戻る


 キオクノアトサキ

Taika Yamani. 


  第一話 「記憶の跡先」


 どんな夢を見たのか、一切覚えていない。十七歳の高校生、久我山翼は熟睡状態から叩き起こされるような衝撃を感じて、うめきながらばっと身体を起こした。
 浅く速い呼吸が、忙しなく漏れる。吐き気に似た感覚がこみ上げてきて、翼はとっさに片手で口を押さえた。パジャマが寝汗でぐっしょりで、身体中が気持ち悪い。同時に、それだけではない、わけがわからない、何か強い違和感と不快感があった。
 自分の身体に何かが起こったらしいことは、すぐに理解した。だが、いったい自分の身に何が起きたのか、寝起きの頭ではさっぱりとわからない。腹痛や頭痛といったものとは、まったく違う感覚。わけのわからない病気か、と翼の思考は渦巻く。
 じきに荒い呼吸はおさまったが、吐き気はおさまらなかった。翼は吐く準備をした方がいいと考えて、なんとかベッドから身体を起こそうとして、目の前の細い糸状のものに苛立った。
 なぜそんなものが自分の頭にあるのか、理解できない。翼は無造作にそれをはねよける。
 そして気付いた。
 糸状のものは髪の毛。しかも、自分自身の頭部に繋がっている長い髪。
 「なんだよ、これ……」
 舌が上手く回らず、声も自分のものではないかのように細くかすれた。翼は不快感と苛立ちと吐き気を抑えて、ベッドからおり立った。
 とたんに、よろめいた。
 「くっ」
 思わず床に打ち付けるように膝をつき、一階まで届きそうな鈍い音と激痛が走る。頭から倒れそうになるのは、なんとかぎりぎりで手をついて支えた。
 まだ早い時間のようで、室内は暗闇に包まれている。床についた自分の手がぼんやりと見えた。また強い吐き気が襲ってきて、翼はうずくまり、その手で口を覆った。
 苦しさに、涙が少しにじむ。なんとか嘔吐せずにすんだが、吐き気は消え去らない。翼は自分の思い通りにならない身体に恐怖に似た思いを抱きつつ、数秒、目を閉ざした。
 なんの病気かはわからないが、立つことすら辛いのは、どう考えても普通ではない。その上、まるで自分の身体が自分のものではなくなったかのような、そんな感覚すらある。
 まずは落ち着け、と自分に言い聞かせたが、身体から湧き上がってくる不快感はどうしようもなかった。泣きそうな気分で、翼は身体に力を入れて、ベッドに手をかけて身体を起こし、ベッドに腰をおろした。
 夜の空気を細く長く吸い込み、ゆっくりと息を吐き出し、深い呼吸を繰り返す。そうしながら自分の胸に手を当てたのは、無意識の動作だった。
 「うっ!」
 次の瞬間、翼は胃の中のものを床に吐き出していた。
 心が身体を拒絶する。後に医者に、「心因性嘔吐症」と診断されることになる症状の、初の発露だった。
 翼には何が起こっているのか、さっぱりわけがわからなかった。
 男である自分の胸の脂肪が、異様に膨らんでいた。
 床にうずくまって苦しさに耐えながら、翼はもう一度自分の胸に触れる。
 とたんに、翼はまた嘔吐していた。二度目のせいか、胃液だけが翼の口から零れる。唇の端から唾液も流れ落ちていたが、今の翼にそれを気にする余裕はなかった。
 まだ状況がつかめない。いったい自分の身体に何が起こっているのか? 冷静に考えたくとも、苦しみがそれをさせてくれない。
 床にぶちまけてしまった嘔吐物の匂いが、いっそう不快感を刺激する。翼は涙を零し咳き込みながら、半ば這うようにして、嘔吐物から逃れた。
 一人ではどうしようもない、と、理性と感情、両方が主張する。今何時かはわからないが、時間を気にしていられるような状態でもなかった。翼はそのまま床を這い、ドアにすがり付いて、ノブをまわした。勢いがつきすぎたのか、引っ張りすぎたドアがバタンと派手な音を立てる。
 近くに階段があり、隣の部屋に弟の飛鳥がいて、一階には両親がいる。そのうちの誰かの部屋に行くゆとりもなかった。翼は苦しさを堪えて、廊下にうずくまりながら、声を張りあげた。
 「父さん、母さん! 誰か来て……!」
 暗い家の中に、翼の声とは思えないほど高い、少女の悲鳴のような声が響き渡る。翼は思わずぎょっとして、自分の喉を押さえた。
 いったいなんなのか、身体に明らかに異変が起こっていた。伸びている髪、膨らんでいる胸、高くなっている声、自分の思うように動かせない身体。強い違和感と嘔吐感、そしてすべてを否定したくなるような不快感。
 「父さん! 母さん! 飛鳥!」
 翼は自分の声にすら嫌悪を抱きながら、もう一度、叫ぶ。
 長い静寂の中に、翼の苦悶の声のみが響く。さすがにこんな時間では簡単に誰も目を覚まさないのか、目を覚ましても起き上がる気になれないのか、すぐには反応はない。
 翼はうずくまって、病院、という単語を脳裏に点灯させていた。
 病院、救急車、一一九、電話、携帯、自分の部屋、机の上。
 「くそっ、もう……!」
 中途半端な理性が連想を紡ぎ、翼はまた這うようにして部屋に戻ろうとしたが、ここでやっと家族の反応があった。反応があったのは、階段側ではなく、隣の弟の部屋。暗い廊下に面したドアが開き、中から人が出てくる。
 「姉さん……? こんな時間に、何騒いでるのよ……?」
 苦しそうな翼の様子が見えないのか、どこか眠たげな、子供っぽい女の子の声。翼は、弟の部屋から出てきた人物のその声に驚いて、苦しみを堪えて顔を上げた。
 小柄なシルエットが、うっすらと浮かんでいる。女の子は歩み寄ってきたようで、廊下にうずくまる翼に気付いて、あっと声をあげた。
 「姉さん!? どうしたの!?」
 「誰、だ……?」
 肩に手をかけてくる小学校高学年くらいの女の子を、翼は跳ね除けこそしなかったが、いっそう混乱しながら見やる。女の子は一瞬「何言ってるのよ?」という顔をしたが、匂いと翼の様子からただ事ではないとわかるようで、すぐに凛然と身を離した。
 「ちょ、ちょっと待ってて! お母さん呼んでくるわ!」
 翼の返事を待たずに、女の子は階段に走る。すぐに電気がついて、廊下と階段がぱっと明るくなった。女の子は軽やかな音を立てて階段をおりていく。
 翼は眩しさに目がくらみながらも、ここではじめて、自分の服装と身体を見た。寝る前と、パジャマがかわっていた。しかも、翼が見たこともないような、どちらかというと女の子が着れば似合いそうな水色のパジャマだった。シンプルなパジャマの長袖に包まれた腕は、自分のものではないかのように細く、手もまるで女のように白く小さい。
 翼はそのまま自分の胸に目をやり、また強い嘔吐感に襲われた。耐え切れずにみたび吐いて、涙をにじませながらうずくまる。もう胃液すらごくわずかで、全身が引き付けでも起こしたかのような苦しみが襲ってくる。
 一階では、両親はまだ寝ていたらしい。「お母さん、お父さん、起きて! 姉さんが!」と、女の子の鋭い声が微かに漏れてくるが、それに対する反応は二階までは聞こえてこない。
 女の子は翼の両親の寝室まで入り込んで、寝ている夫婦を揺り起こしたが、やがて目を覚ました夫婦の反応は鈍かった。
 「姉さんがたいへんなの! 吐いてたみたいなの!」
 「何よ、風邪でもひいたわけ?」
 心配する、というよりは、不快そうな母親の声だった。女の子は「わからないけど、すごく苦しそうだわ!」と、翼を弁護する声を出す。
 すぐに母親は、ぶつぶつ言いながらも夜着の上から一枚羽織り、夫を置いて階段をのぼってきた。その後ろから、女の子が「急いであがってよ!」とでも言いたげな様子で、じれったそうに母を睨みながらついてくる。
 「翼、こんな時間にどうしたのよ?」
 翼はうめきながら顔を上げて、母親の姿に一瞬ほっとして、気が緩んだとたんに、本格的に涙を零していた。いつもと同じ母親、久我山亜美の姿が、この時ばかりはありがたく、頼もしく思えてしまう。
 「うげ、ここで吐いたのね。飛鳥! タオルと洗面器と雑巾持ってきなさい! 翼、どこが悪いの?」
 亜美はすぐに翼の傍にかがみこむ。飛鳥と呼ばれた女の子は、不満げだったが逆らわなかった。また階段を駆けおりていく。
 翼は女の子が弟と同じ名前であることに疑問を抱く余裕はなく、問われるままに泣きながら口を開いた。
 「わからない。起きたら、気持ち悪くて……。髪が伸びて、胸が膨らんでて、さっぱりわけがわからない!」
 自分の女のような声にも、吐き気がいっそうかきたてられる。亜美は、彼女も一瞬わけがわからないという顔をしつつも、少しだけ安堵の色を見せた。
 「まあ、ちゃんと返事ができるなら平気ね。寒いの? 頭は痛い? 胸が辛いの?」
 翼の顔を上げさせて、額に手を当てる亜美。最近は自分より小さいと思っていた母を、翼はやけに大きいと感じたが、強い不快感が多少弱まる。大きく吐息をつき、目を閉ざし、翼は首を横に振った。寝汗が冷えて多少肌寒くはあったが、興奮状態にあるせいか、気になるほどではない。
 「寒くない。……でも、身体が変ですごく気持ち悪い。吐き気もおさまらない」
 「あんたまさか、つわりじゃないでしょうね?」
 どこをどうすればそういう発想になるのか。翼は身体の不快感を抑えて、涙目で衝動的に怒鳴った。
 「なんでつわりなんかに!」
 「ちょ、ちょっと落ち着きなさいよ。まさかと思っただけよ。多少熱はあるようだけど、寝てれば治る? それとも病院がいるの?」
 翼はめまいを覚えた。さっきのふざけた発言といいこの発言といい、この状況でそれはないだろうと思う。息子が、いきなり髪が伸びて胸が膨らみ、腕も細くなり、声も変化し、持っているわけがないパジャマを身につけているのだ。寝てれば治るとか、そういうレベルをはるかに超えている。
 「どうしてそう落ち着いていられるわけ!?」
 「あたしが慌ててもしかたないでしょ。怒鳴る元気があるなら大丈夫なんじゃない? 病院行きたいの? 朝まで待てないわけ?」
 「待てるわけない! こんなのおかしすぎるよ!」
 異様な身体の変化。身体が自分のものではないような感覚。おさまらない吐き気。どれ一つをとっても、まともではない。
 「やれやれ、わかったわよ、お父さんに頼んで病院に連れて行ってもらいましょ」
 亜美は面倒くさげに頷くと翼に手を貸し、壁にもたれさせた。翼は無意識に自分の上半身を抱きしめようとしたが、胸のふくらみに触れたとたんに気持ち悪くなってうずくまった。だらんと腕をおろして、顔をそむけて低く嗚咽をもらす。
 「着替える元気もないみたいね……」
 亜美は顔をしかめて、「じゃあじっとしてなさいよ」と一階におりる。
 しばらくして先ほどの女の子が駆けあがってきた。
 「姉さん、大丈夫……?」
 女の子は翼の前に清潔なタオルを差し出しながら、亜美とは違い、露骨に心配そうに翼を見る。幼い容姿ながらもどことなく気の強そうな女の子だが、今はその態度は気遣いといたわりに溢れている。だが女の子のその言葉は、翼の感情を強く刺激した。慌てて涙をぬぐいながら、きつく言葉を投げる。
 「……誰が姉さんだ」
 「え?」
 まじまじと翼を見る女の子。身体の不調のせいもあって、翼は気持ちを抑え切れなかった。子供に向けるにはきつ過ぎる、冷たい眼差しを女の子に向ける。
 「だいたい誰だ? なんで飛鳥の部屋にいた?」
 「何言ってるの? 姉さん、頭大丈夫?」
 きつく言われたせいか、女の子の声にも不愉快そうな色が混じる。翼も即座に言い返した。
 「おれを姉さんなんて呼ぶな!」
 自分の声も身体も、この目の前の女の子も、何もかもが翼には気に入らない。
 「キミは母さんと親しいのか? いつの間に泊まったんだ? 飛鳥の彼女なのか?」
 女の子の表情は、翼が言い募るうちに、また変わった。心から心配そうな、不安げに幼い、恐怖すら混じった、まじめな顔。
 「……まさか、本気で言ってるの?」
 「さっきからふざけるなよ、初対面だろ」
 ただでさえ苦しいのに、なぜこんな問答をしなければいけないのか。翼はもう女の子を無視することに決めて、目を閉ざした。
 感覚そのものが狂っているのか、身体がおかしくなっていることが原因なのか。どちらにせよ、今の状態それ自体が翼をさいなむ。今の自分の身体の感覚。それ自体が、嫌悪の対象。
 女の子は何を考えているのか、目を閉ざした翼に気を遣ったのかどうか。そのまましばらく動かなかったが、やがて何も言わずに清潔なタオルを翼の膝の上に置くと、無言で廊下の汚れをぬぐう。
 一階からは、龍彦と亜美の声が微かに漏れてくる。父親の龍彦も龍彦で、こんな時間にまったくと思っているようだが、子供が病気という状況で動かないような親ではない。妻が近くの私立病院に電話を入れる間に手早く着替えて、ぶきっちょ面で階段をのぼってきた。
 その間に女の子は一度翼の部屋の汚物を片付けにいっていたが、龍彦の気配にすぐに外に飛び出してきた。
 「お父さん、姉さんが……!」
 「ああ、飛鳥はそれをすませたら部屋に戻って寝ていなさい」
 女の子は泣きそうな顔でさっきの出来事を龍彦に伝えようとするが、龍彦は取り合わない。まっすぐに翼に向かう。
 「朝まで我慢できないほど辛いのか?」
 翼は目を開き、思い切り嘆いた。父親まで、自分のこの姿を見て、驚きもせずにそっけない発言をする。ただの病気なら、普段の両親の様子を考えればその態度も頷けるが、今のこの状況は明らかに普通とはかけ離れている。なぜそう冷静でいられるのか、翼にはさっぱりわけがわからない。
 苦しみを抑えて、吐き捨てるように翼は言う。
 「すぐに病院に行きたい。一秒でもこのままでなんていたくない」
 「……そんなに苦しいのか」と口には出さないが、龍彦はそう判断したらしい。無造作に頷くと、翼に近づいた。翼は父が肩を貸してくれるものと解釈し、自分のものではないような身体を動かして、立ち上がろうとする。が、翼が身体を起こすより早く、龍彦は翼の脇の下に両手を入れて、軽々と翼の身体を立たせていた。
 「え」
 翼の目の前に、父親の胸元が見える。翼の頭が父の上半身にもたれかかり、龍彦はそのまま、翼の片手を持ち上げて自分の肩に回そうとする。
 百七十センチちょっとの父親と同じくらいの身長があったはずなのに、なぜか大きな視線の差。父親のたくましい腕に、広い肩幅、たくましい身体。今の翼とはまったく違う個体。
 いまさらながらに不意に、不快な閃きが翼の脳裏に走る。考えたくない。考えたくなかったが、意識すればすぐに自覚ができた。強い違和感の正体の一つ。さわらずとも、見ずとも、わかる。
 下半身の感覚。
 いつも身につけていたはずの、トランクスのゆったりとした着衣感がない。それどころか、自分自身の男性器の感覚がない。そして何か別の違う感覚がある。
 何もかもが信じられない。自分の身体も、この状況も、もうさっぱりわけがわからない。
 今まで以上に苛烈な不快感を感じ、翼の神経は焼き切れた。
 翼はうめいて、反射的に身体を折った。とっさに龍彦は怯んで翼の腕を離し、翼はまた胃液を吐き出した。
 「翼!」
 「姉さん!」
 慌てて翼を支えようとする龍彦と女の子。壁にもたれかかった翼はその手を振り払った。
 「ありえない、こんなの。夢だ」
 身長が百六十センチにも満たないと思われる今の翼の身体。寝る前と比べると信じられないくらい華奢で小柄で、胸が膨らみ、あるべきものがなく。髪まで長く、感覚そのものがまったく違う翼の身体。
 かなりの肉体の異常だとは思っていたが、客観的に見れば、これはいったいなんなのか。
 翼は急に笑い出した。
 「ありえない。身体が女になってる? はは、なんだこれ。ああ、そうか、キミは本当に飛鳥なのか。弟じゃなくて妹? はは、ふざけてるな」
 翼は笑いながら、先ほどの女の子――弟のはずが妹になっているらしい飛鳥を見やる。翼のその笑いは、自嘲でも哄笑でもなかった。むしろ、狂ったような、という形容が似つかわしい表情。
 「ね、姉さん……?」
 飛鳥は強張った顔で、龍彦も眉をひそめて翼を見つめる。
 「で、父さんは何? おれを娘とでも思ってるわけ?」
 「……何を言っている? 大丈夫か?」
 そっと、翼の方に手を伸ばす龍彦。翼はまだ笑いながら、ばっとその手を払った。壁に背を預け、ひきつけを起こしたかのように笑い続ける。
 「正気かっていう意味なら大丈夫だよ、父さん。どうせ夢なんだろ。はは、変な夢」
 翼はくるりと身体を反転させると、いきなり壁に、自分の頭を強く叩きつけた。
 「翼!」
 「姉さん!」
 龍彦と飛鳥の驚愕の声が響く。翼は二人の声にかまわず、笑いながらもう一度頭を壁に激しく叩きつけた。
 「ははは、痛いし」
 「翼、やめるんだ!」
 龍彦の手が翼の肩をつかみ、飛鳥も悲鳴のような声をあげながら翼の腕を引っ張って、翼を壁から引き剥がす。
 「はは、父さん、離してよ。痛いな、何する」
 「落ち着きなさい!」
 龍彦は翼の両腕を押さえてその腕で身体を挟みつけるようにし、暴れる翼の身動きを封じる。翼は足元をふらつかせたまま、まだ笑っていた。
 「これ以上ないってくらい落ち着いてるさ。夢なんだからさっさと覚めないと、明日も朝練だし武蔵が迎えにくるだろ。寝坊なんてしたら何言われるかわからないし、この変な夢のことも早く話してやらないと。はは、笑うだろうな。女装願望とか言われそうだな。やめてくれよな。はは」
 「姉さん、どうしちゃったの……!」
 早口で言葉を紡ぐ翼に、飛鳥は今にも泣きそうに顔を歪める。龍彦は深刻そうな顔で翼を抱きよせた。
 「うっ」
 龍彦の体臭と厚い胸板を感じたとたん、翼はまた吐いた。翼の両腕を強く押さえていた龍彦は、今度は避け切れなかった。そのまま翼の胃液が龍彦の服に付着する。
 それをかまわずに、龍彦は強く動く。強引に、翼の脚と背に腕を回しなおし、力をこめて翼の身体を抱き上げる。翼は苦しげにうめくだけで、まともな言葉はない。
 龍彦はそのまま階段に足をかけた。
 「お、お父さん……」
 「飛鳥は寝てなさい」
 後ろから声をかけてくる飛鳥に、龍彦は振り返らずに言い置くと、慎重に階段をおりる。下では簡単に着替え終えた亜美が、夫の上着や車の鍵などを握りしめて待っていた。
 ぐったりとした我が子と、怖いくらいに真顔の夫に、亜美も厳しい表情になった。
 「騒いでたみたいだけど、どうしたの? え、翼、頭、怪我したの?」
 「自分で壁にぶつけた。情緒不安定になってる。おまえもついてきてくれ。一人では手におえない」
 「自分でって……、救急車呼んだ方がよかったかしら?」
 「いや、もう直接連れて行った方が早いだろう」
 「あなた、服が」
 「ああ、替えを持ってきてくれないか」
 せっかく着替えたのに、翼の嘔吐物で龍彦の服は汚されてしまっている。亜美は頷くと、急いで龍彦の着替えの服を取りに行った。
 だらんとして死んだような翼を抱き上げたまま玄関に到着し、龍彦は靴を履く。戻ってきた亜美が手早く玄関の鍵を開け、龍彦はすぐに外に出る。亜美は翼の靴を持って、玄関の鍵も閉めてから夫を追う。
 「そんなにひどいの?」
 「身体がどう悪いのかはわからない。だが翼の様子は普通じゃない。何か精神の方の病気かもしれない」
 「精神って……」
 「よくわからないが、自分が娘なのを夢だとでも思っているらしい」
 「え、あなたがわからなかったということ?」
 「そうじゃない」
 車の前に着くと、また亜美は夫を追い越して、後部座席のドアを開ける。
 「自分を男とでも思っているのかもしれない」
 「はあ? ああ、そう言えば、胸とか髪がどうこう言ってたかしら……」
 龍彦は慎重に、先に後部座席に乗り込んだ妻に、翼の身体を預けた。鍵を受け取ってドアを閉めて、運転席に回りこむ。
 父親が離れると、翼は息を吹き返したかのように、母親にもたれかかった。亜美が気付き、翼の涙混じりの視線が、母親のそれと交差する。
 「母さん……、これは夢だよね?」
 幼い頃のような、子供っぽいすがるような声。
 「何寝ぼけてるのよ、まったく。あんたはあたしの娘でこれは現実よ! すぐ病院に連れて行くから、しっかりしなさい!」
 「はは、やっぱりまだ夢だ」
 また翼は狂ったように笑い出す。笑いながら、涙を零し、母親に泣きつく。いつもならついそっけなく我が子を扱う亜美だが、さすがにこんな時までは冷たくはしない。ぶつぶつ夢がどうこう言い募る翼に眉をひそめながらも、翼の口元の汚れをタオルで拭い、その背を撫で続けた。
 運転席に座った龍彦は、服についた汚れや匂いを少し気にしたようだが、彼もタオルで拭うだけにとどめて、生真面目な顔ですぐに車を動かす。妻と一言二言会話をかわし、時折暴れる翼に気をとられながら、やがて病院に到着した。
 電話で連絡していたので、警備員と看護師が待ち構えていた。亜美は「微熱、不快感、嘔吐、胸の痛み、一人で立つのも困難」といったような情報を伝えていたのだが、説明の仕方がよかったのか悪かったのか、やけにしっかりとした出迎えだった。
 車からおりた龍彦は、妻に手を貸して我が子を車からおろそうとしたが、笑っていた翼はとたんに暴れて、父親に触れられるのを極端に嫌がった。亜美はそれに気付いて夫を制し、龍彦はむっつりとした顔で引き下がる。
 看護婦の手を借りて、亜美はまだ常識を逸しているような翼を車からおろし、用意されていたストレッチャーに乗せる。翼は支えの手がなくなると、それに力なく座り込んだが、横になることには従わなかった。
 この時点で看護婦たちは、患者が肉体的だけではなく精神的にも取り乱しているらしいことを察して、それ用の対応に切り替える。なだめるようにしながら、テキパキと翼を押さえて寝かしつける。翼は暴れたが、力が入らないせいもあって、すんなりと身体を拘束された。
 そのまま治療室の医師の元に連れて行かれたが、翼はその男性の医師に近づいたとたんにまた吐いた。医師は驚いたようだが、医師が触れようとするだけで翼は全身でそれを拒絶する。暴れながら喚くその言葉は、医師や看護婦たち、治療室まで付き添っていた両親にも支離滅裂だった。
 今現在を夢だと言い張り、自分は男だと言い切り、目が覚めてからのことを脈絡もなく言い募る。目が覚めたら気持ち悪かった。気付くと髪が伸びて胸が膨らんで女のようになっていた。弟が妹で、両親も自分を娘のように扱う。これが夢でなければいったいなんなのか。
 医師の表情が、肉体の病気のせいで精神が不安定になっているだけなのか、それともなんらかの精神障害なのか、刹那考え込むように鋭くなる。
 龍彦と亜美は、ここで診察室の外に追い出された。
 この日は他にうるさい急患はないのか、廊下は静まり返っている。龍彦は事務的な手続きを要求され、妻から着替えや保険証などを受け取って、寡黙に指示に従った。亜美は診察室の外で夫を待ち、壁際に設置された長椅子に腰を下ろして、ポケットから腕時計を取り出す。まだ五時にもなっていなかった。
 「まったく、なんでこんな面倒なことに」
 時計の針はいつも通りのペースで円を描く。やがて着替えて戻ってきた夫に、亜美は現実的な提案をした。
 「あなた、先に帰る?」
 「……いや」
 「でも仕事に差し障りあるんじゃない? 休めるの?」
 亜美は夫を見あげるが、龍彦は立ったまま何も言わない。亜美はそんな夫の様子に不満げな顔をしたが、すぐに矛先を変えた。
 「自分が男だなんて、あの子、どうかしてるわね」
 無言で廊下をゆっくりと歩き回る龍彦。亜美は不安を押し隠すかのように、ぶつぶつと言葉を続ける。
 「おまけに飛鳥を弟だなんて、何考えてるのかしら」
 「…………」
 「どこかで頭でもうったのかしら? 夜はなんともなかったのに。おかしいわ。まさか本当に頭が変だったりしないでしょうね。精神病の娘なんて、あたし、冗談じゃないわよ」
 「まずは医者の判断を待つしかないだろう!」
 苛立たしげに、龍彦は妻の言葉を遮った。亜美はびくっと身体を揺らし口を閉ざす。
 龍彦も大声を出した自分に驚いたようで、嘆息交じりに妻に近づいた。
 「……悪い」
 そっと、妻の髪を撫でる龍彦。亜美はほっとしたように、上目遣いに夫を見やる。龍彦はすぐに手を離し、ゆっくりと妻の横に腰を下ろした。
 「本当に夜はなんともなかったのか?」
 龍彦は仕事で忙しいから、一緒に夕食が取れる時間に帰宅することはめったにない。昨夜も、十一時には家に帰ってきたが、子供たちと顔は合わせていない。
 「ええ、普通だったわよ。ごはんもしっかり食べてたし、明日も朝練だからって、またお弁当頼んできたし」
 「飛鳥のことは? 夜はちゃんとしてたのか?」
 「飛鳥も相変わらずだけど、翼は普通だったと思うわ。二人とも部活で疲れてるから、すぐ部屋に引っ込んだけど、翼の方は別に避けたり、弟だなんて感じじゃなかったわ。だいたい、自分を男だなんて思ってなかったもの」
 さらに龍彦は最近の子供たちのあれこれを尋ねるが、今の状況に繋がるようなことは、何もわからなかった。時間だけが流れさり、二人、やがて口を閉ざしてしまう。
 龍彦と亜美にとって、重苦しい朝になった。



 狂ったように笑い出したかと思うと暴れ、暴れたかと思うとぴたりと一切に反応しなくなる翼に、病院側もかなり手を焼いたようだが、各種精密検査の結果、翼は肉体的には健康という結論しかでなかった。
 十七歳の男ではなく、十七歳の女として。
 泣き叫ぶその姿は多少幼くも見えたが、翼の身体は、どこからどう見ても女のそれ。男ではありえない身体つき。十七歳の少女の身体。
 翼にとって、それからの数日間は悪夢のような日々になった。
 翼は当初、自分の尿意すらコントロールできなかった。初めてそれを感じた時、パニックに陥り、そのまま粗相をしでかした。ただでさえ壊れかけていた精神はもうぼろぼろだった。しかも追い討ちをかけるかのように、身体が女になっているだけでも耐えがたいのに、両親は翼を生まれた時からの女だと断言し、これは夢などではなく現実だと押し付けてくる。
 保険証に記載された性別は女。久我山翼、五月生まれの十七歳。
 学生証や鏡やアルバムを見せられても、翼は信じず自分は男だと言い張った。夢を見ているだけで、これが現実であるわけがない。起きたら女になっていたなどという状況のどこが現実なのか? 夢でなければいったいなんだというのか? これが現実だというなら、むしろまわりのみなが翼を騙そうとしているのではないか?
 翼は、自分がいつ精神科にまわされたのか、よく覚えていない。
 客観的には、女としての記憶が欠落し、自分は男で今夢を見ているのだという妄想を抱いている翼。そんな翼を、病院側は解離性同一性障害、いわゆる二重人格ではないかと疑ったらしい。
 肉体的精密検査が一通り終わる前から、看護婦や医師たちは、翼の今の人格を肯定するようになっていた。何はさておき、本人が落ち着かないことには、本人も周囲も安心していられない。
 だが、人格を肯定されたからといって、気が狂ったかのような翼の状況はすぐにはおさまらなかった。身体が女になっていること、周囲がまるで生まれた時から自分を女であるように扱うこと、精神病扱いすること、そして翼の記憶とは世界そのものが少なからず違うこと。どれをとっても、やはりまともではない。
 閉鎖病棟の隔離室に拘束衣つきで放り込まれたほどだから、余程危ない状態だとみなされたのだろう。
 それも当然かもしれない。
 死ねば夢から覚めるなどという強迫観念を、何度も実行に移そうとしたのだから。
 病院がすぐに自殺を警戒する態勢をとらなければ、翼は自傷騒ぎどころか自殺未遂事件をもっと頻繁に起こしただろうし、一歩間違うとそれに成功していただろう。
 翼の心と身体の不一致がピークに達したのは、病院に運ばれて三日目の昼。
 下腹部からの出血。十七歳の女として、それがあってなんら不思議ではない現象。いわゆる月経。男が一生体験することができないことの一つ。
 翼は暴れることをやめたが、それと引き換えに自分の殻に閉じこもって、一切に反応を返さなくなった。
 そして数日後、自意識を取り戻したのは突然だった。






 曇り空が広がる、十一月の朝。
 人の話し声に眠りを妨害された翼は、うめきながらぼんやりと身体を横に倒して、はっと目を開いた。意識しようとせずとも意識させられる身体の感覚と、信じたくもないのに自分の心に宿っている記憶。あの日目覚めてから病院に運ばれた、この十日間の記憶。
 翼は呟いた。
 「……夢じゃないのか」
 静かな、だが絶望的な声だった。
 もう慣れつつある身体の不快感や、薬物投与の結果発生した頭痛。以前の自分の身体とは、明らかに違う感覚。
 男だったはずの自分が、女に。
 泣きたくもなるが、なぜか涙は流れない。翼はそっと身体を起こした。
 自意識を失っていた間の記憶は、忌々しいことに、おぼろげながらもしっかりと存在する。だからここがどこかはわかっていた。
 私立病院の四人部屋。今は仕切りのカーテンが閉ざされていて、同室の三人のご婦人たちの動きは見えない。老境のご婦人たちは、いつも通り何やら明るくおしゃべりに興じているようだ。翼はうるさいと感じながら、そっとおなかを押さえた。
 「……おなか空いたな」と、声には出さずに、唇だけを動かす。
 こういう状況なのに湧き上がってくる即物的な欲求。頭や身体が痒いような気もするし、ここ数日寝たきりだったせいか、身体中が痛いようにも感じる。顔も洗いたいし、歯磨きもしたいし、水もほしい。
 同時に、尿意も感じた。さらに、成人用紙オムツの存在を自覚して、強い屈辱感がこみ上げてくる。身体が女であることも、この年齢でオムツのお世話になったことも、女の生理を体験したことも、その処理を看護婦が一切していたことも、ここ数日の何もかもが不快で、耐えがたい。
 また逃避をしたくなる。いっそ狂ってしまいたくなる。
 だが、薬のせいなのか、心が麻痺しているのか、もう取り乱すことはなかった。自意識を取り戻した今、狂うことに対する嫌悪感も強く存在する。翼は吐き気と不快感に耐えながら、布団をはいで、ベッドからおりた。
 よろめいたが、やはり身体に慣れてきているのか、もう倒れることもない。両足でしっかりと床を踏みしめた翼は、わかってはいたが自分の格好にまた苛立った。
 そのクリーム色のパジャマはワンピースタイプで、ふくらはぎまで柔らかく広がっていた。フリルなどついていないがせめてもの救いだが、胸元に小さなリボンなどついている。どこからどう見ても女物のパジャマ。
 不快感を抑えきれないが、パジャマに怒っても意味がない。翼はそのままスカートの中に手を入れて、成人用紙オムツなどという代物を脱ぎ捨てた。
 前に流れてきた長ったらしい髪を払いのけて、ベッドサイドを漁る。そこに着替えがおいてあることは記憶にある。どれも男物とは言えないのだが、翼は白と青のストライプの、スウェットパジャマで我慢することにする。そして、少しためらってから、白いシンプルな女物のショーツを手に取った。
 「笑えるな……」
 思わずそう呟く声も、あまりにも男だった時とは違う声。表面上は、翼が感情をあらわにしたのはその言葉と表情だけだった。翼は自虐気味に顔を歪めて、下着を広げて前後ろを確認し、それに足を通した。パジャマも着替え、足にスリッパを引っ掛ける。
 カーテンを払いのけて動くと、とたんに、周囲の話し声が一瞬止まった。
 「あ」
 「わう!?」
 「おお!」
 翼の正面にもう一つベッドがあって、横と、斜め横にもベッドがある。それぞれのベッドに座っておしゃべりを楽しんでいた三人のご婦人は、翼の動きに気付いて、驚きの声をあげた。
 「嬢ちゃんが自分で起きたよ!」
 「こりゃすごい!」
 「お姫様のお目覚めね!」
 「そ、そうだ、理沙さんを呼ばないと!」
 「そうねそうね」
 「おうおう、あたしがやるよ」
 「あ、嬢ちゃん、どこにいく?」
 「今看護婦さんを呼びますよ! もっと安静にしてなさいな!」
 翼はああだこうだ言う三人を黙殺すると、そのまま病室をでた。
 微かに人の声が聞こえるが、静かな廊下。早足で歩くと、すぐにトイレの入り口が見える。翼はためらわずにまっすぐに女子トイレに向かい、個室に入りドアを閉めた。
 翼がまず真っ先にしたことは、思いっきり吐くことだった。
 身体は簡単に反応して、胃液が零れる。翼は吐きながら泣いた。
 こんな状況でもう取り乱せない自分が可笑しく、苦しい。理性は、この状況を受け入れるべきだと訴えている。仮にこれが夢で、死ねば目が覚めるのだとしても、夢の中ですら死ぬことは難しい。何度か死のうとした翼は、その時々の激痛も覚えている。他人の妨害もあるだろうし、多少なりとも冷静になってしまうと痛みに対する抵抗もある。そう簡単には実行には移せない。
 また仮にこれが現実なら、死ねば終わりだ。その選択もありだが、安易に結論を出すには、案件が重過ぎる。
 なんにせよ、今はありのままの状況を受け入れるしかない。でなければ本当に気が狂う。
 なのに、無意識なのかなんなのか、感情と身体が、状況を受け付けない。消えない不快感と嫌悪感。そして自分が女だと意識するたびに襲ってくる強い嘔吐感。
 いっそ狂った方が本当に楽かもしれない。だが、薬のせいか、それとも時間が翼の理性を呼び覚ましたのか、今の翼は狂うことすら拒絶する。この状況を嫌でも直視させられる。
 翼は泣きながら、涙が枯れるまで嘔吐感に身をゆだねた。
 なんとか涙が止まると、口をぬぐって、まだ消えない吐き気と口内の気持ち悪さを我慢しながら、トイレで用を足す。この行為をするだけで、もう嫌悪感でまた気が狂いそうだった。行為がすむとまた吐いて、翼はぐったりとしながら個室を出た。
 洗面台によろよろと向かい、台に手をついて、身体を支える。
 目の前の鏡に、自分自身の姿が映っていた。
 翼が健康で冷静な時であれば、先日の妹と名乗る女の子にかなりよく似ていることに気付けただろうが、今の翼にそんな余裕はない。
 よく見れば男だった翼の幼い頃の面影もあるが、あきらかに違う姿だった。
 年相当に大人っぽく男っぽかった翼とは、あまりにも違う姿。
 どこからどう見ても女。
 十代半ばくらいの年齢に見える、一人の少女。
 鏡の中の少女は、充分に魅力的だとも言える容姿ではあったが、お世辞にも健康的とは言えない顔色をしていた。ここ数日間の拒食のせいもあるのだろう、色艶がなく、生気も乏しい。背の半ばほどまである長い髪は寝乱れてそのままで、病人という雰囲気を強く漂わせていた。
 それでいながら、瞳だけは、爛々と強い輝きを放つ。狂気なのか、それとも、翼自身の意志なのか。
 他がどんなに違っていようと、その瞳の輝きだけは、あきらかに翼自身のものだった。



 冷たい水で顔を洗うと、自分の身体をできるだけ意識しないようにしつつ歩いて、翼は病室に戻った。その途中で、二十代後半の看護婦に出会う。ここ数日ずっと翼の面倒を見ていた看護婦、丸山理沙は露骨にほっとしたように駆け寄ってきた。
 「久我山さん! どこに行っていたの!」
 「トイレですよ」
 翼は自分の声、高域に抜ける澄んだ少女の声にすら嫌悪を抱きつつ、表面上は冷静に理沙に応じる。取り乱して泣き叫ぶ翼と無反応な翼しかしらない理沙にとって、その態度はかなり意外だったらしい。驚いたような瞳が翼を直視した。
 「久我山さん?」
 「面倒かけてすみません。とりあえず落ち着きました」
 「…………」
 さらにじっと翼を見つめてくる理沙を、翼は頓着せずに、まっすぐに見返す。
 「部屋に戻りますか? それとも、このままどこかに?」
 「えっと、まずは戻りましょう」
 理沙は戸惑ったようだが、翼の態度を悪いものとはみなさなかったようで、すぐに体勢を立て直した。翼を促して歩き出す。
 「体調はどう? どこか具合の悪いところはある?」
 「少し吐き気がある程度です」
 「そう……、食欲は? やっぱりない?」
 「いえ、かなりあります。でもどうせ、急に食べるなとか言うんでしょう、任せますよ」
 「……えっと」
 理沙は困惑気味の表情で、翼をちらりと見る。翼は少し冷たくも見える表情だった。あごを引いて背筋を伸ばし、まっすぐに歩いている。
 まともに会話をするのは初めてなのに翼の口調に遠慮がないのは、理沙が丁寧に自分を扱ってくれたことを覚えているからでもあった。見られたくない場面も何から何まで見られているのだから、いまさら彼女に遠慮や羞恥を感じるほど、翼の精神状態はまだ安定してはいなかった。
 やがて、家族にすぐ連絡を入れるという話をするうちに病室に到着し、翼はベッドに横になって、体温測定などの検査を受ける。三人のご婦人がまた声をかけてきたが、翼は無視し、理沙も三人をなだめてカーテンを閉めた。
 理沙が翼の心も身体も落ち着いていることを一通り把握するうちに、担当の医師もやってくる。男性が近づくと翼がとたんに嘔吐感を訴えていたこともあってか、中年の女性医師だ。
 それでも、上半身をはだけての診察は、翼は吐き気を堪えるのに苦労した。
 その場ではつっこんだ話にはならず、医師は簡単に翼の状態を確認し、食事と特別の入浴の許可をして、午後から改めてと診察が終わる。
 翼の食事は固形物を避けた流動食が主体で、量を取る気にはなれなかったが、意外にも味は悪くなかった。
 だが入浴は最悪だった。翼は自分の身体をできるだけ見ないようにしながら中に入ったが、全身を洗うためには身体に触れずに済ませることはできない。理沙がつきそっていたこともあって、最初はなんとか耐えていたが、さわる個所が増えていくにつれてどんどん耐えられなくなった。
 翼はそのまま、食べたばかりのものを吐き出していた。
 慌てて手を貸そうとする理沙を、翼は片手で制する。もう一方の手は口に当ててしまい、石鹸の味がした。
 「大丈夫です。少し気持ち悪いだけです」
 全然大丈夫とは思えない態度なのに、翼は自分を抑えて、きっぱりと言い切る。シャワーににじりよって、口の中をゆすいで、同時に顔をぬらして涙を隠す。
 「やっぱり手伝いましょうか? 一人では辛いんじゃない?」
 シャワーを出しっぱなしにしたまま、翼は首を横に振って拒絶した。理沙はまだ何か言いたげだったが、翼が身体を洗うのを再開させると、様子を見るだけでもう何も言わなかった。
 強く熱く痛いくらいのシャワーで感覚をごまかしながら、翼はなんとか身体を洗い終えた。頭も洗い、長い髪はぞんざいに扱って、入浴を終える。
 新しい下着を身につけて、上は素肌の上からパジャマを着込む。髪を乱暴に乾かしてから病室に戻り、廊下で理沙と別れて中に入ると、ご婦人方はまだのんびりおしゃべりをしていた。
 「おかえり、嬢ちゃん」
 「おやおや、髪がぼさぼさだな!」
 「せっかくきれいな髪なのに」
 「…………」
 はっきり言って今の翼にとって、彼女たちの存在はうっとうしい以外の何物でもなかった。嬢ちゃんなどと呼ばれたりするのもかなり不快だ。病院にいるということは彼女たちもなんらかの問題を抱えているのだろうが、自分だけで精一杯で配慮などできない。むしろ相手に配慮を求めたいくらいだ。
 翼はカーテンをしっかりと閉めて、ベッドにあがった。
 診察時間になったら理沙が呼びにきてくれるという話だったから、そのまま座り込んで、ぼんやりとこれからのことを考える。
 この状況は、夢なのか、現実なのか。現実だとしても、みなの言うように翼の精神が変なのか、それとも他人が翼を騙そうとしているのか。
 だが騙そうとしているのなら、いったいどんなメリットがあるというのか。現代の医学で、何から何まで完全に性別を変えてしまうことが可能とは思えないし、両親や医者や理沙の態度が演技とも思えない。保険証や学生証の偽造までしているのも、翼を騙したいだけなら大掛かりすぎるし、弟が妹になっていたのはどう考えても不可解だ。取り乱していた両親にだってメリットがあるとは思えず、他の者にとってもまともな利益があるとも思えない。
 となると夢か病気の可能性が高いが、病気という事態は、翼には受け入れがたかった。
 もしも病気なら。本当にこれは現実で、生まれた時から翼は女で、男だという妄想を抱いているのだとしたら。記憶の障害と、自己同一性の問題が、やはり疑われるのだろうか。
 「はは、二重人格ってか……」
 やはり、夢だと思いたい。夢以外だと思いたくない。
 だが夢なら夢で、どうやれば覚めるのか。それに、もう何日もたっているが、現実の方ではいったいどうなっているのか。寝たきりの重体にでもなっているのか、それとも目が覚めればあの日の朝を迎えるのか。せめて死ねば元に戻れると思いたいが、もしかしたら夢の中で死ねば現実でも死んでしまう可能性もないとは言えない。
 「むちゃくちゃだな……」
 何も考えずに泣き叫んでいたいが、それでは何も解決しない。
 元の男の身体と、周りがそれを当然と思う元の状況を取り戻したい。翼が望むのはそれ。
 だがどうやればそれが手が入るのか。なんらかの手段があるのか? もう絶対に手に入らないものなのか?
 翼は消えない不快感と嫌悪感をじっと受け入れながら、自分の未来を深刻に見つめる。






戻る
index

初稿 2004/10/26

□ 感想はこちらに □