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 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第六話 「やれるだけのことを」


 友人の部屋のドアを開き、椅子に座っているその少女を見たとたん、松本文月の頭の中から、頭を占領していた悩みが一気に吹き飛んだ。文月は彼女に言いたいことが山ほどあった。改めて友達になってほしいとも、励ましたいとも、謝りたいとも、さらに怒りたいとも、一緒に泣きたいとも、励ましてほしいとも思っていた。それでいながら、まず何を言えばいいのか、文月は結局その日その時になっても、まだ自分でもよくわかっていなかった。
 大切な友人である同い年の少女、久我山翼に、どういう顔で、どう接すればいいのか。
 ある日突然、入院してしまった文月の親友の翼。文月のもう一人の親友の蓮見陽奈が、その朝いつも通り翼を迎えに行こうとした時に、翼の妹の飛鳥から電話があったのだという。文月が接した第一報は、その言葉の又聞き。部活の朝練のために早めにやってきた学校で挨拶をして、「翼はどーしたの?」と声をかけた文月に、陽奈の固い声。
 「明け方に吐いて、病院に連れて行かれたって」
 驚く文月に、陽奈は翼の妹から聞いた情報をそのまま告げる。要約すると「母親は一度帰ってきたが、仕事に出かける父親と入れ替わりに病院に戻った。両親は命に別状はないと言っていたが、まだ姉の状態はよくわからない」という内容で、文月も陽奈も落ち着かない一日を過ごすことになった。放課後の部活も、試合も控えている状況で二人とも休まなかったが、レギュラーの翼の突然のこの事態に、みな集中力のまるでない練習になった。
 その日のもう夜と言える時間に、文月と陽奈は事情を聞きに出かけたが、翼の母親はかなり苛立った様子で、逆に最近の翼のことについて根掘り葉掘り尋ねてきた。ここで陽奈と文月は、友人が精神的問題を疑われていることを知らされた。
 自分が男だなどと、わけのわからない妄想を抱いている。記憶に不整合が見られる。
 母親の横で飛鳥が泣き顔を見せて、翼が妹のことすら判別できず、自分で自分を傷つけたことまで話した時には、文月も陽奈も顔を青ざめさせた。
 お見舞いも禁じられたまま、基本的に翼の身体には問題がない、という確定情報をもらったのは三日後。身体には問題がない。だが、身体以外に問題がある。問題は精神の方にあるという確定情報。今は強度の自閉症とでもいうべき状態にある。この先どう転ぶかもわからない。
 また心当たりを問われたが、文月や陽奈にも言えることは少ない。二人は本人に会いたいと主張したが、この時まだ本人がまともに会話できる状況ではなかっただけに、翼の両親は首を縦には振らない。文月と陽奈にとっても、不安だけがかきたてられる状況だった。
 まともに会話できる状態になったと告げられたのは、さらに一週間ほどたってからだ。
 同時にそれは、翼の人格と記憶の問題が、はっきりと浮き彫りにされた瞬間でもあった。
 男の人格と、歪んでいる記憶。本人は比較的冷静だというが、身近な人間たちにとっては、充分問題のある、悪い状態での安定。
 文月はすぐにでも会いたいと思ったが、医者と本人と家族との意向で、それは実現しないままに時は過ぎ去る。だから数日後、友人が退院したという話をもらった時、文月は即座に会いに行くことを主張した。陽奈は慎重だったが、結局彼女も会いたい気持ちを押し殺せずに文月に付き添って、翼が退院した翌日に翼の家に押しかけた。
 結果的にこれは、翼と周囲の人間にとって、マイナスにはならなかったと言える。この日を境に、男の人格のままだが、状況を受け入れた翼。それを前向きに応援しようとする翼の家族と、友人の陽奈。
 だが文月だけが、その日以来、翼と会っていない。
 二重人格を疑われている翼に対して、「翼を返して」と泣き叫んだ文月。明らかに、翼は文月の知る翼ではなかった。どんな翼でも受け入れようと思っていた文月の覚悟を、こなごなに打ち砕いてくれた翼。別人である翼。
 今にして思えば、その日の翼は、文月が翼と出会った頃の翼、中学一年の頃の翼に似ていたとは思う。落ち着いていて、どこか冷たくて、他人に対してそっけない。だから文月は後悔しているが、あの時自分たちを拒絶したのは翼の方だという思いも、消えてはいなかった。
 今でも、あの翼は翼ではないとしか思えない。いくら性格が似ていても、顔や身体や声は同じでも、やはり別人。
 それでも、翼は文月にとって大事な友人。
 だから改めて覚悟を決めたつもりだった。兄や陽奈にも相談したし、前向きにがんばるつもりだった。それでも、この日、会うのが怖かった。別人である翼を受け入れるつもりでも、陽奈と同じように改めて友達になってがんばろうと思っていても、そう思っていても、やはりどういう顔をすればいいのか、文月はわからなかった。
 だが翼の姿を見たとたん、そんな悩みは頭から吹っ飛んだ。
 「なっ、翼!? その髪!」
 その声は悲鳴と言ってよかった。
 背の半ばほどまであったはずの、翼のストレートの髪。うなじを微かに隠す長さで、きれいに切りそろえられて、ばっさりと短くなっていた。
 「うそ、なんで!?」
 椅子に座る翼に詰め寄り、頭をつかむように、髪に手を通すように、文月は翼に触れる。翼は突然の文月の行動を、苦笑して受け入れた。
 「長すぎたからな。陽奈ちゃんたちから聞いてないのか?」
 高域に抜ける澄んだ少女の声には不釣合いな、男っぽい翼の口調。
 文月の翼への立場は、この瞬間に決定されたと言ってもいいのかもしれない。驚愕に次いで文月に湧き上がってきた感情は、怒りと悲しみと決意だった。
 「翼の身体になんてことするのよぉ!」
 この場に陽奈や飛鳥がいたら、激しく非難の声をあげていただろう。翼はいきなり頬を叩かれて、痛いなと思いつつ、目を瞬かせた。
 「信じらんない、あんなにきれいだったのに! あの長さになるまで何年かかると思ってるの!?」
 翼が過去の写真を見た限りだと、十歳くらいまでは男の子のように短かった。以降約七年、常に伸ばし続けたわけではないようだが、それだけの長さ。妹や陽奈にも散々嘆かれていたから、翼はいまさら言われても怯まない。
 そのかわり、ちょっと演技をしてみた。
 「文月、いきなりなぐらないでよ」
 まっすぐに文月を見つめて、少し冷たい視線。呼び捨てにされたからだろうか、文月の顔はえっと、また驚きに変わった。
 「まずは落ち着きなさい。話したいことがあるならちゃんと聞くから」
 「え、え、つ、翼!?」
 「何驚いてるのよ。まさか髪を切ったくらいでわからくなるなんて言うつもり? 冷たい友情ね」
 「そ、そじゃなくて! え、え、翼、もしかして治ったの!? 全部思い出したの!?」
 文月の表情が喜色に染まりかける。
 「…………」
 元のツバサの真似なんかするな、と怒られると思っていた翼は、予想以上の反応に、内心困った。妹や陽奈に与えられた情報から、元の人格のツバサっぽく振る舞ってみただけなのだが、ここまで本気に取られるといまさら演技とは言いづらくなる。
 が、このままこの口調で話し続ければ、すぐにボロを出す自信があった。そこから謝るよりは、ここで謝る方がまだましだろう。翼は言葉遣いを変えた。
 「悪い。治ってない」
 「え、え、え?」
 「ごめん、キミが知ってるツバサじゃない。でも、似てたみたいだな」
 「え、え? に、似てたって!」
 翼が何をやったか理解したのだろう、文月は今にも泣きそうな顔になって翼を睨んだ。翼は再び、今度はさっきとは反対側の頬を叩かれていた。
 「ぃつぅ……」
 「ど、どういうつもりよぉ! なんでそんなことするの!」
 そうぽんぽん殴るなよ、と翼は思ったが、今回は殴られてもしかたがないと言える。翼は甘んじて殴られた頬を、軽く撫でさすった。
 「どこまで通用するか試しただけだよ。事情を知ってる知り合いじゃないと試せないからな」
 「た、試したって! ひ、ひどいよぉ! 最低!」
 もう一発、手が飛んできたが、さすがに翼はその一撃まで受ける気はなかった。辛うじて文月の手首を掴んで文月を制し、ため息混じりに言う。
 「だからおれが悪かったから、まずは落ち着いてくれないかな。文也といいキミといい、感情的になるなら時と場合を選んでからやってくれ」
 「あ、あんたがふざけるから!」
 文月は翼の手を振りほどいて、涙混じりの瞳で翼を睨む。
 「だいたい、翼じゃあるまいし、いつだって冷静でなんていられるわけないでしょ! 何考えてるのよ!」
 「さあな」
 翼は立ち上がり、ドアに向かって動いた。
 「ど、どこいくの! まだ話は終わってない!」
 「乱入してきそうなのが二人もいるからな」とは口に出さず、翼は開けっ放しになっていたドアを閉める。そのままドアにもたれかかり、じっと文月を見やった。
 「で? 話があると言ってきたのはそっちだけど?」
 「む、む〜! わ、わたしは! あんたを翼だと絶対認めないからねっ!」
 陽奈からは事前に「謝って友達になりたいって、文月も言っていたよ」と、翼は聞いていた。なのにいきなりこの言葉。「文也」らしいと言えばらしいが、さすがに予想外な文月の発言に、翼は少しだけ視線を鋭くした。



 翼が文月たちと初めて会ってから、十日ほどが経過している。自分が二重人格と疑われる状況はいまだに翼にとっても嬉しくはないが、どこかで受け入れてしまった翼は、自由な時間を主に情報収集に使っていた。
 翼の記憶とまわりの現実に不一致があるこの状況は、元の人格を取り戻すことにしようとしまいと、どう動くにしても生きていく上で不便だ。翼が忘れていることになっている記憶の収集は、それだけで治療や状況の打開に繋がる望みもある。
 大小様々なことがあったこの数日間、翼は日中は本やテレビやインターネットで情報収集などをして過ごし、夕方から夜にかけて家族との交友に努めた。翼は彼らと一歩距離をとって接したが、まず家族との距離は、なぜか一気に縮まった。普段あまり会話がなかった家族なだけに、長女の記憶の穴埋め作業は、全員にとって適度な話題を提供したらしい。妹の飛鳥も、誰かいると「姉さん」などと呼んで気の強そうな顔をしているくせに、二人きりになると「お姉ちゃん」と甘えてくる。
 「女の子ってずるいよな」と、今は自分も身体だけはその女の子になってしまっている翼は思うが、男であっても、親しい相手の呼称を気分によってかえるというのはあることだ。結局はお互いの性格と関係による、ということなのかもしれない。
 家族との関係が悪くならなかったことについては、これは元のツバサと今の翼の性格の相関性が大きかったらしい。元のツバサは、翼が話を聞いた限り、男女差を除いて性格的にかなり今の翼と似ていたようだ。元のツバサの小学校時代の話など聞くと、翼には完全に自分の話としか思えないようなことが多々あった。もちろん露骨に違う部分も少なくなかったが、両親としてはそんな話題を繰り返すことで、今の翼も自分たちの子供だという認識を強めていたらしい。
 多少皮肉な事実だが、反抗的だった飛鳥が翼に素直になることができたのも、これが大きな要因の一つだった。飛鳥が知る、自分を甘えさせてくれる姉は中学に上がる前の姉で、自分に優しい今の翼はその頃の姉に近いと、飛鳥は受け止めたらしい。もっとも、姉が病気だという不安の反動も大きく、だからこそ不安を打ち消すために今の翼を積極的に受け入れた、という一面も否定できないだろうが。
 週がかわってからは、翼の日課に病院通いが加わった。
 午後から精神科医のカウンセリングにでかけるようになったのだ。が、翼は医者に嘘はつかなかったが、必要以上のことも話さなかった。特に、カウンセリングを行う上で極めて重要になると思われる、妄想扱いされる翼自身の男としての記憶については、ほとんど何も話さなかった。
 本当に自分が二重人格なら、いつか突然元の人格に戻ってしまう可能性は低くないと、翼は思っている。最悪の事態を考えると、さらに別の人格が発生する可能性だってないとは言えない。だから最低限、せめて原因をつかんでおきたいところだったが、他人である医者にそう簡単に心を開ける性格ではない。退院時の約束どおり病院に通ってはみたが、まずは自分で原因の追求をしたかった。
 その結果、なのかどうか、催眠療法まで試されたが、結局精神科医も糸口をつかめなかったらしい。元の人格のツバサが「女であることが嫌だった」「男でありたいと思っていた」というようなことも考慮されていたようだが、家族も陽奈たちもそんな気配はなかったというし、元の記憶がないだけに手がかりはさっぱりだ。今の人格がかなり強いレベルで安定していることも伝わったようで、逆にこうなってくると、無理に元の人格に戻そうとすることはかえって弊害をもたらす可能性もある、というような診断もなされていた。なんにせよ翼がもっと協力的になる必要があり、翼がこの時間を無駄と認識したこともあって、その週だけで病院通いはいったん打ち止めになった。
 この日までの、その他の特筆すべき事柄は七つ。
 一つ目は、三日ほど体調を崩し、内一日は寝込んだこと。
 二つ目は、母方の祖父母や親戚、顔馴染の母親の友人などと会ったこと。
 三つ目は、武蔵の家族――正確には陽奈の家族――に会いに行ったこと。
 四つ目は、アルバイト先に、正式に辞めるために詫びの電話を入れたこと。
 五つ目は、十二月から元の学校に行く決断をしたこと。
 六つ目は、歌を筆頭に、翼が知っていては不自然な、妄想で片付けるには不自然な知識が少なからずあったこと。
 そして七つ目が、この日の文月との対面だ。
 それまでの記憶の穴埋め作業で、陽奈も飛鳥も、色々な所で文月の名前をだしていた。元の人格のツバサの中学以降の話をする時、文月の存在は無視できない。そのせいもあるし、文月と翼の仲を取り持とうとする意図もあったらしい。
 二人とも、文也についてもさまざまなことを聞きたがり、似ている部分が少しでもあると文月を引き合いにだして喜ぶ。
 松本文也、翼の記憶の中の世界で文月と思われる存在。同じく、陽奈と思われる存在の蓮見武蔵のことや、弟の飛鳥のことも、陽奈や飛鳥は頻繁に聞きたがった。
 翼から見れば、「もしも武蔵たちが女の子だったら」という状況が今の陽奈たちという存在になるが、逆に陽奈たちにとっては、「もしも自分たちが男の子だったら」という想像が、翼の記憶の中の武蔵たちだった。翼の妄想だからなのか、それとも翼たちは性別が逆でも同じように育つのか、「武蔵と翼」の経験が「陽奈と元のツバサ」との経験と重なる部分も少なくなく、「弟の飛鳥と翼」のそれが「妹の飛鳥と元のツバサ」のそれと重なる部分も多かった。
 陽奈や飛鳥は、それを聞いて安心したかったのかもしれない。やはり翼は元の人格のツバサと、そう違っていたりはしないのだと。
 このことはさりげない影響を作った。陽奈や妹の飛鳥という本人たちを目の前にしていた翼は、どうしても可愛い女の子である彼女たちをちゃん付けして、距離を置いてしか呼べなかった。だがその場にいない文月については、陽奈と飛鳥が、文也と文月は似ていると騒いだことと、実際話を聞く限りではよく似ていると感じたこともあって、翼の中で文月だけが呼び捨てで定着したのだ。初対面の時の「感情的でおしつけがましくて文也みたいにむちゃくちゃ言う子」という第一印象も、影響しなかったとは言えない。
 そんな状況で、翼は文月と会った。
 週休二日の土曜日、翼を除く三人は午前中は部活に出て、昼食を食べてから翼の家に集合した。家が近い陽奈が先に着いて翼と飛鳥に挨拶をし、文月がやってきた時点で、翼を一人残して迎えにでる。事前の話し合いの時、陽奈や妹の飛鳥は同席したがっていたが、文月がそれを断り、翼もそれを受け入れてこの場に至る。
 が、「文月も気にしてる」とか「悩んでるみたい」などと翼は聞いていたのに、いきなりこれ。二人きりで対面した翼の部屋で、本人に面と向かって「あんたを翼だと絶対認めないからねっ!」と言い放った文月。
 「あんたは身体は翼だけど、翼じゃないもん。あんたはあんたで、わたしの知ってる翼じゃない。だから!」
 閉ざされたドアに背を預けて冷静に佇む翼に、文月はさらに怒鳴った。
 「だから、あんたは勝手なことしちゃだめなの! 翼の身体なんだから、大事に扱いなさい! 翼の身体を傷つけたりしたら許さないから!」
 元の人格のツバサのことを思いやっているが、今の翼のことを思いやっていない、極めて微妙な発言。二週間前なら理不尽に思ったかもしれないが、今の翼にとってその言葉は新鮮だった。
 翼の心と身体を、「今の翼」と「元の人格のツバサ」とを、完全に別々とみなす文月の言葉。翼の両親も妹も陽奈も、気を遣ってはいるようだが、「元の人格であるツバサ」と「今の翼」とを、結局別の人間だとは思い切れていない。だがこの発言は、文月本人の意図に関わりなく、今の翼の人格をそのまま受け入れる言葉。
 「……意外に、キミが一番鋭いのかもしれないな」
 「目を見て話せばすぐわかるんだから! 返事はどうしたのっ!」
 「……でも、言うことはやっぱりむちゃくちゃだな」
 「ど、どこがよぉ!」
 文月がムキになって膨れる。顔立ちはキレイとも言えるのに、ころころ変わる表情はやたらと子供っぽい。
 翼はここ数週間ですっかり癖になってしまった、様々な感情を宿した微笑を浮かべた。
 「まずは座らないか?」
 「あんたも座りなさいっ」
 文月は乱暴に、翼がさっきまで座っていた椅子に腰をおろした。翼も動いて、ベッドに腰をおろす。
 「あんたは、今日から翼ちゃんだからねっ」
 「……はい?」
 「だから、わたしは翼ちゃんって呼ぶの! だって翼じゃないんだもん。名前、紛らわしい」
 いきなりこの子はいったい何を言い出すのか。
 翼は一瞬冷たい目をしかけたが、自分も妹の飛鳥や陽奈に同じような発言をしたことを思い出して、少し顔をしかめた。それまで親しく呼び捨てにされていた相手から、突然のちゃん付け。翼から見た文月との関係はまだまだ軽いが、陽奈や飛鳥には軽くない出来事だったはずだ。いまさらながらに改めて、誰にとっても痛いこの状況を感じて、ため息が漏れてしまう。
 「いいよ、わかった。そのかわり、おれもキミをふっちゃんって呼ばせてもらうから」
 「ふっちゃんゆーな! って、なんであんたがふっちゃんゆーのっ!」
 翼はシニカルに笑った。
 「お互い譲歩すべきだと思わないか?」
 「う、じゃ、じゃあなんて呼べばいいのよぉ?」
 「せめてクン付けにしてほしいな」
 「やだっ。翼くんだなんて変だもんっ」
 「……ふぅ」
 「む〜、じゃあつばさって呼ぶ」
 「……どう違うんだ?」
 「わたしの中で違うのっ」
 翼にはよくわからない理屈だが、呼び捨てされるならそれはかまわない。軽く頷いて、翼も「おれは文月って呼ばせてもらうよ」と、ふっちゃん発言を訂正した。とたんに、文月はまた嫌そうな顔をした。
 「なんで呼び捨てなの」
 「……この間、そうしろって言ったのはキミだったと思うけど」
 「それは、あんたが翼だったらの話だもん。あんたは翼じゃないんだから、馴れ馴れしすぎ」
 「ほんとに、キミは勝手だな」
 「どこが!」
 「おーけー。文月さんと呼ぶよ。それでいい?」
 「む〜……。さんはだめ! さんとか呼ばれるくらいなら、呼び捨てがましっ」
 「どっちなんだ」
 本当に、翼から見た文月は理不尽の塊だった。文也同様、感情的なその態度。翼の心からいい意味で遠慮を剥ぎ取るが、同時にやれやれという思いもつれてくる。
 「翼の声でさん付けなんて、ひどいよ」
 文月はぶつぶつ文句を言う。
 「悪いな」
 「ほんと悪いよっ。本当なら、翼の身体からすぐにでも追い出したいくらいなんだからっ」
 「やれるもんならむしろさっさとやってくれ」
 「わたしだってやれるもんならやりたいもん」
 「……お互い大変だな」
 「だから翼の顔でそんなこと言わないでよね!」
 文月の表情が、ちょっと涙目できつくなる。翼は吐息をついた。
 「じゃあこのまま、キミはおれをほっといてくれるか?」
 「ほっとけるわけないでしょ!」
 ばっと文月は椅子から立ち上がった。また叩かれたくはないので、翼は少し警戒する。そんな翼に、文月は大胆に言い放った。
 「わたしはつばさを見張るの! 翼の身体で勝手なこととか、変なこととか、しないように監視するっ。翼が戻ってきたら、あんたのアクギョウを教えてやるんだから!」
 再び、元の人格のツバサのことを考えてはいても、今の翼のことを考えてくれていない文月の発言。「元のツバサにとって、文月はいい友達だったんだろうな」と、切なさとともに翼は思う。そして同じような立場であれば、きっと文也もそんなふうに、翼のことをかばってくれた。
 今目の前にいる少女は、そんな少女。
 だからこそ翼はわざと、軽い言葉を口に出した。
 「後で教える必要があるような、悪行をしていいのか?」
 「な、だ、だめに決まってるじゃん!」
 文月は本気で怒ったような、ムキになった顔になる。翼は切なさを押し殺して笑った。すっかり癖になった屈折した微笑だった。
 「わかってる。冗談だよ。何もわざわざ自分から馬鹿なことはしない。とりあえずは普通にやってみるよ」
 「……病院、通ってたんだよね」
 「ああ」
 文月は翼の横に座ろうかと考えたようだが、少し躊躇ってから、結局また椅子に腰をおろした。
 「やっぱり、だめだったの……?」
 「あんまり協力的にしなかったしな。――わかってるからそう睨むな」
 また何か怒鳴りかけた文月を、翼は苦笑気味にとっさに制した。
 「かまうつもりなら少しはおれのことも考えてくれないかな、頼むから」
 「む〜……」
 「ほんとに、キミは文也に似てるよ」
 「わたし、そんな奴知らないもん」
 「……そうだな。どこまで聞いてる?」
 「……学校、十二月から、来るんだよね」
 「ああ。同じクラスらしいな」
 「そんな話し方で学校通うの?」
 「それはまだ決めてない。陽奈ちゃんたちに聞いた限りだと、少し気を遣って控えめにすればそれでいけそうかなとは思ってるけど」
 「翼は控えめなんかじゃないよっ」
 「らしいな。でも過剰な演技はおれがきついから。他人には目立たず地味にやるつもりだ。その方が色々楽そうだし」
 「まさか、かわいこぶって男作る気じゃないでしょうね!?」
 「まさか」
 いきなり脈絡のないことを叫んだ文月に、翼は心底嫌そうに言った。
 「なんでおれが男なんか作らなきゃいけない」
 「どーだかねっ。翼の身体なんだから、勝手に男なんか作っちゃだめだからねっ」
 「言われなくとも大丈夫だよ。まだ近づくだけでちょっと気持ち悪くなるしな」
 「う、この間また体調崩したって? やっぱり身体がどっか悪いの?」
 「心の問題だと言われたよ」
 今も体調はよいとは言えないのだが、あえて翼はそれを口には出さない。
 「なんで? もうちゃんとやってくって決めたんでしょ? なんで身体が悪くなるのよ!」
 「落ち着けよ、頼むから。やっぱりまだ慣れてないせいらしいな。自分の身体を意識するとすぐ気持ち悪くなる」
 「……む〜。でも、だからってなんで身体まで悪くなるの? 髪まで切っちゃうし、ひどいよ」
 「髪は関係ないけど、ひどいのはひどいな」
 「髪もひどいよ! あんなにきれいだったのに!」
 「だから落ち着けって。髪なんて時間さえかければまた伸びるだろ」
 「む〜……」
 むーむー唸るなよ、と、翼は苦笑気味に笑う。文月は唇を尖らせた。
 「つばさって、やっぱり翼じゃない……。翼より大人っぽく見える」
 「……みたいだな。飛鳥ちゃんたちにも言われた」
 「よく文句でなかったね? わたしなら絶対切る前に止めるのに」
 「散々言われたよ。切った後は何も言わなくなったけどな」
 「なんでよ〜? 絶対、前の方がいいのにっ」
 「もっと切ると思ってたみたいだから。最初は、そうしようかとも思ったけど」
 今時長髪の男の子も珍しくないかもしれないが、今の翼の髪は、あまり男の子がしない髪型。ボーイッシュな女の子というよりは、しっかりした大人びた女の子。髪が長かった時も幼く見えていたわけではないが、思春期の少女っぽさも残っていて、まだ年相当という雰囲気でしかなかった。だが今は、表情や物腰の変化とあいまって、翼の精神年齢が一気に高まったかのような印象を与える。
 「もっとって、それじゃ男みたいになっちゃうじゃないっ」
 「おれの性格を考えたんだろ」
 「む〜! もっと切るのはだめだけど、今の長さもやだっ。翼の髪なのに!」
 「悪いけど、今はおれの髪でもある。髪型くらいでうだうだ言うのはやめてくれ」
 「だったら切る必要ないじゃない!」
 理不尽な言われようだが、もう怒るようなことでもない。翼は苦笑して、ベッドに身体を倒した。問われもしないことを、文月の言葉を遮るように、口に出す。
 「切りたかったんだよ。前とは違うってことを、周りにも主張しやすいから。切り過ぎなかったのは、ある程度は見た目どおり振る舞った方が有利で、他人も騙しやすいから」
 「……む〜」
 文月はまだ唸りながら、椅子から立ち上がった。翼はちらりと文月を見たが、何も言わずに天井を見やる。
 無言のまま、翼の部屋を動く文月。やがてベッドの傍で、足を止めた。
 「……もう翼には、会えないの?」
 突然に、妙に幼い、震えた声。
 「……さあ。おれにもわからない」
 これまでの態度は強がりだったのだろうか。文月は泣きそうな顔をした。
 「……翼は、死んじゃったの?」
 「…………」
 翼は、とっさに何も言い返せなかった。痛いほど、文月の気持ちがわかってしまう。翼は部外者でしかなく、文月にとって本当に大切なのは元のツバサだけ。
 「……努力は、してくれないの?」
 「……ごめん、無理はしない」
 謝る必要がないことも、翼はわかっている。この状況は翼にとっても理不尽なもので、今の翼にとっては必ずしも元の人格を取り戻す理由もない。だがそれでも、翼は今の文月と視線を合わせる勇気を持っていない。
 「記憶の穴埋めはするから、それで何かわかればいいんだけど」
 「……それやってれば、いつか戻ってくるかもしれない?」
 必死で縋るような、文月の声。
 「……かもな。なんにせよ、原因がわからないからな。妄想扱いされるおれの記憶の方に、手がかりがあるといいんだろうけど」
 文月はぐすっと鼻を鳴らすと、目を手の平で少しこすった。
 かと思うと、あっというまに表情がかわった。子供っぽく言い放つ。
 「じゃあわたしにも話してっ。陽奈たちとは色々話してるのよね?」
 「…………」
 無理をしているのかもしれないが、相変わらず態度の変化が激しい文月だ。翼は少しほっとしながらも、やれやれと、微笑んだ。
 「おれにとってはただの昔話だけどな」
 「わたしもトモダチなんだから、なんでも話しなさいっ」
 「……おれとキミが友達?」
 「何よぉ。嫌だとでも言うつもり?」
 翼は身体を起こした。古い友人とよく似た、新しい友人を見つめる。
 拗ねているようでいて、真剣な文月の瞳。翼がよく知る、文也の瞳と重なるその瞳。
 素直に、翼は微笑んだ。
 「言わないよ。お手柔らかによろしく、文月」
 「ど、どうして!」
 いきなり、文月の瞳が潤む。
 「どうして翼と同じこと言うのよ! わ、わたしはよろしくなんてしてあげないもんっ」
 一瞬、翼は文月が泣くかなと警戒したが、文月は泣かなかった。そのまま明るく、楽しげに笑ったのだ。
 「わかった、友達になってあげるっ。感謝しなさいよねっ」
 前後の言葉が矛盾して、もうむちゃくちゃな発言。だがそれもまた文也らしく、そして文月らしい。翼もつられるように、少しだけ笑った。
 「感謝するよ。――じゃ、そろそろドアの二人を入れようか、中に」
 「え?」
 唐突な翼の小声に、文月は何を言われたのかわからなかったらしい。翼を見て、ドアを見る。それから「あ」と表情をかえた。翼は小さく笑う。
 「そういうこと。たぶん、お茶を持ってこようとしたとか言い訳が聞けるよ」
 「むか、陽奈ってばぁ」
 むか、と言いつつ、この日初めて、にっこり微笑む文月。翼がはじめて見る、彼女の心からの笑顔だった。子供っぽさの中に、キレイさを滲ませる笑顔。
 だがそれはほんの数秒だった。文月はゆっくりとドアに近づき、少し耳をそばだててから、にやっと笑う。もうすっかりいたずらっ子の顔だ。文月は大きく深呼吸をして、ばっとドアを開け放った。
 「え」
 「きゃっ!?」
 さすがに倒れこんできたりはしなかったが、ドアに張り付いていたのか、少し情けない姿の陽奈と飛鳥だ。文月がわざとらしいしかめっつらで怒鳴った。
 「陽奈! 飛鳥チン! ナニヲヤッテルの!」
 「その呼び方はやめてください」
 飛鳥は姿勢をしゃきっとさせて、即座に言い返す。コップの乗ったお盆を両手で持つ陽奈も、姿勢を正して、にっこり笑みを浮かべる。
 「ちょっと、ジュース持ってきただけだよ」
 状況を無視した飛鳥のいつもの言葉と、翼の予言どおりの陽奈の言い訳だった。翼は軽く笑い、文月はさらに何か怒鳴ろうとしたようだが、彼女もすぐに吹き出した。
 「陽奈、ぜんぜんバレバレじゃんっ」
 「ん、そうだね」
 中の会話がどこまで聞こえていたのか、こっそり安心しながら、陽奈も素直に笑う。飛鳥も姉を見て、姉の友人を見て、もう一度姉を見て、笑顔になった。
 「姉さん、文月さんに変なことされなかった?」
 「飛鳥チン〜? ソレはどういう意味なのかな〜?」
 陽奈が先に中に入り、後に続こうとした飛鳥の首に、文月は後ろから腕を回す。女子としては長身の文月の攻撃に、まだ年相当より小柄で小学生みたいな飛鳥は、身動きが取れずにもがいてじたばたした。
 「や、やめてくださいっ」
 「ひどいこと言うと、飛鳥チンだけノケモノにしよっかな〜」
 「ふ、文月さんこそっ。ひどいこと言うと、今日はもう帰ってもらいますっ」
 「はい、翼くん、ジュース」
 あーだこーだ騒ぐ飛鳥と文月をよそに、陽奈は何事もないかのように翼にジュースを渡そうとする。翼は「ちょっと待って、テーブルを出すよ」と立ち上がった。なぜ最初からコップが四つあるのかは、すでに文月が間接的に指摘しているから、あえてつっこまないことにする。
 陽奈はありがとうと応じて、とりあえず勉強机にお盆をのせる。それから楽しそうに文月と飛鳥を見やった。
 「翼はこんな時、ほどほどにしといてね、なんて、笑ってたよ」
 「おれも同じこと言ってたよ」
 翼は文也と弟を思って切なさを覚えつつも、それを顔には出さず、表面上は穏やかさを絶やさなかった。
 「文也も飛鳥に気を遣ってお節介焼いてたからな。他人が気にしてるってわかると飛鳥も嬉しいはずだとか言ってね」
 「え、そんな細かいこと覚えてるの?」
 どこまで陽奈から伝え聞いているのか、文月が翼の言葉に反応する。来客用のテーブルを広げながら「一応な」と翼が応じると、文月は本当に嬉しそうに笑って、飛鳥の背をバンバン叩いた。
 「ほらほら、飛鳥チン! つばさだってそう言ってるんだから、わたしのアイジョーが伝わるでしょっ!」
 「文月さんのは余計なお節介って言うんですっ」
 「文月は半分遊んでるだけだものね」
 「確かに、文也も楽しんでやってたな、あれは」
 勝手に論評する陽奈と翼に、さらに騒ぐ飛鳥と文月。陽奈は止めずに、さらに元の人格のツバサのあれこれを、笑顔で口にする。テーブルを出した翼が苦笑気味にお茶するよと仲裁した後も、室内は賑やかな騒がしさにずっと包まれていた。






 夕刻になると、陽奈と文月は名残惜しみながら、翼の家をでる。玄関を閉めると、徒歩の陽奈は自転車の文月にも別れの挨拶をしたが、文月は陽奈に待ったをかけた。
 「陽奈んちまで、ちょっといいかな?」
 「ん? いいよ。あがっていく?」
 「うんん、そこまではいーよ。もうごはんだし」
 言いながら文月は自転車を押して歩き出し、陽奈は車道を気をつけつつ、その横に並ぶ。外はもう薄暗く、ご近所も夕食の準備中なのか、美味しそうな香りが微かに漂ったりもしていた。
 「今日は翼と仲直りできてよかったね」
 「もともと翼とはケンカしてないもん。……ねー、陽奈」
 「ん?」
 「わたし、どうすればいいんだろ?」
 「どうすればって? 文月は、翼を治そうとしてるんじゃないの?」
 あの後ずっと、翼に元の人格のツバサらしさを強調し続けた文月。翼は情報としてその話を聞いていたし、文月の気持ちもよくわかっていたから露骨に反発はしなかったが、時折押し付けられて嫌そうな顔をしていた。陽奈と飛鳥がしっかりとフォローしていたから大事にはならなかったが、陽奈から見てやりすぎだと思えた場面も少なくはない。
 「……そうしよーと思ってた。……でも、自信、なくなっちゃった……」
 「…………」
 「全然、病気って感じじゃないし。本人が治ろうとしてないし。……陽奈は、翼がずっとこのままなら、どうするの?」
 翼の部屋にいた時とは、うってかわったような暗い顔で、文月は陽奈を見る。
 「……わたしは、翼が望まないのなら、このままでもいいのかなって、思い始めてる」
 「……陽奈は、今のつばさ、元の翼と同じだって思えるんだね」
 「何度も言わせないで。今の翼も翼だよ」
 即座に、陽奈の固い声。文月はちらっと陽奈を見て、泣きそうな顔だったが、軽く笑った。
 「そーだね。色々違うけど、確かに今のつばさも翼だった」
 「うん」
 陽奈も、ほっとしたように、表情を緩める。
 「実際話してみて、よくわかったでしょう?」
 文月は切なそうな顔で頷いた。
 「うん。記憶がちょと変わってて、男と思い込んでて、そんなふうに振る舞ってて、それだけだよね」
 「そうだね、それだけだよね」
 「元の翼から女っぽい部分をとって男っぽくしちゃえば、今のつばさになる気がするし」
 「少しだけ、言葉遣いが荒いだけだよね」
 「元の翼はおれなんて言わなかったもんね」
 「うん」
 くすっと、陽奈は笑う。
 「でもね、陽奈」
 「ん?」
 「……わたし、それでも、わたしたちの知ってる翼はもういないって、やっぱり思うの」
 「文月」
 非難、というよりは、もう聞きたくない、という音色を持った陽奈の声。
 「ごめんね……。このままなら元の翼が死んだのと同じだって、やっぱり思っちゃうんだ」
 「文月!」
 「……ごめんね、陽奈……」
 文月は片手で自転車を支えたまま、もう一方の手で目をこすった。
 「……どうして、今、そういうこと、言うの?」
 陽奈の声も震えていた。文月はそれに気付いているのかいないのか、淡々と言葉を紡ぐ。
 「だってそうなんだもん。ずっとこのままなら、もう元の翼には二度と会えない」
 「…………」
 陽奈の顔から、血の気がなくなる。今の翼も元のツバサと同じだと、そう思い込もうとしていた陽奈。陽奈がずっと否定したがっていたことを、文月は容赦なく陽奈に突きつける。
 重なる記憶があっても、性格も似ている部分が多くとも、違う人格。
 「……文月は翼から、離れた方がいいのかもね」
 陽奈は泣きそうな顔で、呟く。文月はキッと顔を上げた。
 「やだよ。何言うの?」
 「弱音吐くとね。わたしが、ちょっと、だめかも……」
 「……陽奈?」
 「翼が死んだなんて思うと。今の翼は翼じゃないなんて思うと……」
 「…………」
 「だから、今の翼も翼だって、思い込もうとしてた。実際性格似てるし、飛鳥も懐いてるし、亜美さんたちだって、そう思ってるみたいだし」
 陽奈は、そっと笑った。透き通った、生気のない微笑みだった。
 「でも、翼はもういないって、思わなきゃだめなのかな……?」
 「陽奈まで!」
 文月の顔が歪んだ。堪えていた涙が、ぽろぽろと零れだす。
 「そんなこと言わないで! わたしは、そんなことないって、また陽奈に言ってほしかったのに!」
 「勝手だね、文月」
 笑いながら、陽奈も少し自分の目をこする。
 「だってつばさは翼だけど元の翼じゃなくてでも翼で!」
 支離滅裂に、文月は大きく叫ぶ。
 「わたしひどいんだもん! どこかで安心してる! 元の翼がいなくても今のつばさでもいいかななんて、わたし思っちゃったんだもん……! 元の翼はもういないのに!」
 「……文月……」
 元のツバサと今の翼を、同じとみなして受け入れようとしていた陽奈。文月は一歩進んで、別々と感じながらも、受け入れようとしている。陽奈が受け入れ切れていない現実を、文月は前向きに受け入れようとしている。
 「文月は、強いね……」
 「強くなんてないよ! だってそう思わないと辛い!」
 「……うん。……辛い、ね」
 そっと、陽奈は文月の背に手を当てる。文月の涙は止まらなかった。
 そのまましばらく歩き、文月が泣き止んだのは陽奈の家が見えてきてからだった。ぼそっと、文月は呟いた。
 「……いっそ、記憶もまったくなくて、嫌な奴だったらよかったのに」
 「……それは、もっと辛いよ」
 「でも、そうすれば恨めたのに!」
 「……わたし、今の翼のこと、嫌いじゃないよ」
 「わたしも嫌えなかったよ! 翼の顔で、声で、翼と同じよなこと言うんだもん!」
 「わたしは、今の翼の中にちゃんと翼はいるって思う。そう思うの、だめ、かな?」
 「わたしはできない。今のつばさも翼だけど、でも、元の翼とは違うって思っちゃうから。別の翼なんだもんっ」
 陽奈の気持ちを配慮せずに、文月はどこまでも自分の気持ちをぶつけてくる。家の前にたどり着き、陽奈は足を止めた。
 「まだ、治らないと決まったわけじゃないよ」
 可能性としては嘘ではない。なのに、陽奈の言葉に、文月の顔が歪む。
 現状ではまったく原因の見当もつかず、本人にも治ろうとする気がない。治らない可能性があることも、よくわかっている二人。陽奈はそんな友人の表情を見て、かすれた声で、呟いた。
 露骨に態度に表すことを、陽奈はしない。だがその声に、どこか絶望的な色が混じる。
 「……そうだね、覚悟は、いるのかな……」
 「……わたし、どうすればいいの?」
 「わたしは、わたしにやれることならなんでもする」
 「わたしもそうだよ! でも、もうどうしていいかわかんない! 元の翼のことは忘れた方がいいの? それともつばさに無理させた方がいいのっ?」
 「……無理は、させちゃだめだよ。無理させようとしたら、今の翼、きっと会ってもくれなくなる。それに、今度その気になったら、また止まってくれるとも限らない……」
 陽奈は切なさを押し殺して、微かに笑みを作った。
 「でも、文月は、そのままでいいかもね。今の翼、文月にだけは、けっこう遠慮してないみたいだから。わたしは、文月が少し羨ましいよ?」
 「わたしは嬉しくないもんっ」
 文月もしゃくりあげながら、涙を堪えようと目をぬぐう。
 「わたしだけ、なんでか、ぞんざいだったしっ。陽奈には優しいし、飛鳥チンにもむちゃくちゃ甘いのにっ」
 「だから、遠慮してないってことだよ。文月は自然にぶつかってみていいかもね」
 「陽奈はそれでいいの!?」
 「文月は、文月らしくやればいいよ。わたしは……」
 その先の言葉を、陽奈は口にできなかった。
 わたしもわたしらしく。そう言いたかったが、陽奈は自分がどこまで強くいられるか、自分に自信がなかった。
 「……もう泣かないで……」
 陽奈は文月に近づき、片手で文月の自転車を支え、もう一方の手で、文月の背をそっと抱くように撫でる。文月は陽奈の肩に額を預けた。涙を隠すように、友人に縋る。
 「がんばろう、文月。翼が一番たいへんなんだから。わたしたちがへこたれてちゃだめだよ」
 「がんばる、がんばるけど……!」
 がんばる、と言いながら、まだ文月は泣き続ける。もう二度と会えないかもしれない元のツバサを想って、文月は泣き続ける。
 陽奈は切なげに微笑んで、彼女も涙を堪えるように、空を見上げた。
 十一月中旬の空。
 まだ夕方の時間、西の空には夏の星座を見ることができるが、夜には東の空に冬の星座も浮かぶ。
 夏から秋、秋から冬へと巡る季節。
 時間が解決してくれることも多いのだろう。だがだからと言って、やれるだけのことをやらない理由にはならない。泣いていても、何も始まらない。
 それでも、この日だけは陽奈も、いなくなってしまった元のツバサを想って、少しだけ泣いた。






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初稿 2004/10/26

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