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 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第四話 「他人」


 翼が今おかれたこの状況が、本当に現実なら。
 現実で、本当に精神の病気なら。二重人格なのなら。
 この場合、翼の理性が真っ先に考慮するのは一つ。このまま今の自我のまま生きていくか、それとも治療を本格的に受け入れて、元の人格とやらを取り戻す努力をするか。
 翼本人にとってどちらがいいのかは微妙だ。正直これが現実ならやはりいっそ死んでしまいたいと思う。元の人格なんて知ったことかとも思う。
 だが、周りの人間のことを考えれば、明らかにその努力をすべきなのだろう。その結果、今の翼の人格が消滅するとしても。
 もう一つ、翼は再び非現実的な可能性を考えた。
 「一晩で、世界の方が変わった。おれがおかしいんじゃなくて、世界がおかしい」
 退院した翌日。散歩から帰って来て、昼食も取った後。
 自分の部屋にこもって、CDを聴きながらベッドに座り込んでいた翼は、自分の想像に冷たく笑った。まさに妄想癖のある人間の発想に思えたからである。
 超常現象を疑うなら、本当に様々な可能性がありそうだった。心だけが別世界に放り込まれたのかもしれないし、本当に一晩で世界が作りかわったという可能性もないとは言えない。どこぞの神は一言で宇宙を作ったらしいのだから、人の想像力の限界以上に、可能性だけなら存在する。
 なんにせよその場合はどうやれば元に戻れるかが問題になるが、原因が解明できるとも限らず、解明できても元に戻れるという保証はない。
 「やっぱり夢に決まってる」
 翼はそう呟いたが、すぐに軽く首を振ると、両膝を抱くようにして座って、膝に額を預けた。長い髪で顔が隠れてしまうのが、今の翼には酷くうっとうしい。
 いくら夢だと思いたくとも、もう夢だと安直に片付けるわけにはいかなかった。感情がすぐに理性を捻じ曲げようとしても、どんなに不快でも苦しくても、今はそれを許すわけにはいかない。
 この嫌な状況を、嘘でも現実だとみなそうと決めたのだから。
 「現実的にいくと、やっぱりおれの頭がおかしいのか……」
 実に嬉しくない結論だった。だがどんなに嬉しくなくとも、それが一番現実的と思える発想。すぐには覚悟はできないが、まずはこの状況を受け入れるだけ受け入れたつもりになって、冷静に対処していくしかない。もしこれが現実ではないとしても、本当は病気などではないのだとしても、当面現実だと思って生きていくことで見えてくるものもあるはずだった。
 が、やはりここまでは理屈だった。翼は自嘲気味に笑った。
 「このまま生きるって? 笑っちゃうな……」
 どんなに理屈をこねまわそうと、感情の問題として、この状況のほとんどを嫌だと思う自分が存在する。物理的にも、自分が女だと強く意識するたびに吐き気がするのだからたちが悪い。
 百歩譲ってこの状況を受け入れても、この状況で生きていかなければならないことは、記憶の面でも身体の面でも心の面でも、はっきり言って今の翼には辛すぎる。
 それでも、翼は翼だった。理性で強引に、感情を抑える。今の翼に、再び狂うつもりはない。どこまでできるかは自分でもわからないが、感情に任せて取り乱すつもりもない。
 そして、簡単に死ねるほど強くも弱くもない。
 「……きついな………」
 翼はベッドに身体を倒して、腕で目を覆った。泣きたくとも、なぜかもう涙も流れない。



 まだまだ考えるべきことは多いとわかってはいても、現実逃避の対象があるのはやはりありがたかった。聴き慣れないレベルの高い歌の数々に、翼の気は多少紛れる。家のインターホンが鳴った時、翼は無理がない程度まで冷静さを取り戻していた。
 ベッドから身を起こして時計を見ると、時刻は午後四時を少し回っている。身体の自然現象に不快感を刺激させられながら、翼はCDの曲が終わるのを待ってから、一階におりた。トイレは何度やってもうんざりだった。吐き気が襲ってくるのもやめてほしい。
 簡単に感情が揺さぶられる身体に苛々しつつ、翼は部屋に戻ろうとしたが、階段の前で母親に呼び止められた。
 「翼、ヒナちゃんとフヅキちゃんが来てるわ。どうする?」
 蓮見陽奈と松本文月。この身体の元の人格のツバサの、最も親しい友人たち。
 遠からずこれがあると予測してはいたが、翼は心の準備をまだしていない。黙り込んでしまった翼に、亜美はぶっきらぼうに言葉を連ねた。
 「今リビングよ。まだ会いたくないなら今日は帰ってもらうけど?」
 「……会うよ」
 正直どう振る舞っていいかわからないし、会うとしてもまだ早い。そう思ったが、翼は小さく頷いていた。これが現実だというのなら、「武蔵」や「文也」と会うことは何かのとっかかりになるかもしれない。「陽奈」と「文月」が、翼の知る彼らとまったく違うのだとしても、どうせいつか会うのなら、面倒なことは先に済ませたいという心理もあった。
 翼は気持ちを口にはしなかったが、口調で伝わったらしい。亜美はじっと娘を見て、彼女も少し苛立たしそうに髪をかき上げた。娘を充分心配しているのだが、それが面倒くさげに見えるのだから、やはりそれは彼女の悪癖だった。
 「あんたの部屋に通した方がいい?」
 あたしも付き合おうか? という気持ちを、亜美は口にしない。「任せる」と短く受け答えする翼に、亜美は不満げに頷いた。
 「…………」
 「…………」
 翼はまだ何か言いたそうな母を数秒見たが、亜美はぶきっちょ面で長女を見やるだけで何も言わない。翼は沈黙に耐え切れなくなって、母の傍を離れて階段に足をかけた。
 「なんかあったらすぐ呼びなさいよ」
 亜美の声は大きくはなかったが、翼の耳にしっかりと響いた。
 翼は足を止め、ちらりと振り返る。母親よりは素直に、翼は言葉を紡ぐ。
 「……そうする。……ありがとう」
 翼は母の反応を見なかった。
 そのまま階段をのぼった翼が二階に辿り着くと、いつの間に学校から帰ってきていたのか、私服姿の妹が立っていた。
 「……陽奈さんたちが、きたの?」
 緊張気味の顔でまっすぐに問われて、翼は「みたいだな」と短く応じる。
 「……陽奈さんたちのことも、覚えてないのよね……?」
 「ああ」
 翼は返事だけすると部屋に入った。
 「あっ……」
 どことなく悲しそうな妹の幼い声に、翼は罪悪感を刺激されつつ、ドアを閉める。電気をつけて椅子に腰をおろして、リモコンで音量控えめにCDを再生させる。
 すぐにドアの外に人の気配が漂う。妹と客が顔を合わせたようで、挨拶でも交わしたのか、何やら声が聞こえてくる。
 「……飛鳥ちゃんと二人は、どういう関係なんだろうな」
 翼の記憶の中の弟の飛鳥は、武蔵には懐いていて、文也には苦手意識をもっていたようだが、妹の飛鳥たちはどうなのか。待たされながら翼が少し余計なことを考えているうちに、ドアがノックされた。
 翼は返事をしなかったが、相手も返事を期待していなかったのかもしれない。少しだけ間があいてから、勢いよくドアが開いた。
 「やっほ〜っ。翼、元気〜?」
 翼の予想を裏切る、やけに状況にそぐわない、能天気な明るい声。
 「文月……、いきなりそれは……」
 「いいでしょっ。深刻ぶったっておなか減るだけだもんっ」
 中に入ってきたのは、翼が在籍する学校の、冬のセーラー服を着た二人の少女。陽気な声を出した背が高い少女と、今の翼と同じくらいの身長の少女。二人とも黒いセーラー服の上から、もう寒くなる季節だからだろう、学校指定のクリーム色のノーカラージャケットを着込んでいた。背の高い少女はジャケットのボタンをすべてはずしていて、赤いリボンが顔を覗かせている。もう一人の少女はきちっとボタンをとめていた。ボタンをちゃんととめると、黒い襟を持ったクリーム色のセーラー服といった印象に見える格好だ。
 病院で母親が写真と一緒に教えてくれていたから、翼には二人の顔と名前がすぐに一致した。
 陽気な声を出した背の高い方の少女が、松本文月。言われてみればという感じで、翼の友人の松本文也の面影がある。が、少しシャープな顔立ちだが、どこからどう見ても男っぽかった文也と違って、女性ならではの柔らかさを備えていた。女子としては長身で、男だった時の翼と同じくらいの身長があるだろうか。ショートの長さの髪がさっぱりした健康的な印象で、可愛いというよりはキレイという言葉が当てはまりそうな少女だ。
 ただし、少しスカート丈を短くしている様子など大人の女性らしさには程遠く、妙に子供っぽい雰囲気があった。彼女のこの時の表情のせいもあったかもしれない。やたらと陽気な顔で、生意気そうに、幼そうに見える。翼の記憶の中の文也と、どこか重なる表情だった。
 もう一人の少女の顔は、すぐには見えない。後から入ってきた彼女は、廊下側に向かって小さく頷いてから、ドアをそっと閉めた。それからゆっくりと、微かに波打つ長い漆黒の髪を揺らして、まっすぐに翼に視線を向けてくる。
 彼女と視線がぶつかったとたんに、翼は覚悟していたにも関わらず少し取り乱して、思わず立ち上がっていた。
 その少女の名前は、蓮見陽奈。翼の友人の、蓮見武蔵のこの世界での存在と思われる少女。
 彼女は、翼の記憶の中の武蔵と、一致しないが一致して、だがやはり一致しない。武蔵は男にしては柔和な顔立ちだったが、成長した彼はやはり男だった。今目の前にいる少女とは大きく違う。
 だが、武蔵は中学に上がる前までは、本当に女の子のような外見をしていた。それこそ、翼が一目惚れしてしまったほどに。今目の前にいる少女は、そんな武蔵の子供時代の面影を色濃く持っている。だがやはり、そんな子供だった武蔵とも、また違うその姿。
 もしも幼い頃の武蔵が、そのまま女の子として成長していたら。陽奈はそんな女の子だった。黙ってにっこり微笑んでいれば、それだけで保護欲をかきたてられる男も少なくはないだろう。それでいながら、瞳には生命の輝きが溢れている。少し癖のあるさらさらの長い黒髪と、柔らかそうな頬と、白い肌と。大きめの瞳に、整った鼻梁と、可愛い唇。
 バランスよく整った容姿の、翼好みの、愛らしい少女。
 「お、ちょっと痩せた? でも、元気みたいだねっ。久しぶり、翼っ」
 「おじゃまします」
 二人の声も、当たり前だが、翼の知る男の二人の声とは大きく違っていた。文月は、キレイな容姿とは微妙にミスマッチな、だが雰囲気には見合ったどこか子供っぽい声。陽奈は、容姿そのままに愛らしいが、落ち着いた声音。
 それを含めて、写真で見ることと実物と直接会うことの差は、思っていたよりも大きかった。翼はらしくなく、緊張してしまっていた。とっさに、この状況では場違いな、初対面の相手に対するマニュアル通りの対応をしてしまう。
 「おれは久我山翼。よろしく」
 二人の反応は、露骨な動揺だった。
 「ナ、ナニ名乗ってるの! 知ってるよ名前くらい!」
 「……ほんとに、おれなんて、言っちゃうんだ……」
 文月は怒ったように叫び、陽奈も強張った顔で翼を見つめる。翼は二人のその態度にすぐに我に返ったが、見知らぬ他人である二人にどう言うべきか言葉に迷って、無表情に視線をそらした。
 妹の飛鳥の時同様、相手からは慣れ親しんだ相手でも、翼からは他人。過去を匂わされると翼自身苛立つし、相手のことを考えれば胸も痛む。
 すぐに状況を打開したのは陽奈だった。にっこりと、笑顔を浮かべたのだ。
 「わたしは、蓮見陽奈です。よろしくね、翼……くん」
 「ひ、陽奈!?」
 「ほら、文月も挨拶して。わたしたちは初対面。……それで、いいんだよね?」
 透明感のある表情で、痛いくらいにまっすぐに翼を見つめてくる陽奈。翼は後日知ることになるのだが、陽奈と飛鳥は翼の病状を知ってから、精神医学の本を読み漁っていたらしい。例えそれが強がりだとしても、今の翼を元のツバサとは別の人格とみなした上で、改めてコミュニケーションを図ろうとするのもその成果だった。
 「ナンデ初対面なの! わたしは翼の親友なんだからね! 忘れてようが狂っていようが、人格かわってたって、それだけは絶対変わらないんだからっ!」
 最初の明るい態度は強がりだったのかどうか、文月は陽奈と違い形だけでも割り切れていないようで、怒ったように声を張りあげる。陽奈は困ったような顔をし、翼も少し吐息をついて、椅子に座りなおした。
 陽奈が一人でこの場にいれば、翼は彼女を強く意識しただろう。逆に文月だけなら、押し付けられる気持ちに強い反発を覚えたか、または今以上に胸が苦しくなったかもしれない。どちらか一人だけなら、飛鳥にそうしたように、すぐに逃げ出していたかもしれない。
 だが、この二人は際どいバランスでもって翼に対面する。翼はそれに安堵感を覚えた自分を自覚したが、初対面としか思えない相手に、自分から歩み寄る性格ではない。せいぜい冷静さを取り繕って、だが相手から視線をそらして、翼は率直に言葉を返した。
 「悪いけど、おれは文月さんたちを初対面としか思えない。この先、そのつもりでいてくれないか」
 「うげ、なっ、何よぉソレ! やめてよね、さん付けなんて!」
 文月はいきなり感情的だ。事前に情報を得ているはずだが、本人の口からはっきりと聞かされると衝動的になってしまうのだろうか。翼は感じる必要がないはずの罪悪感を感じつつ、どこか他人事のようにそう思ったが、もう一人は表面上は冷静だった。
 「うん、わかってる。……だからわたし、翼くんとも、お友達になりたいな。だめ、かな?」
 まじめな笑顔で、陽奈は翼を見る。そんな陽奈をよそに、文月は暴走気味なようで、その顔はどこか泣きそうに歪んでいた。
 「む〜! だいたい、なんで病気なんてなってるの! 話し方もすごい変だし!」
 「文月! 変とか言っちゃだめだよ」
 大人しそうな顔を鋭くして、陽奈は友人を嗜める。文月は子供っぽい膨れっ面だった。
 「いいの! 変なものは変だもん!」
 「ごめんね、翼くん……。文月は、こんな子なの」
 「なぁんで本気で謝ってるのよぉ!」
 「文月! 亜美さんもおっしゃってたでしょう。今の翼くんは、わたしたちの知ってる翼じゃないんだよ」
 「でも翼は翼じゃない! そだよね翼!?」
 「……さあ。おれは文月さんの言うツバサのことはわからない」
 「や、ヤメテってば! さん付けなんてしないでよね!」
 「……飛鳥ちゃんにも言ったけど、一生このままかもしれない。その覚悟ができないなら、もう帰ってくれないか。お互い、辛いだけだろ」
 「な、飛鳥チンまでそんな呼び方ひどい! 帰るわけないもん! 一生そのままでも親友に決まってるのっ! 翼がなんて言おうと、ずえ〜〜ったい、かわらないの!」
 地団駄踏むように、だだっ子のように、文月が叫ぶ。
 翼が元の人格のツバサなら、こんな露骨な言葉は嬉しいのだろうか。だが、今の翼は、それを喜べない。むしろ自分が場違いな人間だということを強く自覚させられて、胸が苦しくなる。妹に対した時のように、やはり逃げ出したくなる。
 陽奈はもう文月を制することはしなかった。澄んだまじめな顔のまま、翼を見つめ続ける。
 「わたしも、文月と同じ気持ちだよ……。でも、わたしは、翼くんとも友達になりたい。色々、辛いかもしれないけど、また友達になってもらえないかな……?」
 「ナンデモいいから頷きなさい! 自分が翼じゃないなんて言うとぜったい許さないんだからぁ! わたし、わたし……!」
 言葉がなくなったのか、いきなりこらえきれずに涙を零す文月。翼には妙に冷めている部分と、泣いて暴れたい部分の両方が存在した。
 二人がどんな想いで翼の状況のことを受け止めていたのか、今どんな想いなのか、翼には想像することしかできない。想像できても、自分の辛い立場がある。自分も苦しみ、こんな女の子まで泣かせている理不尽な状況。まったくどうすればいいんだという感じだ。
 「文月……」
 陽奈が、文月の肩に手をかける。文月はしゃくりあげながら、陽奈の肩口に顔をうずめる。陽奈は文月を慰めながらも、瞳だけはまっすぐに翼を見ていた。
 「翼くん、本音を言うね」
 大人しそうな陽奈の顔に、強い意志の輝きが宿る。きらめくまっすぐな瞳。
 「本当はもっと、ゆっくり行くつもりだったけど……」
 翼は、その瞳から目をそらせなかった。
 「わたしは………、わたしも、やっぱりあなたに翼を見てる。あなたにとって、わたしたちのこと、やっぱり他人としか思えないのかもしれない。でも、手伝わせてほしい。文月もこんなで、この先も押し付けちゃうのかもしれないけど、だけど、気持ちは本当だから。翼のこと、心配だから。大切だから。大好きだから」
 翼にとって、勝手すぎる言い分。いきなり赤の他人に友達にと言われて、はいわかりましたなどと、そう簡単に言えるはずがない。
 翼は数秒目を閉ざした。
 なのに、好みのタイプの少女に大好きなどと言われて、ちょっと怯む自分が、翼は可笑しかった。
 この身体の本来の持ち主であるツバサの親友たち。
 同時に、翼の記憶の中の友人たちの、生まれ変わりのような存在である二人。
 そして今も、翼と友達だと言ってくれる二人。
 「……ほんと、勝手だな……」
 翼は二人に初めて、ほとんど自嘲だったが、笑みを見せる。
 「そうだよ! 勝手で悪い!? 翼だって勝手に変わっちゃったんじゃない! 翼だって勝手だもん!」
 「文月! 気持ちはわかるけど、あなたは言い過ぎだよ」
 陽奈が真剣に友人を咎める。翼はもう一度、今度は冷たい表情で笑う。
 翼は自分から歩み寄るつもりはなかった。どんなにこの状況を受け入れるつもりになっても、身体の不快感は自分の意志では消せない。それがある限り、すべてを否定したくなる気持ちを消せない。
 だが、相手が求めるのなら。
 武蔵と文也がいてくれたら、こんなふうに大胆に接してきてくれたのかなと、翼は切なさとともに思う。翼が妄想を抱いてて、二重人格を疑われている状況で、同じようにきつく、そして優しく、手を差し伸べてくれたのだろうか。
 これが現実でも夢でも、友情を押し付けてくる二人。翼の記憶の中の友人たちのような二人。
 まだ初対面同然の異性で、友達だなどとは思えないが、その友情はなんとなく感じる。異性と認識するためにやりづらいが、その気持ちは苦しいと同時に、嬉しいとも思う。相手が今の翼に元のツバサを見る以上、この先お互い傷つくことも、わずらわしいと思うこともあるだろうが、相手から求めてくるのなら翼は自分を偽りたくもない。
 ……自分を偽らずに出すことで、そのまま嫌って、離れていってもらえる可能性もある。おそらくそれが一番楽な道。
 「……言っとくけど、おれはキミたちの知るようには振る舞えないよ。それでも友達になりたいなんてほざくんだ?」
 「何言うの! もうとっくに友達だもん!」
 「わたしは、それでもなりたいよ」
 二人の意見が妙に違うのが可笑しかった。翼は苦しさに泣きそうになりながらも、大きなため息をついた。心の中にある感情を、意志の力で強引に抑えた。
 「いいよ、もう知らない。そっちから近づいてきたんだからな。後悔したって責任は持たないからな」
 「わ、わたしも!」
 その声は唐突だった。
 ドアが音もなく、だが勢いよく開き、ジュースの乗ったお盆片手に、妹の飛鳥がそこには立っていた。
 「わたしも、後悔しないから、冷たくしないで!」
 どこから聞いていたのか、幼い真剣な表情。翼は吐息をついて、妹を拒絶せずに、部屋の中に促した。



 飛鳥がドアの前で盗み聞きしている最中に、母親がジュースを持ってきたらしい。まずは落ち着くように言った翼に、しどろもどろでそんな説明をして、飛鳥は中身の入ったコップを配った。翼はずっと立ちっぱなしだった陽奈と文月に適当に座るように言い、妹には「ありがとう」と短く応じて、コップは机の上に置く。陽奈はジャケットを脱いで床のクッションに座りながら、友人の妹を優しく見やった。
 「飛鳥の分はないんだね。わたしの、あげる」
 「あ、わたしはいいです。陽奈さんは、お客様だから」
 「いいの?」
 「はい」
 「じゃあ、ありがとう」
 飛鳥は陽奈にジュースを渡すと、ベッドに腰掛けた文月の横に、ちょっと躊躇ってから腰をおろした。そっとぎこちなく、文月にジュースを差し出す。
 「……文月さんもどうぞ」
 「ぐす、飛鳥チン、アリガト」
 ようやく泣き止んだ文月が、鼻を鳴らし、コップを受け取りながら飛鳥に礼を言う。飛鳥は即座に嫌そうな顔をした。
 「その呼び方はやめてください」
 翼の鼓動が、一瞬跳ねる。姿や声こそ違うが、数週間ぶりの、懐かしいやりとり。思わずたわけた言葉が口を出た。
 「文月さんは、家族にふっくんって呼ばれてる?」
 「ふっちゃんゆーな!」
 これも微妙に単語が違うが、懐かしい言葉。
 「ってナンデわたしがクンなのっ! それにさん付けはやめてって言ったでしょ!」
 文月は勢いよく立ち上がって、手にもっていたコップの中身が零れそうになって、慌ててベッドボートにコップを置いた。
 「少しは、やっぱり覚えてるんだ……」
 陽奈は表情を明るくして翼を見る。
 「文月のこと、いつも翼は呼び捨てでね。たまにいじわるして、ふっちゃんって呼んでたよ」
 「ふっちゃんゆーなってば! ふっちゃんは絶対だめだからねっ! そーだね、文月ちゃんなら、許してあげないこともないよっ」
 涙をぬぐって、文月は大きめの胸を張る。その横で「文月さんは文月ちゃんってタイプじゃないのに」と飛鳥がぼそっと呟いたが、翼には聞こえない。
 「……じゃあ、そう呼ぶよ。文月ちゃんと陽奈ちゃん。それでいいかな?」
 「うげげ」
 文月はまた品のよくないうめき声をあげ、陽奈も陽奈で「それはあんまり嬉しくないかも……」と困った顔をした。
 「ジョ、ジョウダンに決まってるじゃん! 翼にチャン付けなんかされたら鳥肌立っちゃうよ! 呼び捨てでいいの呼び捨てでっ」
 「わたしも、できれば、呼び捨てがいいな。どうしてもって言うなら、無理強いはしないけど……」
 「わたしはムリジイするからね。呼び捨て以外絶対許さないからっ」
 「と、いうことみたいなんだけど……、どうかな、翼くん……?」
 少し窺うように、上目遣いで翼を見る陽奈。翼はちょっとドキッとしつつ、クールを装って頷いて見せた。
 「善処はするよ」
 「姉さん、ずるい……。わたしも、善処して……」
 いつのまにか、拗ねた顔をしている飛鳥。翼は無意識のうちにため息をついていた。三人が三人とも態度が違うし、翼の身体は一つしかないから、全員を同時に配慮した行動も取れない。冷静に、かつ率直に行こうと決めたものの、もう何が何やら、思考がまとまらない。
 「飛鳥ちゃんは……呼び捨てだと、弟を思い出すから」
 「…………」
 自然に零れた言葉に、三人は押し黙った。翼は嘆息だ。
 「今のおれはこうだよ。悪いけど、いちいち反応されると、かなりきついんだけど」
 「う、そ、そうだね……」
 陽奈が慌て、飛鳥が落ち込む。文月だけが唇を尖らせた。
 「つ、翼だって、わたしたちがこうなのはわかるでしょ! 翼こそ気を遣いなさい! その話し方だって気持ち悪いんだからねっ」
 理不尽な文月の言葉に、翼の唇は「むちゃくちゃ言うんだな」と小さく動いた。なんとなく文也らしさを思い起こしてしまい、笑いたくなるような、切ないような苦しい気持ちになる。
 「……翼くん、ほんとに、記憶ないんだ……?」
 「……ああ」
 「なんでそんなことになったのよぉ?」
 「さあ」
 「サアって、自分のことじゃん!」
 「文月さん、さっきから姉さんを責めないで下さい」
 「むー!」
 あの日より前の、この身体の本来の持ち主であるツバサの行動については、両親が陽奈と文月から一通りの情報収集をしていて、翼もそれを聞き知っていた。その週も前の週も特に何事もなかったようだし、前日もいつも通りだったという。朝練の時間に陽奈が迎えにきて、ごく普通に学校に行き、部活にでて、帰宅。近所に住む陽奈とは家まで一緒だったようで、その時点でも変わった様子もなく、家での翼も、夕食やお風呂を済ませて部屋に引っ込むなど普段どおりで、特筆すべきことは何もなかったらしい。
 そこまでは、性別の違いからくる細部を除けば、ほとんど翼の記憶と同じだ。問題はその後、朝方に吐いて騒ぐまでの時間。
 その間はほんの数時間で、その空白の時間に、いったい何があったのか。
 前後でパジャマは同じだったというから、こっそり外に出たとしても自分の意志である可能性が高い。その空白の時間に今回の一件の原因が隠れているのか、それとも、それ以前に何かあったのか。翼の記憶では、部屋でCDを聴きながらいつも通り過ごし、ただ寝ただけなはずの時間だが、なぜこういう状況になっているのか。検査の結果特別の外傷もなかったと言うし、医者にも家族にも、そして本人にも、それは謎だった。
 ちなみに、翼に男性に対する拒絶めいた反応があったことから、医者はレイプされてそのショックでというようなことも疑ったらしい。幸い、あの時誰かに暴行されたような跡は見られなかったと言うが、その話を聞いた時、余計なことを想像して無駄に吐いて苦しんだ翼だった。
 「わたしたちのことも、男友達って思ってたって、亜美さんに聞いたけど……」
 陽奈の問いかけに、翼は小さく頷く。
 「兄弟も、弟しか知らない。……ごめん」
 途中から妹の表情が変わるのに気付いて、翼は声のトーンを変えて付け加える。飛鳥は泣きそうな顔のくせに、キッと翼を睨んで、何度も首を横に振った。
 「姉さんは悪くない! 何度も謝らないで!」
 「ま、飛鳥チンはコナマイキだからね〜」
 「文月さんにだけは言われたくないです」
 飛鳥は泣き顔を即座に抑え込んで、年齢と可愛い顔に似合わない冷たい目で、姉の友人を見る。文月はわざと場を明るくする意図があるのかどうか、大げさにニヤニヤ笑う。
 「ほー。泣いてたこと、翼にばらしていーい?」
 文月の言葉に、飛鳥は少し顔を赤くして慌てた。
 「な、何言うんですかっ。文月さんだってさっき泣いてたくせにっ」
 「ぐ。ふ、ふんだ、飛鳥チンなんて、すっかり反抗期だったくせに。やっぱりなんだかんだでオネーチャン想いなんだよね〜?」
 「文月さん!」
 ベッドの上で、取っ組み合いでも始まりそうな飛鳥と文月。翼はそんな二人に弟と文也とが重なって見えて、驚きや切なさや複雑な思いを味わされる。陽奈は少しだけ微笑んだがとめもせずに、翼の表情に注目したまま、そのまま話を続けてきた。
 「翼くんは、今を夢だと思ってるって……それもまだそう、なのかな?」
 「それは……諦めたよ……」
 翼は顔を歪めた。
 「でも、男の記憶しかないし、自分を男だったと思ってるのもそう。世界そのものがかわってると思ってるのもそう。笑えるだろ? 見捨てた方が楽だと思うよ」
 だんだんと投げやりな口調になる翼。これを現実だと受け入れよう決めたもの、いざ口にすると、やはりすべてを拒絶したくなる。
 飛鳥が悲鳴をあげた。
 「姉さんそんなこと言わないで!」
 「見捨てるわけないじゃん! わたしは翼がわたしを見捨てたりしたら殴り倒すからっ!」
 「わたしも、そんなこと言うと、怒る」
 三者三様の言葉。文月はさらに叫ぶ。
 「だいたい、翼は全然わかってないよっ! ずっとわたしたちがどんな気持ちだったか!」
 「そっちこそ、おれの気持ちがわかるとでも?」
 冷たい視線で、翼は三人を眺める。三人とも一瞬怯んだようだが、すぐに三倍の反撃がきた。
 「ワカルに決まってるじゃん!」
 「姉さんが何も話してくれないから、わかるわけないわ!」
 「ちゃんとわかるように、話してほしい」
 「そうだよっ、なんでも話してよ!」
 一貫性なくステレオで責められても、返事も難しければ、聞き取りすら難しい三人の発言だ。翼は三人の剣幕にまた吐息をついた。ほんっとに勝手だな、と、小さな呟きが漏れる。
 「だいたい、身体はもうなんともないんでしょっ?」
 「ああ」
 「だったら後は気持ちの問題だけじゃない!」
 実に簡単そうに言ってくれる文月。唇を歪める翼。まっすぐに翼を見る陽奈。飛鳥がはっとしたように口を挟む。
 「でも、姉さん、まだ吐き気、あるのよね……」
 「え、それって……」
 「な、なんで? 身体もどっか悪いのっ?」
 「心因性の嘔吐症とか言われたよ。ストレスが原因らしい」
 翼は他人事のようにさらりと言ったが、また三人は黙った。
 「おれの心だか身体だかが、まだこの状況を受け入れてないってことなんだろうな。慣れない限りたぶんどうにもならない。慣れるとも思えないけど」
 自分の白く細い小さな手を見つめ、ぎゅっと握りしめてから、翼はシニカルに笑う。
 「妄想とか二重人格とか、笑っちゃうよな。もう本当に、誰かどうにかしてくれって感じだよ」
 「だから治そうって!」
 大きな声で、飛鳥が姉の言葉を遮った。
 「治そうって、するのよね? 治る努力、するのよね?」
 気が強そうなのに泣きそうな幼い妹の瞳が、翼を見る。翼は表情を消して視線をそらした。
 「まわりはそれを期待するよな、普通」
 「当たり前だよ! 翼は翼なんだから!」
 文月がきっぱりと言う。飛鳥はその横でコクコクと頷いた。
 「わたし、お手伝い、なんでもするわ。だから姉さんもそのつもりでがんばって」
 「そうだよっ。飛鳥チンの言うとおりだよっ。こんな頼りになるシンユーがいるんだから、ちゃんと頼りなさいっ」
 二人にとって自然な想いでも、それは翼の感情を逆撫でする。陽奈だけが、少なくとも表面上は冷静だった。
 「……翼くんは、治りたいって、思ってないんだ?」
 「……さあ。どうなんだろうな」
 今の状態は、まわりの人間にとっては、元のツバサが死んでいるようなもの。そしてこれが病気で完治すると言うことは、ある意味今の翼が死ぬようなもの。
 翼が求めるのは、自分の記憶にあるような元の身体での元の生活であって、自意識の消滅ではない。いっそ自意識なんて消えた方が楽だとも思うが、一瞬で消滅できるならともかく、そのための努力をするとなると話はまったく別だ。
 「だったらやってみればいいじゃない。やってみてだめなら、その時はその時なんだしっ」
 「そうよ、姉さん。わたしたち手伝うから、努力してみようよっ」
 「……無理はしないでいいけど、わたしも、翼くんなりにやってみてほしいな……」
 ついに陽奈まで、控えめにだが、文月たちに賛同する。本人の気持ちを無視して言いたい放題言われて、もうため息しか出ない翼だ。相手の思いやりが、やはりむしろ痛い。
 「翼だって、シンユーが急に変になったらイヤでしょっ?」
 「……わかってるよ。だから追い返してないだろ」
 だが特に文月は急すぎる。翼はまだ時間がほしい。
 「なんにせよ、もう少し待ってくれないか。せめておれが落ち着くまで」
 「充分落ち着いてるじゃんっ。冷たいしそっけないしっ」
 「……うん、わたしも、そう見えるわ。姉さん、すごく冷たい……」
 「初対面の相手に、取り乱して泣き喚けって?」
 「ダカラ初対面じゃないもん!」
 「何度も言いたくないけど、そう思ってくれないかな。はっきり言うけど、キミたちはうっとうしすぎる。おれがどうするのか決める前に押し付けるのはやめてくれ。また狂って暴れて自殺でもしようか? このまま生きるくらいなら死んだ方がましだ」
 今度はすぐには反論はこなかった。絶句する飛鳥と文月に、視線を鋭くする陽奈。翼は少しはっとしたが、もう遅い。最後の一言は、半分は本音なだけに特に余計だった。
 「……かなり、無理、してるんだね。今」
 「……ああ」
 陽奈の静かな言葉に、翼は無表情に、生気のない声で答える。この静けさこそが、翼の最後の自制心だった。
 「わたしたち、どうすればいいかな……?」
 「本当にまだほっといてくれないか。他人にあたりたくないんだ」
 「あたればいいじゃないっ!」
 急に文月が立ち上がった。また泣きそうな顔で、翼に詰め寄る。
 「言いたいことも全部言えばいいじゃない! 誰も責任もてなんて言わないもん! いっつも大事なことは一人でうじうじ悩んで、わたしたちは友達じゃないの!?」
 「だから!」
 いいかげんに限界だった。翼は抑えきれずに反射的に怒鳴り返した。
 「他人だって言ってるだろ!」
 言い切ったとたんに、翼の頬に衝撃が走った。
 「ふ、文月さん!」
 「文月!」
 飛鳥と陽奈が驚いて非難の声をあげる。平手で頬を叩かれた翼はカッとして立ち上がり、拳を握り締めてふりかぶった。
 が、文月を見上げたまま、翼はすぐにぐったりとその手をおろした。
 「なんで……、キミが泣く……」
 「当たり前じゃない! 翼が翼じゃないなんて、あんまりだもん……!」
 文月はそのまま、声をあげて泣きじゃくりながら、翼の腕をとって泣きついてくる。翼は振りほどきたかったが、できなかった。抑えていた感情が溢れる。いつのまにか、翼の瞳からも涙が零れそうになる。
 「くそっ、もう! なんで! なんでおれがひとを気にしなくちゃいけない! 自分のことだけで一杯なのに!」
 「知らないもん! ひどいよ、おれなんて言って、冷たいし怖いこと言うし、わたしたちのことも他人だなんて……!」
 ぐずぐず泣きながら、文月が喚く。飛鳥までも両手で顔を覆って泣き出していた。陽奈だけが一人、静かに翼と文月の傍に歩み寄ってくる。
 「わたしたち、じゃま……?」
 「おれは!」
 翼は片手でぐっと涙をぬぐって、怒鳴る。
 「おれはここにいたくない! さっさと夢から覚めたい! 元に戻って、普通に生きたい! ただそれだけなのに……! なんで!」
 涙が止まらなくなって、翼は陽奈から顔をそむけた。翼のその言葉に、文月の泣き声がいっそう大きくなり、飛鳥が嗚咽を漏らす。陽奈は、彼女も辛そうに天井を見上げた。
 CDの微かな音と、三人の泣き声と。
 夕暮れ時の室内を、ただそれだけが包み込む。



 真っ先に泣き止んだのは翼だ。ぐすっと鼻を鳴らし、目をぬぐう。それを待っていたかのように、陽奈がゆっくりと翼にハンカチを差し出してきた。
 翼はそれを受け取り、顔に押し付けてから、呟いた。
 「……ありがとう」
 「……うん。……翼くんは、本当はまだ夢だと、思ってるんだね」
 まっすぐに陽奈は話をぶり返す。翼はまた怒鳴りかけて、歯を食いしばった。
 飛鳥が泣き声で叫ぶ。
 「陽奈お姉ちゃん、もうやめよう!」
 「だめ。翼くんが納得するまで、わたし、なんでもするよ。夢でも、病気でも、どちらでも、翼くんは翼くんだから。だからやめない」
 「わたしは、もうだめ……」
 まだぐずぐず泣きながら、文月が唐突に言う。
 散々親友だとか騒いでおきながらこれ。だがこれが翼の望む反応だった。翼はやっと、少しだけ笑った。悪趣味な、自虐的な笑いだった。
 「陽奈ちゃんも飛鳥ちゃんも、おれのことなんて忘れなよ。その方がお互い楽だろ」
 「だめに決まってるもん!」
 いきなり文月はそう怒鳴って身体を起こすと、至近距離から振りおろすようにして、また翼を平手で叩いた。
 「いっ……」
 「文月!」
 「文月さん!」
 「翼を返して」
 「…………」
 その言葉は、殴られるよりも、きつい一発。
 今の翼の全面否定。
 理不尽だと思う。勝手なことを言うなと叫びたい。
 だが、夢ではないなら。翼自身、考えていたこと。この状態は、周囲の人間にとって、元のツバサが死んでいるようなもの。そして今の彼女たちにとって元のツバサが死んでいるようなものだというなら、今の翼にとって、弟や文也や武蔵たちが死んでしまっているようなもの。
 翼の世界そのものが崩壊している現実。
 泣きながら、文月は静かな真剣な表情で、翼を睨む。
 もう一発、翼は叩かれていた。翼は両頬の痺れをじんじん感じながら、倒れこむように椅子に腰と落とした。
 「文月さんやめてっ!」
 「文月やめなさい!」
 「わたしはもう翼だなんて思えない。だって全然違う! 翼は冷たい時もあったけど、こんなひどいこと言わない! 飛鳥チンもいるのに他人だなんて、ひどすぎるよ!」
 また文月が翼の頬をぶとうとする。飛鳥と陽奈が飛びかかって、文月の腕を後ろからつかんだ。
 「文月!」
 「お姉ちゃんにひどいことしないで!」
 「だってこいつは翼じゃないんだもん! ひどいよ、ひどすぎるもん!」
 文月は暴れながら翼を睨み、泣き叫んだ。
 「返して! 病気でもなんでも、翼なのに翼じゃないなんて! 翼を返して!」
 「……返せるもんなら、返したい」
 弱々しく呟き、翼は片腕で両目を覆った。
 だから自分にも返してほしいと、心から思う。元の身体と、元の世界と、元の家族と、元の友人たちとを。
 「お姉ちゃん……」
 飛鳥が泣き、文月が絶叫した。
 「だったらせめてがんばるくらいして見せてよ! でないと! でないとあんまりだもん……!」
 文月の腕から、やっと力が抜ける。厳しい表情だった陽奈は、彼女もはじめて、泣きそうに顔を歪めた。
 「だめだよ、文月。一番辛いのは、翼くんなんだよ……」
 「わかってるもん、そのくらい! でも、やっぱり翼なんだもん……! 翼が目の前にいるのに……!」
 わっと、文月は陽奈の胸に顔をうずめた。飛鳥も、唇を噛み締めて姉と同じように腕で顔を隠す。
 陽奈は大きな吐息をついた。
 「……ごめんね、翼くん。わたしたち、ほんとに、まだ会うの、早かったね……」
 だがその発言はいまさらだった。そしてここまで踏み込んだ以上、陽奈もすぐには退けない。
 「でも、わたしは、今の翼くんでいいよ。今のままの翼くんで、何も悪くない」
 「陽奈お姉ちゃん、もうやめて!」
 冷静すぎる陽奈に、飛鳥が陽奈の腕をつかんでまた叫ぶ。文月も顔を上げて怒鳴りかけたが、陽奈はそれを澄んだ大きな声で制した。
 「文月はもう黙って! あなたは全然わかってない。自分の気持ちだけ押し付けすぎてる。黙っていられならいなら、もう帰りなさい。あなたは、今の翼の友達の資格、ない」
 強い、きれいな口調できっぱりと言い切る陽奈。文月は陽奈の腕の中で、子供のようにべそをかいた。陽奈は、その横ですがるような涙目を向けてくる飛鳥を見て、鋭い視線で微笑んで見せる。
 「飛鳥も、もうちょっと黙ってて」
 そして翼。ぐったりと、椅子に背を預けて、腕で目を覆っている翼。
 「翼くん、わたしは、何をすればいい?」
 翼は顔を隠したまま、小さく呟いた。
 「……もう帰ってくれないか」
 「言うと思った」
 陽奈は笑った。強い笑顔だった。
 「でも、帰らないよ。わたしはお医者様じゃないから、難しいことはできない。でも、友達としてなら、友達しか、できないことがあると思うから」
 「じゃあおれを殺してくれ」
 「お姉ちゃん!」
 「なんでそんな甘ったれたこと言うのよぉ!」
 強い悲鳴とともに、また文月が動いていた。陽奈の努力を、あっさりと台無しにしてくれる。
 「あんたは翼の人生をむちゃくちゃにしてるのに! 今ここにいるんだから、翼の分までちゃんと生きてよぉ! でないと翼がかわいそうじゃない!」
 「おれの人生もむちゃくちゃだよ! もう帰れ!」
 翼は立ち上がった。帰れと言いながら、自分で動いていた。そのまま走って、翼は自分の部屋を飛び出した。三人の声が聞こえたが、もう本当に限界だった。






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初稿 2004/10/26

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