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 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第五話 「自分の意志で」


 翼は友人の蓮見武蔵と、何度もケンカをしたことがある。柔和な顔をして武蔵は頑固で、自分が間違っていると思わない限り、自分から折れることはまずなかった。その点は翼も同じで、それを考えれば似たところがある二人だったのかもしれない。二人とも、逆に自分が悪いと思えば、一日も置けばすぐに謝っていた。武蔵の家族が息子にもその友人にも甘かったこともあって、あまり、長引くケンカをしたことはない。
 出会いの痛い思い出もあるが、翼にとって得難い友人。
 中学に上がって、もう一人、部活のバスケを通じて知り合った松本文也とも、翼も武蔵も何度かケンカをした。文也も文也で、子供っぽいくせに素直ではない部分があったが、幸いケンカになっても長続きはしなかった。いつももう一人が仲裁できたからだ。三人のうちの誰かと誰かがケンカしても、もう一人がフォローできる、そんな関係。
 三人が三つ巴にケンカをしていたらどうなっていたか、幸運にも体験していないからわからない。なんだかんだで、仲よくいられた三人。翼にとって大切な二人。
 だが、この世界には、その二人はいない。
 ある朝目が覚めたら、女になっていた久我山翼。周囲は翼を生まれた時からの女として扱い、弟や友人の性別も逆転している。弟の飛鳥は妹の飛鳥になり。友人の武蔵と文也は、陽奈と文月という二人の女の子になり。世界そのものも、少なからず変わっている状況。なのにそれを変だと思うのが翼だけだという、理不尽な現実。
 まわりは翼を二重人格だと疑い、翼も理屈では、それを受け入れるつもりになった。だが、理屈ではわかっているつもりでも、受け入れるべきだと思っていても、感情はいうことをきかない。それどころか、やはり、すべてを拒絶したい。
 そんなふうに、ただでさえ苦しむ翼に、強引に気持ちを押し付けてきた文月。陽奈は、おそらく彼女もかなり無理をしつつ、翼の今を受け入れようとしていたが、文月は元の人格のツバサに執着していた。
 友人が二重人格を疑われている状況だから、文月の気持ちもわからなくはないし、元の人格に拘るのも無理はないと翼も思う。思うが、だからと言って今の翼はそれがきつい。理性的にはわかっているつもりでも、簡単には納得できない。
 だから、翼は彼女たちといることに耐えられなくなって、逃げ出してしまった。
 それどころか、感情を激しく揺さぶられた今、半ば自暴自棄的だった。
 衝動的に家を飛び出し、全力で走った翼は、慣れきれていない身体での疾走に足が絡まりそうになって、思わず転びそうになってから、速度を緩めた。
 この理不尽な世界の何もかもが呪わしい。非力でひ弱な身体といい、胸や腰周りの脂肪のじゃまさ加減といい、男だった時とはあまりにも違う身体も、どうしようもなく哀しくて憎らしい。
 「いっそ本当に狂えれば楽なのに……」
 だが、すべてを忘れてしまいたいのに、それすらできない自分。翼は自嘲気味に笑って、ぐっと涙をぬぐった。
 翼は涙を隠して、真っ青な顔のまま、あてもなく歩く。そこにたどりついたのは、無意識なのか本当に偶然だったのか、翼は自分でもわからない。
 少し離れた場所から、踏み切りの警報機の音が聞こえてくる。電車の線路が近い証。
 翼はゆっくりと、そちらに足を向けた。
 「狂えないなら……」
 ガタンゴトンと、独特の音が響く。電車が線路を通り過ぎていく音。
 翼が踏み切りにたどり着いた時、ちょうど警報機の音が鳴り止んで、行く手を遮っていた遮断機が上昇した。住宅街の一角、薄暗くなってきている時間、この場所の通行量は多くはない。待たされていた一台の車と、カップルらしい二人連れが踏み切りを渡る。
 通れるようになった踏み切りの前で、青い顔と赤い目をして立ち尽くす少女に、そのカップルはちらりと視線を向けたが、特に声をかけることはない。
 翼は少し俯きがちに、じっと線路を見つめていた。
 かなり傍迷惑なことを考えている自分を、翼は強く自覚した。電車がストップすれば、帰宅時で混雑するこの時間、多くの人に迷惑をかけるだろう。この手段はかなり無残な姿になるらしいから、もし目撃者がでたら、夕食が不味くなる人だっているかもしれない。後始末をさせられる鉄道関係者もいい顔をしないはずだ。下手に電車を止めると多額の賠償問題が発生することも、翼は噂として知っていた。家族にも迷惑をかけるし、この身体の友人たちも悲しませる。
 「自分を傷つけるのはやめなさい」と、真剣に言ってくれた母親たちも裏切ることになる。知り合ったばかりの妹の飛鳥や、この身体の友人の陽奈と文月は、自分たちのせいだと責任を感じてしまうかもしれない。今以上に多くの人間の感情をかき乱し、彼らの未来を歪める。
 ……どのくらいそうやって見つめていたのか、再び、警報機が音を立て始める。ゆっくりと、遮断機もおりてくる。
 翼は唇を歪めた。
 こんな状況で、他人のことを、まわりのことを考えてなんになるのか。これが現実なら、やれば終われる。異様な奇跡でも起これば失敗するかもしれないが、この手段の成功率は確実に高い。
 カンカンカンカン、と、警報機の音がやけにうるさい。
 電車もすぐにやってくるだろう。翼は勝手に暴れだした鼓動を感じつつ、まだじっと線路を見つめていた。
 やる前に、急ブレーキをかけても大丈夫な位置まで、電車がきていることを確認しなくてはいけない。同時に、確実な場所を取るために、あまり近づきすぎない位置でやる必要がある。
 先ほどとは反対側から、電車の音が近づいてくる。
 暑くもないのに汗に濡れる自分の手を、翼はぎゅっと握り締めた。
 顔は、まだ線路を見つめたままだ。やるつもりなら、視線を電車に向けてタイミングを確認すべきだった。
 翼は顔を上げた。
 とたんに、目の前の踏み切りの中を、電車が通り過ぎていく。
 電車がこんなにも威圧的な存在だということを、翼は初めて実感した。怖いくらいにうるさい音と激しい振動。
 微かに風が湧き起こって、今の翼の長い髪を揺らす。
 数両編成のその電車は、数秒で、翼の前を走り去った。
 警報機の音がやむ。遮断機があがる。
 いつのまにか翼の後ろにいた主婦が、無造作に翼を追い越していく。正面からも、自転車に乗った学生が三人、踏み切りを渡ってくる。
 翼は、まだ動かなかった。
 ただその顔は、泣きそうに歪んでいた。
 「これで終われるのに……」
 このまま生きていくか、それとも、ここですべてを終わらせるか。生きていくなら、もうこれを現実だとまず受け入れることになる。女の身体と、理不尽な世界と、二重人格などと言われる状況とを。
 その上で、そのまま生きていくか、記憶と元の人格とやらを取り戻そうと努力するか、他の道を模索するか、どれかを選ぶことになる。
 「どれもきついのに……」
 この状況が嫌で嫌で、逃げ出したい。すべてを終わらせたいわけではなくとも、今すぐ逃げ出す手段がこれしかないのなら、翼にとって迷う余地などない。そのはずなのに。
 翼は零れそうになった涙を隠すように、空を見上げた。
 午前中同様、よく晴れたいい天気だった。
 十一月の夕暮れ。
 中天はもう薄暗い。
 西の端に浮かぶ微かな雲が、最後の陽光に照らされて、茜色に色づいてたなびいていた。
 みたび、警報機が音を立てはじめる。
 翼はゆっくりと、電車がやってくるのを見据えた。
 この時間、この場所での電車の通過量は少なくはない。見咎められない限り、チャンスは何度でもある。
 遮断機がおりて、電車の音が近づいてくる。
 ――タイミングを見計らって、遮断機の下をくぐって、他人の非難と電車の震動と轟音を耐えて、数秒待つ――。
 たったのそれだけのことができれば、それで終われる。
 たったのそれだけのことができれば。
 「……でも」
 翼は息苦しさに耐え切れなくなって、吐息をついた。
 「死ぬのも、きつすぎるよ……」
 ぐいっと涙をぬぐって、翼は身を翻した。



 腕で涙をぬぐって、踏み切り前から身を翻した翼は、すぐ後ろに人がいることに気付いて、ぶつかりそうになって、辛うじて足を止めた。
 そしてそのまま、一歩下がって、思わず立ちすくむ。
 いったいいつからいたのか、一人の少女。
 翼が通っていた学校の、冬の標準服。黒いセーラー服を身にまとった少女。綺麗な顔の肌の白と、黒い襟のラインの三本の白と、胸元のスカーフの鮮やかな赤が、薄闇の中に印象的に映る。
 今の翼とほとんど同じ高さにある少女の瞳が、翼の瞳を直視する。
 立ち尽くす翼の背後で、電車がいつもの速さで、ガタゴトと通り過ぎていく。少女の微かに癖のある長い漆黒の髪と、翼のストレートの髪が、再び風になぶられて揺れる。
 電車が通り過ぎ、踏み切り待ちの人の流れも途絶えた後で。
 先に口を開いたのは翼だった。
 「……いつから、いた?」
 生気のない、翼の声。
 「……翼くんが、道を歩いてた時から。どう声をかけていいか、わからなくて」
 蓮見陽奈は、大人しそうな顔を凛然と染めて、まっすぐに翼を見つめていた。
 「飛び込むかと思った」
 びくっと、翼は肩を揺らした。
 「……だったら、どうした」
 無表情に、そっけなく呟く翼。陽奈は即座にきっぱりと言い切った。
 「ごめん、絶対とめた」
 「……謝らなきゃいけないことなのに、するつもりだったのか?」
 「……謝らなくても、いいことだった?」
 陽奈はまっすぐに翼を見る。
 翼は、こういう状況でこういう発言をする人間を、よく知っていた。友人が飛び込み自殺をするかもしれないという状況で、ぎりぎりまで相手を見守るような男。蓮見武蔵。もうどこにもいない、翼の記憶の中だけに存在する、翼の大事な友人の一人。
 「…………」
 苦しくて切なくて、また泣きそうになる。何も言わずに、翼は動いた。陽奈とすれ違い、そのまま素通りする。陽奈は当然追ってきた。
 「文月は泣いてたけど、亜美さんも飛鳥も探しにでたんだよ。もう大丈夫って、メール、入れておいた。……ごめんね」
 「……何が」
 「会いに来るの、我慢できなくて。退院してすぐって、早すぎたよね」
 陽奈の言葉は間違ってはいないが、やはりこの状況ではもう些細な問題だと言うことを、二人ともよく知っている。会いにきたことそれ自体は、今となっては大きな問題ではない。
 「キミたちは、何も悪くはないだろ」
 翼の声には力がない。陽奈は翼の正面に回り込んだ。
 「翼くんも、悪くない。そうでしょう?」
 「……自分で生きようともしないおれに、何を言えって?」
 淡々と言う翼を、陽奈は迷いのない視線で、強い意志を秘めた輝く瞳で、真っ向から見据える。
 「でも、死ななかった。ちゃんと、自分で戻ってきた」
 翼は顔をそむけた。
 「……それは、死ねなかっただけだ」
 「それでも、自分で選んだんだよね?」
 「…………」
 死ねなかったのか、死ななかったのか。
 その二つの言葉は、似ているようでいて違う。
 翼は他人のことや後のことを考え、怖いとも感じ、衝動的にさえなれず、行動に踏み切れなかった。すべてを終わらせるだけの強さも弱さも持っていなかった。
 死ねなかった。
 そして、それを実感した上で、翼は自分の意志で、身を翻した。
 死ななかった。
 それは、生きる、ということの、消極的選択。
 この状況がどんなに嫌でも。今の身体がどんなに耐え難くとも。
 生きることをやめることができなかった自分と、やめないことを選んだ自分。
 「…………」
 陽奈はじっと翼を見る。翼は、泣きそうに顔を歪めて、大きなため息をついた。
 「やめられないなら、本気で嫌じゃないってこと、か……」
 その呟きとともに、翼の中から何かが零れ落ちた。
 この約二週間、ずっと翼の中にあった何かが。
 「え、翼? それって……」
 翼の呟きに、陽奈が驚いたように反応する。翼は何かを諦めたかのように、涙を堪えて笑った。複雑で屈折した様々な感情を宿しているが、澄んだ笑顔。泣きたくなんかないから、もう笑うしかなかった。
 「キミの知ってるおれも、そんなこと言ってたんだ?」
 「う、うん。嫌なことはしないって。嫌ならやめるって。だから、やめないなら、それは本気で嫌じゃないって」
 それは翼自身が、これまで何度となく口にした言葉。今なら、それがどんなに虫のいい発言だったかよくわかる。そんな立場に、本当に立ったことのない人間だからこそ言える言葉。だがそんな立場に立ったことがない頃の自分の言葉だからこそ、今の翼には必要なものだった。
 この身体は気に入らない。世界がかわっているという状況も嫌だ。
 だがそれでも。
 どんなに辛くとも、身体への嫌悪感が消えなくとも。
 「……おれは、どんな奴だった? キミの知ってるおれは」
 「え、ん、今の翼くんは、本気で怒った時の翼に、よく似てる。冷たくて、そっけなくて、誰にも甘えない」
 誉められているとは思いにくい発言。翼はもう一度、どこか突き放したように言う。
 「普段は?」
 「ん、どう、言えばいいのかな」
 陽奈は、少し困ったように微笑を浮かべる。本人を前にして、言えない発言も多いのだろうか。翼はそう察したが、もう圧倒的な反発はなかった。状況や身体への不快感や嫌悪感は消え去らない。だが、心のどこかでこの状況を受け入れてしまった自分を、翼は自覚してしまっていた。
 「ね、わたしの家、行かない? お母さんたちも会いたがってるし、もっとゆっくり、話したいな」
 無造作に、陽奈は翼の腕をとる。翼は思わず即座に、それを振り払った。
 「あ」
 「ごめん。キミとおれとは、初対面。そう思ってくれるんだろ」
 陽奈にとっては、翼は同性の古くからの友人。だから何気ない行動でしかない。だが翼にとっての陽奈は、まだ自分を深く知っているらしいというだけの他人で、感覚的には異性。頭では陽奈の気持ちも想像できるし、さっき泣き喚く姿まで見せているし、相手が武蔵だとも思うから抵抗は薄れているが、まだまだ遠い関係。
 「…………」
 陽奈はまた哀しげな顔をしたが、だが彼女は強かった。少なくとも、辛そうな姿を、翼に多く見せたりはしない。
 「そうだったね。ごめんなさい」
 「……帰ろう。送っていくよ」
 歩き出した翼の横に、陽奈はすぐに並ぶ。
 「荷物、翼くんのところに置いてきちゃったから、家まで行っていい?」
 「……いいよ」
 「翼くん、寒くない?」
 「そっちこそ」
 翼の部屋に来た時に着ていたノーカラージャケットを、今の陽奈は羽織っていない。標準服そのままのセーラー服に赤いスカーフ姿で、陽奈には自然でよく似合っていた。
 「じゃあ、急がないとね」
 「……そうだな」
 こんな会話は、傍から見ると、女の子同士のありふれた何気ない会話にも見えるかもしれない。翼の物言いが、顔立ちや声に対してアンバランスだという点を除けば。
 二人の心も、平凡には程遠かった。陽奈は少し躊躇いがちに、話題を戻した。
 「……翼はね。……口数少なくて、少しそっけなくて落ち着いてるのは、いつもなんだけど、きついふりして親しい人にはとても甘かったよ。わたしたちの前では自然に明るくて、大事な時はちゃんとあったかかった。目標を持ってて、やることはきちっとやって……」
 陽奈の声が切なげに震えて、無理に明るく変わる。
 「たまに、世話を焼かせてくれるんだけどね。わたしは翼に甘えてもらうのは好きだった。わたしもたまに甘えて、お母さんは姉妹みたいって、よく言ってたよ」
 「…………」
 男の翼の性格が明るくあたたかいかどうかは置くとしても、その関係は翼と武蔵の関係によく似ている。武蔵は一人っ子だったからだろう、翼の弟の飛鳥のことも可愛がったし、四月生まれでたった一月しか違わないのに、翼にも兄貴ぶることがよくあった。そんなふうに兄貴ぶる武蔵は、翼からはかえって子供っぽくも見えていたものだ。
 だが、今、翼の前にいるのはそんな武蔵ではなく、陽奈の前にいるのも元のツバサではない。
 「……わたしも、翼くんのこと、訊いていい? ……それとも、話すの、辛い?」
 「……何が聞きたい?」
 「ん、わたしの家、覚えてる?」
 翼は問われるままに、朝訪れたばかりの武蔵の家の住所を答える。陽奈の顔は明るくなった。
 「やっぱり覚えてることもあるんだ」
 「……覚えてる、か」
 翼の中に自然に存在する記憶。なのに、この世界の状況と一致する記憶は覚えていることになって、一致しない記憶は妄想扱い。ちくん、と翼の胸は痛む。
 「あ、ごめん」
 「いいよ。キミには間違ってない」
 陽奈には間違っていなくとも、翼にはどうなのか。陽奈はしっかりと深読みしたようだが、同時に翼の気持ちも汲んでくれた。やんわりと、話の角度を変える。
 「……わたしのこと、男って思ってるって、どういう感じなのかな?」
 「……名前は武蔵。小三の時転校してから知り合った。おれの……親友」
 子供の頃は女の子にしか見えなかった武蔵。穏やかな奴で、でも芯は強くて。勉強は特にできて、運動もそれなりで。
 「初瀬さんは、手がかからない子供だって、いつも笑って嘆いてたよ。武蔵は困った顔してたっけ」
 武蔵のところは、祖母や両親の方が子供っぽかったせいもあるのかもしれない。武蔵のゲーム好きも祖母と父親の影響だ。
 翼が武蔵の母親の名前を出すと、陽奈はまた驚きつつも、嬉しそうに声をあげた。
 「お母さんの名前、覚えてるの?」
 「ああ。お父さんは洋介さんだろ」
 「うん!」
 自分たちのことすら忘れていたくらいだから、かなり翼の記憶は飛んでいると思っていたらしい。陽奈はこくこくと、興奮したように頷く。
 「じゃあ、文月のご両親は、覚えてる?」
 「……文也の親は名前は知らないな。おじさんは、確か、雪なんとかさん?」
 「うん! ちゃんとあってるよ! おじさんは雪斗さんだよ。でもそっか、名前ちゃんと知らなかったんだね」
 「いつもおじさんおばさんとしか言わないから」
 「あは、そうだね。文月のお兄さんは覚えてる?」
 「……お姉さん、いないんだ?」
 翼のその言葉に、陽奈の喜びはとたんにしぼんだ。が、陽奈はすぐに気を取り直して、穏やかに訂正した。
 「お兄さんの純さん、だよ」
 翼はため息をついて、軽く笑う。
 「ほんと、ぐちゃぐちゃだな」
 だが、その表情には数時間前ほどの凄惨さはなかった。自嘲が混ざっているが、諦め混じりの笑顔。
 「そ、そんなことないよ。少しでも覚えてるんだから、今はそれで充分だよ。これから、必要なことは覚えていけばいいんだし」
 「もしかして、文月さんはブラコン?」
 陽奈は二度、目を瞬かせた。
 「そんなこと覚えてるの?」
 「やっぱりそうなのか」
 「でもだめだよ、翼、ブラコンなんて言ったら文月本気で怒るよ」
 翼は陽奈が自分を呼び捨てにすることを聞き流し、どこか暗い微笑を浮かべる。文也もシスコンと言うとすぐムキになっていた。今の翼が、もう二度と見ることができないかもしれない光景。
 「……そうだな。自覚があるから怒るんだろうな」
 「あは、そうだよね」
 陽奈は楽しげに明るく笑った。
 「そうだ、お父さんたちを覚えてるなら、わたしが翼にチェスを教えたのとか、お父さんとチェスをしてたのも、覚えてる?」
 「武蔵に教わったのは覚えてるよ。洋介さんとは、おれの場合は、してたというより、やらされてたという感じかな」
 「うんっ。実力同じくらいだから、お父さん負けるとすぐムキになって、翼は最後はいつもわざと負けてたよね」
 「……なんか、誰の話をしてるのか、わからなくなりそうだな」
 翼は今度は、少し冷笑気味に笑う。いつもわざと負けてたよね、と言われても、翼は陽奈の前でチェスをしたことはない。
 「え、んと、翼の話、だよね?」
 「……キミがおれに言うのはそうだな。おれが話してるのはおれと武蔵の話」
 「ん、そう、だね。……うん。わかってる」
 どこまでわかっているのか疑問だが、翼は切なさを押し殺すだけで追求はしない。そのまま話を流した。
 「キミも、チェスは上手い?」
 「うん、お父さんと翼よりはね」
 穏やかに言うが、さりげない謙遜に溢れていた。翼はなんとなく武蔵を思い出して、ちょっと微笑む。武蔵は父親に教わったというチェスが得意だったが、小学校の頃からその父親より遥かに強くて、洋介はよくいじけていた。そのとばっちりで翼が相手をさせられていたわけで、実力は伯仲していたので楽しくないことはなかったが、たまに翼は困らされたりもしていたものだ。
 「武蔵は子供の頃から、面倒見のいい奴だったよ」
 溢れる気持ちを隠しもせずに、翼は感情を吐き出すかのように、色々なことを話した。武蔵は芯は強いがスマートに柔らかい性格で、優しい奴で、翼はなんだかんだ言いつつ頼りにしていたこと。中学では生徒会の副会長を押し付けられていたし、高校でも今年は隣のクラスの委員長をやらされていたこと。そのくせ、翼が楽をしようとして武蔵に物事を押し付けようとすると、交換条件をしょっちゅう持ち出していた上に、翼の兄貴ぶってよくお説教をしてくれたこと。
 そんな武蔵ともう会えないかと思うと、翼の胸は苦しくなる。だがそんな翼と裏腹に、陽奈は正反対の感情を抱いたらしい。少し照れくさそうに何度も頷きながら話を聞いていた陽奈は、嬉しそうに笑い、突然明るく言い放った。
 「自分でできることは、ちゃんと自分でやらないとだめだよ、翼」
 翼の知る、武蔵と同じような態度。同じような言葉。同じような視線。翼ははっとしたが、陽奈もはっとした。少し慌てたように表情を変える陽奈に、翼は初めて素直な笑顔を見せた。
 「……キミは、本当に武蔵なんだな」
 切なさがまだ混じってはいるが、嘘偽りのない笑顔。静かな大人びた笑顔。
 「え?」
 「そうだよな、妄想なら、おれはキミから武蔵を作ったってことだもんな……」
 「……翼くん?」
 「いや、おれもキミを知ってるのかなと思って」
 翼は優しく笑って見せる。陽奈の表情も、ぱっと笑顔になった。ちょっと泣きそうだったが、華やかに明るい、心からの笑顔。
 「うん、そうだよ。翼くんも、絶対わたしを知ってる」
 だってツバサだから、とまでは口には出さないが、陽奈の態度は言外にそう主張していた。翼はもうそれを拒絶せずに、辛さや切なさを自分の中で消化して、静かに微笑む。
 「あ、翼くん、バスケのことは、覚えてる?」
 「四年生の時から、武蔵と一緒にはじめたよ。武蔵は家にこもりがちだったから、引っ張り出したんだ」
 「うん、翼ちょっと強引だったよね。わたし引っ込み思案だったし、ピアノの練習とかゲームとかばっかりであんまり外に出なかったから、気を遣ってくれたんだよね」
 祖母や父親の影響で、テレビゲームなど大人しめの遊びが好きで、外で遊ぶよりは家の中での遊びを好んでいた武蔵。ピアノは保母である母親の影響だ。女の子の陽奈には、ピアノは似合ってもテレビゲームの類は似つかわしくないが、そう思うのは翼の偏見なのだろう。どこまでも似ている陽奈と武蔵に、翼は一歩間違うと泣き顔のような、笑うしかないという微笑で応じた。
 「気を遣ったんじゃないよ。単に武蔵を巻き込みたかっただけだから。武蔵はバスケ上手かったけど、キミも上手い?」
 「わたしは、そんなに上手くはないよ。文月と翼は上手いけど……覚えてるかな?」
 「おれは普通かな。あ、そう言えば、新人戦は?」
 「ん、……文月、がんばったんだけどね。負けちゃった」
 「……そうか。文月さんは、キャプテン?」
 「うん。……前は、インターハイに国体にウィンターカップにって、燃えてた」
 「……前は、か……」
 「あ、んと……」
 「いいよ、ごまかさなくても」
 翼の記憶の中の文也も、翼が精神病で入院などして学校も休んでしまえば、部活どころではなくなるかもしれない。文月が文也と同じなら、そういう面でもやはり彼女に迷惑をかけているのだろう。
 「文也も、よくそう言ってたよ」
 「フミヤ……っていうのが、文月?」
 「ああ。松本文也。フヅキでも男の名前で通用しそうだけどな。なんでフミヤなんだろうな」
 翼は沈みかけた空気を隠すように、軽く笑ってみせる。陽奈もそれがわかるのか、つられたように「なんでだろうね?」と、少し笑った。
 「でも翼、わたしが男の子だったら武蔵って名前になってたの、わたし、話したことあったかな?」
 「……さあ。おれの記憶にはない」
 「あ、ごめん」
 「いちいち謝らないでほしいな。おれと関わるのをやめる気なら別にいいけど」
 「絶対いや」
 やけにきっぱりと、陽奈は言う。翼は冷たい表情で笑った。
 「悪いけど、礼は言えないよ」
 「怒るよ」
 立ち止まった陽奈の瞳は真剣だった。
 「好きでやっていることだから、礼なんていらない」
 翼も足を止め、その表情に思わず少し見惚れた。大人しそうな可愛い顔立ちなのに、凛然とした瞳。強くまっすぐに、翼を見つめるその瞳。
 「…………」
 本当なら、翼が男のままで陽奈が陽奈なら、この瞳はもっと低い位置にあっていたはずだ。だが今は、ほとんど同じ高さ。まっすぐな位置にある、陽奈の顔。
 翼は視線をそらし、表情を消して、正面を見やった。
 「おれは、治る努力をするとも約束できない」
 陽奈も顔を前に戻した。
 「うん、いいよ、それで」
 強い声。
 「翼くんが前向きになってくれれば、今はそれ以上は望まない」
 「……前向き、か」
 「……それも、望んではだめなの?」
 「……今は、ちゃんと生きてみるよ」
 翼が約束できるのは、まだそこまで。
 「…………」
 陽奈は再び翼を見て、それからしっかりと頷いて。
 すぐにまた、話題と一緒に表情を明るく変えた。






 夜、寝る準備をして部屋に戻った翼は、ベッドに横になってCDを聴きながら、与えられた情報を整理していた。
 見方によってはひどい二十四時間だった。感情がかき乱されっぱなしだったと言っていい。前夜の見知らぬCD。朝の散歩。夕方の友人の来訪と、その後の陽奈とのやりとり。そして今さっきまでの家族との対話。
 夕方家に帰った翼は、食事前に入浴を済ませた。食事を先にとると、入浴時の嫌悪感でせっかく食べてしまった物を戻してしまうからだ。昨日同様、父親も夕食に間に合うように帰ってきて、翼はここで、大きく動いた。自分が幼かった頃のことを、両親に自分から色々と尋ねたのだ。
 両親は翼の態度に驚いたようだが、悪いこととは受け取らなかった。まだまだぎこちないが、むしろ積極的に、色々なことを話してくれた。
 翼の小さい頃のこと。両親自身のこと。翼も顔馴染の両親の知り合いのこと。それぞれの田舎の翼の祖父母や、親戚のこと。
 翼の記憶と重なる話と、重ならない話と。翼も元の人格のツバサも、どちらも最初から知らないような話と。
 普段より長引いたそんな夕食は、和やかと言うにはちょっと異様なムードだったが、家族の時間としては悪くはなかった。翼のこの一件がなければ、生まれなかったであろう家族の対話。やはり翼の態度や口調には何度も怯まれたし、気まずい沈黙が訪れたこともあるが、普段むっつりとした父親が実は饒舌にもなれることを見せ付けられたりもして、翼はかなり意外な驚きを味わったりもした。妹の飛鳥だけはあまり口を開かなかったが、父親と母親が一緒に楽しげに笑う場面もあって、翼は自分が両親をいかによく知らなかったかを思い知らされた形だ。
 夕食後も両親は翼に付き合ってくれて、解散になったのは、午後十時をまわって母親が飛鳥にお風呂を促してからだ。口数が少ないわりに動きたくなさそうな妹に気を遣って、翼は「そろそろ部屋に戻るよ」と、意図的に一人称を抜いた発言をして、席を立った。
 両親が名残惜しそうな顔をしたのも、翼にとって新鮮な体験だった。
 「……これで、身体が元のままならな……」
 ベッドに仰向けに寝転がって、翼は天井を見つめる。
 自分の記憶と世間の認識との不一致は、嫌々ながらも受け入れる気になった。二重人格と言われる状況も、仮定の現実として諦めがついてきた。だが身体の感覚への嫌悪感は、どうしても消え去らないし、無視することもできない。
 「せめて気持ち悪くさえならなければ、さっさと受け入れる気にもなれるのに……」
 簡単に感情がかき乱されてしまうのだから、どうしようもなくやっかいだった。嫌でも理性で感情を抑えるしかなく、その分余裕が削がれる。陽奈にはちゃんと生きてみるなどと言った翼だが、正直憂鬱だった。
 諦めたとはいえ、嫌なのも辛いのもかわらない。落ち込んでも何も始まらないとわかっていても、深く考え出すとまた泣いてしまいたくなる。
 本当に涙が溢れそうになった時、小さくドアがノックされた。
 父か母か妹か、誰がなんの用なのか。翼は目をこすりながら身体を起こして、リモコンでCDのボリュームを下げた。気持ちを鎮めてから、「起きてるよ」と翼がゆっくりと短く言葉を返すと、そっとドアが開き、お風呂上りの妹が姿を見せる。
 そんな妹の姿を見た翼は、態度の選択に迷って、すぐに視線をそらせた。
 中学一年生の飛鳥は、今翼が着ている物と同じような、シンプルなワイシャツタイプのパジャマに身を包んでいた。まだまだ、色っぽいというよりも、幼く可愛らしいその姿。成長を見込んでワンサイズ大きめなのか、シャツの袖とズボンの裾を一つずつ曲げているのも、子供っぽさの方を強調する。肩までの長さのまっすぐな髪が、艶やかに光を反射していた。
 もしも飛鳥がもう少し成長していたら、翼は飛鳥を異性として意識してしまったかもしれない。だが翼から見た今の飛鳥はまだ子供だった。しかも、普段の気の強さがすっかりと抜けている今の飛鳥の表情は、どこか不安げで幼子のようだ。翼の知る幼い頃の弟の面影が、そんな表情には強く宿っている。
 「姉さん……、まだ、寝ない?」
 姉さん、という単語は、翼の感情をマイナス方向に刺激するが、それを人に見せることを、翼はもうしない。辛い気持ちはすべて押し殺して、ベッドに座り直して、優しく笑顔を見せた。
 「ああ。何か用?」
 「……入っていい?」
 「……いいよ」
 飛鳥はこわばった顔でゆっくりと部屋に入ってきて、ドアを閉める。
 「……隣、座っていい?」
 どこか躊躇うような飛鳥の声。まだ彼女をよく知らない翼は、真意を量りかねながらも「いいよ」と、もう一度頷いた。その瞬間、飛鳥は素早く、大胆に動いた。
 飛鳥は翼の横に座り込んだかと思うと、俯いたまま翼の腕を抱きしめていた。飛鳥の髪が揺れて、リンスの匂いなのか何なのか、甘い香りが室内にそっと優しく漂う。
 翼は反射的に振りほどこうとしたが、飛鳥の言葉の方が早かった。
 「お姉ちゃん」
 さっきと違う、その呼び方。
 「…………」
 翼の記憶の中の弟も、小さい頃は兄を「お兄ちゃん」と、そう呼んでいた。いつ頃から「兄さん」になったのか、翼はよく覚えていない。飛鳥が小学三年生の時にはまだ「お兄ちゃん」だった記憶はあるが、六年生に上がる頃にはすでに「兄さん」だった。
 その時期はちょうど、翼が中学に上がった頃。それまでの翼は、飛鳥のわがままに辟易することもあっても、本気で邪険にすることは滅多になかったし、余裕がある時は甘えさせてもいた。だが中学に上がる頃から、外に目が向きすぎるようになったからだろう。部活や遊びに熱中して外にいる時間が増え、家にいる時は物理的に疲れていることも多かったし、弟の相手をまともにしなかった。相手にしないどころか、ひどく冷たくしたこともある。その因果なのか、高校に上がって翼も少し大人になって、弟を気にするようになった頃には、すでに飛鳥は兄に心を開かなくなっていた。
 「……ちっちゃい頃は、ずっとそう言ってた?」
 翼は懐かしさと、切なさと苦しさを感じながら、妹になってしまっている飛鳥を見やる。時がたてば、また再び自然に仲良くなれていた可能性はある。だが今は、翼の前に、弟はいない。
 飛鳥は拒絶されると思っていたのかもしれない。翼の静かな言葉に、飛鳥の肩から、すっと力が抜けた。
 「覚えてる、の……?」
 「……お兄ちゃん、だったけどな」
 「……わたし、お兄ちゃんなんて、言ったことない」
 「だろうな」
 「……お姉ちゃんはお姉ちゃん、だよね?」
 「そう、なのかな」
 「…………」
 ぎゅっと、飛鳥が腕に力を入れる。中学一年生の女の子の、ささやかすぎる胸のふくらみが押し付けられたのは内心ちょっとドキッとしたが、性衝動に繋がるものではなく、翼は嫌悪感を覚えない。湯上りのせいか飛鳥の身体は温かく、翼に純粋にぬくもりを伝えてくる。
 「甘えん坊なんだな。反抗期とか聞いてたけど」
 「……お姉ちゃんが、冷たかったから」
 「……そうだな。おれの記憶だと、積極的に優しくはなかったかな」
 「お姉ちゃん、中学に入ってから、遊んでくれなくなったわ」
 「バスケと歌にはまってた?」
 「そうよ。わたしが部屋にきても、すぐじゃまだって追い出してた。わざと、ヘッドホンつけたこともあった」
 「もしかして、いきなり引っこ抜いてケンカしたりとか、したのかな?」
 「お姉ちゃん、わたしをぶったわ。ヘッドホンの音量をおっきくした時は、何日も口をきいてくれなかった。わたし、何度も謝ったのに」
 性別が違うのだから、おそらく詳細は大きく違っているはずだ。だがそれだけ聞けば、まるで自分と弟の間であったそのままの出来事。翼の記憶では、しまいには弟の飛鳥は泣きながら謝っていた。それでもその後何日か無視したのだから、その頃の翼は、あまり優しい兄ではなかった。
 「同じなら、ごめん。ひどいことしてた」
 「……今謝ったって、遅いわ」
 「……そうだな」
 翼はもう、一生弟の飛鳥には謝れないのだろうか。そしてこの目の前の女の子も、本当の姉である元のツバサから、一生謝ってもらえないのだろうか。
 考え出すと、苦しくなる。翼は話題を変えた。
 「父さんは、いつもあんなにしゃべるのか?」
 「……ごまかした」
 「…………」
 弟にならもっと冷淡な口調が使えるのだが、可愛らしく責められても、どうもやりづらい。翼が困ったような顔をすると、飛鳥はやっと少しだけ、表情を緩めた。
 「わたしも、あんなにしゃべるお父さん、初めて見たわ」
 「やっぱりそうか。さっきはかなり驚いたよ」
 「いつも無口だけど、お姉ちゃんが入院してからは、もう怖いくらいだったんだから。きっとその反動だわ。お父さんも、やっぱりちゃんとお姉ちゃんが好きなのよ」
 「飛鳥ちゃんのことも、ちゃんと好きだと思うよ」
 「……だといいけど」
 「……おれも、飛鳥のことは好きだった。だから前も、きっと飛鳥ちゃんのこと、好きだったよ」
 「……今は?」
 飛鳥の声は震えて、その顔は翼を見ようとしない。翼はじっと、そんな飛鳥を上から見つめる。
 弟だったはずが、妹になっている飛鳥。
 それまでの関係がどうであれ、本当に、一生懸命に姉を心配してくれているような飛鳥。今の飛鳥の振る舞いは、翼に悪い印象を与えない。現時点で彼女を嫌うのも冷たくするのも、翼には難しい。
 もしかしたら翼は、まだ出会ったばかりのこの女の子を、弟のかわりにしようとしているだけなのかもしれない。幼い彼女を思いやることで、単に自分の苦しみから逃避しようとしているだけなのかもしれない。
 だとしても、翼は自分の気持ちを偽る必要性を感じなかった。
 「飛鳥ちゃんのことは、傷つけたくないって、思ってる」
 素直な本音。
 もう二度と会えないかもしれない弟の分も、自分が本当に狂っているのなら元の人格のツバサの分も、翼はできるだけ飛鳥のことを思いやりたかった。
 「……まだ、ちゃんなの?」
 力を緩めずに、飛鳥は顔だけを上げる。求めるような、縋るような、真剣な表情。
 翼はその視線に、少しだけ微笑む。
 「昨日の今日だよ」
 「……覚えてることも、あるんでしょう?」
 「……兄として、弟の飛鳥をね」
 「……でも、同じ、なんでしょう?」
 「どうかな。重なる部分と、重ならない部分がある。飛鳥ちゃんも、話を聞かせてくれるかな?」
 「……お姉ちゃん、お父さんたちには、自分のことはあんまり話してなかった」
 「……重ならない部分は、おれの方は話してもしかたがないから」
 「わたしは、聞きたい」
 「……きついと思うよ」
 もう状況を受け入れつつある当事者の翼ですら、聞かされる側に立つと辛いのだ。飛鳥がどこまで冷静でいてくれるのか、翼には予想が立たない。
 「それでも、聞きたい」
 飛鳥はまた、顔を翼の肩にうずめた。
 「お願い、お姉ちゃん」
 震えていたが、しっかりした飛鳥の声音。
 翼は吐息をついて、妹の身体を、ゆっくりと引き剥がそうとした。
 「やだっ」
 飛鳥は幼い仕草で、嫌がってさらにしがみつく。
 「勘違いするなよ」
 翼は優しく微笑んで、飛鳥の頭をそっと小突いた。
 「寒くなってきたから上に着たいだけだよ。飛鳥ちゃんも何か引っ掛けておいで。それから話そう」
 その日は、さらに長い一日になった。






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初稿 2004/10/26

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