ん、わたしも子供なのかな?」
 「そんなことないです。陽奈さん、すごく大人です」
 「あは、ありがと」
 飛鳥は何を思ったのか、急に少し顔を赤らめると、「わたし、姉さんや陽奈さんみたいになりたい」と翼を握る手に力をこめた。
 陽奈は照れもせずに、もう一度ありがとうと微笑んだが、翼はかなり複雑な思いを抱かされる。飛鳥の言うそれは、今の翼を指しているのか、元のツバサを指しているのか。
 「でも、翼みたいになりたいなら、まずは甘えん坊を治さないとね?」
 「今はいいんです。姉さんが優しくしてくれるから」
 陽奈のからかいの言葉に、飛鳥は明るい笑顔でぎゅっと、翼の腕を抱き込む。翼にとって、無視できない笑顔。翼の心の琴線に直接響いてくる、まっすぐな笑顔。
 「すっかり仲良し姉妹だね」
 陽奈が後ろでくすくす笑う。
 「……飛鳥ちゃんには救われるよ」
 翼がそっと本音を言うと、飛鳥はとても嬉しそうに姉を見上げた。
 「ほんと?」
 「嘘はつかないよ」
 飛鳥の笑顔がいっそう明るくなる。翼も微笑んで、そのままちらりと、後ろの陽奈を見る。陽奈はにこっと、あたたかい笑みを返してくれた。
 すぐに最寄のバス停に到着する。飛鳥は徒歩だからここで別れるのだが、バスが来るぎりぎりまで粘っていた。心配そうな顔で姉を見送る妹に、翼は優しく「飛鳥ちゃんも勉強しっかりね」などと当り障りのないことを言って、陽奈とバスに乗り込んだ。
 止まり止り進むため、十分ほどかかるバス。事情が事情のため、保健室の先生に話を通すことになっているため、通常の登校よりも三十分は早い時間だ。バスに同じ学校の生徒の姿はなく、あまり混雑もしていない。
 「文月、着いてるかな?」
 普通の声で会話をすると目立ちそうな状況だからか、翼と並んで立った陽奈の声は小さかった。背が同じくらいだから身体を近づけると内緒話はしやすいが、この体勢はかなり親密な距離だ。至近距離からの陽奈の声に少しドキッとしつつ、翼は表面上は自分のペースを維持した。
 「さあ、どうだろう」
 文月の家から高校まで、歩いて数分。翼が着替えている間に電話で叩き起こされたとしたら、準備に使える時間はせいぜい十五分くらいだ。翼の知る文也なら余裕で着いてパンでもくわえていそうだが、女の子である文月だとどうなのか、翼には判断がつかない。
 「んと、翼くん。言おうかどうか、迷ってたんだけど……」
 「うん?」
 「んっと、言いづらいんだけど、学校でね、翼くんのこと、噂になってて」
 「ああ、あるだろうね」
 わけもわからぬ原因で、いきなり入院して精神科に厄介になっていたくらいなのだから、どんな噂が流れていても不思議はない。他人の反応についてはすっかり開き直っている翼は、興味がなさそうに先を促した。
 「記憶がなくなってるのはいいんだけど、その、翼くん、男の人近づくの、今だめだよね」
 「別に普通に話すくらいならもう問題ないよ」
 「でも、まだ気持ち悪くなるんだよね?」
 「少しだけね」
 男の性欲の対象としての自分を意識してしまうからだと、翼はこの件の理由をなんとなく推測していた。自分が女をそういう目で見ていたということの裏返し。相手が実際に自分をどう見るのかとは無関係に、自分がそんな立場であることを無意識に強く感じさせられて、不快感が強く表に現われる。あまり嬉しくない症状だった。
 「この間、家庭訪問で、そのこと尾道先生に話したでしょ? それで先生がそのこと、みんなに伝えたみたいで、それでね」
 陽奈は固い口調で、静かに続けた。
 「落ち着いて聞いてね。翼が男の人に乱暴されたって、噂があるの」
 そのショックで、記憶をなくして入院したという噂。陽奈の言葉に、翼はやはり興味がなさそうに応じた。かなり他人事の口調だった。
 「医者もそう考えたらしいから。他人がそう思うのも不思議じゃないね」
 「……冷静、だね?」
 「取り乱して慌てた方がいい? その方が可愛げはあるんだろうけど」
 「ん、翼も、あんまり可愛げのあるタイプじゃなかったよ」
 自分で言って一つ頷いて、陽奈はほっとしたように笑顔を見せる。
 「そうだよね、前からそうだったよね。でも、どうする? 嫌だよね?」
 「勝手に言わせておけばいい。むしろ都合がいいかな。同情票がもらえるし、みんな下手に近寄ってこない」
 同情票という言葉に、陽奈は二度瞬きをして、笑みを浮かべる。
 「翼らしいね。でも、一部の子たちは、同情とは正反対の目で見るよ。男子も、変に言い寄ってくる子、いるかも」
 「いそうだね。馬鹿な連中が」
 口調はさらりとしているが、翼の視線には微かに侮蔑の色が混じる。だがすぐにそれは消えて、翼は陽奈に、普段の落ち着いた表情を見せた。
 「大丈夫。隙は見せないように気をつけるし、適当にあしらうよ」
 「わたしも、できるだけ一緒にいるね」
 「無理はしなくていいから」
 「どうしてすぐそういうこと言うの? 怒るから」
 まっすぐに、陽奈は翼を睨む。真剣だが翼には可愛く見えてしまう視線で、翼はどうも陽奈のこの表情に弱い。わかってるよ、と微苦笑を浮かべ、さらりと続ける。
 「でもほっといても文月がなんとかするんじゃないかな。わたしたちは文月の暴走を止めることになるかもね」
 「あは。ありそうで怖いね」
 陽奈は笑ってから、急にぴたりとそれを引っ込めた。
 「…………」
 無言で、陽奈は翼を見つめる。翼はそんな陽奈に気付いたが、自分から話題をふることはしなかった。いや、できなかった、というべきだろうか。こういう時に陽奈が自分をどう思っているか、誰に言われずともわかってしまうからだ。
 今の翼が、自分から「わたし」という一人称を使うことは少ない。人前での演技でしかないが、照れもせずにあっさりと言ってのける翼は、陽奈には元のツバサと重なって見えるらしい。今の男っぽい言葉遣いにも慣れてきているせいか、半月ほど前から特にその傾向が顕著だった。
 結局、プラス方向に一番順応性が高かったのは飛鳥だったと言える。翼が「妹みたいな女の子」として飛鳥を甘く扱ったせいもあるのだろうが、元のツバサと今の翼、根っこは同じだと感じているのか、飛鳥は今の翼を元のツバサと同一の存在としてそのまま受け入れた。姉は姉であって、根本的な部分では何もかわっていないという認識。もしかしたら現実逃避なのかもしれないが、むしろ前より優しくなった姉を望ましいと思っている部分もあるようで、姉の身体の心配をしつつも、現状を前向きに受け止めていた。
 文月の順応は、飛鳥とは正反対の方向と言える。今の翼を元のツバサとは別のものとして扱い、新しい友人という位置に翼を据えて、遠慮しない態度で接してくる。それでいながら元のツバサを引き合いに出すことが一番多いのも彼女だから、酷評すると、今の翼を元のツバサのかわりにしようとしているという面もあるのだろうか。だとしても、翼の現状を受け入れて翼にも遠慮をさせない態度だから、翼も文月には自然でいられた。翼も翼で、文月たちに文也たちを重ねて、かわりにしようとしている部分があるという自覚があるから、文月の気持ちもわからなくもなかった。
 しかし陽奈。
 彼女だけが、なまじ深く考えてしまうせいか、今は中途半端だった。陽奈に対する翼の態度にもその原因はあった。翼はどうしても陽奈を異性である女の子として見てしまい、飛鳥はそれを逆手にとって甘えている節があるが、陽奈は自分に甘い翼に距離を感じるらしい。それでいながら、元のツバサを強く思い起こさせる今の翼。陽奈は理性的に今の翼を受け入れようとしているようだが、理性的過ぎるゆえに、元のツバサと同一だと思うこともできず、まったく別だと踏ん切りをつけることもできない。だから時折、態度が揺れる。
 翼のことを考えて親身に接してくれる陽奈に、翼も優しくしたいが、こういう時は何も言えなくなる。翼は元のツバサのふりはできても、完全に同じには振る舞えないし、そのつもりもない。そんな翼が、今の陽奈に何を言ってあげられるのか。
 少し気まずい沈黙を過ごすうちに、やがてバスは学校前に到着した。
 「おっはよ〜ん」
 二人がバスからおり立ったとたんに、明るい文月の声。翼は文月がパンを片手に持っているのを見て、思わず笑ってしまった。どこまでも、翼の予測を裏切らない、裏切る時もいい意味で裏切ってくれることが多い文月だった。
 陽奈も表情を緩ませながら、「ん?」という顔で翼を見る。翼はなんでもないと首と横に振って、歩み寄ってきた文月に、おはようと朝の挨拶を返した。
 「ごめんね〜。寝坊しちったーい」
 口をもぐもぐさせながら、文月があっけらかんと笑う。陽奈はくすりと笑った。
 「珍しいね、文月が寝坊なんて。いつもは早寝早起きなのに」
 先ほどの気まずい沈黙など、なかったかのような陽奈の声。余計な気を遣わせているのかもしれないとも思うが、翼としては気が楽になる陽奈の態度だ。翼はちらりと陽奈を見て、内心少し気を抜く。
 「にーさんが起してくれなかったのがいけないんだもん。ちゃんと起してって言っておいたのに」
 「…………」
 やっぱり文月はブラコンだ、とは、陽奈も翼も口には出さない。二人とも少し笑って、軽くからかいの言葉を声にのせた。
 「そろそろ文月も一人で起きれるようにならないとね?」
 「文月のお兄さんはたいへんそうだね」
 「にーさんはにーさんだからいいの!」
 あまり意味の通らないようなことを、威張って主張する文月。が、文月は膨れっ面になりかけたが、すぐにその顔もどこか楽しげになった。
 「つばさ、ちゃんと言葉遣い気をつけてるんだね」
 「まあね」
 これまでならそもそも「わたし」などという言葉は使わなかったし、「文月のお兄さんはたいへんそうだな」とか、「まあな」と答えていただろう。これでも元のツバサとはだいぶ違う話し方らしいが、感情を抑えて多少口調を柔らかくし語尾を変化させるだけでも、見た目や声との客観的な違和感はぐっと減る。
 文月はまだ口をもぐもぐさせながらも、とりあえずは満足したように頷いて、先導するように校門に向かって歩き出した。
 「でもつばさ、こーとか〜。つまんない」
 「……文月まで言う」
 文月は陽奈と同じジャケットを羽織っているが、ボタンをはめていないため、その性格とあいまって陽気な明るい雰囲気を演出している。ショートの長さの髪もさわやかで健康的な印象だ。が、長身の文月はスタイルもいいから大人びてもいいはずだが、その表情のせいか、翼から見るとどことなくガキっぽい。
 「あは。陽奈にも言われたー?」
 「飛鳥が言ってたんだよね。でも翼くんはコートもちゃんと似合ってるよ」
 「まーそーだけどねー。中、ちゃんと着れてる?」
 文月はそう言うと、翼のコートの胸元を引っ張る。そしてすぐに頬を膨らませた。
 「やっぱりスカーフだし。ぷんぷん」
 翼は無抵抗でされるがままだ。陽奈は横で笑っている。
 「でも、うん、まあきれいに着れてるねっ。わたしが男なら惚れちゃうよっ」
 翼は思わず記憶の中の男の友人、松本文也に言い寄られるシーンを想像して、思いっきり嫌そうな顔をした。
 「それは本気でやめてほしい」
 「む、ナンデよー」
 「翼くん、今男の子に興味ないから」
 「ああ、そういう意味ね。まだ今のつばさに男は早いもんね。翼が戻ってきた時どうなるかわかんないし。制服、一人で着たの? やっぱり陽奈と飛鳥チンに手伝ってもらった?」
 「わたしも飛鳥も手伝ってないよ。ちゃんと翼くん、自分で着たんだよ」
 「へー、でも、足はタイツなんだね。ま、これなら中が見えても多少は平気かな? つばさは前と違ってけっこう隙あるから、気をつけないとだめだかんねっ」
 「わかってるよ」
 この下着が透けにくいタイプのスクールタイツは、防寒目的もあるが、スカートを気にしすぎるのは面倒だからという理由もある。これが寒い季節でなければ、翼はショートパンツやスパッツをはくことを考慮しただろう。見られるだけなら別にかまわないが、それで男が喜ぶかと思うと吐き気がする翼である。
 「でも、翼くんも姿勢がいいから、そんなには気にならないよ」
 「わたしは気になるの! 下手に見えると男子気にするんだから、気をつけないとだめだからねっ!」
 「はいはい」
 ぞんざいに頷いたが、これはむしろ翼の方が文月に言い聞かせたい台詞だった。白いニーソックスをはいている文月は、相変わらずスカートの丈が少し短い。落ち着きがない文月だから、たまに見えるんじゃないかと翼の方が気にしてしまう。
 実はしっかりとスパッツをはいているのかもしれないが、今の翼は自分からはあまりその手の話題はしたくはないし、まさかめくって確かめるわけにもいかない。
 「あ、そだ、陽奈、あの話はもうしたの?」
 「それ、本人の前で言えば、話してない時は台無しだよ?」
 笑って答えているから、陽奈の声には非難の色はない。文月はその言葉で察したようで、「その時はわたしが話すもん」とあっけらかんと笑った。
 「つばさ、変な噂なんて気にしなくていいからねっ。この文月様がちゃんと守ってあげる!」
 「……ほどほどにね」
 やっぱり文月は気をつけないと暴走しそうだな、と思いながら、翼は文月に応じる。この明るさは有利にも働いてくれるだろうが、いらない厄介事も招く可能性もある。そう思う翼をよそに、陽奈と文月はずっと笑顔だった。
 口数の多い文月に受け答えする形で話をしながら、三人校舎に入った。翼は靴箱の自分の場所に少し迷ったが、そのあたりは同じクラスの文月に聞いて簡単に解決する。学年によって色が違う上履きに履き替えて、勝手知ったる校内を歩き、一度教室に荷物を置きに行く。
 翼と文月は二年C組で、陽奈はD組だ。陽奈と一度別れて無人の教室に入り、文月に自分の席を教えてもらって、翼はそこに鞄を置く。と、文月も隣の席に鞄を放っていた。
 「……文月が隣?」
 「何よぉ、文句アル〜?」
 「いや別にないけど」
 真ん中の列の一番後ろが翼の席で、その左隣が文月の席だった。翼はコートを脱ぐと、出席番号順に用意されている後ろの棚にコートを放り込みに行く。すぐに陽奈がやってきて、三人一緒に教室を出る。
 職員室前に着くと、ドアを開ける前に、翼はちらりと二人を振り返った。
 「どこまでついてくるつもり?」
 「ずっと!」
 「うん」
 文月が平均より豊かな胸を張り、その横で陽奈がコクと頷く。翼は苦笑するだけで咎めずに、そのまま職員室のドアを開いた。
 職員室には、すでに何人かの教師がやってきていた。小太りだがお人よしで知られている担任の尾道宗隆は、翼を見てすぐに立ち上がった。
 「おお、久我山さん、入ってきてください」
 すでに家庭訪問を受けて一度会っているが、担任教師は翼の記憶の中の担任と同じだった。嫌味があったり、男子と女子で態度を変えるような教師だったら翼の視線は限りなく冷たくなっただろうが、彼はその点ではまともだった。むしろお人よしすぎて一部の生徒にはなめられてるくらいで、その分頼りないが、悪い教師ではない。翼は落ち着き払って「失礼します」と声をかけて、中に入った。
 「おじゃましまーす」
 「失礼します」
 すぐに文月が軽く、陽奈は控えめに、中に続く。担任教師は後続の二人に怪訝な顔をしたが、すぐに事情を察したらしい。彼も咎めずに、笑顔で三人を出迎える。
 「おはようございます。よくきましたね。もう身体の方は大丈夫ですか?」
 「ええ、おはようございます」
 当り障りのない挨拶を交わしてから、担任教師は簡単に事務的な連絡をする。それが一通り終わると、彼はちらりと文月を見て、教室の席順の話を持ち出した。「すでに聞いているかもしれませんが」と前置きして彼が言うには、翼の周りの席は元のツバサと親しかった女子生徒で固めてあるらしい。文月が教師に提案して実現したようで、「いいお友達ですね」などと担任教師は朗らかに笑う。
 翼が文月を見ると、文月は照れたように、ぷいと視線をそらせた。陽奈は横でくすくす笑っていた。
 そんな話の後、担任教師は翼を保健室に連れて行く。
 柏木麻美という名前の養護教諭の女性も、翼の記憶の中の彼女と同じだった。彼女は臨床心理士の資格も持っていて、この学校には他にカウンセラーの先生がちゃんといるのだが、心と身体両方の悩みを見てもらえる先生として、特に女子生徒に評価が高い。必ずしも美人とは言えないが母性的なタイプで、年に一度は部活動の生徒を集めて簡単な応急処置の仕方を教えたりするなど、なかなかマメな女性だ。この日も、わざわざ一人の生徒のために早めに出勤してきているのもその表れだろう。お茶を飲みながら待っていた麻美は、四人が中に入るとにこやかに立ち上がった。
 「おはよう、久我山さん。――それと予定外の、バスケ部のお二人さん」
 「おはよーございまーす」
 文月は悪びれもせずに挨拶し、翼も陽奈も、文月よりは丁寧にそれに続く。担任教師はすでに朝の挨拶を済ませていたようで、「では、柏木先生、お願いしますね」と去っていった。ドアが閉まると、文月は肩の力を抜いて、脇の長椅子の方にずんずん歩く。
 「麻美せんせー、わたしにもお茶くださいー」
 「部外者は黙ってなさい」
 麻美は笑いながらそう言って、翼に椅子を勧めた。陽奈は文月の傍に座って、大人しくしなきゃだめだよ、と友人を嗜める。文月は笑顔でぶーたれていた。
 「さて、久我山さん、さっそくだけど、一通りのことは知ってるわ。あなたには繰り返しになるかもしれないけど、いくつか訊いてもいいかしら?」
 「どうぞ」
 「まず、わたしのことはどのくらい覚えてる?」
 「そんなに多くはないです。保健の柏木麻美先生。二十代後半で独身、ここは確か三年目で、大学時代から付き合っている人がいると聞いたこともあります」
 「……どうして、そう余計なことを知ってるのかしら?」
 じろりと、麻美は後ろの文月を睨む。文月は両手を上げて首をぶんぶん振った。
 「わたしたち、教えてないですよっ。それはヌレギヌですっ」
 陽奈も少しだけ笑ったが、彼女はまじめに口を挟む。
 「けっこう覚えてることもあるみたいなんです」
 「せんせーはいい方ですよっ。わたしのことも陽奈のことも、妹の飛鳥チンのことも、つばさは男だと思ってたんですからっ」
 「松本さんたちのことまで? 妹さんと本人のことは聞いてたけど。そう、自分を男だと思っているというのも、まだそうなのかしら?」
 「身体は女ですね」
 言葉少なに、翼は応じる。麻美はじっと翼を見たが、ふむと頷いて流した。
 「部活で怪我した子を、何度か連れてきたことは覚えてる?」
 「……男子生徒として、男子部員を連れてきたことなら」
 「……そうなるわけね」
 少し空気が重くなるが、麻美はここでもさらりとそれを流した。さらに日常的なことについてあれこれ尋ねてから、麻美は腕組みをする。
 「まあ、いろいろ気になるところはあるけど、確かに、基本的な部分は問題はないのね。尾道先生もバックアップしてくださると思うし、幸い同じクラスにお節介なお友達もいるようだし、まずは上手くやれるといいわね、というところかしら」
 せんせーお節介ってダレのことですか、と、文月が後ろでぼやき、陽奈がその横で笑っている。翼も思わず少しだけ微笑を見せた。
 「授業や人間関係、なんでも悩んだら、いつでも来てね。で、問題は身体の方かしら。普段から不快感がとあるけど……これはまだあるの?」
 手元の資料を覗き込みながら、麻美が言う。過剰に反応したのは文月と陽奈だった。
 「え、つばさそうなの?」
 「翼くん、聞いてない」
 翼は一瞬だけ瞳を揺らしたが、それ以上は態度には出さない。
 「それはもう大丈夫です。たまに吐き気があるのはそうですけど」
 「……なら、少しはよくなってるのね」
 「ええ、だと思います」
 静かな落ち着いた口調で、翼は養護教諭に応じる。麻美はじっと翼の顔を見て、後ろで怖い顔をしている文月と陽奈を見て、苦笑いを浮かべた。
 「あなたたち、どーもじゃまね。よく考えたら、こういうプライベートな話に付き添わせるの、あまりよくないわね。久我山さんが何も言わないから気にしなかったけど」
 「つばさが気にしないなら、問題ないと思いますっ」
 「うん、わたしたちにも最後までいせてください」
 「でも、ちょっとやりづらいのよね。久我山さんはどう?」
 「別に、どちらでも。先生がやりやすい方でどうぞ」
 「む、つばさ! わたし見張るんだからね!」
 「翼くん、いてもいいよね?」
 翼は肩をすくめて「先生に任せます」とだけ、短く答える。麻美は鋭く笑って、立ち上がった。
 「というわけで、じゃまだからでてなさいっ!」
 パンパン、と手を叩いて、二人を追い出しにかかる。文月と陽奈は嫌がったり不満顔になったり心配そうな顔をしたりしたが、結局は逆らわなかった。「久我山さんのことを思うなら我慢しなさい」という一言が決定打だった。二人がしぶしぶ出て行くと、麻美はしっかりと鍵をかけてから、翼に向き直った。
 「で、先生には嘘をつくつもりがない、ということでいいのかしら?」
 大人びた養護教諭としての顔で、麻美はまっすぐに翼を見つめる。
 翼は少し冷たくも見える表情を崩さずに、やんわりと答えた。
 「嘘はついてませんよ。普段から不快感があっても、もうそれは慣れましたから」
 「……そういうことを言うわけね」
 麻美は少し考えを改めるように表情を引き締めると、まずはじっくりいこうということなのか、翼の分のお茶を入れてくれた。



 「どんな話したのっ?」
 「随分、長かったね?」
 翼が保健室をでると、文月と陽奈は廊下で待ち構えていた。翼は苦笑してドアを閉めて、そのまま歩き出す。
 「色々ね。急ごう。せっかく早く来たのに遅刻になる」
 「む、ごまかそうとしてない?」
 「別に身体の調子とかこまごまとした話だよ。後、この間の件とかもね」
 「…………」
 「…………」
 先月下旬の数日間、翼は家にこもって、二人とも会おうとはしなかった。まだ三人の記憶に新しい出来事。
 二人を黙らせることに成功すると、翼は足を速めた。
 「あ、待ちなさいつばさっ」
 「待って!」
 翼は軽い笑みを見せた。
 「それより問題があるとしたらこれからだから。よろしく、文月」
 「う、うんっ。モチのロンよっ、この文月様になんでも任せなさいっ」
 「文月で間に合わない時は、いつでも呼んでね」
 「陽奈の出番なんてずっとないよーだ」
 文月が子供っぽく、無駄に偉そうな顔をする。陽奈は「だといいんだけどね」と笑い、翼はそんな陽奈にもさらりと言葉を投げかける。
 「陽奈もその時はよろしく」
 「う、うん」
 陽奈は呼び捨てにされて、二度瞬きをしながら、しっかりと頷いた。
 保健室を離れると、すぐ人の流れにぶつかる。もうすぐチャイムが鳴るこの時間、みなの動きも慌ただしい。翼は口数を減らしたが、陽奈と文月は、励ますようなじゃれあうような言葉をかけ続ける。三人そのまま二年生の教室の階にあがると、C組の前で足を止めた。
 「じゃあ、翼、がんばってね」
 人前なので、翼同様、相手を呼び捨てで呼ぶ陽奈。翼ほど割り切れないのか、その瞳が少しだけ揺れていた。
 「うん、また後でね」
 「つばさのことはわたしにマカセときなさいっ」
 隣のクラスに別れる陽奈に向けて、文月は親指を突き出してみせた。
 「うん、文月、本当に任せたからね」
 笑顔だが真剣に言う陽奈。そんな陽奈を残して、翼と文月は二年C組の教室に入った。
 入るなり、文月は大きな声を出す。
 「みんな、おっはよ〜」
 わざわざ人の注目を集めてくれる文月だ。翼は表情を消して後に続く。
 「松本さん、おはよう」「フヅキちゃん、おはようっ」「く、久我山さんもおはようっ!」「久我山さんおかえりなさいっ」
 翼の姿に教室はざわついたが、すぐに明るい声がふってくる。中学校からの顔見知りもいるから、こういう状況で翼を気にしている生徒も多いらしいことは、翼も聞き知っていた。翼は文月に連れられて歩きながら、首をちょっとだけ頷くように動かして、傍にいた人だけにおはようと短く言葉を返す。
 「つばさ、席こっちね〜」
 「うん」
 真ん中の列の最後尾の席に向かい、翼は文月の右隣に腰をおろす。文月の前は男子の席のようだが、他の三つ席は女子で固められている。その三人は翼におずおずと身体を向けてきて、その女子生徒たちに文月が明るく言い放った。
 「おはよ〜。見ての通り、つばさが復帰したよ〜。みんな、じじょーは話してるとおりだから、仲良くしてねっ」
 「久我山さん、おかえりなさい」
 「元気そうで、安心したよ〜」
 「うん……、よかった……」
 西野美穂、中里翔子、楠木由香という名前のこの三人のことは、翼は事前に文月たちから聞いていた。元のツバサとは、文月を通じての友達という面が強いが、クラスメートの中では仲がいい方だったらしい。翼の記憶では、彼女たちも男同士のクラスメートだったが、名前を知っているという程度だったから、元のツバサの方が男だった翼より社交的だったということなのだろう。が、性別や下の名前を筆頭に色々違うところも多いが、元のツバサとも関係は近すぎないから、文月や陽奈ほど重い付き合いではない。もともと今の翼と元のツバサは性格はかなり似ているようだし、翼は自分なりに率直に冷静に応じた。
 「心配かけてごめん。改めて、よろしく」
 三人は一瞬だけ顔を見合わせたが、すぐにほっとしたように笑みを浮かべた。文月も横で少し安心したように笑う。
 「つばさはちょっと変になってるから、なんかあったらわたしに言ってね〜」
 文月の不穏当な物言いに、みな反応に困ったようだが、笑顔を絶やさなかった。
 すぐに他の生徒も近づいてきたが、写真を見ているとは言え、もう誰が誰だか確認しなければ翼には判断が難しい。みなも翼の記憶の件と陽奈が話していた噂のことを知っているようで、ぎこちなく言葉が飛んで来る。
 「髪切ったんだね?」
 「うん」
 翼も当り障りなく、口数少なく応じる。男子も気にしている者もいるようだが、彼らは遠巻きにちらちら視線を投げてくるだけで、声をかけては来ない。
 「もったいないなー、きれいだったのに」
 「でも、今の髪型も可愛いよね……」
 「うん、大人びて見えるね」
 「つばさってば、勝手に切っちゃったんだよ〜。わたし許可してないのにっ」
 「文月の許可なんて待ってたら何もできないから」
 笑顔でプンプンする器用な文月に、翼は軽く言い返す。以前どおりの二人のやりとりと感じたのかどうか、周りの面々は今度は少し自然に笑った。
 「久我山さん、もう学校平気なの?」
 「一応ね」
 「これ以上休むと勉強遅れて大変なんだってさ。つばさってまじめだよね〜」
 簡単に返事だけをする翼にかわって、文月がそう応じたのは、狙ってやったのなら彼女の一定のセンスを表しているのかもしれない。単に何も考えていないだけかもしれないが、学生にとって、大きな共通の話題の一つ。「来週はもう期末試験だしね」などと話題が出て、日常的な空気が漂う。「フヅキちゃんは、人の心配してる場合じゃないんじゃない〜?」という冗談めかした中里翔子の声も飛んで、文月が子供っぽく膨れる。翼にとって、懐かしくも悪くはない空気だった。
 すぐにチャイムが鳴った。
 みな席に戻り、担任教師が入ってくる。担任の尾道宗隆は挨拶をして、簡単に空席を探して欠席者を確認すると、顔に似合わない大きな声で、にこにこと言葉を紡いだ。
 「みなさん、もうお気付きと思いますが、久我山さんが今日からまた学校に来てくれました」
 何人かが、その声につられるように翼を見るが、翼は無表情を崩さない。担任はそのまま、「すでに話しているように」と前置きして、翼が多少記憶をなくしていることを喚起する。
 「特に男子のみなさんは、先週説明したような事情があるので、注意してください。以前とまったく同じようにということは難しいかもしれませんが、みなさんなりに前向きにいきましょう」
 はーい、という明るい声が飛んだりはしないが、みな表面上は神妙だった。教師はゆっくりと彼らを見回して、翼で視線を止めた。
 「では、久我山さん、簡単にみなさんに何か一言、いただけますか?」
 「つばさ、しっかりねっ」
 名指しされた翼に、横から文月が声をかけてくる。翼は面倒くさいなと思いつつ、微かに頷いて立ち上がった。クラス中の視線を感じながら、数秒考えて、多少芝居がかった言葉を口にする。
 「本当は久しぶりなんだろうけど、みんなのこともほとんどわかりません」
 まずはきっぱりと、他人を牽制する言葉を投げる翼。誰かが息を呑むような声がした。
 みなのそんな反応が、開き直っている今の翼には、皮肉っぽい感覚で少し可笑しい。それがある種の代償行為だとしても、現実逃避に近い感覚だとしても、状況を冷笑できるだけの余裕を、今の翼は持っている。
 「心配してくれた人がいたら、ありがとう。でも、こんな余計なことで時間を潰してごめん。これから先、耳障りなこともあるかもしれないけど、できるだけ迷惑はかけないようにしたいと思ってます。改めて、よろしく」
 落ち着いた口調でゆっくりと、必要なことだけを言うと、翼は頭を下げたりはせずに、静かに腰をおろした。
 教室は静まり返っていた。
 どう反応していいのかわからないというような、困惑を表した沈黙。ただ文月だけが、「なんでもっと愛想よくしないのよー」とぼそっと呟き、翼はあやうく失笑をもらしてしまうところだった。
 沈黙は急激に破られた。
 「おかえり、久我山さん! またよろしくな!」
 男子の一人が少し大きな声。それにつられるように連鎖反応が起こって、おかえりやらよろしくやら、「迷惑なんて気にしないでいいよ!」などという言葉も飛び交う。翼は同調しない生徒もいることをしっかり把握しつつも、みなにほんの少しだけ微笑んで見せた。
 担任教師はクラスの雰囲気に嬉しそうに頷くと、声が一通りやんだところで、連絡事項を伝える。手短に話して、今日も一日前向きにいきましょうと笑って、去っていった。
 またすぐに翼の周りが騒がしくなる。さすがに本人の先ほどの「みながわからない」発言があるため話題は極めて微妙だったが、すぐに文月が一人一人改めて名前を紹介していくことで、まわりは無駄に賑わった。
 女同士ならではの話題も混じって困ることもあったが、翼の問題に深く踏み込んでこないみなの態度は、翼もさすがに少しほっとした。彼氏がいるという西野美穂の紹介の時などは、「今どこまでいってるの〜?」などと話は脱線したりして、翼を話題の中心とするよりは、翼を友人の一人として扱ってくれる。
 午前中の休み時間は、そうやってターゲットが順々にかわっていく、少し時期はずれの人物紹介になった。みながみな冗談混じりでお互いの人物評をするから何を信じていいのか微妙だが、そんなやりとりの中に各人の性格が現われていたとも言える。性別が違っているだけで記憶にある人物も多く、その分余計に複雑だとも言えるが、翼はそれなりに相手を知ることができた。
 中には、遠くから翼を見てこそこそと嫌な笑いを浮かべる者もいたようだが、話しかけてはこないから、翼も見なかったことにしてすませる。他にも、もともと親しくもないのに面白半分で翼に接触してきた生徒もいたが、翼はそういう善意が感じられない相手には、壁を作ってそっけなくしてすませた。相手は本当に記憶がないのかと鼻白んだが、かえって、そんな翼の態度も他の面々にはプラスに働いたようだった。記憶がないと言っても、元のツバサとそうかわってはいないのだと思われたらしい。
 二時間目以降の休み時間や昼休みなどには、一年の時の同級生や部活の仲間や先輩後輩などもやってきて、さすがに少し賑やかになりすぎたが、毎時間様子を見に来てくれた陽奈がしっかりとフォローしてくれたから、翼は冷静で落ち着いた態度を崩さずにすんだ。嘘はつかず、言葉遣い以外は多く自分を偽らず、口数だけは少ないが、率直に振る舞う。
 翼が知らない過去の話題に触れて空気が強張った時もあったが、みなも気を遣ってくれたようだし、文月も明るく場を盛り上げてくれて、和やかな雰囲気で時間が流れる。
 翼の女としての学校生活は、波乱の少ない、穏やかなスタートとなった。






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初稿 2004/10/28

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